「菅原真希人さん」

 開かれたドアから看護師が顔を出し、俺の名前を呼ぶ。
 俺たちは立ち上がって診察室へ。
 席に座ると、様々な資料でごった返しになった机を見ながら、となりに座った母さんの顔が目に入る。
 俺以上に緊張した面持ちでそわそわしている。

 まったく……本人より緊張してどうする。
 
 母さんとは反対側に天音が座る。
 
 天音にとっては他人事なのか(他人事には変わりないが)母さんとは正反対で、妙に落ち着いている。
 もう少し心配する場面だぞ、と心の中でツッコミながら、俺は正面を向いた。

「今回様々な検査を行いました。普通はここまでしないのですが、あの菅原真希人さんのためならと、原因究明とその治療法について検討しました」

 医師はボードに映し出された資料を示しながら、それぞれの検査でどのような内容を調べたのかと、その結果を述べていった。

「そして我々の結論から申しますと……分からないというのが正直なところです」

 医師は申し訳なさそうに、心底悔しそうに、そう告げた。
 彼は言った。
 ”分からない”とそう言ったのだ。

「分からない……」

「ええ、まことに残念ながら」

 俺の言葉に医師は反応する。
 分からない。
 原因が分からないということは、つまるところ治療法も分からないということだ。
 治らない?
 もしもの想像が当たってしまった。
 
「本当に……本当に息子は治らないのですか?」

 気づけば、母さんは消え入りそうな声で呟いていた。
 その声は震え、立ち上がろうとするがふらついて俺の肩に手を置く。
 
「お母さま落ち着いてください」

 すぐに近くの看護師が母さんを座らせようとするが、母さんはその看護師を撥ね退け、医師の眼前に迫った。

「分からない、分からない、分からない! 原因不明? いつもそう。貴方たち医者はいつもそうよ! あの人の時だってそう! みるみる弱っていくあの人を横目に、原因が分からないの一点張り! そして今度は息子の症状も分からない? 一体何のために!」

 母さんがそこまで言ったあたりで、俺は後ろから押さえつけて椅子に座らせる。
 
「母さん落ち着いて」

「なんでアンタは動じないのよ!」

 母さんは怒りの矛先を俺に向ける。
 動じない?
 俺が?
 冗談じゃない!

「いいから落ち着けって! ここで医者を責めたって結果は変わらないだろ!」

 俺は強い口調で指摘した。
 ほとんど怒鳴っているのに近い。
 母親に怒鳴ったのは初めてかもしれない。
 その証拠に全員が静まり返り、シーンとした室内に響くのは換気扇の音と雨の音だけだった。

「真希人も落ち着こう……ね?」

 静まり返った部屋の中、天音が俺の手を握ってそう言った。

「ああ、分かってるよ」

 俺は天音に半分引っ張られる形で、強引に椅子に座らされる。
 母さんはダブルの意味でショックだったのか、そのまま呆けていた。

「本当に申し訳ありません。全ての検査を行いましたが何もわからず、その……仰っていた、ピアノの音だけが聞こえないという症状も聞いたことがなく……」

 医者は歯切れが悪そうに弁明する。
 頭では分かっている。
 医者は悪くない。
 現代医学で解明できないことがあるのは、俺だってよく知っている。

「他に手段はないんでしょうか?」
 
 今度は天音が尋ねる。
 
「はい。当院でやれることはこれ以上ありませんが、医師会にこのことを公開し、なんとか治療法を探していこうと考えています」

 天音の問いかけに予想通りの答えが返ってきた。
 そりゃそうなるよな。
 天才ピアニストから音楽が失われてしまったら、そこには何も残らない。
 医者としては、なんとしてでもこの奇病を判明させて治したいだろう。

「そうですか……あまり期待しないで待っています」

 俺はそう言って立ち上がる。
 今頃になって実感がわいてきた。
 足元が覚束ない。

「行くよ母さん」

 俺は横で呆けている母親に声をかける。
 
 母さんはなんとか立ち上がって、俺に続いて診察室を出る。

「ありがとうございました」

 最後に天音がお礼を告げて、診察室のドアを閉めた。




 診察室を出た後、ショックが抜けない母さんをなんとか励まして運転させる。
 家に戻ってきた俺たちは、一度母さんを部屋に連れて行って寝かすことにした。

「大丈夫ですか?」

 天音は心配そうに母さんをベッドに寝かせ、布団をかける。

「ええ大丈夫よ天音ちゃん。ごめんね取り乱して。真希人も悪いね」

 運転中に頭の整理がついたのか、ようやく正気に戻った母さんは申し訳なさそうに謝罪した。

「別にいいって、気にしてない」

 俺はそう言って歩き出す。
 
「どこに行くの?」

「自分の部屋だよ」

 俺は天音の質問にシンプルに回答し、部屋を出て自室に向かった。

 自室のベッドに仰向けに転がり、いまだに振り続ける雨の音を聞きながら頭を働かせる。

「ああなっちゃうのも無理はないのかな……」

 俺は病院での母さんの様子を振り返る。

 普通では無い反応。
 別に俺は死んだわけではない。
 しかし親父のことがあるせいで、母さんは医者というものをあんまり信用しなくなっていた。
 だからああいう反応になってしまうのも理解はできる。
 決して褒められた態度ではないが……。

 親父の時と違って俺は死んでいない。
 衰弱もしていない。
 ただピアノの音が聞こえなくなっただけ。
 
 病院に行く際に母さんに説明したが、なかなか信じてくれなかった。
 しかし俺と天音の本気の表情を見て理解したらしい。
 これは嘘や冗談ではないと。
 それに俺が母さんに、この類の嘘をついたことなどなかった。

「母さんからしたら俺ってなんなのかな?」

 俺はポツリと無人の室内で呟く。
 五年前に親父が死んでから、この家には俺と母さんだけ。
 母さんは俺に親父を重ねていたのかも知れない。
 今さらながらにそう思った。
 病院での態度を見れば、その思いはさらに強固なものになっていた。

 母さんからしたら、音楽の才能が失われた俺は、もう俺では無いのかも知れない。

 そんな不穏な考えが頭から離れない。
 俺はちゃんと一人の人間として認識してくれる人が欲しかった。
 音楽の才能ありきでできた人間関係など、全てまやかしだ。
 嘘の類だ。

 それを俺はこの五年間で嫌という程味わった。
 だからせめて母親ぐらいは、そうではないと思いたかった。
 俺を才能を抜きにして見てくれるのは、母さんと天音だけ。
 あとの人間は……。

「これは俺の甘えか? そこのところどうなんだい?」

 俺は天井に向かって呟く。
 天国にいるであろう父親に向けて呟く。
 同じ境遇に置かれていた親父に、俺は五年ぶりに声をかけたのだ。