暖かな日差しを遮るように閉ざされた障子には、咲き始めた桜の影が美しい障子絵のように浮かび上がっていた。畳の匂いと墨の匂い、そして絵の具の独特な匂いが漂う室内は少し淀んでいる。
壁や襖には大きな巻物や紙を張った板がいくつも立掛けられて、たくさんの和紙が畳を埋め尽くすように散乱していた。あちらこちらに転がる小瓶には、絵の具の元となる様々な鉱石の粉が入れられていて何とも色とりどりだ。絵筆が転がり畳を鮮やかに染めあげているのにも気にすることなく、室内にいる人影は画架に立て掛けた一枚の絵に向かっている。
涼し気な黒髪に紺色の着流しを着た男は、澄んだ瞳を真っ直ぐに絵筆の先に向けて迷うことなく筆を動かしていた。周りに置かれたいくつもの小皿には朱色、金色、白色などの様々な色が入れられていて、男はそれを絵筆で取っては紙の上に乗せていく。
ただ、その男が絵を描いている光景に異様な点を上げるとするならば、その男の右手だ。絵筆を持つその右手は、肌色の皮膚ではない。青黒く淀み、皮膚はひび割れ亀裂を産んでいる。硬い鱗のような破片が所々にへばり付き、爪は腐ったように黒い。
男は人の形から離れたその手でそっと朱色を筆先に乗せて、優しく紙を撫でるように絵を描く。男が絵筆で触れた先には、二匹の美しい錦鯉が居た。鮮やかな朱色の錦鯉と、白色に朱色の斑模様の入った二匹の錦鯉は和紙の中で優雅に泳いでいる。
男の持つ絵筆が描いている錦鯉に触れた瞬間、まるで雫が水面へと落ちるように紙が揺れた。不思議とその揺れは波紋のように紙いっぱいに広がり、不思議な淡い光が錦鯉の絵から溢れて来る。
男がゆっくりと絵筆を離すと、和紙から朱色の錦鯉が出てきた。和紙に大きな波紋を作り、錦鯉は絵の中から飛び出して空中を自由に泳ぎ出す。ゆらゆらと尾ひれを揺らして、部屋の中を気持ち良さそうに一周した。
その不思議な光景を見て男は絵筆持ったまま、満足そうに微笑む。泳ぎ回る錦鯉をそのままに、男は再び絵に向き合い始めた。先程のように絵筆で、もう一匹の錦鯉に触れる。
しかし、今度は錦鯉に何も変化が起こらなかった。和紙から出てくる様子の無い錦鯉に、男は不思議そうに首を傾げた。
「どうした?出て来いよ。」
そう呟くと男は錦鯉から絵筆を離して、もう一度和紙に朱色を重ねる。
すると、絵筆が触れた先から波紋が広がるように和紙が大きく揺れた。淡い光が和紙全体から溢れて、次第に画架に立て掛けた絵がカタカタと震え始める。
その様子に男は絵筆を離して、怪訝そうに眉をひそめた。絵の中心が不安定に揺れて、盛り上がるように何かが突き出して来る。
「…は?」
朱色を塗ったその中心から、するりと細く白い手が現れたのだ。驚く間もなく、その手から腕、腕から肩と徐々にその姿を現し、ひょっこりと絵から女が顔を出した。色素の薄い髪が揺れ、丸く開かれた優しげな瞳と目が合った瞬間、まるで時が止まってしまったかのような錯覚を起こす。
そう思ったのも束の間、絵から飛び出して来た女の身体がぐらりと揺れて、男の身体にガッと重たい衝撃が走った。
「痛てぇ…」
突然のことに頭が真っ白になりつつも、耳元で聞こえた低い声にバッと上体を起こす。茜の下には、打ち付けた頭を片手で抑えて倒れ込んだ着流しの男がいた。
これは一体どうゆう事だと茜は、パニックになる頭を抱えた。修学旅行の途中、たまたま見つけた寺で雲龍図を拝観しようとしたら、法堂で遭った本物の龍に呑み込まれてしまった。その恐ろしい体験に、今だに手が震えている。龍の鋭い牙が生えた大きな口が迫った瞬間、ギュッと目を瞑って闇に呑み込まれた。そして気付くと、目の前にこの男が居たのだ。
此処は一体何処なんだと周りを見渡せば、先程まで居たはずの寺の法堂とはかけ離れた和室の部屋だった。たくさんの画材が散らばっている畳に、茜は顔を顰める。此処はあの寺の中なのか、この男は何者なのか茜には分からないことだらけだ。
「おい、邪魔だ。」
不機嫌そうなその声に、ビクっと震えて茜は勢いよく立ち上がり退く。キャパオーバーした頭は使い物にならず、クラクラしながらも声がした方へ顔を向ければ、男に鋭く睨みつけられた。
