漆黒に塗られた威圧感のある見た目とは裏腹に、城内は何とも簡素な作りだった。襖や天井に華美な装飾などは一切無く、無地の襖と木目のシンプルな天井と床。遊び心の一つも見当たらない城内の雰囲気には、何処か窮屈感を覚える。そして、不思議と茜たちはこの広い城内で誰とも遭遇する事は無かった。
何段も続く階段を登り、最上階の部屋へと繋がる大きな襖を前にして清澄が足を止める。
「当主様、お連れいたしました。」
「入れ。」
部屋の中から聞こえて来た声は、年を召された男性のように低く掠れた声だった。その声に、遠慮なく襖を開いた清澄に続いて部屋に足を踏み入れると、室内には長い白髪を背中に流し、頭には立派な角が二本生えた一人の男が居た。見た目の年齢だと六〇から七〇歳くらいに見える男は、清澄や斎の右手と同じように、白い肌の所々に鱗が張り付いている。
清澄に『当主様』と呼ばれた男は、鋭い金色の瞳で部屋に入って来た茜と斎に対して視線を向けた。そして斎を目にした瞬間、目元の皺を一層深くして瞳を柔らげるように細めた。
「よう来たな、斎。」
その声は酷く優しさを含んでいて、緊張で肩に入っていた力も無意識に抜けていく。斎は目の前の男を見ると、少し目を見開いてから小さく呟いた。
「…爺ちゃん。」
斎の発言に茜は驚いて、思わず目の前の男を見た。斎に『爺ちゃん』と呼ばれた男は、口角を上げて微笑みながら斎を見つめている。「大きくなったな。」と何処か懐かしみながら声を掛ける姿は、まさに孫を前にした祖父の姿そのものだった。
「斎のお爺さん…?」
二人の会話を聞きながら、茜は混乱していた。確か半妖の斎を認めなかったのは、龍一族の当主であったと聞いている。しかし、当主は斎のお爺さんであり、二人のやり取りを見る限りそこまで関係が悪いようには見えなかった。
心配そうに二人を眺める茜に、清澄が分かりやすく説明をしてくれる。
「以前、斎様を妖だとお認めにならなかった龍一族の当主は、二五〇年前に亡くなりました。そして、龍一族の現当主様は、斎様のお爺様にあたります。」
「…亡くなった?」
「はい。世代交代というやつですね。元々、龍一族は実力主義の風習が強く、一族の血を強く引く事に執着し、妖として強い妖力が求められてきました。それ故に前当主は気性が荒く、半妖の斎様をお認めにならなかったのです。そして、他の龍一族の者たちもそれは同じでした。仮に現当主様でなければ、今この瞬間、人間の茜様にも危害を加えていたかもしれません。」
「えっ!?」
知らなかった龍一族の気性の荒さに、茜はゾッとする。もし、今の当主が斎のお爺さんでなければ、この龍一族の城内でちゃんと生きているのかも怪しいくらいだ。顔が引き攣る茜に、清澄は苦笑して「九尾様も、そんな龍一族を嫌っていましたがね。」と付け足すように言った。
「しかし、現当主様は斎様の件もあり、国を治める者がそんな事ではいけないと龍一族内を変えようとしました。一族の血筋に囚われた弱さを嫌う狭い思考や、己以外の存在を認められない傲慢さに嫌気が差していたようでした。きっと斎様と、斎の母である美空様のことがよっぽど悲しかったのでしょう。」
茜は清澄の話を聞いて、現当主が斎と斎の母が去った後で、必死に龍一族を変えようとしていたのだと知った。過去に斎が傷つけられたこの場所を、例えどんなに時間がかかったとしても、また斎が戻って来ても大丈夫なように斎のお爺さんは変えてくれたのではないかと茜は思う。
「そして、二五〇年前にその前当主も亡くなり、一気に龍一族は変わっていきました。今では、現当主様の方針に従う者も多くいます。」
「そうなんですね。」
今の龍一族の状態を知って、茜は少し安堵した。
清澄と共に、今だに会話をしている斎と斎のお爺さんを微笑ましげに眺めていれば、不意にまた、頭が霧がかかったようにボーッとしてくる。
まるで水の中に居るように彼らの話し声は遠ざかり、視界は徐々にぼやけていく。暗く抜け出せない迷路に居るような、とても心細い感覚に襲われた。この瞬間、知らぬ間に自分の中にある現世での記憶が失われていくのだろう。その事に、茜は少なからず恐怖を覚えた。
「…茜様!」
「おい!茜、大丈夫か!?」
茜の側に居た清澄の声に、当主と話をしていた斎が急いで茜の元に駆け付ける。心配そうに茜を見つめる斎の夜空のように澄んだ瞳に、茜は少しずつ意識を取り戻していった。
「…うん。もう、大丈夫だよ。」
そう声を掛ければ、斎はホッと安堵したように息を吐く。ぼやけていた視界はクリアになり、正常に戻った頭は何処かスッキリとしていた。きっと茜は幽世に長く留まることで、このように少しずつ記憶を失っていくのだろう。けれど、既に無くしてしまった記憶が、一体どのような記憶なのか茜自身には見当もつかなかった。
そんな様子を黙って見ていた斎のお爺さんは、改めて茜に向けて口を開く。
「九尾から話は聞いている、茜殿。挨拶が遅れてすまない、私は斎の祖父であり、龍一族の当主をしている雲霄だ。」
それに対して少し茜は緊張しながらも、「立原茜です。」と己の名前を告げた。茜の緊張感を感じ取った雲霄は、茜を安心させるように目元の皺を深くして瞳を細める。その優しさは何処か斎と似ていて、茜は少し心が軽くなった。
「今のそなたを見る限り、思ったよりも症状が進んでいるようだ。幽世と現世を繋ぐ門の封印は、ここ数日で殆ど解除した。今直ぐにでも現世へ戻れば、既に失われてしまった記憶も徐々に戻るだろう。」
雲霄の言葉に、茜は思わず口籠った。確かに先程、頭がボーッとし始めた時に、自分の記憶が失われていくことを少し怖く感じた。けれど、やはり今の茜には幽世に戻れなくなる事の方が恐ろしく感じるのだ。斎と二度と会えなくなってしまうなんて、考えたくもなかった。
