斎の声に畳からそっと顔を上げた翠の表情は、眉をハの字にしながら嬉しそうに微笑んでいて「ありがとうございます!」と緩く口角が上がっていた。
その様子を見ながら、斎は「で、人手が必要な依頼ってのは一体何だよ?」と口を尖らせた。
「実は、私の姉の結婚が決まりまして…」
「催花の?」
「はい!」
斎の言った『催花』というのは翠の姉らしく、翠は話しながらも自分のことのように嬉しそうだった。
「へぇ、そいつはめでてぇな。相手は誰なんだよ?」
「儂の倅じゃ。」
「は?」
低い声でそう告げた旦那様に、斎は目を見開いて驚いた。突然の報告に茜は思わず、「えっ、おめでとうございます!」と口走る。そんな茜に旦那様は「うむ、礼を言う。人間殿。」と、律儀に頭を下げてくれた。
「嘘だろ…」
「儂とて、こんな嘘吐かんわ。」
今だに信じられないと言わんばかりに異形の右手で額を抑えた斎に、旦那様が鼻で嗤う。斎は旦那様を何処か警戒しているようにも見えたけれど、なんだか今のこの二人のやり取りは親子のようにも見えて不思議だった。
「それで、催花の結婚と俺への依頼はどう繋がるんだよ?」
無理矢理に話を切り替えるように斎は、腕組みをして軽く首を傾げた。翠は再び真剣な表情をして、一つ頷くと口を開く。
「私からの依頼は、…姉上に傘を差し上げたいのです。」
「傘?俺は、傘は専門外だぜ?」
「それを承知で、お頼みしたいのです。傘と言ってもただの傘ではありません。白無垢の花嫁に、よく合う傘を。」
「…白無垢?」
翠の言葉に、今度は茜が首を傾げた。白無垢の花嫁に、そこまで傘が必要だっただろうかと考える。確かに神前式を挙げる夫婦が和傘を使って記念写真を撮ったり、花嫁が和傘を差しているような光景を見たことがあるような気がする。結婚式の和傘には「降り注ぐ困難から守ってくれる」という意味もあるようで、よくよく考えてみれば和傘は必要なアイテムだとは思う。それでも、傘に対しての翠の表情は真剣そのもので斎を必死に見つめていた。
「狐の嫁入りには、必ず雨が降ると云われています。私の母もそうだったと聞きました。狐の嫁入りに、傘はどうしても必要なものなのです。」
『狐の嫁入り』聞いたことのある言葉に、茜は耳を傾けた。天気雨のことを狐の嫁入りと言うのを聞いたことはあるが、実際に妖の狐の嫁入りも雨が降るとは驚きだ。知らなかった妖事情に、茜は少しだけ興味が湧いた。
「それ故に狐の嫁入りには、白無垢と同様に特別な傘を用意します。その傘を、斎殿の力をお借りして唯一無二の素晴らしいものにしたい。」
「…、」
「私の両親は私が幼い頃に亡くなってしまって、それ以来は姉上が一人で私を育ててくださいました。だから、この嫁入りは姉上への恩返しなのです。私は姉上を、幽世の中で一番幸せな花嫁にしたいのです。」
翠の話を斎は静かに聞いていた。その表情は何を考えているのか分からないが、翠の思いを受け止めているように茜には見えた。
「儂からも頼む。斎、この依頼を受けてはくれぬか?」
翠に続くように旦那様もそう言うと、その赤い瞳に俯いた斎の姿を映す。斎はじっと畳を見つめたまま、うんともすんとも言わなかった。
「斎殿の絵で、花嫁に似合うような素敵な傘にして頂けないてしょうか!」
翠は祈るようにまた深々と斎に頭を下げた。その様子を斎は黙ったまま暫く見つめていたが、やがてムッと一文字に閉ざしていた口をゆっくりと開いて一言告げる。
「無理だ。」
「…え?」
斎の発言に茜は驚いた。あのような絵を描くことが出来る斎が、何故翠の依頼を断るのか茜には分からなかった。
「そこをなんとかお願い出来ませんか!」
必死に頭を下げ続ける翠に、斎は眉間に皺を寄せる。
「お前の頼みでも無理なもんは、無理だ。傘に絵なんて描いたことねぇし、だいたい傘はどうすんだよ?」
「承知しています!傘については、腕の良い職人に既に話を通しています!斎殿にはその職人と協力して、傘を作って頂けたらなと…!」
