蓮華は肩を震わせ、周囲を見回す。すると、薔薇園の中から出てきた人物がいた。月光に照らされている蓮華とは対極的に、闇の影から現れ出た男。年齢は千桜より少し年配であるように思えたが、ここからではよく表情がうかがえない。

 物腰柔らかな口調や、可憐な身のこなしから、華族の――それも家督の高い人物であるように感じた。

「……こんばんは、御機嫌よう」

 蓮華はとっさにドレスに手を添えて礼をとる。

 ゆっくりと顔を上げると、闇の中に立っている人物の顔が徐々に明らかになった。

 と同時に、蓮華は猛烈な後悔の念に駆られる。読み書きや礼儀作法などの教養はかろうじて得ているが、華族の人間の情報はまったく頭に入れていなかった。

 こうなることが予想できていたら、千桜に名簿を見せてもらうべきだった。どうしてそのような機転がきかないのか。すべて千桜任せにしている己が恥ずかしく思った。

 男は息を飲むほどに美麗な容姿をしていた。だがそれは千桜とは違う美しさだ。光を通さぬ漆黒の瞳に、艶のある黒髪。意匠の燕尾服の胸もとには、黒い薔薇のブローチがついている。まるで西洋の人形のように完璧な外見だった。

「あの……」

(いったいどなたかしら)

 名前が分からないなど無礼極まりない。かといってこの場から逃げ出すこともできず、蓮華は狼狽えた。

「ああ……なんと光栄な巡り合わせでしょう」
「光栄……?」
「巴蓮華様、あなたは、素晴らしい」

 蓮華は目を見開き、愕然とした。まだ名乗ってもいない。

 しかもよりによって‟巴″の性を知る者は、数えるほどだ。それなのにどうして氏名を把握しているのか。

 男は目尻を細めると、一歩一歩蓮華のもとへと近づいてくる。

「どうかあの唄をもう一度お聴かせ願いたいものです」
「あ、あの」
「ここではお恥ずかしい? ふむ……そうですねえ。であれば、私のお部屋にでもお連れしましょう」

 なぜ、恍惚とした表情を浮かべているのか。蓮華には理解ができなかった。

 家督の高い華族の指示に背いてしまっては不敬に値する。本来であればたかだか唄くらい、見世物として披露すべきだろう。だが、蓮華の躰はそれを拒絶する。

「ひ、人を待っておりますので、遠慮させていただきたく存じます」

 蓮華はとっさに俯いて、失礼を覚悟で断りを入れる。
 蓮華は千桜にここで待っていると告げたのだ。約束は守らねばならない。

「貴女の未来の旦那様は只今、軍略会議の真っただ中でしょう? 貴賓室にこもって、それはもう大層な計画を練られていらっしゃる。お待ちになるのは些か退屈でしょう」
「……ど、どうしてそれを」
「それにここはダンスホール‟カナリア‟ですよ? 少しくらい羽目を外しても……よいのです」

 手袋がはめられた細長い指が蓮華の顎へと伸びてくる。

(旦那様が上官殿とお話をされているなど、あの場に居合わせていた私くらいしか知らないはず)

 本能が避けねばならないと告げているのに、躰が鉛のように動かない。男からは妖艶な薔薇の匂いがした。

「さあ、お話をいたしましょう。私のことが気になるのであれば、お部屋でじっくりお教えします」
「い、いえ、そんなつもりは」
「私、鳥肌が立ってしまって仕方がないのですよ。神の思し召し。いやはや、本当に素晴らしい……」
「あのっ……」
「そうか……そうですか、あなたが。ああ……そうでしょうとも。私たちは有象無象の屑どもとは違い、──……選ばれし人間なのです」

 男は高揚していた。蓮華の顔をよく見るように顎を引くと、うっとりと目を細めた。

(この方にあまり近づいてはいけない気がする)

 どうにかせねばならない。だが、蓮華は護身術の知識もなく、巧みな話術でかいくぐることもままならない。

 脳裏に浮かぶのは千桜の顔だ。冷たい目をした心優しい人。闇よりも光が似合う立派な人。いつしか蓮華は。千桜のために生きたいと思うほどには、そのまっすぐな志に強く惹かれるようになっていた。

「おやめ、ください」
「貴女は私と同じ。巴家は名のある華族ですし、私生児とはいえ、そう悪くはないでしょう。いいですねえ、私は貴女のことがもっと知りたくなった……」

 ぶるりと背筋が震え上がる。

(この方は何処までご存知なの)