「お前、一体何者だ。」
茜に冷たい視線を浴びせながら、立ち上がった男は着流しを整えた。
何者だと言われても、それを問いたいのは茜の方だった。状況が飲み込めず上手く働かない頭をなんとか動かして、茜は目の前の男を観察する。年齢は同じくらいだろうか。綺麗な顔の輪郭を持つ白い肌をした男は、目鼻立ちがとても整っていていた。所謂美形だ。スラリとした細身の体型に、涼やかな紺色の着流しがよく似合っている。
そして無意識に視線を彷徨せた茜は、男の右手を見た途端に大きく目を見開く。黒い爪に青黒く鱗が張り付いたような肌は、まるで異形のようだ。思わず息を呑み、その右手から視線を離せないでいると、男は薄い唇を開いた。
「 …お前、」
黒髪の下から覗く澄んだ瞳が、真っ直ぐに茜に向けられる。
「まさか、人間か?」
「……え?」
男の言った言葉の意味が分からずに、茜は眉を寄せた。一体、人間以外の何に見えるのだろうか。生まれて初めて聞かれた問いに、戸惑いを隠せない。そんな事を聞いてくるなんて、まるで自分が人間じゃないとでも言うようだ。
先程まで視線を向けていた男の異形のような右手の存在が、茜をより一層不安にした。
「あ、あの!私、雲龍図の拝観に来てて、気付いたら此処に居たんですけど、此処は寺内の一室ですか?」
「は?」
「どちらの方向に進めば外に出れるか、ご存知ですか?」
「…何言ってんだ、お前。」
兎にも角にも、茜はこの状況から抜け出したくて声を上げる。この男が居る部屋から一刻も早く寺の外へ出ようと出口を聞けば、男は眉間に皺を寄せて呆れたように吐き捨てた。
「此処は寺なんかじゃねぇし、お前が外に出たところで食われるだけだぞ?」
「はぁ?」
お前が何言ってるんだと、茜は顔を顰めた。何故外に出ただけで食われるのか、意味が分からない。あの寺ではないのなら、此処は一体何処なのだろうか。
そんな茜の表情を見た男は複雑そうな顔をして、その異形の様な右手で額を覆い深く溜め息を吐く。
その姿に、溜め息を吐きたいのはこっちの方だと茜は心の中で思った。雲龍図の龍に呑み込まれたり、全く知らない場所に居たりと信じられないようなことの連続で、茜の精神は疲れ切っていた。
「噂には聞いたことあるが、まさか本当に人間が迷い込むとはな。」
「…えーと?」
先程から男の言葉の意味がちっとも分からない茜は、困惑気味に聞く。もう一層のこと、この部屋を出て自分の力で寺から外への出口を探そうかと、畳に散らばっている画材を踏まないように静かに歩いた。すると、足元をスルリと朱色の何かが撫でる。
「うわっ!?」
その奇妙な感触に驚いて飛び上がれば、畳に散らばっていた絵筆に足を取られて茜は派手に尻餅を付いた。「おい!何やってんだよ。」と男が呆れた顔で言うのを、茜は畳にぶつけた尻を「いたた、」と撫でながら聞く。
今度は一体何だと足元を見れば、朱色の錦鯉がゆらゆらと尾ひれを揺らしていた。
「へ?」
錦鯉は茜の足元から、ゆっくりと部屋の中をまるで水中に居るように優雅に泳ぎ始めた。その幻想的な姿に、茜は瞬きを忘れて目を見張った。自由に泳ぎ回る錦鯉の鱗が、光の加減で金色に煌めく。錦鯉が空中を泳ぐなんて何かの間違いだと、ゴシゴシと目を擦っても錦鯉は消えない。
「な、何なのこれ…!?」
そんな茜を嘲笑うように錦鯉は茜の周りを一周すると、画架に掛かった一枚の絵の中に吸い込まれるように入っていった。元居た場所に帰るように、絵の中に収まった錦鯉に茜はポカンと口を開けたまま言葉が出ない。
絵の中では、二匹の錦鯉が寄り添って泳ぐ姿が描かれている。なんとも繊細で美しすぎるその絵に、茜はゾクリと鳥肌が立った。絵が動き出すなんて、まるであの雲龍図の龍のようではないか。その光景になんだか恐ろしくなった茜は力が抜けて、尻餅を付いたまま情けなく震える。
そんな茜を男は一瞥すると、窓際にゆっくりと足を進めて障子を開けた。
「ちょっと、こっちに来い。」
