自分の状況に酷く混乱する様子の茜を、険しい表情で清澄が見つめる。
「長く、幽世に居すぎようですね。」
「おい!それ、どうゆうことだよ!」
清澄の言葉に、斎は眉間に皺を寄せて声を上げた。茜が幽世に長く居たことに、何か問題があるのだろうか。自分の知らぬ間に、茜の身に何か良からぬ事が起きているようで斎は大きな不安に駆られた。一気に緊張感が走る室内で、ひたすらに心配そうに茜を見つめる翠がゴクリと息を呑む。
「うむ、遅れてすまんな。」
突然、ガラリッと店の引き戸が開き、低い声が室内に放たれた。大きな背中を丸めて窮屈そうに暖簾を潜り、現れたのはこの国を治める九尾の旦那様だ。
「旦那様!」
翠が助けを求めるように声を上げれば、旦那様は赤い瞳を細めて茜たちに視線を向けた。
「話は済んだか?」
「いえ、まだ詳しくは。それよりも、茜様の容態はかなり深刻な状況です。」
「…そうか。」
今の状況を確認するように清澄と話す旦那様は、茜の状態を聞くと瞳を閉じて深く息を吐いた。
「おい!茜に何が起きてる?」
斎は、旦那様と清澄に今一度聞いた。少し焦りが見える斎の表情を、真っ直ぐに見つめた清澄は静かに口を開く。
「ご存知だと思いますが、幽世と現世、二つの世界は全くの別物です。時の流れ方も違ければ、人間と妖の在り方も違います。」
「あぁ。」
「その人間が現世とは全く異なる幽世に長く居すぎると、徐々に記憶を失ってしまうのです。」
「…記憶を?」
「はい。元居た現世の世界の事、そして最終的には自分の事さえも分からなくなっていきます。現世で生きてきた自分自身の事を、全て忘れ去ってしまうのです。」
『記憶を失う』という事実に、斎も茜も驚きを隠せなかった。まさか幽世に居ることで、そんなデメリットがあるなんて知りもしなかった。そして、いつの間にかそんな事態に、自分も陥っているのではないかと茜は背筋が凍る。清澄の説明に納得せざるおえない程に、時折思考がぼんやりとして自分の事が分からなくなるような自覚があった。
呆然と目を見開いている茜に、旦那様は少し申し訳なさそうな表情する。
「茜殿。最初に会った時にこの事実を話せば、必要以上に怯えさせてしまうと思いあえて黙っておいたのだ。そなたは、突然この世界やって来て相当戸惑っているようだったからな。儂もまさか、人間が龍一族の国から遠く離れたこの島国に来るとは思っていなかった故に、どうしても対処が遅れてしまった。すまない。」
「いえ!そんなことは…!」
軽く頭を下げた旦那様に、茜は慌てて声を掛ける。今思えば最初に茜を半妖の斎の所へ置いたのも、妖たちと距離を置いた場所で、茜を怯えさせないようにするための旦那様なりの配慮だったのではないかと思う。そのおかげで、茜はこの幽世の世界で特に恐ろしい思いをする事も無く過ごせたのだ。それに斎と共に絵を描いた日々は信じられない程に楽しくて、旦那様には感謝したいくらいだ。
「今はまだ、そこまで記憶を無くしているわけではないのようですので、急いで現世に戻れば現世での記憶を失わずに済むでしょう。ただ、容態は一刻一刻と変化していきますので、早く帰る事に越した事はありません。」
「そう、なんですね。」
清澄の説明を聞いて、ひとまず茜はホッと胸を撫で下ろす。急いで現世に戻れば、なんとか記憶を失わずに済みそうだ。安堵する茜の横で、斎は急かすように言う。
「じゃあ、茜は今すぐ龍一族の国に行かねぇと…!」
「はい。…ですが、幽世と現世を繋ぐ門は封印されております。今回は一時的に封印を解除することになりますが、茜様が現世に戻られた後は通常どおりにまた門は封印されます。なので本来であれば、茜様はもう二度と幽世に戻る事はないでしょう。」
