病院に行くべきという天音の言葉通り、部屋を飛び出した天音に説明を受けた母さんが、血相を変えて部屋に飛び込んできたのが一時間前。
もうすっかり日が傾き、夕焼けが街並みを照らす頃、俺たちは再びあの縄気総合病院にやってきた。
「担当の医喜川です。これから菅原さまの検査をしてまいります」
新しい担当医は医喜川という、三〇代中ごろほどの比較的若い男性医師だ。
彼は特別クラシックが好きというわけでもないが、テレビなどで俺のことは知ってくれているらしく、心配していたという。
「まためくるめく検査が始まるのか」
俺はため息を漏らす。
なんとか肩を貸してもらえたら歩ける程度には回復したが、完全に手放しでは歩けない。
これは松葉杖がいるな。
「文句言わないの!」
天音が俺の頭を小突く。
「痛いじゃないか」
「辛気臭い顔をするからよ」
どうやら彼女の前で辛気臭い顔はNGらしい。
初めて知ったよ、そんなの。
「今に始まったことじゃないだろう?」
「うんうん。昔から愛想は悪かったけど、真希人は一度も辛気臭い顔はしなかったよ」
天音は自信満々に答える。
そうだろうか?
天音にも言われた通り、重度のコミュ障だと思うのだが……。
「真希人はいつも自信に溢れた顔をしていた。学校にいる時も、あまり人には興味を示さなかったけど、それでも辛気臭い顔はしていない。一度もしていない。下を向くことはあっても、後ろを向くことはなかった」
天音はすらすらと答える。
そこまで事細かに言われると、こっちが照れる。
本当に母さんがトイレでいなくて良かった。
「つまり今は後ろばかり見ていると?」
俺は確認する。
そんな自覚はないのだが、彼女が言うのなら本当かも知れない。
「そう。だって真希人から、この三ヶ月で一度も未来の話を聞いたことがないもん。前は近い未来や遠い未来の話をしてくれたのに……」
ああ……そうかもしれない。
ピアノを失って三ヶ月。
俺は確かに一度も前を見ていなかった気がする。
言われて気がついた。
俺は前に進んでいない。
当然だ。
後ろを向きながらどうして前に進める?
俺は過去にとらわれ過ぎていたんだ。
だけど……。
「だって仕方ないじゃないか! 先なんて、未来なんて俺にはもう……」
途中、天音に言葉を遮られた。
唇に暖かな感触が伝わる。
脳が蕩ける感覚がする。
「天音……」
俺は呆けてしまう。
まさか天音にキスされるなんて思ってもみなかったから。
「いまは答えを急かさないよ。いまは真希人にとって一番辛いタイミング。私は待っているから、真希人が再び前を向けるその時まで、私は君を待っているから。いつも通り、あの桜の木の前で」
そう言って天音は俺から距離をとる。
視界の端では、母さんがこっちに歩いてくるのが見えた。
俺は無意識に唇を触る。
いまだに天音の体温が残っている。
天音は戻ってきた母さんとなにやら話していた。
俺は母さんの背中越しに天音と目が合う。
天音は軽くウインクをして、声を出さずに口の形だけでこう言った。
「検査頑張って」
俺は軽くうなずいて立ち上がる。
検査室はこの先だ。
またあっちこっちにぐるぐる歩き回るハメになるのだろう。
せっかくの甘いキスの味は、辛気臭い病院の空気にあてられて霧散した。
今回は時間も時間だったため、簡易的な検査に終始したが結果は同じ。
異常はない。
医喜川さんは残念そうに言った。
「ただまだ検査項目がいくつか残っていますし、日を跨ぐ検査も複数ありますので、もし差し支えなければこのまましばらく入院しませんか?」
医喜川さんはそう提案する。
「今日このまま入院します。どうせこの状態じゃ学校なんか行けないですし」
俺はその場で決めた。
もうあまり学校にも行きたいとは思わない。
心のどこかでちょうどいいと思う自分がいた。
部屋は個室を借りることにして、俺はそのまま部屋に案内される。
この縄気総合病院は県内屈指の規模を誇っており、その階数もえげつない高さを誇っている。
ちなみに俺が案内された部屋は一〇階だ。
「随分豪華な部屋ね」
一緒についてきた天音は、俺がこれからしばらく過ごす部屋を興味深そうに見て回る。
「母さんは手続き中か?」
「そう。この部屋見たら驚くんじゃないのかな」
天音はテンション高く窓の外を見る。
残念ながら窓は開けられないようになっている。
転落防止のためだろう。
部屋には大きなベッドと冷蔵庫、それにクローゼットまで置かれ、風呂や洗濯機もついている。
「毎日遊びに来るね!」
「来なくていい」
俺は冷静にお断りする。
毎日来られたんじゃ休まらない。
「なんでよ! 毎日会いたいじゃん! ってか会ってたじゃん!」
確かに家が隣同士なのもあって、ほぼ毎日会っていた。
だけど流石に、毎日面会に来てもらうわけにもいかない。
ここは別に彼女の家の隣りではないのだ。
「退院まで我慢しよう」
俺は提案しつつ、同時に頭の中で嫌な考えが浮かぶ。
本当に退院できるのか?
