晴天を横切る大きな影。空を覆う雲を割くように突き進むのは、一頭の龍だ。その背中で振り落とされないように、必死に斎にしがみつく茜が居た。
「ひ、ひゃぁぁぁぁぁ!?」
ゴォォォと耳元で切る風が、まるで嵐のような音を立てる。髪は強風に煽られボサボサになり、ギュッと閉じた瞳は怖くて開けることが出来ない。
「ちゃんと捕まっていて下さいね。落ちたら死にますから。」
跨る巨体から響く声は、まるで脅しのように聞こえて背中がゾクリと震える。目の前に座っている斎の腰に、しっかりと回していた手により力を込めた。
「ぐぉっ!」
茜の力が強過ぎたのか、斎が苦しそうにうめき声を上げた。しかし、今はそれを気にする余裕も無く、震える手で斎の背中にしがみつく力はそのままに、なんでこんな事になったんだと茜は少し前に起きた出来事を思い返す。
茜と斎が龍一族の国に向かう事が決まり、茜の記憶の事もあってか、直ぐに旦那様が治める島国を出る事になった。茜は幽世にやって来た時に背負っていたリュックに荷物をまとめて斎と共に店を出ると、店を出た先の大通りには旦那様と翠、そして清澄が二人を待っていた。
龍一族の国には、この旦那様の治める島国からは海を渡って数週間かかると言われている。そんなに時間がかかってしまう道程を、一体どうやって行くのかと身構えていれば、清澄は大通りの真ん中で立ち止まって「少し、私から離れていてください。」と告げてきた。
清澄の突然の行動に、茜は首を傾げながら見つめる。清澄は大通りの真ん中で、一体何をしようとしているのだろうか。
暫くして人通りが少なくなると、ボフンッと大きな音が聞こえて周囲は煙に包まれた。
「な、何!?」
真っ白な煙が視界を覆い、目の前は何も見えなくなる。突然の出来事にパニックになった茜は、咄嗟に隣に居た斎の腕を掴んだ。そんな茜の様子に、斎は少し驚いたような表情をしながらも「落ち着け」と気遣うように声を掛ける。いつも聞いている斎の穏やかな声に、茜は少しずつ平常心を取り戻していった。
段々と晴れていく煙から、見えてきたのは黒い鱗の肌だった。大蛇のように長い胴体、鋭い爪の生えた足。それは以前、見たことがある光景によく似ている気がする。
完全に煙が晴れて現れたのは、大通りを塞ぐように立ちはだかる美しい黒龍だった。巨木のような角が生えて、生糸のような鬣《たてがみ》が艶やかに揺れる。全身へ貼り付いた黒い鱗は、太陽の光に反射し煌めく。龍は牙を持つ大きな口を、ニィと開いて得意げに言った。
「さて、斎様、茜様。我ら一族の国へと、参りましょうか。」
聞き覚えのあるその声に、茜は驚いて「清澄さん!?」と思わずその名を叫んだ。
「はい。実はこちらの姿が、本来の姿でして。」
大通りを塞ぐように現れた黒龍は、まさかの清澄だった。確かに龍一族というならば、その姿に納得出来る。しかし、先程の人の形をしていた清澄が、一瞬にしてこんなに大きな生き物に変わるとは驚きだ。迫力のある大きな龍の姿に、茜は幽世に来る前に遭遇した雲龍図の龍を自然と思い浮かべた。
「お二人共。私の背に乗って、しっかりと捕まってください。」
「えぇ!?」
そういえば以前に、龍一族が幽世と現世を繋ぐ門を管理している理由の一つとして、元々は各国々にあった門を管理するのに素速く長距離移動が出来る唯一の妖だからと旦那様から聞いた。けれど、まさか自分が空を飛んでいくなんて、茜は思いもしていなかった。
動揺しながらも、翠と旦那様に暫しの別れの挨拶をする。その際に旦那様からは、改めて催花と玄天の似顔絵のお礼を言われた。自分の絵を通して、誰かと繋がる事はやはり温かくて心地良い。その温かさは、少し緊張で固まった茜の身体までも解していった。
目の前の鱗の貼り付いた大きな身体を見上げれば、いつの間か身体を預けるように背中に乗った斎が、茜に向かって「早く乗れよ。」と手を差し伸べる。その差し出された斎の異形の右手を掴み、茜たちはいざ龍一族の国へと飛び去ったのだ。
