雲霄と清澄が去った部屋で、少しの沈黙が訪れた。暫くしてから、茜は斎に視線を向けると、斎もまた茜に視線を向けていた。もう幽世に来てから、その瞳を何度見つめた事だろうか、斎の真っ直ぐな眼差しを受けるたびに茜は酷く切ない気持ちなった。

「茜、お前は現世に帰れ。」

 斎が言った言葉は、ストンと茜の胸に落ちた。何処か突き放されたようにも感じる言葉なのに、茜は全然悲しみを感じなかった。茜を見つめる斎の表情が、あんまりにも穏やかなものだったからだ。

「…うん。帰るよ。」

 あれだけ現世に戻る事に恐怖を感じていた筈なのに、気付けば自然と斎に告げていた。確かに、現世に戻る事に対して不安はある。今だに茜の頭に記憶されている現世での思い出は、どれもあまり良いものでは無く、強い孤独を感じるものだった。幽世に来る前は一人きりでも平気だったのに、幽世に来てから様々な妖たちと出逢い、そして何より斎と出逢ってしまってから茜は随分と弱くなったらしい。一人ぼっちで、学校生活を送っていける自信は全く無かった。

 それでも、帰るという選択を決めたのは、何より茜が斎を信じていたからだ。父の絵を越える絵を描くと言い切った斎を、誰よりも茜は信じたかった。そして、斎が魂を込めて描いたその絵を、茜は誰よりも楽しみに思ったのだ。斎の描いた龍に、逢ってみたい。きっとそれは美しくて繊細でいながら、一つ芯が通った強さを持つ斎の魂そのものの姿だと思う。

「例え、お前が幽世での記憶を忘れていたとしても、俺は必ず逢いに行く。…だから、待ってろ。」

「うん!私も絵を描きながら、斎を待ってるね。」

 斎の言葉に何度も頷きながら、茜はそう言って笑った。その約束があれば、きっと茜は現世に戻っても大丈夫だと自分自身を信じた。

 そして不意に、茜は幽世に来る前に見た雲龍図を思い出す。寺の法堂の天井を住処とし、鱗の張り付いた長い胴体を捻られて、水晶のような瞳をギョロつかせていた龍の姿を。そして、鋭い牙の生えたその口は、茜に対して何やら言葉を発していた気がする。

「…幽山。」

 龍を見た恐怖や衝撃により、全ての内容は思い出す事は出来ないが、あの龍は斎の父の名前を確かに呼んでいた。やはり、雲霄や旦那様が言っていたようにあの雲龍図は幽山が描いたのだ。

「斎。」

「ん?」

「斎のお父さんは、きっと斎の事も斎のお母さんの事も心では覚えていたんだと思うよ。」

 茜はあの雲龍図を事を考えなから、そう言葉を話す。そんな茜を斎は、少し驚いたような表情で見つめていた。

「きっと、斎と斎のお母さんの事を心配して、描いた龍を幽世まで飛ばしてくれたんだよ。」

 それは唯一、その雲龍図に遭遇した茜だからこそ感じた事だった。突然の事に恐怖や衝撃はあったけれど、龍からは敵意のようなものは全く感じなかった。それに龍の大きな口に呑み込まれた時、穏やかな龍の切実な願いのようなものを確かに茜は感じ取っていた気がするのだ。

 茜の言葉に静かに瞼を閉じた斎は、何か想いを受け取ったように「…そうかもな。」と言って笑った。

 そんな斎の姿に、茜は凄く報われたような気持ちになった。何年、何百年と経っても、絵に描いた想いはちゃんと形になって残せるのだ。そして、その想いは届くべき者の所へと真っ直ぐに向かっていく。それは、なんて素敵な想いの贈り物だろうか。

