日が沈んだ頃、千桜が帰宅した小鳥遊家は騒然としていた。

「申し訳ございません……! お坊ちゃま」

 義母である美代と出かけたはずの蓮華が、日暮れになっても戻らない。はな子は顔を真っ青にしてその場で平謝りをする。

 千桜は焦燥と苛立ちで思考が支配されつつも、当主として平静を保ちはな子を見やった。

「何故、外出を許した」
「そ、それは……申し訳ございません、すべて、浅慮であった私の責任でございます」

 はな子は何かを言いかけて、再び深々と頭を下げる。

 油断をしていた――のは自分の方だと千桜はため息をつく。強引に縁談を進める形となったが、社交辞令として、藤三郎を通して巴家には幾何かの優遇をさせてもらっていた。巴家の人間はここしばらくおとなしくしていたために、監視の目を緩めていたのも問題だった。

 恨みを募らせ、突然暴挙に出る可能性も考慮していたはずだったのに。

(あの時の女は巴美代だった。私が見失わなければ!)

 千桜は静かに拳を握る。

(それに見間違えでなければ、あの女は――)

 嫌な予感がする。ダンスホール‟カナリア‟に出入りをする者に頻繁に浮かんでいた黒い毒蛇のような、ねっとりと躰中に絡みつく茨のような心。それが美代にも見えた。見当違いでなければ、美代の精神は闇よりも深い悪意で汚染されている。

(何故、取り逃がした)

 ドン!と壁に拳を打ち付ける。

 おそらくはあのあと小鳥遊家を訪れたのだ。計画的な犯行であったのかは定かではない。よりによって家令の留守をつくとは――反吐が出る。

「お坊ちゃま、只今警察に捜索願いを出してまいりました……!」
「……無駄だ。あのような腑抜けた連中をあてにはできない」

 家令が慌てて駆けてくると、千桜は苛立ちを押しこらえ、極めて冷静に制した。

「申し訳ございません……! 蓮華様に何かあったら、私」
「お前の責任ではない。私が軽薄であったのだ」
「ですが……!」

 はな子の訴えを受け流し、千桜を身を翻して屋敷の中を闊歩する。

 温度のない瞳には、冷ややかな炎が灯る。これまでに戦場でいくつもの死線を潜り抜けてきたが、何度窮地に立たされたとしても思考の冷静さは欠かなかった。

 仲間の命も、自分の命も、決して軽んじているわけではない。だが、国を正しく導くためと考えれば、いつか散らすこともやむを得ないと考えていた。

 千桜は何にも執着しなかった。奇妙な片目があるせいで、母に疎まれながら育った千桜は、自分をも冷静に客観視するようになった。

 そうして、様々な心の色が浮かぶ社会を俯瞰し、時に憤りや疎ましさを感じながらも、正しく導くことを使命として今日まで生きてきた。

 だが。

(裏にいるのは、お前か。黒薔薇嶺二……!)

 千桜は怒りで震えた。

 世界は我がものであるとでも思っているつもりか。

(人間は、貴様の玩具ではない……!)

 過激派連中の歪みにつけ込み、良からぬ働きかけをして、すべての民が平等であれるはずの民主主義をも崩そうとしている。
まるで遊び半分のような感覚だろう。上流階級のみが利用できるダンスホールを設立するなどとは、随分な選民思考があるようだ。馬鹿馬鹿しい。壊れるべきなのは、民主主義ではなく、この階級社会だ。こんなものがあるから、黒薔薇嶺二のような化け物が生まれる。

 中庭で輝く狂い咲きの桜を見上げ、千桜はさらに憤りを募らせた。

(無能な桜の神め、こんなものを授けて、何の意味があった)

 春夏秋冬関係なく咲き誇っている不気味な桜。祖母はこの桜を大層気に入っていたようだが、千桜にとっては煩わしいものでしかなかった。

 夜風にのって、前髪の隙間から桜色の左眼が現れる。他人の悪意を見抜けたところで、それがなんだというのだ。謀り事に気づけたところで、それがなんだ。ぎりぎりと歯を噛みしめ、桜吹雪をつくる巨木を冷たく睨みつける。