その声に茜は困惑しつつも、なんとか足に力を入れて立ち上がる。男に言われるがままに恐る恐る窓際に足を進めると、窓から入り込んで来た風が茜の前髪をサラリと揺らした。
男は「外を見てみろ」と言わんばかりに素っ気なく首を振り、茜に窓の外を覗くように合図をする。それに従うように、茜は開けられた窓の外を覗き込んだ。
「…桜?」
どうやら茜は二階の部屋に居るようで、すぐ外には満開の桜が咲いていた。ひらりとひらりと薄紅色の花弁を散らす姿は、見惚れる程に美しい。
しかし、修学旅行で京都やって来た現在の季節は、秋と冬の中間期であったのに何故桜が咲いているのだろうか。茜はそんな不気味な違和感を感じながらも、窓の外を見下ろせば大きな街が広がっていた。
「…え、」
視界に入って来た街並みは、茜の知っている京都の街ではなかった。太陽が傾きかけて、橙色の空を少しずつ藍色へと染め上げている黄昏時。何軒もの和風家屋がずらりと建ち並び、その軒に吊るされたいくつもの提灯に仄かな灯りが宿り始める。大通りには屋台のような出見世が出ていて、何処からともなく楽しげな声が聞こえて来た。
けれど、その賑わう大通りを行き交うのは人ではない。人間の真似をするように着物を着た動物や首の長い女、頭に角を生やした化け物に宙を舞う炎の塊など、人の形をしていない異形たちが街を行き交っている。それはまるで、幼い頃に怪談話で聞いた百鬼夜行のような光景だった。
雲龍図から続く信じ難い光景に、茜はゴクリと息を呑む。背中に、冷たい汗が流れた。
「此処は幽世。見て分かるだろうが、人間のお前が居て良い場所じゃねぇ。」
「…か、幽世。」
言い慣れない言葉は、か細く茜の口から溢れた。
「妖の世界だ。なんでこんな所に来たのか知んねぇけど、とっとと帰れ。」
男はそう告げると、不機嫌そうに眉を歪ませて茜に視線を向ける。突然『妖の世界』だなんて言われても、茜は到底理解出来なかった。今までそんな妖なんてものを見たことが無ければ、次から次へと起こる現実離れした出来事も質の悪い夢のようだ。しかし、眼前に広がる異様な世界は、茜が元に居た世界ではないのだと一目で分かった。
「冗談でしょ…?」
そう思いたくても、ドクドクと波打つ苦しい程の自身の心音が決して夢ではないと叱咤する。目の前の光景に軽く目眩を覚えながらも、不安を押し込めるようにグッと手を握りしめた。掌に喰い込んだ爪の痛みが、より一層茜に現実を感じさせる。
「あ、あの!私は、どうやったら元の世界に戻れますか!?」
「知らねぇ。」
「そ、そんな…!」
茜の必死な願いを、男は面倒くさそうに一蹴した。
「ごく偶に人間が幽世に迷い込む話を聞いたことがあるが、その後人間がどうしたかなんて俺は知らねぇ。」
「じゃあ、私は…」
これから、一体どうなってしまうのだろうという大きな不安が茜を襲う。こんな妖の世界にいきなり飛ばされて、元の世界に戻る方法も分からないなんて、そんな理不尽があるだろうか。あまりの絶望感に握りしめていた手の力が抜けて、指先は力無く震えた。血の気が引け青ざめた表情で、ただただ呆然と窓の外を眺めることしか出来ない。
そんな茜の様子を、男は眉間に皺を寄せて何とも言えない表情で見ていた。
「斎殿ー!半妖の絵師殿ー!」
その時、不意に二人の空間を裂くように「ドンドンドンッ!」と部屋の引き戸を叩く音がした。その音に、ビクリと肩が上がる。これ以上心臓に悪いことは止めてほしいと、茜は両手で胸を抑えながら切実に願った。
引き戸の向こうから聞こえて来た声に男は深く溜め息を吐くと、畳に散らばる絵筆や画材を器用に避けて、ガラッと勢いよく叩かれた引き戸を開ける。
「あぁ、斎殿。依頼の絵を引き取りに来ました。」
突然現れた訪問者の姿は、男の背に隠れて茜の位置からは見えない。しかし、聞こえて来た声は酷く穏やかなものだった。
「…翠か。」
訪問者に向かい、男は低い声でそう告げる。不機嫌そうな声からは、男が先程のように眉間に皺を寄せて顰めっ面をしているのが容易く想像出来た。
「何かあったんですか?」
そんな男の態度に訪問者は腹を立てることもなく、先程と変わらない穏やかな声で話す。
「…。」
「…斎殿?」