「爺ちゃん。その事なんだけど、詳しく聞きたい事があるんだ。」
「何だ?」
そんな茜に、助け船を出すように斎が声を上げた。
「茜が現世に戻ったとして、また幽世に来ることは出来ねぇのか?幽世と現世を繋ぐ門を封印しなくちゃ、本当に駄目なのかよ?」
真剣な表情で話をする斎に続くように、茜も雲霄に向かって口を開いた。
「私、現世に戻りたくないです。現世での記憶が無くなったとしても、幽世に二度と戻れなくなるのなら、このまま此処に居たいです。」
今の感情をしっかりと伝えた茜に、雲霄は金色の瞳を向けた。表情を決して崩さない姿は、一体何を考えているのか全く分からない。
「そもそも、何で門は封印されたんだよ?昔は各国々に幽世と現世を繋ぐ門が存在したって、九尾の旦那様から聞いた。それに茜が幽世に来ることになった雲龍図の絵だって、分からない事ばかりなんだ。」
「……」
「何か知っている事があるなら、教えてくれ。頼む、爺ちゃん。」
黙ったまま斎の言い分を聞いている雲霄に、斎は頭を下げた。そんな斎に合わせて、茜も慌てて頭を下げる。二人を静かに見つめていた雲霄は、何処か懐かしむように瞳を細めると強くその目を閉じた。暫くして、何か決意をするように金色の瞳を再び開くと、重く閉じていた口で話し始めた。
「頭を上げよ。そんな事しなくても、可愛い孫の為なら何でも話そう。」
斎を見つめる雲霄の瞳は、少し切なさを含んでいた。その様子を見守っていた清澄も、何かを堪えるような表情をしている。
「斎には随分と苦労をかけたからな、全てを知る権利がある。」
「全てを知る権利…?」
雲霄の言葉に、斎は不思議そうに眉を寄せた。全てを知るとは、一体どうゆう事なのだろうか。茜も斎の隣で、静かに雲霄の言葉を待った。
「昔は幽世と現世を繋ぐ門が各国々に存在し、その全てを龍一族が管理していたとは知っているな。」
「あぁ。」
「私の娘、美空。お前の母も、その役目を背負っていた。この国から海を渡って、遠く離れた九尾の治める島国、その国にある門を美空が管理していたのだ。」
「…そうだったのか。」
斎も初めて知った事実に、少し納得したように呟いた。そんな斎の様子を見ながら、雲霄は話を続ける。
「そして、ある日。その国にある門を通って、幽世へと迷い込んだ人間の男が現れた。そいつがお前の父親、幽山だ。」
「…俺の父さん?」
雲霄から語られた言葉に、斎は大きく目を見開いた。その横で、茜も密かに息を呑む。これまで斎の母の話は薄っすらと聞いた事があるけれど、不思議と斎の父の話は誰からも聞いた事が無かった。今のところ、半妖である斎の父は人間だという事しか茜は知らない。
そして、茜と同じように驚いている斎の反応を見る限り、斎も自分の父親の事をよく知らないように思えた。もしかしたら、斎は半妖だという事で妖だと認められずにいたので、龍一族内では斎の父について語られる事をタブーとされていたのかもしれない。
「ちょっと、待ってくれ。今まで一度も父さんの話なんて聞いた事も無かったけど、何でこの話しの流れで俺の父さんが出てくるんだよ?」
「…お前の知りたい事は全て、お前の両親に関係があるのだ。」
その一言に、斎も茜も大きく目を見開いて驚いた。茜が幽世にやって来る事になった理由に、斎の両親がどう関係しているというのだろうか。動揺が走る室内で、今まで成り行きを見守っていた清澄が雲霄に向かって口を開く。
「当主様。申し遅れましたが、九尾様より補足の言葉です。茜様を呑み込んだ雲龍図は、幽山様の絵で間違いはないかと。茜様が幽世にやって来た当初、幽山様の気配を纏っていたとおっしゃっていました。」
「…やはりな。」
静かに進んで行く二人の会話に、斎と茜は再び混乱に落とされた。混乱する頭で、清澄の言葉をなんとか理解する。話を聞くに、どうやら茜が呑み込まれた寺の雲龍図を描いたのは斎の父らしい。
記憶を辿るように、意識して当時の事を思い返す。幽世にやって来る前、とても絵とは思えない本物の龍の姿に茜は恐怖した。確か、寺の案内人のおばさんは、そんな雲龍図を約四〇〇年前に描かれたものだと説明していた気がする。
とんでもない事実に、もう何がなんだか分からなくなりそうだった。
「おい!それって、どうゆう事なんだ?何で俺の父さんの気配を、茜から感じるんだよ?」
斎も驚きを隠せないようで、雲霄に向けて疑問をぶつけるように声を上げた。それに対して雲霄は、「少し落ち着け、今から話す。」と至極冷静に返す。
「…幽世に迷い込んだ人間、幽山を、美空は己の業務に則り、現世へと戻そうとした。しかし、困った事に幽山はそんな美空を見初めてしまい、現世へと戻る事を酷く嫌がったそうだ。何度幽山に冷たく接しても、奴はめげずに美空へと気持ちを伝え続けたらしい。そして、いつの間にか美空もそんな幽山に特別な気持ちを持つようになった。」
雲霄の口から、斎の両親の出逢いが語られていく。幽世の世界で出逢って惹かれていく二人に、茜はなんだか他人事に思えないような気がした。
「幽山は、腕の良い絵師でな。」
「…絵師?」
「あぁ。お前と同じように、絵を描く事を生き甲斐にしているような男だった。幽山は初めて見る幽世に深く影響されて、この世界でも多くの絵を描いたのだ。その絵に魅了された妖たちは、徐々に人間の幽山を受け入れていった。そして美空も、幽山の描く絵を大層気に入っていた。」
斎は自分の父が絵師だと知った瞬間、夜空のように澄んだ瞳を輝かせた。雲霄が語る斎の父は、まるで今の斎のように絵を描いて多くの者を魅了していたらしい。その事実がなんだか嬉しくて、茜は自然と口角が上がる。斎の絵の才能は、絵師だった父親からの贈り物でもあるのかもしれない。