「はぁ!?協力してだと?尚更無理に決まってんだろ!俺は誰かと共に作品を作る気は無い!」
強く翠を突き放すように言った斎に、茜は目を見開く。こんなに頼み込んでいるのに、斎がどうして依頼を受けないのか茜には全く分からなかった。それに、傘職人と協力して作品を作ると聞いた途端に一層強く反対した斎に疑問が浮かぶ。そこまで頑なに、この依頼を断るには何か理由があるのだろうか。
ふと、この状況を静観している旦那様を見れば、斎の反応は想定済みだったように小さく溜め息を吐いている。胡座をかいて膝に肘を付き頬杖をついている姿は、斎への依頼を完全に諦めているようにも見えた。それでも尚、翠は必死に斎へと頭を下げていて少し気の毒に感じる。斎に睨まれながらも縋るような翠の視線に、茜は思わず声を上げた。
「あの!私も精一杯手伝うから、翠さんの依頼を受けてみませんか!?」
茜の言葉に、部屋はシーンと静かになった。あぁ、言ってしまったと後悔した時には遅く、斎に鋭い視線で睨まれる。それは明らかに、茜を敵視するような冷たいものだった。その視線に驚き、茜は思わず怯む。
「そもそも俺はお前に仕事をさせる気もねぇし、誰とも馴れ合う気もねぇ。」
「…っ、」
強い拒絶に茜は言葉を詰まらせる。斎から放たれた言葉は、予想以上に茜の胸に突き刺さった。それは修学旅行で班の皆に別行動を提案された時よりもずっと悲しく、一人で京都の街を歩いた時よりもずっと孤独に感じるものだった。そして、そう感じるのと同時に何故今日会ったばかりの斎に対してそんなことを思うのかと、茜は自分の事ながらに戸惑う。
「誰とも馴れ合う気も無い…か。随分な物言いだな、斎。」
「あ?」
旦那様は座っていた座布団の上からゆっくりと立ち上がり、畳の上の斎に近付いた。天井すれすれの高さまで上がった顔は影になり、その表情はあまり伺えない。九本の尻尾が怪しく蠢いたかと思うと、次の瞬間には大きな手が容赦無く斎の顔を鷲掴んでいた。
「妖でも人でも無いお前には、誰かと馴れ合うことなど出来ないと申すか。己を知ろうともしない小童が。」
「っ!」
「お前だからこそと願う者の言葉も、お前と共に成し遂げようと勇気を出す者の言葉も届かないのなら、お前は本当にいつまでも半端者なのだろうな。」
旦那様が言う『半端者』の言葉に、斎は酷く顔を歪めた。先程、斎の部屋にて自分は妖としては半端者だと話していた斎の少し寂しそうな表情を思い出す。その表情には、何処か見覚えがあるような気がした。
「斎殿に負担がかかることは、承知しています。…それでも私は、斎殿以上の絵師は知らないのです!斎殿しか居ないのです!」
静かに顔を上げて話す翠の声が、部屋に響く。グッと力強く向けられた真っ直ぐな翡翠色の瞳に、斎は思わず目を見開いた。それでも、直ぐにその瞳から逃れるように、斎は顔を鷲掴んでいた旦那様の手を振り払い勢い良く背を向ける。
その背中に、茜は現世での自分を思い浮かべた。修学旅行の班員の中で、ポツンと一人浮いていた自分の姿を。クラスメイトと上手く馴染めず、修学旅行の班員とも仲良くなれるわけがないと最初から必要以上に関わることを避けていた。お互いに居心地が悪いなら、自分一人の方がよっぽど気楽に思えた。けれど、本当は誰かと関わることを酷く恐れていただけなのかもしれない。
そして今、翠が斎にしか頼めないと必死に訴える姿を羨ましくも思ったのだ。誰かにこんなにも必要されている斎が羨ましくて、自分には無い繋がりが寂しくて仕方がなかった。今まで感じたこともないような惨めさが、一気に茜の中から溢れて来る。
そんな茜の心情を知らない斎は、背中を向けたまま悔しげに舌打ちすると「おい、茜!」と声を上げた。
「はっ、はい!?」
突然呼ばれた名前にビビりながらも、茜は返事をする。暗くなっていた気持ちに一旦蓋をして、何事かと身構えれば、斎は茜に振り向き勢い良く告げた。
