燕尾服をどぶまみれにしてしまったアドルフは、急いで身なりを整えるらしい。
降誕祭パーティーが開始されるまで残り二時間である。頑張れアドルフ、と心の中で応援した。
私はアドルフの部屋に案内され、ゆっくり過ごすようにと言われる。部屋にある本は好きに読んでいいと言ってくれたものの、すべて魔法関連の書籍である。
私が普通のお嬢様だったら、退屈しているに違いない。
アドルフの部屋にある魔法書は、どれも絶版された貴重なものばかりだ。
題名や著者名を見るだけでも楽しい。
喉から手が出るほど欲しかった本があるものの、読みふけっていたら不審がられるだろう。
文字を目で追っている中で、叔母が書いた輝跡の魔法についての本を発見する。貴重な本の中で、少し浮いていた。
私も二冊持っていて、魔法学校と実家の私室に置いている。
手に取ると、本自体が少しくたびれている印象を受けた。何度も読み返していたのだろうか。
表紙を捲ると、大叔母のサインが書かれてある。
アドルフと大叔母は会ったことがあるのだろうか?
サイン以外にも、メッセージが書かれていた。
「〝あなたの人生を輝かせる人に、出会えますように〟」
大叔母らしい、前向きなメッセージである。その言葉は、私の胸にも響いた。
この先、アドルフにはさまざまな試練が立ちふさがるだろう。そういうときに、彼を支えられるような存在になりたい。
大叔母の本を読んでいたら、アドルフが戻ってくる。先ほどまでどぶまみれでいたとは思えない、完璧な貴公子然とした姿であった。
「早かったですね。もっとお時間がかかるかと思っていました」
「手早く風呂に入るのは、魔法学校で慣れているからな」
魔法学校ではお風呂のお湯が出る時間は決まっている。消灯後は水すら出ないのだ。そのため、うっかり忘れていたら、大急ぎで入らないといけない。
アドルフは何度も、勉強していて入浴時間の終了が迫っていた、なんてことがあったらしい。
「最短記録は十分だな」
「まあ、すばらしい」
アドルフは私の隣に座り、何を読んでいるのかと覗き込んでくる。
ぐっと接近された瞬間、石鹸みたいないい匂いがしてドキッとした。
「リオニー、輝跡の魔法の本を読んでいたのだな」
「ええ」
「そういえば、リオルも輝跡の魔法を使いたい、なんて話していたな」
「著者は大叔母ですの。彼女はわたくしの憧れですわ」
「ああ! そういえば、家名がそうだな。なるほど、そういうわけだったのか」
アドルフはしばし考え込むような素振りを見せたあと、私に真剣な眼差しを向ける。
「いつか、リオニーに話そうと思っていたのだが」
「なんですの?」
どくん! と胸が高鳴る。ついに、薔薇の花束と恋文を贈っていた相手について打ち明ける気になったのか――と思いきや、アドルフの話は別件だった。
「俺は社交界に初めて出た日に、輝跡の魔法を作った彼女に出会った」
なんでも、偶然の出会いだったらしい。
「会う人会う人、俺をロンリンギア公爵家の嫡男としてしか見ていなくて、息苦しかった――」
人々はアドルフを祝いながらも、誰もがその向こうにいるロンリンギア公爵に目を向けていたという。
ひとりとして、アドルフを見ていなかったのだ。
アドルフは将来に悲観した。きっとこの先何をしても、認められるのは爵位を継いだ瞬間なのだろうと。
ならば、この先努力をする意味なんてあるのか。
当時、十五歳だったアドルフにはわからなかったという。
アドルフは人に酔ったと言って会場を抜けだし、ふらりと歩いていた先にいたのが大叔母だったようだ。
「廊下の隅で蹲り、見るからに具合が悪そうにしていた。すぐさま介抱し、彼女のために用意されていたという部屋に連れて行ったんだ」
水を一杯飲んだら、顔色はよくなったという。
アドルフは逆に、大叔母から心配されてしまったらしい。
「居場所がない、迷子のようだと言われてしまった。そのとおりだったから、たいそう驚いたのを覚えている」
アドルフがロンリンギア公爵家の者であると名乗っても、大叔母は態度を変えなかった。それで、アドルフは少しだけ心を許してしまったのだと話す。
「俺の中にあるくだらない自尊心をすべて優しく包み込んでくれるような、不思議な人だった。気付いたら、誰かに打ち明けるつもりはなかった胸の内を、すべて彼女に話していた」
大叔母は部屋に置いていた自らの著書を手に取り、アドルフへ言葉を残した。
「それが、その本に書かれた〝あなたの人生を輝かせる人に、出会えますように〟、というものだった」
それは、アドルフを理解し、支えてくれる人が世界のどこかにいるはず。そんな人と人生が交わるようにと願いを込めた言葉だったという。
最後に、大叔母はアドルフにあることを伝授した。
「俺が魔法使いであることを言ったら、簡単な輝跡の魔法を教えてくれた。それは――〝星降り〟」
輝跡の魔法の中でも基礎的なものだが、簡単な魔法ではない。
叔母はアドルフの魔法の才能を見抜いて教えてくれたのだろう。
「その後、彼女と別れて会場に戻ったのだが、話しかける者はすべて、父に媚びを売りたい者ばかりだった」
うんざりしたアドルフは、露台(バルコニー)に避難したらしい。
「ムシャクシャしていた俺は、先ほど習った星降りの魔法を、魔力をありったけ注いで放った。すると、思いがけないほうから声が聞こえて――」
「あ!!」
思わず、声をあげてしまう。
私は王宮のパーティーで見た、美しい星降りに覚えがあった。
「一階にはドレスをまとったご令嬢がいて、星降りに感激する声が聞こえた。そのご令嬢は友達といたようで、こう言っていた」
――今日は最悪の日だったけれど、今、この瞬間にすてきな日になりましたわ。どなたか存じませんが、ありがとうございます!
「その一言を聞いて、とても清々しい気持ちになった。人を喜ばせることが、こんなにも心地よい気分になるのかと、初めて知った。あのときの俺を救ったのは、リオニーだった」
アドルフは私の手を握り、深々と頭を下げる。
「リオニーに出会った瞬間、人生が輝いたんだ」
「そんな……わたくしは……」
婚約したばかりの私はとんでもなく卑屈で、アドルフからの誠意にまったく応えていなかった。それなのに、彼はずっと特別な思いを抱いていたという。
「わたくしは、アドルフに何を返せるのでしょうか?」
「何もしなくていい。傍にいるだけでいいんだ。絶対に、幸せにするから」
アドルフの言葉に、こくりと頷く。
彼と一緒ならば、どんな困難も乗り越えることができそうな気がした――。
「ああ、そうだ。降誕祭パーティーが始まる前に、リオニーを父に紹介しないといけない」
アドルフは苦虫を噛み潰したような顔で言う。
「父は偏屈な人間で、優しさというものを祖母のお腹に忘れてきたような男だ。できるならば、リオニーに会わせたくない」
けれども、この先結婚するまで、ロンリンギア公爵に会う機会はないという。今日が最後のチャンスというわけだった。
「父については先に謝っておく。不快な気持ちにさせるかもしれないから」
アドルフは深々と頭を下げ、謝罪した。
まだロンリンギア公爵は何もしていないのに、先に謝るとは斬新すぎるだろう。
「母上については、おそらくこの先も会えないだろう」
「そう、ですのね」
母君について口にした瞬間、アドルフの表情が暗くなる。何やらワケアリのようだ。
執事がやってきて、ロンリンギア公爵の準備ができたという。
「リオニー、父上のところに行こう」
「ええ」
アドルフが差し出してくれた手に、指先をそっと重ねる。
決戦に挑むような心持ちで、私は立ち上がった。
降誕祭当日だというのに、ロンリンギア公爵は執務室にいた。まったく歓迎していないという表情で私達を見る。
白髪が交ざった金の髪に、琥珀色の瞳を持つ、強面の男性がロンリンギア公爵らしい。アドルフとはまったく似ていなかった。きっと、彼は母親似なのだろう。
ロンリンギア公爵は眉間の皺は基準装備、と言わんばかりの険しい表情を浮かべ、盛大なため息を吐いていた。
「父上、彼女がリオニー・フォン・ヴァイグブルグです」
「例の格下の家の小娘か」
嫌味たっぷりに返してくれる。事前にアドルフから話を聞いていたので、内心こんなものか、と考えていた。
「ロンリンギア公爵、お初にお目にかかります、リオニーと申します」
「小娘、紹介はいい。どうせ覚えないから」
「父上、あんまりです!」
「うるさい」
ロンリンギア公爵は乱暴に手を振り、出て行けと行動で示した。
私は深々と頭を下げ、部屋から出て行く。
扉が閉まると、アドルフは盛大な溜め息を吐いていた。
そろそろ降誕祭パーティーが始まる時間帯だが、主催であるロンリンギア公爵の挨拶が終わってから行くらしい。
アドルフの部屋は会場から遠いため、休憩のために用意された小部屋で待機する。
「開始三十分くらいは、父へのおべっかの時間だ。馬鹿馬鹿しくて、とてもではないが付き合ってられない」
「まあ、そうですのね」
「それよりも、先ほどは父がすまなかった。重ねて謝罪させていただく」
「いえ、ロンリンギア公爵がどういう人物か事前に耳にしていましたので、こういうものか、と思ったくらいです」
アドルフは目を見張り、驚いた表情で私を見つめる。
「父を前にした年若い女性や子どもは、泣いて回れ右をすることが多い。リオニーは肝が据わっているな」
「そうなのでしょうか?」
魔法学園の教師の中にも、怖くて厳しい教師は大勢いる。教師が権力と恐怖をもって力を振りかざす理由は、ひとりで大勢の生徒を監督しないといけないからだろう。
一方で、絶大な権力を持つだけのロンリンギア公爵は、彼らより怖くないように思えた。その背景には、教師よりも精神的な余裕があるからに違いない。
なんて見解を、アドルフに説明できるわけがなかった。
「ロンリンギア公爵は、よくわたくしとの結婚を許してくださいましたね」
「まあ、すぐに、というわけではなかったのだが」
アドルフが十五歳で社交界に出た晩、すぐにロンリンギア公爵に対し、ヴァイグブルグ伯爵家の娘に婚約の打診をかけるよう懇願したらしい。
「けれども父は、つり合わないと言って却下した」
それで簡単に引き下がるアドルフではなかった。
「習得が難しい官僚試験に合格し、魔法学校でトップレベルの成績で入学したら、許してくれないかと条件を出した」
なんでも、未来のロンリンギア公爵であるアドルフは、十三歳の頃から父親の仕事を手伝っていたらしい。
実際に王宮へ出仕する日もあったようだ。
官僚試験というのは、年間で三名も合格しない非常に難しいものだ。それを、アドルフはたった三ヶ月で達成した。
「あとは、魔法学校に首席合格するだけだと思っていたが――」
「リオルに阻まれてしまったのですね」
「そうだ」
これまで、アドルフが掲げた目標は何事も達成してきた。生まれて初めての敗北が、魔法学校の入学試験だったらしい。
「あそこで首位を取っていたら、すぐにでもリオニーと婚約できていたんだ」
当時、私が首席を取っていたおかげで、二年もの間、アドルフを婚約者として意識しなくてもよかったというわけである。
「リオニーを見かけた日から、一年は経っていた。もしかしたら、すでに結婚する相手が決まっているのかもしれない。リオルから聞きだそうとしたが、首位を取れなかった悔しさがこみ上げてきて、酷い発言をしてしまった」
彼が私扮するリオルに言った言葉は、一語一句覚えている。
――首席になったからといって、調子に乗るんじゃないぞ。そのうち、足を掬ってやるからな。
結婚を目標に頑張った結果、出鼻をくじかれたのだ。悔しかっただろう。
私も魔法学校で結果を残そうと必死だったのだ。首席を取れたのは、運がよかったとしか言えない。おそらく、アドルフとの得点にそこまで差はなかったのだろう。
「二回目こそは聞いてやる。そんな意気込みでリオルに話しかけたのだが」
これも、彼の発言はよーく覚えていた。
私が結婚しているか確認した挙げ句、とんでもないことを言ったのだ。
――なんだ、嫁き遅れか。
さらに、嘲り笑うような顔も見せていた。