訪問者の問いに対して、男は何故か固く口を閉ざす。表情は見えないので男が何を考えているのかは分からないが、部屋の中は少しの沈黙に包まれた。突然に黙ってしまった男の様子を、訪問者も不思議に思ったのか伺うように声を掛ける。
そんな二人のやり取りを、茜は部屋の片隅で息を潜めるように聞いていた。黙り込んだ男の様子も気になるが、突然現れた訪問者も、この幽世の世界に生きる妖なのだろうかと思うと茜の不安は積もる一方だ。先程、窓から見下ろした異形だらけの世界を思い出しながら、訪問者の姿が人から離れた恐ろしい形相をしていたらどうしようかと背筋が震える。
「おや、なんだか変わった匂いがしますね。」
茜が背筋を震わせたその時、スンスンと鼻を鳴らした訪問者の声が部屋の沈黙を破った。そして、隠れていた男の背からひょこっと顔を出す。
「ひぃっ!?」
いきなり向けられた視線に、茜は無意識に声を上げる。真っ直ぐに向けられる翡翠色の瞳に、白く生糸のような髪。その頭には髪と同様に白くふさふさの耳が生え、背後にはこれまた触り心地の良さそうな白い尻尾がふわりと揺れていた。
窓の外を歩いていた妖たちとは違い、顔を見せた訪問者は中性的な顔立ちをしていて、頭に生えている耳以外は人間の姿をしている。そして、男と同様に訪問者もとても整った顔立ちをしていた。背丈は茜よりも少し高いくらいで若草色の着物を着た訪問者の見た目が、茜が想像していた妖のように恐ろしくはなかったことにひとまず安堵する。
「もしかして、人間ですか?」
訪問者は茜を観察するように視線を走らせると、肩口辺りで切られた生糸のような髪をさらりと揺らす。
その言葉に、茜は恐る恐るもコクリと頷いた。
「…なるほど。斎殿の様子がおかしかったのは、貴女が理由ですね。」
訪問者はすらりとした指先を顎に当てて、納得するように頷いた。それを横目で見た男が、眉間にグッと皺を寄せる。
「…コイツが、俺の絵の中から出て来たんだよ。」
「ほう!斎殿は遂に人間までも、絵から呼び寄せることが出来るようになったと!」
「違う!人間なんて描いてねぇよ。勝手にコイツが出て来たんだ!」
男は茜を指差し、訪問者に向かって語尾を強めて言い放つ。しかし、そんな男に対して訪問者は、何故か感心したようにキラキラとした眼差しを向けていた。
「流石、半妖の絵師殿!描いてもいない人間を絵から呼び出せるなんて…これはまた一儲け出来そうですね!」
「お前は、そうやってすぐに金の話をするな!」
「あ、あの!」
ちぐはぐな二人のやり取りに全く付いていけない茜は、頭を抱えながらも声を上げる。向けられた二人の視線にたじろぎながらも、茜は会話の中の「絵の中から出て来た」という言葉がどうにも引っ掛かった。絵の中から出てくるなんて、この幽世に来る原因になった雲龍図を思い出す。茜はゴクリと無意識に喉を鳴らし、覚悟を決めながらも口を開く。
「…私って、絵の中から出て来たんですか?」
茜の言葉に、男は一つ瞬きをして澄んだ瞳を隠すと「あぁ、そうだ。」と頷いた。
「あの絵から、お前は出て来た。」
そう言うと男は、異形のような右手の指先を一つの絵に向ける。その絵には、先程見た二匹の錦鯉が描かれていた。二匹の錦鯉は相変わらず絵の中で、部屋の騒がしさなんて関係ないとでも言うように優雅に泳いでいる。先程、空中を泳いでいた錦鯉が絵の中へと戻っていったように、茜もあの錦鯉の様に絵の中から出てきたというのか。茜自身、気付いたらこの場所にいたので自分が絵の中から出てきたという自覚はなかった。
「なんで、絵から…」
絵に視線を向けながらも思わず溢れた茜の言葉に、訪問者が答えるように口を開く。
「半妖の絵師の斎殿は、特別なのです。」
「…半妖の絵師?」
初めて聞く呼び名に、眉を寄せながら首を傾げる。そんな茜の反応に、目の前に居た男が少し肩を揺らした。訪問者はちらりと男を見てから、改めてその翡翠色の瞳を緩く細めて茜に向ける。
「ええ。斎殿は妖と人間の血が混ざった、この幽世でも珍しい半妖の絵師殿なのですよ。」
