三
メインフロアを飛び出すと、周囲の視線は蓮華へと降り注いだ。
それらは決して心地よいものばかりではなく、蓮華の胸にちくちくと突き刺さるような好奇や嫉妬も混ざっている。
一人で勝手に抜け出してしまった手前、今、蓮華の隣には千桜がいない。
いったいどれほど自分が守られていたのかを実感して、途端に心細くなった。
(しっかりしなくてはならないのに、なんて情けないのかしら)
庭園へと向かうために身を翻した時のことだ。
「あらぁ、誰かと思えば」
「あらあらまあまあ」
通りかかった女二人に声をかけられる。俯いていた顔を上げて、蓮華はハッと肩を震わせる。
声をかけてきたのは、姉である千代と喜代だった。
蓮華は顔面蒼白になり、衝撃のあまりその場で棒立ちになった。巴家で受けてきた仕打ちや、社交場で見せ物にされた記憶が蘇る。また、あの時のような扱いを受けるのかもしれないという考えが脳裏によぎった。
千代と喜代は蓮華の身なりをじろりと一瞥する。
千桜には胸を張れと言われたが、どうにも難しい。蓮華は、誇れるほどにはまだ何も成し遂げられていないからだ。
「馬子にも衣装とはまさにこのことかしら。ねえ、お姉さま?」
「そうね喜代さん。小鳥遊様に仕立てていただいたのかしら。まぁ羨ましいこと」
やだやだ、と扇子で口もとを隠す千代と喜代。
蓮華は俯いたまま黙り込んだ。
「随分と小綺麗にしていただいているのね」
「うちにいた時は、溝鼠のように汚らしかったのに。ねえ、お姉さま?」
「だめよ喜代さん。この方はなんといっても小鳥遊様の奥様になられるんですもの。失礼なことは言えないわ」
「あらあら、ごめんなさいお姉さま」
口では謙遜をしているものの、態度は相変わらず刺々しい。
名家である小鳥遊家の当主千桜が相手ともなると、迂闊な発言は控えなければならない。千代と喜代は互いに顔を見合わせながら、わざとらしい謙遜をする。
だが、蓮華を見る目には嫌悪感が浮かんでいるのだ。妬み、嫉み、蔑み。蓮華は千桜のように心の色を可視できないが、目の前の二人が何を思っているのかは手に取るように分かった。
「突然の縁談ですもの。嫁ぎ先で奴隷のように扱われていないか心配していたのに、ぴんぴんしているじゃない」
「そうねお姉さま。見る限りでは、小鳥遊邸でさぞ良い暮らしをさせてもらっているみたいですわよ」
「なんの芸も持ち合わせていない出来損ないだったのに、おかしいわねぇ。いったいどんなご奉仕をしていたのかしら?」
千代と喜代の金切り声がよく響いた。クスクスと嘲笑ってくる姉たちを前にして、蓮華は弾かれたようにはっと顔を上げる。
奉仕などしていない。千桜のような公明正大な男がそんなものを求めたりしない。
自分のことをどう言われようが何も響かなかったが、千代の軽薄な発言に何故かちくりと胸に違和感が残った。
「……違います」
「え? なによ」
「奉仕などしていませんし、旦那様はそのような下劣な行為を求めたりいたしません」
これまでに一度だって千代と喜代に言い返したことはなかった。暴言も侮辱も、蓮華はなんだって受け入れた。
だが、それが千桜にまで及ぶというのなら黙ってはいられなかったのだ。
「急に食い下がってきて、どうしたのかしら」
「そ、そうよねえ、お姉様?」
姉たちは顔を見合わせ、不快そうに眉を顰めた。
「ふうん……へえ、そう」
「小鳥遊家相手に私たちが迂闊に手出しできないからって、随分と調子にのっているじゃないの」
違う。そうではない。決して調子にのっているわけではない。ただ蓮華は、千桜までもが侮辱されているようで我慢ならなかっただけだ。
「お前はもうすっかり華族気分でいるようね。余計にお母様が不憫でならないわ」
「最近はお元気がないものねえ。私たちの縁談はまるで上手くいかないし、どうしてお前だけ……と思わずにはいられないけれど」
ふん、と鼻を鳴らすと、蓮華の脇を通り過ぎる。
「せいぜい勘違いしながら生きることね」
「ごめん遊ばせ? 溝鼠のお姫様」
黙り込む蓮華の背後から、クスクスと嘲り笑う声が聞こえてきたが、今の蓮華には気にしている余裕はない。
(とにかく今は、はやく外に)
蓮華は人目を避けるようにして、庭園へと駆けていった。
混沌とする館内から抜け出し、蓮華は静かな庭園で一人月を見上げる。
賑やかな笑い声が館内から聞こえてくる。
同じ敷地内ではあるが、人気のない静かなこの場は幾分息がしやすいような気がした。
(旦那様にあとで叱られてしまうかしら)
千桜の了承を得ずに飛び出してしまったが、今思えば早計だったかもしれない。ああやって姉たちと遭遇して、千桜の株を下げるような真似をしてしまった。
蓮華は月を見上げながら、鬱々とする。
何をどうするのが正解だったのだろう。蓮華はただ、千桜の足手まといになりたくない一心だったのだ。毅然とした態度でいられればどんなによかったか。蓮華は未だ、自分自身を蔑まずにはいられない。
ふと右手を見ると、大きな木があった。既視感があると思ったが、おそらくはあの日見た桜の木だろう。小鳥遊家の中庭に咲く狂い咲きの桜とは違い、青々とした葉っぱをつけている。蓮華はふと心寂しい気持ちになった。
(可笑しいわ。今まではちっともそうは思わなかったのに)
常に小鳥遊家で親切な人たちに囲まれているからだ。だから、今までの感覚を忘れてしまっていた。これでよいのだ。よかったのだ。政治の知識もない蓮華があの場にいても邪魔なだけ。せめて、迷惑にならないように振舞わねば。
蓮華が夜闇の中で一人俯いた――その時のこと。
「うううっ……ひっく、ひっく」
子どもがすすり泣く声が聞こえる。
蓮華はふと気になり、辺りをしきりに見回した。迷宮のごとく入り組んでいる薔薇園を進み、声の出どころを探す。
オリーブの高木が生えている温室の前で、子どもがうずくまっている。髪の長さやドレスを着用しているあたり、女児であるとうかがえた。
「あ、あの、いかがされたのでしょうか」
いきなり声をかけても驚かせてしまうかもしれない。ましてや、己のような陰気な女だ。
安堵させるつもりがかえって余計な不安を招きかねない。そう思ったのだが、ほぼ無意識に声をかけてしまった。
女児は目元を擦って、顔を上げる。
「ごめん、なさいっ……! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
だが、蓮華の顔を見るなり、顔を真っ青にして震えあがった。
がくがくと足をすくませて尻もちをついている。
せっかくのドレスに土がついて汚れてしまっている。予想もしていない反応を前にして、蓮華は狼狽した。
なんと声をかけるべきか。いや、この子はそれを望んではいないのかもしれない。
この時、蓮華は自身の対人能力が著しく低いことを実感した。
おろおろしていると、女児は大粒の涙を流して再び泣き出してしまう。
「うああっ、おうちに、かえらなきゃ! できない子だから、できない子なんだ。できない子は、かえらなきゃ!」
「えっと、あの」
「苦しい、かなしい! かなしいっ、かなしいかなしい、うっ、あっ、うううっ、あぁぁぁ!」
おそらくは華族の令嬢なのだろう。
どうしてここまで取り乱して泣いているのかは分からなかったが、あまりに冷静さを失っている。
このあたりには葉が尖っている木々が生えているため、万が一肌を引っ搔いてしまったら一大事だ。放っておくのはよくないと考え、さめざめと泣いている女児の前に咄嗟に腰を下ろす。
(こんな時に、いったいどのように声をかけたらよいの)
どこか――様子が可笑しい。この社交場が嫌になったのかもしれないが、たとえ幼子ではあるとしても、異常な泣き方をしている。
蓮華でもそれは理解できた。
放っておけば良くない気がするのに、蓮華は己の無能さに打ちひしがれる。
おそらくは千桜であれば、息を吐くように宥め聞かせるのだろう。
なんと自分は非力なのだ。社交の場でも役に立たず、用事が済むのを待っていることしかできない。極めつけには、泣いている子どもをあやすのもままならないとは。
蓮華の表情に靄がかかった。
何か、何かないものか――と思考を巡らし、一つだけ脳裏によぎる。
気休めにもならないかもしれないが、蓮華にできることはそれくらいであったのだ。
「――眠れぬ子よ、ねんねんころり」
口ずさむと、亡きの母親の面影が浮かんだ。思えば、千桜とはじめて出会った時もこの子守唄を歌っていた。
「おはなのかおりで、ねんねんこ」
瞳を閉じ、一面の花畑を想像する。野原を淡い桃色に染める蓮華の花。ちょうど今頃が見どころなのだと母親は言っていた。桜の花が終わり、暖かくなってきた頃。藤の花が咲き始めると蓮華の花も咲くのだと。
ふわり、風が吹き付ける。
ほんのりと甘く優しい花の香りがする。
目を閉じて想像しているだけであるのに、不思議だ。ただ、女児の心が安らいでほしい一心で唄を口にする。ゆっくりと瞼を上げると、冷静さを取り戻し、ぽかんと口を開けている女児と目があった。
「――……すっ……ごい」
「え?」
女児が泣き止み、ほっとしたのも束の間、蓮華は再び狼狽した。
「なんかね、お花がぶわぁっ……って! 今の、どうやったの……?」
「お花? あ、あの、それよりも」
「すっごく綺麗だった……もう一回やって!」
何がどうなっているのか。蓮華はただ母親から教えてもらった子守唄を歌っただけだ。身に覚えのない要求になんと返すべきか逡巡する。
「ごめんなさい。あの、その」
もう一回とは、具体的にどのようにすればよいのだろう。狼狽えていると女児は首を傾げる。先ほどまで取り乱して泣いていたとは思えないほどに、けろりとしている。
「んー……なんだあ、夢でも見てたのかなぁ……?」
蓮華はまったくもって状況がつかめずにいたが、ひとまずは女児の表情が明るくなり安堵した。
「ご気分はいかがでしょうか?」
怪我などはしていないか。ドレスについた土を払ってやると、少女は再びぽかんとした表情をする。
「あれ……? そういえば、なんだかすっごく悲しかったような……」
「悲しかったような?」
「すっごく暗い気持ちになって、何もかも嫌になって……でも、あれ? なんでだったんだっけ……」
女児は、自分の中で答えが見いだせずに眉をひそめている。蓮華もまた胸に得体の知れぬしこりが残った。
(どうして覚えていないのかしら)
泣き喚いていた時と今の表情が、まるで別人のようにも思える。これでよかったのか。たかだか子守唄ではあったが、気が紛れたのであれば甲斐があったというものだ。土を払って立ち上がった女児は、きょろきょろと周囲を見回す。
「そういえば、なんでこんなところに」
「え……?」
「お母様とお父様と一緒に、綺麗なお部屋の中でクッキーを食べてたの。なのに、なんでお外にいるんだろう……うーん」
女児の発言は先ほどから現実味を帯びていない。信じがたい内容ではあるが、女児が嘘をついているようにも思えなかった。
千桜がこの場にいたのなら、適格な判断を下せたのだろう。このあとになんと問いかければよいのかと悩まずに済むのだろう。
「……あ、お母様とお父様だ!」
すると、女児の表情がぱああと明るくなった。蓮華のもとを立ち去る小さな背中をぼんやりと見つめる。
女児には、父と母がいる。帰る場所がある。蓮華にも実父はいるが、絶縁されているも同然であり、義母には疎まれている。実母は自決をしていたため、すがる場所などなかった。
――これが、羨ましいという感情か。
蓮華の頭上に月光が差し込んだ、刹那のこと。
「こんばんは――麗しいお嬢さん」
もう誰もいないはずの庭園で、静かな声が響いた。
蓮華は肩を震わせ、周囲を見回す。すると、薔薇園の中から出てきた人物がいた。月光に照らされている蓮華とは対極的に、闇の影から現れ出た男。年齢は千桜より少し年配であるように思えたが、ここからではよく表情がうかがえない。
物腰柔らかな口調や、可憐な身のこなしから、華族の――それも家督の高い人物であるように感じた。
「……こんばんは、御機嫌よう」
蓮華はとっさにドレスに手を添えて礼をとる。
ゆっくりと顔を上げると、闇の中に立っている人物の顔が徐々に明らかになった。
と同時に、蓮華は猛烈な後悔の念に駆られる。読み書きや礼儀作法などの教養はかろうじて得ているが、華族の人間の情報はまったく頭に入れていなかった。