「リオニーが結婚していないと聞いた瞬間、喜びがこみ上げてきた。嬉しくてにやけそうになるのを必死になって抑えていたのだが……」
嘲り笑いだと思っていたものは、喜びの感情を抑えつけたものだったらしい。二年越しに、勘違いが正される。なんというか、脱力してしまった。
「最終的に、父から認められたのは、二学年になった年の夏学期だった。ヴァイグブルグ伯爵家に打診を出し、了承するという返事があった日は、どれだけ嬉しかったか」
父は私に聞かずに、勝手に結婚話を進めていた。初めこそ怒ってしまったものの、今となっては感謝している。
事前に聞かれていたら、絶対に拒否していたから。
「最終的に、婚約が認められた判断材料はどういったものでしたの?」
「それは、リオルの成績らしい。優秀な弟がいるのならば、その姉も極めて優れているだろうと言っていた」
「そ、そうでしたの」
私の頑張りが婚約成立の手助けをしていたとは、夢にも思わなかった。
「ロンリンギア公爵家が望む結婚相手は、公爵家以上の高貴な血を持つ者だ。しかしながら、大公家生まれの母は――」
アドルフは視線を宙に浮かせ、苦しそうに眉間に皺を寄せる。
きっと、これまでに何か母子(おやこ)の間で何かあったのだろう。
「すまない。母については、聞いていて気持ちのいい話ではないから――今度、打ち明ける」
「はい、承知いたしました」
会場から音楽が聞こえてくる。降誕祭パーティーが始まったようだ。
「ああ、そうだ。これを渡そうと思っていた」
アドルフが胸ポケットから取り出したのは、ベルベットの小袋であった。
紐を解き、中身を手のひらに出す。それは、白金(プラチナ)の美しい指輪であった。
表面には小粒のダイヤモンドがいくつも埋め込まれており、キラキラと輝いている。指輪の内側には、呪文が彫られていた。
「婚約指輪だ。その、気に入ってくれると嬉しいのだが」
「ありがとうございます」
アドルフは私の指に、婚約指輪を嵌めてくれる。驚くほどぴったりだった。
「指輪には、守護の魔法が刻まれている。何かあったとき、リオニーを守ってくれるだろう。肌身離さず、持っていてほしい」
なんの呪文だったのかと気になっていたが、守護の魔法だったらしい。
物に魔法を付与するというのは、とてつもなく難しい技術だ。きっと高価だったに違いない。
「アドルフ、嬉しいです」
「そう言ってくれると、頑張って用意した甲斐がある」
なんでも魔法はアドルフ自身が刻んだものらしい。付与魔法(エンチャント)が使えるとは、驚いた。
「寮で一生懸命刻んだ。それで勉強がいつもよりおろそかになっていたのか、試験は次席になってしまったのだが、後悔はしていない」
アドルフが私と三十点も差を付けて次席だったのは、婚約指輪に魔法を付与していたからだったわけだ。
私達は揃って、降誕祭に贈る物を必死になって作っていたというわけである。
アドルフはまだ、会場に行く気がないらしい。しかしながら、執事がやってきて「そろそろ行かれてはいかがでしょうか?」と申してきた。
「このまま参加しなくてもいいくらいだ。リオニーとここで喋っているほうが、百倍楽しいから」
「アドルフ様、それでは困ります」
ロンリンギア公爵家の親戚一同から、私のせいで参加しなかったと言われても困る。執事も気の毒なので、会場に行こうと声をかけた。
「わかった。では、行くか」
執事はホッと胸をなで下ろした様子を見せたあと、私に深々と頭を下げた。
アドルフが差し出してくれた手を取り、会場を目指す。
ロンリンギア公爵家の広間(サルーン)は、とてつもなく広い。中心には巨大なクリスタルガラスのシャンデリアが輝き、会場内を明るく照らしている。
扉を開け閉めしていた従僕が、高々に声をあげた。
「ロンリンギア公爵のご子息アドルフ様及び、婚約者であるヴァイグブルグ伯爵令嬢リオニー様のご登場です!」
こっそり参加して、会場の人込みに混ざるつもりだったのに、大々的に宣言されてしまった。注目が一気に集まり、穴があったら入りたい気持ちに駆られる。
弱気になってはつけ込まれるだけだ。堂々としていなければならないだろう。
一瞬にして、周囲が取り囲まれる。挨拶攻撃を受けると思いきや、人が避けていく。
ロンリンギア公爵でもやってきたのかと思いきや――とんでもない相手が接近していた。
ローズグレイの髪を品良く結い上げた、パウダーブルーのドレスを着こなす十八歳前後の美しい女性。
すぐに、アドルフが耳打ちした。
「隣国の王女、ミュリーヌ・アンナ・ド・ペルショー殿下だ」
思いがけない大物に、声をあげてしまいそうなほど驚いた。けれども、喉から出る寸前でなんとか耐える。
「アドルフ、久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
「王女殿下におかれましても、御健勝のようで、お喜び申し上げます」
「堅苦しい挨拶はいいわ。子どものときみたいに、ミュリって呼んでちょうだいな」
ミュリーヌ王女とアドルフは幼少期に付き合いがあったのだろう。王女側は打ち解けた雰囲気でいる。一方で、アドルフは表情から言葉遣いから、堅いように思えた。
「見ない間に大人になっていて、驚いたわ。アドルフだって紹介を受けた瞬間、信じられなかったの」
ミュリーヌ王女の頬はかすかに赤くなっているように見えた。
そういえば、と思い出す。以前、アドルフに隣国の王女から熱烈な手紙が届いている、なんて噂話があったことを。
もしや、ミュリーヌ王女はアドルフが好きだったのか。
ロンリンギア公爵家の次期当主と、隣国の王女様となれば、誰が見てもお似合いとしか思えない。
ふと、じりじりと焼けるような強い視線に気付く。それは、ミュリーヌ王女の背後から感じるものであった。
先ほど一戦を交えたロンリンギア公爵家の女性陣が、ミュリーヌ王女に従うように背後にずらりと並んでいたのだ。
ここで、彼女達が反抗的だった態度の理由に気付く。
私との婚約を破棄し、ミュリーヌ王女と結婚すると信じて疑っていないのだろう。
確かな情報があるのならばまだしも、憶測で行動に出るなんて、愚かとしか思えないのだが。
「ねえ、アドルフ。別の部屋でゆっくり話さない。思い出話をしたいの」
ミュリーヌ王女がアドルフの腕に手を伸ばした瞬間、サッと避けた。
「申し訳ありません、王女殿下。私はリオニーと一緒にいなければならないので、他の者に申していただくよう、お願いいたします」
「え? でも……」
「それに、昔と言っても、当時は五歳か六歳で、よく覚えていないのです」
「嘘よね? 私達だけの記憶があるはずでしょう?」
「当時は未熟な子どもだったゆえ、ご容赦いただければと思います」
アドルフは深々と頭を下げると、私の手を引いてその場から離れる。
「ねえ、アドルフ、待って!」
アドルフは振り返らずに、歩いて行った。
彼は迷いのない足取りで露台に出て、従僕に誰も入れないようにと命令する。
そこには円卓と椅子が置かれていて、軽食も用意されていた。
「リオニー、すまない。まさか王女殿下が来ているとは思わず……」
「わたくしはいいのですが、アドルフは大丈夫なのですか?」
拒絶と言っても過言ではない態度を見せていた。国家間の問題にならないのかと心配になる。
「いや、心配はいらない。父から甘い顔は見せないようにと言われている」
「そう、でしたのね」
なんでもそれには事情があるらしい。
「幼少期より王女殿下との結婚話はいくどとなく浮上していた。しかしながら、父は話を受けるつもりはなかったらしい」
隣国の王女を娶れば、王族との力関係が変わってしまう。そのため、何度も断っていたらしい。
「昔、王女は男装していて、俺は完全に男だと思っていた。さらに、彼女が王女であることも知らずに、打ち解けていったらしい」
はっきり覚えているわけではなく、おぼろげな記憶だったという。
「王女殿下と知らなかった俺の、物怖じしない態度が胸に響いたのかもしれない」
何度も会いたいという手紙が届いていたようだが、アドルフ自身は興味がなかったし、ロンリンギア公爵からも止められていたので、断っていたようだ。
「まさか、この場に現れるとは――」
ここで、露台の扉がトントンと叩かれる。執事がやってきたようだ。
「どうした?」
「あの、隣国の外交官が、アドルフ様とお話ししたいとのことで」
「親族のパーティーに、どうして隣国の外交官がやってくるのか」
ロンリンギア公爵は「一度会っておけ」と執事に言付けしたらしい。
「リオニーがいるのに」
「わたくしは大丈夫です。ここで待っておりますので」
私の言葉に、アドルフは盛大な溜め息を返す。
「すぐに戻ってくる」
「はい、お待ちしております」
アドルフはしぶしぶといった様子で露台から出て行った。
ひとり残された私は、しばしゆっくり過ごさせてもらう。
ロンリンギア公爵と面会するだけでも大変だったのに、隣国の王女までいるなんて思いもしなかった。
敵対心は親族の女性陣からしか感じなかったが、ミュリーヌ王女はアドルフと一緒にいる私をいっさい眼中に入れていなかった。それもなんだか恐ろしい。
まだ、わかりやすく感情をぶつけてくれたほうがいいように思えてならなかった。
アドルフが隣国の外交官に呼び出されてから、三十分は経ったか。
なんだか胸騒ぎがしてならない。一刻も早く、戻ってきてほしい。
願いが通じたのか、扉が開く。
「アドルフ――」
立ち上がって一歩前に踏み出した瞬間、彼でないことに気付いた。
燕尾服姿の男性が、私に突然襲いかかってきた。
男は目にも止まらぬ速さで接近し、私に体当たりする。
「ぐっ!!」
私の体はあっさり吹き飛ばされ、露台の手すりに背中を強打した。
間髪入れずに男は接近し、私の首を絞める。それだけではなく、露台のすぐ下にある池に落とそうと体をぐいぐい押していた。
真冬の池になんか落ちたら、確実に死んでしまうだろう。
手を外そうと男の手首を掴むが、びくともしない。
「かっ……はっ――!!」
目の前に白く輝く魔法陣が浮かんできた。これはアドルフがくれた婚約指輪に刻まれた、守護の魔法だろう。
私が望んだ瞬間、魔法が発動されるに違いない。
その前にこの男が誰なのか、証拠を掴みたかった。
けれども顔に見覚えもなければ、こうして襲撃を受ける心当たりはまったく思いつかない。
「う……ぐうっ!」
そろそろ限界だ。残る力をすべて使い、男の腕についていたカフスを引きちぎった。
同時に叫ぶ。
「た、助けて、くださいませ!」
思っていたより声はでなかったものの、魔法は発動される。
魔法陣から巨大なフェンリルが飛び出し、男に襲いかかった。
あれはエルガー、アドルフの使い魔だ。
『ギャウ!!』
「う、うあああああ!!」
男は逃げようとしたものの、エルガーは追撃する。男を露台のガラス扉ごと押し倒す。
ガラスの破片を散らしながら、広間に押し入る形となった。
楽しく談話していた会場の空気は、一瞬にして緊迫したものに変わった。人々の悲鳴を響き渡る。
男にのしかかったエルガーは、首筋めがけて噛みつこうとした。しかしながら、男の姿は一瞬で消えていく。あれは、転移魔法だろう。
高位魔法を使える誰かが、今回の襲撃に加担しているのか。
ふらつきながら、会場に足を踏み入れる。
髪や衣服が乱れた私を見て、誰かが悲鳴をあげた。
そんな私を守ってくれるように、エルガーがやってくる。ふわふわの毛並みに触れたら、恐怖心が少しだけ薄くなったような気がした。
「リオニー!!」
アドルフがやってきて、私をそのまま抱きしめる。
婚約指輪に刻まれた魔法が発動されたのを察知し、ここへやってきたようだ。
「いったい何があったんだ!? いや、それよりも――」
アドルフは私の肩に着ていた上着を被せ、横抱きにする。エルガーを引き連れ、会場から去って行った。
連れてこられたのは、救護室のような、寝台が並んだ部屋である。回復魔法が使える魔法使いがいるようで、アドルフは体を癒やすようにと命じていた。
「リオニー、ケガは?」
「ございません。エルガーが守ってくださいました」
「その、首の痣は、もしや絞められてできたものなのか?」