「えっ、」
一瞬、茜は頭が真っ白になった。
もう二度と幽世の世界に戻る事はないと話す清澄の声が次第に遠くなる。幽世に戻る事が出来ないということは、つまり斎や翠、旦那様にも二度と会えなくなるということだ。
斎は清澄の言葉に目を見開いてから、暫くして「…そうか。」と俯きがちに小さく呟いた。酷く寂しげな声は、静かな室内に漂っていく。そんな斎の様子に、茜は堪らなくなった。
曖昧な記憶を呼び起こすように、茜は元いた現世の事を無理矢理に思い出そうとする。先程まで現世という言葉さえ、分からなくなっていたけれど、少しずつ意識して頭を整理させていけば、徐々に現世での記憶が蘇ってきた。
昔から人の輪に入ることが苦手で、常に一人きりで絵を描いていたこと。高校生になっても友達が出来ず、いつまでも馴染めない教室の息苦しさ。そんな周りから浮いた自分の存在が、誰かの迷惑になってしまう悲しさ。
幽世に来てから、いつの間にか忘れていた生きづらさを次から次へと思い出していく。斎と絵を描く日々が本当に楽しくて、無意識に頭の隅へと追いやっていたそれはあまりにも残酷だった。
突然やって来た幽世の世界で、斎を始め、絵を描くことで妖たちと繋がることの温かさを知った。誰かに認められる嬉しさも、誰かと共に何かを成し遂げる楽しさも全部この場所で知ったのだ。ずっと一人で絵を描いてきた茜にとって、初めて知ったそれらの感情は信じられない程に心地良くて幸せなものだった。
幽世は、茜がようやく見つけた居場所のような場所だ。この日々が、失われてしまうと思うと怖くて仕方がない。また再び、あの孤独で寂しい場所に戻らなければならないなんて、今の茜にはとても耐えられるはずが無かった。
「嫌です。私、帰りたくないです。」
気付けば、無意識に茜は言葉を溢していた。強く
拳を握って、声を震わせた茜に隣に居た斎は顔を上げる。
「茜…」
「記憶を失っても良いから、このまま幽世に居たいです!現世に戻りたくないです!」
茜は生まれて初めて、こんなに声を荒げた。
旦那様に現世に戻りたいと言って、清澄も遠く離れた龍一族の国からわざわざ茜の為に来てくれたのに、随分と自分勝手な事を言っているのは分かっている。それでも、二度と幽世に戻れなくなるなんて茜には耐えられなかった。斎たちの居ない世界で、今までのように生きていけるはずがなかったのだ。
「茜様。お気持ちは察しますが、事は一刻を争います。今の感情だけで、大事な決断をするものではありませんよ。」
きっぱりと清澄に諭されて、少しだけ気持ちが落ち着く。けれど、茜の中に広がる大きな絶望は上手く消化されてはくれなかった。先程言い放った気持ちは、全て今の茜の本音だ。斎たちと二度と会えない事が、幽世に戻れない事が悲しくて仕方なかったのだ。
「茜。」
今にも泣き出しそうに歪んだ茜を見て、斎は優しく名前を呼んだ。その声に釣られるように斎に視線を向けると、斎は茜を安心させるように瞳を緩めて笑った。
「お前が現世に戻りたくないなら、どうすれば良いか一緒に考えてやる。」
「…っ、」
その一言で、揺れる視界から一雫の涙が茜の頬をつたった。真っ直ぐに茜を見つめてくれる斎の澄んだ瞳は、優しさに溢れていて心が震える。あまりにも穏やかな差しに、茜はこれ以上涙が溢れてしまわないように必死に堪えた。
「ただ、お前の記憶の事だったり、そもそもお前が突然幽世に来た事とか、俺には分からない事が多いから、ちゃんと龍一族からこの件に関しての意見を聞きたい。だから、俺もお前と一緒に龍一族の国に行く。」
そのまま斎が話すのを茜だけでなく、翠や旦那様、清澄も静かに聞いていた。