訪問者の言葉に、男は何処か居心地の悪いような顔をしてそっぽを向く。その様子を、茜はポカンと口開けたまま眺めていた。
壁や襖には大きな巻物や紙を張った板がいくつも立掛けられて、たくさんの和紙が畳を埋め尽くすように散乱していた。あちらこちらに転がる小瓶には、絵の具の元となる様々な鉱石の粉が入れられていて何とも色とりどりだ。絵筆が転がり畳を鮮やかに染めあげているのにも気にすることなく、室内にいる人影は画架に立て掛けた一枚の絵に向かっている。
涼し気な黒髪に紺色の着流しを着た男は、澄んだ瞳を真っ直ぐに絵筆の先に向けて迷うことなく筆を動かしていた。周りに置かれたいくつもの小皿には朱色、金色、白色などの様々な色が入れられていて、男はそれを絵筆で取っては紙の上に乗せていく。
ただ、その男が絵を描いている光景に異様な点を上げるとするならば、その男の右手だ。絵筆を持つその右手は、肌色の皮膚ではない。青黒く淀み、皮膚はひび割れ亀裂を産んでいる。硬い鱗のような破片が所々にへばり付き、爪は腐ったように黒い。
男は人の形から離れたその手でそっと朱色を筆先に乗せて、優しく紙を撫でるように絵を描く。男が絵筆で触れた先には、二匹の美しい錦鯉が居た。鮮やかな朱色の錦鯉と、白色に朱色の斑模様の入った二匹の錦鯉は和紙の中で優雅に泳いでいる。
男の持つ絵筆が描いている錦鯉に触れた瞬間、まるで雫が水面へと落ちるように紙が揺れた。不思議とその揺れは波紋のように紙いっぱいに広がり、不思議な淡い光が錦鯉の絵から溢れて来る。
男がゆっくりと絵筆を離すと、和紙から朱色の錦鯉が出てきた。和紙に大きな波紋を作り、錦鯉は絵の中から飛び出して空中を自由に泳ぎ出す。ゆらゆらと尾ひれを揺らして、部屋の中を気持ち良さそうに一周した。
その不思議な光景を見て男は絵筆持ったまま、満足そうに微笑む。泳ぎ回る錦鯉をそのままに、男は再び絵に向き合い始めた。先程のように絵筆で、もう一匹の錦鯉に触れる。
しかし、今度は錦鯉に何も変化が起こらなかった。和紙から出てくる様子の無い錦鯉に、男は不思議そうに首を傾げた。
「どうした?出て来いよ。」
そう呟くと男は錦鯉から絵筆を離して、もう一度和紙に朱色を重ねる。
すると、絵筆が触れた先から波紋が広がるように和紙が大きく揺れた。淡い光が和紙全体から溢れて、次第に画架に立て掛けた絵がカタカタと震え始める。
その様子に男は絵筆を離して、怪訝そうに眉をひそめた。絵の中心が不安定に揺れて、盛り上がるように何かが突き出して来る。
「…は?」
朱色を塗ったその中心から、するりと細く白い手が現れたのだ。驚く間もなく、その手から腕、腕から肩と徐々にその姿を現し、ひょっこりと絵から女が顔を出した。色素の薄い髪が揺れ、丸く開かれた優しげな瞳と目が合った瞬間、まるで時が止まってしまったかのような錯覚を起こす。
そう思ったのも束の間、絵から飛び出して来た女の身体がぐらりと揺れて、男の身体にガッと重たい衝撃が走った。
「痛てぇ…」
突然のことに頭が真っ白になりつつも、耳元で聞こえた低い声にバッと上体を起こす。茜の下には、打ち付けた頭を片手で抑えて倒れ込んだ着流しの男がいた。
これは一体どうゆう事だと茜は、パニックになる頭を抱えた。修学旅行の途中、たまたま見つけた寺で雲龍図を拝観しようとしたら、法堂で遭った本物の龍に呑み込まれてしまった。その恐ろしい体験に、今だに手が震えている。龍の鋭い牙が生えた大きな口が迫った瞬間、ギュッと目を瞑って闇に呑み込まれた。そして気付くと、目の前にこの男が居たのだ。
此処は一体何処なんだと周りを見渡せば、先程まで居たはずの寺の法堂とはかけ離れた和室の部屋だった。たくさんの画材が散らばっている畳に、茜は顔を顰める。此処はあの寺の中なのか、この男は何者なのか茜には分からないことだらけだ。
「おい、邪魔だ。」
不機嫌そうなその声に、ビクっと震えて茜は勢いよく立ち上がり退く。キャパオーバーした頭は使い物にならず、クラクラしながらも声がした方へ顔を向ければ、男に鋭く睨みつけられた。
「お前、一体何者だ。」