 氏名だけでなく、出生の詳細まで知っているとはいったい何者なのか。

「……離して、ください」
「ふむ……」

 蓮華はこれまで、己自身にはなんの関心もなかった。

 殴られても、蹴られても、罵倒されても、どこか他人事のような感覚があった。靴を舐めろと命じられればその通りにした。土下座をしろと命じられればその通りにした。
 
 そうしなければ生きて行けなかった。だから、己についての矜持のいっさいを捨てていた。

 けれど今は、違う。

(このような私でも愛してくださる旦那様がいる)

 千桜が向けてくれた気持ちに応えるための矜持だ。
 怯えや不安を消し去り、まっすぐ男を見つめると、あっさりと指先が離れていった。

「……残念です。あなたの騎士ナイトがもうこちらに向かわれているようですね」

 蓮華はほっと肩を撫でおろす。男は両手を広げてわざとらしく肩を窄めた。
 急ぐそぶりも見せず、持っていたステッキを優雅に振りながら闇の中へと歩みを進める。

「今夜はとてもよいものを見せていただきました。ええ、本当に」
「……あなたは、いったい」
「またどこかで会いましょう……蓮華の花の、お嬢さん」


    *


 蓮華は気の抜けたようにその場に立ち尽くす。

 あたりには独特な香りを放つ薔薇園が広がっている。館内から聞こえたはずの華族の笑い声が、ようやく蓮華の鼓膜を揺らした。男の瞳に見つめられると体温が二、三度下がってゆく感覚があった。

 あの男はいったい誰であるのか。

 膝の力が入らず大きくふらついたが、地面に倒れることはなかった。すんでのところで肩を抱き寄せられ、蓮華は何者かの胸に躰を預ける。

「おい、どうした」

 優しい桜の香りがする。

 ──千桜だ。

 蓮華の視界には、冷たい右眼と鮮やかな桜色の左眼がある。緊張がどっとほぐれ、蓮華は思わず千桜の胸もとを掴んでしまった。

「顔色がよくない」
「旦那様……」
「――何が、あった?」

 情けない。勝手な判断で千桜のそばを離れたことにより、かえって心配をかけてしまっている。

 口にすべきか逡巡したが、千桜の目は有無を言わさないといった具合に鋭い。蓮華はゆっくりと唇を開き、一連の出来事を打ち明けることに決めた。

「いえ、あの……きっと気にするべきではないのかもしれないのですが、男性に……声をかけられました」
「男? どんな人相だったか覚えているか」
「とても、紳士的な振る舞いをされていらっしゃって……それから、黒い薔薇のブローチをつけて、いらっしゃいました」

 蓮華が男の特徴を口にすると、千桜の目が鋭く細められた。

「黒い薔薇……だと……?」

 蓮華はこくりと頷く。

「また、どこかで会いましょう……と。でも、私、その方と面識はないのです。誰であるのかも分からなくて、だから」

 男の笑みには、底震えするほどの恐ろしさがあった。巴家の人間の、蓮華をあざ笑う笑みとも違う。もっと深い闇の香りがする不気味な笑みだった。

「くそ……何が狙いだ」

 千桜は静かに苛立った。蓮華の肩を抱くと、自らが着ていた軍服を脱ぎ、羽織らせる。蓮華の躰は知らぬ間に冷え切っていた。

「すまない。やはり、一人にさせるべきではなかった」
「いいえ、私が勝手に出てきてしまったのが悪いのです。それに……あの方にも、もう会う機会もないでしょうから」
「……」
「それよりも、申し訳ございません。大切なお話し合いの妨げになったのではないでしょうか」
「いや、私のことは気にするな。聞くに堪えないくだらん話だったから、軽い牽制をして出てきたのだが──……それよりも」

 小鳥遊家で過ごしている蓮華は、基本的に外出する機会は少ない。
 夜会にも進んで参加しようとも思わないため、おそらくは杞憂に終わるだろう。

 あの男の発言には身に覚えのない部分が多々あり、困惑した。"素晴らしい"などと褒め称えられるような価値が蓮華にあるとは思えなかった。

 冷徹な目を向けてくる千桜を前にして、蓮華は己の浅はかさを猛省する。

「ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」

 頭を下げると、頭上から深いため息が落とされた。

「杞憂で済めばよいのだが……あまり、よい予感がしないものでな」

 さまざまな欲望が渦巻くダンスホール‟カナリア‟は今夜も眠らない。世俗から隠匿された場所で、ミツバチたちは背徳的に蜜を吸いあう。まるで悪意を持った何者かの手で創り上げられた理想郷のようだ。

 千桜は自らの左眼を手で押さえる。とぐろまく黒い色。

 メインホールでは、最近はよくそれと似た色を見かけるようになったが――。

「蓮華に何用だ……黒薔薇嶺二」

 人間の心を見透かす桜色の瞳が疼いていた。