「ええ、まあ」
アドルフの表情が、一気に険しくなる。
すぐに回復魔法を、と言ってくれたのだが、この首を絞めた痕は何らかの証拠になるかもしれない。今は治さずに、そのままでいたほうがいい。
首に残った手形だけで犯人を捜すのは難しいだろうが、騒ぎの自作自演を疑われては困る。
被害を訴えるためにも、残しておいたほうがいいだろう。
「苦しかっただろうに」
「この真珠の首飾りの上から首を掴んだからか、全力で絞めることができなかったみたいです」
「そう、だったのだな」
「おかげで、助けを求めることができました」
ただ、首飾りを使って締められていたら、私は即座に意識を失い、池に放り出されていただろう。それを考えると、犯人側も冷静でなかったことがわかる。
アドルフは婚約指輪を嵌めた私の指先を手に取り、まじまじと見つめていた。
「魔法の引き金は、助けを求めた瞬間では遅いのかもしれない。悪意を持って近付く者を察知した瞬間、発動するように改良しなければ」
それはいささか過保護ではないのか。その条件ならば、私はしょっちゅうエルガーを召喚してしまう事態になるだろう。
「それにしても、いったい誰がリオニーを襲ったのか」
「ええ……」
犯人の特徴を、アドルフに伝えておく。
「露台は薄暗かったので、はっきり姿が見えているわけではなかったのですが――」
外での襲撃だからか、顔は隠されていなかった。
年頃は三十半ばくらいだろうか。身長は五フィート六インチくらいあっただろう。
細身の体型で髪色は褐色(ブラウン)。瞳は榛色(ヘーゼル)だったような気がする。
「すみません、あとは記憶になくて」
「いや、十分だ」
執事がやってきて、アドルフの耳元で囁く。彼はそれに対し、舌打ちを返していた。
「父が呼んでいる。ここにエルガーを置いておくから、安心してほしい」
「わかりました」
いったい何が起こったのか、ロンリンギア公爵はアドルフから事情を聞きたいのだろう。
彼と入れ替わるように、侍女がやってきた。乱れた髪とドレスを直してくれる。
元通りになったので、ホッと胸をなで下ろした。
侍女達はエルガーに睨まれ、気が気でないようだ。お礼を言って、下がってもらう。
ふん! と荒い鼻息を吐くエルガーの、もふもふとした美しい毛並みに触れる。
「エルガー、先ほどはありがとうございました。とても、勇敢でした」
普段、クールな印象があるエルガーだったが、褒められて嬉しかったのだろうか。尻尾を左右に振っていた。なかなか可愛いところもあるものだ。
しばし時間をもてあましていたら、アドルフが戻ってくる。
「リオニー、すまない。父はリオニーからも話を聞きたいと言っているのだが。嫌ならば断ってもいい」
「わかりました。ロンリンギア公爵のもとへ、連れていってください」
アドルフに支えられ、ロンリンギア公爵の執務室へと移動した。エルガーもあとに続く。
先ほど見たとき同様に、執務椅子に座って待ち構えていたようだ。腕組みして待つロンリンギア公爵は、回れ右をして逃げたくなるくらいの重苦しい空気をまとっている。
自らが主催する降誕祭パーティーで、事件が起きてしまったのだ。ああなってしまうのも無理はないだろう。
「襲撃を受けたようだが、小娘、お前は何をしでかした?」
「父上、その言い方はあんまりです!!」
アドルフが抗議したものの、ロンリンギア公爵は無視していた。
おそらく、私は襲撃を受けるほどの問題ある人物だと見なされているようだ。
「犯人はこのエルガーが匂いを嗅いで当てることができます!」
「そういう調査は、無関係の第三者だからこそ、立証できるのだ」
「しかし――」
「お前に話は聞いていない。小娘、答えろ」
どうやら身の潔白は、自分で晴らすしかないらしい。
「わたくしは襲撃を受けるような心当たりはまったくございません」
「ではなぜ、襲われたのだ?」
意地悪な質問である。心当たりがないものに、理由付けなんてできるわけがない。
「ここから先はわたくしの個人的な推測なのですが、申してもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない」
ぎゅっと拳を握り、脳裏を過ったありえない推し量った犯人の動機を述べる。
「アドルフ様はかつて、ミュリーヌ王女殿下の結婚相手候補だったと伺いました。ミュリーヌ王女殿下の様子を見る限り、アドルフ様への未練があるように思えて――」
「ミュリーヌ王女が婚約者であるお前を邪魔に思い、殺すために襲撃させた、と?」
「いいえ、ミュリーヌ王女が黒幕であるとは決めつけておりません」
「ほう、どうしてそう思う?」
たとえば、ミュリーヌ王女の様子を見た臣下の誰かが忖度し、私を殺すために画策してきた可能性もある。
「しかし、ロンリンギア公爵家の誰かでなく、隣国側の者達が犯人だというのは、大胆な推理だな」
「アドルフ様が隣国の外交官に呼び出されたあとに、襲撃されたものですから。おそらく、外交官が話した内容は、ミュリーヌ王女殿下との結婚について、だったのでは?」
アドルフのほうを見ると、こくりと頷く。
なんでもミュリーヌ王女殿下と結婚したさいに、ロンリンギア公爵家が受ける多大な益について、こんこんと説明されたらしい。
それでも、アドルフは首を縦に振らなかったようだ。
「結婚話を断って三分ほど経ったあと、リオニーの婚約指輪にかけていた守護魔法が発動した。思い返してみると、俺が断ったから襲撃を命じたように思えてならない」
「しかしそれだけでは、隣国側に証拠だと示すことは難しいだろう」
「では、こちらをご覧くださいませ」
ロンリンギア公爵の執務机に、先ほど犯人から引きちぎったカフスを置いた。
「これは――?」
「犯人から奪い取ったカフリンクスですわ」
カフスには証拠となる家紋などは刻まれていない。けれども触れた瞬間、これは使えると判断したのだ。
「この変哲もないカフスが、どう証拠になると言うのだ」
「こちらのカフスは、〝錫(すず)〟でできたものです」
「錫、だと?」
「ええ」
金、銀に続く高価な金属として有名な錫だが、見た目は銀と変わらない。
「錫は隣国の一部地域でしか採れない、大変貴重な品です。さらに、我が国では取り引きしていない物となっています」
「錫は……そうだな。たしかに、我が国では取り引きされていない。しかしながら、錫の見た目は銀と変わらない。どうして錫だと気付いたのだ?」
「錫は、金属の中で唯一、病を患うからです」
「金属が病になる、だと? そんなの、聞いたことがないが」
ロンリンギア公爵は訝しげな表情で私を見つめるが、アドルフはその理由に気付いたようだ。
執務机に駆け寄り、錫のカフスを手に取って確認している。
「たしかに、これは――」
「見せてみろ」
アドルフはカフスの裏面を向けた状態で、ロンリンギア公爵の手のひらに置いた。
「カフスの端のほうが、ボコボコと突起し、色がくすんでいる。これが、錫の病です」
錫は寒さにめっぽう弱い。低温に晒されると、じわじわと病に侵食されていくように変色し、最終的にはボロボロに朽ちてしまう。
隣国よりも北のほうに位置する我が国に持ち運ぶと、錫はこのような状態になってしまう。これが、病の正体だ。
「隣国から我が国へやってくるさいには竜に乗り、大きな山を越えなければなりません。空の上で氷点下にさらされた錫は、そのような状態になってしまうのです」
これが、長年我が国と隣国の間で錫の取り引きがなかった理由である。
錫の特性については、錬金術の授業で聞いていたのだ。偶然、それが役に立ったというわけである。
「なるほど、病を発症した錫のカフスを付けた男に襲撃された、か。これはたしかな証拠になりうるな」
ロンリンギア公爵は隣国に抗議するという。それを聞いてホッと胸をなで下ろした。
抗議どうこうよりも、私に関する疑いが晴れたので、それが何よりも嬉しかった。
「今晩は泊まるように。明日の朝に、改めて報告しよう」
「承知いたしました」
襲撃されたあとなのでロンリンギア公爵家に残るのは恐ろしいが、隣国の者が本気で命を狙うのならば、どこにいても一緒だろう。
まだ、ロンリンギア公爵の睨みが利いている屋敷にいるほうがマシなのかもしれない。
「それにしても、小娘、お前はなかなか肝が据わっているな。襲撃を受けながら、確かな証拠を確保していたとは」
私の負けず嫌いが、ここでも出てしまったようだ。普通のお嬢様は、ここまで食い下がることなどできないだろう。
「小娘、名前はなんだったか?」
「リオニー、です」
「覚えておこう」
ロンリンギア公爵は手を振って邪魔者を追い払うように、私達に下がるよう命じた。
アドルフは私の手を握り、私室へと導いてくれた。
丁寧に長椅子を勧め、ホットミルクを作ってくれるという。
「ホットミルクまで作れるのですね」
「従僕相手に紅茶を淹れる練習をさせていたら、夜眠れなくなったと抗議されてな。料理長からよく眠れる飲み物を教えてくれと言ったら、ホットミルクのレシピを伝授してもらった」
紅茶には興奮作用がある物質が含まれている。そのため、夜に飲むと眠れなくなることがあるようだ。
小さな鍋にミルクティー用に置いてあったミルクを注ぎ、魔石|焜炉(コンロ)で温める。蜂蜜をたっぷり垂らし、カップに注いでくれた。
「お口に合うといいのだが」
「ありがとうございます」
蜂蜜の甘さが優しい、おいしいホットミルクだった。ようやくここで、心が落ち着いたように思える。
「それにしても、よく錫について知っていたな。もしや、リオルから聞いたのか?」
「え、ええ。そうなんです」
「やはり、そうだったか」
なんとか誤魔化せたようで、胸を撫で下ろす。
「リオニー、せっかくの降誕祭パーティーだったのに、怖い思いをさせてしまい、申し訳なかった」
「いいえ、お気になさらず。私はこうして、助けていただきましたので」
アドルフは私を抱きしめ、本当にすまなかった、と重ねて謝罪した。
それから私が一晩泊まる部屋に案内される。
離れにある客室だろうと思っていたのだが、アドルフの私室の隣だった。
「客間は親戚達で埋まっているから、ここを使うといい」
そこは天蓋付きの寝台が置かれた寝室である。
「こちらは――どなたかのお部屋でしたの?」
客用という雰囲気ではない。アドルフの隣なので、家族のために用意された部屋だろう。
「ここは、その」
アドルフは顔を逸らし、俯く。
もしや、グリンゼル地方で療養している、薔薇の花束と恋文を贈っていた相手のためにしつらえた部屋だったのか。
「アドルフの大切な方のために、用意した部屋ですの?」
「まあ、そうだな」
やはり、と思ったのと同時に、胸が苦しくなる。
私なんかがここで休んでもいいものか――なんて思っていたら、想定外の説明を受けた。
「リオニーが結婚後、ここを使えるように、以前から用意していた」
「わたくしの、お部屋?」
「ああ」
結婚し、離婚するまでは、私を正式な妻扱いしてくれる、というわけなのか。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「まだ未完成だが、眠るだけならば問題ないだろう。自分の家だと思って、寛いでほしい」
「はい」
アドルフの部屋とは続き部屋になっているようで、好きなときに行き来できるらしい。
「結婚するまで、この部屋を通って俺がやってくることはない」
今晩はエルガーを番犬として、寝室に置いてくれるらしい。少しの物音でも目覚めるというので、頼りになる用心棒だろう。
「ヴァイグブルグ伯爵家には早打ちの馬を送っておいたから」
「感謝します」
父は不在で、リオルは帰宅しない私を心配なんてしないだろうが、アドルフの心遣いが嬉しかった。
「侍女に湯を用意させた。隣が浴室となっている。好きに使うといい」
「ありがとうございます」
何かあったときは、すぐに呼ぶように、とアドルフは私の手を握りながら言う。
その温もりを感じながら、こくりと頷いたのだった。
「では、また明日」
「ええ」
「おやすみ」
「おやすみなさいませ」
