ダンスホール‟カナリア‟での一件があり、念には念を入れて、蓮華は極力外出を控えるようになった。

 とはいえ、蓮華はもとよりほとんど屋敷の中で過ごしていたため、生活に大きな変化はなかったのだが。

 朝は千桜と朝食をとり、日中は勉学や稽古事に励む。夕方になると、食事の支度を買って出るようになった。千桜が勤めから帰ると、玄関先まで迎えにゆく。そのまま夕食をともにし、時間があえば縁側で桜を眺める。
 
 一時は謎の男の接近があり、得体の知れない不安を抱いたが、日常には何の変化もない。やはり、もう会うことはない。妙な胸騒ぎは杞憂だったのだ――と思うくらいには、小鳥遊家の生活に安らぎを抱いていた。

「いってらっしゃいませ、旦那様」
「ああ、行ってくる」

 玄関際で鞄を手渡すと、千桜の冷たい瞳が向けられる。

 こうして千桜を送り出す瞬間に、蓮華は思うことがあった。今の生活は穏和で、それこそなんの不便もない。女中たちも蓮華に大層よくしてくれていて、身に余るほどだ。いつまでも続いてゆけばいいのに、と考えるのは烏滸がましいが、そう思うほどには安らかな日々がある。

(待っていることしか、できないのかしら)

 あたたかな生活に安堵する一方で、日々国のために立派な勤めを果たす千桜に何かを返したいと思う。最近では、家令に無理をいって食事の支度を手伝わせてもらっているが、それだけでは足りないような気がする。

 このような気持ちははじめてだった。誰かに、どうしようもなく捧げたくなるような感覚は。

「何か変わったことがあれば、すぐに周りの者に伝えるように」
「……はい」
「それから、花を生ける腕を上げたな。よければ、今度こそ私の部屋に飾らせてくれ」

 蓮華の頬が沸騰したように熱くなる。胸がふわふわと浮かび上がるような感覚。これは、‟嬉しさ‟か。それとも‟恥ずかしさ‟か。

 蓮華は返答に困り、こくこくと頷いた。

「お邪魔にならないとよいのですが……」
「そうやってすぐに謙遜をする癖は、簡単には治らないな」

 千桜は眉を下げて小さく笑った。蓮華はつい、やわらかい千桜の表情を見つめてしまう。

 千桜は帝国陸軍のそれも少佐ともあろう人だ。毎日国のために勤めを果たしている。それが義務であり、使命であり、千桜自身であるのだ。そうは分かっていても、時々、玄関先で見送るのに‟寂しさ″を抱く時がある。

 傲慢だ。身の程知らずも甚だしい。

 いつでも、どこでも、隣に並んでいたいという‟欲‟が生まれ、現在の己の立ち位置に悶々とする。このままではいけない。蓮華ももっと、自分の足で立てるように――と。

「何か足りないものがあれば、橘を使わせるように」
「……はい」
「訪ねてくる者があっても、おまえは応対しなくていい」
「…………はい」

 返事をするごとに胸に重い鉛がぶら下がる。

(我儘だわ……こんなの)

 千桜を送り出し、蓮華はしばらく玄関で呆けた。こんな自分を拾ってくれた千桜に迷惑をかけてはいけない。そう思う反面で、これまで抱きもしなかった私情がせめぎ合った。

  *

「え? 旦那様に、贈り物を差し上げたいと?」

 蓮華の私室にて、家令の呆気にとられた声が響く。

「やはり、駄目……でしょうか」

 座布団の上に姿勢よく座る蓮華は、重々しい顔つきをする家令を見つめた。

「そう……ですねえ、贈り物となるとデパートメントに買い物をしに行けたらよいのですが、外出はお坊ちゃまに止められておりますし」
「そうですよね……我儘を言ってしまい、申し訳ございません」

 蓮華はダンスホール‟カナリア‟の庭園にて声をかけてきた男――黒薔薇伯爵こと、黒薔薇嶺二の詳細を千桜からは聞かされていない。蓮華も無理に聞こうとはしなかったが、おそらくは危険な人物なのだろうと理解はしていた。

 人間のようで人間ではないような、ただならぬ雰囲気。思い出すだけで鳥肌が立つような不気味な男だった。

 のちに知ったことだが、黒薔薇嶺二は貿易会社を何社も軌道に乗せ、最近は財閥化も成功している。そして、趣味の一環であのダンスホール‟カナリア‟を経営しているというのだから、驚いた。

 そのような人物が何故、蓮華を?

 単なる戯れだったのでは?

