そんな茜の様子に、訪問者はクスリと一つ笑いを零すと「斎殿が描く絵は、不思議と紙から離れて自由に動き出す唯一無二の作品なのです。」と続ける。

 それに対して、半妖の絵師と呼ばれる男、(いつき)は一つ溜め息を吐き「そんな大層なもんじゃねぇよ。」とぶっきらぼうに呟いた。先程、絵の中に戻っていった錦鯉は、訪問者の話を聞くにどうやらこの斎が描いた絵のようだ。

 描いた絵が紙の中から出て来るなんて、まるで神の御業ではないかと思わず目の前の斎に視線を向ける。そんな茜の視線を受けてか、斎は少し肩をすくめると「見てろよ。」と言わんばかりに、畳に散らばっていた和紙と筆をその異形の右手で取った。
 
 そのまま畳に座り込み、さらさらと流れるような手付きで墨を含ませた筆を走らせる。斎が和紙に筆を走らせた途端に、部屋の空気が何処か緊張感を含んだものに変わった。それを肌で感じる程に、斎の絵に向かう姿勢が美しかったのだ。異形のような鱗が張り付いた指先は丁寧に筆を持ち、迷いのない動きから次々と絵の片鱗が産まれていく。その一瞬、一瞬は、まるで舞踊を見ているようで茜の心を強く惹きつけた。澄んだ瞳は真っ直ぐに和紙に向けられ、筆先が真っ白な和紙の上を染める。静かに淡々と筆を走らせる斎の姿は、芸術そのものようだと茜は思った。

 そして、あっという間に和紙の中には、一羽の鳥が現れた。繊細な線で描かれた鳥の絵は墨の濃淡がなんとも美しく、羽根を休めるように穏やかに佇んでいる。斎はその鳥に向かって筆先でそっと撫でるような仕草をすると、ポタリと見えない雫が落とされたように和紙の中に波紋が広がった。絵から淡い光が漏れ出し、和紙の中から一羽の鳥がパタパタと羽根を羽ばたかせて飛び出して来る。

 見たこともないその不思議な光景に、茜は瞬きも忘れて目を見開く。魂が込められたように動き出した鳥はゆっくりと部屋内を旋回すると、斎の肩に降り立った。斎はそれを穏やかな表情で見つめると、その異形の指先で自分で描いた鳥に優しく触れる。

「俺は半妖だ。妖としては半端者だし、妖気も少なく殆ど人間に近い。」

 自分のことを『半端者』と言う斎は、少し目を伏せる。その表情は何処か寂しげに見えた。

「でも、何故かこの右手だけが妖の力を持ってる。理由は分かんねぇけど、この右手で絵を描くと妖気が込められて絵が勝手に動き出すんだ。」

 そう言った斎は異形のような己の右手に、グッと力を込める。話を聞くところ、絵が和紙の中から出て来るのには、斎のその異形のような右手が重要なのだろう。そんな斎の話を聞きながらも、茜は先程目の前で起こった光景の余韻が消えなかった。描いた絵が出てくるという、不思議な力を持った半妖の絵師。その斎が描いた絵に、茜は心の底から魅せられてしまったのだ。

 斎が筆を走らせることで、その絵は本物になる。茜自身、絵を描く者として斎の絵はとても興味深いものだった。そして、茜はこの幽世に来る原因になったあの雲龍図のことを再び思い出した。これまでの話を聞いて、茜が呑み込まれてしまったあの雲龍図の龍は、もしかしたら斎が描いたものなのかもしれないと。確証はないけれど、茜は雲龍図の龍に呑み込まれた後、斎の絵から出て来たのだというから、何か繋がりがあるような気がするのだ。この半妖の絵師が、現世に帰る手がかりになるかもしれないと茜は意を決して斎に向き合った。