アドルフの思いのほか優しい「おやすみ」に、くすぐったい気持ちになる。
結婚したら、毎日言い合うのだろうか。そんな生活が、今の私には想像できなかった。
お風呂に入りながら思う。
アドルフはこれまで、想いを寄せる女性について匂わせたり、発言から察することができたりしなかった。
事情を知らなければ、婚約者を過保護なまでに大事にする優しい男性である。
私ひとりだけが、うじうじと見たこともない女性相手に嫉妬し、自分なんてと卑下していた。
もう、そういうことは止めよう。今、この瞬間から。
アドルフはきっと、結婚しても私を尊重し、大切にしてくれる。
私も彼を尊重し、大切に思わなければならない。
一日の汗と一緒に、卑屈で嫉妬深い醜い感情を洗い流した。
初めて、ロンリンギア公爵家で一夜を過ごす。
まさか、結婚するよりも先に、こういう機会が訪れるとは思っていなかった。
ロンリンギア公爵家の女性陣を敵に回し、ミュリーヌ王女に出会い、思いがけない襲撃を受け、今に至る。
今晩は眠れないのではないか、と思っていたものの、傍にエルガーがいる安心感からか、横になった途端に眠ってしまった。
翌日――ロンリンギア公爵より呼び出しを受ける。調査の結果が出たらしい。
途中報告のみかと思っていたが、仕事がかなり早い。
「犯人はミュリーヌ王女の侍女と付き合いがある男――ということだった」
アドルフに振られてしまったミュリーヌ王女に同情し、私を亡き者にしようと画策したらしい。逃走のさいに展開された転移魔法は隣国にて高値で販売されている、魔法巻物(スクロール)を使ったものだったようだ。
「隣国側は罪を認め、ミュリーヌ王女は今後アドルフへ干渉しない、ということまで約束を取り付けた」
今後、多額の賠償金が私に支払われるらしい。その代わり、事件について口外しないように、という条件が掲げられたようだ。
アドルフは険しい表情で苦言を呈する。
「それは賠償金ではなく、口止め料では?」
「言ってやるな。相手が隣国の王族である以上、こちら側もあまり強く出られない」
事件をきっかけに、隣国との友好関係が崩れたら大変だ。その辺の大人の事情は理解できる。
「まあ、侍女の男がどうこう言っていたが、今回の事件は王女殿下がけしかけた事件だろう。隣国側が罪を認めただけでも、儲けものだ」
錫のカフスのおかげで、話を有利に進めることができたらしい。
「王女も喧嘩をふっかけた相手が悪かったな。取るに足らない女だと思って、粗末な方法でも仕留められると思ったのだろうが」
ロンリンギア公爵は何を思ったのか、くつくつと笑い始める。
「外交官の焦った表情は、見物だったぞ。よくやった、小娘」
昨日、名前をわざわざ聞いたのに、またしても小娘呼びである。きちんと覚える気がないのか。呆れたの一言であった。
「しばらく身辺に気を付けるように」
「はい」
深々と頭を下げ、ロンリンギア公爵の執務室から出る。
もう家に帰っていいというので、帰宅させてもらおう。
「アドルフ、ありがとうございました。わたくしはここで」
中央街に出たら、乗り合いの馬車があるだろう。そう思っていたのに、アドルフに引き留められる。
「家まで送ろう」
「ええ、その、ありがとうございます」
アドルフはご丁寧にも、ロンリンギア公爵家の馬車で家まで送ってくれた。
リオルに会ってから帰る、と言ったときには焦ったが、きっと夜更かしして昼まで眠っているだろうと伝えると、そのまま帰っていった。
朝帰りした私を待っていたのは、チキンだった。
『帰ってくるのが遅いちゅり!』
「ごめんなさい。ちょっといろいろあって」
『もう、置いていかないでほしいちゅりよ!』
襲撃された件を振り返ると、チキンを傍に置いておけばよかったと後悔が募る。
これからはどこかにチキンを忍ばせておかなければならない。
そう誓ったのだった。
宿題や課題学習をやったり、輝跡の魔法を試したり、と休暇期間を過ごす中で、アドルフから二通の手紙が届いた。一通はリオル宛てである。
リオニー宛てのほうは、事件後の私を心配する内容だ。リオル宛てのほうは、都合があれば一緒にでかけたい、というものだった。なんでも、錬金術に関する本を探したいらしい。
ロンリンギア公爵家にない本などあるのか、と思いつつも、誘いに応じる旨を書いた手紙をアドルフへ送り返す。
一応、リオルでいるときと、リオニーでいるときと、筆跡は分けているつもりだ。
今回のように、同じタイミングで手紙を返すのは初めてである。
どうかバレませんように、と願うばかりだ。
翌日、アドルフから返事があった。今度はリオル宛てのみである。
いつでもいいと手紙に書いたら、明日の午後から行こう、という話になった。
降誕祭パーティー同様に、家まで馬車で迎えに来てくれるらしい。
悠長に構えていたものの、魔法学校以外の私服を持っていないことに気付く。
慌てて、リオルの服を借りに行ったのだった。
こうして迎えた、アドルフとのお出かけ日当日――私は一年前に購入したリオルの服を着て、ロンリンギア公爵家からやってきた馬車に乗りこむ。
今日はチキンも同行させた。久しぶりの外出で嬉しいのか、歌を唄っている。
『ご主人を害する者は等しく滅するちゅり~~』
物騒な歌だったが、聞かなかったことにする。
アドルフは紳士然とした、フロックコートをまとう姿でいた。
一方で私は、フリル付きのブラウスにアスコットタイ、ズボンを合わせ、上からジャケットを着るという、少年感溢れる恰好である。
アドルフと私を見比べると、明らかに幼い恰好であった。
アドルフは体格も顔付きも、すでに青年のようになっている。街を歩いていても、大人の男性に見られるだろう。
悔しいが、男装生活もそろそろ限界が訪れている証拠だろう。あと数ヶ月、バレないままでなんとかやり過ごしたい。
「リオル、いきなり誘ってすまなかったな」
「いいよ、別に。暇だったし」
「宿題や課題は終わったのか?」
「もちろん」
アドルフも当然、提出物はすべて終わっていたらしい。私もそうだろうと見越して誘ってくれたようだ。
「リオニーはどうしている? 元気か?」
「元気いっぱいだよ」
「事件について聞いたか?」
「聞いた」
アドルフは申し訳なさそうな表情でいる。アドルフのせいではない、と伝えておいた。
それから馬車は無言のまま進んでいく。
アドルフは窓を眺めつつ、ポツリと呟いた。
「それにしても、休暇期間が退屈だと思ったのは、生まれて初めてだったな」
なんと彼は、これまで感じていなかった学校生活が楽しい、という感情が芽生えているようだ。
「たぶん、リオルとああだこうだと言いながら、勉強しているからだと思う」
「だから、僕に連絡してくれたんだ」
「まあ、そうだな」
アドルフは私をひとりの友達として、一緒に過ごす時間を楽しんでくれているという。なんとも光栄なことである。
馬車は途中で止まり、ここから先は歩きで行くらしい。
「もしかして、表通りにある魔法書店ではない?」
「ああ、そうだ。路地裏にある古い魔法書を扱う店なんだが」
「へえ、そうなんだ」
中央街の路地裏にそういう店があるのは初耳であった。
ただ、心配なのは価格である。魔法書は古ければ古いほど、高値がつく。
私に与えられた予算で買えるとはとても思えないのだが……。気になる本がないことを祈るばかりであった。
路地に入り、歩くこと十五分ほど。途中で道は行き止まりになった。
高くそびえる壁に、アドルフは何を思ったのか手を添える。
「アドルフ、どうかしたの?」
「ここが店への入り口だ」
「え!?」
そんな会話をしている間に、魔法陣が浮かび上がる。
何もなかった壁に入り口が現れ、覗き込むと地下に繋がる階段が見えた。
階段を下りていった先に、魔法書の古書店があったのだ。
「驚いた。出入り口を魔法で隠しているなんて」
「ここは会員制の店なんだ。普通の人は入店お断りらしい」
アドルフはロンリンギア公爵の紹介を受け、ここに出入りする資格を得たようだ。
なんでもある程度の資産と魔法使いとしての実力がなければ、店に入ることすらできないらしい。
「僕が一緒にきてもよかったの?」
「一名まで、同行者が認められている」
ただし、一名につき一名までしか連れてくることができないようだ。
出入り口にある魔法陣に手を触れ、魔力を登録する仕組みだという。
使い魔は一体まで入場できるようだ。チキンをお店の前に置き去りにせずに済みそうで、ホッとする。
「それはそうと、同行者は僕でよかったの?」
「リオルしかいない」
私は今、名前と性別を偽って、アドルフの隣に立っている。
本来ならば、ふさわしくない相手なのだが……。
今、それを気にしている場合ではない。アドルフの好意に甘え、魔力を登録する。
アドルフが古書店の扉に手をかざすと、自動で開いた。
ギイ、と年季が入った音が鳴り響く。
店内に入ると、想像の斜め上を超えた光景が広がっていて驚いた。
壁一面、本が並べられており、それだけでなく、床や天井にまで本がある。空中をふよふよと泳いでいる本や、床を走る本、犬のようにワンワンと鳴く本など、信じがたい状態の本もあった。
「何、これ?」
「面白いだろう」
店内に人はいない。なんでも欲しい本を手に取り、店を出た瞬間に家に請求書が届くのだという。
「もしも支払わなかったらどうするの?」
「死神みたいな使い魔に襲われるらしい」
「恐ろしい話だ」
それにしても、これだけの数の本があったら、探すほうも大変だ。なんて疑問を口にしたら、アドルフがニッと笑いながら答える。
「いや、欲しい本はすぐに見つかる」
「どうやって?」
アドルフが「五百年以上前に出版された、錬金術関係の魔法書」と口にすると、本棚から次々と本が手元に飛んでくる。ふわふわ浮遊しており、好きな本を手に取って読めるらしい。
「いったいどんな魔法が使われているんだ」
「考えたくもないくらい、複雑な魔法式が展開されているのだろうな」
アドルフが探していた錬金術の魔法書は、自分で作った金属から作る魔道具について。
「リオニーのために金属から手作りして、身に着けられる|お守り(アミュレット)を作りたい」
「それはまた壮大な計画だ」
装備するだけで悪意を跳ね飛ばすような、強力な物を作りたいという。
手に取った魔法書の値段は金貨十二枚。庶民の一年間の年収といったところか。
五百年前の本にしたら、まあ、安いほうだろう。なんでも発行部数が多かったので、そこまで価格は高くないらしい。
アドルフは目的の本が見つかって、嬉しそうだった。
「リオルは欲しい本はないのか?」
「今日のところは思いつかないかも」
そういうことにしておく。欲しい本があっても、きっと買えないだろうから。
アドルフと共に店を出る。行き止まりだった壁を振り返ったら、出入り口はなくなっていた。
「リオル、もう一軒付き合ってほしいのだが」
「いいよ」
アドルフの買い物はこれで終わりではなかったらしい。時間が許す限り、付き合うつもりだ。
その後、貴族御用達の商店街に向かい、装身具や宝飾品などを取り扱う小売店(ブティック)の前で険しい表情でいた。
「ねえアドルフ。ここに何を買いにきたの?」
「リオニーへの贈り物だ」
「なんの贈り物?」
降誕祭の贈り物は婚約指輪やドレス一式をすでに貰っているし、誕生日でもない。贈り物を受け取る理由がまったく思いつかなかった。
「この前、リオニーから手作りのセーターを貰ったんだ。それがとてつもなく素晴らしい品で、お返しがしたいと思った」
降誕祭の日、どぶに沈められたセーターは、ランドリーメイドの手で見事に復活を遂げたようだ。
アドルフからの手紙にもセーターは大丈夫だったと書かれてあったが、本人の口から聞くと改めてよかった、と思う。
「それで、リオルに聞きたいのだが、リオニーはどういった品を好んでいるのだ?」
「姉上の好み?」
「弟だったら知っているだろう?」
ここでピンとくる。アドルフは私にそれを聞き出すために同行を頼んだのだろう。
魔法書を購入するなんて、別にひとりでもできたのに、と不思議だったのだ。
ただ、姉弟だからといって、好みを把握しているだろうか?