 そう思うほどには、蓮華には縁遠い人物だ。黒薔薇嶺二ほどの男が、自ら会いに来るような存在ではないことを、蓮華自身が一番よく知っている。千桜は黒薔薇嶺二と蓮華を接近させぬよう、蓮華の身の回りに気を使ってくれているが、それこそ杞憂ではないのだろうか。

(やはり……これは我儘よね)

 家令に頼み込んでみたが、許可を得るのは難しいだろう。今ある生活も十分すぎるほどだ。これ以上は贅沢がすぎるのかもしれない。

「蓮華様お一人で……というのは難しいかと存じますが……」
「はい」
「お坊ちゃまとお二人で、であれば……お許しはいただけるのではないでしょうか」

 蓮華は俯いていた顔を上げる。

「二人で……?」
「日々の労いもかねて、帝都デェトを贈り物にする、というのは我ながら粋な発想かと。それであれば、お坊ちゃまも安心なさいましょう」

 思えば、蓮華は千桜と帝都の街中に出かけたことはなかった。近所を散歩することはあたが、近代的なお店に立ち寄ったり、外で食事をする機会もなかった。

 蓮華はぽかんと口を開ける。

「デェト……」
「はい。蓮華様を大切にされるお気持ちは分かりますが、いつまでも屋敷に閉じ込めておくのも紳士的とはいえないでしょうし」
「あの、私……そんなつもりで言ったのでは」
「お坊ちゃまがおそばにいらっしゃればご心配はないでしょう。あの方は、とてもお強い」

 とっさに蓮華は自身の頬を両手で包んだ。デェト、とは最近はな子から教えてもらった単語だ。西洋の言葉であるようで、年ごろの男女が逢引をすることをいうそうだ。

 まさか、破廉恥ではないだろうか。はしたない女だと思われてしまったら――。

「お坊ちゃまには、私からご提案しておきますから」
「……あ、えっ……! どうしましょう、どうしましょう!」

 浮かれていては、いつか罰が当たるかもしれない。蓮華は気を取り直して勉学に励んだ。

 日曜日の午前、蓮華は着慣れていないワンピース姿で姿鏡の前に立ち尽くしていた。

 外出の一件は、家令から千桜に即座に伝わった。はじめこそは渋っていたようだが、千桜とともに行動するのであればさほど心配はないだろうということで、なんとか許可が下りた。屋敷の中での生活は退屈するだろうとの千桜の配慮もあってではあったが、蓮華はやはり無理な我儘を言ってしまったのではないかと憂慮した。

「……蓮華、身じたくは整ったか」

 すると、襖の向こう側から声がかかる。蓮華ははな子にこしらえてもらった鞄を持った。

「は、はい。お待たせいたしました」

 襖を開けると千桜がいる。ただそれだけであるが、蓮華の胸は煩かった。軍服ではなく、シャツとズボンのみを着用している千桜は、いつもと違って見えたのだ。

「今日は、無茶を言ってしまい大変申し訳ございませんでした」
「いや、私も家に籠らせきりで悪かったと思っていた」

 蓮華は気恥ずかしくなり、俯く。女から逢瀬の誘いをするなどはしたなかったのではないか。家令に申し出てもらったのはよいものの、そもそもデェトで何をすべきなのか分かっていない。

「あの……私、ただ旦那様に日頃のお返しをしたかっただけなのでございます。だから、あの、まさか一緒に出掛けていただけるなどとは思ってもいなかったのです」
「橘から聞いている。以前に見返りは求めていないといったはずなのだが、好意を無碍にするのも野暮だろうと思ってな」

 千桜は微笑を浮かべる。

「だから、これはあえて私からの頼みだ。おまえの今日一日を私にくれると嬉しい」

 蓮華は唐突に穴に埋まりたくなった。

(結局、私がいただいてしまっているのではないかしら……!)

 「行くぞ」と身を翻す千桜を追いかける。せめて余計な心労はかけさせないように努めよう。千桜の隣を歩くに恥じない振る舞いを心がけよう。気を引き締めねばならない状況下ではあると理解しつつも、蓮華の胸の音は高鳴るばかりだった。

 デェトとは、何をするものなのか。蓮華はこっそり女中のはな子に聞いてみたのだが、まったくもって想像がつかなかった。

 異性とカフェで食事をしたり、デパートメントで買い物をしたり、公園でソーダ水を飲んだりすることをいうそうだ。堅物な印象が根強い千桜とこのようなことをしている自分を思い浮かべられなかったが。

