蓮華と帝都の街に出かけてから一週間ほど経った。

 穏やかな時間は束の間であり、千桜は多方面への監視の目を怠らない。
依然として総理大臣指示派議員の不審死があとを立たず、むしろ最近では事件の発生頻度が増しているほどだ。警察は重い腰を動かさず、ろくに調べもせずに自殺として処理をする。

 一方で、政界では発言の自由が奪われ、民主主義の根幹が揺らぎかけている現状があった。
そこに加わる軍部の圧力。東雲をはじめとする大本営にとっては、総理大臣は邪険な存在なのだ。

「号外でーす、号外でーす」

 山川とともに帝都の街中を歩いていると、新聞社の男の快活な声が聞こえてきた。

「一部貰おう」
「ありがとうございます!」

 小銭を渡して新聞を受け取る。

 【田中議員、一家無理心中か】

 一面に大きく印字されている煽り文句。千桜は眉間に皺を寄せながら記事に目を通した。

「この事件も、やはり黒薔薇伯爵絡みでありましょうか……」
「おそらくは、な」
「一家心中だなんて、いったいどうしたらそんなことが」

 仔細には書かれていないあたり、警察で情報隠蔽があるに違いない。この国の中枢が腐ってしまっている以上、裏から直接腐敗の芽を叩かねばならない。

 千桜は元来正義感は強い方ではあったが、最近では、突き動かされる理由はそれだけではなくなった。

 守るべき存在ができた。

 蓮華だ。

「……洗脳の類か、それとも」

 ダンスホール‟カナリア‟で頻繁に見かけるようになった黒い茨のような心の色。

 通常、人の心の色は多少似通っていることはあるにしてもまったくの同色同型はありえない。

 なのに何故、あれほどまでに酷似するのか。何者かが働きかけているに違いないのだが、それを誰が、どのように行っているのかが分からなかった。

「監視の頻度を増やす必要はありますでしょうか」
「いや、増やしたところで、効果は期待できないだろう。あの男はよほどのことがないかぎり、表舞台に顔を出さない」
「であれば、議員に忠告を促す……など」
「それも得策ではない。あまり目立った動きをすれば、軍部の目が光り、かえって私たちが動きにくくなる。そもそも、黒薔薇嶺二にとっては、政治など微塵も興味はないのだろうが」

 国家の転覆もまた一興というところか。誰もが安らかであれる喜劇は退屈するとでもいいたいのか。すべては、己の快楽を満たすために用意された脚本だとでも言っている気配さえする。

(つくづく趣味が悪い)

 千桜は号外から街中へと視線を向ける。震災後の不況を乗り越えた帝都の街には、次から次へと舶来物が入った。社会の在り方も時代とともに変遷し、誰もが平等を唱える風潮が根付いていく。

 華族もそうでない者も関係ない。男と女も関係ない。

 この国では昔から女は家を守るものとされていたが、今では職業婦人として社会に出て働く者がいる。男女で座席が分かれていた映画館はなくなった。きっと近いうちには、女にも選挙権が与えられる時代がくる。

 社会は、そうあるべきなのだ。だが、暗躍する者は、己の快楽を満たすがために、古臭い考え方をする連中に揺さぶりをかけている。

(そして、蓮華にも)

 千桜は冷たく目を細めた。

 前髪で隠された左眼には、帝都の街を闊歩する人々の心の色が映る。黄、青、緑、赤、紫、茶……そのどれもが十人十色であり、一つとして同じものは存在しない。

 嘘をついている者、隠れた信頼を寄せている者、揺らがぬ熱意をもつ者――。

 すべて見えてしまうからこそ、千桜の心情には波音ひとつ立たない。実の母に拒絶された時も、千桜は冷静に受け止めた。あらかじめ分かっていたからだ。

 目の前の人間が何を思っているのか。それが色となって浮かび上がり、千桜に伝わってくる。

 生まれた瞬間から客観的に生きることを余儀なくされた。千桜は己の境遇を煩わしく思いながらも、ある意味では冷静に受け入れていたのだろう。

 この先も、それでよいと思っていたはずなのに。

 賑わっている街を見回していると、目につく‟色‟がある。

(――あれは)

 東雲にも絡むように浮かび上がっていたあの‟色″と形状。ダンスホール‟カナリア″で目にした黒い茨が視界の端をかすめる。

「小鳥遊少佐……?」
「すまない、先に屯所に戻っていてくれ」

 人混みをかき分け、心の色の所有者を追う。

(あれは、まさか――)