そして現在、茜と斎の二人は龍になった清澄の背中に乗り、龍一族の国までの最短ルートを最速で移動している真っ最中だ。
「だけど、無理だってこんなのぉぉぉぉ!」
清澄に乗る時は斎との距離の近さにとてつもない恥ずかしさを覚えたものの、今ではそんな事を気にする余裕も無く、容赦無く腰に手を回して抱き着いていた。
「無理ぃぃぃぃ!」
ジェットコースターのように安全ベルトも無い中で、上空を全速力で進むあまりの怖さに、茜は叫ぶ事しか出来ない。ガタガタと震えながら必死に斎の背中にしがみつく茜に、斎は呆れる表情で溜め息を吐いた。
「お前、ちょっと静かにしとけ!」
恐怖で身を縮める茜に、後ろを振り向いた斎はそう叫ぶ。静かにしとけと言われても、やっぱり怖いものは怖い。普段なら緊張してしまうような近い距離に居る斎に、今ばかりは安心感を覚えた。茜はギュッと強く目を瞑りどうか早く龍一族の国に着いてくれと、斎の背中にしがみつきながら切実に願う。
そんな茜の様子に、斎は平然と清澄の角に掴まりながら声を掛ける。
「茜、目開けてみろよ。」
「え!?無理だよ!」
突然そんな事を言い出した斎に、茜は全く理解出来なかった。こんな状況の中で、目を開けろなんて酷いにも程がある。
それでも斎は怖がる茜を諭すように、穏やかに声を掛けてきた。
「怖くねぇから。」
「…で、でも!」
そうは言われても、やっぱり恐怖心が上回って渋る茜に、痺れを切らした斎は「いいから、早くしろ。」と腰に回された茜の手を軽くトントンと叩いて目を開けるように促した。
斎に急かされながらも、茜は恐る恐る瞼を持ち上げる。すると、視界いっぱいに入り込んできた眩しい光に目がクラクラした。目の前には、溶け出した太陽が空一面を茜色に染め上げていた。
清澄は茜たちの居た島国を離れて、今は海の上を進んでいる途中らしい。太陽の光に反射した水面には光の道筋が出来ていて、キラキラと光り輝く波の上には清澄の巨大な影が落ちていた。
空も雲も海も同じ光に照らされて、幻想的な黄昏時の世界を作り出している。何の障害物も無く、自然が生み出した美しい情景を、こんな特等席で眺める事が出来るなんてとても贅沢な事だろう。
「凄い…!」
先程の恐怖心はすっかりと消え去り、少しずつ空の色が変化していくさまを茜は目に焼き付けるように眺めていた。龍の背に乗って全身に風を浴びながら、眼前に広がる壮大な夕焼け。涙が出そうになる程に美しい光景は、きっと今しか見られない特別なものだ。
「だから言ったろ。」
そう言って後ろを振り返り、茜に視線を寄越した斎は得意げに笑った。斎の澄んだ瞳も茜色の光を閉じ込めて、一層美しく見えた。
悪戯が成功した時のようなクシャッとした笑顔に、茜は胸が苦しくなった。色んな感情が入り混じって、何故か和傘に二人で入り、催花の花嫁行列を見た時のことを思い出す。じわじわと熱を持つ頬の正体が、茜の中で見え隠れしていた。
段々と変化していく空は、次第に夜を連れてこようとしていた。その最中に、きらりと輝く一番星を茜は見つける。それは広大な空で砂粒のように小さいけれど、確かな強い光を放っていた。
清澄の背に乗ってから、どれくらいの時間が経っただろう。海を越えて、山も越えた時にはもう完全に太陽は沈み、辺りはすっかり夜になっていた。真っ暗な闇が広がる地上に、無数の光の群れが幾つか浮かび上がる。清澄いわく、この光の群れが龍一族の治める大きな国の中でも地方に当たる街並みらしい。
月の光が無い新月の夜でも、星空のように煌めく下界の景色は眩しく感じた。
「あれが、我ら龍一族が暮らす都です。」
そう言った清澄の声に、斎の背中から前方を覗き込んでみれば、光の筋が蜘蛛の巣のように張り巡らせた巨大な都が広がっている。蠢く光の大群は、まるで海を漂う無数の夜光虫のようだった。
『都』ということは龍一族の治める国の中心、首都と言ったところだろう。先程見た地方の街並みに比べたら、その光の強烈さに茜は目眩がしそうになる。