「いらっしゃいませ、二名様ですか?」

 カランカラン。耳障りの良いドア鈴の音がする。銀座まで自動車で移動をして、最初に入ったのは雰囲気のいいカフェだった。

「ああ」

 蓮華はカフェにはじめて入る。色鮮やかなステンドグラスと舶来物のランプが印象的な店内を目にして、ほうとため息をついた。

 洋風なつくりではあるが、ダンスホール‟カナリア‟とはまとう空気が異なる。流れているジャズは親しみやすく、客層は一般客がぼとんどだ。

 給仕に席まで案内されると、千桜は慣れた手つきでメニュー表を広げる。

「なんでもいい。好きなものを頼みなさい」

 淡泊に口を開き、蓮華から見やすい向きにそれが置かれた。

「あの……こちらのお店には、よく来られるのでしょうか」

 尋ねると、千桜が蓮華へと横目を向けてくる。

 千桜がダンスホール‟カナリア‟のように派手な場所を嫌っているとは知っていた。その一方で、連れてきてもらったカフェの雰囲気は大衆的である。いずれにせよ賑やかな場所は苦手なのかと思っていたため、蓮華は意外だと思った。

「よく……というほどではないが、ここの飯は気に入っている」
「そう、なのですね」

 基本的に千桜の昼食は弁当だ。夕食も蓮華とともに屋敷でとっている。となると、士官学校時代や、蓮華が嫁ぐ前などにはよくここで食べていたのだろうか。

「どうした?」
「い、いえ、申し訳ございません。なんだか、不思議に思ってしまって」
「不思議……とは?」

 しきりに店内を見ている蓮華に千桜は問いかける。

「旦那様はもっと、なんといいますか、静かな場所を好む方なのかと……勝手に思っていたものですから」
「静かな場所、か」
「カフェという場ははじめて訪れましたが、とても親しみやすくて、和気あいあいとしていて、まるで……私のような者でも社会に溶け込めているような気持ちになりました」

 隣の席に座っている女二人は、職業婦人であるようで、先ほどから新聞記事の話題で盛り上がっている。後方の席には民間会社の同僚陣のようであり、意見交換が白熱している。華族の社交場とはまた違った世界ではあったが、居心地の悪さは感じられなかった。

「本来社会というものは、この店のようにあるべきだと思っているんだがな」

 千桜はステンドグラスを見つめると、小さくため息をつく。

「上も下もない。男も女も関係ない。どんな者にも、平等にうまい飯が提供される」
「……」
「そういった点で、この店は気に入っている」

 蓮華は至極納得した。同時に何故か胸があたたかくなる。千桜が気に入っているカフェを知っただけだというのに、何故蓮華が満足感を抱いているのか。

 胸をさすってみても分からない。ただ、千桜と精神的に近くなれた事実に、形容しがたい感情を得ているのはたしかだった。

「あの」

(こういう時は、なんといえばいいのかしら)

 向かいあう千桜を見つめる。ぎゅっと唇を結び、勇気を振り絞った。

「……ありがとう、ございます」

 これまでは、何をしていてもついてでてくる言葉は謝罪だった。自分がとった行動により、相手が迷惑をしたのではないかと思うからだ。考えるよりも前に謝罪の台詞を吐くことによって、保身したかったのだ。

 千桜の前では弱い自分でいたくない。謝るのではなく、もっと他に言葉がある。
 何より、"伝えたい"と思うようになった。伝えてもいいのだと思えるようになった。

 少しずつ蓮華の意識が変わってゆく。

「はじめて、だな」
「え?」
「違ったらすまない。おまえが言葉で礼をいったのは、はじめてなような気がする」

 蓮華は瞬きをして固まった。

「これからは、躊躇わずそうしてくれると嬉しい」
「……あ、あの……はい」
「好きなものを頼め。どの飯もうまいぞ」

 蓮華はこくりと頷く。そしてメニュー表を見てほっと胸を撫でおろした。

 これであればすべて蓮華でも読める。難しい漢字は使われていなかった。

「オムライス……、ハヤシライス、コロッケ……定食」

 だが、別のところで悩みが生じる。どれも魅力的に思えるため、注文が決まらなかった。

「だ、旦那様はお決まりなのでしょうか」

 先ほどから蓮華がメニュー表を陣取ってしまっている。慌てて千桜が読みやすい向きにして手渡すと、軽く制された。

「決まっているから、そのまま見ていていい」

「……そ、そうなのですね。ちなみに、旦那様はどちらを頼まれるおつもりなのですか?」

 いつも決まったものを注文しているのだろうか。ちらりともメニュー表を見ていないが。

 メニュー表を受け取り直し、顔を上げてはっとする。何気なく尋ねたつもりだったが、千桜はぴくりと眉の端を上げていた。

(きっと生意気だったに違いないわ……!)