 女だった。それも、面識のある女だ。

 一人、二人、視界が開かれるが、目当ての人物を見失った。通常、人の心がまったく同じ色、形をするはずはない。それが可能となるとすれば、何者かによって手が加えられている可能性が考えられるが。

 ……胸騒ぎがする。

(杞憂で済めばいいが)

 千桜はしばらく、女が消えていった先を冷徹に睨みつけた。

    *

 蓮華はその日、熱心に縫い物をしていた。手元には肌触りのよい麻の布がある。桃色の糸で丁寧に桜の刺繍をいれたところで、ほっと息をついた。

「まぁ! まぁまぁまぁまぁ! 綺麗なハンケチですね!」

 女中のはな子は、両手をあわせてまじまじと見つめてくる。あまり上手にできたとは言えない品であるため、蓮華は落ち着かずに肩をすぼめた。

「旦那様への贈り物でしょうか」
「は……はい。やはり、何か贈って差し上げたくて、無理を言って橘様に生地をこしらえてもらったのです」
「とっても素敵なお考えだと思います! きっとお喜びになられますよ」

 そうだろうか。そうだといい。

 蓮華はこれまで、癖のようにへりくだっていたが、最近では期待することを覚えた。これを渡したら、いったい千桜はどのような顔をするのか。どのような言葉をかけてくれるのか。ここまで脳裏に浮かんでは、勝手に胸があたたかくなる。

 千桜に借りた小説に、人と人の間にあるのは、エゴイズムでしかないとあった。そのエゴイズムをぶつけ合ってこそ、社会が成り立つ、と。舶来の言葉はすぐに理解できなかったため、蓮華は辞書を引いた。なるほど、たしかに、世界は己の主観で成り立っている。社会に溶け込むということは、己のエゴイズムを受け入れ、そして相手のエゴイズムを聞くことにある。

 蓮華はまた一つ、千桜の心に近づけた気がして、胸が安らかになる。

(いったい、旦那様ご自身の心の色は何色をされているのかしら)

 きっと鮮やかな桜色をしているのだろう、と蓮華はやわらかく口角を上げた。

「笑った……」
「え?」

 すると、突然はな子の仰天した声が聞こえる。完成したハンケチを膝の上に広げたまま、蓮華は首を傾げた。

「蓮華様が笑った……!」

 何故か、瞳に涙まで浮かべて蓮華の両手を握ってくる。蓮華は、ぱちぱちと瞬きをして呆然とするしかない。

 笑う、とはいったい。蓮華はただ千桜の面影を思い浮かべていただけで、まったく身に覚えがない。喜怒哀楽が顔に出やすいはな子とは違って、蓮華は感情を表現することが苦手だった。

「ああ、もう! お坊ちゃまに見ていただきたかった!」
「あ、あの……私、変な顔をしていたのでしょうか」
「いいえいいえ! とっても可愛らしかったのです。それはもう、世の男性を虜にするような、純白の笑みでした!」

 はな子が歓喜している中、蓮華は狼狽する。話が飛躍しすぎている気がする――と考えるのは、失礼だろうか。決して、そのような薔薇色な表情を浮かべていた自覚はない。

 だが思うに、最近は冷めきっていた心がよく浮つく。これはなんだろうと思っていた。これが、‟愛おしさ″なのか。これが、‟あいする″ということなのか。

 この気持ちを大切にしてもよいのだろうか。蓮華は膝に広げていたハンケチを手に取り、胸もとに抱き締める。

「この屋敷にいらっしゃった時は人形のようでしたのに……良い顔をされるようになりましたね」

 顔を上げると、優しい目をしたはな子がいる。

「来月、ついに祝言をあげられると聞きましたが、本当に楽しみでなりません」

 祝言。蓮華は言葉を復唱して、俯いた。とうとう正式に千桜の妻となるのだ。

 そのために教養を積み、淑女としての振る舞いも身に着けてきた。

 不安であるような、安堵するような。鳥は片翼では飛べない。両翼があることにより、大空を羽ばたける――。蓮華は、千桜の片翼として相応しい女になれているだろうか。

 そわそわしつつ、ハンケチを綺麗に折りたたむ。

 千桜を思い、桜の刺繍を施したそれを紙の包みに入れる。

(帰宅されたら、さっそくお渡ししよう)

 大事に文机の引き出しに入れて、はな子と向き直った――その時だ。

「ごめんくださいまし~」

 屋敷の玄関から、女の声が聞こえてきた。今の時間は家令が買い出しをしていて、留守にしている。はな子がすかさず立ち上がるそのあとを、蓮華もついてゆく。

(このお声は――)

