狐につままれた心境とは、きっと今のオレのようなことだろう。

 なんだったんだろう? あの先輩……

 不思議な人……
 
***
 
「あれ?」
「あ……渡辺」

 呆けながら歩いていたら、いつの間にか部活棟を抜けて、校舎内の廊下に出ていたようだ。
 校舎内には、ほとんど生徒は残っていないに関わらず、あの渡辺に背後から声を掛けられた。

「まだいたの? そんなに時間かかるとは、思ってなかったんだけど……」
「え……あ、まあ。渡辺こそ遅いな。今まで仕事してたのか?」
「うん。そんなとこ」
「……」
「……」
 
『まだ校舎に残っている生徒は、速やかに下校してください』

 校内アナウンスだ。
 
「……」
「……」
「……帰るか?」
「……うん」
 
***
 
 外はすっかり日が落ちていた。
 そんなに長い時間、文芸部室にいたつもりはなかったのに……
 だいたい、あの先輩が話していたことなど、ほとんど頭に残っていない。
 
 それにしても空気が重い。

 成り行きで、渡辺と一緒に学校を出たものの……渡辺はなにも話さず、黙々とオレの隣を歩いていた。

 図書室にいるときはそうでもないのに、なんだか気まずい。
 普段より渡辺が、近くにいるからだろうか?

 渡辺は城内百花の隣にいるときは、もっと大きく見えるのだが、いざ並んでみると、自分より一回りは小さい。

 高圧的な態度とは裏腹に、容姿は儚げだ。
 細い撫肩も、襟元からのぞく華奢な首元も、袖からの伸びる白い腕も、力を入れて掴んだら折れてしまいそうだ。
 
 ……って、なに見とれてるんだ、オレは!
 え、えーと、なにか違うこと……そうだ。
 
「オレさ、今日あの本見たぜ」
「は?」
「願いが叶う本」
 
 は? ばっかじゃないのー!? 誰かに担がれた? なんていう、呆れた答えが返って来ると思っていた。
 でも、渡辺は口を間抜けに開けて、オレを凝視している。瞬きもせず。

 え……? そんな反応を、期待してたわけじゃないんですが?

 そんな素で驚かれたら、次が続かないじゃんか!
 
 ――どーしよう、オレ?
 
「どんな本?」

 え! そう来る!?
 つっこんでくれよ! つっこまれないボケって、こんなに痛くて惨めなのか!
 
「えっと……ちょっと古臭くて、赤い……本だった」
「どこで見たの?」
 
 うう……もうここは、渡辺に合わせるしかないのか?
 
「文芸部の部室だよ」
「文芸部?」
「あ、えっとさ、その文芸部の先輩が、机に放り出してあった本を、“願いが叶う本”だって言い出してさ。ははは……本当に“願いが叶う本”のウワサって、流行ってるのな? 石田も知ってたし……」

 渡辺はそのまま前に向き直り、道路を見つめている。考えごとをしている様子だ。

 なんで、そんなに真剣かな?
 この前は明らかに、ウワサを馬鹿にしていただろ?

 ……それともあれか? “願いが叶う本”を見たらいいことがあるとかいう、ジンクスでも?
 
「開いた?」
「え?」
「本よ」
「いや。触ろうとしたら、先輩に止められてさ……本当は、なんの本だったんだろうな?」
「そう……」
 
 渡辺はそれ以降、一言も口をきかなかった。
 曲がり角でぽつっと、私こっちだからと呟くと、すたすた走って行ってしまった。

 呼び止める間もなかった。

 オレの中にあった、文芸部の先輩への不信感は、渡辺の態度の不自然さで色褪せていた。

 なんであんなに、信じてるっぽいんだろう? それともオレ、からかわれた?

 いや……女の子ってそういうもん?
 女ってホント、わけ分かんねえ……
 
***
 
 風呂って、あんまり好きじゃない。
 疲れが取れるだとか、リラックス出来るとかいうけど、風呂に浸かってボーとしてると、つまらないことばかり頭に浮かんで来る。

 ――そんな時間が、堪らなく嫌いだ。

 オレはその漠然とした不安を、洗い流すように、風呂の湯をすくって顔を洗う。
 
 きっと気が緩んで、前向きな思考が働かないんだ。
 人間、本当は誰だって頑張りたくないし、ラクして幸せになりたいもんだ。
 
 今日会った文芸部の先輩と、渡辺明日奈の顔が交互に浮かんで来た。
 オレの思考範囲から、あの二人の言動は、はみ出している。

 ――だから気になるんだ。
 
 テーブルにぞんざいに置かれた本を“願いが叶う本”だと言ったり、その本の存在を信じていたり……
 
 渡辺がもし、“願いが叶う本”を手に入れたとしたら、なにを願うのだろうか?

『秘密』

 分からない……。

 どうでもいいことのはずなのに、たいしたことでもないのに、頭から離れない。

 言うまでもなくオレの実生活が、そんなどーでもいいことを、イチイチ気にするくらい、地味で刺激がなくて、平和だってことだ。


つづく