私はリオルに贈ったら喜ぶ物なんてわからない。リオルも私が喜ぶ物なんて答えられないだろう。
それに、私自身が喜ぶ品を、ここで本人に伝えるのもどうかと思う。
「いや、家族だからと言って、そんなの知るわけないでしょう」
「そんなものなのか? 姉弟だろう?」
「アドルフはロンリンギア公爵の好みは知っているの?」
「知らない」
家族間でもよほど仲良くない限りは、贈って喜ぶ物なんて知らないのが普通だろう。
「別に、相手が何を喜ぶかっていうのは、考えなくてもいいんじゃない? 大事なのは相手に喜んでもらいたいって言う気持ちというか、なんというか」
「それはそうかもしれないが、俺はリオニーが贈り物を開封して、瞳をキラキラ輝かせる顔が見たい!!」
拳を握り、力説される。それを聞いてしまった時点で、そういう反応ができる自信が砕け散る。
私はきっと、アドルフの期待に応えられないだろう。
「では、いくつか質問する。リオル、リオニーは、ここにあるような巨大ぬいぐるみを贈って喜ぶだろうか?」
アドルフが指差したのは、店頭の椅子に座らせてある等身大の熊のぬいぐるみだ。
正直、これを貰っても……という感情がこみあげる。けれども、選んでくれたアドルフの気持ちは嬉しいから、笑顔で受け取れるだろう。
「いいんじゃない」
「いい? それはリオルの個人的な感想だろうが」
「いや、そうだけれど」
リオニーは私だし、なんて言えるわけがない。
「では、質問を変えよう。リオニーの部屋に、ぬいぐるみのひとつでもあるだろうか?」
幼少期にはいくつか所持していたような気がするが、そのどれもがきれいに洗って養育院に寄贈した。現在、私の部屋にぬいぐるみなんてない。
「姉上の部屋にぬいぐるみ? ないけれど」
「ならば、これを贈っても喜ばない!」
アドルフはバッサリと切り捨てる。
次に立ち止まったのは、宝飾品を取り扱うお店だ。エメラルドの首飾りと耳飾りの|半分の(デミ・)|一揃い(パリュール)がガラスのショーケースの中で展示されている。
「リオル、リオニーはこのエメラルドの宝飾品が似合うドレスを持っているだろうか?」
「知らない。姉上のドレスなんて、いちいち気にしないから」
リオルだったらこう答えるであろう内容を、そのままアドルフに伝える。
「ならば、ドレスも贈ればいいのか?」
「いや、セーター一着のお礼に対して、贅沢過ぎるから! あまり高価な品だと、姉上も気まずくなると思う」
「そうなのか」
ロンリンギア公爵家では、エメラルドの宝飾品をポンポン買える予算をアドルフに振りわけているのか、と思いきやそうではないという。
アドルフが使うお金は、自分で稼いだものらしい。見習いとしてロンリンギア公爵の仕事を手伝っていたという話は聞いていたものの、きちんと報酬を得ていたようだ。
なんでも長年使わずにいたため、相当な額が貯まっているらしい。
「前に、姉上はアドルフからガラスの宝飾品を貰ったと話していた。そういうのでいいのでは?」
「ああ、あれか。数ヶ月前なのだが、すでに懐かしいな」
下町に売られていたガラスの宝飾品を、宝石と同等の値段で売られていたものを買ってもらったという、酷いとしか言いようがない出来事だ。
「今思えば、あれはガラスでできた物だとわかっていて、買うように仕向けたのかもしれないな」
「どうしてそう思ったの?」
「リオニーは錫と銀の違いがわかるんだ。ガラスと宝石も、当然見分けられるに違いない」
ご名答である。当時の私はとてつもなく捻くれていて、なんとかアドルフに嫌われようと必死だった。
「俺はリオニーに試されていたのだろうか?」
「だろうね。姉上の性格は、正直に言ってよくない」
自分自身でも、性格については悪いとまでは言わないが、悪くないとはっきり言えないだろう。褒められるような心根の美しさなんて、持ち合わせていないことは確かだ。
「リオル、リオニーは性格がよくないのではなく、酷く思慮深いのだろう。きっと、ガラスの宝飾品をねだって、俺がどういう反応にでるのか見たかったのかもしれない」
それはまあ、間違いではない。アドルフの人を見る目というのは侮れないものだろう。
「彼女の我が儘に付き合うのは、楽しかった。今では、そういう無茶な行動をすることはなくなってしまったのだが」
お望みならば、一日中アドルフを連れ回して、我が儘放題してあげるのだが。
「だったら、姉上と一緒に欲しがる物を選んだらよかったのに」
「それはそうかもしれない。けれども、降誕祭パーティーで危険に晒してしまったので、彼女を連れ回すことに危機感を抱いているのだ」
「そう」
ロンリンギア公爵家から護衛を派遣しようか、という申し出もあったが、丁重にお断りした。
新聞の報道によると、ミュリーヌ王女一行は帰国したというので、もう心配はいらないだろう。
相変わらず、アドルフは婚約者に対して過保護なのだ。
なんて、歩きながら話していると、アドルフが突然立ち止まる。
「リオル、これだ!」
彼は瞳をキラキラと輝かせつつ、私を振り返る。
どうやらとっておきの贈り物を発見したようだ。
そこは輸入の陶磁器を販売する小売店である。店頭にあるガラスのショーケースには、美しいカップとソーサーが並べられていた。
「前にリオニーへ紅茶を振る舞ったとき、カップを褒めていたんだ。きっと、贈ったら喜んでくれるに違いない」
たしかに、カップならば大いに興味がある。それにヴァイグブルグ伯爵家には私専用のカップなんてない。さらに、実家のカップは半世紀前に購入した品々で、年季と茶渋が入りまくりだった。
カップは宝飾品ほど高価でないものの、値段はそこそこする。アドルフが人気が高い窯元の品を選ばなければいいが……。
「リオル、どう思う?」
「姉上は絶対に喜ぶ」
「そうか! よかった」
店内に入ると、茶器がずらりと並べられている。さまざまな柄や形状があり、同じ商品はふたつとしてないように思えた。
入店してすぐに、店主と思われる品のよい初老の男性が迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。どうぞごゆっくりご覧ください」
アドルフが頷くと、店主は店の奥に消えていった。
まずは店員の目がない状態で、商品を見せてくれるのだろう。賛否はあるだろうが、個人的にはいい店だと思ってしまう。
「リオル、リオニーが好きな花を知っているか?」
「フリージア」
無意識に答えたあと、ハッと口を閉ざす。
好きな花なんて、リオルが知るわけがない。そもそも、私に好きな花なんてなかったはずだ。それなのになぜ? と考えたところで、気付いてしまった。
フリージアはアドルフとの最初の面会で、貰った花である。それが印象的だったのだろう。
今思い返すと、とても美しい花束だった。
突然アドルフとの婚約を言い渡され、戸惑いの気持ちが大きかったのだが、初めてもらった花束だったので、記憶に残っていたのだろう。
「フリージア? リオニーはフリージアが好きなのか?」
「あ、いや、前にフリージアの花束を、大事そうに持ち帰ってきたから」
これくらいの情報ならば、リオルが知っていてもおかしくないだろう。とっさによくでてきたものだと、自分を褒めたい。
「そうか。リオニーはフリージアが好きだったのか。実は以前、リオニーにフリージアの花束を贈ったことがあったんだ」
「どうしてフリージアだったの?」
薔薇のような華やかさはなく、花束の引き立て役を担うような花だ。フリージアだけの花束、というのは珍しいだろう。
「フリージアの花言葉は、〝無邪気〟。当時のリオニーのイメージだったんだ」
夜会で輝跡の魔法を目にし、はしゃいでいる私がそう見えたのだろう。
社交界デビュー当時の私は、子どもだったのだ。今思うと、人の目があるかもしれない場所で奔放な振る舞いをするなんてありえないだろう。
それにしても、アドルフがフリージアの花言葉について知っていたなんて思いもしなかった。婚約者に竜の胸飾りを贈るくらいのセンスの持ち主だったから。
「だったら、フリージアのカップを探してみよう」
目を皿のようにしつつ、フリージアのカップを探す。しかしながら――。
「リオル、あったぞ」
「それはフリージアではなくて、〝スパラキス〟だから」
「フリージアにしか見えない」
「ちょっと違うよ」
思いのほか、フリージアに似た花のカップが置かれていた。
十五分ほど捜索したが、キリがないと思ったのだろう。アドルフは店主を呼ぶ。
「すまない。フリージアのカップ一式はあるだろうか?」
「はい、ございます」
店主はテキパキとした動きで、ショーケースの上にカップを並べていく。
思いのほか、フリージアが描かれたカップを取り扱っているようだ。
中には、一度見たところから運ばれてくる。どうやら見落としていたようだ。
「こちらの五つが、フリージアが描かれた物になります」
「なるほど」
どのカップも、美しく描かれている。甲乙つけがたい。
「迷うな。いっそのこと、全部買ってしまおうか」
「アドルフ、姉上はそんなにいらないと思う」
「うーむ、やはりそうか」
この中からひとつだけ選んでくれ、と心の中で願った。
「店主よ、これらのカップはどう違う?」
アドルフがそう尋ねると、店主の瞳がよくぞ聞いてくれたとばかりにキラリと輝いた。
「こちらにございます四つのカップは〝軟質(なんしつ)磁器(じき)〟と申しまして、白土、石膏、水晶などのさまざまな素材を混ぜ、焼き物としては低温で仕上げた物となっております。異国の地でしか作れなかった磁器に憧れた貴族が錬金術師に作らせた物でして、軟質磁器の多くは貴族の趣味やこだわりを取り入れているため、大変美しい仕上がりになっているようです」
「たしかに、四つのカップに描かれたフリージアは華やかで、パッと見て目を引くな」
「ええ、ええ、そうでしょう?」
なんだか錬金術の授業を聞いているような気分になってしまう。店主の雰囲気が、少しローター先生に似ているからかもしれない。
国内で多く流通している磁器の多くが、この軟質磁器らしい。錬金術師が作った物だとは知らなかった。
「そしてこちらにございますカップは、〝硬質(こうしつ)磁器〟と申しまして、カオリン、長石、白色粘土が混ざった素地(きじ)を高温で焼き上げた物になります」
硬質磁器の作り方はいまだに解明されておらず、現在も輸入でしか入手できないらしい。大変人気で、入荷してすぐに好事家が買ってしまうようだ。
フリージアはカップの意匠としてはいささか地味なものだから、今日まで売れ残っていたのだろう。
「硬質磁器はなんといっても、真珠のような美しい照りが特徴です。さらに、指先で弾くと、金属のような美しい音が鳴ります」
言われてみたら、確かに軟質磁器とは見た目が異なるように思える。手に持ったときも、軽く感じた。
店主は私物の硬質磁器のカップを持ってくる。手で弾いてもいいというので、お言葉に甘えさせてもらった。
指先でピンと跳ねると、キーンという高い音が鳴った。
「きれいな音……」
「でしょう」
ちなみに、軟質磁器と硬質磁器は値段が異なる。
