あの後、スマートフォンで催花と玄天の写真を撮って斎の元に戻れば、勝手に何処かに行くなと強く注意を受けた。確かに、無事に斎の元に戻れたから良いものの、幽世で道に迷ってしまったらとんでもない事になると茜は深く反省した。

 似顔絵の屋台も予想以上に人気が出て、画材店の爺さん猫が告げた十両は割と早く集める事が出来た。爺さん猫は斎がこんなに早くお金を持って来るとは思っていなかったようで、長い眉毛に隠れた瞳を白黒させながらも、約束通りに水彩絵の具を渡してくれた。

 爺さん猫の水彩絵の具は色の種類も豊富で、約一五〇年ほど前の古い絵の具にも関わらず、不思議と状態は良いものだった。普通であれば劣化して使用するのが困難だったりするものだが、あり得ない程の状態の良さに茜はかなり驚いた。試しに斎が絵を描いてみれば、スゥーと顔料は水に溶けて薄く淡く紙を彩る。その描き味が新鮮なのか、斎は何枚もの紙に水彩絵の具を使って試し描きをしていた。

 今も茜の目の前では、斎が異形の右手で絵筆を持ち、真剣な表情で紙に向かって絵を描いている。絵の具の匂いが漂う作業部屋で静かに絵を描く、斎の流れるような美しい筆さばきには相変わらず見惚れてしまう。 

 水分を多く含んだ赤い絵の具を滲ませるように描いた林檎は、瑞々しく随分と美味しそうだった。光を含ませるように陰影をつけながら、斎がそっと絵筆で絵に触れると波紋が紙全体に広がるように揺れる。

 微かな光が溢れて、コロリと綺麗な赤い林檎が紙の中から畳の上へと落ちた。斎だからこそ為せるその技は、まるで魔法のようだ。そして、斎の絵はとても繊細で儚くありながらも、何処か力強い生命感を感じる不思議なものなのだ。

 本物のような林檎を見ながら、不意に茜はずっと気になっていたことを斎に聞いてみた。

「そういえば斎って、何歳なの?」

「なんか、今更だな。」

「ずっと気になってはいたんだけど、なんとなく聞く機会が無くて。私と同じ十七歳くらいだと思ってたんだけど…」

「今年で、ちょうど三五〇歳だ。」

「…は?」

 斎のとんでもない発言に、茜は思わず言葉を失った。けれど、流石に「冗談だよね?」と顔を引き攣らせながら聞けば、斎はムッと唇を尖らせて「俺が嘘言ったことあったか?」と返される。今まで茜が知る範囲では斎が嘘を言ったことは無いが、目の前の斎がとても三五〇年もの長い間、生きているようには見えない。

 斎の見た目は高校生の茜と変わらない、年頃の青年に見える。皺一つない綺麗な白い肌に艶やかな黒髪を持った斎が、まさか三五〇歳のお爺ちゃんだというのだろうか…

「えぇぇぇぇ!?」

「うるせぇな!いきなり何だよ。」

 頭を整理しながら、時間差で衝撃が茜を襲う。あまりの驚きに叫び声を上げれば、斎は面倒くさそうに眉をしかめた。

「だって!斎が三五〇歳って、どうゆうこと!?」

「どうゆうことも何も、三五〇歳って幽世では結構若者だぞ?」

「そっ、そうなの!?」

「あぁ。翠だって俺と同じくらい生きてるし、催花や玄天も四〇〇歳くらいの年だ。それに旦那様は、千年以上生きてるらしいぜ。」

「嘘でしょ…!」

 妖のあまりの平均寿命の長さに衝撃を隠せない。現世では考えられない、幽世の常識に驚くのはもうこれで何度目だろうか。茜の想像を遥かに越えて、妖というものは結構長生きらしい。

「じゃあ、人生の大先輩ってこと…?」

「どうだかな。お前よりも長く生きてるって言っても、現世と幽世じゃあ時の流れ方が違う。人間の年の取り方と、妖の年の取り方に差があるだけで、俺はお前と同じくらいの年だと思うぞ?」

