【九月三日(水曜日)】

 オレは四時間目の化学の実験中、寝不足と空腹で、危うく持っていたフラスコを落としそうになった。

 なにやってんのよ、危ないわね! と、同じ班の石田美奈のつんざく声が飛んで来た。

「今日は、一段とボーとしてるわね。来たのも二時間目の途中だったし」
 
「……うるせーな」

 石田奈美のキンキン声が、脳内に響く。
 なったことはないが、二日酔いってこんな感じなのかもしれないと思った。
 
「どうして、まともに来られないのよ? 低血圧とか? 低血圧って、別に朝が弱いのに関係ないって、知ってた? 自称低血圧で朝弱いって人は、単なるグータラらしいわよ」
 
「別に、テーケツアツじゃねーよ……」

 どーせ、夜更かししてるんじゃないの? なにやってるのよ? もしかしてエッチな動画でも観てるんでしょ、イヤらしい! などと、何故か嬉しそうに石田奈美はオレを蔑んだ。

 ……反論する気力もない。

 前夜、珍しく動画もネットも観なかったのだが、なんだか寝つきが悪くて、夜更かししたのは本当だ。
 
「あ、分かった! 好きな子のことでも、考えて眠れなかったんでしょ!?」


 ……は?

 女って生き物は……どうして物事をいちいち、恋愛がらみに持って行きたがるのか?

 石田奈美は、それでモンモンとして眠れなかったわけねー、で誰よ? 私の知ってる人? 同じクラスの子? あー待って、ちょっと待って! 当てるから! 髪長い? 短い? と、一人で盛り上がっている。

 後二十年もすれば、きっと立派なウワサ好きの、おせっかい口先オバさんになれるだろう。

 ――まあ今でも、その資質は充分だけどな?

 別に髪が長かろうが、短かろうが、どうでもいい。
 美人でスタイルがよくて、胸がでかくて、やらせてくれる女なら。
 
「分かった! ……城内さんでしょ!」

 オレは再び、持っていたフラスコを落としそうになった。
 石田は、声を細めてさらに続ける。

「昨日の私の話を聞いて、ショックだったのね! そっかー、そうだったのかー! 城内さんって、男子に人気ありそうだもんね~。無理よ、無理。あんたなんかじゃ。まあ、相手があの高橋先輩だったのが、せめてもの救いじゃない?」

 無理で悪かったな、大きなお世話だ。

 確かに前日、城内が男と付き合い出したと聞いて、少なからずショックだった。

 ただそれは、好きなアイドルが結婚発表した時に、受けるショックと似ていた。

 ある意味、純粋なショックだったのかもしれない。
 指摘されて、ショックはオレの中で初めて確かな形になった。

 どうしてそんなことも、分からなかったのか?
 答えは、杓子定規な化学の実験結果のように明らかだった。

 あの夜、別のこと……そう、渡辺のことを考えていたからだ。
 
「もー、こうなったらあれよ! あれ!」
「え?」
「願いが叶う本!」
「……はあ?」
 
 城内を落とすより、そんな本が実在することの方が、難しいだろう。

 ――っていうか、ないからそんなの。

 私が聞いた話によるとね、その本で、ずっと片想いしてた先輩から告白されたとか、超イケメンの他校生と付き合えた子がいるとか、芸能人と実は付き合い出したとか、もー色々すごいのよ! と石田は化学の実験中には、そぐわない興奮状態だ。

 その話、僕知ってる。だけど、それって文芸部が広めたデマだって聞いたけど? と、とぼけた調子で同じ班の梅野が、横槍を入れるもんだから、石田は逆上した。

 なんで、文芸部がそんな話広めるのよ! 本当なんだから、ふざけんな! と石田は梅野を畳み掛ける。

 梅野は尻込みして、小声でぶつぶつ文句を言っていた。
 
 文芸部が広めたデマって方が、どう考えても有力だろう。

 ホント、女って生き物は……。

 おおかた“本”や“物語”に興味を持たせるための、文芸部の策略だろう。

 ――アホらしい。

 ただそんなデマに乗せられている、底浅く単純な女どもが、少々羨ましくもあった。

 オレは、険悪なムードの石田と梅野を遠巻きに、ただ四時間目が終るのを、壁掛時計を見ながら待ちわびた。


つづく