都が近付き、清澄は徐々に高度を下げて地上から少し離れた辺りを飛ぶ。少しずつ見えてきた街並みは、茜たちの居た街では見たことが無いくらいに大きな建物が並び、たくさんの妖たちが出歩いていた。百鬼夜行のように群れを成した妖たちの賑わう声が、上空に居る茜たちの耳にも届く程に騒がしい。
都の中心には大きな城のような建物が建っていて、もの凄い存在感を放っている。周囲の華やかな街並みとは違い、漆黒に塗られた威圧感のある巨城は、何処か禍々しい雰囲気に包まれていた。
清澄はその城に視線を向けながら、牙の生えた大きな口を開けて話す。
「あれが、我ら一族の城です。と言っても、全ての一族があの城に居るのではなく、今は現当主様を初めとした龍一族の中でも一部の重要な役割を持つ者たちが居ます。」
「あれが… !」
清澄の説明を聞きながら、茜は改めて龍一族の城に視線を向けた。漆黒に塗られて闇に溶けてしまいそうな巨城は、清澄が進むたびに段々と近付いてくる。目の前に現れた城は、龍の清澄が余裕で侵入出来るほどに巨大な造りだった。
その大きさに圧倒されていれば、前に座る斎が静かに息を呑んだ。
「斎は、この城を知っているの?」
「あぁ。小さい頃に、追い出されるまでは此処で少しだけ暮らしていた。」
「…!」
「また此処へ来るとは、思いもしなかったな。」
その言葉に茜は、以前聞いた斎の過去を思い出す。半妖の斎は龍一族の中で妖とは認められず、一族の中でも煙たがられていて居場所が無かったらしい。そして、斎の母はそんな斎と二人で故郷を離れて、海の向こうの遠い旦那様が治める島国にやって来たのだという。
茜と出逢った頃、斎は自分の事を『半端者』だと少し寂しげな表情で話していた。一族の中でずっと仲間外れにされてきた孤独が、何百年経った今でも斎の中で消えずにいたのだ。斎にとってこの場所は、過去の嫌な思い出がたくさん存在するのではないか。
そんな茜の心配とは裏腹に、清澄は上空から目の前の巨城の中に侵入して、広い中庭に降り立った。
「さて、着きましたよ。」
その声に従って、斎は何の躊躇も無く清澄の背中から飛び降りる。茜もそれに続こうとすれば、無言で斎の異形の右手が差し出された。その手を有り難く受け取って、清澄の背中からポンッと飛び立ち地面へと足をつける。その際、随分と長い間を龍の背中に乗り移動していたせいか、地面に降りた瞬間に少し足元がよろけた。
しかし、そんな茜を斎は何なく支えてくれる。
「ありがとう。」
「あぁ。」
こんな少しの出来事が、茜の中では大きく積み重なっていく。斎にしたら些細な事かもしれないが、茜は斎の気遣いが心の底から嬉しくて仕方なかった。
清澄はそんな二人を横目に、ボフンっと白い煙と共に音を立てると、龍の姿は消えて最初に会った時のような人間の姿に戻っていた。
「これを着てください。」
そう清澄に言われて渡されたのは、二着の羽織りだった。羽織りを手にとって広げると、襟から裾に向かって青色から黒色へとグラデーションに染められている。まるで、海の底を表すような美しく鮮やかな一着だ。
「これは龍の衣《ころも》。私達一族の鬣の毛を使い、妖力を練り込まれて作られた特殊な衣です。もしもの時は、身を守る結界の役割も果たします。」
清澄の話を聞きながら、茜はそっと龍の衣と呼ばれた羽織りの袖に手を通す。空気のようにふんわりと軽い生地はさらりとした手触りで、とても着心地が良かった。龍の鬣の毛が使われているとのことで唯の糸とは違い、艶かな光沢感がある上品な印象だ。
「これを着ている限り、茜様が他の龍一族にも人間だと知られることは無いでしょう。…念の為、半妖の斎様にも着ていただきます。」
「あぁ、構わねぇよ。」
斎も茜と同様に、龍の衣をその身に纏う。
龍の衣を羽織った斎と茜を見て、清澄は少し満足げに頷いた。制服の上から羽織った茜は少し不思議な格好に思えたが、紺色の着流しの上に龍の衣を羽織った斎は涼し気な印象でとても似合っていた。
「では、行きましょうか。」