こうなることが予想できていたら、千桜に名簿を見せてもらうべきだった。どうしてそのような機転がきかないのか。すべて千桜任せにしている己が恥ずかしく思った。
男は息を飲むほどに美麗な容姿をしていた。だがそれは千桜とは違う美しさだ。光を通さぬ漆黒の瞳に、艶のある黒髪。意匠の燕尾服の胸もとには、黒い薔薇のブローチがついている。まるで西洋の人形のように完璧な外見だった。
「あの……」
(いったいどなたかしら)
名前が分からないなど無礼極まりない。かといってこの場から逃げ出すこともできず、蓮華は狼狽えた。
「ああ……なんと光栄な巡り合わせでしょう」
「光栄……?」
「巴蓮華様、あなたは、素晴らしい」
蓮華は目を見開き、愕然とした。まだ名乗ってもいない。
しかもよりによって‟巴″の性を知る者は、数えるほどだ。それなのにどうして氏名を把握しているのか。
男は目尻を細めると、一歩一歩蓮華のもとへと近づいてくる。
「どうかあの唄をもう一度お聴かせ願いたいものです」
「あ、あの」
「ここではお恥ずかしい? ふむ……そうですねえ。であれば、私のお部屋にでもお連れしましょう」
なぜ、恍惚とした表情を浮かべているのか。蓮華には理解ができなかった。
家督の高い華族の指示に背いてしまっては不敬に値する。本来であればたかだか唄くらい、見世物として披露すべきだろう。だが、蓮華の躰はそれを拒絶する。
「ひ、人を待っておりますので、遠慮させていただきたく存じます」
蓮華はとっさに俯いて、失礼を覚悟で断りを入れる。
蓮華は千桜にここで待っていると告げたのだ。約束は守らねばならない。
「貴女の未来の旦那様は只今、軍略会議の真っただ中でしょう? 貴賓室にこもって、それはもう大層な計画を練られていらっしゃる。お待ちになるのは些か退屈でしょう」
「……ど、どうしてそれを」
「それにここはダンスホール‟カナリア‟ですよ? 少しくらい羽目を外しても……よいのです」
手袋がはめられた細長い指が蓮華の顎へと伸びてくる。
(旦那様が上官殿とお話をされているなど、あの場に居合わせていた私くらいしか知らないはず)
本能が避けねばならないと告げているのに、躰が鉛のように動かない。男からは妖艶な薔薇の匂いがした。
「さあ、お話をいたしましょう。私のことが気になるのであれば、お部屋でじっくりお教えします」
「い、いえ、そんなつもりは」
「私、鳥肌が立ってしまって仕方がないのですよ。神の思し召し。いやはや、本当に素晴らしい……」
「あのっ……」
「そうか……そうですか、あなたが。ああ……そうでしょうとも。私たちは有象無象の屑どもとは違い、──……選ばれし人間なのです」
男は高揚していた。蓮華の顔をよく見るように顎を引くと、うっとりと目を細めた。
(この方にあまり近づいてはいけない気がする)
どうにかせねばならない。だが、蓮華は護身術の知識もなく、巧みな話術でかいくぐることもままならない。
脳裏に浮かぶのは千桜の顔だ。冷たい目をした心優しい人。闇よりも光が似合う立派な人。いつしか蓮華は。千桜のために生きたいと思うほどには、そのまっすぐな志に強く惹かれるようになっていた。
「おやめ、ください」
「貴女は私と同じ。巴家は名のある華族ですし、私生児とはいえ、そう悪くはないでしょう。いいですねえ、私は貴女のことがもっと知りたくなった……」
ぶるりと背筋が震え上がる。
(この方は何処までご存知なの)
氏名だけでなく、出生の詳細まで知っているとはいったい何者なのか。
「……離して、ください」
「ふむ……」
蓮華はこれまで、己自身にはなんの関心もなかった。
殴られても、蹴られても、罵倒されても、どこか他人事のような感覚があった。靴を舐めろと命じられればその通りにした。土下座をしろと命じられればその通りにした。
そうしなければ生きて行けなかった。だから、己についての矜持のいっさいを捨てていた。
けれど今は、違う。
(このような私でも愛してくださる旦那様がいる)
千桜が向けてくれた気持ちに応えるための矜持だ。
怯えや不安を消し去り、まっすぐ男を見つめると、あっさりと指先が離れていった。
「……残念です。あなたの騎士ナイトがもうこちらに向かわれているようですね」
蓮華はほっと肩を撫でおろす。男は両手を広げてわざとらしく肩を窄めた。
急ぐそぶりも見せず、持っていたステッキを優雅に振りながら闇の中へと歩みを進める。
「今夜はとてもよいものを見せていただきました。ええ、本当に」
「……あなたは、いったい」
「またどこかで会いましょう……蓮華の花の、お嬢さん」
*
蓮華は気の抜けたようにその場に立ち尽くす。
あたりには独特な香りを放つ薔薇園が広がっている。館内から聞こえたはずの華族の笑い声が、ようやく蓮華の鼓膜を揺らした。男の瞳に見つめられると体温が二、三度下がってゆく感覚があった。
あの男はいったい誰であるのか。
膝の力が入らず大きくふらついたが、地面に倒れることはなかった。すんでのところで肩を抱き寄せられ、蓮華は何者かの胸に躰を預ける。
「おい、どうした」
優しい桜の香りがする。
──千桜だ。
蓮華の視界には、冷たい右眼と鮮やかな桜色の左眼がある。緊張がどっとほぐれ、蓮華は思わず千桜の胸もとを掴んでしまった。
「顔色がよくない」
「旦那様……」
「――何が、あった?」
情けない。勝手な判断で千桜のそばを離れたことにより、かえって心配をかけてしまっている。
口にすべきか逡巡したが、千桜の目は有無を言わさないといった具合に鋭い。蓮華はゆっくりと唇を開き、一連の出来事を打ち明けることに決めた。
「いえ、あの……きっと気にするべきではないのかもしれないのですが、男性に……声をかけられました」
「男? どんな人相だったか覚えているか」
「とても、紳士的な振る舞いをされていらっしゃって……それから、黒い薔薇のブローチをつけて、いらっしゃいました」
蓮華が男の特徴を口にすると、千桜の目が鋭く細められた。
「黒い薔薇……だと……?」
蓮華はこくりと頷く。
「また、どこかで会いましょう……と。でも、私、その方と面識はないのです。誰であるのかも分からなくて、だから」
男の笑みには、底震えするほどの恐ろしさがあった。巴家の人間の、蓮華をあざ笑う笑みとも違う。もっと深い闇の香りがする不気味な笑みだった。
「くそ……何が狙いだ」
千桜は静かに苛立った。蓮華の肩を抱くと、自らが着ていた軍服を脱ぎ、羽織らせる。蓮華の躰は知らぬ間に冷え切っていた。
「すまない。やはり、一人にさせるべきではなかった」
「いいえ、私が勝手に出てきてしまったのが悪いのです。それに……あの方にも、もう会う機会もないでしょうから」
「……」
「それよりも、申し訳ございません。大切なお話し合いの妨げになったのではないでしょうか」
「いや、私のことは気にするな。聞くに堪えないくだらん話だったから、軽い牽制をして出てきたのだが──……それよりも」
小鳥遊家で過ごしている蓮華は、基本的に外出する機会は少ない。
夜会にも進んで参加しようとも思わないため、おそらくは杞憂に終わるだろう。
あの男の発言には身に覚えのない部分が多々あり、困惑した。"素晴らしい"などと褒め称えられるような価値が蓮華にあるとは思えなかった。
冷徹な目を向けてくる千桜を前にして、蓮華は己の浅はかさを猛省する。
「ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
頭を下げると、頭上から深いため息が落とされた。
「杞憂で済めばよいのだが……あまり、よい予感がしないものでな」
さまざまな欲望が渦巻くダンスホール‟カナリア‟は今夜も眠らない。世俗から隠匿された場所で、ミツバチたちは背徳的に蜜を吸いあう。まるで悪意を持った何者かの手で創り上げられた理想郷のようだ。
千桜は自らの左眼を手で押さえる。とぐろまく黒い色。
メインホールでは、最近はよくそれと似た色を見かけるようになったが――。
「蓮華に何用だ……黒薔薇嶺二」
人間の心を見透かす桜色の瞳が疼いていた。
一
ダンスホール‟カナリア‟での一件があり、念には念を入れて、蓮華は極力外出を控えるようになった。
とはいえ、蓮華はもとよりほとんど屋敷の中で過ごしていたため、生活に大きな変化はなかったのだが。
朝は千桜と朝食をとり、日中は勉学や稽古事に励む。夕方になると、食事の支度を買って出るようになった。千桜が勤めから帰ると、玄関先まで迎えにゆく。そのまま夕食をともにし、時間があえば縁側で桜を眺める。
一時は謎の男の接近があり、得体の知れない不安を抱いたが、日常には何の変化もない。やはり、もう会うことはない。妙な胸騒ぎは杞憂だったのだ――と思うくらいには、小鳥遊家の生活に安らぎを抱いていた。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
「ああ、行ってくる」
玄関際で鞄を手渡すと、千桜の冷たい瞳が向けられる。
こうして千桜を送り出す瞬間に、蓮華は思うことがあった。今の生活は穏和で、それこそなんの不便もない。女中たちも蓮華に大層よくしてくれていて、身に余るほどだ。いつまでも続いてゆけばいいのに、と考えるのは烏滸がましいが、そう思うほどには安らかな日々がある。
(待っていることしか、できないのかしら)
あたたかな生活に安堵する一方で、日々国のために立派な勤めを果たす千桜に何かを返したいと思う。最近では、家令に無理をいって食事の支度を手伝わせてもらっているが、それだけでは足りないような気がする。
このような気持ちははじめてだった。誰かに、どうしようもなく捧げたくなるような感覚は。
「何か変わったことがあれば、すぐに周りの者に伝えるように」
「……はい」
「それから、花を生ける腕を上げたな。よければ、今度こそ私の部屋に飾らせてくれ」
蓮華の頬が沸騰したように熱くなる。胸がふわふわと浮かび上がるような感覚。これは、‟嬉しさ‟か。それとも‟恥ずかしさ‟か。
蓮華は返答に困り、こくこくと頷いた。
「お邪魔にならないとよいのですが……」
「そうやってすぐに謙遜をする癖は、簡単には治らないな」
千桜は眉を下げて小さく笑った。蓮華はつい、やわらかい千桜の表情を見つめてしまう。
千桜は帝国陸軍のそれも少佐ともあろう人だ。毎日国のために勤めを果たしている。それが義務であり、使命であり、千桜自身であるのだ。そうは分かっていても、時々、玄関先で見送るのに‟寂しさ″を抱く時がある。
傲慢だ。身の程知らずも甚だしい。
いつでも、どこでも、隣に並んでいたいという‟欲‟が生まれ、現在の己の立ち位置に悶々とする。このままではいけない。蓮華ももっと、自分の足で立てるように――と。
「何か足りないものがあれば、橘を使わせるように」
「……はい」
「訪ねてくる者があっても、おまえは応対しなくていい」
「…………はい」
返事をするごとに胸に重い鉛がぶら下がる。
(我儘だわ……こんなの)
千桜を送り出し、蓮華はしばらく玄関で呆けた。こんな自分を拾ってくれた千桜に迷惑をかけてはいけない。そう思う反面で、これまで抱きもしなかった私情がせめぎ合った。
*
「え? 旦那様に、贈り物を差し上げたいと?」
蓮華の私室にて、家令の呆気にとられた声が響く。
「やはり、駄目……でしょうか」
座布団の上に姿勢よく座る蓮華は、重々しい顔つきをする家令を見つめた。
「そう……ですねえ、贈り物となるとデパートメントに買い物をしに行けたらよいのですが、外出はお坊ちゃまに止められておりますし」
「そうですよね……我儘を言ってしまい、申し訳ございません」
蓮華はダンスホール‟カナリア‟の庭園にて声をかけてきた男――黒薔薇伯爵こと、黒薔薇嶺二の詳細を千桜からは聞かされていない。蓮華も無理に聞こうとはしなかったが、おそらくは危険な人物なのだろうと理解はしていた。
人間のようで人間ではないような、ただならぬ雰囲気。思い出すだけで鳥肌が立つような不気味な男だった。
のちに知ったことだが、黒薔薇嶺二は貿易会社を何社も軌道に乗せ、最近は財閥化も成功している。そして、趣味の一環であのダンスホール‟カナリア‟を経営しているというのだから、驚いた。
そのような人物が何故、蓮華を?
単なる戯れだったのでは?