‟決して散らぬ桜の木のように。だから、私はその瞳を素敵だと……思うのです″

 蓮華の言葉が脳裏に浮かぶ。

 儚げな表情。見たこともないような――まっさらな心の色。いや、見間違いでなければあの夜、彼女の周りには蓮華の花が咲いていた。

 少しの濁りもない。このような綺麗な心があるのかと目を疑った。氷のように冷え切った千桜の胸に、形容しがたいあたたかさを覚える。千桜はしばし歌声に聴き入り、無意識のうちに声をかけていた。

 何にも代えがたい大切な存在。

 千桜にとってはじめてできた‟愛する″者。

 奪わせない。

 穢させない。

 そう簡単にくれてやるものか。
 
 力強く狂い咲きの桜を見上げる。季節外れの花びらが千桜を取り囲むように渦を作った。
 
 桜色の左眼が宝石のごとく発光する。迸る熱を持ち、千桜はとっさに手のひらを覆いかぶせる。
 
 ――色が見える。まっさらな、だが、儚く繊細な花びらの形をした、心の色。

 ひらひらと何処かへ向かって飛んでゆくそれを目で追いかける。

 まるで千桜を呼んでいるようだった。こちらに来い、と言われているような気さえした。

「蓮華か……?」

 気でもおかしくなったのか、とは思わなかった。たしかに、儚く美しい心が千桜を呼んでいる。

 燃え滾るような左眼を手で押さえ、再び狂い咲きの桜を見上げた。

「神がいるのならば、私を導け。貴様が望む大義名分も、すべて私が引き受けてやろう」

 桜の木はそれに応じるように、神々しく光り輝く。

 千桜は踵を返し、屋敷をあとにした。



 蓮華は夢を見ていた。

 これは、まだ母親が存命だった幼き頃の記憶。隙間風が吹き込む屋根裏部屋で、蓮華は母親に抱き着いている。

「ねえ、お母さん、どうして蓮華たちは、みんなと一緒のご飯を食べられないの?」

 蓮華が尋ねると、母親は悲しげに微笑んだ。

「あの方々と私たちは、住む世界が違うからよ」
「なんで? どうして? 違わないよ、同じ家に住んでるのに」

 蓮華には母親の言葉の意味が理解できなかった。

 その日、巴家では親族が集まった、豪勢な晩餐会が開催されていた。日が暮れるとレコードがかかり、大層に飾り立てた人々が来訪する。厨房では、いつになく美味しそうな香りが漂っていたため、蓮華は給仕中にお腹の音が鳴った。

 テーブルには見たこともないような料理が並び、きらきらと輝いて見えた。あまりじっと見入ってしまっては怒られてしまうため、蓮華は厨房に戻り、皿洗いに徹する。水は冷たく、赤みがかかった手の甲はひりひりする。だが、痛い、とは言えなかった。近くにいる大人たちに伝えれば、たちまち打たれてしまうからだ。

 くたくたになって疲れてしまっても、休んではいけない。お腹が空いても、我慢をしなくてはいけない。そうしなくては、髪の毛を引っ張られたり、厳しく罵倒されてしまうから、蓮華は辛くても耐え抜くしかなかった。

 だが一方で、年が近い千代と喜代は悠々自適な生活をしている。いつでも好きなものを食べられ、綺麗な洋服を着られる。ほしいものをほしいまままにねだったかと思えば、飽きたらあっけなく捨ててしまう。

 どうしてこれほどまでに違うものなのか。晩餐会に参加していた華族たちも同様であり、蓮華と華族とでは、何かが違うらしい。
豪華に盛り付けられた料理には手をつけず、前のめりで世間話に花を咲かせていた。そのどれもが蓮華には分からない小難しい内容ばかりである。

 晩餐会が終わる頃には大量の残飯が出てしまった。蓮華にとっては、一生かかってもありつけないようなご馳走ばかりであったが、華族たちはまるで興味がないらしい。蓮華は、残り物にありつけるのではないかと期待したが、提供されたのはいつもの冷えた白米とたくあんのみ。母親は何度も頭を下げ、それを受け取った。