「あの、聞いてほしいことがあるんですが…」

 茜の言葉に、斎の澄んだ瞳が向けられる。それを見つめ返しながらも、「実は…」と茜はこれまでに起きた出来事を二人に説明し始めた。







「なるほど。では、貴女はその雲龍図の龍に飲み込まれて幽世に来てしまったのですね。」

 話を聞き終えて、訪問者の妖が今一度茜の置かれた状況を確認するように聞く。それに茜はコクリと一つ頷いた。

「はい。それで、その雲龍図が斎さんの描いた絵なんじゃないかと…」

「いや、俺じゃねぇよ。」

「え、」

 茜の言葉に対して直ぐ様否定した斎に驚き、思わず言葉を失った。では、あの雲龍図は一体何なのだろうか。

「俺は現世に行ったことねぇし、絵が動くって言ってもこの右手が込められる妖力には限りがあって、雲龍図みたいに天井いっぱいに描かれた大きな絵は動かせねぇんだ。」

 そう言った斎に、付け足すように訪問者も続く。

「斎殿の絵は、先程描いていた小鳥のように比較的小さいものしか動くことはないのですが、大きな絵でもそれはそれは美しい作品なんですよ。」

 訪問者はまるで自分のことのように、斎の絵を語る。確かに、斎の絵は素晴らしいものだった。絵が紙から出てくる光景は神秘的で美しく、ただの人間にはとても成し得ないものだ。

 しかし、そんな斎の絵ではないというのなら、あの雲龍図は誰が描いたものなのだろうか。それに、あの龍は茜に向けて何やら言葉を発していたような気がする。何故、あの場で茜だけが龍の姿を見て呑み込まれたのか、そして幽世なんて場所に飛ばされてしまったのか理由がますます分からない。まぁ、こんな不思議な現象にたいして理由なんて無いのかもしれないけど。

 理由はどうであれ、やはり茜の中にあるのはこの幽世の世界で、これから自分はどうなってしまうのだろうという不安ばかりだった。

「…翠、コイツを現世に戻したい。」

 その声に、自然と下がっていた顔を上げる。茜の不安げな表情を見かねてか、斎は訪問者に向けてそう声をかけていた。

「そうですね。人の子が、この幽世に長く居るのはあまり良くないですから。」

 訪問者の言葉に斎は少しだけ眉間に皺を寄せると、「…あぁ。」と小さく呟いた。二人のやり取りを恐る恐る聞いていれば、茜の視線に気付いたのか訪問者が茜にも話が通じるように教えてくれた。

「幽世は現世と違って、人の子は妖に狙われやすいのです。私や斎殿は人間を襲うことはしませんが、妖の中には人間を喰らう者も多いですから。」

「に、人間を喰らう!?」

「はい。私もごく偶に幽世へと迷い込んでしまう人間が居るという話を聞いたことがありますが、運悪く妖と遭遇してしまったら現世へと戻ることは難しいでしょうね…。ですから、幽世で人間を見かけることは殆どありませんね。人間にとって、幽世は危険な場所なのです。」

「そっ、そんな…!」

 恐ろしい事実にゾクゾクと背筋が震えて、再び血の気が引いていく。この世界が、それほど危険な場所だとは。理由も分からずこんな場所に来てしまって、果たして自分は本当に生きて帰れるのだろうか。先程から感じていた不安はより一層重くなり、茜は恐怖に押し潰されそうだった。

 茜の真っ青になった顔を見た訪問者は、慌てて両手を振り「でも、心配しないでください!そうならないように、私も斎殿も、貴女が一刻も早く現世へ帰れるように手助けしますから。」と励ましてくれる。

 そんな訪問者に続けるように、斎も眉間の皺を緩めると一つ溜め息を溢して、仕方が無いとでも言うように肩をすくめた。

「…まぁ、ここで見放して何かあったら後味悪いしな。」

「…あ、ありがとうございます。」

 訪問者と斎の言葉に、少しだけ強張っていた肩の力が抜ける。訪問者の話を聞くところ、運が悪ければ妖に喰われてしまっていたかもしれないのだ。それに比べたら、茜が現世に帰るための手助けをしてくれると言ったこの二人に遭遇したのは本当に奇跡的だった。茜は運が良かったのだと思う他ない。