「な、なるほど?」

 分かるような分からないような斎の説明を聞きながら、茜はこの幽世の世界についての考えを今一度改めた。斎から更に詳しく話を聞くと、幽世の世界での一〇〇歳というのは、現世の世界では五歳くらいに当たるらしい。つまり二〇〇歳は十歳、三〇〇歳は十五歳。そう考えれば、斎の言っていることが何となく分かったような気がする。そして、一五〇年前の水彩絵の具が、そこまで劣化をしていなかったことにも少しだけ納得がいった。

「俺は半妖だしな、そもそも生まれて来るのに五十年もかかったらしいぜ。」

「えっ!そんなに!?」

「あぁ、相当な難産だったらしい。」

「それって、もう難産ってレベルじゃないよね!?そんな事ってあるの!?」

 斎のあり得ない誕生秘話に再び驚き、思いっ切り突っ込めば、斎は少し答えづらそうに頬をかきながら口を開いた。

「あー、実を言うと俺の母親は龍一族なんだよ。」

 斎の告白に、以前翠から聞いた話を茜は思い出す。斎の母親が幽世と現世の門を管理する龍一族の出身だということは知っていたけれど、斎本人からちゃんと龍一族の話を聞けるとは思っていなかった。半妖の斎にとって、龍一族のことはあまり良い思い出では無いような気がしたからだ。

「元々、龍一族っていうのは子を産むのが難しい種族らしい。長い時を母体の腹の中で過ごしてから、産まれてくる。だから一族の数は少ないし、龍一族の血というのは結構貴重なんだ。それに俺は半妖だからな。尚更、出産には苦労したみたいだ。」

「そうなんだ。なんか、凄い不思議な感じがする。」

「ん?」

「何百年も前から生きてる斎に、この幽世の世界で出逢えたことが本当に凄いことなんだなって…」

 そう言葉にすれば、なんだか今までの出来事が本当に夢のように思えてくる。

「確かに今の人間の居ない幽世の世界で、自分の絵の中から人間が現れるなんて思ってもいなかった。」

 少し考えるように呟くと、斎は絵筆を置いて青黒く鱗が貼り付いたような己の右手を見た。黒い爪が光に反射して、キラリと黒曜石のような輝きを放つ。

「俺、もっと絵を描きたい。昔よりも強く、そう思うんだ。」

 幽世に来て最初に斎の右手を見た時、茜は見慣れない異形の手の形を恐ろしく感じたが、今では全くそんな事は思っていない。その斎の右手で、描かれる絵に期待せずにはいられないのだ。

 斎はそう言うと何か思いを込めるように畳の上に落ちた林檎を、その異形のような右手で持ち上げてポーンと宙に投げた。宙に投げられた林檎はその勢いのまま落下し、また斎の右手に戻っていく。

「とは言っても、今の所は果物や鳥みたいに小さな物くらいしか紙の中から出て来てないし、この右手で描いても限界はある。でも、いずれは大きな絵だって動かせるようになりたいし、もっと沢山の依頼を受けてみたい。」

 三五〇年もの長い間を生きている斎にとっては、茜と過ごした日々はきっと一瞬の出来事だろう。けれど、茜にとってはこの斎と共に過ごした日々が、本当にかけがえのないものに感じる。

「うん。私も斎の絵を、もっとたくさん見てみたい。」

 茜の言葉に満足そうに頷くと、畳に座っていた斎は上半身を反るように後に両手を付いて天を仰ぐ。グッと仰け反った斎の白い首元を、窓から入り込んだ温かい日差しが照らす。

 桜の影を映す襖障子の隙間からは、緩やかな風に吹かれて桜の花弁が転がり込んで来る。畳の上に綺麗に並べられた水彩絵の具の上を、そのままコロコロと転がると、ちょうど二人の間くらいで風に吹かれた花弁が止まった。