そう思うほどには、蓮華には縁遠い人物だ。黒薔薇嶺二ほどの男が、自ら会いに来るような存在ではないことを、蓮華自身が一番よく知っている。千桜は黒薔薇嶺二と蓮華を接近させぬよう、蓮華の身の回りに気を使ってくれているが、それこそ杞憂ではないのだろうか。
(やはり……これは我儘よね)
家令に頼み込んでみたが、許可を得るのは難しいだろう。今ある生活も十分すぎるほどだ。これ以上は贅沢がすぎるのかもしれない。
「蓮華様お一人で……というのは難しいかと存じますが……」
「はい」
「お坊ちゃまとお二人で、であれば……お許しはいただけるのではないでしょうか」
蓮華は俯いていた顔を上げる。
「二人で……?」
「日々の労いもかねて、帝都デェトを贈り物にする、というのは我ながら粋な発想かと。それであれば、お坊ちゃまも安心なさいましょう」
思えば、蓮華は千桜と帝都の街中に出かけたことはなかった。近所を散歩することはあたが、近代的なお店に立ち寄ったり、外で食事をする機会もなかった。
蓮華はぽかんと口を開ける。
「デェト……」
「はい。蓮華様を大切にされるお気持ちは分かりますが、いつまでも屋敷に閉じ込めておくのも紳士的とはいえないでしょうし」
「あの、私……そんなつもりで言ったのでは」
「お坊ちゃまがおそばにいらっしゃればご心配はないでしょう。あの方は、とてもお強い」
とっさに蓮華は自身の頬を両手で包んだ。デェト、とは最近はな子から教えてもらった単語だ。西洋の言葉であるようで、年ごろの男女が逢引をすることをいうそうだ。
まさか、破廉恥ではないだろうか。はしたない女だと思われてしまったら――。
「お坊ちゃまには、私からご提案しておきますから」
「……あ、えっ……! どうしましょう、どうしましょう!」
浮かれていては、いつか罰が当たるかもしれない。蓮華は気を取り直して勉学に励んだ。
日曜日の午前、蓮華は着慣れていないワンピース姿で姿鏡の前に立ち尽くしていた。
外出の一件は、家令から千桜に即座に伝わった。はじめこそは渋っていたようだが、千桜とともに行動するのであればさほど心配はないだろうということで、なんとか許可が下りた。屋敷の中での生活は退屈するだろうとの千桜の配慮もあってではあったが、蓮華はやはり無理な我儘を言ってしまったのではないかと憂慮した。
「……蓮華、身じたくは整ったか」
すると、襖の向こう側から声がかかる。蓮華ははな子にこしらえてもらった鞄を持った。
「は、はい。お待たせいたしました」
襖を開けると千桜がいる。ただそれだけであるが、蓮華の胸は煩かった。軍服ではなく、シャツとズボンのみを着用している千桜は、いつもと違って見えたのだ。
「今日は、無茶を言ってしまい大変申し訳ございませんでした」
「いや、私も家に籠らせきりで悪かったと思っていた」
蓮華は気恥ずかしくなり、俯く。女から逢瀬の誘いをするなどはしたなかったのではないか。家令に申し出てもらったのはよいものの、そもそもデェトで何をすべきなのか分かっていない。
「あの……私、ただ旦那様に日頃のお返しをしたかっただけなのでございます。だから、あの、まさか一緒に出掛けていただけるなどとは思ってもいなかったのです」
「橘から聞いている。以前に見返りは求めていないといったはずなのだが、好意を無碍にするのも野暮だろうと思ってな」
千桜は微笑を浮かべる。
「だから、これはあえて私からの頼みだ。おまえの今日一日を私にくれると嬉しい」
蓮華は唐突に穴に埋まりたくなった。
(結局、私がいただいてしまっているのではないかしら……!)
「行くぞ」と身を翻す千桜を追いかける。せめて余計な心労はかけさせないように努めよう。千桜の隣を歩くに恥じない振る舞いを心がけよう。気を引き締めねばならない状況下ではあると理解しつつも、蓮華の胸の音は高鳴るばかりだった。
デェトとは、何をするものなのか。蓮華はこっそり女中のはな子に聞いてみたのだが、まったくもって想像がつかなかった。
異性とカフェで食事をしたり、デパートメントで買い物をしたり、公園でソーダ水を飲んだりすることをいうそうだ。堅物な印象が根強い千桜とこのようなことをしている自分を思い浮かべられなかったが。
「いらっしゃいませ、二名様ですか?」
カランカラン。耳障りの良いドア鈴の音がする。銀座まで自動車で移動をして、最初に入ったのは雰囲気のいいカフェだった。
「ああ」
蓮華はカフェにはじめて入る。色鮮やかなステンドグラスと舶来物のランプが印象的な店内を目にして、ほうとため息をついた。
洋風なつくりではあるが、ダンスホール‟カナリア‟とはまとう空気が異なる。流れているジャズは親しみやすく、客層は一般客がぼとんどだ。
給仕に席まで案内されると、千桜は慣れた手つきでメニュー表を広げる。
「なんでもいい。好きなものを頼みなさい」
淡泊に口を開き、蓮華から見やすい向きにそれが置かれた。
「あの……こちらのお店には、よく来られるのでしょうか」
尋ねると、千桜が蓮華へと横目を向けてくる。
千桜がダンスホール‟カナリア‟のように派手な場所を嫌っているとは知っていた。その一方で、連れてきてもらったカフェの雰囲気は大衆的である。いずれにせよ賑やかな場所は苦手なのかと思っていたため、蓮華は意外だと思った。
「よく……というほどではないが、ここの飯は気に入っている」
「そう、なのですね」
基本的に千桜の昼食は弁当だ。夕食も蓮華とともに屋敷でとっている。となると、士官学校時代や、蓮華が嫁ぐ前などにはよくここで食べていたのだろうか。
「どうした?」
「い、いえ、申し訳ございません。なんだか、不思議に思ってしまって」
「不思議……とは?」
しきりに店内を見ている蓮華に千桜は問いかける。
「旦那様はもっと、なんといいますか、静かな場所を好む方なのかと……勝手に思っていたものですから」
「静かな場所、か」
「カフェという場ははじめて訪れましたが、とても親しみやすくて、和気あいあいとしていて、まるで……私のような者でも社会に溶け込めているような気持ちになりました」
隣の席に座っている女二人は、職業婦人であるようで、先ほどから新聞記事の話題で盛り上がっている。後方の席には民間会社の同僚陣のようであり、意見交換が白熱している。華族の社交場とはまた違った世界ではあったが、居心地の悪さは感じられなかった。
「本来社会というものは、この店のようにあるべきだと思っているんだがな」
千桜はステンドグラスを見つめると、小さくため息をつく。
「上も下もない。男も女も関係ない。どんな者にも、平等にうまい飯が提供される」
「……」
「そういった点で、この店は気に入っている」
蓮華は至極納得した。同時に何故か胸があたたかくなる。千桜が気に入っているカフェを知っただけだというのに、何故蓮華が満足感を抱いているのか。
胸をさすってみても分からない。ただ、千桜と精神的に近くなれた事実に、形容しがたい感情を得ているのはたしかだった。
「あの」
(こういう時は、なんといえばいいのかしら)
向かいあう千桜を見つめる。ぎゅっと唇を結び、勇気を振り絞った。
「……ありがとう、ございます」
これまでは、何をしていてもついてでてくる言葉は謝罪だった。自分がとった行動により、相手が迷惑をしたのではないかと思うからだ。考えるよりも前に謝罪の台詞を吐くことによって、保身したかったのだ。
千桜の前では弱い自分でいたくない。謝るのではなく、もっと他に言葉がある。
何より、"伝えたい"と思うようになった。伝えてもいいのだと思えるようになった。
少しずつ蓮華の意識が変わってゆく。
「はじめて、だな」
「え?」
「違ったらすまない。おまえが言葉で礼をいったのは、はじめてなような気がする」
蓮華は瞬きをして固まった。
「これからは、躊躇わずそうしてくれると嬉しい」
「……あ、あの……はい」
「好きなものを頼め。どの飯もうまいぞ」
蓮華はこくりと頷く。そしてメニュー表を見てほっと胸を撫でおろした。
これであればすべて蓮華でも読める。難しい漢字は使われていなかった。
「オムライス……、ハヤシライス、コロッケ……定食」
だが、別のところで悩みが生じる。どれも魅力的に思えるため、注文が決まらなかった。
「だ、旦那様はお決まりなのでしょうか」
先ほどから蓮華がメニュー表を陣取ってしまっている。慌てて千桜が読みやすい向きにして手渡すと、軽く制された。
「決まっているから、そのまま見ていていい」
「……そ、そうなのですね。ちなみに、旦那様はどちらを頼まれるおつもりなのですか?」
いつも決まったものを注文しているのだろうか。ちらりともメニュー表を見ていないが。
メニュー表を受け取り直し、顔を上げてはっとする。何気なく尋ねたつもりだったが、千桜はぴくりと眉の端を上げていた。
(きっと生意気だったに違いないわ……!)
