あれから月日が流れて、茜は高校三年生になり卒業式を間近に控えていた。

 現在、茜たち三年生は自由登校となり、今日は美術部の活動も無いけれど、茜は何となく絵が描きたくて放課後の美術室へと向かっている。

 すっかりと行き慣れた美術室に足を運び、イーゼルに立て掛けたキャンバスに色を塗る。絵の具が付かないように制服の袖を捲りあげて、目の前の絵に茜は集中した。

 幽霊部員が多く、実質茜一人で活動していた美術部にも、茜が三年生なったタイミングで新入部員が三人も入部した。一気に賑やかになった部活動の時間は楽しくて、絵を描くことに今まで以上にやり甲斐を感じる一年だったなと茜は絵を描きながら改めて振り返る。

 そして、日々の努力の賜物か、秋頃に開催された絵のコンクールでは茜の絵は見事に金賞を受賞した。生まれて初めて色んな人に、自分の絵が認められる嬉しさを味わったのだ。しかし、その時初めて知るはずの喜びに茜は何処か既視感を覚えた。

 その不思議な既視感は、茜が高校二年生の修学旅行を終えたあたりから幾度か感じ始めた。絵を描いている時や、部員とたわいない事を話している時。文化祭で美術部から似顔絵を出店した時や、学校からの帰り道に夕焼け空を眺めた時。

 ふとした瞬間に、訪れる何処か懐かしさを含んだ切ない感情に包まれる。理由は分からないけれど、もう一度何処かへと戻りたくなるような、誰かに会いたくなるような様々な感情が時折痛みとなって茜を襲うのだ。
 
 それが一体何なのかは分からないけど、その事を思い出しては茜は何故だか無性に泣きたくなる。

 曖昧なそれをグッと飲み込むように胸のうちに戻して、茜は再び目の前の絵を描く事に集中した。暫くして、色んな事を思い返しながらも、無事に描き終えた絵を見て茜は満足気に頷く。絵筆を置いて、グッと背伸びをした。

 油絵の具の独特な匂いが籠もる美術室の窓を、換気するように開ける。窓の外には、春を待つように枝の先に蕾を付けた桜の木が立っていた。春が来ればこの校舎を出て、茜はこれから先の次のステージへと向かうのだ。窮屈に感じた学校生活も、終わり際には様々な感情が蘇る。

 少し気分でも変えようと、茜は油絵の具の匂いが漂う美術室から屋上へと向かった。

 階段を上り屋上へ続く扉を開ければ、まだ冷たい春風が茜の前髪をさらりと持ち上げる。そんな新鮮な空気を、思いっ切り吸い込んで吐き出す。

 放課後を迎えた現在、グラウンドで部活動に励む生徒たちの声が遠くから聞こえる。太陽が傾き、空が茜色に染まっていく様子をただただ眺めながら、茜は屋上で一人黄昏れていた。

 すると突如、春一番とでもいうような、凄まじい突風が茜を襲った。ゴォォォと、まるで嵐のような音を立てて吹く風は茜の視界奪う。髪や制服を乱されながらも、必死に突風が過ぎ去るのを待った。

「茜!」

「…っ、」

 そんな中で、呼ばれた名前にハッとする。何処かで聞いた事があるような低くて穏やかな声は、突風の中でも真っ直ぐに茜の耳に届いた。

 少ししてから突風が止み、閉じていた瞼を開けると、茜の目の前には巨大な二頭の龍が居た。

「え、えぇっ!?」

 突然の事に、目を見開いて驚く。それは、いつかの修学旅行で見た雲龍図ように迫力のある光景だったが、それとは全くの別物だ。茜空の下で、二頭の龍は自由気ままに空を漂っていた。その長い胴体には、沈み行く太陽の光に反射してキラキラと鱗が輝いている。頭に生えた二本の太い角に、春風に靡かせた艷やかな鬣。口元からは牙が除いて、龍が呼吸をする度に空気を振動させていた。

 目の前に現れた存在に圧倒されていれば、不意に茜の怯えた視線と目の前の龍の視線が重なった。磨かれた宝石のように美しい大きな丸い瞳は、そんな茜の様子を写すと一つ瞬きをしてやんわりと瞳を細めた。まるで「落ち着け」と言わんばかりの仕草に、茜は驚きながらも小さく息を吐く。

 もう片方の龍に視線を向ければ、その龍も同じように瞳を細めていて鋭い牙が出る口角をニィッと上げた。二頭の龍を前にして茜は動揺しながらも、何処か懐かしいような感覚に襲われる。初めて目にしたのにも関わらず、茜は「ずっと貴方達に逢いたかった」と心の中で思っていた。気を抜けば涙が溢れそうになって、慌てて気を引き締める。

 その涙は、決して怖さや緊張から来るものではない。何故と言われても分からないが、ただただ涙腺が緩むのだ。

 突然現れて驚きはしたけれど、今は不思議と恐怖を感じない。天を舞う二頭の龍を、時間が許す限り何時までも眺めていたいと思った。戯れるように空を飛んでいた二頭の龍は、まるで挨拶をするように茜にその大きな頭を近付ける。ゆっくりと近付いてくる龍たちの顔をまじまじと見つめていれば、不意に「茜!」と再び声が聞こえきた。

 その声に視線を上げれば、片方の龍の背中に一人の男が居た。龍の鬣と同じように黒髪を春風に靡かせて藍色の着物を着た男は、茜の姿を目に入れた瞬間、龍の背中から勢い良く飛び降りた。トンッと軽やかな音を立てて、屋上のコンクリートの上に足を着けた男の姿に茜は無意識に見惚れていた。

 真っ直ぐと向けられる夜空のように澄んだ瞳に、ゴクリと息を呑んだ時には全身に衝撃が走っていた。嗅いだ事がある懐かしい匂いが鼻を掠めて、包み込まれた身体に痺れるように広がる熱。走って来たような激しい鼓動がぶつかって、再び涙腺が緩む。

「…斎、」

 気付けば、愛おしい男の名前を震える声で呼んでいた。男はその声を聞くと、茜の肩口で顔を埋めながら「あぁ、そうだ。斎だ。」と感極まったように何度も頷いた。男は、強く、強く茜の身体を抱きしめると、暫くしてから名残惜しそうに離す。

 そして、ふと茜は男の右手に視線を向けた。肌は青黒く淀んでいて、皮膚は所々亀裂を生んでいる。所々鱗のようなものが張り付いたその手は、とても人間のものは思えない異形の右手だ。けれど、茜はその手に恐怖も嫌悪を感じない。そんな感情とは逆に、この手が愛おしくて仕方がないのだ。

 男はその異形の右手で、茜の頬をそっと撫でる。

「お前に逢いに来た。」

 その瞬間、茜はこれまでの全ての記憶と約束を思い出した。高校二年生の修学旅行の事、雲龍図に呑み込まれて幽世の世界に行った事、そこで半妖の絵師の斎に出逢った事、二人で依頼を成し遂げた事、現世に戻らなければならなかった事…

 今まで忘れていた、幽世という妖の世界の事を全て思い出したのだ。幽世を離れる時にした約束を、斎が本当に守ってくれた事が嬉しくて、堪えていた涙がついにポロポロと茜の頬をつたった。

「絶対、逢いに来てくれると信じてた!」

 茜は斎にそう言って、心の底から幸せそうに笑った。そんな斎も、何かを堪えるように眉を寄せて笑う。離れていた時間を埋めるように、二人は泣き笑いのような顔でいつまでも見つめ合っていた。