 聞き覚えがある。いや、きっと勘違いではないのだろう。千桜の了承を得ていない勝手な行動ではあるが、気になってしまって来客の姿を確認せずにはいられない。

 はな子が玄関の扉を開けると、義母の美代が温厚な笑みを浮かべて立っていた。



「すみませんが、屋敷の者に御用でございますでしょうか」

 はな子が尋ねると、美代は目を細める。はな子の背後に立っている蓮華を視界に入れると、見たこともないような穏和な表情を向けてきた。

「私は巴美代と申します。うちの娘が大変お世話になっていて……ちょうど近くを通りかかったものですから、ご挨拶をと思ったのでございます」

 何故、蓮華に親密げな笑みを向けるのか。これまでの巴家での生活を思うと、どうしても解せなかった。

 藤三郎と使用人の間にできた子である蓮華を、誰よりも疎ましく思っていたのは美代であったはず。
 暴言を吐く、無視をする、叩く、蹴るなどは当たり前であり、優しい言葉をかけてもらった試しは一度だってない。

「蓮華、元気だったかしら?」
「あ……あの」
「私ね、あれからとても反省をしたのよ。貴女は巴家の娘であることに変わりはなかったはずなのに、本当にごめんなさいね」

 涙ぐんで目元をハンケチで拭う美代を、蓮華は唖然と見つめた。

 はな子はどう対応すればよいか困惑した。家令がいれば適格な判断を下せるはずだが、屋敷に通すか追い返すべきか、はな子には決めかねる。

「あの日は見送りできなかったものだから、後悔していたのよ。けれどまあ、幸せそうで本当に安心したわ」

 蓮華はじっと美代を見つめた。

(なんと、言えばよいのかしら)

 巴家で下働きをしていた頃の生活は、今思うと辛く厳しいものだったのかもしれない。あの場所で生きねばならなかった蓮華は、感情や思考を殺すことにより、なんとか正気を保っていた。

 けれど、本当はどうであったのだろう。蓮華は巴家の人間に何かを求めたかったのだろうか。家族として認めてほしかったのだろうか。母親や己を侮辱する行為を詫びてほしかったのだろうか。理不尽に叱責するのではなく、あたたかな言葉をかけてほしかったのだろうか。

「ごめんなさいね……ごめんなさいね」
「……奥様」
「今更謝っても遅いでしょうけれど、どうかこんな母を許してくれないかしら」

 悲痛に眉を顰めて涙を流す美代を食い入るように見る。

「馬鹿なことをした。こんなにも愛おしい存在だったのに」
「私は」
「……顔を見せて。ああ、こんなに愛らしくなって。小鳥遊様にはよくしていただいているの? できれば、これまでどんな暮らしをしていたのか、母に話してはくれない?」

 まるで、本当に娘を愛でるような目をする。蓮華の正面までやってくると、両手で頬を包み込んだ。

 あたたかな肌の感触を覚えて、蓮華は目を丸くした。

 母親のぬくもりはとうの昔に忘れ去ったはずだ。眠る前に子守唄を歌ってくれた。寒い夜は抱き着いて眠った。それらの記憶は、焼却炉から昇っていく煙とともに虚無の空に消えていった。

 蓮華はまじまじと美代を見つめる。

(心から……泣いていらっしゃるの?)

 美代はそのまま蓮華を抱き締めた。優しく髪を梳き、存在をたしかめるように。蓮華はしばらく放心状態になった。

「本当よ? 本当に、猛省したの。私、どうかしていた」
「おく、さま」
「そうではなくて、母と呼んではくれないかしら」
「お……かあ、さま?」

 蓮華は言葉を嚙み締めると、静かな水面に波が立ってゆくのを実感する。

「ああ、嬉しい」
「おかあ、さま」
「そうよ、蓮華。かわいいかわいい私の蓮華……」

 本当に蓮華を受け入れてくれるのだろうか。あたたかい体温は本物だろうか。

 もう二度と巴家の人間と関わる機会はないものだと思っていた。千桜の来訪があったあの日は、女郎屋に売り飛ばされる寸前だったのだ。蓮華などどうとでもなれと言わんばかりの態度であった。

 だが、こうして会いにきてくれた? 蓮華を抱き締める腕は、まるで本物の母親のもののようにも思えた。

「れ、蓮華様……」
「突然訪ねてしまって申し訳ないけれど、親子水入らずでお話をさせていただけないでしょうか」

 狼狽するはな子に美代は切なげに眉を下げた。

「で、ですが、旦那様の言いつけがございますので」
「きちんと夕刻までには送り届けます。ねえ、蓮華、いいでしょう?」

 蓮華は美代をぼうっと見つめる。

(本気で泣いていらっしゃる……)