冷たい瞳がじっと蓮華を見ている。もともと表情が顔に出ない人物ではあるのだが、今の千桜はどことなく不愉快そうに映った。蓮華は狼狽し、視線を右往左往させる。
「あ、あのっ、私、なんという失礼を」
「その、待て、違う。そうではなくてだな……」
だが、それも杞憂だった。
「私は……ここのコロッケ定食が好きなんだ」
言いにくそうに、重々しく吐き出された。「好物を頼むつもりだ、などと気軽には言えんだろう」と罰が悪そうに眉を顰めている。
聞いてしまってもよかったのか。蓮華が見る限りでは、千桜は機嫌が悪そうだ。
(旦那様は、コロッケ定食がお好きなのですね)
だが、知らなかった。
毎日食事をとっているのに、好物の話をしたことはなかった。そもそも、屋敷で食事をする際には基本的に会話すら発生しない。あるとすれば事務的な内容だった。
注文を決めるのに悩んでいた蓮華だったが、なんとなく、千桜と同じものを食べたくなった。
巴家の下働きをしていた頃には、自分がまさかカフェで食事ができるとは思いもしなかった。
台所の隅っこで、冷や飯にお湯をかけて食べていた。それも三日に一度という頻度だった。短時間で食べきれずにいると、女中に取り上げられた。生きる活力が得られず、蓮華は次第にやせ細っていった。
巴家での待遇もあって蓮華は食にあまり関心がなかったが、小鳥遊家に来てからは一日の楽しみとなりつつある。味覚や嗅覚を感じるようになった。そしてなにより、向かいには千桜が座っている。
一人では――ないのだ。
千桜が給仕を呼びつけると、コロッケ定食二つ、ホットコーヒーとミルクセーキ一つずつ注文をしたのだった。
*
カフェで食事を済ませたあとは、公園のベンチで腹ごなしをした。公園は人で賑わっていて、蓮華はまたあたたかな気持ちになった。まるで、自分が社会に溶け込んでいるようだ、と。
そして同時に、千桜に贈り物をするつもりでいたのに、蓮華ばかりがもらってしまっているのでは、と落胆する。ただ公園のベンチに座っているだけでも、千桜は周囲の警戒は怠っていないのだろう。余計な気苦労をかけてしまっているのにもかかわらず、蓮華はすっかり楽しんでしまっていた。
「あの……今日は本当に、ご無理を申し上げてはいなかったでしょうか?」
隣を見ると、千桜の美麗な横顔がある。
「無理などしていない。むしろ、久方ぶりに羽を伸ばさせてもらった」
「……ですが」
「本当だ。おまえの提案がなければ、あの店に行く機会もなかったからな」
きちんと労えているだろうか。蓮華は千桜を見上げて、唇を結ぶ。
「この公園も、よく学生時代に来ていた」
「そうなのですか……?」
「芝生に寝そべって、小説を読んでいたな。ちょうどあのあたり」
「もしかして、今私に貸していただいている小説を?」
「ああ、あれだけでなく、他にもたくさんの本を買っては読んでいた」
帝都大学生の千桜の面影を思い浮かべる。きっと、今と変わらず美しかったに違いない。誰に声をかけられることもなく、大衆に混ざって、静かに読書をしている光景が浮かぶ。
住む世界があまりに違った。巴家で下働きをしていた蓮華とは、出会うはずもなかった人物。巡りあわせとは不思議なものだ。天と地ほどにかけ離れているはずの千桜は、今――隣にいる。
「懐かしいものだな」
「旦那様は学生の時から、ご立派だったのでしょうね」
「お前は私を買い被りすぎだ。……今でも、力が及ばないものが多すぎる」
蓮華からすると、日々国のため、正義のために尽力していること自体が素晴らしいと感じる。蓮華には世の中に立ち向かう勇気すらないのだ。
「不思議なものだな。おまえには、心の内を伝えるのに、抵抗を抱かない」
「え……?」
「ここまで誰かに知ってほしいと思ったこともなかった。言う必要性も、特に感じてはいなかったのだがな」
池の湖面がきらきらと光る。鳩が一斉に飛び立ってゆく。千桜の紺桔梗の髪が陽光を浴びながら、風にのって揺れている。
蓮華はそのあまりの美しさに目を奪われた。
「私も……」
白黒だった毎日に、鮮やかな色がついていく。当たり前だと思っていた日々と、そうではない世界。千桜を通して、蓮華はさまざまな感情を知った。
「旦那様のことを知れて、おそらくは、嬉しかったのだと思います」
「そうか」
「うまく言えないのですが、自分のことのように胸があたたかくなって、ふわふわして。これは、良いことなのでしょうか?」
聞けば、「ああ」と淡泊な返事がくる。
独りではない。二人で生きる。蓮華と千桜は言葉数こそは少ないものの、心のつながりを感じていた。これまでは互いに必要としてこなかったそれに心地よさを抱く。
なぜか、強くあれるような気がする。
どこか、これまでと違う。
「私も、今日は有意義な時間を過ごさせてもらった」
「本当……でしょうか」
「本当だ。今は窮屈な思いをさせてしまってすまないが、落ち着いたら、また必ず来よう」
片翼の鳥は、一羽では飛べないように、二羽で連なることによりはじめて大空をはばたける。
二
蓮華と帝都の街に出かけてから一週間ほど経った。
穏やかな時間は束の間であり、千桜は多方面への監視の目を怠らない。
依然として総理大臣指示派議員の不審死があとを立たず、むしろ最近では事件の発生頻度が増しているほどだ。警察は重い腰を動かさず、ろくに調べもせずに自殺として処理をする。
一方で、政界では発言の自由が奪われ、民主主義の根幹が揺らぎかけている現状があった。
そこに加わる軍部の圧力。東雲をはじめとする大本営にとっては、総理大臣は邪険な存在なのだ。
「号外でーす、号外でーす」
山川とともに帝都の街中を歩いていると、新聞社の男の快活な声が聞こえてきた。
「一部貰おう」
「ありがとうございます!」
小銭を渡して新聞を受け取る。
【田中議員、一家無理心中か】
一面に大きく印字されている煽り文句。千桜は眉間に皺を寄せながら記事に目を通した。
「この事件も、やはり黒薔薇伯爵絡みでありましょうか……」
「おそらくは、な」
「一家心中だなんて、いったいどうしたらそんなことが」
仔細には書かれていないあたり、警察で情報隠蔽があるに違いない。この国の中枢が腐ってしまっている以上、裏から直接腐敗の芽を叩かねばならない。
千桜は元来正義感は強い方ではあったが、最近では、突き動かされる理由はそれだけではなくなった。
守るべき存在ができた。
蓮華だ。
「……洗脳の類か、それとも」
ダンスホール‟カナリア‟で頻繁に見かけるようになった黒い茨のような心の色。
通常、人の心の色は多少似通っていることはあるにしてもまったくの同色同型はありえない。
なのに何故、あれほどまでに酷似するのか。何者かが働きかけているに違いないのだが、それを誰が、どのように行っているのかが分からなかった。
「監視の頻度を増やす必要はありますでしょうか」
「いや、増やしたところで、効果は期待できないだろう。あの男はよほどのことがないかぎり、表舞台に顔を出さない」
「であれば、議員に忠告を促す……など」
「それも得策ではない。あまり目立った動きをすれば、軍部の目が光り、かえって私たちが動きにくくなる。そもそも、黒薔薇嶺二にとっては、政治など微塵も興味はないのだろうが」
国家の転覆もまた一興というところか。誰もが安らかであれる喜劇は退屈するとでもいいたいのか。すべては、己の快楽を満たすために用意された脚本だとでも言っている気配さえする。
(つくづく趣味が悪い)
千桜は号外から街中へと視線を向ける。震災後の不況を乗り越えた帝都の街には、次から次へと舶来物が入った。社会の在り方も時代とともに変遷し、誰もが平等を唱える風潮が根付いていく。
華族もそうでない者も関係ない。男と女も関係ない。
この国では昔から女は家を守るものとされていたが、今では職業婦人として社会に出て働く者がいる。男女で座席が分かれていた映画館はなくなった。きっと近いうちには、女にも選挙権が与えられる時代がくる。
社会は、そうあるべきなのだ。だが、暗躍する者は、己の快楽を満たすがために、古臭い考え方をする連中に揺さぶりをかけている。
(そして、蓮華にも)
千桜は冷たく目を細めた。
前髪で隠された左眼には、帝都の街を闊歩する人々の心の色が映る。黄、青、緑、赤、紫、茶……そのどれもが十人十色であり、一つとして同じものは存在しない。
嘘をついている者、隠れた信頼を寄せている者、揺らがぬ熱意をもつ者――。
すべて見えてしまうからこそ、千桜の心情には波音ひとつ立たない。実の母に拒絶された時も、千桜は冷静に受け止めた。あらかじめ分かっていたからだ。
目の前の人間が何を思っているのか。それが色となって浮かび上がり、千桜に伝わってくる。
生まれた瞬間から客観的に生きることを余儀なくされた。千桜は己の境遇を煩わしく思いながらも、ある意味では冷静に受け入れていたのだろう。
この先も、それでよいと思っていたはずなのに。
賑わっている街を見回していると、目につく‟色‟がある。
(――あれは)
東雲にも絡むように浮かび上がっていたあの‟色″と形状。ダンスホール‟カナリア″で目にした黒い茨が視界の端をかすめる。
「小鳥遊少佐……?」
「すまない、先に屯所に戻っていてくれ」
人混みをかき分け、心の色の所有者を追う。
(あれは、まさか――)
女だった。それも、面識のある女だ。
一人、二人、視界が開かれるが、目当ての人物を見失った。通常、人の心がまったく同じ色、形をするはずはない。それが可能となるとすれば、何者かによって手が加えられている可能性が考えられるが。
……胸騒ぎがする。
(杞憂で済めばいいが)
千桜はしばらく、女が消えていった先を冷徹に睨みつけた。
*
蓮華はその日、熱心に縫い物をしていた。手元には肌触りのよい麻の布がある。桃色の糸で丁寧に桜の刺繍をいれたところで、ほっと息をついた。
「まぁ! まぁまぁまぁまぁ! 綺麗なハンケチですね!」
女中のはな子は、両手をあわせてまじまじと見つめてくる。あまり上手にできたとは言えない品であるため、蓮華は落ち着かずに肩をすぼめた。
「旦那様への贈り物でしょうか」
「は……はい。やはり、何か贈って差し上げたくて、無理を言って橘様に生地をこしらえてもらったのです」
「とっても素敵なお考えだと思います! きっとお喜びになられますよ」
そうだろうか。そうだといい。
蓮華はこれまで、癖のようにへりくだっていたが、最近では期待することを覚えた。これを渡したら、いったい千桜はどのような顔をするのか。どのような言葉をかけてくれるのか。ここまで脳裏に浮かんでは、勝手に胸があたたかくなる。
千桜に借りた小説に、人と人の間にあるのは、エゴイズムでしかないとあった。そのエゴイズムをぶつけ合ってこそ、社会が成り立つ、と。舶来の言葉はすぐに理解できなかったため、蓮華は辞書を引いた。なるほど、たしかに、世界は己の主観で成り立っている。社会に溶け込むということは、己のエゴイズムを受け入れ、そして相手のエゴイズムを聞くことにある。
蓮華はまた一つ、千桜の心に近づけた気がして、胸が安らかになる。
(いったい、旦那様ご自身の心の色は何色をされているのかしら)
きっと鮮やかな桜色をしているのだろう、と蓮華はやわらかく口角を上げた。
「笑った……」
「え?」
すると、突然はな子の仰天した声が聞こえる。完成したハンケチを膝の上に広げたまま、蓮華は首を傾げた。
「蓮華様が笑った……!」
何故か、瞳に涙まで浮かべて蓮華の両手を握ってくる。蓮華は、ぱちぱちと瞬きをして呆然とするしかない。
笑う、とはいったい。蓮華はただ千桜の面影を思い浮かべていただけで、まったく身に覚えがない。喜怒哀楽が顔に出やすいはな子とは違って、蓮華は感情を表現することが苦手だった。
「ああ、もう! お坊ちゃまに見ていただきたかった!」
「あ、あの……私、変な顔をしていたのでしょうか」
「いいえいいえ! とっても可愛らしかったのです。それはもう、世の男性を虜にするような、純白の笑みでした!」
はな子が歓喜している中、蓮華は狼狽する。話が飛躍しすぎている気がする――と考えるのは、失礼だろうか。決して、そのような薔薇色な表情を浮かべていた自覚はない。
だが思うに、最近は冷めきっていた心がよく浮つく。これはなんだろうと思っていた。これが、‟愛おしさ″なのか。これが、‟あいする″ということなのか。
この気持ちを大切にしてもよいのだろうか。蓮華は膝に広げていたハンケチを手に取り、胸もとに抱き締める。
「この屋敷にいらっしゃった時は人形のようでしたのに……良い顔をされるようになりましたね」
顔を上げると、優しい目をしたはな子がいる。
「来月、ついに祝言をあげられると聞きましたが、本当に楽しみでなりません」
祝言。蓮華は言葉を復唱して、俯いた。とうとう正式に千桜の妻となるのだ。
そのために教養を積み、淑女としての振る舞いも身に着けてきた。
不安であるような、安堵するような。鳥は片翼では飛べない。両翼があることにより、大空を羽ばたける――。蓮華は、千桜の片翼として相応しい女になれているだろうか。
そわそわしつつ、ハンケチを綺麗に折りたたむ。
千桜を思い、桜の刺繍を施したそれを紙の包みに入れる。
(帰宅されたら、さっそくお渡ししよう)
大事に文机の引き出しに入れて、はな子と向き直った――その時だ。
「ごめんくださいまし~」
屋敷の玄関から、女の声が聞こえてきた。今の時間は家令が買い出しをしていて、留守にしている。はな子がすかさず立ち上がるそのあとを、蓮華もついてゆく。
(このお声は――)
聞き覚えがある。いや、きっと勘違いではないのだろう。千桜の了承を得ていない勝手な行動ではあるが、気になってしまって来客の姿を確認せずにはいられない。
はな子が玄関の扉を開けると、義母の美代が温厚な笑みを浮かべて立っていた。
「すみませんが、屋敷の者に御用でございますでしょうか」
はな子が尋ねると、美代は目を細める。はな子の背後に立っている蓮華を視界に入れると、見たこともないような穏和な表情を向けてきた。
「私は巴美代と申します。うちの娘が大変お世話になっていて……ちょうど近くを通りかかったものですから、ご挨拶をと思ったのでございます」
何故、蓮華に親密げな笑みを向けるのか。これまでの巴家での生活を思うと、どうしても解せなかった。
藤三郎と使用人の間にできた子である蓮華を、誰よりも疎ましく思っていたのは美代であったはず。
暴言を吐く、無視をする、叩く、蹴るなどは当たり前であり、優しい言葉をかけてもらった試しは一度だってない。
「蓮華、元気だったかしら?」
「あ……あの」
「私ね、あれからとても反省をしたのよ。貴女は巴家の娘であることに変わりはなかったはずなのに、本当にごめんなさいね」
涙ぐんで目元をハンケチで拭う美代を、蓮華は唖然と見つめた。
はな子はどう対応すればよいか困惑した。家令がいれば適格な判断を下せるはずだが、屋敷に通すか追い返すべきか、はな子には決めかねる。
「あの日は見送りできなかったものだから、後悔していたのよ。けれどまあ、幸せそうで本当に安心したわ」
蓮華はじっと美代を見つめた。
(なんと、言えばよいのかしら)
巴家で下働きをしていた頃の生活は、今思うと辛く厳しいものだったのかもしれない。あの場所で生きねばならなかった蓮華は、感情や思考を殺すことにより、なんとか正気を保っていた。
けれど、本当はどうであったのだろう。蓮華は巴家の人間に何かを求めたかったのだろうか。家族として認めてほしかったのだろうか。母親や己を侮辱する行為を詫びてほしかったのだろうか。理不尽に叱責するのではなく、あたたかな言葉をかけてほしかったのだろうか。
「ごめんなさいね……ごめんなさいね」
「……奥様」
「今更謝っても遅いでしょうけれど、どうかこんな母を許してくれないかしら」
悲痛に眉を顰めて涙を流す美代を食い入るように見る。
「馬鹿なことをした。こんなにも愛おしい存在だったのに」
「私は」
「……顔を見せて。ああ、こんなに愛らしくなって。小鳥遊様にはよくしていただいているの? できれば、これまでどんな暮らしをしていたのか、母に話してはくれない?」
まるで、本当に娘を愛でるような目をする。蓮華の正面までやってくると、両手で頬を包み込んだ。
あたたかな肌の感触を覚えて、蓮華は目を丸くした。
母親のぬくもりはとうの昔に忘れ去ったはずだ。眠る前に子守唄を歌ってくれた。寒い夜は抱き着いて眠った。それらの記憶は、焼却炉から昇っていく煙とともに虚無の空に消えていった。
蓮華はまじまじと美代を見つめる。
(心から……泣いていらっしゃるの?)