今回はただの検査入院ではあるが、何も異常が見つからなかったら?
もしくは致命的な何かが見つかったら?
もしかしたら俺はこのままずっと……。
「どうしたの真希人? さっきからボーっとして」
気づけばさっきまで窓の外を見ていた天音が目の前にいた。
やや俯き気味な俺の顔を覗き込んでくる。
「いや、なんでもない」
俺は噓をつく。
取り繕う。
「そう、なら良いけど」
天音はそう言って病室のドアを開く。
「どこへ?」
不意に呼び止める。
なぜか不安になったのだ。
「おばさんのところ」
「そっか……」
「な~に~寂しいの?」
天音がニヤニヤしながら揶揄う。
「うっさい。とっとと行っちまえ!」
俺は照れ隠しで顔をそむけた。
「はいはい。また来てあげるから」
天音には俺の心の内が全て筒抜けなのか、楽しそうに笑いながら病室を後にした。
もうすっかり日が傾き、夕焼けが街並みを照らす頃、俺たちは再びあの縄気総合病院にやってきた。
「担当の医喜川です。これから菅原さまの検査をしてまいります」
新しい担当医は医喜川という、三〇代中ごろほどの比較的若い男性医師だ。
彼は特別クラシックが好きというわけでもないが、テレビなどで俺のことは知ってくれているらしく、心配していたという。
「まためくるめく検査が始まるのか」
俺はため息を漏らす。
なんとか肩を貸してもらえたら歩ける程度には回復したが、完全に手放しでは歩けない。
これは松葉杖がいるな。
「文句言わないの!」
天音が俺の頭を小突く。
「痛いじゃないか」
「辛気臭い顔をするからよ」
どうやら彼女の前で辛気臭い顔はNGらしい。
初めて知ったよ、そんなの。
「今に始まったことじゃないだろう?」
「うんうん。昔から愛想は悪かったけど、真希人は一度も辛気臭い顔はしなかったよ」
天音は自信満々に答える。
そうだろうか?
天音にも言われた通り、重度のコミュ障だと思うのだが……。
「真希人はいつも自信に溢れた顔をしていた。学校にいる時も、あまり人には興味を示さなかったけど、それでも辛気臭い顔はしていない。一度もしていない。下を向くことはあっても、後ろを向くことはなかった」
天音はすらすらと答える。
そこまで事細かに言われると、こっちが照れる。
本当に母さんがトイレでいなくて良かった。
「つまり今は後ろばかり見ていると?」
俺は確認する。
そんな自覚はないのだが、彼女が言うのなら本当かも知れない。
「そう。だって真希人から、この三ヶ月で一度も未来の話を聞いたことがないもん。前は近い未来や遠い未来の話をしてくれたのに……」
ああ……そうかもしれない。
ピアノを失って三ヶ月。
俺は確かに一度も前を見ていなかった気がする。
言われて気がついた。
俺は前に進んでいない。
当然だ。
後ろを向きながらどうして前に進める?