「俺だって、このままお前と会えなくなるなんて嫌だし、お前の大事な記憶も失わせたくねぇんだ。」
誰よりも茜の事を考えてくれる斎の言葉に、茜は心の底から救われた。そして、斎も茜と同じように、このまま会えなくなってしまうのが嫌だと言ってくれた事が嬉しくて仕方ない。
「だから、茜。俺と一緒に、龍一族の国に行こう。」
「うん…!」
もう先程のように、絶望に飲まれることはない。斎のおかげで軽くなった心が、じんわりと熱を持った。現世に戻らなければならない事も、失ってしまうかもしれない記憶の事も不安はあるけれど、斎と一緒ならば何も怖くないような不思議な気持ちになる。吸い込んだ息を深く吐き出して、見開いた瞳にはもう涙の膜は消えていた。茜は斎と共に、龍一族の国へと向かう決意をしたのだ。
「お二人共、お気持ちは決まりましたか。」
暫くしてから、茜を気遣うように声を掛けてくれた清澄に、茜は先程の自分勝手な発言を思い返して反省した。
「…はい。勝手なことばかり言って、すみませんでした。」
「いえ。そんな事はお気になさらず。…斎様にとって、茜様は大事なお方なんですね。」
「へっ!?」
清澄はそう言うと、二人を眩しそうに見て微笑んだ。清澄の突然の発言に、茜は驚いて声を上げて動揺する。何処か温かさを含ませた物言いに、茜は隠し事を明かされてしまったようにドキッと心臓が跳ねた。しかし、そんな茜とは対象的に、斎は何て事ない表情で清澄に告げる。
「あぁ、そうだ。だから、清澄。俺も茜と一緒に連れて行ってくれ。」
「…っ!」
斎の発言には一体どんな意味が込められているのか知らないが、茜はじわじわと頬が熱を持ち顔が真っ赤に染まっていく。チラリと斎の顔を見上げれば、茜の視線に気付いた斎が、「ん?」と何とも優しげな表情で首を傾げた。
その様子を見ていた清澄は「斎様に、そんな方が出来るなんて…!」と感激したように、鋭い瞳を見開いた。そして、清澄と同様に成り行きを見守っていた翠も、翡翠色の瞳をキラキラと輝かせて二人を見つめる。
「斎殿!姉上が結婚したばかりだと言うのに、今度は斎殿ですか!?なんて、めでたい…!」
「いや、何の話だよ?」
「ちょっ!?翠さん!何言ってるんですか!?」
翠の先走り過ぎた発言に、斎は全く意味が分からないとでも言いたげに、眉間に皺を寄せて呆れた表情をしている。その逆に、茜は大慌てで翠の発言を止めるように肩を叩いた。
慌てふためく茜を見て、翠は少し申し訳無さそうに眉をハの字にして笑う。その拍子に生糸のような美しい白髪が、サラリと翠の肩の上を撫でた。
「茜様、私も斎殿と気持ちは同じです。このまま、お別れをするのは寂し過ぎます。」
「翠さん…!」
「龍一族の国でどうなるかは分かりませんが、絶対にまた会いましょうね。」
「はい!必ず、また此処に戻って来ます!」
翡翠色の瞳を細めてふさふさの尻尾を揺らす翠に、茜は強く頷いた。仮にもし現世に戻る事になってしまったとしても、幽世で茜の事を待っていてくれる存在が居る。それは、きっと茜を強く支えてくれるはずだ。意地でもまた、翠や他の妖たちに会う為に此処に戻って来こようと茜は自分自身にも誓った。
「斎殿、茜様。どうかお気を付けて。」
「おう!」
「はい!」
翠の言葉に、斎も茜も強く頷いた。
楽しげなやり取りをする三人から、少し離れたところで密かに旦那様と清澄が言葉を交わしていた。
「清澄殿、儂からも二人を頼む。」
「はい。お任せを。」
軽く頭を下げた清澄に、旦那様は渋るように太い腕を組むとムスッと口元を歪めた。
「そなたら龍一族には言いたい事が山程あったが、斎に全て任せた。あやつの前で、儂がでしゃばる事でもない。」