そう言って大きな城の中へ歩き出した清澄に、斎と茜は追いかけるように続いた。
「ひ、ひゃぁぁぁぁぁ!?」
ゴォォォと耳元で切る風が、まるで嵐のような音を立てる。髪は強風に煽られボサボサになり、ギュッと閉じた瞳は怖くて開けることが出来ない。
「ちゃんと捕まっていて下さいね。落ちたら死にますから。」
跨る巨体から響く声は、まるで脅しのように聞こえて背中がゾクリと震える。目の前に座っている斎の腰に、しっかりと回していた手により力を込めた。
「ぐぉっ!」
茜の力が強過ぎたのか、斎が苦しそうにうめき声を上げた。しかし、今はそれを気にする余裕も無く、震える手で斎の背中にしがみつく力はそのままに、なんでこんな事になったんだと茜は少し前に起きた出来事を思い返す。
茜と斎が龍一族の国に向かう事が決まり、茜の記憶の事もあってか、直ぐに旦那様が治める島国を出る事になった。茜は幽世にやって来た時に背負っていたリュックに荷物をまとめて斎と共に店を出ると、店を出た先の大通りには旦那様と翠、そして清澄が二人を待っていた。
龍一族の国には、この旦那様の治める島国からは海を渡って数週間かかると言われている。そんなに時間がかかってしまう道程を、一体どうやって行くのかと身構えていれば、清澄は大通りの真ん中で立ち止まって「少し、私から離れていてください。」と告げてきた。
清澄の突然の行動に、茜は首を傾げながら見つめる。清澄は大通りの真ん中で、一体何をしようとしているのだろうか。
暫くして人通りが少なくなると、ボフンッと大きな音が聞こえて周囲は煙に包まれた。
「な、何!?」
真っ白な煙が視界を覆い、目の前は何も見えなくなる。突然の出来事にパニックになった茜は、咄嗟に隣に居た斎の腕を掴んだ。そんな茜の様子に、斎は少し驚いたような表情をしながらも「落ち着け」と気遣うように声を掛ける。いつも聞いている斎の穏やかな声に、茜は少しずつ平常心を取り戻していった。
段々と晴れていく煙から、見えてきたのは黒い鱗の肌だった。大蛇のように長い胴体、鋭い爪の生えた足。それは以前、見たことがある光景によく似ている気がする。
完全に煙が晴れて現れたのは、大通りを塞ぐように立ちはだかる美しい黒龍だった。巨木のような角が生えて、生糸のような鬣《たてがみ》が艶やかに揺れる。全身へ貼り付いた黒い鱗は、太陽の光に反射し煌めく。龍は牙を持つ大きな口を、ニィと開いて得意げに言った。
「さて、斎様、茜様。我ら一族の国へと、参りましょうか。」
聞き覚えのあるその声に、茜は驚いて「清澄さん!?」と思わずその名を叫んだ。
「はい。実はこちらの姿が、本来の姿でして。」
大通りを塞ぐように現れた黒龍は、まさかの清澄だった。確かに龍一族というならば、その姿に納得出来る。しかし、先程の人の形をしていた清澄が、一瞬にしてこんなに大きな生き物に変わるとは驚きだ。迫力のある大きな龍の姿に、茜は幽世に来る前に遭遇した雲龍図の龍を自然と思い浮かべた。
「お二人共。私の背に乗って、しっかりと捕まってください。」
「えぇ!?」
そういえば以前に、龍一族が幽世と現世を繋ぐ門を管理している理由の一つとして、元々は各国々にあった門を管理するのに素速く長距離移動が出来る唯一の妖だからと旦那様から聞いた。けれど、まさか自分が空を飛んでいくなんて、茜は思いもしていなかった。
動揺しながらも、翠と旦那様に暫しの別れの挨拶をする。その際に旦那様からは、改めて催花と玄天の似顔絵のお礼を言われた。自分の絵を通して、誰かと繋がる事はやはり温かくて心地良い。その温かさは、少し緊張で固まった茜の身体までも解していった。
目の前の鱗の貼り付いた大きな身体を見上げれば、いつの間か身体を預けるように背中に乗った斎が、茜に向かって「早く乗れよ。」と手を差し伸べる。その差し出された斎の異形の右手を掴み、茜たちはいざ龍一族の国へと飛び去ったのだ。
そして現在、茜と斎の二人は龍になった清澄の背中に乗り、龍一族の国までの最短ルートを最速で移動している真っ最中だ。