軟質磁器四つの価格と、硬質磁器ひとつの値段はほぼ同じだった。
すでに、アドルフはどのカップを購入するか決めていたようだ。
「店主、この硬質磁器のカップを包んでくれ」
「かしこまりました」
商売上手な店主である。けれども説明を聞いたら、硬質磁器がいかに稀少で、美しいものか理解してしまった。
アドルフは腕組みしながら、満足げな表情でいる。
「いい品が手に入った。これならば、そこまで高価ではないし、リオニーも喜ぶだろう」
「まあ、そうだね」
「ん? これも高価なのか?」
「大丈夫、大丈夫。心配しないで」
あまりにも贈り物の値段についてやいやい言うものだから、アドルフからヴァイグブルグ伯爵家の財政を心配されてしまった。
「昔よりはお金あるから。単に貧乏性ってだけ」
「そうか」
何かあったら相談してほしい、と真剣な表情で訴えられてしまった。
あともう一軒、アドルフは行きたいお店があるらしい。
「どこに行くの?」
「魔法雑貨店の本店だ」
それは購買部に商品を卸している、薬草や鉱石、魔法インクなど、魔法を使うさいに使用するさまざまな道具を取り扱う商店だ。
品数は購買部で取り扱っている物とは比べものにならないらしい。
「僕も行きたい!」
「そう言うと思っていた」
アドルフと共に、中央街にある魔法雑貨店を目指した。
貴族の商店街から徒歩十分ほどで到着する。
青い煉瓦に白い屋根が特徴的な、三階建ての大きな建物だった。
「ここが魔法雑貨店だったんだ。何度か見かけたことはあったんだけれど」
「これまで来たことはなかったんだな」
「うん」
貴族令嬢は理由もなく好きなときに外出なんかできないし、買い物をするお金すらなかった。今は、魔法学校に通っているため、自由にできるお小遣いがいくらかある。
声変わりの飴玉がそろそろなくなりそうなので、買っておこうか。
「一階は魔法書と魔法に使う媒介をメインに取り扱っている。二階は薬草などの、魔法薬に使う素材をメイン。三階目は錬金術に使う道具をメインに扱っているらしい」
「なるほど。僕は二階を見ようかな」
「だったら、買い物を終えたら、外で落ち合おう」
アドルフと一緒でないことがわかり、ホッと胸をなで下ろす。
それはなんに使うのか、と聞かれたら、上手く誤魔化す自信なんてないから。
「では、またあとで」
「じゃあね」
アドルフと別れ、私は声変わりののど飴の材料を買い物かごに放り込んでいく。
先に会計を済ませたところ、あることに気付いた。
「あれ、これ、いつもより高い?」
独り言のように呟いた言葉に、会計を担当していた女性が反応する。
「あ、もしかして、魔法学校の生徒さんですか?」
「そうだけれど」
「やっぱり! ここ、魔法学校の購買部より、一割高いんですよ」
「え!?」
なんでも、魔法学校は生徒割引があるようで、街にある魔法雑貨店で購入するよりも安価で購入できるらしい。
そんな盲点があったとは、知らなかった。
「あ、でも、魔法学校の制服で着て、生徒手帳を提示した場合に限り、ここの店舗は二割引なんですよ」
「嘘でしょう……!?」
なんでも魔法雑貨店のオーナーは魔法学校の卒業生かつ、苦学生だったらしい。
そういう生徒達を助けるために、こっそり行っているサービスなのだという。
「知らなかった」
「魔法雑貨店の裏技みたいなものですので、知らない生徒さんは多いと思います」
店員の女性は特別なおまけだと言って、火の魔法巻物をくれた。
「あまり大きな火は出せませんが、暖炉の火を点ける程度だったら十分使えますので」
「ありがとう」
一階では魔法巻物の買い取り及び販売もしているらしい。
「ここって、転移魔法の魔法巻物は売っているの?」
「いやー、ないですねえ。うちの国で転移魔法を使えるのは、ほんの一握りですから」
隣国であれば、専門に作る職人がいて、転移魔法の魔法巻物が出回るという。
やはり、以前、降誕祭パーティーで私を襲ったのは、隣国の者だったようだ。
「ありがとう」
「またのお越しをお待ちしております」
一階で魔法巻物を見ていると、これまでポケットの中で爆睡していたチキンが顔を覗かせる。
強い風を巻き起こす、嵐のスクロールは金貨一枚もする。私のお小遣いでは、とても購入なんてできない。
『ご主人、そんなものを購入しなくても、チキンが見事に嵐を巻き起こしてみせるちゅりよ!』
「はいはい」
チキンの特技は鋭いパンチ、可愛い見た目に反して凶暴なところがあるチキンは、嵐のような存在だろう。そういうことにしておく。
アドルフがやってくる気配はないので、魔法に使う媒介も見て回る。
呪文が刻まれた箒に、魔力がこもった指輪、魔法を使うための特別な魔法書、定番の杖など、さまざまな形状が存在する。
私が使う魔法は魔法陣を使うものばかりなので、媒介は特に必要ない。しかしながら、見ているだけで楽しくなってしまう。
養育院で輝跡の魔法を使うときは、杖でもあったほうが魔法使いっぽいのか。子ども達はきっと、物語に登場する魔女みたいに杖を握っていたほうが喜びそうだ。
客の数が多くなってきたので、お店の外に出る。
ぼんやりと空を眺めていたら、アドルフが戻ってきた。
「リオル、待たせたな。寒くなかったか?」
「平気」
寒空の下、ドレスだったら震えていただろう。けれども素地が分厚いジャケットを着ていたので、そこまで寒くなかった。
「アドルフ、ここって魔法学校の制服を着ている状態で、生徒手帳を提示したら、二割引をしてくれるんだって」
「そうだったんだな」
アドルフはさすがお金持ちと言うべきなのか。割引率について聞いても、まったく悔しがっていなかった。
「帰るか」
「そうだね」
家に到着したさい、アドルフが「リオニーと会いたい」と言ったらどうしようと思っていたものの、そういう発言はなかった。
その辺は、体裁を取り繕った状態でないと会えない婚約者と、気軽に会える友達の違いなのかもしれない。
何はともあれ、アドルフと一緒に楽しいひとときを過ごした。
今日は初めて、アドルフがヴァイグブルグ伯爵家を訪問する。
リオルには地下の部屋から出ないようにと厳命しておいた。メイドや従僕を待機させて、見張りもさせている。きっと大丈夫だろう。
父もアドルフに会いたがっていたが、敢えて勤務が入っている日を選んだ。
何か言ってしまいそうで、怖いからだ。
チキンは部屋で眠らせておいたので、その隙を見てアドルフと面会する。
妙な緊張感を抱えたまま、アドルフを迎えた。
「いらっしゃいませ、アドルフ」
「リオニー、今日は訪問を受け入れてくれて、感謝する」
私としては外で会いたかったのだが、アドルフが危険だから家で会いたいと言ってきたのだ。
「どうぞ、おかけになって」
「ありがとう」
アドルフはまず、抱えていたフリージアの花束を渡してくれた。
「気に入ってくれると嬉しいのだが」
「まあ! ありがとうございます」
黄色いフリージアは見ているだけで元気になる。リオルが何かしでかすのではないかと不安になる私を、頑張れと応援してくれるようだった。
花束は侍女に手渡し、花瓶に活けておくように命じておく。
「あと、これは降誕祭の贈り物のお返しだ」
「よろしいのですか?」
「ああ。受け取ってくれると嬉しい」
これはアドルフなりの好意だと言い聞かせ、いただいておく。
丁寧にラッピングされたそれは、先日アドルフと選んだティーカップとソーサーだろう。
アドルフの期待に応えられるような反応ができるのか。
妙な胸の高鳴りを感じていた。
「えっと、ここで開封してもよろしいかしら?」
「もちろん」
アドルフはすでに、キラキラとした瞳でこちらを見つめていた。
そんなに期待しないでほしいのだが……。
「な、何が入っているのでしょうか?」
「それは、開けてからの楽しみだ」
「ドキドキして、胸が張り裂けそうです」
胸が張り裂けそうな理由は、アドルフの期待に応えられるか否か、なのだが……。
小芝居を挟みつつ、ゆっくり、丁寧にラッピングを解く。そしてついに、木箱の蓋を開いた。
「あら、まあ!!」
予想通り、木箱の中にはフリージアのカップとソーサーが収められていた。
改めて見ても、美しい硬質磁器である。
先日、説明を聞いたときの感動が、一瞬にして甦ってきた。
「なんて美しいカップなのでしょうか!」
そっと手に取ると、驚くほど軽い。窓から差し込む太陽の光にかざすと、本物の真珠のように輝いているように思えた。
「こちらを、わたくしに?」
「そうだ」
「ああ、アドルフ様、ありがとうございます。嬉しいです」
アドルフは安堵したような表情で、私を見つめていた。
これは合格点に達した、ということでいいのか。
いろいろと事前に台詞を考えていたのだが、どれも言わなかった。カップ一式を目にした瞬間、自然と感激する言葉がでてきたのだ。
難しく考える必要なんてなかったというわけである。
「あと、お守りも用意したかったんだが、今日までに間に合わなかった」
「お守り、ですか?」
「ああ」
金属素材から手作りし、守護の呪文を付与させるという、とんでもないお守りを作ろうとしていたらしい。
そんな物が短期間で作れるわけがない。
「お守りは、アドルフからいただいた指輪がありますので」
「それはいくつか問題があった。リオニーが助けを望まないと発動しないなんて、魔法の設計ミスもいいところだ」
ほどほどに、無理はしないようにと言っておいた。
「また明日から新学期が始まる。外出許可が取れたら、またここに来てもいいか?」
「ええ、もちろんですわ」
リオルを地下に閉じ込め、父の干渉を阻止しなければならないが、まあ、なんとかなるだろう。
「では、そろそろ失礼しよう」
「ええ」
玄関まで見送りに行こうとしたら、地下からドン!! という破裂音が聞こえた。
「襲撃か!?」
「いえ、あの、おそらくリオルの実験です」
三日に一回くらい、このような音を鳴らすのだ。我が家では日常茶飯事であるものの、アドルフを驚かせてしまったらしい。
「様子を見に行かなくて、本当に大丈夫なのか?」
「従僕がおりますので、おそらく確認していることでしょう」
何度も大丈夫だと言うと、アドルフは「そうか」と納得してくれた。
あれほど大人しくしているようにと言っていたのに、まさか特大の破裂音を響かせてくれるなんて。
「リオルにも挨拶をしたかったのだが」
「今頃、破裂した物の片付けで忙しくしていると思います」
「それもそうだな。では、破裂させるのもほどほどに、と伝えておいてくれ」
「わかりました」
アドルフはロンリンギア公爵家の馬車に乗りこみ、帰っていった。
私は笑顔で見送り、馬車が見えなくなると回れ右をする。
リオルに注意したかったのは山々だが、なんだか疲れてしまった。後始末は使用人達に任せて、少し休もう。
アドルフが言っていたように、明日から新学期だ。今は英気を蓄えなくては。
◇◇◇
あっという間に二週間の休暇期間が終わり、二学期目となる四旬節学期が始まる。
私は荷物をまとめ、実家から寮に戻った。
身辺を警戒せよ、というロンリンギア公爵の言葉を受け、私はアドルフから貰った婚約指輪をチェーンに通し、首飾りにして下げている。