「お気持ちお察しします。我が一族が斎様と美空様を蔑ろにしたこと、私とて許せる事ではありません。」
旦那様の言葉に同意するように話す清澄は、とても冷たい瞳をしていた。そして、己を責めるようにグッと唇を噛み締める。
そんな清澄を見て、旦那様は何処か懐かしむように遠くへ視線を向けた。
「うむ。此処へ来たのがそなたで良かった。そなた以外の龍一族が来たならば、喰い殺してやったわ。」
人間一人くらい丸呑み出来そうな程に大きな口の中で、ギリギリと歯を鳴らす旦那様に向けて「それは、怖いですね。」と、清澄はにこやかに返しながらも若干口元が引き攣っている。それに対して、「どうも、そなたら一族とは気が合わんでのう。」と旦那様は豪快に笑った。
暫くして笑いが治まると、旦那様は妙に真剣な表情になり口を開く。
「茜殿が、呑み込まれたという雲龍図。それを描いたのはおそらく幽山じゃ。茜殿に初めて会った時に、あやつの気配を感じた。」
「それは、誠ですか。」
旦那様の言葉に清澄は、信じられないと言わんばかりに目を見開いて微かに声を震わせた。
「あぁ。それに茜殿からあやつの気配を感じなくとも、飛び出してくる龍の絵を描ける程の画力を持つ人間が居るとすれば、儂はあやつしか知らん。」
「そんな事が、本当に起こると?」
「さぁな。ただ、あの男を人間だからと見くびらん方が良い。あやつの絵は、あやつの魂が注がれた生き物だからじゃのう。」
旦那様は、自分の事のように誇らしげに話をする。その様子に、清澄は少し寂しげな表情で視線を向けながらも、納得したように頷いた。
「…分かりました。この事を、当主様にもお伝えします。」
「あぁ。今の龍一族の当主ならば、直ぐに納得するじゃろう。」
「はい。急ぎ、お二方を我らの国までお連れします。」
「よろしく、頼む。」
「長く、幽世に居すぎようですね。」
「おい!それ、どうゆうことだよ!」
清澄の言葉に、斎は眉間に皺を寄せて声を上げた。茜が幽世に長く居たことに、何か問題があるのだろうか。自分の知らぬ間に、茜の身に何か良からぬ事が起きているようで斎は大きな不安に駆られた。一気に緊張感が走る室内で、ひたすらに心配そうに茜を見つめる翠がゴクリと息を呑む。
「うむ、遅れてすまんな。」
突然、ガラリッと店の引き戸が開き、低い声が室内に放たれた。大きな背中を丸めて窮屈そうに暖簾を潜り、現れたのはこの国を治める九尾の旦那様だ。
「旦那様!」
翠が助けを求めるように声を上げれば、旦那様は赤い瞳を細めて茜たちに視線を向けた。
「話は済んだか?」
「いえ、まだ詳しくは。それよりも、茜様の容態はかなり深刻な状況です。」
「…そうか。」
今の状況を確認するように清澄と話す旦那様は、茜の状態を聞くと瞳を閉じて深く息を吐いた。
「おい!茜に何が起きてる?」
斎は、旦那様と清澄に今一度聞いた。少し焦りが見える斎の表情を、真っ直ぐに見つめた清澄は静かに口を開く。
「ご存知だと思いますが、幽世と現世、二つの世界は全くの別物です。時の流れ方も違ければ、人間と妖の在り方も違います。」
「あぁ。」
「その人間が現世とは全く異なる幽世に長く居すぎると、徐々に記憶を失ってしまうのです。」
「…記憶を?」
「はい。元居た現世の世界の事、そして最終的には自分の事さえも分からなくなっていきます。現世で生きてきた自分自身の事を、全て忘れ去ってしまうのです。」
『記憶を失う』という事実に、斎も茜も驚きを隠せなかった。まさか幽世に居ることで、そんなデメリットがあるなんて知りもしなかった。そして、いつの間にかそんな事態に、自分も陥っているのではないかと茜は背筋が凍る。清澄の説明に納得せざるおえない程に、時折思考がぼんやりとして自分の事が分からなくなるような自覚があった。