「美空はそんな幽山を現世へと帰さなければならない立場だったが、幽山を想う気持ちをどうしても消す事が出来ず、二人は密かに共に生きる道を選んだのだ。その当初、幽山は幽世に長く留まり過ぎて既に現世での記憶が曖昧になっていたが、それを覚悟で幽世に残った。そして月日は流れ、美空は幽山の子を身籠った。斎、それがお前だ。」
雲霄はそう言うと、斎を真っ直ぐに見つめた。斎を通して、斎の両親に思いを馳せるような雲霄の切なげな表情に胸を締め付けられる。そんな力強い視線を受けながらも、斎は目を見開いて呆然としていた。その様子は斎自身、初めて聞く事柄に酷く驚いているように見える。
人間と妖、種族の異なる二人の愛によって斎は産まれてきたのだ。
「美空がお前を身籠ってから、私はその事実を知った。当時の龍一族では龍一族以外の結婚は許されておらず、相手が人間という事もあり、この件は何としても隠し通さなければならなかった。」
そう語る雲霄に、茜は先程清澄から聞いた龍一族の話を思い出す。一族の血筋に囚われ気性の荒い龍一族の前当主から、二人を、そして当時お腹に居た斎を守る為にも、雲霄はこの事を必死に隠そうと決意したのだろう。
「しかし、それから暫くして、他の龍一族の者が美空を訪ねて島国に来た時に二人の事が発覚してしまったのだ。直ぐさま他の龍一族の者によって、二人は引き裂かれた。抵抗した幽山は強制的に現世へと帰されて、二人の事を知った当時の龍一族の当主は激高し、幽世と現世を繋ぐ全ての門を封印したのだ。それ以来、二度と二人は会う事は無かった。」
「…そんなっ!酷い!」
悲しい結末を迎えた二人に、思わず声を上げる。雲霄より語られた斎の両親の話は、茜にとってあまりにもショックだった。本来ならば出逢う事も無かった二人が、種族の垣根を越えて共に生きようと誓ったのにこんな終わりはあんまりだと思った。
龍一族の前当主へのやり場のない怒りを、茜は上手く消化することが出来ない。お腹の中に居た斎と共に残された斎の母の事、そしてきっと斎に会いたいと思っていただろう斎の父の事を考えると、とてもやり切れない思いだった。
「…まさか、その時から門は封印されているのか!?」
「そうだ。けれど元々、幽世と現世を繋ぐ門には問題もあった。…この際、お前たちには酷だと思うが、言わない方が酷なので全て話す。幽世から現世へ戻ると、現世に居た頃の記憶は徐々に戻るが、反対に幽世に居た頃の記憶は消えていってしまうのだ。そのまた逆も、しかり。これは、双方の世界の性質上、どうにもならない事でもある。」
「嘘っ…!」
雲霄の言葉に、茜は再び深い絶望に落とされる。ならば、尚更現世へと戻りたくない。幽世での記憶を失ってしまうくらいなら、二度と現世に戻れなくても良いと茜は本気で思った。それほどに、この世界で過ごした日々は、茜にとって本当に特別なものだったからだ。いつか、斎の事を忘れてしまうかもしれないなんて絶対に嫌だ。
暗い表情で俯いた茜を一瞥してから、雲霄は話を続ける。
「…当時は幽山のように現世から幽世へと迷い込んでしまう人間も多く、その大体は妖に食われたり、彷徨っているうちに現世の記憶を無くして戻れなくなる者も居た。その逆に、現世に行ったっきり幽世の記憶を無し、現世で好き放題に暴れ回っている妖も多く居た。この門があるが故に、双方の世界の秩序が乱れていたのだ。」
考えた事も無かったけれど、二つの異なる世界を繋ぐというのは、確かにデメリットや大変な面があるのだろう。
「そして、古の頃より門を管理してきた我ら龍一族にも問題があった。龍一族は元より、子を産むのが難しい種族でもある。しかし、年々その数は減っていってな。各国々に存在する全ての門を管理できる程、龍一族の数が居ないのだ。」
以前、龍一族の出生率の低さは斎から聞いていた。そして雲霄の話を聞くに、この龍一族の城へやって来てから、茜たちは他の龍一族に殆ど遭遇していない事にも納得がいった。
「それに、これを見よ。」
そう言うと雲霄は、着ていた着物の合せをガバッと勢い良く開けて、隠れていた上半身を露わにした。
「これはっ!?」
そこには雲霄の肌を覆うように、どす黒い色をした痣が蛇のように身体に巻き付いていた。痣の周辺の肌は焦げたように爛れていて、まるで呪いのような痣は見ていてとても痛々しい。
雲霄は己の肌を見て、情けないように嘲笑った。
「今回、茜殿を現世に帰すべく、一時的に門の封印を解除しただけでこの様だ。我ら一族は、数だけでなく力も年々失われていっている。私が龍一族の在り方を変えてしまったからか、一族としての力は年々衰えている一方だ。そして、ようやく気付いた。かつての前当主のような、血筋に囚われた強い妖力重視の思考がこれまで龍一族を繁栄させていたのだと。もう、我らには古の頃より任された役目さえ果たせぬのだ。」
斎の件があって、血筋を重視した強い妖力を尊重する龍一族の生き方を必死に変えようとした雲霄。けれど、それを変えた代償はあまりにも大きかった。龍一族全体の妖力の低下に伴り、元より低くかった出生率もより一層低くなった。そして現在、幽世と現世を繋ぐ門を管理する事さえも、難しい状況になってしまったのだ。
生きやすさを求める事はある意味、生物としての強さを捨てることなのかもしれない。それは一種の、世界の理のようにも感じた。
「確かに、門を封印したのは前当主の勝手な怒りがあったかもしれん。だが、そうせざる負えない理由もあった。そして、私がそれを加速させてしまったのだ。申し訳ないがそれらの理由により、茜殿を現世に帰してから再び門の封印を解くことは出来ぬ。」
