「おやおや……これは驚きました。小鳥遊千桜陸軍少佐殿ではございませんか」
「貴様のような人間と挨拶を交えるつもりはない。蓮華を返してもらおう」

 恭しく礼をとる黒薔薇嶺二を一瞥し、千桜は蓮華のもとへと歩みを進める。

「旦那様……どうして」
「お前が、私を呼んだのだ」

 やはり、あの花の心の欠片は蓮華のものだった。闇の中でも存在を保とうとしている淡い心。蓮華の心が千桜を呼んでいたのだ。それをこの特異な左眼が結び付けた。

 これほどの悪意に満ちた空間に居続けては、よほど強固な心をもった者以外は易々と影響を受けてしまうだろう。

 蓮華を言葉で唆し、陥れるつもりだったのか。

 真っ青な顔をする蓮華の肩を抱き、冷たく黒薔薇嶺二を睨みつける。

「まさか、この場所を突き止めてしまうとは恐れ入りました」
「蓮華に何用だ。巴美代は貴様の差し金だろう」

 ちらりと美代を見れば、魂を引き抜かれたように呆然としている。また、依然として黒薔薇嶺二と酷似した黒い心の茨が体中に巻き付いていた。ここで何をするつもりだったのか。あまりに不自然な状況に眉を顰める。

「滅相もございません。私は、ご婦人のご相談を聞き入れただけでございます」
「そうして、これまでにどれほどの手駒を手に入れてきた」

 千桜は言葉を鋭くし、冷ややかに目を細めた。

「この世は貴様の遊び場ではない」

 総理大臣指示派議員の不審死事件の黒幕は黒薔薇嶺二であるのだろうと、視線をもって伝える。わざわざ死体の近くに黒い薔薇を残させるなど分かりやすいにもほどがあるが、この男は随分と世界の中心でありたいらしい。

 黒薔薇嶺二は、中央のテーブルに飾られている黒い薔薇を恍惚げに見つめた。

「しかしながら、この世には神に選ばれた人間がいることに変わりはないでしょう?」
「神……?」
「私と、そちらの蓮華様のように」

 解せない、とばかりに千桜は眉を顰める。

 蓮華はこの国の実権を握る議員でもなければ、軍部の人間でもない。華族の当主と使用人の間に生まれたごく一般の私生児だ。オペラでいう悲劇的な演出を好む黒薔薇嶺二が、わざわざ出張ってくる理由は何なのか。

「私は黒い薔薇の花の神から。そしてそちらの蓮華様は蓮華の花の神からの寵愛を受けている。その力は偉大なのです。ですから、この世界は私たちのためにあると言っても過言ではない」
「……先ほどから何を言っている?」

 おそらくは、黒薔薇嶺二は洗脳の術に長けているのだろう。
 人間の心の隙間につけこみ、悪意の種を植え付ける。負の感情がしだいに肥大すると、たちまち理性を飛ばしてしまう。

 そうして気が狂った人間は黒い心に飲み込まれ、素面の状態では考えられもしない暴挙に出るというわけだ。
 直接手を下さずに人間を操れる――神に選ばれた存在だと正気で思っているのか。

 それに何故、そこに蓮華の名前が挙がるのか。解せない。

「理想郷を作る同志として勧誘を試みたのですが……失敗してしまいましたねえ」
「ふざけるな、私にはペテンは通用しない」
「ふざけてなどいませんよ。いませんとも」

 千桜が冷たく言い放つと、黒薔薇嶺二はすうと目を細めた。

「そうそう、それからその左眼……」

 よく観察するように、前髪で隠れている千桜の左眼を凝視している。

「隠しているようですが、きっと特異なものでしょう? 興味があります。この世界は、いったいどんな見え方をしているのでしょうね?」

(つくづく気色が悪い)

 蓮華を直接攫ったのは黒薔薇嶺二ではなく義母の美代だ。裏で糸を引いているとしても、洗脳の類ともなれば物的証拠はなく、これだけでは警察への連行は難しい。

 出方を見ているが、黒薔薇嶺二は焦燥のひとつすら浮かべていないのだ。

「ああ、愉しい。愉しい。これほど高揚することはありません」
「その減らない口を今すぐ封じてやろう」
「ふふふ……それは困りますねえ。あと少しのところではありましたが、今夜はここまでとさせていただきましょうか」

 黒薔薇嶺二はのらりくらりと笑うと、美代に横目を向けた。

「ご婦人――貴女はもう用済みです」

 不自然なまでに棒立ちしていた美代が、黒薔薇嶺二の一声によりゆらりと動きを見せる。

「そうですねえ……ふむ、炎の中で踊りながら焼け死んでいただきましょう」

 あまりに酷薄な命令に耳を疑った。
 千桜は静かに息をのむ。同様に蓮華もごくりと生唾をのんだ。

 まさか、そのように破綻した命令に従うはずもない。だが、美代は「分かりました」と頷くと、部屋の隅に置かれている銀色の缶を手に取ったのだ。

「お待ちください、奥様……!」

 蓮華が咄嗟に呼びかけるが、美代の耳には届かない。缶の蓋を開けると、頭から透明な液体を被った。

「それでは私はこれにて。またどこかでお会いいたしましょう――お二人とも」

 黒薔薇嶺二は恭しく頭を下げると、地下室から姿を消した。咄嗟に千桜が追いかけようとするが、美代の様子が気がかりだった。

「こんなにみじめな思いをするくらいなら……死んだ方がマシね」
「おく、さま」
「死にましょう……ああ、そうね、それがいい」

 明らかに正気を失っている。目は虚ろであり、思考を侵されている気配がある。鼻につくこの臭いは――油か。美代は懐からマッチを取り出すと、側面で擦って火をつけた。燃える先端をぼんやりを眺めている美代の様子は、明らかに異常であった。