呆然と目を見開いている茜に、旦那様は少し申し訳なさそうな表情する。
「茜殿。最初に会った時にこの事実を話せば、必要以上に怯えさせてしまうと思いあえて黙っておいたのだ。そなたは、突然この世界やって来て相当戸惑っているようだったからな。儂もまさか、人間が龍一族の国から遠く離れたこの島国に来るとは思っていなかった故に、どうしても対処が遅れてしまった。すまない。」
「いえ!そんなことは…!」
軽く頭を下げた旦那様に、茜は慌てて声を掛ける。今思えば最初に茜を半妖の斎の所へ置いたのも、妖たちと距離を置いた場所で、茜を怯えさせないようにするための旦那様なりの配慮だったのではないかと思う。そのおかげで、茜はこの幽世の世界で特に恐ろしい思いをする事も無く過ごせたのだ。それに斎と共に絵を描いた日々は信じられない程に楽しくて、旦那様には感謝したいくらいだ。
「今はまだ、そこまで記憶を無くしているわけではないのようですので、急いで現世に戻れば現世での記憶を失わずに済むでしょう。ただ、容態は一刻一刻と変化していきますので、早く帰る事に越した事はありません。」
「そう、なんですね。」
清澄の説明を聞いて、ひとまず茜はホッと胸を撫で下ろす。急いで現世に戻れば、なんとか記憶を失わずに済みそうだ。安堵する茜の横で、斎は急かすように言う。
「じゃあ、茜は今すぐ龍一族の国に行かねぇと…!」
「はい。…ですが、幽世と現世を繋ぐ門は封印されております。今回は一時的に封印を解除することになりますが、茜様が現世に戻られた後は通常どおりにまた門は封印されます。なので本来であれば、茜様はもう二度と幽世に戻る事はないでしょう。」
「えっ、」
一瞬、茜は頭が真っ白になった。
もう二度と幽世の世界に戻る事はないと話す清澄の声が次第に遠くなる。幽世に戻る事が出来ないということは、つまり斎や翠、旦那様にも二度と会えなくなるということだ。
斎は清澄の言葉に目を見開いてから、暫くして「…そうか。」と俯きがちに小さく呟いた。酷く寂しげな声は、静かな室内に漂っていく。そんな斎の様子に、茜は堪らなくなった。
曖昧な記憶を呼び起こすように、茜は元いた現世の事を無理矢理に思い出そうとする。先程まで現世という言葉さえ、分からなくなっていたけれど、少しずつ意識して頭を整理させていけば、徐々に現世での記憶が蘇ってきた。
昔から人の輪に入ることが苦手で、常に一人きりで絵を描いていたこと。高校生になっても友達が出来ず、いつまでも馴染めない教室の息苦しさ。そんな周りから浮いた自分の存在が、誰かの迷惑になってしまう悲しさ。
幽世に来てから、いつの間にか忘れていた生きづらさを次から次へと思い出していく。斎と絵を描く日々が本当に楽しくて、無意識に頭の隅へと追いやっていたそれはあまりにも残酷だった。
突然やって来た幽世の世界で、斎を始め、絵を描くことで妖たちと繋がることの温かさを知った。誰かに認められる嬉しさも、誰かと共に何かを成し遂げる楽しさも全部この場所で知ったのだ。ずっと一人で絵を描いてきた茜にとって、初めて知ったそれらの感情は信じられない程に心地良くて幸せなものだった。
幽世は、茜がようやく見つけた居場所のような場所だ。この日々が、失われてしまうと思うと怖くて仕方がない。また再び、あの孤独で寂しい場所に戻らなければならないなんて、今の茜にはとても耐えられるはずが無かった。
「嫌です。私、帰りたくないです。」
気付けば、無意識に茜は言葉を溢していた。強く