「…っ!」
低く掠れた声が、重く茜にのしかかる。雲霄の話しを聞いて、それでも現世に戻りたくないなどと我儘を言える程、茜の神経は図太くは無かった。雲霄は茜を現世に戻す為に、身体に無理をしてまでも門の封印を一時的に解除してくれたのだ。その気持ちをとても無駄には出来ない。
けれど、現世に戻ってしまえば、斎にはもう会えないだろう。茜の帰りを待っていてくれる翠にも旦那様にも、絵を描いて繋がった妖たちにも二度と会う事は出来ないのだ。そして、その温かな記憶さえもいずれは失われてしまう。それは、あまりにも悲しくて、心が張り裂けそうに痛かった。
「門の封印を解くことは、難しいっていう理由は分かった。…だが、茜が門を通らずに幽世に来れた理由は何なんだ?俺の父さんが描いたっていう、雲龍図が原因なのか?」
斎の指摘に、雲霄は再び口を開く。
「…此処からは、先程清澄が言っていた九尾の話を含めて考えたあくまでも私の憶測の話だ。」
「憶測?」
「あぁ、この話を確証するものは無い。」
きっぱりとそう言い切ったのにも関わらず、何処か自信ありげに話す雲霄に、斎も茜も首を傾げる。ずっと、気になっていたあの雲龍図の正体が今明かされようとしていた。
「龍一族により幽世から現世へ戻された幽山は、徐々に幽世に居た頃の記憶を失い、現世で元の絵師としての生活に戻ったのだろう。凄まじい画力を持った絵師だったからな、それなりに依頼もこなしていたはずた。その一つが、茜殿が拝観したという雲龍図の依頼だったのだろう。」
「幽山は幽世から追い出される際、美空の鬣で編まれた龍の衣を羽織っていた。今そなたらが、羽織っているようにな。…龍の衣は、妖力が込められた特殊な衣だ。幽山が何を考えたのか知らないが、おそらく奴はその衣を解き、美空の鬣を絵の具に混ぜたのだと思われる。」
話に出て来た『龍の衣』という単語に、茜は思わず自身が羽織っていた龍の衣をまじまじと見る。清澄に渡されたそれは、ふんわりと空気のように軽くて光沢感のある不思議な素材だった。
「絵の具に?何故そんな事を…?」
「さぁな。ただ、そう考えなければ辻褄が合わんのだ。思えば、奴のする事は昔から奇想天外な事ばかりだった。」
そう、呆れたように話す雲霄の口角は緩く上がっていた。その様子に会った事も無い斎の父を、妙に近い存在に感じた。
「ともかく幽山は、美空の鬣が混ぜられた絵の具を使い、長い間一頭の龍に向き合って魂を注いだのだ。幽山の魂を込めた絵は美空の妖力が宿り、何百年の時を経て本物の妖となったのだ。そしてちょうど、その雲龍図が妖となった瞬間に立ち合った人間が茜殿だ。」
「えっ!?私ですか?」
雲龍図の正体を聞き、突然呼ばれた自分の名前に茜は弾けるように顔を上げた。
「左様。妖となった龍は、絵の具に混ぜられた僅かな美空の妖力を辿り、幽世の斎の元へと飛んだのだろう。きっと、それに茜殿は巻き込まれたのだ。」
あくまでも憶測だという雲霄の話を聞きながらも、我ながら、なんて凄いタイミングであの雲龍図を拝観したものだと茜は舌を巻いた。
そんな偶然があり得るのかと斎は、とても信じられないというように眉を顰めている。
「…飛ぶ?」
「あぁ。これは龍一族に伝わる古い言い伝えで、妖力の高き龍は身体一つで異なる世を飛び越える事が出来るという話がある。…そうゆう事もあり、元々の龍一族は強い妖力や血筋をあれ程までに重視していたのかもしれないな。」
そう話した雲霄は自分の行ってしまった事を、少し責めるように顔を歪ませた。その古い言い伝えが本当だとするならば、斎の父は絵を通してとんでもない妖をこの世に産み出した事になる。
「俄かに信じ難いが、幽山は我ら龍一族を超えるほどに強い妖力を持った妖を、何百年という時を越えて産み出したのだ。本当に奴の絵は、人智を越えたものだろう。」
明かされた雲龍図の正体に、茜は身体中が震えた。人間である事を理由に幽世を追い出されて、記憶さえも失った斎の父が長い時を経て妖を産み出した。そして、その妖が茜を半妖の斎の元へと繋いだのだ。斎は実の父のように、絵師となって己にしか描けない唯一無二の作品を産み出し続けている。たくさんの事柄が繋がって、今になっている。茜は、その事を強く実感した。
「まるで嘘のような話だが、雲龍図に呑まれて斎の絵から出てきた茜殿がこの幽世に居る。その事が答えなのだろう。」
幽世から追い出されてしまった幽山の、それからの事は誰も知らない。けれど、茜から不思議な雲龍図の話を聞いた妖たちは、皆きっとその雲龍図は彼が描いた絵だと信じているのだ。そして、茜も今語られた話を全て信じたいと思った。
「…つまり、龍一族の奴らを越える程の強い妖力を持った妖を俺が産み出せれば、全て話は丸く治まるって事だよな?」
「えっ!?」
これまで静かに話を聞いていた斎は、顎に異形の右手を添えて、今までの考えを吐き出すように呟いた。突然の斎の発言に、驚いて思わず茜は視線を向ける。
「俺が、幽世と現世を飛び越えられる龍を描けば、現世に戻った茜にもまた会えるって事だろ。」
「…幽山のした事を考えれば、それも不可能ではない。ただ、茜殿が現世に戻れぬ状態で此処に留まっているという事は、幽山の描いた龍は一時的にその力を使えたという事だ。つまり、何度も二つの世界を移動出来る程に万能な者ではない。その意味が分かるな?」
「あぁ、俺は父さんの絵を越える龍を描く。」
何の迷いもなくそう言い切った斎に、茜は胸が熱くなる。強い意志を宿した澄んだ瞳には、一点の曇りも浮かんでいなかった。まさに、もう既に斎は一つの覚悟を決めていたのだろう。その瞳を見た雲霄は、緩く口角を上げる。