 わざわざ美代から歩み寄ってくれているのに、無碍にするのは忍びない。少しだけ話すだけなら――と、はな子の方へ振り返る。

「かならず、夕刻までには戻ります。はな子さん、どうか私の我儘をお許しいただけないでしょうか」

 蓮華がはっきりと告げると、はな子は心配そうに眉を下げている。

「蓮華様が、そこまでおっしゃるのなら……」
「ご温情心から感謝いたします……!」

 蓮華は少しばかり出かける支度をするために、一度私室へと戻った。あとをついてくるはな子は、何か言いたげに蓮華を見つめる。

「お一人では心配です。差し支えなければ、私もついてゆきましょうか?」
「いいえ、お手間をおかけしてしまいますし、私一人で平気です」
「ですが……」

 ほんの少し話すだけだ。ここでの暮らしを伝えるだけだ。仮にも十九年住まわせてもらった恩義がある。矜持の塊であった美代が自ら出向いてくれているのだから、蓮華も応えてやらねばならない。

「おそらく私は、ずっと逃げていたのです。逃避することで、保身していた。だけど、いつかは向き合わねばならないものなのでしょう」

 蓮華も千桜のようにありたい。正しい道をひたすらに突き進む勇ましい背中を追いかけ、手を伸ばす。小鳥遊家に嫁いでから、人間の優しさやあたたかさを知った。同時に、悲しさや苦しみがあるのだと知った。

 それが人間であり、さまざまな喜びや苦悩を背負って、誰もが力強く生きている。それなのに蓮華は、自分の置かれた境遇から逃げ、心を閉ざした傀儡になった。弱い。弱すぎる。千桜の隣に立つためには、そんな自分と決別せねばならないと常日頃考えていた。

 きっと、美代と対話をすれば何かが変わるだろう。

 千桜の片翼となるに恥じない生き方をしたいと、強く思ったのだ。

 小鳥遊家の敷地の外に一台の自動車が停められていた。美代に連れられ、後部座席に乗車するとゆっくりと発車する。

 遠のいてゆく小鳥遊家の屋敷を見つめ、蓮華は深呼吸をした。

(はな子さん、ご迷惑をかけてしまって、ごめんなさい)

 少しだけ話をして、それが済んだら帰ろう。そうしたら帰宅した千桜を出迎えて、夕食前にハンケチを手渡す。

 千桜から事前の許可を得ずに美代と会った……と告げたら叱られてしまうかもしれないが、それでも蓮華は、今きちんと向き合っておかねばならないと漠然と思ったのだ。

 帝都の街が右から左へと流れてゆく。

 蓮華は持参した巾着の紐を握り締め、窓の外を眺めた。

「……ほんっとうに、間抜けねえ」

 その刹那、蓮華の口元に布が押し当てられる。

 背後から聞こえる冷え切った声は――美代のものだ。

(な、ぜ……そんな)

 背後から腕が回り、躰が拘束される。首を回して後方を見ると、先ほどまで優し気な笑みを向けてくれていたはずの美代はそこにはいなかった。

 瞳に浮かぶのは、果てしなく深い憎悪。怒り。嫉妬。――殺意。

「んっ……」
「おまえを我が子だと思うはずがないだろうに」
「……っ」
「さあ、お眠り。目覚めたらとっておきの地獄を見せてあげるわ」

 つんとした薬品の香りがする。しだいに蓮華の意識が遠のいてゆき、視界がかすむ。

(旦那様……)

 何者も寄せ付けない冷たい瞳を思い浮かべる。それとは裏腹の優しい言葉を思い出す。いつからか蓮華は、千桜の帰りを今か今かと待っていた。千桜に借りた小説を読んでいる時、お茶の稽古をしている時、炊事の手伝いをしている時、家令の目を盗み、こっそりと屋敷の掃除をしている時、気を抜くと蓮華はいつも千桜の顔を思い浮かべている。

 そうすると、無限に心があたたかくなった。

 いや、時として寂しさをも感じていたのかもしれない。

 それらは、これまで蓮華が知らなかった気持ち。

 ‟愛する″ということ――。

 蓮華の瞳が伏せられ、躰の力が抜けていく。

 ――ただ、千桜にハンケチが渡せなかったことが心残りだった。