「だから私も、現世に戻っても、きっと斎の事を覚えている。」

 心に刻まれた想いは、決して失う事などないのだと茜は思う。かつて斎の父がそうだったように、きっと茜も幽世で得た経験はずっと心の何処かに存在している筈だ。

「なぁ、茜。」

「…っ!?」

 斎に呼ばれて顔を上げた瞬間、茜の全身を温かな温もりが包んだ。突然の事に、頭が上手く回らない。鼻をかすめる仄かな斎の陽だまりのような匂いと、伝わってくる鼓動に茜は酷く動揺した。

 一体、何が起こっているのだろう。自分の身に起きている事が理解出来なくて、ひたすらに焦っていれば、不意に斎が静かに口を開いた。

「ありがとう。お前に、出逢えて良かった。」

 そっと耳元で告げれた言葉に、鼻の奥がツーンとして一瞬で目の前が歪んだ。それを誤魔化すように、茜はぎゅっと瞳を瞑る。

「私の方こそ、ありがとう。」

 そう言って、恐る恐る斎の背中に両手を回せば、斎はそれに答えるように茜を強く抱きしめた。茜の頬を、斎の艶やかな髪が撫でる。少しずつ緊張が解れて、いつの間にか茜は斎のくれる体温に身を預けていた。トクトクと、重なった二つの鼓動が信じられない程に心地良い。

 どれくらい、そのままで居ただろうか。それは数分にも満たない触れ合いにも、随分と長い間抱きしめ合っていたようにも感じた。

 暫くして、感じる温もりを惜しみながらも二人の身体は離される。その際にかち合ったお互いの視線が気恥ずかしくて、斎は照れたようにそっぽ向いた。その様子が、なんだか可愛らしくて茜は思わず笑う。そんな茜に口をムッとさせながらも、斎は仕方ないように溜め息を吐いた。

 そして、茜の両肩を掴んだまま、斎は一つ提案するように言った。

「なぁ、現世に戻る前に絵を描かねぇか?」

 その提案に茜は目を輝かせて、強く頷いた。

「…うん!描きたい!」

 それから、二人の行動は早かった。雲霄に許可を取り、城内にある画材をかき集めると、直ぐに絵の制作に取り掛かった。というのも、斎があまりにも簡素な城内の襖や天井に落書きをし始めたのだ。その異形の右手で絵筆を取った斎は、真っ白な襖に向かってまるで幼子のように好きな絵を描きまくった。

 そんな斎に茜はギョッとして目を見張れば、その様子を見ていた雲霄は酷く懐かしむように目を細めていた。そして、心配そうに様子を伺っていた茜にも、「構わん、好きにやれ。」と心底愉快そうに笑う。

 その声に背中を押されるように、茜は恐る恐る斎を真似るように絵筆で大きなキャンバスのような襖に色を乗せた。一度色を付けてしまえば、もう何も迷う事はない。茜は襖の余白を埋めるように、大胆に絵を描いていく。

 幽世で出逢った様々な妖たちを、一人ずつ思い出しながら絵筆を動かす。狐の翠に、九尾の旦那様。傘職人の唐々に、画材屋の三毛猫に爺さん猫。似顔絵を描かせてくれた河童や、催花と玄天の夫婦。龍一族の清澄に、斎のお爺さんでもある雲霄。そして、半妖の絵師として唯一無二の絵を描く斎。

 気付けば、茜が向き合っている襖には百鬼夜行のようにたくさんの妖たちで溢れていた。以前、斎と似顔絵の屋台をやって培われた画力のおかげか、妖一人、一人の特徴をしっかりと掴んでいて、襖の中で自由に過ごす妖たちを自分で描いたのにも関わらず、なんとも愉快な絵だと茜は微笑んだ。

 そんな茜の元へと、何処からか一匹の錦鯉が泳いでくる。白に朱色が混ざった美しい錦鯉は、最初に幽世の世界に来た時に斎の部屋で見たものと良く似ていて、懐かしさが込み上げてくる。錦鯉はあの時のように茜の周りを一周すると、水の無い部屋の中を優雅に泳いでいった。