「明日、傘職人に会いに行く!お前の宣言通り、ビシバシ手伝ってもらうからな!弱音吐くなよ!」
「…えっ!?は、はい!」
そう叫ぶと斎は、バッと襖を開けて足早に部屋を去って行く。茜はその様子を、ポカンと口を開けたまま見送った。一体、何が起こったんだ。突然斎から告げられた言葉を理解するのに、少し時間が必要だった。茜の隣からは、深々と頭を下げて「ありがとう、ございます!」と噛み締めるようにお礼を言う翠の声が聞こえる。
それにハッとして、斎が翠の依頼を受け入れたことに気付くと、今まで強張っていた茜の表情は思わず緩んだ。
「はっはっはっ!誠に愉快な奴だ。」
閉ざされた襖の向こうを見やり、笑いを隠せない旦那様は心底嬉しそうに瞳を細めた。その優しげな視線は、まるで息子の成長を見据える父親のように温かいものだった。
「人間殿…いや、茜殿。必ず、そなたを現世へお返しすると約束しよう。だが、それまでの間だけ斎を頼んでも宜しいだろうか?あんな事を言っても根は真面目で良い奴なんじゃ、ちょっと不器用なだけでのう。」
「…むしろ私が、斎さんの手伝いをしても良いですか?」
「先程、あやつもそなたを認めていただろう。儂は
、人間のそなたに頼みたいのじゃ。」
そう言うと、旦那様は「よっこいせ」と元々座っていた座布団の上に腰を降ろした。九本の尻尾は、その背後で穏やかに揺れている。
「あやつは、半妖ということに凄く劣等感を感じていてな。まぁ、今の幽世に人間は居ないし、妖たちの中で上手く馴染めないのは仕方なかろう。他の者と関わることを極端に嫌がって、常に一人で部屋に籠もり絵を描いている。そこへ、急にそなたが現れてあやつも酷く動揺しただろう。けれどな、儂はそんな人間のそなたが現れてくれたことが斎にとって良い機会だと思うのじゃ。」
旦那様の話を聞くに、半妖という斎の存在は幽世でも異色なものなのだろう。人の輪から外れてしまう気持ちは、茜にも痛いほど分かる。茜が現世で人と上手く関わりを持てなかったように、斎もまた幽世で妖と上手く馴染めなかったのだ。
「もちろん、儂の倅と翠の姉、催花との結婚の場に、斎が描いた傘があったら本当に嬉しく思うしな。翠も斎の描いた傘でなければ、納得がいかぬだろうよ。改めて、茜殿。斎と共に作品を作ってはくれぬか?」
「はいっ!」
此方を伺うように赤い瞳で見つめる旦那様に、茜は自然と笑って返事をした。斎のことを気にかけている旦那様は、妖ではあるが本当に優しい表情をしていてこの依頼を断る理由が見つからない。何より、茜は斎の絵の手伝いが出来ることがとても嬉しかった。けれど、旦那様の話を聞いて茜の中で一つの疑問が生まれた。
「でも何故そんな初対面で、しかも人間の私をそこまで信用してくださるのですか?」
「…そなたが龍の絵に呑み込まれて、斎のところへやって来たと言ったからな。」
「え?」
少し曖昧な旦那様の言葉に、茜は首を傾げる。龍の絵と斎の元へやって来たことに、何か関わりがあるのだろうか。何処か話に引っ掛かりを感じてあの雲龍図を思い浮かべていれば、不意に隣に座っていた翠が茜に向かって深く頭を下げた。
「茜様、改めて礼を申し上げます。斎殿と共に作品を作ってくださること、本当に感謝しています。」
「いえいえ!私も現世に戻るまでの間、斎さんの絵の手伝いが出来るのは嬉しいです!」
「そう言って頂けると、有り難いです!」
翠はそう告げてから頭を上げると、その美しく細い髪がサラリと揺れた。そして、その頭の上に生えたふさふさとした白い耳をヒョコリと動かし、キュッと口角を上げて柔らかく微笑む。その様子は非常に可愛らしいもので、茜はついつい魅入ってしまった。
「さて、今夜はもう遅い。翠よ、茜殿を斎の元へと送ってさしあげろ。斎の事だ、どうせまだ帰っとらんだろう。」
「はい。…では、茜様。参りましょう。」