「まぁ、これで私から伝えるべき事は全て伝えた。これからどうすべきかは、二人で話して決めるが良い。」
そう言って、雲霄と清澄は二人を残して部屋を後にした。
何段も続く階段を登り、最上階の部屋へと繋がる大きな襖を前にして清澄が足を止める。
「当主様、お連れいたしました。」
「入れ。」
部屋の中から聞こえて来た声は、年を召された男性のように低く掠れた声だった。その声に、遠慮なく襖を開いた清澄に続いて部屋に足を踏み入れると、室内には長い白髪を背中に流し、頭には立派な角が二本生えた一人の男が居た。見た目の年齢だと六〇から七〇歳くらいに見える男は、清澄や斎の右手と同じように、白い肌の所々に鱗が張り付いている。
清澄に『当主様』と呼ばれた男は、鋭い金色の瞳で部屋に入って来た茜と斎に対して視線を向けた。そして斎を目にした瞬間、目元の皺を一層深くして瞳を柔らげるように細めた。
「よう来たな、斎。」
その声は酷く優しさを含んでいて、緊張で肩に入っていた力も無意識に抜けていく。斎は目の前の男を見ると、少し目を見開いてから小さく呟いた。
「…爺ちゃん。」
斎の発言に茜は驚いて、思わず目の前の男を見た。斎に『爺ちゃん』と呼ばれた男は、口角を上げて微笑みながら斎を見つめている。「大きくなったな。」と何処か懐かしみながら声を掛ける姿は、まさに孫を前にした祖父の姿そのものだった。
「斎のお爺さん…?」
二人の会話を聞きながら、茜は混乱していた。確か半妖の斎を認めなかったのは、龍一族の当主であったと聞いている。しかし、当主は斎のお爺さんであり、二人のやり取りを見る限りそこまで関係が悪いようには見えなかった。
心配そうに二人を眺める茜に、清澄が分かりやすく説明をしてくれる。
「以前、斎様を妖だとお認めにならなかった龍一族の当主は、二五〇年前に亡くなりました。そして、龍一族の現当主様は、斎様のお爺様にあたります。」
「…亡くなった?」
「はい。世代交代というやつですね。元々、龍一族は実力主義の風習が強く、一族の血を強く引く事に執着し、妖として強い妖力が求められてきました。それ故に前当主は気性が荒く、半妖の斎様をお認めにならなかったのです。そして、他の龍一族の者たちもそれは同じでした。仮に現当主様でなければ、今この瞬間、人間の茜様にも危害を加えていたかもしれません。」
「えっ!?」
知らなかった龍一族の気性の荒さに、茜はゾッとする。もし、今の当主が斎のお爺さんでなければ、この龍一族の城内でちゃんと生きているのかも怪しいくらいだ。顔が引き攣る茜に、清澄は苦笑して「九尾様も、そんな龍一族を嫌っていましたがね。」と付け足すように言った。
「しかし、現当主様は斎様の件もあり、国を治める者がそんな事ではいけないと龍一族内を変えようとしました。一族の血筋に囚われた弱さを嫌う狭い思考や、己以外の存在を認められない傲慢さに嫌気が差していたようでした。きっと斎様と、斎の母である美空様のことがよっぽど悲しかったのでしょう。」
茜は清澄の話を聞いて、現当主が斎と斎の母が去った後で、必死に龍一族を変えようとしていたのだと知った。過去に斎が傷つけられたこの場所を、例えどんなに時間がかかったとしても、また斎が戻って来ても大丈夫なように斎のお爺さんは変えてくれたのではないかと茜は思う。
「そして、二五〇年前にその前当主も亡くなり、一気に龍一族は変わっていきました。今では、現当主様の方針に従う者も多くいます。」
「そうなんですね。」
今の龍一族の状態を知って、茜は少し安堵した。
清澄と共に、今だに会話をしている斎と斎のお爺さんを微笑ましげに眺めていれば、不意にまた、頭が霧がかかったようにボーッとしてくる。
まるで水の中に居るように彼らの話し声は遠ざかり、視界は徐々にぼやけていく。暗く抜け出せない迷路に居るような、とても心細い感覚に襲われた。この瞬間、知らぬ間に自分の中にある現世での記憶が失われていくのだろう。その事に、茜は少なからず恐怖を覚えた。
「…茜様!」
「おい!茜、大丈夫か!?」
茜の側に居た清澄の声に、当主と話をしていた斎が急いで茜の元に駆け付ける。心配そうに茜を見つめる斎の夜空のように澄んだ瞳に、茜は少しずつ意識を取り戻していった。
「…うん。もう、大丈夫だよ。」
そう声を掛ければ、斎はホッと安堵したように息を吐く。ぼやけていた視界はクリアになり、正常に戻った頭は何処かスッキリとしていた。きっと茜は幽世に長く留まることで、このように少しずつ記憶を失っていくのだろう。けれど、既に無くしてしまった記憶が、一体どのような記憶なのか茜自身には見当もつかなかった。
そんな様子を黙って見ていた斎のお爺さんは、改めて茜に向けて口を開く。
「九尾から話は聞いている、茜殿。挨拶が遅れてすまない、私は斎の祖父であり、龍一族の当主をしている雲霄だ。」
それに対して少し茜は緊張しながらも、「立原茜です。」と己の名前を告げた。茜の緊張感を感じ取った雲霄は、茜を安心させるように目元の皺を深くして瞳を細める。その優しさは何処か斎と似ていて、茜は少し心が軽くなった。
「今のそなたを見る限り、思ったよりも症状が進んでいるようだ。幽世と現世を繋ぐ門の封印は、ここ数日で殆ど解除した。今直ぐにでも現世へ戻れば、既に失われてしまった記憶も徐々に戻るだろう。」
雲霄の言葉に、茜は思わず口籠った。確かに先程、頭がボーッとし始めた時に、自分の記憶が失われていくことを少し怖く感じた。けれど、やはり今の茜には幽世に戻れなくなる事の方が恐ろしく感じるのだ。斎と二度と会えなくなってしまうなんて、考えたくもなかった。
「爺ちゃん。その事なんだけど、詳しく聞きたい事があるんだ。」