美代はそのまま蓮華を抱き締めた。優しく髪を梳き、存在をたしかめるように。蓮華はしばらく放心状態になった。
「本当よ? 本当に、猛省したの。私、どうかしていた」
「おく、さま」
「そうではなくて、母と呼んではくれないかしら」
「お……かあ、さま?」
蓮華は言葉を嚙み締めると、静かな水面に波が立ってゆくのを実感する。
「ああ、嬉しい」
「おかあ、さま」
「そうよ、蓮華。かわいいかわいい私の蓮華……」
本当に蓮華を受け入れてくれるのだろうか。あたたかい体温は本物だろうか。
もう二度と巴家の人間と関わる機会はないものだと思っていた。千桜の来訪があったあの日は、女郎屋に売り飛ばされる寸前だったのだ。蓮華などどうとでもなれと言わんばかりの態度であった。
だが、こうして会いにきてくれた? 蓮華を抱き締める腕は、まるで本物の母親のもののようにも思えた。
「れ、蓮華様……」
「突然訪ねてしまって申し訳ないけれど、親子水入らずでお話をさせていただけないでしょうか」
狼狽するはな子に美代は切なげに眉を下げた。
「で、ですが、旦那様の言いつけがございますので」
「きちんと夕刻までには送り届けます。ねえ、蓮華、いいでしょう?」
蓮華は美代をぼうっと見つめる。
(本気で泣いていらっしゃる……)
わざわざ美代から歩み寄ってくれているのに、無碍にするのは忍びない。少しだけ話すだけなら――と、はな子の方へ振り返る。
「かならず、夕刻までには戻ります。はな子さん、どうか私の我儘をお許しいただけないでしょうか」
蓮華がはっきりと告げると、はな子は心配そうに眉を下げている。
「蓮華様が、そこまでおっしゃるのなら……」
「ご温情心から感謝いたします……!」
蓮華は少しばかり出かける支度をするために、一度私室へと戻った。あとをついてくるはな子は、何か言いたげに蓮華を見つめる。
「お一人では心配です。差し支えなければ、私もついてゆきましょうか?」
「いいえ、お手間をおかけしてしまいますし、私一人で平気です」
「ですが……」
ほんの少し話すだけだ。ここでの暮らしを伝えるだけだ。仮にも十九年住まわせてもらった恩義がある。矜持の塊であった美代が自ら出向いてくれているのだから、蓮華も応えてやらねばならない。
「おそらく私は、ずっと逃げていたのです。逃避することで、保身していた。だけど、いつかは向き合わねばならないものなのでしょう」
蓮華も千桜のようにありたい。正しい道をひたすらに突き進む勇ましい背中を追いかけ、手を伸ばす。小鳥遊家に嫁いでから、人間の優しさやあたたかさを知った。同時に、悲しさや苦しみがあるのだと知った。
それが人間であり、さまざまな喜びや苦悩を背負って、誰もが力強く生きている。それなのに蓮華は、自分の置かれた境遇から逃げ、心を閉ざした傀儡になった。弱い。弱すぎる。千桜の隣に立つためには、そんな自分と決別せねばならないと常日頃考えていた。
きっと、美代と対話をすれば何かが変わるだろう。
千桜の片翼となるに恥じない生き方をしたいと、強く思ったのだ。
小鳥遊家の敷地の外に一台の自動車が停められていた。美代に連れられ、後部座席に乗車するとゆっくりと発車する。
遠のいてゆく小鳥遊家の屋敷を見つめ、蓮華は深呼吸をした。
(はな子さん、ご迷惑をかけてしまって、ごめんなさい)
少しだけ話をして、それが済んだら帰ろう。そうしたら帰宅した千桜を出迎えて、夕食前にハンケチを手渡す。
千桜から事前の許可を得ずに美代と会った……と告げたら叱られてしまうかもしれないが、それでも蓮華は、今きちんと向き合っておかねばならないと漠然と思ったのだ。
帝都の街が右から左へと流れてゆく。
蓮華は持参した巾着の紐を握り締め、窓の外を眺めた。
「……ほんっとうに、間抜けねえ」
その刹那、蓮華の口元に布が押し当てられる。
背後から聞こえる冷え切った声は――美代のものだ。
(な、ぜ……そんな)
背後から腕が回り、躰が拘束される。首を回して後方を見ると、先ほどまで優し気な笑みを向けてくれていたはずの美代はそこにはいなかった。
瞳に浮かぶのは、果てしなく深い憎悪。怒り。嫉妬。――殺意。
「んっ……」
「おまえを我が子だと思うはずがないだろうに」
「……っ」
「さあ、お眠り。目覚めたらとっておきの地獄を見せてあげるわ」
つんとした薬品の香りがする。しだいに蓮華の意識が遠のいてゆき、視界がかすむ。
(旦那様……)
何者も寄せ付けない冷たい瞳を思い浮かべる。それとは裏腹の優しい言葉を思い出す。いつからか蓮華は、千桜の帰りを今か今かと待っていた。千桜に借りた小説を読んでいる時、お茶の稽古をしている時、炊事の手伝いをしている時、家令の目を盗み、こっそりと屋敷の掃除をしている時、気を抜くと蓮華はいつも千桜の顔を思い浮かべている。
そうすると、無限に心があたたかくなった。
いや、時として寂しさをも感じていたのかもしれない。
それらは、これまで蓮華が知らなかった気持ち。
‟愛する″ということ――。
蓮華の瞳が伏せられ、躰の力が抜けていく。
――ただ、千桜にハンケチが渡せなかったことが心残りだった。
三
日が沈んだ頃、千桜が帰宅した小鳥遊家は騒然としていた。
「申し訳ございません……! お坊ちゃま」
義母である美代と出かけたはずの蓮華が、日暮れになっても戻らない。はな子は顔を真っ青にしてその場で平謝りをする。
千桜は焦燥と苛立ちで思考が支配されつつも、当主として平静を保ちはな子を見やった。
「何故、外出を許した」
「そ、それは……申し訳ございません、すべて、浅慮であった私の責任でございます」
はな子は何かを言いかけて、再び深々と頭を下げる。
油断をしていた――のは自分の方だと千桜はため息をつく。強引に縁談を進める形となったが、社交辞令として、藤三郎を通して巴家には幾何かの優遇をさせてもらっていた。巴家の人間はここしばらくおとなしくしていたために、監視の目を緩めていたのも問題だった。
恨みを募らせ、突然暴挙に出る可能性も考慮していたはずだったのに。
(あの時の女は巴美代だった。私が見失わなければ!)
千桜は静かに拳を握る。
(それに見間違えでなければ、あの女は――)
嫌な予感がする。ダンスホール‟カナリア‟に出入りをする者に頻繁に浮かんでいた黒い毒蛇のような、ねっとりと躰中に絡みつく茨のような心。それが美代にも見えた。見当違いでなければ、美代の精神は闇よりも深い悪意で汚染されている。
(何故、取り逃がした)
ドン!と壁に拳を打ち付ける。
おそらくはあのあと小鳥遊家を訪れたのだ。計画的な犯行であったのかは定かではない。よりによって家令の留守をつくとは――反吐が出る。
「お坊ちゃま、只今警察に捜索願いを出してまいりました……!」
「……無駄だ。あのような腑抜けた連中をあてにはできない」
家令が慌てて駆けてくると、千桜は苛立ちを押しこらえ、極めて冷静に制した。
「申し訳ございません……! 蓮華様に何かあったら、私」
「お前の責任ではない。私が軽薄であったのだ」
「ですが……!」
はな子の訴えを受け流し、千桜を身を翻して屋敷の中を闊歩する。
温度のない瞳には、冷ややかな炎が灯る。これまでに戦場でいくつもの死線を潜り抜けてきたが、何度窮地に立たされたとしても思考の冷静さは欠かなかった。
仲間の命も、自分の命も、決して軽んじているわけではない。だが、国を正しく導くためと考えれば、いつか散らすこともやむを得ないと考えていた。
千桜は何にも執着しなかった。奇妙な片目があるせいで、母に疎まれながら育った千桜は、自分をも冷静に客観視するようになった。
そうして、様々な心の色が浮かぶ社会を俯瞰し、時に憤りや疎ましさを感じながらも、正しく導くことを使命として今日まで生きてきた。
だが。
(裏にいるのは、お前か。黒薔薇嶺二……!)
千桜は怒りで震えた。
世界は我がものであるとでも思っているつもりか。
(人間は、貴様の玩具ではない……!)