以前、魔法雑貨店で貰った魔法巻物も、ジャケットの内ポケットに忍ばせておいた。小さな火らしいが、何かに役立つだろう。
寮に戻ってきた寮生達は談話室に集まり、降誕祭をいかに楽しく過ごしたか会話に花を咲かせていた。
談話室が賑やかになるのを見越した寮母は、普段よりもたくさんのお菓子を用意してくれていた。
山盛りのビスケットに、キャラメル、キャンディにスコーンなどなど。
ピッチャーには鍋でまとめて煮だしたと思われるミルクティーが五つも用意されていた。紅茶にこだわりがある執事が見たら卒倒しそうな代物だが、人数が多いので仕方がない。一杯一杯丁寧に入れている場合ではないのだ。生徒が部屋から持参したマグカップに並々とミルクティーが注がれ、あっという間になくなっていく。
眺めていて気持ちがよくなるほどの、飲みっぷり、食べっぷりだった。
そんな楽しい談話室にアドルフがやってくると、寮生達の背筋はピンと伸びる。
彼はぴしゃりと注意した。
「あまり、騒ぎすぎないように」
皆、授業中よりも真剣な様子でこくこくと頷いていた。
その一言で去ると思いきや、談話室の端でビスケットを囓っていた私のもとにアドルフがやってくる。
何か用事だろうか。
アドルフは私の肩に手を置き、ぐっと接近する。
友達だからこその近さだが、彼を慕う身としては心臓に悪い。
内心慌てふためいていた私に、アドルフが耳元で囁いた。
「リオル、実験の爆発はほどほどに」
「なっ――!?」
アドルフは片目をぱちんと瞬かせてから去っていく。不意打ちのウインクは心臓に悪かった。
それはそうと、爆発を起こしたのは本物のリオルだ。私が注意されるとは、不本意である。まさか、リオルのやらかした件について注意されるなんて。
やはり、正式に抗議しておけばよかったと、今さらながら後悔した。
部屋に戻り、明日の授業の復習をしていたところ、扉が叩かれる。
「誰?」
「俺だ」
声の主はアドルフである。いったい何用なのかと扉を開くと、まさかの姿に驚愕することとなった。
なんと、アドルフは私が作ったセーターを着ているではないか。
「だ、ださっ……!」
「なんか言ったか?」
「な、なんでもない」
竜がでかでかと編まれたセーターは、なんというか、こう、あか抜けなくて野暮ったい仕上がりになっていた。
編み上げたときは、かっこいいセーターができたと信じて疑わなかったのに。
やはり、睡眠時間を削って作業するというのは、判断能力を低下させるのだろう。
しかしまあ、私服で寮内を歩き回ることは禁じられている。部屋着として着用するならば、なんら問題ないだろう。
「リオル、見てくれ。これがリオニーが作ってくれたセーターだ。洗練されていて、品があるだろう?」
「アドルフがそう思っているのならば、僕は否定しない」
「どういう意味だ?」
「すてきなセーターだねってこと」
「そうだろう、そうだろう」
どうやらセーターを自慢しにきたらしい。ここまでお気に召してくれたのならば、作ったかいがあるというもの。
なんだか話が長くなりそうだったので、部屋に招き入れる。
紅茶はアドルフが淹れてくれた。
茶菓子は焼きたてのスコーン。談話室から出てすぐに、寮母が持たせてくれたのだ。
クリームやジャムはないものの、ドライフルーツ入りなので、そのまま食べてもおいしいだろう。
アドルフは優雅に紅茶を飲みながら、問いかけてくる。
「リオルはリオニーからセーターを貰ったことはあるのか?」
「ないよ。編み物は基本、慈善活動で寄付するために作るだけだから」
こういうふうに言うと、アドルフへセーターを作る行為が慈善活動のように聞こえるのではないか。口にしてからハッと気付く。
しかしながら、アドルフは慈善活動をするリオニーへの関心度のほうが高かったようだ。
「支援のために編み物をするとは、なんと健気で優しい女性(ひと)なのか」
「前にも言ったけれど、姉上はあまり性格がよくないから、期待値を上げないほうがいいよ」
結婚し、性格をよくよく理解するようになった結果、相手の一挙手一投足に嫌気が差す、なんて夫婦もいるという。アドルフにはそうなってほしくないので、ハードルは可能な限り下げておきたい。
ちらりとアドルフのほうを見ると、真顔だった。怒っているのか、そうでないのかはわからない。きっと幼少期から感情を読み取れないよう、表情筋を鍛えているのだろう。
「仮にリオニーが猫を被っていたとしても、それはそれでいい」
猫を被る、という表現にドキッとしてしまう。今、男装している私も、猫を被っているようなものだから。
「普段、俺と一緒にいるときは控えめ過ぎるくらいだから、どんどん発言して、自由気ままでいてほしいと思っている」
「公爵家の妻が奔放では困るんじゃないの?」
「それくらいでいないと、親族と渡り合えないだろう」
確かに、アドルフの親戚達は一筋縄ではいかない。自分を強く持ち、いい意味で我を通さないと、圧倒されてしまう。
「この前の降誕祭パーティーでの、リオニーの毅然とした態度は見事だった。あの父上さえも、一目を置いたくらいだ。リオルにも見せたかった」
「そうだったんだ」
「リオニーが帰ったあと、父上から〝いい婚約者を選んだな〟って褒められて……。誇らしかった」
あの無愛想で冷徹なロンリンギア公爵が私を認めてくれたなんて、想像もできない。
「父上はこれまで、俺を褒めたことなんて一度もなかった。人生初めてのそれが、リオニーに関してだったから、本当に嬉しかったんだ」
生まれたときから未来のロンリンギア公爵になるということが決められているアドルフにとって、自分自身で決めた選択というのは極めて少なかったらしい。
数少ない選択のひとつが、結婚相手だった。
「リオニーを選んだことは、間違いではなかったんだ」
キラキラとした瞳で、アドルフは語り続ける。
私のことでもあるので、話を聞いているうちに恥ずかしくなってきた。
スコーンを頬張り、紅茶を飲む。
「リオル、スコーンをそのように一気に食べるものではない。顔が赤くなっている」
「好物だから」
「ならばなおさら、ゆっくり味わって食べろ」
「そうだね」
思う存分話して満足したのか、アドルフは部屋から去る。
私は深い深いため息を吐いたのだった。
始業式を始める前の教室は、寮同様に降誕祭の話でおおいに盛り上がっていた。
人だかりの中心にいたランハートが、私に気付いて手を振る。
「リオル、おはよう!」
「おはよう」
ランハートはこちらにやってきて、背中を軽くポンと叩く。
以前であれば、「二週間ぶりだな、リオル!」と言って体当たりしていたはずだ。
それをしなくなったのは、私が女だと知っているからだろう。
ランハートは驚くほど以前と変わらない。これまで通り賑やかな友達でいてくれる。
けれども、肩を組んだり、腕を組んだりと、接触してくる回数はぐっと減っていた。
男同士のスキンシップはいささか乱暴なところがあるので、その点は助かっている。
その反面、少しだけ物足りないと思うところもあった。
アドルフも私がリオニーだと知ったら、態度が変わってしまうのか。
彼はランハートのように、激しいスキンシップはしない。けれども、リオルでいるときにしか見せない、くしゃっと笑う表情が見られなくなるのは寂しい。
人を騙しておいて、これまで通りの付き合いなんてできるわけがないのだ。
これは私の罪なのだと言い聞かせて諦める。
始業式ではアドルフが生徒を代表して、四旬節学期の抱負を発表していた。
教室に姿がないと思っていたが、大役を任されていたからだったようだ。
立派に読み上げると、拍手喝采が巻き起こる。
隣で、鼓膜が破れそうなくらいの音で手を叩く音が聞こえた。誰だと思って横目で盗み見ると、アドルフの元取り巻き達だった。
まだ、取り巻きに戻れると思っているのだろうか。いい加減、諦めたらいいものの。
最後に校長のありがたいお話の時間となったのだが、アドルフと内容が被っていたようで、話すことがなくなってしまったと訴え、生徒達の笑いを誘う。
三分という短い時間で終了となった。
毎度、校長の話は要領を得ず、ただただ長いだけなので、アドルフは生徒達の心の英雄となっただろう。
始業式を終えると、選択制の授業がある者は教室に残り、ない者は寮に帰っていく。
私は魔法生物学の授業を受けるため、授業の前に復習しておく。
教科書をチキンがめくってくれる。視線を向けただけで、嘴で突いて次のページにしてくれるのだ。教えていないのに、身に着けてくれた芸である。
隣の席に座ったアドルフが、チキンの芸を見て物申す。
「リオルのところの使い魔、そんな繊細な作業もできるんだな」
「まあね。たまに枝毛があったら抜いてくれるし」
「毛繕いまでできるのか」
アドルフが感心したように言うと、チキンは誇らしげに胸を張る。
『チキンは嘴で、チェリーの軸を結ぶこともできるちゅりよ』
「それはすごいことなのか?」
『もちろん、すごいことちゅりよ』
なんてどうでもいい会話をしているうちに、授業が始まる。
教室にいる生徒は七名。
魔法生物学は一学年と二学年のみ必須科目で、三学年からは専門的な内容になるため、選択制となっているのだ。
週に一度授業があって、毎回楽しみにしている。
ローター先生がやってきて、点呼を取る。全員揃っているのが確認されると、授業が始まった。
「えー、今日は使い魔の本契約について、学びましょう」
一学年のときに召喚した使い魔は、仮契約のまま一緒に過ごしていた。二学年の最後の授業で契約解除を学び、ほとんどのクラスメイトが各々のタイミングで使い魔を手放したらしい。
ここにいる七名は、使い魔との契約を解除せずに、継続していた者ばかりである。
フェンリルを使い魔に持つアドルフが契約を継続するのは納得していたようだが、私のチキンは意外だとクラスメイト達に言われた。
チキンは寝るのが趣味で、性格は喧嘩っ早く、かと言って特殊な能力があるわけではない。何か命令したら反抗するときもあるので、扱いが難しい小さな暴君としてクラスや寮の中で名を馳せていたのだ。
私個人としては、チキンがいたおかげで、ずいぶんと癒やされた。
振り返って見ると、気質なども似ているところがあったのかもしれない。二年と約半年の間、私達は仲良くやってきたのだ。
チキンさえよければ、これからも一緒にいる予定だ。
「これまでは仮契約だったということで、使い魔の実力は三分の一以下でした。しかしながら、本契約を交わすと、実力はそれ以上となり、これまで以上に活躍してくれるでしょう」
仮契約は強制力があるものの、本契約は使い魔側の意思も重要視される。無理矢理従わせることも可能だが、対価として多くの魔力を与えなければならないらしい。
「一学年のときに召喚、仮契約を交わし、二年もの間信頼関係を築いてから本契約をするという流れは、使い魔契約でもっとも理想的な形となっています」
ただ、使い魔は本契約となると、主人が死ぬまで縛られる。そのため、すぐに応じるわけではないらしい。
肩に飛び乗ってきたチキンに、問いかけてみる。
「ねえ、チキン。私と本契約をしてくれる?」