「あの方々は華族だから、お母さんや蓮華とは違うのよ」

 母親はよくそう言っていたが、幼い蓮華にはやはり言葉の意味が理解できない。

 華族ではないから、蓮華は千代や喜代のように玩具で遊べないのか。家族ではないから、腹が減ってしまっても我慢せねばならないのか。とりわけ、蓮華と百合子においては他の使用人よりも格段に待遇が悪い。まるで塵のように扱われる日々であった。

「どうして、蓮華とお母さんは華族じゃないの?」

 蓮華の父親が巴家の当主藤三郎である事実は知っていた。一度も会話したことがなく、蓮華にとっては怖い存在だったが、腹違いの娘である千代と美代と比べても、何故ここまで扱いが異なるものなのか。

 尋ねると、母親の表情が暗くなる。

「ごめんなさいね……蓮華、ごめんなさい」

 母親は蓮華を抱き締めると、それだけ口にして何も答えてはくれなかった。

 おそらくは、母親の人生は地獄であったのだ。子を身ごもり、一度は生きがいを見出しかけた母親であったが、待ち受けるのは途方もない暗がりの日々。我が子のために強くあろうとする半面、心と躰はひどくやせ細っていた。

 ‟ごめん″ではなく、もっと他の言葉がほしかった。

 たった一度でいい。

 本当は、それでも蓮華さえいれば強くいられる――と。

 ‟産んでよかった″と言ってほしかった。



 カビの生えた臭いがする。

 ぼんやりとした意識が徐々に輪郭を形成すると、蓮華はゆっくりと瞼を開けた。蓮華は冷たい床に寝転がっていた。

 手足の自由がきかない。縄で拘束されている、と気づくのに少々時間がかかった。

 窓がない薄暗い部屋。中央のテーブルには一輪の黒い薔薇が咲いている。

(ここは……)

 起き上がろうとすると、頭に鈍い痛みがはしる。

(たしか、奥様と自動車にのって、それから――)

 どっと押し寄せる焦燥感、不安。蓮華は義母の美代に薬品を嗅がされ、意識を飛ばしたことを思い出す。

 心から謝罪をしてくれたのだと思った。蓮華も逃げずに向き合うべきだと思い、はな子の制止を振り切って美代についていってしまった。
巴家で女中をしていた頃は、よく縄で縛られて折檻されていた。三日ほど放置されていても、蓮華は顔色を変えずに床に寝転がっていたままだったが、今は違う。手首や脚を動かし、縄を緩めようと試みる。だが、びくともしなかった。

 美代は今も変わらず蓮華に怨嗟を募らせていた。娘だと言ったのは嘘だった。悲しいのかは分からない。ただ胸に居座るのは、虚しさだった。

 蓮華はおそらく少しばかり浮かれていたのかもしれない。実の母親が他界してからというもの、まだ幼かった蓮華は素直に甘えられる存在がほしかったのだ。やはり、身の丈にあわない願いだったのか――。

 ふと、蓮華は千桜の顔を思い浮かべた。

(あれからどのくらい眠ってしまったのかしら)

 窓がないために、今が日暮れ前なのか、日暮れ後なのかを確認する術がない。

(はやく、ここから出て、帰らねば……)

 蓮華は床を這いつくばり、出口を探す。

 以前の蓮華であれば、何も考えずに折檻されていた。暴力を振るわれても、自分を客観視すればいくらか痛みを忘れられたのだ。だが、今の蓮華には揺るがない強い信念がある。

(旦那様……)

 おそらくは、すでに日は沈んでしまっているのだろう。帰宅した千桜の心中を思うと、蓮華は胸が痛くなった。

「あら、ようやく起きたのね」

 部屋の扉が開き、人が入ってくる。重い頭を上げると、そこには美代が立っていた。

「いっそこのまま目覚めなくてもよかったのだけれど」

 美代の他に人の気配はない。千代や喜代は一緒ではないようだった。美代は中央のテーブルに飾られている黒い薔薇をうっとりと眺めると、一歩、蓮華のもとに近づいた。

「ふふ、もう少し強い薬を盛っておくべきだったかしら」
「……っ」
「ここまでくるのに随分と時間がかかってしまったけど、お前が騙されやすい阿保でよかったわ」

 瞳には憎悪が浮かんでいる。まるで、用意周到な計画があったようだ。あえて家令が不在にしている時間に尋ねてきた節さえも感じる。小鳥遊家当主千桜の逆鱗に触れるとしても、顧みることなく計画を実行した執念深さ。蓮華は美代の表情を前にして、ぶるりと震えあがった。