 斎を見れば、ちょうど真っ白な襖に朱色の錦鯉を描き終えたようだった。異形の右手に持った絵筆で錦鯉を優しく撫でると、一雫の水滴が落ちた水面のように襖が揺れる。次第に錦鯉からは淡い光が溢れ、あっという間に錦鯉は襖の中から飛び出した。

 何から解き放たれるように尾鰭を靡かせて、自由に泳ぎゆく姿に強く胸を打たれる。部屋の中をくるくると回る二匹の美しい錦鯉の姿は、とても幻想的なものだ。

 錦鯉から斎に視線を向ければ、斎の瞳は茜へと向いていた。夜空のように澄んだ瞳に、茜の胸は切なく締め付けられる。斎の描く絵に魅了されて、彼に憧れた気持ちは、共に時間を過ごすうちに少しずつ形を変えていった。胸の内にある、溢れ出てしまいそうな苦しさを今にでも吐き出してしまいたくなる。

 目の前の斎に向かって、素直に好きだと言ってしまいたくなる。それをなんとか押し込んで、茜は斎に笑った。

 それから二人は特に題材を決めることもなく、共に絵筆をとって一つの絵を描いた。襖に浮かび上がった茜色と藍色を混ぜて描かれた景色は、清澄の背中で共に見た夕焼け空のように美しい。かけがえのない時間だった。その時間はあまりにも楽しくて、いつか終わりが来てしまう事に強烈な寂しさを茜に与える。それでも、今までの思い出やこの場所で芽生えた感情をぶつけるように思いっ切り絵を描いた。たくさん、たくさん絵を描いて、茜は斎と別れの挨拶をしたのだ。

 絵を描き終えた二人は、雲霄に連れられて城の地下まで移動する。どうやら、幽世と現世を繋ぐ門はこの城の地下に存在しているらしい。

 一つの襖の先に延々と続く階段をひたすらに降りて、薄暗い迷路のような回廊を進んだ先に、家一軒入ってしまいそうな程に巨大な門が現れた。これが何度も話に聞いた、幽世と現世の二つの世界を繋ぐ門なのだろう。

 雲霄がその門に触れると、扉が徐々に空間を震わせながら開かれていく。開かれたその先は、眩しい光が溢れ出していて何も見えない。真っ白な空間に、茜は少しだけ怖気付いた。

 心許ない茜の様子に、雲霄は安心させるように「この先は、現世へと繋がっている。元に居た場所に戻るだけだ。何も案ずることはない。」と告げた。その言葉に頷いて、茜は少しずつ門の前へと足を進める。

「さらばだ、茜殿。」と一言告げる雲霄に、「いずれ、また会える事を願っています。」と清澄も茜に向かって別れを言った。二人の別れを受け取りながら、最後に斎を見つめる。

「茜、またな。」

「うん、またね。」

 その言葉に涙が溢れそうになったのを必死に耐えて、茜は笑顔で返事をした。楽しかった時間も、いつかは終わりが来てしまう。再び会う時まで、暫しのお別れだ。そして次第に記憶が鮮明さを無くして、いつかは消えてしまったとしても、この胸に走る痛みを忘れる事はきっと出来ないだろう。そうならば、良い。

 茜は覚悟を決めて、光の中へと足を踏み入れた。












「…茜!」

 ぼやける視界の中で誰が、自分の名前を呼んでいる。とても強く感情の乗った声は少し騒がしくて、混沌とする茜の意識を引き上げるようだった。

「…茜!しっかりしなさい!」

 喝を入れるように聞こえた声に、ハッと目を覚ます。すると、真っ白な天井と一人の女性が茜の視界に入った。女性は目を覚ました茜を見て、「あぁっ…!良かった!気が付いたのね!」と心底安心したように胸を撫で下ろした。

 そうしたのも束の間、女性は慌ただしくベッドの横にあるボタンを押したり、スマホを使って何処かへ連絡したりと忙しなく動き出した。そして直ぐに茜の元へと視線を戻して、泣き出してしまいそうな程に顔を歪める。