「だけど、無理だってこんなのぉぉぉぉ!」
清澄に乗る時は斎との距離の近さにとてつもない恥ずかしさを覚えたものの、今ではそんな事を気にする余裕も無く、容赦無く腰に手を回して抱き着いていた。
「無理ぃぃぃぃ!」
ジェットコースターのように安全ベルトも無い中で、上空を全速力で進むあまりの怖さに、茜は叫ぶ事しか出来ない。ガタガタと震えながら必死に斎の背中にしがみつく茜に、斎は呆れる表情で溜め息を吐いた。
「お前、ちょっと静かにしとけ!」
恐怖で身を縮める茜に、後ろを振り向いた斎はそう叫ぶ。静かにしとけと言われても、やっぱり怖いものは怖い。普段なら緊張してしまうような近い距離に居る斎に、今ばかりは安心感を覚えた。茜はギュッと強く目を瞑りどうか早く龍一族の国に着いてくれと、斎の背中にしがみつきながら切実に願う。
そんな茜の様子に、斎は平然と清澄の角に掴まりながら声を掛ける。
「茜、目開けてみろよ。」
「え!?無理だよ!」
突然そんな事を言い出した斎に、茜は全く理解出来なかった。こんな状況の中で、目を開けろなんて酷いにも程がある。
それでも斎は怖がる茜を諭すように、穏やかに声を掛けてきた。
「怖くねぇから。」
「…で、でも!」
そうは言われても、やっぱり恐怖心が上回って渋る茜に、痺れを切らした斎は「いいから、早くしろ。」と腰に回された茜の手を軽くトントンと叩いて目を開けるように促した。
斎に急かされながらも、茜は恐る恐る瞼を持ち上げる。すると、視界いっぱいに入り込んできた眩しい光に目がクラクラした。目の前には、溶け出した太陽が空一面を茜色に染め上げていた。
清澄は茜たちの居た島国を離れて、今は海の上を進んでいる途中らしい。太陽の光に反射した水面には光の道筋が出来ていて、キラキラと光り輝く波の上には清澄の巨大な影が落ちていた。
空も雲も海も同じ光に照らされて、幻想的な黄昏時の世界を作り出している。何の障害物も無く、自然が生み出した美しい情景を、こんな特等席で眺める事が出来るなんてとても贅沢な事だろう。
「凄い…!」
先程の恐怖心はすっかりと消え去り、少しずつ空の色が変化していくさまを茜は目に焼き付けるように眺めていた。龍の背に乗って全身に風を浴びながら、眼前に広がる壮大な夕焼け。涙が出そうになる程に美しい光景は、きっと今しか見られない特別なものだ。
「だから言ったろ。」
そう言って後ろを振り返り、茜に視線を寄越した斎は得意げに笑った。斎の澄んだ瞳も茜色の光を閉じ込めて、一層美しく見えた。
悪戯が成功した時のようなクシャッとした笑顔に、茜は胸が苦しくなった。色んな感情が入り混じって、何故か和傘に二人で入り、催花の花嫁行列を見た時のことを思い出す。じわじわと熱を持つ頬の正体が、茜の中で見え隠れしていた。
段々と変化していく空は、次第に夜を連れてこようとしていた。その最中に、きらりと輝く一番星を茜は見つける。それは広大な空で砂粒のように小さいけれど、確かな強い光を放っていた。
清澄の背に乗ってから、どれくらいの時間が経っただろう。海を越えて、山も越えた時にはもう完全に太陽は沈み、辺りはすっかり夜になっていた。真っ暗な闇が広がる地上に、無数の光の群れが幾つか浮かび上がる。清澄いわく、この光の群れが龍一族の治める大きな国の中でも地方に当たる街並みらしい。
月の光が無い新月の夜でも、星空のように煌めく下界の景色は眩しく感じた。
「あれが、我ら龍一族が暮らす都です。」
そう言った清澄の声に、斎の背中から前方を覗き込んでみれば、光の筋が蜘蛛の巣のように張り巡らせた巨大な都が広がっている。蠢く光の大群は、まるで海を漂う無数の夜光虫のようだった。
『都』ということは龍一族の治める国の中心、首都と言ったところだろう。先程見た地方の街並みに比べたら、その光の強烈さに茜は目眩がしそうになる。