「ねえ、教えてくれない? どうして、お前だけが幸せそうにしているのか」
「……奥、様」
「汚らしい非嫡出子のお前が、誰かに愛されるはずもないのに。可笑しいわよね?」

 まるで虫けらを見るような目だった。図に乗るな、と釘をさすような言い方に背筋がひやりとする。

 蓮華は重々に承知していた。小鳥遊家で生活をしてしばらくの間も、きっとそのはずだと思っていた。蓮華の境遇へ向ける同情なのだろう、と信じて疑わなかったが、千桜は蓮華を‟愛する″と言ってくれたのだ。

 千桜の言葉はすぐには受け入れられなかったが、時間をかけて、少しずつ理解していたつもりだった。

「私はね、納得ができないの。お前は生まれてくるべきではなかったはずなのに」
「や、め」
「なぜ、お前ばかり?」
「……おく、さま」
「千代と喜代の縁談は、うまくいかなかったのに。なぜ――お前は」
「……いたっ」

 美代がわなわなと震えると、蓮華の髪を強く引っ張り上げた。

 以前であれば、即座に平謝りをしていた。何事も自分に非があったのだと思い込む方が楽だったのだ。

 当時のもぬけの殻のようだった蓮華はもういない。美代は、光の宿った蓮華の瞳を目の当たりにしてさらに激昂した。

「なによ、その目」
「……うっ」
「謝りなさいよ」
「……」
「謝りなさいと言っているの‼」

 パシン、と鈍い音が鳴る。

 蓮華はその場に倒れこむと、ぎゅっと唇を噛んだ。

「私たちを差し置いて、本当に恩知らずな女。お前が愛されるはずがないでしょう」
「……めて、ください」
「なに、まさか歯向かっているの? 汚い非嫡出子のお前が? 名誉ある華族の私に?」

 ありえない、ともう一度打たれる。何度も、何度も、蓮華の頬を打つ美代の憎悪が晴れることはない。

 蓮華は謝罪の言葉を口にせず、ひたすらに痛みを押しこらえて沈黙を守る。なんの甲斐もないとは分かっていても、心の中で千桜の名前を呼んだ。

 そして逡巡する。あの時、美代を信じずに突き放しているべきだったのだろうか。巴家から目を背け、保身することが正しかったのだろうか。
それは何か違う気がするのだ。蓮華が千桜の妻になるうえで、乗り越えなければならない壁だった。蓮華は自分の力でわだかまりを解消させたかったのだが、浅はかさだったのかもしれない。

「許せない。許せない許せない許せない」
「うっ」
「お前なんてね、いっそ死んでしまえばいい。そうよ、死んで詫びなさい。死んでしまえ! アハハハッ、あの女のように滑稽にねえぇ……‼」

 美代の瞳の憎悪がさらに増してゆく。美代は果たして以前からこのような顔をしていただろうか。肌は青白く、目元には隈ができている。唇には血が通っていなかった。加えて焦点があっていない瞳だ。まるで悪意に憑りつかれているかのようであり、おぞましく映った。

「――お楽しみのところ申し訳ございません」

 再び振り上げられた右手。蓮華が目を瞑ると、気品ある男の声が聞こえた。

(この声は……)

 第三者の介入に安堵するどころか、体温がさらに二、三度下がった気さえした。まるで闇夜に引きずり込むその声を、蓮華は過去に耳にしたことがある。

「こんばんは、よい夜ですね。巴蓮華様」

 瞼を開くと、黒薔薇嶺二がうやうやしく礼をとっている。艶やかな髪に、西洋人形のような顔立ち、悪意に満ちた危険な人物が再び目の前に現れた。

「黒薔薇様……私、どうしてもこの女が許せないのです。いくら痛めつけても足りないのです」
「ええ、ええ、ですが、貴女のお役目はもはやここまででしょう」
「そんな、お待ちください。黒薔薇様は、私のお気持ちを組んでくださるとおっしゃっていたではないですか」
「そうですね。おかげでとても面白いものが見られましたし、貴女には感謝しているのですよ」