拳を握って、声を震わせた茜に隣に居た斎は顔を上げる。
「茜…」
「記憶を失っても良いから、このまま幽世に居たいです!現世に戻りたくないです!」
茜は生まれて初めて、こんなに声を荒げた。
旦那様に現世に戻りたいと言って、清澄も遠く離れた龍一族の国からわざわざ茜の為に来てくれたのに、随分と自分勝手な事を言っているのは分かっている。それでも、二度と幽世に戻れなくなるなんて茜には耐えられなかった。斎たちの居ない世界で、今までのように生きていけるはずがなかったのだ。
「茜様。お気持ちは察しますが、事は一刻を争います。今の感情だけで、大事な決断をするものではありませんよ。」
きっぱりと清澄に諭されて、少しだけ気持ちが落ち着く。けれど、茜の中に広がる大きな絶望は上手く消化されてはくれなかった。先程言い放った気持ちは、全て今の茜の本音だ。斎たちと二度と会えない事が、幽世に戻れない事が悲しくて仕方なかったのだ。
「茜。」
今にも泣き出しそうに歪んだ茜を見て、斎は優しく名前を呼んだ。その声に釣られるように斎に視線を向けると、斎は茜を安心させるように瞳を緩めて笑った。
「お前が現世に戻りたくないなら、どうすれば良いか一緒に考えてやる。」
「…っ、」
その一言で、揺れる視界から一雫の涙が茜の頬をつたった。真っ直ぐに茜を見つめてくれる斎の澄んだ瞳は、優しさに溢れていて心が震える。あまりにも穏やかな差しに、茜はこれ以上涙が溢れてしまわないように必死に堪えた。
「ただ、お前の記憶の事だったり、そもそもお前が突然幽世に来た事とか、俺には分からない事が多いから、ちゃんと龍一族からこの件に関しての意見を聞きたい。だから、俺もお前と一緒に龍一族の国に行く。」
そのまま斎が話すのを茜だけでなく、翠や旦那様、清澄も静かに聞いていた。
「俺だって、このままお前と会えなくなるなんて嫌だし、お前の大事な記憶も失わせたくねぇんだ。」
誰よりも茜の事を考えてくれる斎の言葉に、茜は心の底から救われた。そして、斎も茜と同じように、このまま会えなくなってしまうのが嫌だと言ってくれた事が嬉しくて仕方ない。
「だから、茜。俺と一緒に、龍一族の国に行こう。」
「うん…!」
もう先程のように、絶望に飲まれることはない。斎のおかげで軽くなった心が、じんわりと熱を持った。現世に戻らなければならない事も、失ってしまうかもしれない記憶の事も不安はあるけれど、斎と一緒ならば何も怖くないような不思議な気持ちになる。吸い込んだ息を深く吐き出して、見開いた瞳にはもう涙の膜は消えていた。茜は斎と共に、龍一族の国へと向かう決意をしたのだ。
「お二人共、お気持ちは決まりましたか。」
暫くしてから、茜を気遣うように声を掛けてくれた清澄に、茜は先程の自分勝手な発言を思い返して反省した。
「…はい。勝手なことばかり言って、すみませんでした。」
「いえ。そんな事はお気になさらず。…斎様にとって、茜様は大事なお方なんですね。」
「へっ!?」
清澄はそう言うと、二人を眩しそうに見て微笑んだ。清澄の突然の発言に、茜は驚いて声を上げて動揺する。何処か温かさを含ませた物言いに、茜は隠し事を明かされてしまったようにドキッと心臓が跳ねた。しかし、そんな茜とは対象的に、斎は何て事ない表情で清澄に告げる。
「あぁ、そうだ。だから、清澄。俺も茜と一緒に連れて行ってくれ。」
「…っ!」
斎の発言には一体どんな意味が込められているのか知らないが、茜はじわじわと頬が熱を持ち顔が真っ赤に染まっていく。チラリと斎の顔を見上げれば、茜の視線に気付いた斎が、「ん?」と何とも優しげな表情で首を傾げた。