 冷たい瞳がじっと蓮華を見ている。もともと表情が顔に出ない人物ではあるのだが、今の千桜はどことなく不愉快そうに映った。蓮華は狼狽し、視線を右往左往させる。

「あ、あのっ、私、なんという失礼を」
「その、待て、違う。そうではなくてだな……」

 だが、それも杞憂だった。

「私は……ここのコロッケ定食が好きなんだ」

 言いにくそうに、重々しく吐き出された。「好物を頼むつもりだ、などと気軽には言えんだろう」と罰が悪そうに眉を顰めている。

 聞いてしまってもよかったのか。蓮華が見る限りでは、千桜は機嫌が悪そうだ。

(旦那様は、コロッケ定食がお好きなのですね)

 だが、知らなかった。

 毎日食事をとっているのに、好物の話をしたことはなかった。そもそも、屋敷で食事をする際には基本的に会話すら発生しない。あるとすれば事務的な内容だった。

 注文を決めるのに悩んでいた蓮華だったが、なんとなく、千桜と同じものを食べたくなった。

 巴家の下働きをしていた頃には、自分がまさかカフェで食事ができるとは思いもしなかった。

 台所の隅っこで、冷や飯にお湯をかけて食べていた。それも三日に一度という頻度だった。短時間で食べきれずにいると、女中に取り上げられた。生きる活力が得られず、蓮華は次第にやせ細っていった。

 巴家での待遇もあって蓮華は食にあまり関心がなかったが、小鳥遊家に来てからは一日の楽しみとなりつつある。味覚や嗅覚を感じるようになった。そしてなにより、向かいには千桜が座っている。

 一人では――ないのだ。

 千桜が給仕を呼びつけると、コロッケ定食二つ、ホットコーヒーとミルクセーキ一つずつ注文をしたのだった。

  *

 カフェで食事を済ませたあとは、公園のベンチで腹ごなしをした。公園は人で賑わっていて、蓮華はまたあたたかな気持ちになった。まるで、自分が社会に溶け込んでいるようだ、と。

 そして同時に、千桜に贈り物をするつもりでいたのに、蓮華ばかりがもらってしまっているのでは、と落胆する。ただ公園のベンチに座っているだけでも、千桜は周囲の警戒は怠っていないのだろう。余計な気苦労をかけてしまっているのにもかかわらず、蓮華はすっかり楽しんでしまっていた。

「あの……今日は本当に、ご無理を申し上げてはいなかったでしょうか?」

 隣を見ると、千桜の美麗な横顔がある。

「無理などしていない。むしろ、久方ぶりに羽を伸ばさせてもらった」
「……ですが」
「本当だ。おまえの提案がなければ、あの店に行く機会もなかったからな」

 きちんと労えているだろうか。蓮華は千桜を見上げて、唇を結ぶ。

「この公園も、よく学生時代に来ていた」
「そうなのですか……?」
「芝生に寝そべって、小説を読んでいたな。ちょうどあのあたり」
「もしかして、今私に貸していただいている小説を?」
「ああ、あれだけでなく、他にもたくさんの本を買っては読んでいた」

 帝都大学生の千桜の面影を思い浮かべる。きっと、今と変わらず美しかったに違いない。誰に声をかけられることもなく、大衆に混ざって、静かに読書をしている光景が浮かぶ。

 住む世界があまりに違った。巴家で下働きをしていた蓮華とは、出会うはずもなかった人物。巡りあわせとは不思議なものだ。天と地ほどにかけ離れているはずの千桜は、今――隣にいる。

「懐かしいものだな」
「旦那様は学生の時から、ご立派だったのでしょうね」
「お前は私を買い被りすぎだ。……今でも、力が及ばないものが多すぎる」

 蓮華からすると、日々国のため、正義のために尽力していること自体が素晴らしいと感じる。蓮華には世の中に立ち向かう勇気すらないのだ。

「不思議なものだな。おまえには、心の内を伝えるのに、抵抗を抱かない」
「え……?」
「ここまで誰かに知ってほしいと思ったこともなかった。言う必要性も、特に感じてはいなかったのだがな」

 池の湖面がきらきらと光る。鳩が一斉に飛び立ってゆく。千桜の紺桔梗の髪が陽光を浴びながら、風にのって揺れている。

 蓮華はそのあまりの美しさに目を奪われた。

「私も……」

 白黒だった毎日に、鮮やかな色がついていく。当たり前だと思っていた日々と、そうではない世界。千桜を通して、蓮華はさまざまな感情を知った。

「旦那様のことを知れて、おそらくは、嬉しかったのだと思います」
「そうか」
「うまく言えないのですが、自分のことのように胸があたたかくなって、ふわふわして。これは、良いことなのでしょうか?」

 聞けば、「ああ」と淡泊な返事がくる。

 独りではない。二人で生きる。蓮華と千桜は言葉数こそは少ないものの、心のつながりを感じていた。これまでは互いに必要としてこなかったそれに心地よさを抱く。

 なぜか、強くあれるような気がする。

 どこか、これまでと違う。

「私も、今日は有意義な時間を過ごさせてもらった」
「本当……でしょうか」
「本当だ。今は窮屈な思いをさせてしまってすまないが、落ち着いたら、また必ず来よう」

 片翼の鳥は、一羽では飛べないように、二羽で連なることによりはじめて大空をはばたける。