 美代は黒薔薇嶺二に縋りついているようだ。この二人がどうして繋がっているのかは蓮華には理解ができずにいたが、まるで裏で糸を引いていたのは黒薔薇嶺二であるかのようである。

「ご苦労様でした。ご婦人、私が良いというまで――静かにしていてくださいね」

 狼狽える美代を冷たく一瞥すると、美代は「分かりました」と不自然に押し黙った。

「巴蓮華様、私は貴方とお話がしたい」
「……話?」

 腫れあがった頬を冷たい指先で撫でられ、悪寒がした。怖い。あまりこの目に見られていたくはない。笑っているようで笑っていない。一切の光を宿さない生気のない目だ。

 この場に長居してはならない。今すぐ逃げなくてはならない。だが、まるで躰の力が入らない。

 蓮華は小刻みに躰を震わせ、心の中で千桜の名前を何度も呼んだ。

「貴方の心の闇を、どうか私にお見せください」

 黒薔薇嶺二は目を三日月型に細めて笑った。


  *


 千桜は自動車に乗り込む直前に、はな子から小袋を手渡された。

「本来は私からお渡しするべきものではないのですが、今、お坊ちゃまのお手にあるべきだと思いまして……」

 何かと聞けば、蓮華が真心を込めて縫ったハンケチだという。千桜は言葉をなくし、綺麗な小袋を握り締めた。

 何事もなければ、帰宅後に手渡されるはずだったと聞かされ、千桜は静かに苛立った。

「蓮華様は本当に、手渡されるのを楽しみにしていらっしゃいました」
「……そうか」
「最近は表情が豊かになられていたのに……どうして」

 はな子が悔しげに唇を結ぶ。千桜は小さくため息をついた。

「巴美代を屋敷に招いてしまったのは、私の落ち度でもある」

 日中に見かけた女は間違いなく巴藤三郎の妻美代であった。茨のようにまとわりついている黒い心の色も確認できた。あの場で見失っていなければ、この状況は未然に防げたはずだ。

 あの心の色を持っている人間の思考は危うい。反社会的な動きをする軍部の人間にもその兆候があるほどだ。

 もし仮に黒薔薇嶺二に何らかの影響を及ぼされているとすれば、蓮華の身が危ぶまれる。一刻も早く探し出し、連れ帰らねばならない。

「いいえ、お坊ちゃまは何も悪うございません。私がもっと警戒をしていれば……」

 はな子は表情を暗くし、うつむいた。

「蓮華様は嬉しそうにされていたのです。美代様のお言葉を信じたいと思われたのでしょう」
「ああ」
「だけど、あんまりです……! 蓮華様が何をしたというのですか。生まれてきた子に罪はないというのに!」

 生まれた子には罪はない。その言葉を千桜は無言で噛みしめた。

 千桜自身も生まれ持った左眼のせいで母親に疎まれながらに育った。今の世は、他者と異なる境遇にある者を受け入れることなく、頑なに拒む傾向にある。人間の尊厳がこの先もこのままであってよいはずがないのだ。

「必ず、蓮華様を連れてお戻りくださいまし」
「約束しよう」
「お坊ちゃま、くれぐれもお気をつけて」

 家令も玄関先まで出てくると、千桜は踵を返して自動車に乗り込んだ。

 ――ここは蓮華の帰る家だ。

 相手が誰であろうが、奪わせやしない。

(待っていろ、今向かう)

 ひらひらと飛んでいる心の花を、輝く左眼で追いかけた。

 *

 黒薔薇嶺二の悪意に染まった瞳を前にして、蓮華はぶるりと震えあがる。

 この薄暗い空間は、地下室か。蓮華は今いったいどこに幽閉されているのか。考えようにも外の景色も見られないため、検討がつかない。

 蓮華が息をのむと、黒薔薇嶺二は目尻を下げて笑った。

「今、どんなお気持ちですか?」
「……気持ち?」
「憎らしいですか? 腹立たしいですか? それとも恐ろしいですか?」

 黒薔薇嶺二の目を見ていると、闇の底に沈んでゆくような気がした。心の隙間を蝕んでゆくような感覚がする。言葉を交わしているだけで、思考が侵されてしまうような予感があった。