「何だ?」
そんな茜に、助け船を出すように斎が声を上げた。
「茜が現世に戻ったとして、また幽世に来ることは出来ねぇのか?幽世と現世を繋ぐ門を封印しなくちゃ、本当に駄目なのかよ?」
真剣な表情で話をする斎に続くように、茜も雲霄に向かって口を開いた。
「私、現世に戻りたくないです。現世での記憶が無くなったとしても、幽世に二度と戻れなくなるのなら、このまま此処に居たいです。」
今の感情をしっかりと伝えた茜に、雲霄は金色の瞳を向けた。表情を決して崩さない姿は、一体何を考えているのか全く分からない。
「そもそも、何で門は封印されたんだよ?昔は各国々に幽世と現世を繋ぐ門が存在したって、九尾の旦那様から聞いた。それに茜が幽世に来ることになった雲龍図の絵だって、分からない事ばかりなんだ。」
「……」
「何か知っている事があるなら、教えてくれ。頼む、爺ちゃん。」
黙ったまま斎の言い分を聞いている雲霄に、斎は頭を下げた。そんな斎に合わせて、茜も慌てて頭を下げる。二人を静かに見つめていた雲霄は、何処か懐かしむように瞳を細めると強くその目を閉じた。暫くして、何か決意をするように金色の瞳を再び開くと、重く閉じていた口で話し始めた。
「頭を上げよ。そんな事しなくても、可愛い孫の為なら何でも話そう。」
斎を見つめる雲霄の瞳は、少し切なさを含んでいた。その様子を見守っていた清澄も、何かを堪えるような表情をしている。
「斎には随分と苦労をかけたからな、全てを知る権利がある。」
「全てを知る権利…?」
雲霄の言葉に、斎は不思議そうに眉を寄せた。全てを知るとは、一体どうゆう事なのだろうか。茜も斎の隣で、静かに雲霄の言葉を待った。
「昔は幽世と現世を繋ぐ門が各国々に存在し、その全てを龍一族が管理していたとは知っているな。」
「あぁ。」
「私の娘、美空。お前の母も、その役目を背負っていた。この国から海を渡って、遠く離れた九尾の治める島国、その国にある門を美空が管理していたのだ。」
「…そうだったのか。」
斎も初めて知った事実に、少し納得したように呟いた。そんな斎の様子を見ながら、雲霄は話を続ける。
「そして、ある日。その国にある門を通って、幽世へと迷い込んだ人間の男が現れた。そいつがお前の父親、幽山だ。」
「…俺の父さん?」
雲霄から語られた言葉に、斎は大きく目を見開いた。その横で、茜も密かに息を呑む。これまで斎の母の話は薄っすらと聞いた事があるけれど、不思議と斎の父の話は誰からも聞いた事が無かった。今のところ、半妖である斎の父は人間だという事しか茜は知らない。
そして、茜と同じように驚いている斎の反応を見る限り、斎も自分の父親の事をよく知らないように思えた。もしかしたら、斎は半妖だという事で妖だと認められずにいたので、龍一族内では斎の父について語られる事をタブーとされていたのかもしれない。
「ちょっと、待ってくれ。今まで一度も父さんの話なんて聞いた事も無かったけど、何でこの話しの流れで俺の父さんが出てくるんだよ?」
「…お前の知りたい事は全て、お前の両親に関係があるのだ。」
その一言に、斎も茜も大きく目を見開いて驚いた。茜が幽世にやって来る事になった理由に、斎の両親がどう関係しているというのだろうか。動揺が走る室内で、今まで成り行きを見守っていた清澄が雲霄に向かって口を開く。
「当主様。申し遅れましたが、九尾様より補足の言葉です。茜様を呑み込んだ雲龍図は、幽山様の絵で間違いはないかと。茜様が幽世にやって来た当初、幽山様の気配を纏っていたとおっしゃっていました。」
「…やはりな。」
静かに進んで行く二人の会話に、斎と茜は再び混乱に落とされた。混乱する頭で、清澄の言葉をなんとか理解する。話を聞くに、どうやら茜が呑み込まれた寺の雲龍図を描いたのは斎の父らしい。
記憶を辿るように、意識して当時の事を思い返す。幽世にやって来る前、とても絵とは思えない本物の龍の姿に茜は恐怖した。確か、寺の案内人のおばさんは、そんな雲龍図を約四〇〇年前に描かれたものだと説明していた気がする。
とんでもない事実に、もう何がなんだか分からなくなりそうだった。
「おい!それって、どうゆう事なんだ?何で俺の父さんの気配を、茜から感じるんだよ?」
斎も驚きを隠せないようで、雲霄に向けて疑問をぶつけるように声を上げた。それに対して雲霄は、「少し落ち着け、今から話す。」と至極冷静に返す。
「…幽世に迷い込んだ人間、幽山を、美空は己の業務に則り、現世へと戻そうとした。しかし、困った事に幽山はそんな美空を見初めてしまい、現世へと戻る事を酷く嫌がったそうだ。何度幽山に冷たく接しても、奴はめげずに美空へと気持ちを伝え続けたらしい。そして、いつの間にか美空もそんな幽山に特別な気持ちを持つようになった。」
雲霄の口から、斎の両親の出逢いが語られていく。幽世の世界で出逢って惹かれていく二人に、茜はなんだか他人事に思えないような気がした。
「幽山は、腕の良い絵師でな。」
「…絵師?」
「あぁ。お前と同じように、絵を描く事を生き甲斐にしているような男だった。幽山は初めて見る幽世に深く影響されて、この世界でも多くの絵を描いたのだ。その絵に魅了された妖たちは、徐々に人間の幽山を受け入れていった。そして美空も、幽山の描く絵を大層気に入っていた。」
斎は自分の父が絵師だと知った瞬間、夜空のように澄んだ瞳を輝かせた。雲霄が語る斎の父は、まるで今の斎のように絵を描いて多くの者を魅了していたらしい。その事実がなんだか嬉しくて、茜は自然と口角が上がる。斎の絵の才能は、絵師だった父親からの贈り物でもあるのかもしれない。