過激派連中の歪みにつけ込み、良からぬ働きかけをして、すべての民が平等であれるはずの民主主義をも崩そうとしている。
まるで遊び半分のような感覚だろう。上流階級のみが利用できるダンスホールを設立するなどとは、随分な選民思考があるようだ。馬鹿馬鹿しい。壊れるべきなのは、民主主義ではなく、この階級社会だ。こんなものがあるから、黒薔薇嶺二のような化け物が生まれる。
中庭で輝く狂い咲きの桜を見上げ、千桜はさらに憤りを募らせた。
(無能な桜の神め、こんなものを授けて、何の意味があった)
春夏秋冬関係なく咲き誇っている不気味な桜。祖母はこの桜を大層気に入っていたようだが、千桜にとっては煩わしいものでしかなかった。
夜風にのって、前髪の隙間から桜色の左眼が現れる。他人の悪意を見抜けたところで、それがなんだというのだ。謀り事に気づけたところで、それがなんだ。ぎりぎりと歯を噛みしめ、桜吹雪をつくる巨木を冷たく睨みつける。
‟決して散らぬ桜の木のように。だから、私はその瞳を素敵だと……思うのです″
蓮華の言葉が脳裏に浮かぶ。
儚げな表情。見たこともないような――まっさらな心の色。いや、見間違いでなければあの夜、彼女の周りには蓮華の花が咲いていた。
少しの濁りもない。このような綺麗な心があるのかと目を疑った。氷のように冷え切った千桜の胸に、形容しがたいあたたかさを覚える。千桜はしばし歌声に聴き入り、無意識のうちに声をかけていた。
何にも代えがたい大切な存在。
千桜にとってはじめてできた‟愛する″者。
奪わせない。
穢させない。
そう簡単にくれてやるものか。
力強く狂い咲きの桜を見上げる。季節外れの花びらが千桜を取り囲むように渦を作った。
桜色の左眼が宝石のごとく発光する。迸る熱を持ち、千桜はとっさに手のひらを覆いかぶせる。
――色が見える。まっさらな、だが、儚く繊細な花びらの形をした、心の色。
ひらひらと何処かへ向かって飛んでゆくそれを目で追いかける。
まるで千桜を呼んでいるようだった。こちらに来い、と言われているような気さえした。
「蓮華か……?」
気でもおかしくなったのか、とは思わなかった。たしかに、儚く美しい心が千桜を呼んでいる。
燃え滾るような左眼を手で押さえ、再び狂い咲きの桜を見上げた。
「神がいるのならば、私を導け。貴様が望む大義名分も、すべて私が引き受けてやろう」
桜の木はそれに応じるように、神々しく光り輝く。
千桜は踵を返し、屋敷をあとにした。
*
蓮華は夢を見ていた。
これは、まだ母親が存命だった幼き頃の記憶。隙間風が吹き込む屋根裏部屋で、蓮華は母親に抱き着いている。
「ねえ、お母さん、どうして蓮華たちは、みんなと一緒のご飯を食べられないの?」
蓮華が尋ねると、母親は悲しげに微笑んだ。
「あの方々と私たちは、住む世界が違うからよ」
「なんで? どうして? 違わないよ、同じ家に住んでるのに」
蓮華には母親の言葉の意味が理解できなかった。
その日、巴家では親族が集まった、豪勢な晩餐会が開催されていた。日が暮れるとレコードがかかり、大層に飾り立てた人々が来訪する。厨房では、いつになく美味しそうな香りが漂っていたため、蓮華は給仕中にお腹の音が鳴った。
テーブルには見たこともないような料理が並び、きらきらと輝いて見えた。あまりじっと見入ってしまっては怒られてしまうため、蓮華は厨房に戻り、皿洗いに徹する。水は冷たく、赤みがかかった手の甲はひりひりする。だが、痛い、とは言えなかった。近くにいる大人たちに伝えれば、たちまち打たれてしまうからだ。
くたくたになって疲れてしまっても、休んではいけない。お腹が空いても、我慢をしなくてはいけない。そうしなくては、髪の毛を引っ張られたり、厳しく罵倒されてしまうから、蓮華は辛くても耐え抜くしかなかった。
だが一方で、年が近い千代と喜代は悠々自適な生活をしている。いつでも好きなものを食べられ、綺麗な洋服を着られる。ほしいものをほしいまままにねだったかと思えば、飽きたらあっけなく捨ててしまう。
どうしてこれほどまでに違うものなのか。晩餐会に参加していた華族たちも同様であり、蓮華と華族とでは、何かが違うらしい。
豪華に盛り付けられた料理には手をつけず、前のめりで世間話に花を咲かせていた。そのどれもが蓮華には分からない小難しい内容ばかりである。
晩餐会が終わる頃には大量の残飯が出てしまった。蓮華にとっては、一生かかってもありつけないようなご馳走ばかりであったが、華族たちはまるで興味がないらしい。蓮華は、残り物にありつけるのではないかと期待したが、提供されたのはいつもの冷えた白米とたくあんのみ。母親は何度も頭を下げ、それを受け取った。
「あの方々は華族だから、お母さんや蓮華とは違うのよ」
母親はよくそう言っていたが、幼い蓮華にはやはり言葉の意味が理解できない。
華族ではないから、蓮華は千代や喜代のように玩具で遊べないのか。家族ではないから、腹が減ってしまっても我慢せねばならないのか。とりわけ、蓮華と百合子においては他の使用人よりも格段に待遇が悪い。まるで塵のように扱われる日々であった。
「どうして、蓮華とお母さんは華族じゃないの?」
蓮華の父親が巴家の当主藤三郎である事実は知っていた。一度も会話したことがなく、蓮華にとっては怖い存在だったが、腹違いの娘である千代と美代と比べても、何故ここまで扱いが異なるものなのか。
尋ねると、母親の表情が暗くなる。
「ごめんなさいね……蓮華、ごめんなさい」
母親は蓮華を抱き締めると、それだけ口にして何も答えてはくれなかった。
おそらくは、母親の人生は地獄であったのだ。子を身ごもり、一度は生きがいを見出しかけた母親であったが、待ち受けるのは途方もない暗がりの日々。我が子のために強くあろうとする半面、心と躰はひどくやせ細っていた。
‟ごめん″ではなく、もっと他の言葉がほしかった。
たった一度でいい。
本当は、それでも蓮華さえいれば強くいられる――と。
‟産んでよかった″と言ってほしかった。
*
カビの生えた臭いがする。
ぼんやりとした意識が徐々に輪郭を形成すると、蓮華はゆっくりと瞼を開けた。蓮華は冷たい床に寝転がっていた。
手足の自由がきかない。縄で拘束されている、と気づくのに少々時間がかかった。
窓がない薄暗い部屋。中央のテーブルには一輪の黒い薔薇が咲いている。
(ここは……)
起き上がろうとすると、頭に鈍い痛みがはしる。
(たしか、奥様と自動車にのって、それから――)
どっと押し寄せる焦燥感、不安。蓮華は義母の美代に薬品を嗅がされ、意識を飛ばしたことを思い出す。
心から謝罪をしてくれたのだと思った。蓮華も逃げずに向き合うべきだと思い、はな子の制止を振り切って美代についていってしまった。
巴家で女中をしていた頃は、よく縄で縛られて折檻されていた。三日ほど放置されていても、蓮華は顔色を変えずに床に寝転がっていたままだったが、今は違う。手首や脚を動かし、縄を緩めようと試みる。だが、びくともしなかった。
美代は今も変わらず蓮華に怨嗟を募らせていた。娘だと言ったのは嘘だった。悲しいのかは分からない。ただ胸に居座るのは、虚しさだった。
蓮華はおそらく少しばかり浮かれていたのかもしれない。実の母親が他界してからというもの、まだ幼かった蓮華は素直に甘えられる存在がほしかったのだ。やはり、身の丈にあわない願いだったのか――。
ふと、蓮華は千桜の顔を思い浮かべた。
(あれからどのくらい眠ってしまったのかしら)
窓がないために、今が日暮れ前なのか、日暮れ後なのかを確認する術がない。
(はやく、ここから出て、帰らねば……)
蓮華は床を這いつくばり、出口を探す。
以前の蓮華であれば、何も考えずに折檻されていた。暴力を振るわれても、自分を客観視すればいくらか痛みを忘れられたのだ。だが、今の蓮華には揺るがない強い信念がある。
(旦那様……)
おそらくは、すでに日は沈んでしまっているのだろう。帰宅した千桜の心中を思うと、蓮華は胸が痛くなった。
「あら、ようやく起きたのね」
部屋の扉が開き、人が入ってくる。重い頭を上げると、そこには美代が立っていた。
「いっそこのまま目覚めなくてもよかったのだけれど」
美代の他に人の気配はない。千代や喜代は一緒ではないようだった。美代は中央のテーブルに飾られている黒い薔薇をうっとりと眺めると、一歩、蓮華のもとに近づいた。
「ふふ、もう少し強い薬を盛っておくべきだったかしら」
「……っ」
「ここまでくるのに随分と時間がかかってしまったけど、お前が騙されやすい阿保でよかったわ」
瞳には憎悪が浮かんでいる。まるで、用意周到な計画があったようだ。あえて家令が不在にしている時間に尋ねてきた節さえも感じる。小鳥遊家当主千桜の逆鱗に触れるとしても、顧みることなく計画を実行した執念深さ。蓮華は美代の表情を前にして、ぶるりと震えあがった。
「ねえ、教えてくれない? どうして、お前だけが幸せそうにしているのか」
「……奥、様」
「汚らしい非嫡出子のお前が、誰かに愛されるはずもないのに。可笑しいわよね?」
まるで虫けらを見るような目だった。図に乗るな、と釘をさすような言い方に背筋がひやりとする。
蓮華は重々に承知していた。小鳥遊家で生活をしてしばらくの間も、きっとそのはずだと思っていた。蓮華の境遇へ向ける同情なのだろう、と信じて疑わなかったが、千桜は蓮華を‟愛する″と言ってくれたのだ。
千桜の言葉はすぐには受け入れられなかったが、時間をかけて、少しずつ理解していたつもりだった。
「私はね、納得ができないの。お前は生まれてくるべきではなかったはずなのに」
「や、め」
「なぜ、お前ばかり?」
「……おく、さま」
「千代と喜代の縁談は、うまくいかなかったのに。なぜ――お前は」
「……いたっ」
美代がわなわなと震えると、蓮華の髪を強く引っ張り上げた。
以前であれば、即座に平謝りをしていた。何事も自分に非があったのだと思い込む方が楽だったのだ。
当時のもぬけの殻のようだった蓮華はもういない。美代は、光の宿った蓮華の瞳を目の当たりにしてさらに激昂した。
「なによ、その目」
「……うっ」
「謝りなさいよ」
「……」
「謝りなさいと言っているの‼」
パシン、と鈍い音が鳴る。
蓮華はその場に倒れこむと、ぎゅっと唇を噛んだ。
「私たちを差し置いて、本当に恩知らずな女。お前が愛されるはずがないでしょう」
「……めて、ください」
「なに、まさか歯向かっているの? 汚い非嫡出子のお前が? 名誉ある華族の私に?」
ありえない、ともう一度打たれる。何度も、何度も、蓮華の頬を打つ美代の憎悪が晴れることはない。
蓮華は謝罪の言葉を口にせず、ひたすらに痛みを押しこらえて沈黙を守る。なんの甲斐もないとは分かっていても、心の中で千桜の名前を呼んだ。
そして逡巡する。あの時、美代を信じずに突き放しているべきだったのだろうか。巴家から目を背け、保身することが正しかったのだろうか。
それは何か違う気がするのだ。蓮華が千桜の妻になるうえで、乗り越えなければならない壁だった。蓮華は自分の力でわだかまりを解消させたかったのだが、浅はかさだったのかもしれない。
「許せない。許せない許せない許せない」
「うっ」
「お前なんてね、いっそ死んでしまえばいい。そうよ、死んで詫びなさい。死んでしまえ! アハハハッ、あの女のように滑稽にねえぇ……‼」
美代の瞳の憎悪がさらに増してゆく。美代は果たして以前からこのような顔をしていただろうか。肌は青白く、目元には隈ができている。唇には血が通っていなかった。加えて焦点があっていない瞳だ。まるで悪意に憑りつかれているかのようであり、おぞましく映った。
「――お楽しみのところ申し訳ございません」
再び振り上げられた右手。蓮華が目を瞑ると、気品ある男の声が聞こえた。
(この声は……)
第三者の介入に安堵するどころか、体温がさらに二、三度下がった気さえした。まるで闇夜に引きずり込むその声を、蓮華は過去に耳にしたことがある。
「こんばんは、よい夜ですね。巴蓮華様」
瞼を開くと、黒薔薇嶺二がうやうやしく礼をとっている。艶やかな髪に、西洋人形のような顔立ち、悪意に満ちた危険な人物が再び目の前に現れた。
「黒薔薇様……私、どうしてもこの女が許せないのです。いくら痛めつけても足りないのです」
「ええ、ええ、ですが、貴女のお役目はもはやここまででしょう」
「そんな、お待ちください。黒薔薇様は、私のお気持ちを組んでくださるとおっしゃっていたではないですか」
「そうですね。おかげでとても面白いものが見られましたし、貴女には感謝しているのですよ」
美代は黒薔薇嶺二に縋りついているようだ。この二人がどうして繋がっているのかは蓮華には理解ができずにいたが、まるで裏で糸を引いていたのは黒薔薇嶺二であるかのようである。
「ご苦労様でした。ご婦人、私が良いというまで――静かにしていてくださいね」
狼狽える美代を冷たく一瞥すると、美代は「分かりました」と不自然に押し黙った。
「巴蓮華様、私は貴方とお話がしたい」
「……話?」
腫れあがった頬を冷たい指先で撫でられ、悪寒がした。怖い。あまりこの目に見られていたくはない。笑っているようで笑っていない。一切の光を宿さない生気のない目だ。