茜に冷たい視線を浴びせながら、立ち上がった男は着流しを整えた。
何者だと言われても、それを問いたいのは茜の方だった。状況が飲み込めず上手く働かない頭をなんとか動かして、茜は目の前の男を観察する。年齢は同じくらいだろうか。綺麗な顔の輪郭を持つ白い肌をした男は、目鼻立ちがとても整っていていた。所謂美形だ。スラリとした細身の体型に、涼やかな紺色の着流しがよく似合っている。
そして無意識に視線を彷徨せた茜は、男の右手を見た途端に大きく目を見開く。黒い爪に青黒く鱗が張り付いたような肌は、まるで異形のようだ。思わず息を呑み、その右手から視線を離せないでいると、男は薄い唇を開いた。
「 …お前、」
黒髪の下から覗く澄んだ瞳が、真っ直ぐに茜に向けられる。
「まさか、人間か?」
「……え?」
男の言った言葉の意味が分からずに、茜は眉を寄せた。一体、人間以外の何に見えるのだろうか。生まれて初めて聞かれた問いに、戸惑いを隠せない。そんな事を聞いてくるなんて、まるで自分が人間じゃないとでも言うようだ。
先程まで視線を向けていた男の異形のような右手の存在が、茜をより一層不安にした。
「あ、あの!私、雲龍図の拝観に来てて、気付いたら此処に居たんですけど、此処は寺内の一室ですか?」
「は?」
「どちらの方向に進めば外に出れるか、ご存知ですか?」
「…何言ってんだ、お前。」
兎にも角にも、茜はこの状況から抜け出したくて声を上げる。この男が居る部屋から一刻も早く寺の外へ出ようと出口を聞けば、男は眉間に皺を寄せて呆れたように吐き捨てた。
「此処は寺なんかじゃねぇし、お前が外に出たところで食われるだけだぞ?」
「はぁ?」
お前が何言ってるんだと、茜は顔を顰めた。何故外に出ただけで食われるのか、意味が分からない。あの寺ではないのなら、此処は一体何処なのだろうか。
そんな茜の表情を見た男は複雑そうな顔をして、その異形の様な右手で額を覆い深く溜め息を吐く。
その姿に、溜め息を吐きたいのはこっちの方だと茜は心の中で思った。雲龍図の龍に呑み込まれたり、全く知らない場所に居たりと信じられないようなことの連続で、茜の精神は疲れ切っていた。
「噂には聞いたことあるが、まさか本当に人間が迷い込むとはな。」
「…えーと?」
先程から男の言葉の意味がちっとも分からない茜は、困惑気味に聞く。もう一層のこと、この部屋を出て自分の力で寺から外への出口を探そうかと、畳に散らばっている画材を踏まないように静かに歩いた。すると、足元をスルリと朱色の何かが撫でる。
「うわっ!?」
その奇妙な感触に驚いて飛び上がれば、畳に散らばっていた絵筆に足を取られて茜は派手に尻餅を付いた。「おい!何やってんだよ。」と男が呆れた顔で言うのを、茜は畳にぶつけた尻を「いたた、」と撫でながら聞く。
今度は一体何だと足元を見れば、朱色の錦鯉がゆらゆらと尾ひれを揺らしていた。
「へ?」
錦鯉は茜の足元から、ゆっくりと部屋の中をまるで水中に居るように優雅に泳ぎ始めた。その幻想的な姿に、茜は瞬きを忘れて目を見張った。自由に泳ぎ回る錦鯉の鱗が、光の加減で金色に煌めく。錦鯉が空中を泳ぐなんて何かの間違いだと、ゴシゴシと目を擦っても錦鯉は消えない。
「な、何なのこれ…!?」
そんな茜を嘲笑うように錦鯉は茜の周りを一周すると、画架に掛かった一枚の絵の中に吸い込まれるように入っていった。元居た場所に帰るように、絵の中に収まった錦鯉に茜はポカンと口を開けたまま言葉が出ない。
絵の中では、二匹の錦鯉が寄り添って泳ぐ姿が描かれている。なんとも繊細で美しすぎるその絵に、茜はゾクリと鳥肌が立った。絵が動き出すなんて、まるであの雲龍図の龍のようではないか。その光景になんだか恐ろしくなった茜は力が抜けて、尻餅を付いたまま情けなく震える。
そんな茜を男は一瞥すると、窓際にゆっくりと足を進めて障子を開けた。
「ちょっと、こっちに来い。」
その声に茜は困惑しつつも、なんとか足に力を入れて立ち上がる。男に言われるがままに恐る恐る窓際に足を進めると、窓から入り込んで来た風が茜の前髪をサラリと揺らした。