 少しだけ安堵の表情を浮かべた茜に対して、訪問者もホッと息をつくと翡翠色の瞳を細めた。

「申し遅れました、私は(すい)と申します。見ての通り、狐の妖です。」

 訪問者こと翠はそう茜に告げると、白いふさふさの尻尾をふわりと揺らす。

「…翠さん」

「はい。人間様、貴女の名を伺っても?」

「茜です。立原茜。」

 翠の穏やかな声に従って素直に答えると、翠は「茜様ですね。」とにこやかに頷いた。そして、その視線を畳の上に滑らせると一つ瞬きをする。

「それと気になっていたのですが、それは茜様のものですか?」

「…あ!」

 翠の視線を辿るように畳の上を見下ろせば、一冊の冊子が力無く落ちていた。京都の有名な観光名所を背景に、制服を着た男女が微笑むイラスト。茜が描いた表紙絵の修学旅行のしおりだ。思えば雲龍図を拝観した時からずっと胸に抱えていたので、一緒に龍に呑み込まれて幽世へ来たのだろう。自分で絵を描いただけあって、再び胸に抱えると少しの安心感に包まれた。

「この表紙の絵、凄く素敵ですね。」

「え?」

 翠は、茜の胸に抱えられた修学旅行のしおりに視線を向けてそう言った。その言葉に少し驚いて、抱えていた修学旅行のしおりを改めて眺めた。

「茜様が描いたのですか?」

「は、はい!」

「茜様は絵が描けるのですね!…これは、まさか狐ではないですか!素晴らしい!」

 翠は茜の手元を覗き込むと、興奮したように耳をピンッと立てて声を上げる。金閣寺や竹林など、茜が表紙に描いた京都を連想させる絵。伏見稲荷大社をイメージした千本鳥居の横、小さな狐の絵が描かれているのを見て翠は嬉しそうに微笑んでいた。

 その様子に、茜はなんだか気恥ずかしい気持ちになる。こうやって、自分の絵を誰かに見てもらうのは少し緊張するけれど、やっぱり嬉しい。

「斎殿も、茜様の絵を見てくださいよ!」

 翠は茜の手元を覗きながら、斎の着物の袖を緩く引っ張る。その様子は兄弟のように微笑ましく見えた。翠の呼びかけに斎はまた一つ溜め息を吐くと、茜に視線を向けた。

 まるで此方を見定めるかのような視線に、ドキッと心臓が鳴る。そして諦めたように眉を下げると、茜に向けて青黒く鱗の張り付いた右手を差し出した。それに少し緊張しながらも修学旅行のしおりを手渡せば、斎はそれを受け取りまじまじと眺め始めた。

 斎の澄んだ瞳に自分の絵が見られていると思うと、茜は翠に見られた時の何倍も緊張した。半妖の絵師だという斎の絵は、先程も見たがとても美しいものだった。最初に見た錦鯉の絵も、茜の目の前で描き上げた鳥の絵もまるで本物のように繊細で豊かな色使い。美術の教科書に載っているどの絵よりも、飛び抜けて魅力的だと思った。

 半妖だから成せる業なのか知らないが、描いた絵が本物のように動き出す有り得ない光景を見た時、茜は驚きと共に感動したのだ。何も囚われることない自由な絵は、命を宿したように幻想的で目を奪われた。