 二人の間に、緩やかな時間が流れる。

「今日から、和傘に絵を描いていく。」

 少し静かになった部屋で、はっきりとした口調で斎が告げた。

「うん。」

「暫く、此処に籠もりっぱなしになるかもしれねぇが…」

「うん、分かった。大丈夫、私も結婚式に向けて描きたいものがあるから。」

「そうか。」

 全てを見透かしてしまいそうな斎の瞳は、深い夜空のように澄み渡っている。その視線を、真っ向から受け止めた茜は微笑んだ。

「この依頼、絶対に大成功させよう!」

「おう!」

 力強く頷いた斎が、口角を上げて笑う。その表情を見て、茜は酷く安心した。








 斎が和傘の絵に取り掛かり始めてから数日、斎は宣言通りに作業部屋に籠もっていた。作品に集中すると斎は食事や睡眠を忘れて絵を描き続けてしまうため、茜は雑用をこなしながらもそんな危なかっしい斎の様子を見守っている。

 窓の外で優雅に咲き誇る桜がゆっくりと花弁を散らすのを眺めながら、なるべく足音を立てないように室内を歩く。今は少しの雑音でさえ、斎の耳に入れたくなかった。

 斎が籠もっている作業部屋の前の廊下では、部屋から溢れ出した独特の緊張感が漂っていて思わず足が止まる。少しだけ開いた襖障子の隙間から中の様子を盗み見ると、傘職人の唐々が作った大きな和傘を前に斎は向き合っていた。

 絵筆を水を含ませて水彩絵の具に馴染ませていく、筆先を丁寧に動かして和傘に色を塗っていた。少し描きづらそうな体制になりながらも、それを感じさせないくらいにゆったりとした手付きで斎は絵を描いている。

 部屋の中はまるで水の中のように静まり返っていて、時々水を張った桶で筆先を洗う小さな水音だけがはっきりと聞こえていた。

 きっと、今の斎には過ぎ行く時間も雑音も関係ないのだろう。ただ、目の前の作品の事だけを考えて、持っているもの全てをその絵に注いでいる。

 一体、斎ほどの境地に達するにはどれだけの時間や年月が掛かるのだろうか。ずっとひたすらに絵を描き続けていたら、いつか斎のような絵を描けるようになるのだろうか。

 茜では、まだ表現することが出来ない程の高みに斎は居る。一目見ただけで心を強く揺さぶるような画力に、茜は到底敵わないと思った。

 そしてそれだけ画力を極めていても、きっと斎はまた新たな画材や技法を使い、さらに凄い作品を生み出し続けるのだろう。斎という偉大な才能を前に、茜は時々自分の限界を感じて怖くなる。それでもどうしようもないくらいに憧れて、茜自身足掻かずには居られないのだ。

 止めていた足をゆっくりと進めて、斎が籠もっている作業部屋の前を去る。その勢いのまま、茜は幽世に来てから斎に与えられた部屋まで行くと、リュックの中から水彩色鉛筆や筆箱を取り出した。

 机の上に一枚の画用紙を広げて、ポケットから取り出したスマートフォンを見やすい位置に置く。

「よし!やるか!」

 そう言って気合いを入れると、茜はシャープペンシルを片手に画用紙に向き合った。スマートフォンの画面を覗き込みながら、画用紙に向かって真剣に描き込んでいく。線を描いては納得がいかずに消しゴムで消して、また描いては消しての作業を一切の妥協をせずに何度も繰り返す。シャッシャッシャッと、紙の上を走るシャープペンシルの芯の音が静かな部屋に響いた。

 いきなり幽世にやって来て最初の頃は、茜は見たことがない世界に対して恐怖感や不安でいっぱいだった。けれど、今では現世に戻ることを考える暇が無いくらいに、頭の中は日々絵を描くことでいっぱいだ。斎という大きな刺激を受けて、現世に居た頃よりも絵を描くのが楽しいと感じる。

 周りと馴染めずに一人ぼっちで絵を描いていたあの頃の茜とは違い、今は誰かのために絵を描きたいと強く思うのだ。此処に来てから感じた色々な思いが、身体中を熱く駆け巡る。言葉に出来ない大きな気持ちを、茜は一枚の絵に強く込めた。