「美空はそんな幽山を現世へと帰さなければならない立場だったが、幽山を想う気持ちをどうしても消す事が出来ず、二人は密かに共に生きる道を選んだのだ。その当初、幽山は幽世に長く留まり過ぎて既に現世での記憶が曖昧になっていたが、それを覚悟で幽世に残った。そして月日は流れ、美空は幽山の子を身籠った。斎、それがお前だ。」
雲霄はそう言うと、斎を真っ直ぐに見つめた。斎を通して、斎の両親に思いを馳せるような雲霄の切なげな表情に胸を締め付けられる。そんな力強い視線を受けながらも、斎は目を見開いて呆然としていた。その様子は斎自身、初めて聞く事柄に酷く驚いているように見える。
人間と妖、種族の異なる二人の愛によって斎は産まれてきたのだ。
「美空がお前を身籠ってから、私はその事実を知った。当時の龍一族では龍一族以外の結婚は許されておらず、相手が人間という事もあり、この件は何としても隠し通さなければならなかった。」
そう語る雲霄に、茜は先程清澄から聞いた龍一族の話を思い出す。一族の血筋に囚われ気性の荒い龍一族の前当主から、二人を、そして当時お腹に居た斎を守る為にも、雲霄はこの事を必死に隠そうと決意したのだろう。
「しかし、それから暫くして、他の龍一族の者が美空を訪ねて島国に来た時に二人の事が発覚してしまったのだ。直ぐさま他の龍一族の者によって、二人は引き裂かれた。抵抗した幽山は強制的に現世へと帰されて、二人の事を知った当時の龍一族の当主は激高し、幽世と現世を繋ぐ全ての門を封印したのだ。それ以来、二度と二人は会う事は無かった。」
「…そんなっ!酷い!」
悲しい結末を迎えた二人に、思わず声を上げる。雲霄より語られた斎の両親の話は、茜にとってあまりにもショックだった。本来ならば出逢う事も無かった二人が、種族の垣根を越えて共に生きようと誓ったのにこんな終わりはあんまりだと思った。
龍一族の前当主へのやり場のない怒りを、茜は上手く消化することが出来ない。お腹の中に居た斎と共に残された斎の母の事、そしてきっと斎に会いたいと思っていただろう斎の父の事を考えると、とてもやり切れない思いだった。
「…まさか、その時から門は封印されているのか!?」
「そうだ。けれど元々、幽世と現世を繋ぐ門には問題もあった。…この際、お前たちには酷だと思うが、言わない方が酷なので全て話す。幽世から現世へ戻ると、現世に居た頃の記憶は徐々に戻るが、反対に幽世に居た頃の記憶は消えていってしまうのだ。そのまた逆も、しかり。これは、双方の世界の性質上、どうにもならない事でもある。」
「嘘っ…!」
雲霄の言葉に、茜は再び深い絶望に落とされる。ならば、尚更現世へと戻りたくない。幽世での記憶を失ってしまうくらいなら、二度と現世に戻れなくても良いと茜は本気で思った。それほどに、この世界で過ごした日々は、茜にとって本当に特別なものだったからだ。いつか、斎の事を忘れてしまうかもしれないなんて絶対に嫌だ。
暗い表情で俯いた茜を一瞥してから、雲霄は話を続ける。
「…当時は幽山のように現世から幽世へと迷い込んでしまう人間も多く、その大体は妖に食われたり、彷徨っているうちに現世の記憶を無くして戻れなくなる者も居た。その逆に、現世に行ったっきり幽世の記憶を無し、現世で好き放題に暴れ回っている妖も多く居た。この門があるが故に、双方の世界の秩序が乱れていたのだ。」
考えた事も無かったけれど、二つの異なる世界を繋ぐというのは、確かにデメリットや大変な面があるのだろう。
「そして、古の頃より門を管理してきた我ら龍一族にも問題があった。龍一族は元より、子を産むのが難しい種族でもある。しかし、年々その数は減っていってな。各国々に存在する全ての門を管理できる程、龍一族の数が居ないのだ。」
以前、龍一族の出生率の低さは斎から聞いていた。そして雲霄の話を聞くに、この龍一族の城へやって来てから、茜たちは他の龍一族に殆ど遭遇していない事にも納得がいった。
「それに、これを見よ。」
そう言うと雲霄は、着ていた着物の合せをガバッと勢い良く開けて、隠れていた上半身を露わにした。
「これはっ!?」
そこには雲霄の肌を覆うように、どす黒い色をした痣が蛇のように身体に巻き付いていた。痣の周辺の肌は焦げたように爛れていて、まるで呪いのような痣は見ていてとても痛々しい。
雲霄は己の肌を見て、情けないように嘲笑った。
「今回、茜殿を現世に帰すべく、一時的に門の封印を解除しただけでこの様だ。我ら一族は、数だけでなく力も年々失われていっている。私が龍一族の在り方を変えてしまったからか、一族としての力は年々衰えている一方だ。そして、ようやく気付いた。かつての前当主のような、血筋に囚われた強い妖力重視の思考がこれまで龍一族を繁栄させていたのだと。もう、我らには古の頃より任された役目さえ果たせぬのだ。」
斎の件があって、血筋を重視した強い妖力を尊重する龍一族の生き方を必死に変えようとした雲霄。けれど、それを変えた代償はあまりにも大きかった。龍一族全体の妖力の低下に伴り、元より低くかった出生率もより一層低くなった。そして現在、幽世と現世を繋ぐ門を管理する事さえも、難しい状況になってしまったのだ。
生きやすさを求める事はある意味、生物としての強さを捨てることなのかもしれない。それは一種の、世界の理のようにも感じた。
「確かに、門を封印したのは前当主の勝手な怒りがあったかもしれん。だが、そうせざる負えない理由もあった。そして、私がそれを加速させてしまったのだ。申し訳ないがそれらの理由により、茜殿を現世に帰してから再び門の封印を解くことは出来ぬ。」
「…っ!」