 そんな凄い能力を持つ男に自分の絵を見られることに茜は少し自信がなかった。何を言われるのかドキドキしながらも、茜は男の反応を待つ。

「ふーん。まぁ、良いんじゃねぇの?」

 男は一通り絵を見終えると、ほんの少し口角を上げて言った。瞳は穏やかに緩められていて、真っ直ぐに茜の絵を見つめている。 

 その様子に茜は、胸が高鳴るのを感じた。体中の細胞が踊り出すように、じんわりとした熱が茜の心を優しく温める。

 そんな茜の様子を不思議そうに見ながらも、男は修学旅行のしおりを茜に手渡した。それを茜は少し震える手で受け取る。

 茜にとって絵というものは、唯一自分の中で誇れるものだった。自分の絵を良いと言われることは、自分のことを認めてもらえたように思えて震えるほどに嬉しい。それが、自分が凄いと思った人に言われるのなら尚更だ。

「これは、一つ良い事を思い付きました!」

 二人の様子を眺めていた翠は不意に声を上げると、手のひらに拳をポンッと打ち付けて何かを閃いたような表情をしている。それに対して「何だよ?」と斎が聞けば、フフンと得意げに鼻を鳴らした。

「旦那様に、会っていただきましょう。」

「…旦那様?」

 翠の言葉の意味が分からずに首を傾げると、翡翠色の瞳をキラキラと輝かせて話しを始めた。

「幽世という世界は広く、その土地その土地を治める強い妖がいるのです。この土地を治める大妖怪が、私の旦那様にあたります。旦那様はとてもお優しい方なので、きっと茜様が現世に帰る方法も教えてくださいますよ!」

「それじゃ…!」

 帰れるのかもしれない、と茜は湧き上がる喜びに拳を握った。その旦那様に会って今の茜の状況を説明すれば、すぐにでも身の危険の無い現世に戻れるのではないか。そう茜が喜んだ矢先、「ちょっと待て、翠。」と斎が低い声を出した。

「お前、何企んでる。旦那様は確かに優しい人かもしれないが、何の利益も無しに人間を助けることなんてしないだろ。」

「はぁ…、斎殿は旦那様を誤解していますよ。それに私は何も企んでなんかいません。」

「どうだかな、お前も旦那様の手下だろ。」

 『旦那様』という名前が出てから、斎の対応が不機嫌に変わった。翠はそんな斎の対応に慣れているのか変わらずに接しているけれど、茜は少し空気がピリついている気がして落ち着かない。

「では、斎殿は茜様を無事に現世まで帰す方法があるのですか?」

 翠のその一言に斎は、悔しそうに押し黙ると眉間の皺を一層深くした。そして、諦めたかのように顔を背けて吐き捨てる。

「…チッ、勝手にしろよ。」

「では、茜様。旦那様のところに向かいましょうか?」

「えぇ!?はっ、はい!」

 突然の話を振られて慌てて返事をすれば、「そんな緊張しなくても、旦那様はお優しい方ですから。」と、クスリと翠に笑われた。そのまま穏やかな声で、襖の外へと向かうように案内されると茜は無意識に従ってしまう。

 色々と思うことあるけれど、とりあえず翠の言う旦那様に会わないことにはどうにも話が進まない気がした。散らばった絵の具を踏まないように畳を歩き、翠が開いた襖の外へ出ると「…おい。」と部屋の中から声が掛けられる。

 腕を組み深く項垂れた斎は、チラリと茜に視線を送る。

「…俺も行く。」

 そう小さく一言告げた斎は、ズカズカと足を進めて茜の側までやって来た。その様子をポカンと見つめていた茜に対して、「何か文句あるか!?」と言わんばかりに斎は顔を顰める。絵に書いたような不機嫌さを隠そうとしない斎に、翠は可笑しそうに肩を震わせる。

「珍しいですね、斎殿が旦那様にお会いになるなんて」

「うるせぇ。」

 そんな二人の会話を耳にしながら廊下を歩けば、中庭から空が見えた。先程、部屋の窓から見た黄昏時を思わせる茜色の空は、この少しの間に深い藍色へと変わっていた。ちらほらと瞬き始めた銀色の星々も、現世と変わらない姿で少しだけホッとする。それでも、これから向かう幽世の世界に茜は、身体に纏わり付くような緊張を感じていた。