その様子を見ていた清澄は「斎様に、そんな方が出来るなんて…!」と感激したように、鋭い瞳を見開いた。そして、清澄と同様に成り行きを見守っていた翠も、翡翠色の瞳をキラキラと輝かせて二人を見つめる。
「斎殿!姉上が結婚したばかりだと言うのに、今度は斎殿ですか!?なんて、めでたい…!」
「いや、何の話だよ?」
「ちょっ!?翠さん!何言ってるんですか!?」
翠の先走り過ぎた発言に、斎は全く意味が分からないとでも言いたげに、眉間に皺を寄せて呆れた表情をしている。その逆に、茜は大慌てで翠の発言を止めるように肩を叩いた。
慌てふためく茜を見て、翠は少し申し訳無さそうに眉をハの字にして笑う。その拍子に生糸のような美しい白髪が、サラリと翠の肩の上を撫でた。
「茜様、私も斎殿と気持ちは同じです。このまま、お別れをするのは寂し過ぎます。」
「翠さん…!」
「龍一族の国でどうなるかは分かりませんが、絶対にまた会いましょうね。」
「はい!必ず、また此処に戻って来ます!」
翡翠色の瞳を細めてふさふさの尻尾を揺らす翠に、茜は強く頷いた。仮にもし現世に戻る事になってしまったとしても、幽世で茜の事を待っていてくれる存在が居る。それは、きっと茜を強く支えてくれるはずだ。意地でもまた、翠や他の妖たちに会う為に此処に戻って来こようと茜は自分自身にも誓った。
「斎殿、茜様。どうかお気を付けて。」
「おう!」
「はい!」
翠の言葉に、斎も茜も強く頷いた。
楽しげなやり取りをする三人から、少し離れたところで密かに旦那様と清澄が言葉を交わしていた。
「清澄殿、儂からも二人を頼む。」
「はい。お任せを。」
軽く頭を下げた清澄に、旦那様は渋るように太い腕を組むとムスッと口元を歪めた。
「そなたら龍一族には言いたい事が山程あったが、斎に全て任せた。あやつの前で、儂がでしゃばる事でもない。」
「お気持ちお察しします。我が一族が斎様と美空様を蔑ろにしたこと、私とて許せる事ではありません。」
旦那様の言葉に同意するように話す清澄は、とても冷たい瞳をしていた。そして、己を責めるようにグッと唇を噛み締める。
そんな清澄を見て、旦那様は何処か懐かしむように遠くへ視線を向けた。
「うむ。此処へ来たのがそなたで良かった。そなた以外の龍一族が来たならば、喰い殺してやったわ。」
人間一人くらい丸呑み出来そうな程に大きな口の中で、ギリギリと歯を鳴らす旦那様に向けて「それは、怖いですね。」と、清澄はにこやかに返しながらも若干口元が引き攣っている。それに対して、「どうも、そなたら一族とは気が合わんでのう。」と旦那様は豪快に笑った。
暫くして笑いが治まると、旦那様は妙に真剣な表情になり口を開く。
「茜殿が、呑み込まれたという雲龍図。それを描いたのはおそらく幽山じゃ。茜殿に初めて会った時に、あやつの気配を感じた。」
「それは、誠ですか。」
旦那様の言葉に清澄は、信じられないと言わんばかりに目を見開いて微かに声を震わせた。
「あぁ。それに茜殿からあやつの気配を感じなくとも、飛び出してくる龍の絵を描ける程の画力を持つ人間が居るとすれば、儂はあやつしか知らん。」
「そんな事が、本当に起こると?」
「さぁな。ただ、あの男を人間だからと見くびらん方が良い。あやつの絵は、あやつの魂が注がれた生き物だからじゃのう。」
旦那様は、自分の事のように誇らしげに話をする。その様子に、清澄は少し寂しげな表情で視線を向けながらも、納得したように頷いた。
「…分かりました。この事を、当主様にもお伝えします。」
「あぁ。今の龍一族の当主ならば、直ぐに納得するじゃろう。」
「はい。急ぎ、お二方を我らの国までお連れします。」
「よろしく、頼む。」