「修学旅行先で茜が行方不明になったって、先生から連絡貰って…本当に、どうしようかと…」

 そう吐き出した女性の両手が震えていて、とても儚く思えた。茜は目の前の女性に困惑しながらも、頭の中を整理する。確かにあの時、茜は幽世と現世を繋ぐ門を通った筈だ。そして気付いたら、このベッドの上で寝ていた。少し観察するように部屋の中を見渡せば、天井も壁も真っ白で何処か消毒のような匂いが漂うそこは病室のようだった。

「でも、本当に無事で良かった…!」

 女性はそう言うと、今だに混乱の渦中にあった茜をベッドの上で抱きしめる。それを戸惑いながらも、茜は黙って受け入れる事しか出来ない。女性の温かな温もりが、茜に移るように伝わって自然と肩の力が抜けた。

 幽世で斎に抱きしめられた時とは違い、何処か懐かしいその包容を茜は知っていた。

「…お母さん?」

 ふと溢れた言葉に、茜は自分で驚く。雷に撃たれたような衝撃が走り、「どうかした?気分でも悪い?」と抱きしめていた身体を離して、茜を伺ってくる女性を呆然とした顔で見つめる。

 何故、今まで忘れていたのだろう。

 自分に良く似た顔立ち、そして茜の事を誰よりも心配してくれている女性は茜の母親だった。消えていた記憶が徐々に戻っていくように、頭の中が再び混乱する。斎に両親が居たように、茜にも大切な両親が居る。その記憶をすっかり無くしていた事が、酷く悲しかった。

 幽世に居た時、現世に戻れなくても良いと思っていた。現世の事を思い返した時に、悲しくて寂しい記憶しか思い出せなかった。嫌な記憶だけが強く残り、本当に大事な記憶は手からすり抜けてゆくように儚くて、自分自身意識してないと気付けない。

 以前は斎に会えなくなるくらいならば、現世を捨てる覚悟さえあったにも関わらず、ずっと忘れていた温もりに酷く安心する。こんな温かな存在を忘れてしまうなんて、自分はなんて薄情者だろう。閉じた瞳から溢れ出た涙に、茜はこの選択が間違いではなかったのだと知った。

 母の前で散々泣いた後、茜は今の自分の状況について説明を受けた。茜はあの寺の雲龍図を拝観している最中に、突然姿を消したらしい。案内人のおばさんは隣に居た茜がいつの間にか消えていた事に気付いて、暫く寺の中を探してくれたようだが茜は何処にもおらず、ついに姿を見付ける事が出来なかったようだ。

 心配した案内人のおばさんは、茜の着ていた制服を調べて学校へと連絡を入れてくれたらしく、その連絡を受けた学校が茜の担任の先生へ連絡し、担任の先生も茜が居なくなった寺を探してくれたみたいだ。それから茜は三日間見つからず、修学旅行も終了して他の生徒たちは皆学校へと戻っているらしい。

 そして、大人たちが茜を探して三日後。茜はあの寺の法堂、雲龍図の真下で倒れていたらしい。何度も探した筈の場所に突然現れた茜に、寺の案内人のおばさんは驚いて慌てふためき、急いでまた学校へと連絡を入れたようだ。当時意識の無かった茜は、そのまま近くの病院に運び込まれて今に至るらしい。

「変な羽織着て、髪も短くなって…!本当に何があったの!?」

「髪…?」

 母の言葉にふと視線を自分の髪に向ければ、以前よりも少し短くなった毛先が茜の視界で揺れていた。そういえば、別れの間際に茜は斎が逢いに来てくれる事を信じて己の髪を託したのだ。斎の父親が雲龍図を描く絵の具に、何故か斎の母親の鬣を混ぜたように。そして、その鬣に宿った妖力が斎に繋がったように。人間の茜に妖力は無いけれど、何故か茜はそうしたいと思ったのだ。

 母親の疑問には、上手く答えらず口籠る。機から見れば重いと思われるような行為だけど、これは茜とって願懸けのようなものでもあった。いつか、斎にまた再会出来るようにと願いを込めて…