この場に長居してはならない。今すぐ逃げなくてはならない。だが、まるで躰の力が入らない。
蓮華は小刻みに躰を震わせ、心の中で千桜の名前を何度も呼んだ。
「貴方の心の闇を、どうか私にお見せください」
黒薔薇嶺二は目を三日月型に細めて笑った。
*
千桜は自動車に乗り込む直前に、はな子から小袋を手渡された。
「本来は私からお渡しするべきものではないのですが、今、お坊ちゃまのお手にあるべきだと思いまして……」
何かと聞けば、蓮華が真心を込めて縫ったハンケチだという。千桜は言葉をなくし、綺麗な小袋を握り締めた。
何事もなければ、帰宅後に手渡されるはずだったと聞かされ、千桜は静かに苛立った。
「蓮華様は本当に、手渡されるのを楽しみにしていらっしゃいました」
「……そうか」
「最近は表情が豊かになられていたのに……どうして」
はな子が悔しげに唇を結ぶ。千桜は小さくため息をついた。
「巴美代を屋敷に招いてしまったのは、私の落ち度でもある」
日中に見かけた女は間違いなく巴藤三郎の妻美代であった。茨のようにまとわりついている黒い心の色も確認できた。あの場で見失っていなければ、この状況は未然に防げたはずだ。
あの心の色を持っている人間の思考は危うい。反社会的な動きをする軍部の人間にもその兆候があるほどだ。
もし仮に黒薔薇嶺二に何らかの影響を及ぼされているとすれば、蓮華の身が危ぶまれる。一刻も早く探し出し、連れ帰らねばならない。
「いいえ、お坊ちゃまは何も悪うございません。私がもっと警戒をしていれば……」
はな子は表情を暗くし、うつむいた。
「蓮華様は嬉しそうにされていたのです。美代様のお言葉を信じたいと思われたのでしょう」
「ああ」
「だけど、あんまりです……! 蓮華様が何をしたというのですか。生まれてきた子に罪はないというのに!」
生まれた子には罪はない。その言葉を千桜は無言で噛みしめた。
千桜自身も生まれ持った左眼のせいで母親に疎まれながらに育った。今の世は、他者と異なる境遇にある者を受け入れることなく、頑なに拒む傾向にある。人間の尊厳がこの先もこのままであってよいはずがないのだ。
「必ず、蓮華様を連れてお戻りくださいまし」
「約束しよう」
「お坊ちゃま、くれぐれもお気をつけて」
家令も玄関先まで出てくると、千桜は踵を返して自動車に乗り込んだ。
――ここは蓮華の帰る家だ。
相手が誰であろうが、奪わせやしない。
(待っていろ、今向かう)
ひらひらと飛んでいる心の花を、輝く左眼で追いかけた。
*
黒薔薇嶺二の悪意に染まった瞳を前にして、蓮華はぶるりと震えあがる。
この薄暗い空間は、地下室か。蓮華は今いったいどこに幽閉されているのか。考えようにも外の景色も見られないため、検討がつかない。
蓮華が息をのむと、黒薔薇嶺二は目尻を下げて笑った。
「今、どんなお気持ちですか?」
「……気持ち?」
「憎らしいですか? 腹立たしいですか? それとも恐ろしいですか?」
黒薔薇嶺二の目を見ていると、闇の底に沈んでゆくような気がした。心の隙間を蝕んでゆくような感覚がする。言葉を交わしているだけで、思考が侵されてしまうような予感があった。
「こんなに殴られてしまって痛かったでしょう。どうして私が? そう思いません? 思いますよね?」
蓮華は唇を結んで押し黙った。黒薔薇嶺二が高揚しながら口を開いている背後で、美代は不自然に棒立ちしている。まるで操り人形のように、心ここにあらずな状態のようだった。
「蓮華様も、千代様や喜代様と同じ藤三郎氏の御息女。母親が異なるだけだというのに、何故ここまで虐げられなくてはならないのか?」
「やめて……ください」
「いっそ彼女に謝罪していただきますか? そうしなくては、恨めしくて恨めしくてどうにかなってしまうのではないですか?」
「……結構、です」
「あらあら何故ですか? これまで散々苦しめられてきたのではないですか? ご自身の生をも否定され続け、それでもなお、貴女は地を這ってでも生きてゆくしかなかったのでは?」
黒薔薇嶺二の声を聞いていると気分が悪くなった。耳を塞ごうにも手首の自由が奪われているため、それができない。
「実のお母様についても、不憫でなりませんねえ。首を吊られて亡くなられたのだとか。貴女はそれを目の前で確認されたのだと聞きましたが、いったいどんなお気持ちだったのでしょう」
黒薔薇嶺二の目が三日月型にゆるりと歪む。まるでこの状況下で悦楽に浸っているような表情だ。
蓮華の境遇に同情しているのではない。歪んだ興味関心を向けられているだけであることを、蓮華は理解した。
「酷いですねえ、我が子を置き去りにして、自分だけ楽になろうとするなんて」
寒い日の朝、母親が首を吊って死んでいる光景が脳裏に浮かぶ。ミシミシと木目が軋む音がやけに耳に残っている。変わり果てた母親の姿を前にして、蓮華は声を出すことができなかった。
悲しかったのか。
いや、虚しかった。
「あまりに無責任ですねえ? 優しい母親のふりをして、本当は蓮華様をずっとずっと後ろめたく思っていたのでしょうか?」
「……やめて」
「貴女を産んだことを死んで詫び、身勝手に生から逃げたお母様を憎みましたか? 恨んだでしょう? 恨んだでしょうとも」
「……やめて、ください」
黒薔薇嶺二はにたりと口角を上げる。闇夜のごとき瞳はおぞましく、見ているだけで底なし沼へ落ちてゆく感覚があった。
油断をすれば、漆黒に支配されてしまう。黒い影から数多の手が伸び、蓮華を引きずりこもうとする。
恨んでなどいない。いや、本当に断言できるだろうか。それは綺麗ごとに過ぎず、少しは恨んだのではないか。
何故、蓮華をおいて死んでしまったのか。死んで詫びるのならば何故、蓮華を産む決断に至ったのか。
のたうち回って嘆きたかった。慟哭するほどに悲しかったはずだ。
絶望の淵に立たされ、すべてを呪いたいと思ったのではないか――。
「そんな貴女とお母様をここまで陥れたのは、誰でしょう。そう……巴家ですねえ」
バチバチと焼却炉が燃える音がする。母親が焼かれていく光景を、幼い蓮華が呆然と見つめている。
誰一人母親の死を悲しまなかった。ろくに弔いもせず、むしろ迷惑そうに眉を顰めるばかりであった。
人間の死がこれほどまでに呆気ないものだと知った。
「ああどうして! あんまりだ! 貴女方を虫けらのように扱い、実のお母様を死に追いやった! 一方でのうのうと生きている巴家の皆様を許せなかったのではないですか?」
「ちが」
「違わないはずです。悔しかったのではないですか? 無念だったのではないですか? この世で唯一、貴女を必要としてくれていたはずのお母様にも見限られてしまったのだから!」
黒曜石のごとき瞳が蓮華の目の前でゆらゆらと揺れている。潜在的な負の感情に訴えかけるような、危うい瞳だ。
ああ、何故。
何故、何故何故何故。
「まともな葬儀もあげてもらえず、お母様の遺骨ひとつ残っていない。ああ、なんて酷い家だ。憎い。憎らしい。いっそ、跡形もなく滅んでしまえばいいのに」
「おやめ、ください……!」
「彼らが阿鼻叫喚する顔が見たい! 絶望の淵に追いやりたい!」
「……っ」
「巴家など、燃えて消え去ってしまえと思いませんでしたか……!」
これ以上黒薔薇嶺二の悪意のある声を聞いていたくなかった。蓮華は、黒光りしている瞳から視線を逸らし、硬く目を閉じる。
震えている蓮華に反して、黒薔薇嶺二は高揚していた。
蓮華の思考はしだいに曖昧になる。思い浮かべるのは、千桜の威風堂々とした横顔だ。
(ハンケチをお渡ししたかった)
狂い咲いている桜の木を見つめる千桜。疎まれながらに育った蓮華に、千桜はかつて自愛しろと言った。だが、それは千桜自身にも言えることだ。
どうか自分自身を嫌わないでほしかった。実の母親から拒絶されてもなお、たくましく生きている。それだけでなく、国のために大義名分を背負う千桜は立派である。
いつか千桜が伝えてくれた言葉をそのまま返したい。この気持ちが、きっとそうなのだ。あたたかくて、優しい。
(伝えたかった)
千桜が自愛できないのなら、今度は、蓮華が――。
「その薄汚い手を放せ、黒薔薇嶺二」
意識が朦朧とするさなか、毅然とした声が一閃した。
*
花の形をした心の欠片が飛んでいった先には、廃屋があった。人気のない林の中に建てられたその場所に――蓮華がいる。
自動車を横付けした千桜は、蔦が絡みついた廃屋を冷たく睨みつける。
不自然なほどに警備の手がぬるい。探し出す手立てもないだろうと舐められていたのか。扉を開け放ち中に入ると、カビの生えた臭いがした。
廃屋の中は人の気配がなく、壊れた家具が置いてあるだけでまるでがらんとしている。
可笑しい――……間違いなくここに蓮華がいるはずだ。
千桜の左眼が先ほどから疼いている。蓮華を象徴する淡く儚い色をした心がこの場所を示しているのだ。
今までは、この特異な左眼を疎ましく思っていた。他人の心が見透かせたとして何になるのか。本音と建て前が見え透いてしまい、興ざめするばかりである。
桜の神とやらが本当にいるのならば、この奇妙な力をもって何をしろというのか。
千桜はそう考えていたが、今ばかりはこの左眼が役に立つ。
辺りを見回すと、壁の一部に不自然な箇所があった。明らかに材質が異なるその部分を軽く叩くと、先に空間がある音がする。
(この先か)
よく見なければ分からない隠し扉の仕掛けが施されていた。千桜は軽々と開け放ち、地下へと繋がる階段を発見する。造りから鑑みるに、戦時下に使われていた防空壕の名残のようだ。
薄暗い階段を降りると、細長い通路がある。レンガ造りの壁は年季が入っていて、長い間手入れがされていないようだった。
(やはり、ここにいる)
奥に進めば進むほどに花の形をした心の欠片の濃度が強くなる。踵を返し、最奥につながる通路を進んだ。
蓮華が幽閉されていた地下室には、見るに堪えないほどの漆黒が渦巻いていた。その場で何故かもぬけの殻と化している美代はもちろんのこと、その中でひと際黒く染まっている男がいる。
(やはり同じ色、形だ)
ダンスホール‟カナリア″の支配人――黒薔薇嶺二。
東雲陸軍中将をはじめとする反総理大臣派閥にみられる奇形な心。美代に出ている禍々しい茨のような心も、黒薔薇嶺二のそれと酷似している。
千桜の中で生じる静かなる激昂。
黒薔薇嶺二はゆっくりと振り返ると、気味の悪い微笑を浮かべる。
(蓮華は……無事か)
黒薔薇嶺二のそばには、目を丸くして千桜を見つめる蓮華がいた。手足を拘束され、床に倒れこんでいる。頬が赤く腫れあがっているのは、おそらくは美代に何度か殴られたのだろう。
最悪の事態は避けられたか。
だが、このような蛮行は許されない。負の感情を制御できぬ美代もほとほと呆れるが、それを利用する黒薔薇嶺二には憤りが隠せない。
「おやおや……これは驚きました。小鳥遊千桜陸軍少佐殿ではございませんか」
「貴様のような人間と挨拶を交えるつもりはない。蓮華を返してもらおう」
恭しく礼をとる黒薔薇嶺二を一瞥し、千桜は蓮華のもとへと歩みを進める。
「旦那様……どうして」
「お前が、私を呼んだのだ」
やはり、あの花の心の欠片は蓮華のものだった。闇の中でも存在を保とうとしている淡い心。蓮華の心が千桜を呼んでいたのだ。それをこの特異な左眼が結び付けた。
これほどの悪意に満ちた空間に居続けては、よほど強固な心をもった者以外は易々と影響を受けてしまうだろう。
蓮華を言葉で唆し、陥れるつもりだったのか。
真っ青な顔をする蓮華の肩を抱き、冷たく黒薔薇嶺二を睨みつける。
「まさか、この場所を突き止めてしまうとは恐れ入りました」
「蓮華に何用だ。巴美代は貴様の差し金だろう」
ちらりと美代を見れば、魂を引き抜かれたように呆然としている。また、依然として黒薔薇嶺二と酷似した黒い心の茨が体中に巻き付いていた。ここで何をするつもりだったのか。あまりに不自然な状況に眉を顰める。
「滅相もございません。私は、ご婦人のご相談を聞き入れただけでございます」
「そうして、これまでにどれほどの手駒を手に入れてきた」
千桜は言葉を鋭くし、冷ややかに目を細めた。
「この世は貴様の遊び場ではない」
総理大臣指示派議員の不審死事件の黒幕は黒薔薇嶺二であるのだろうと、視線をもって伝える。わざわざ死体の近くに黒い薔薇を残させるなど分かりやすいにもほどがあるが、この男は随分と世界の中心でありたいらしい。
黒薔薇嶺二は、中央のテーブルに飾られている黒い薔薇を恍惚げに見つめた。
「しかしながら、この世には神に選ばれた人間がいることに変わりはないでしょう?」
「神……?」
「私と、そちらの蓮華様のように」
解せない、とばかりに千桜は眉を顰める。
蓮華はこの国の実権を握る議員でもなければ、軍部の人間でもない。華族の当主と使用人の間に生まれたごく一般の私生児だ。オペラでいう悲劇的な演出を好む黒薔薇嶺二が、わざわざ出張ってくる理由は何なのか。
「私は黒い薔薇の花の神から。そしてそちらの蓮華様は蓮華の花の神からの寵愛を受けている。その力は偉大なのです。ですから、この世界は私たちのためにあると言っても過言ではない」