「こんなに殴られてしまって痛かったでしょう。どうして私が? そう思いません? 思いますよね?」

 蓮華は唇を結んで押し黙った。黒薔薇嶺二が高揚しながら口を開いている背後で、美代は不自然に棒立ちしている。まるで操り人形のように、心ここにあらずな状態のようだった。

「蓮華様も、千代様や喜代様と同じ藤三郎氏の御息女。母親が異なるだけだというのに、何故ここまで虐げられなくてはならないのか?」
「やめて……ください」
「いっそ彼女に謝罪していただきますか? そうしなくては、恨めしくて恨めしくてどうにかなってしまうのではないですか?」
「……結構、です」
「あらあら何故ですか? これまで散々苦しめられてきたのではないですか? ご自身の生をも否定され続け、それでもなお、貴女は地を這ってでも生きてゆくしかなかったのでは?」

 黒薔薇嶺二の声を聞いていると気分が悪くなった。耳を塞ごうにも手首の自由が奪われているため、それができない。

「実のお母様についても、不憫でなりませんねえ。首を吊られて亡くなられたのだとか。貴女はそれを目の前で確認されたのだと聞きましたが、いったいどんなお気持ちだったのでしょう」

 黒薔薇嶺二の目が三日月型にゆるりと歪む。まるでこの状況下で悦楽に浸っているような表情だ。

 蓮華の境遇に同情しているのではない。歪んだ興味関心を向けられているだけであることを、蓮華は理解した。

「酷いですねえ、我が子を置き去りにして、自分だけ楽になろうとするなんて」

 寒い日の朝、母親が首を吊って死んでいる光景が脳裏に浮かぶ。ミシミシと木目が軋む音がやけに耳に残っている。変わり果てた母親の姿を前にして、蓮華は声を出すことができなかった。

 悲しかったのか。

 いや、虚しかった。

「あまりに無責任ですねえ? 優しい母親のふりをして、本当は蓮華様をずっとずっと後ろめたく思っていたのでしょうか?」
「……やめて」
「貴女を産んだことを死んで詫び、身勝手に生から逃げたお母様を憎みましたか? 恨んだでしょう? 恨んだでしょうとも」
「……やめて、ください」

 黒薔薇嶺二はにたりと口角を上げる。闇夜のごとき瞳はおぞましく、見ているだけで底なし沼へ落ちてゆく感覚があった。

 油断をすれば、漆黒に支配されてしまう。黒い影から数多の手が伸び、蓮華を引きずりこもうとする。

 恨んでなどいない。いや、本当に断言できるだろうか。それは綺麗ごとに過ぎず、少しは恨んだのではないか。

 何故、蓮華をおいて死んでしまったのか。死んで詫びるのならば何故、蓮華を産む決断に至ったのか。

 のたうち回って嘆きたかった。慟哭するほどに悲しかったはずだ。

 絶望の淵に立たされ、すべてを呪いたいと思ったのではないか――。

「そんな貴女とお母様をここまで陥れたのは、誰でしょう。そう……巴家ですねえ」

 バチバチと焼却炉が燃える音がする。母親が焼かれていく光景を、幼い蓮華が呆然と見つめている。

 誰一人母親の死を悲しまなかった。ろくに弔いもせず、むしろ迷惑そうに眉を顰めるばかりであった。

 人間の死がこれほどまでに呆気ないものだと知った。

「ああどうして! あんまりだ! 貴女方を虫けらのように扱い、実のお母様を死に追いやった! 一方でのうのうと生きている巴家の皆様を許せなかったのではないですか?」
「ちが」
「違わないはずです。悔しかったのではないですか? 無念だったのではないですか? この世で唯一、貴女を必要としてくれていたはずのお母様にも見限られてしまったのだから!」

 黒曜石のごとき瞳が蓮華の目の前でゆらゆらと揺れている。潜在的な負の感情に訴えかけるような、危うい瞳だ。

 ああ、何故。

 何故、何故何故何故。

「まともな葬儀もあげてもらえず、お母様の遺骨ひとつ残っていない。ああ、なんて酷い家だ。憎い。憎らしい。いっそ、跡形もなく滅んでしまえばいいのに」
「おやめ、ください……!」
「彼らが阿鼻叫喚する顔が見たい! 絶望の淵に追いやりたい!」
「……っ」
「巴家など、燃えて消え去ってしまえと思いませんでしたか……!」