低く掠れた声が、重く茜にのしかかる。雲霄の話しを聞いて、それでも現世に戻りたくないなどと我儘を言える程、茜の神経は図太くは無かった。雲霄は茜を現世に戻す為に、身体に無理をしてまでも門の封印を一時的に解除してくれたのだ。その気持ちをとても無駄には出来ない。
けれど、現世に戻ってしまえば、斎にはもう会えないだろう。茜の帰りを待っていてくれる翠にも旦那様にも、絵を描いて繋がった妖たちにも二度と会う事は出来ないのだ。そして、その温かな記憶さえもいずれは失われてしまう。それは、あまりにも悲しくて、心が張り裂けそうに痛かった。
「門の封印を解くことは、難しいっていう理由は分かった。…だが、茜が門を通らずに幽世に来れた理由は何なんだ?俺の父さんが描いたっていう、雲龍図が原因なのか?」
斎の指摘に、雲霄は再び口を開く。
「…此処からは、先程清澄が言っていた九尾の話を含めて考えたあくまでも私の憶測の話だ。」
「憶測?」
「あぁ、この話を確証するものは無い。」
きっぱりとそう言い切ったのにも関わらず、何処か自信ありげに話す雲霄に、斎も茜も首を傾げる。ずっと、気になっていたあの雲龍図の正体が今明かされようとしていた。
「龍一族により幽世から現世へ戻された幽山は、徐々に幽世に居た頃の記憶を失い、現世で元の絵師としての生活に戻ったのだろう。凄まじい画力を持った絵師だったからな、それなりに依頼もこなしていたはずた。その一つが、茜殿が拝観したという雲龍図の依頼だったのだろう。」
「幽山は幽世から追い出される際、美空の鬣で編まれた龍の衣を羽織っていた。今そなたらが、羽織っているようにな。…龍の衣は、妖力が込められた特殊な衣だ。幽山が何を考えたのか知らないが、おそらく奴はその衣を解き、美空の鬣を絵の具に混ぜたのだと思われる。」
話に出て来た『龍の衣』という単語に、茜は思わず自身が羽織っていた龍の衣をまじまじと見る。清澄に渡されたそれは、ふんわりと空気のように軽くて光沢感のある不思議な素材だった。
「絵の具に?何故そんな事を…?」
「さぁな。ただ、そう考えなければ辻褄が合わんのだ。思えば、奴のする事は昔から奇想天外な事ばかりだった。」
そう、呆れたように話す雲霄の口角は緩く上がっていた。その様子に会った事も無い斎の父を、妙に近い存在に感じた。
「ともかく幽山は、美空の鬣が混ぜられた絵の具を使い、長い間一頭の龍に向き合って魂を注いだのだ。幽山の魂を込めた絵は美空の妖力が宿り、何百年の時を経て本物の妖となったのだ。そしてちょうど、その雲龍図が妖となった瞬間に立ち合った人間が茜殿だ。」
「えっ!?私ですか?」
雲龍図の正体を聞き、突然呼ばれた自分の名前に茜は弾けるように顔を上げた。
「左様。妖となった龍は、絵の具に混ぜられた僅かな美空の妖力を辿り、幽世の斎の元へと飛んだのだろう。きっと、それに茜殿は巻き込まれたのだ。」
あくまでも憶測だという雲霄の話を聞きながらも、我ながら、なんて凄いタイミングであの雲龍図を拝観したものだと茜は舌を巻いた。
そんな偶然があり得るのかと斎は、とても信じられないというように眉を顰めている。
「…飛ぶ?」
「あぁ。これは龍一族に伝わる古い言い伝えで、妖力の高き龍は身体一つで異なる世を飛び越える事が出来るという話がある。…そうゆう事もあり、元々の龍一族は強い妖力や血筋をあれ程までに重視していたのかもしれないな。」
そう話した雲霄は自分の行ってしまった事を、少し責めるように顔を歪ませた。その古い言い伝えが本当だとするならば、斎の父は絵を通してとんでもない妖をこの世に産み出した事になる。
「俄かに信じ難いが、幽山は我ら龍一族を超えるほどに強い妖力を持った妖を、何百年という時を越えて産み出したのだ。本当に奴の絵は、人智を越えたものだろう。」
明かされた雲龍図の正体に、茜は身体中が震えた。人間である事を理由に幽世を追い出されて、記憶さえも失った斎の父が長い時を経て妖を産み出した。そして、その妖が茜を半妖の斎の元へと繋いだのだ。斎は実の父のように、絵師となって己にしか描けない唯一無二の作品を産み出し続けている。たくさんの事柄が繋がって、今になっている。茜は、その事を強く実感した。
「まるで嘘のような話だが、雲龍図に呑まれて斎の絵から出てきた茜殿がこの幽世に居る。その事が答えなのだろう。」
幽世から追い出されてしまった幽山の、それからの事は誰も知らない。けれど、茜から不思議な雲龍図の話を聞いた妖たちは、皆きっとその雲龍図は彼が描いた絵だと信じているのだ。そして、茜も今語られた話を全て信じたいと思った。
「…つまり、龍一族の奴らを越える程の強い妖力を持った妖を俺が産み出せれば、全て話は丸く治まるって事だよな?」
「えっ!?」
これまで静かに話を聞いていた斎は、顎に異形の右手を添えて、今までの考えを吐き出すように呟いた。突然の斎の発言に、驚いて思わず茜は視線を向ける。
「俺が、幽世と現世を飛び越えられる龍を描けば、現世に戻った茜にもまた会えるって事だろ。」
「…幽山のした事を考えれば、それも不可能ではない。ただ、茜殿が現世に戻れぬ状態で此処に留まっているという事は、幽山の描いた龍は一時的にその力を使えたという事だ。つまり、何度も二つの世界を移動出来る程に万能な者ではない。その意味が分かるな?」
「あぁ、俺は父さんの絵を越える龍を描く。」
何の迷いもなくそう言い切った斎に、茜は胸が熱くなる。強い意志を宿した澄んだ瞳には、一点の曇りも浮かんでいなかった。まさに、もう既に斎は一つの覚悟を決めていたのだろう。その瞳を見た雲霄は、緩く口角を上げる。
「まぁ、これで私から伝えるべき事は全て伝えた。これからどうすべきかは、二人で話して決めるが良い。」
そう言って、雲霄と清澄は二人を残して部屋を後にした。