男は「外を見てみろ」と言わんばかりに素っ気なく首を振り、茜に窓の外を覗くように合図をする。それに従うように、茜は開けられた窓の外を覗き込んだ。
「…桜?」
どうやら茜は二階の部屋に居るようで、すぐ外には満開の桜が咲いていた。ひらりとひらりと薄紅色の花弁を散らす姿は、見惚れる程に美しい。
しかし、修学旅行で京都やって来た現在の季節は、秋と冬の中間期であったのに何故桜が咲いているのだろうか。茜はそんな不気味な違和感を感じながらも、窓の外を見下ろせば大きな街が広がっていた。
「…え、」
視界に入って来た街並みは、茜の知っている京都の街ではなかった。太陽が傾きかけて、橙色の空を少しずつ藍色へと染め上げている黄昏時。何軒もの和風家屋がずらりと建ち並び、その軒に吊るされたいくつもの提灯に仄かな灯りが宿り始める。大通りには屋台のような出見世が出ていて、何処からともなく楽しげな声が聞こえて来た。
けれど、その賑わう大通りを行き交うのは人ではない。人間の真似をするように着物を着た動物や首の長い女、頭に角を生やした化け物に宙を舞う炎の塊など、人の形をしていない異形たちが街を行き交っている。それはまるで、幼い頃に怪談話で聞いた百鬼夜行のような光景だった。
雲龍図から続く信じ難い光景に、茜はゴクリと息を呑む。背中に、冷たい汗が流れた。
「此処は幽世。見て分かるだろうが、人間のお前が居て良い場所じゃねぇ。」
「…か、幽世。」
言い慣れない言葉は、か細く茜の口から溢れた。
「妖の世界だ。なんでこんな所に来たのか知んねぇけど、とっとと帰れ。」
男はそう告げると、不機嫌そうに眉を歪ませて茜に視線を向ける。突然『妖の世界』だなんて言われても、茜は到底理解出来なかった。今までそんな妖なんてものを見たことが無ければ、次から次へと起こる現実離れした出来事も質の悪い夢のようだ。しかし、眼前に広がる異様な世界は、茜が元に居た世界ではないのだと一目で分かった。
「冗談でしょ…?」
そう思いたくても、ドクドクと波打つ苦しい程の自身の心音が決して夢ではないと叱咤する。目の前の光景に軽く目眩を覚えながらも、不安を押し込めるようにグッと手を握りしめた。掌に喰い込んだ爪の痛みが、より一層茜に現実を感じさせる。
「あ、あの!私は、どうやったら元の世界に戻れますか!?」
「知らねぇ。」
「そ、そんな…!」
茜の必死な願いを、男は面倒くさそうに一蹴した。
「ごく偶に人間が幽世に迷い込む話を聞いたことがあるが、その後人間がどうしたかなんて俺は知らねぇ。」
「じゃあ、私は…」
これから、一体どうなってしまうのだろうという大きな不安が茜を襲う。こんな妖の世界にいきなり飛ばされて、元の世界に戻る方法も分からないなんて、そんな理不尽があるだろうか。あまりの絶望感に握りしめていた手の力が抜けて、指先は力無く震えた。血の気が引け青ざめた表情で、ただただ呆然と窓の外を眺めることしか出来ない。
そんな茜の様子を、男は眉間に皺を寄せて何とも言えない表情で見ていた。
「斎殿ー!半妖の絵師殿ー!」
その時、不意に二人の空間を裂くように「ドンドンドンッ!」と部屋の引き戸を叩く音がした。その音に、ビクリと肩が上がる。これ以上心臓に悪いことは止めてほしいと、茜は両手で胸を抑えながら切実に願った。
引き戸の向こうから聞こえて来た声に男は深く溜め息を吐くと、畳に散らばる絵筆や画材を器用に避けて、ガラッと勢いよく叩かれた引き戸を開ける。
「あぁ、斎殿。依頼の絵を引き取りに来ました。」
突然現れた訪問者の姿は、男の背に隠れて茜の位置からは見えない。しかし、聞こえて来た声は酷く穏やかなものだった。
「…翠か。」
訪問者に向かい、男は低い声でそう告げる。不機嫌そうな声からは、男が先程のように眉間に皺を寄せて顰めっ面をしているのが容易く想像出来た。
「何かあったんですか?」
そんな男の態度に訪問者は腹を立てることもなく、先程と変わらない穏やかな声で話す。
「…。」
「…斎殿?」