「……先ほどから何を言っている?」
おそらくは、黒薔薇嶺二は洗脳の術に長けているのだろう。
人間の心の隙間につけこみ、悪意の種を植え付ける。負の感情がしだいに肥大すると、たちまち理性を飛ばしてしまう。
そうして気が狂った人間は黒い心に飲み込まれ、素面の状態では考えられもしない暴挙に出るというわけだ。
直接手を下さずに人間を操れる――神に選ばれた存在だと正気で思っているのか。
それに何故、そこに蓮華の名前が挙がるのか。解せない。
「理想郷を作る同志として勧誘を試みたのですが……失敗してしまいましたねえ」
「ふざけるな、私にはペテンは通用しない」
「ふざけてなどいませんよ。いませんとも」
千桜が冷たく言い放つと、黒薔薇嶺二はすうと目を細めた。
「そうそう、それからその左眼……」
よく観察するように、前髪で隠れている千桜の左眼を凝視している。
「隠しているようですが、きっと特異なものでしょう? 興味があります。この世界は、いったいどんな見え方をしているのでしょうね?」
(つくづく気色が悪い)
蓮華を直接攫ったのは黒薔薇嶺二ではなく義母の美代だ。裏で糸を引いているとしても、洗脳の類ともなれば物的証拠はなく、これだけでは警察への連行は難しい。
出方を見ているが、黒薔薇嶺二は焦燥のひとつすら浮かべていないのだ。
「ああ、愉しい。愉しい。これほど高揚することはありません」
「その減らない口を今すぐ封じてやろう」
「ふふふ……それは困りますねえ。あと少しのところではありましたが、今夜はここまでとさせていただきましょうか」
黒薔薇嶺二はのらりくらりと笑うと、美代に横目を向けた。
「ご婦人――貴女はもう用済みです」
不自然なまでに棒立ちしていた美代が、黒薔薇嶺二の一声によりゆらりと動きを見せる。
「そうですねえ……ふむ、炎の中で踊りながら焼け死んでいただきましょう」
あまりに酷薄な命令に耳を疑った。
千桜は静かに息をのむ。同様に蓮華もごくりと生唾をのんだ。
まさか、そのように破綻した命令に従うはずもない。だが、美代は「分かりました」と頷くと、部屋の隅に置かれている銀色の缶を手に取ったのだ。
「お待ちください、奥様……!」
蓮華が咄嗟に呼びかけるが、美代の耳には届かない。缶の蓋を開けると、頭から透明な液体を被った。
「それでは私はこれにて。またどこかでお会いいたしましょう――お二人とも」
黒薔薇嶺二は恭しく頭を下げると、地下室から姿を消した。咄嗟に千桜が追いかけようとするが、美代の様子が気がかりだった。
「こんなにみじめな思いをするくらいなら……死んだ方がマシね」
「おく、さま」
「死にましょう……ああ、そうね、それがいい」
明らかに正気を失っている。目は虚ろであり、思考を侵されている気配がある。鼻につくこの臭いは――油か。美代は懐からマッチを取り出すと、側面で擦って火をつけた。燃える先端をぼんやりを眺めている美代の様子は、明らかに異常であった。
千桜は警戒をして蓮華を自らの背後に隠した。
だが、蓮華は千桜の制止を振り切り、前に出ようとする。
「お止めせねば……」
近づくのは危険だとは分かっていた。
長い間蓮華を虐げ続けてきた人間であるが、それでも無碍にはできなかった。持っているマッチを手放してしまったら、美代は業火の中で息絶えてしまう。
(何か……何かできないのかしら)
蓮華は、ゆらゆらと燃えているマッチの先端を見つめた。そして、幼い頃の記憶を手繰り寄せる。眠る前に母親はよく子守唄を聴かせてくれた。蓮華には歌詞の意味が分からなかったため、母親に聞いたことがあった。
人間は心が不安定になると癒しを求める。この唄は、おそらくはそのためにある――と蓮華に教えてくれたのだ。
「待て、蓮華――」
千桜の制止を振り切り、前に出る。今にマッチを床に落とそうとしている美代に一歩ずつ近づいた。
「――眠れぬ子よ、ねんねんころり」
目を閉じ、口ずさむ。
辺り一面に咲く蓮華の花畑を脳裏で思い浮かべる。それが美代のもとまで広がってゆき、優しく包み込むように。
「おはなのかおりで、ねんねんこ」
怒りや悲しみは、心の奥底で眠ってしまえばいい。人間は本来安らかであるべきなのだろう。
「こころしずめて、おやすみよ」
千桜は目を丸くした。辺り一面に咲いている蓮華の花は、千桜の目にも見えているからだ。
(何が……起こっているのか)
幻想的な花々を前にして息をのむ。この光景を千桜はかつて目にしたことがあるように思った。
はじめて蓮華を見つけた夜のことだ。あの日、蓮華の周囲に咲いていた花々は、見間違いではなかったのか──。
さらに驚くべきことに、蓮華の歌に美代が反応している。
虚ろだった瞳に色が戻り、体中に巻き付いていた黒い茨のような心が浄化されていく。
やがて蓮華は美代の正面までたどり着くと、燃えているマッチをそっと手の中からさしぬいた。
「奥様、どうかお心を確かに」
美代は周囲を見回し、自分が置かれている状況を理解できていない様子だった。目の前に憎むべき蓮華がいる。そう頭では理解していても、依然ほどに怒りが沸いて出てくることはない。幻想的な花々に囲まれ、気を抜かれてしまった。
「私はこれまで、自分自身を愛せずにおりました」
「……」
「母が死んで詫びたように、おそらくは、自分自身の生を喜ばしく思っていなかったためです」
これまでは、自分自身に執着がなかった。疎ましく思われることも当然と考えていた。何度殴られても、蹴られても、どこか他人ごとのように思っていた。いつしか感情や痛みを忘れ、人形のように生きるようになった。
「ですが、今は……違うのです」
このようなことを伝えても、逆上を煽るだけかもしれない。しかし蓮華は、伝えねばならないと思った。
「旦那様が愛してくれる自分自身を、愛したいと思うから……だから、死ねません」
思えば、巴家の人間に真っ向から抗うのははじめてだった。蓮華はいつも、思考を放棄して平謝りするのみであったのだ。
「そんな目を……するようになったのね……お前は」
「……はい」
「どんなに殴っても泣き喚きもしないお前が、心底……気持ち悪かった」
美代は力なく腰を抜かした。
「お前を受け入れないことで……私自身を慰めていたのよ……」
蓮華はただじっと美代を見つめた。今後千桜の妻になるうえで、どうしても美代と話をしておきたかったのだ。隣に並ぶに相応しい人間になるために目を背けずにはいられなかった。
「そうでもせねば己の矜持を満たせないとは――……」
千桜は蓮華が持っていたマッチを引き抜き、さっと火を消した。氷のごとき瞳を向けると、威風堂々と言い放つ。
「やはり、この世は何処かおかしい」
蓮華を陥れようとした美代を擁護するつもりはない。だが、現在の日の本の在り方には甚だ疑問を覚える。人々は未だに地位名誉に縋り付いている。政治の実権を握るのも、結局は華族なのだ。
一部の人間はそれ故に己が力を過信する。金や名声がすべてであると勘違いをする。そうして、美代や黒薔薇嶺二のような人間が生まれる。
「頭をよく冷やすことだ」
「……」
「蓮華に免じて、この一件は不問とするが、二度とその面を見せるな」
千桜は蓮華の肩を抱き、身を翻した。
蓮華が無事に帰還すると、家令とはな子は泣きながらに出迎えた。冷え切った躰を温める必要があるということで、即座に風呂に連れられる。終始おどおどをする蓮華を見つめ、千桜は安堵の微笑を浮かべた。
しばらく経ったのち、事態を聞きつけた藤三郎から電話が入った。一件についての謝罪と、美代は精神科病棟に入院することになったという報告があった。
今回の件は黒薔薇嶺二が一枚噛んでいたとはいえ、火種は巴家側にある。これまで蓮華にしてきた仕打ちを思えば、今にでも家督を取り潰してやりたいところだが。
それは蓮華が喜ばないだろうと思い、今後は巴家側からの蓮華への接触は一切許可しないという誓約を課すことで、巴家への処遇については不問とした。
各方面への応対を済ませ、千桜は私室で書類に目を通す。
廃屋の地下室で見た蓮華の花は、いったい何であったのか。黒薔薇嶺二の意味深な発言にしろ、妙に引っかかる。
千桜は、蓮華を屋敷に連れ帰ってからもしばらく思案していた。
「……旦那様」
襖の向こうから声がかかり、文机に広げていた書類から顔を上げる。蓮華が湯浴びを済ませたのだろう。
「入れ」
ひとつ返事をすると、静かな音を立てて襖が開く。千桜は手にしていた書類を置き、ちらりと横目を向けた。
「この度はご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
「謝罪はいい。傷の具合はどうだ」
千桜が尋ねると、蓮華はぐっと唇を結ぶ。
「……橘様に手当を施していただきました。痕も残らないだろうと」
「そうか」
千桜の私室にてしばしの沈黙が流れた。どちらから口を開くべきか、互いの様子をうかがう雰囲気が胸をくすぐった。
「あの……旦那様」
先に切り出したのは蓮華だった。
「どうして、あの場所が?」
行き先も何も告げずに出てしまったのに、何故千桜は蓮華を探し当てられたのか。廃屋があった土地には何も縁がなかったのだ。
「お前が呼んでいた」
「私が……?」
「いや、正確にはお前の‟心″か」
(私の……心)
黒薔薇嶺二と対峙していた時、蓮華は何度も千桜を思い浮かべていた。常に毅然とした態度で社会に挑む千桜のそばにいたいと願った。
「あの……私」
「とにかく、無事で何よりだ。まったく肝を冷やした」
だが、今のところは迷惑しかかけていない。自分とのけじめのためと思い、美代の誘いについていったが、軽薄だった。
まさか美代の背後に黒薔薇嶺二がいたとは思いもしなかった。おそらくは、黒薔薇嶺二は洗脳の術に長けているのだろう。
人間の心の闇につけこみ、玩具のように扱う。都合が悪くなれば、自死を命じて廃棄しているのだ。
悪意に満ちた瞳を思い浮かべるだけで寒気がした。
それにしても、黒薔薇嶺二が蓮華に向けた言葉の意味が未だに理解できないでいる。蓮華は選ばれてなどいない。むしろ、神に見限られた存在なのに、と。
「お前とはじめて出会った夜に、口ずさんでいた歌だが」
「……はい」
「あれは、母親に聴かせてもらっていた子守唄だったな」
千桜の問いかけにこくりと頷いた。千桜に聴かせるのはこれで二度目だった。ダンスホール‟カナリア‟では、いてもたってもいられずに途中で逃げ去ってしまったが。
思えば、小鳥遊の屋敷の中で口にする機会もなかった。
「あの場で、不思議な光景を目にした。辺り一面に、蓮華の花が咲いていた」
蓮華は何度か瞬きをして千桜を見つめる。
(蓮華の花……?)
そのような摩訶不思議なものを出した覚えはない。ただ、歌いながら思い浮かべていただけだ。どうか美代の心が安らかになってほしいと願っただけだ。
「花の神の寵愛……」
「旦那様?」
「お前にも、もしかすると――」
千桜の氷のような瞳が目の前にある。思案する様子を前にして、蓮華は緊張をした。
「あ、あの、旦那様」
そうだ、こうしてはいられない。千桜の帰りを待ちながら、渡したいものがあったのだ。蓮華は思い立ったように言葉を切り出した。
「じ、実はお渡ししたいものが」
このような時に不謹慎かもしれない。いや、無事に生き延びたからこそ、ほんの少しの時間さえも惜しくなる。
蓮華が立ち上がろうとすると、千桜が静かに制してくる。
「渡したいものとは、これだろう」
するとどうして、文机の引き出しから見覚えのある小袋が出てくるではないか。蓮華は訳も分からずに狼狽した。
「ど、どうしてそれを!」
「出立時に、形見だと言わんばかりにはな子から手渡された」
「は、はな子さんったら!」
「一度受け取ってしまったが、もう一度お前の手から渡してくれるか?」
千桜は眉を下げて小さく笑った。普段は少しも口角を上げないのに、と蓮華の胸は熱くなる。
ハンケチが入った小袋が蓮華の手元に戻される。近頃蓮華の心臓は可笑しいのだ。千桜を思うと、異常なほどに脈を打つ。
「……だ、旦那様」
「ああ」
伝えたいことがたくさんあったはずだ。はじめて、人のあたたかさを知った。はじめて、想われることを知った。今の蓮華には、千桜に向けるこの気持ちの正体が理解できている。
「これからも、ご迷惑をたくさんおかけするかもしれません。今回の件も、私の安直さが招いたこと。本当にふがいない人間で、とてもじゃないけれど旦那様のようなご立派な男性には釣り合わないでしょう――しかし」
どうしても、譲れない。
――はじめて、欲を抱いた。
「私はおそばにいたいのです。今は釣り合わなくとも、努力をして、いつか……そんな旦那様の隣に堂々と並べるような女性になりたい。そんな夢を抱いてしまっているのです」
大正の世の混沌を象徴する楽園で、蓮華と千桜は出会った。その出会いは偶然か、それとも花の神の導きか。
「そ、その、わ、私は」
「……ああ」
「私は、小鳥遊千桜様を心から……お慕いしております」
伝えると、千桜が優しく微笑む。顔が燃えるように熱くなったが、つられるようにして、蓮華の口元も緩んだ。
これは、優しくあたたかい愛を知る話。
庭先に咲く桜の花びらが、ひらひらと舞い降りた。
【完】