都が近付き、清澄は徐々に高度を下げて地上から少し離れた辺りを飛ぶ。少しずつ見えてきた街並みは、茜たちの居た街では見たことが無いくらいに大きな建物が並び、たくさんの妖たちが出歩いていた。百鬼夜行のように群れを成した妖たちの賑わう声が、上空に居る茜たちの耳にも届く程に騒がしい。
都の中心には大きな城のような建物が建っていて、もの凄い存在感を放っている。周囲の華やかな街並みとは違い、漆黒に塗られた威圧感のある巨城は、何処か禍々しい雰囲気に包まれていた。
清澄はその城に視線を向けながら、牙の生えた大きな口を開けて話す。
「あれが、我ら一族の城です。と言っても、全ての一族があの城に居るのではなく、今は現当主様を初めとした龍一族の中でも一部の重要な役割を持つ者たちが居ます。」
「あれが… !」
清澄の説明を聞きながら、茜は改めて龍一族の城に視線を向けた。漆黒に塗られて闇に溶けてしまいそうな巨城は、清澄が進むたびに段々と近付いてくる。目の前に現れた城は、龍の清澄が余裕で侵入出来るほどに巨大な造りだった。
その大きさに圧倒されていれば、前に座る斎が静かに息を呑んだ。
「斎は、この城を知っているの?」
「あぁ。小さい頃に、追い出されるまでは此処で少しだけ暮らしていた。」
「…!」
「また此処へ来るとは、思いもしなかったな。」
その言葉に茜は、以前聞いた斎の過去を思い出す。半妖の斎は龍一族の中で妖とは認められず、一族の中でも煙たがられていて居場所が無かったらしい。そして、斎の母はそんな斎と二人で故郷を離れて、海の向こうの遠い旦那様が治める島国にやって来たのだという。
茜と出逢った頃、斎は自分の事を『半端者』だと少し寂しげな表情で話していた。一族の中でずっと仲間外れにされてきた孤独が、何百年経った今でも斎の中で消えずにいたのだ。斎にとってこの場所は、過去の嫌な思い出がたくさん存在するのではないか。
そんな茜の心配とは裏腹に、清澄は上空から目の前の巨城の中に侵入して、広い中庭に降り立った。
「さて、着きましたよ。」
その声に従って、斎は何の躊躇も無く清澄の背中から飛び降りる。茜もそれに続こうとすれば、無言で斎の異形の右手が差し出された。その手を有り難く受け取って、清澄の背中からポンッと飛び立ち地面へと足をつける。その際、随分と長い間を龍の背中に乗り移動していたせいか、地面に降りた瞬間に少し足元がよろけた。
しかし、そんな茜を斎は何なく支えてくれる。
「ありがとう。」
「あぁ。」
こんな少しの出来事が、茜の中では大きく積み重なっていく。斎にしたら些細な事かもしれないが、茜は斎の気遣いが心の底から嬉しくて仕方なかった。
清澄はそんな二人を横目に、ボフンっと白い煙と共に音を立てると、龍の姿は消えて最初に会った時のような人間の姿に戻っていた。
「これを着てください。」
そう清澄に言われて渡されたのは、二着の羽織りだった。羽織りを手にとって広げると、襟から裾に向かって青色から黒色へとグラデーションに染められている。まるで、海の底を表すような美しく鮮やかな一着だ。
「これは龍の衣《ころも》。私達一族の鬣の毛を使い、妖力を練り込まれて作られた特殊な衣です。もしもの時は、身を守る結界の役割も果たします。」
清澄の話を聞きながら、茜はそっと龍の衣と呼ばれた羽織りの袖に手を通す。空気のようにふんわりと軽い生地はさらりとした手触りで、とても着心地が良かった。龍の鬣の毛が使われているとのことで唯の糸とは違い、艶かな光沢感がある上品な印象だ。
「これを着ている限り、茜様が他の龍一族にも人間だと知られることは無いでしょう。…念の為、半妖の斎様にも着ていただきます。」
「あぁ、構わねぇよ。」
斎も茜と同様に、龍の衣をその身に纏う。
龍の衣を羽織った斎と茜を見て、清澄は少し満足げに頷いた。制服の上から羽織った茜は少し不思議な格好に思えたが、紺色の着流しの上に龍の衣を羽織った斎は涼し気な印象でとても似合っていた。
「では、行きましょうか。」
そう言って大きな城の中へ歩き出した清澄に、斎と茜は追いかけるように続いた。