訪問者の問いに対して、男は何故か固く口を閉ざす。表情は見えないので男が何を考えているのかは分からないが、部屋の中は少しの沈黙に包まれた。突然に黙ってしまった男の様子を、訪問者も不思議に思ったのか伺うように声を掛ける。
そんな二人のやり取りを、茜は部屋の片隅で息を潜めるように聞いていた。黙り込んだ男の様子も気になるが、突然現れた訪問者も、この幽世の世界に生きる妖なのだろうかと思うと茜の不安は積もる一方だ。先程、窓から見下ろした異形だらけの世界を思い出しながら、訪問者の姿が人から離れた恐ろしい形相をしていたらどうしようかと背筋が震える。
「おや、なんだか変わった匂いがしますね。」
茜が背筋を震わせたその時、スンスンと鼻を鳴らした訪問者の声が部屋の沈黙を破った。そして、隠れていた男の背からひょこっと顔を出す。
「ひぃっ!?」
いきなり向けられた視線に、茜は無意識に声を上げる。真っ直ぐに向けられる翡翠色の瞳に、白く生糸のような髪。その頭には髪と同様に白くふさふさの耳が生え、背後にはこれまた触り心地の良さそうな白い尻尾がふわりと揺れていた。
窓の外を歩いていた妖たちとは違い、顔を見せた訪問者は中性的な顔立ちをしていて、頭に生えている耳以外は人間の姿をしている。そして、男と同様に訪問者もとても整った顔立ちをしていた。背丈は茜よりも少し高いくらいで若草色の着物を着た訪問者の見た目が、茜が想像していた妖のように恐ろしくはなかったことにひとまず安堵する。
「もしかして、人間ですか?」
訪問者は茜を観察するように視線を走らせると、肩口辺りで切られた生糸のような髪をさらりと揺らす。
その言葉に、茜は恐る恐るもコクリと頷いた。
「…なるほど。斎殿の様子がおかしかったのは、貴女が理由ですね。」
訪問者はすらりとした指先を顎に当てて、納得するように頷いた。それを横目で見た男が、眉間にグッと皺を寄せる。
「…コイツが、俺の絵の中から出て来たんだよ。」
「ほう!斎殿は遂に人間までも、絵から呼び寄せることが出来るようになったと!」
「違う!人間なんて描いてねぇよ。勝手にコイツが出て来たんだ!」
男は茜を指差し、訪問者に向かって語尾を強めて言い放つ。しかし、そんな男に対して訪問者は、何故か感心したようにキラキラとした眼差しを向けていた。
「流石、半妖の絵師殿!描いてもいない人間を絵から呼び出せるなんて…これはまた一儲け出来そうですね!」
「お前は、そうやってすぐに金の話をするな!」
「あ、あの!」
ちぐはぐな二人のやり取りに全く付いていけない茜は、頭を抱えながらも声を上げる。向けられた二人の視線にたじろぎながらも、茜は会話の中の「絵の中から出て来た」という言葉がどうにも引っ掛かった。絵の中から出てくるなんて、この幽世に来る原因になった雲龍図を思い出す。茜はゴクリと無意識に喉を鳴らし、覚悟を決めながらも口を開く。
「…私って、絵の中から出て来たんですか?」
茜の言葉に、男は一つ瞬きをして澄んだ瞳を隠すと「あぁ、そうだ。」と頷いた。
「あの絵から、お前は出て来た。」
そう言うと男は、異形のような右手の指先を一つの絵に向ける。その絵には、先程見た二匹の錦鯉が描かれていた。二匹の錦鯉は相変わらず絵の中で、部屋の騒がしさなんて関係ないとでも言うように優雅に泳いでいる。先程、空中を泳いでいた錦鯉が絵の中へと戻っていったように、茜もあの錦鯉の様に絵の中から出てきたというのか。茜自身、気付いたらこの場所にいたので自分が絵の中から出てきたという自覚はなかった。
「なんで、絵から…」
絵に視線を向けながらも思わず溢れた茜の言葉に、訪問者が答えるように口を開く。
「半妖の絵師の斎殿は、特別なのです。」
「…半妖の絵師?」
初めて聞く呼び名に、眉を寄せながら首を傾げる。そんな茜の反応に、目の前に居た男が少し肩を揺らした。訪問者はちらりと男を見てから、改めてその翡翠色の瞳を緩く細めて茜に向ける。
「ええ。斎殿は妖と人間の血が混ざった、この幽世でも珍しい半妖の絵師殿なのですよ。」
訪問者の言葉に、男は何処か居心地の悪いような顔をしてそっぽを向く。その様子を、茜はポカンと口開けたまま眺めていた。