 千桜は警戒をして蓮華を自らの背後に隠した。

 だが、蓮華は千桜の制止を振り切り、前に出ようとする。

「お止めせねば……」

 近づくのは危険だとは分かっていた。

 長い間蓮華を虐げ続けてきた人間であるが、それでも無碍にはできなかった。持っているマッチを手放してしまったら、美代は業火の中で息絶えてしまう。

(何か……何かできないのかしら)

 蓮華は、ゆらゆらと燃えているマッチの先端を見つめた。そして、幼い頃の記憶を手繰り寄せる。眠る前に母親はよく子守唄を聴かせてくれた。蓮華には歌詞の意味が分からなかったため、母親に聞いたことがあった。

 人間は心が不安定になると癒しを求める。この唄は、おそらくはそのためにある――と蓮華に教えてくれたのだ。

「待て、蓮華――」

 千桜の制止を振り切り、前に出る。今にマッチを床に落とそうとしている美代に一歩ずつ近づいた。

「――眠れぬ子よ、ねんねんころり」

 目を閉じ、口ずさむ。

 辺り一面に咲く蓮華の花畑を脳裏で思い浮かべる。それが美代のもとまで広がってゆき、優しく包み込むように。

「おはなのかおりで、ねんねんこ」

 怒りや悲しみは、心の奥底で眠ってしまえばいい。人間は本来安らかであるべきなのだろう。

「こころしずめて、おやすみよ」

 千桜は目を丸くした。辺り一面に咲いている蓮華の花は、千桜の目にも見えているからだ。

(何が……起こっているのか)

 幻想的な花々を前にして息をのむ。この光景を千桜はかつて目にしたことがあるように思った。
 はじめて蓮華を見つけた夜のことだ。あの日、蓮華の周囲に咲いていた花々は、見間違いではなかったのか──。

 さらに驚くべきことに、蓮華の歌に美代が反応している。
 虚ろだった瞳に色が戻り、体中に巻き付いていた黒い茨のような心が浄化されていく。

 やがて蓮華は美代の正面までたどり着くと、燃えているマッチをそっと手の中からさしぬいた。

「奥様、どうかお心を確かに」

 美代は周囲を見回し、自分が置かれている状況を理解できていない様子だった。目の前に憎むべき蓮華がいる。そう頭では理解していても、依然ほどに怒りが沸いて出てくることはない。幻想的な花々に囲まれ、気を抜かれてしまった。

「私はこれまで、自分自身を愛せずにおりました」
「……」
「母が死んで詫びたように、おそらくは、自分自身の生を喜ばしく思っていなかったためです」

 これまでは、自分自身に執着がなかった。疎ましく思われることも当然と考えていた。何度殴られても、蹴られても、どこか他人ごとのように思っていた。いつしか感情や痛みを忘れ、人形のように生きるようになった。

「ですが、今は……違うのです」

 このようなことを伝えても、逆上を煽るだけかもしれない。しかし蓮華は、伝えねばならないと思った。

「旦那様が愛してくれる自分自身を、愛したいと思うから……だから、死ねません」

 思えば、巴家の人間に真っ向から抗うのははじめてだった。蓮華はいつも、思考を放棄して平謝りするのみであったのだ。

「そんな目を……するようになったのね……お前は」
「……はい」
「どんなに殴っても泣き喚きもしないお前が、心底……気持ち悪かった」

 美代は力なく腰を抜かした。

「お前を受け入れないことで……私自身を慰めていたのよ……」

 蓮華はただじっと美代を見つめた。今後千桜の妻になるうえで、どうしても美代と話をしておきたかったのだ。隣に並ぶに相応しい人間になるために目を背けずにはいられなかった。

「そうでもせねば己の矜持を満たせないとは――……」

 千桜は蓮華が持っていたマッチを引き抜き、さっと火を消した。氷のごとき瞳を向けると、威風堂々と言い放つ。

「やはり、この世は何処かおかしい」

 蓮華を陥れようとした美代を擁護するつもりはない。だが、現在の日の本の在り方には甚だ疑問を覚える。人々は未だに地位名誉に縋り付いている。政治の実権を握るのも、結局は華族なのだ。

 一部の人間はそれ故に己が力を過信する。金や名声がすべてであると勘違いをする。そうして、美代や黒薔薇嶺二のような人間が生まれる。

「頭をよく冷やすことだ」
「……」
「蓮華に免じて、この一件は不問とするが、二度とその面を見せるな」

 千桜は蓮華の肩を抱き、身を翻した。