 これ以上黒薔薇嶺二の悪意のある声を聞いていたくなかった。蓮華は、黒光りしている瞳から視線を逸らし、硬く目を閉じる。

 震えている蓮華に反して、黒薔薇嶺二は高揚していた。

 蓮華の思考はしだいに曖昧になる。思い浮かべるのは、千桜の威風堂々とした横顔だ。

(ハンケチをお渡ししたかった)

 狂い咲いている桜の木を見つめる千桜。疎まれながらに育った蓮華に、千桜はかつて自愛しろと言った。だが、それは千桜自身にも言えることだ。

 どうか自分自身を嫌わないでほしかった。実の母親から拒絶されてもなお、たくましく生きている。それだけでなく、国のために大義名分を背負う千桜は立派である。

 いつか千桜が伝えてくれた言葉をそのまま返したい。この気持ちが、きっとそうなのだ。あたたかくて、優しい。

(伝えたかった)

 千桜が自愛できないのなら、今度は、蓮華が――。

「その薄汚い手を放せ、黒薔薇嶺二」

 意識が朦朧とするさなか、毅然とした声が一閃した。


  *


 花の形をした心の欠片が飛んでいった先には、廃屋があった。人気のない林の中に建てられたその場所に――蓮華がいる。

 自動車を横付けした千桜は、蔦が絡みついた廃屋を冷たく睨みつける。

 不自然なほどに警備の手がぬるい。探し出す手立てもないだろうと舐められていたのか。扉を開け放ち中に入ると、カビの生えた臭いがした。

 廃屋の中は人の気配がなく、壊れた家具が置いてあるだけでまるでがらんとしている。

 可笑しい――……間違いなくここに蓮華がいるはずだ。

 千桜の左眼が先ほどから疼いている。蓮華を象徴する淡く儚い色をした心がこの場所を示しているのだ。

 今までは、この特異な左眼を疎ましく思っていた。他人の心が見透かせたとして何になるのか。本音と建て前が見え透いてしまい、興ざめするばかりである。
桜の神とやらが本当にいるのならば、この奇妙な力をもって何をしろというのか。

 千桜はそう考えていたが、今ばかりはこの左眼が役に立つ。

 辺りを見回すと、壁の一部に不自然な箇所があった。明らかに材質が異なるその部分を軽く叩くと、先に空間がある音がする。

(この先か)

 よく見なければ分からない隠し扉の仕掛けが施されていた。千桜は軽々と開け放ち、地下へと繋がる階段を発見する。造りから鑑みるに、戦時下に使われていた防空壕の名残のようだ。

 薄暗い階段を降りると、細長い通路がある。レンガ造りの壁は年季が入っていて、長い間手入れがされていないようだった。

(やはり、ここにいる)

 奥に進めば進むほどに花の形をした心の欠片の濃度が強くなる。踵を返し、最奥につながる通路を進んだ。


 蓮華が幽閉されていた地下室には、見るに堪えないほどの漆黒が渦巻いていた。その場で何故かもぬけの殻と化している美代はもちろんのこと、その中でひと際黒く染まっている男がいる。

(やはり同じ色、形だ)

 ダンスホール‟カナリア″の支配人――黒薔薇嶺二。

 東雲陸軍中将をはじめとする反総理大臣派閥にみられる奇形な心。美代に出ている禍々しい茨のような心も、黒薔薇嶺二のそれと酷似している。
千桜の中で生じる静かなる激昂。

 黒薔薇嶺二はゆっくりと振り返ると、気味の悪い微笑を浮かべる。

(蓮華は……無事か)

 黒薔薇嶺二のそばには、目を丸くして千桜を見つめる蓮華がいた。手足を拘束され、床に倒れこんでいる。頬が赤く腫れあがっているのは、おそらくは美代に何度か殴られたのだろう。

 最悪の事態は避けられたか。

 だが、このような蛮行は許されない。負の感情を制御できぬ美代もほとほと呆れるが、それを利用する黒薔薇嶺二には憤りが隠せない。