「はい!」
旦那様の一言で、この場は一旦解散になった。部屋から出る時に旦那様から「傘の仕上がりを楽しみにしている。」と声を掛けてもらい、茜は俄然やる気が湧いて来る。一時はどうなる事かと思ったが、とりあえずこの幽世での過ごし方が見つかって本当に良かったと思う。斎に描いてもらった般若のお面を着けて、来た時と同じように旅館の廊下を歩いていれば、廊下に飾られた斎の絵の前で隣を歩く翠がポツリと言葉を溢した。
「私も姉上も、ずっと昔から斎殿の絵が本当に好きなんです。」
そう言った翠は何処か懐かしむような表情で、廊下に飾られた斎の絵を見つめていた。
「だから、姉上の嫁入りの傘は、絶対に斎殿に絵を描いて頂きたいと思っていたんですよ。でも、傘は斎殿の専門外ですし、きっと人手も必要になると思ったので、この依頼を受けて頂けないかもしれないって…」
「そうだったんですね。」
「だからこそ、絵を描くことが出来る茜様が斎殿の元へ現れて、この方が斎殿を手助けしてくださるのなら、もしかしたらこの依頼を受けて頂けるのではないかと思ったのです。斎殿が言ったように、私にはこの企みがありました。正直焦っていたとはいえ、突然幽世の世界にやって来た茜様を強引に巻き込むような形になってしまって申し訳ないです。」
肩を下げてハの字に眉を寄せた翠に、茜はグッと拳を作って見せる。
「私、斎さんを手伝って、きっと良い傘を翠さんのお姉様に渡してみせます!」
確かに突然幽世にやって来て、初めて見る妖の存在や元の世界に帰れるのかという不安で凄く戸惑ったけれど、こうして元の世界へ戻れるように手を貸してくれる斎や翠、旦那様には感謝している。それに斎の絵に対しての翠の話を聞いて、どうにかその想いに応えられれば良いと茜は思った。そんな茜の言葉に、翠は翡翠色の瞳を大きく開いてパチパチと瞬きをする。そして、噛み締めるように口角を上げた。
「ありがとうございます!きっと姉上も喜びます!」
旅館の玄関口までやって来ると、翠は「きっと外で斎殿は茜様を待っておられます。私は、この辺りで失礼させて頂きますね。」とにこやかに告げる。
「はい!」
「では茜様、また。」
そう言ってひらりと手を振る翠を気にしつつ、茜は背を向けて旅館の外へと出た。すると、翠の言っていた通りに、旅館の柱に背中をぶつけて佇んでいる斎を見つけた。その姿に「あっ、あの!」と声を掛ければ、斎は黙って此方を一瞥する。澄んだ瞳が静かに茜を見つめて、暫しの沈黙の末に「…帰んぞ。」とぶっきらぼうに声をかけられた。
「はっ、はい!」
突然やって来た幽世の世界に居場所なんてあるはずも無いのに、斎の言葉で茜は自分の帰れる場所が出来たことに心底安堵する。
「…それと、さっきは悪かった。」
罰が悪そうに眉を寄せてそう告げた斎に、先程拒絶するように言われた言葉を思い出す。鋭く敵意を持って睨まれた視線は、茜に強く突き刺さった。けれど、今茜の目の前で此方を伺う瞳は、少し落ち着きを取り戻したのか随分と穏やかなものになっている。反省するように眉を下げた斎に、もう先程のような怖さを感じない。こうしてちゃんと謝ってくれるあたり、旦那様が言うように不器用なだけで根は真面目なのだろう。
「はい!改めて、よろしくお願いします!斎さん!」
「斎で良い。敬語も要らねぇから、普通に話せよ。」
元気良く挨拶をした茜に、斎は呆れたように苦笑する。そんな斎に現世ではこんな風に誰かと距離を縮められたことがあっただろうかなんて、他人事のように茜は思った。それと共に、じわじわと嬉しさが湧き上がる。未知の世界の幽世で、こんな気持ちになるとは思いもしなかった。
「うん…!」
茜の声を聞くと、斎は小さく頷いて歩き始める。その紺色の着物を着た背中を追いかけながら、茜は般若のお面の下で密かに微笑んだ。こうして茜の、前代未聞の幽世での生活がスタートしたのだった。