俺は過去にとらわれ過ぎていたんだ。
だけど……。
「だって仕方ないじゃないか! 先なんて、未来なんて俺にはもう……」
途中、天音に言葉を遮られた。
唇に暖かな感触が伝わる。
脳が蕩ける感覚がする。
「天音……」
俺は呆けてしまう。
まさか天音にキスされるなんて思ってもみなかったから。
「いまは答えを急かさないよ。いまは真希人にとって一番辛いタイミング。私は待っているから、真希人が再び前を向けるその時まで、私は君を待っているから。いつも通り、あの桜の木の前で」
そう言って天音は俺から距離をとる。
視界の端では、母さんがこっちに歩いてくるのが見えた。
俺は無意識に唇を触る。
いまだに天音の体温が残っている。
天音は戻ってきた母さんとなにやら話していた。
俺は母さんの背中越しに天音と目が合う。
天音は軽くウインクをして、声を出さずに口の形だけでこう言った。
「検査頑張って」
俺は軽くうなずいて立ち上がる。
検査室はこの先だ。
またあっちこっちにぐるぐる歩き回るハメになるのだろう。
せっかくの甘いキスの味は、辛気臭い病院の空気にあてられて霧散した。
今回は時間も時間だったため、簡易的な検査に終始したが結果は同じ。
異常はない。
医喜川さんは残念そうに言った。
「ただまだ検査項目がいくつか残っていますし、日を跨ぐ検査も複数ありますので、もし差し支えなければこのまましばらく入院しませんか?」
医喜川さんはそう提案する。
「今日このまま入院します。どうせこの状態じゃ学校なんか行けないですし」
俺はその場で決めた。
もうあまり学校にも行きたいとは思わない。
心のどこかでちょうどいいと思う自分がいた。
部屋は個室を借りることにして、俺はそのまま部屋に案内される。
この縄気総合病院は県内屈指の規模を誇っており、その階数もえげつない高さを誇っている。
ちなみに俺が案内された部屋は一〇階だ。
「随分豪華な部屋ね」
一緒についてきた天音は、俺がこれからしばらく過ごす部屋を興味深そうに見て回る。
「母さんは手続き中か?」
「そう。この部屋見たら驚くんじゃないのかな」
天音はテンション高く窓の外を見る。
残念ながら窓は開けられないようになっている。
転落防止のためだろう。
部屋には大きなベッドと冷蔵庫、それにクローゼットまで置かれ、風呂や洗濯機もついている。
「毎日遊びに来るね!」
「来なくていい」
俺は冷静にお断りする。
毎日来られたんじゃ休まらない。
「なんでよ! 毎日会いたいじゃん! ってか会ってたじゃん!」
確かに家が隣同士なのもあって、ほぼ毎日会っていた。
だけど流石に、毎日面会に来てもらうわけにもいかない。
ここは別に彼女の家の隣りではないのだ。
「退院まで我慢しよう」
俺は提案しつつ、同時に頭の中で嫌な考えが浮かぶ。
本当に退院できるのか?
今回はただの検査入院ではあるが、何も異常が見つからなかったら?
もしくは致命的な何かが見つかったら?
もしかしたら俺はこのままずっと……。
「どうしたの真希人? さっきからボーっとして」
気づけばさっきまで窓の外を見ていた天音が目の前にいた。
やや俯き気味な俺の顔を覗き込んでくる。
「いや、なんでもない」
俺は噓をつく。
取り繕う。
「そう、なら良いけど」
天音はそう言って病室のドアを開く。
「どこへ?」
不意に呼び止める。
なぜか不安になったのだ。
「おばさんのところ」
「そっか……」
「な~に~寂しいの?」
天音がニヤニヤしながら揶揄う。
「うっさい。とっとと行っちまえ!」
俺は照れ隠しで顔をそむけた。
「はいはい。また来てあげるから」
天音には俺の心の内が全て筒抜けなのか、楽しそうに笑いながら病室を後にした。