チキンは小さな体だが、自尊心は誰よりも大きい。きっと、説得に説得を重ねないといけないだろう。そう思っていたのだが――。
『いいちゅりよ!』
あっさりと応じてくれた。
言葉を失っていたら、目の前に魔法陣が浮かび上がる。それは、チキンとの本契約を記録したものであった。
「え、嘘!」
今の軽い会話が、本契約が締結されたと見なされたようだ。
ローター先生はすぐに気付き、拍手する。
「ああ、ヴァイグブルグ君が、使い魔との本契約を交わしました。皆さん、拍手しましょう」
パラパラと拍手される中、チキンは翼をあげて『どうもちゅり』なんて偉そうに応じている。
本契約を交わしたら、チキンが三倍の大きさになったらどうしよう。なんて思っていたのに、チキンはいつもと様子は変わらなかった。
その後、授業に参加していた生徒達は、次々と本契約に挑む。
ローター先生が話していたとおり、すぐに受け入れる使い魔はいなかった。
最後に、アドルフが挑む。
勇ましいフェンリル、エルガーを呼び寄せ、本契約を持ちかけた。
「我が名はアドルフ・フォン・ロンリンギア。汝、我と共に人生を歩み、影のように従うことを誓え」
エルガーは伏せの体勢を取る。その瞬間に、本契約を結んだことを示す魔法陣が浮かび上がった。
「さすが、ロンリンギア君ですね!」
私もあんなふうに、カッコよく本契約を結びたかった。
後悔しても遅いのだが。
◇◇◇
勉強に追われていると、月日が瞬く間に流れていく。休暇期間中、一日を長く感じていたのが嘘のようだった。
窓の外では雪がしんしんと降り積もり、一学年の生徒達が楽しそうに遊ぶ声が聞こえる。 私も一学年のときは、ああして無邪気に遊んだものだ。
二学年から本格的な紳士教育が始まると、あのように遊べなくなるのである。
机に出していた手紙を書く道具を見下ろし、ため息を零す。外で遊べないから、憂鬱になっているわけではなかった。
一ヶ月に一度ある二連休に、アドルフからのお誘いがあると想定し、外出届を提出していた。しかしながら、アドルフからのお誘いの手紙は届かない。空振りだったわけだ。
ただ、実家に帰るだけでは惜しい。以前、アドルフと行った魔法雑貨店に制服を着て行ってみようか。二割引きは大きいだろう。
ちょうど、輝跡の魔法に使う魔石が不足していたのだ。父からお小遣いを貰っていたので、使わせてもらおう。
週末――明日から二連休なので、実家に戻るために、必要な勉強道具を鞄に詰め、チキンはコートの内ポケットに突っ込んでおく。
休日は翌日からだが、授業が終わったら帰っていいことになっている。
外は夕暮れ時だ。早く行かないと、あっという間に日が暮れてしまうだろう。
部屋を出ると、アドルフも続けて出てきた。
鞄を背負う私とは異なり、アドルフは一冊の魔法書のみ手にしていた。
「リオルも実家に帰るのか?」
「そうだけれど、アドルフも?」
「ああ。国王陛下の晩餐会に呼ばれていて」
表情が暗い上に、ため息まで吐いている。よほど、参加したくなかったのか。
「嫌なの?」
「そんなわけあるか。ただ、二連休はリオニーと会おうと思っていたのに、叶わなかったから」
アドルフが憂鬱そうにしていた理由は、婚約者に会えないからだった。
心配して損したと思う。アドルフにとっては、重大な問題だったらしい。
「リオル、リオニーにまた今度会おうと伝えておいてくれ」
「わかった」
アドルフとは馬車乗り場まで一緒に歩く。私は乗り合いの馬車で、アドルフはロンリンギア公爵家の馬車で帰るのだ。
「アドルフ、また週明けにね」
「ああ。風邪を引くなよ」
「そっちこそ」
アドルフと別れ、乗り合いの馬車に乗りこむ。央街で下り、魔法雑貨店を目指した。
『ご主人、鞄は重くないちゅりか?』
「平気だよ」
魔法学校に入学する前ならば、一度、家に帰っていたかもしれない。
今は体力がついているので、魔法書や教科書が十冊は入っている鞄を背負っていても、平気で歩き回れる。
ただ道を歩いているだけで、周囲からちらちらと視線を感じてしまう。というのも、王都にある魔法学校は少数精鋭の選ばれた者だけが通える、エリート学校である。外出もあまりできないため、もの珍しさから注目を集めてしまうのだ。
これも二割引きのため、と自らに言い聞かせる。
必要な物を買い物かごに入れ、生徒手帳と共に会計を行うと、本当に二割引きになった。
なんともお得な制度である。
ほくほく気分でお店から出たところ、突然声をかけられた。
「君、魔法学校の生徒? そのネクタイの色、三年生だよね?」
「……誰?」
帽子を深く被った、見るからに怪しい中年男性のふたり組である。
「おじさん達、こういう者なんだ」
いきなり名刺を渡される。グリムス社というのは、国内でも有名な新聞社である。
「アドルフ・フォン・ロンリンギア君のこと、知っているかな?」
なぜ、アドルフについて聞くのか。一気に警戒心が高まった。
「知っているけれど、どうして?」
「今、彼についての情報を探していてね」
質問の答えになっていない。なぜ、アドルフの情報について聞きたがっているのか問いかけたのに。
子どもだと思ってそれらしいことを言い、けむに巻くつもりなのだろう。
もしもアドルフにとっていい記事を書くつもりであれば、ロンリンギア公爵家に直接交渉を持ちかけるに決まっている。
明日開催される晩餐会で、インタビューだってできるかもしれない。それをしないということは、何かしら悪い記事を書こうとしているのだろう。
「彼について何か情報を提供しているのであれば、謝礼を出そう」
記者らしき男のひとりがちらつかせた謝礼は、金貨一枚だ。魔法雑貨店の割引制度を使っている生徒ならば、喜んで飛びつくような金額である。
なるほど、いい場所で待機していたというわけだ。
「ある方面からの噂では、彼は婚約者がいるにもかかわらず、グリンゼル地方に古くから付き合いのある恋人を匿っている、という話なんだ。それについて、何か知っているかい?」
「――!」
もうすでに、アドルフについていろいろと嗅ぎつけているようだ。
そんなことを記事にして、どうするつもりなのか。
ロンリンギア公爵家を敵に回したら大変なことになるくらい、彼らもよくわかっているだろうに。
「なんでもいいんだ。たとえば、女癖が悪かったとか、こっそり飲酒していたとか」
何かあるだろう、と下卑た様子で問いかけてくる。
アドルフの評判を落とすために、誰かが画策したに違いない。
こんな卑劣な行為など、許せるわけがなかった。
「アドルフ・フォン・ロンリンギアは――」
記者らは前のめりになりつつ、深々と頷く。
「模範的な生徒で、成績は極めて優秀、曲がったことが大嫌いで、学校のいじめを撲滅した。正義感に溢れ、悪を憎むような人物だよ」
期待していた情報が得られず、記者らは明らかに落胆する。
「じゃあ、この際嘘でもいい。この録音できる魔技巧品に向かって、証言してほしい。そうしたら、報酬を与えよう」
そこまでして、アドルフを陥れたいのか。呆れてしまった。
「じゃあいくよ、せーの!」
息を大きく吸い込み、力の限り叫んだ。
「――おじさん達の記事は、インチキ!!」
周囲の視線が一気に集まる。私は咎められる前に、路地裏へと逃げた。
「この、クソガキが!!」
「待て!!」
私の発言に激怒した記者らは、あとを追いかけてくる。
この辺りは以前、アドルフと一緒にやってきた場所だ。
ならば、アレがある。
「へへ、この先は行き止まりだ!」
「捕まえて、とっちめてやる!」
悪役みたいな台詞を吐いているが、彼らは本当に記者なのか。それすら怪しいところである。
記者らの宣言通り、行き止まりに行き着いた。
目くらましとして、火の魔法巻物を発動させる。小さな光が、記者達の前に飛び出していった。
この魔法巻物は攻撃性がないもので、火も記者に届かない。
けれども突然火が現れたら、攻撃だと思うだろう。
「うわ!」
「ぐう!」
記者が顔を逸らした隙に、私は壁の中へと飛び込んだ。
「き、消えた!?」
「馬鹿な!!」
私が避難した先は、魔法書を販売するお店の地下通路である。アドルフが私ひとりでも行き来できるよう、オーナーに交渉してくれたのだ。
薄暗い中、階段に蹲る。
大変なことになった。アドルフの悪評を流そうとしている記者がいるなんて。
どうしてそうなったのか。考えてもわからなかった。
あれから二時間くらい経ったか。私は息をひそめ、階段に座り込んでいた。
恐ろしかった。思い返しただけでも、ガタガタと震えてしまう。
ひとりだったら、泣いていたかもしれない。しかしながら、私の肩には頼りになる相棒チキンがいた。
「記者の人達、そろそろいなくなったかな?」
『外に気配はないちゅり』
「そう」
ずいぶんと遅くなってしまった。懐から懐中時計を取り出すと、二十時過ぎとなっている。
この二連休で実家に戻ることは告げていない。きっと、捜索騒ぎにはなっていないはずだ。
帰宅が遅いと父に怒られそうなので、今日は裏口からこっそり帰って、明日の朝に帰ってきたことにしておこうか。
こういう悪知恵ばかり働くのだ。
外に出ると、真っ暗だった。記者に追いかけられた時間帯はまだ夕日が沈んでいなかったのだ。
幸い、貴族街へ向かう馬車は、まだ残っている。もうすぐ最終便が出る時間だろうから、急がなければならない。
人の多さが夕方の比ではなかった。きっと、飲み歩いたり、夜遊びをしたりしている者達に違いない。
この人込みと暗さの中では、魔法学校の制服でも目立たないだろう。
乗り合いの馬車は――いた!
急げば間に合う。駆けて行こうとした瞬間、背後から叫びが聞こえた。
「いたぞ! あの金髪の学生だ!」
耳にした瞬間、ゾッとした。けれども、声はずっと遠い。だから、振り向かずに馬車に乗りこんだら大丈夫。馬車の出発時間も迫っていた。
一歩、強く踏み出した瞬間、服から婚約指輪を通したチェーンが飛び出してきた。
アドルフ、助けて。そう呟くも、守護魔法は発動しない。
きっと、私に衝撃がいかないと、発動されない仕組みなのだろう。
馬車まであと少し、あと少しだと思っていたが――ゴッ! と後頭部に衝撃が走る。
『ご主人ーーぢゅん!!』
「おっと、お前はこっちだ」
白くなっていく視界の端で、チキンが鳥カゴに入れられているのが見えた。
どうやら、味方が近くにいたらしい。
帰宅するよりも、騎士に助けを求めればよかったのだ。
何もかも、遅い。
◇◇◇
「おい、いつまで寝てるんだよ!」
腹部に衝撃を受け、目を覚ます。どうやら腹を蹴られたらしい。
反撃しようにも、手足を縛られているようで、思うように動けなかった。
魔法は呪文と魔力、そして杖や指輪、魔法陣などの媒介があって初めて発動させる。どれかが欠けていたら、不完全な魔法となって術者に牙を剥くのだ。
「ううう……」
さらに、言葉を発しようとしたが、上手く喋ることができない。
「むぐ、うぐぐ」
どうやら手足の拘束だけでなく、布を噛まされているらしい。外れないように、後頭部のほうでしっかり結んでいるようだ。
ケガをしたときに口を切ったのか。布は血の味がする。
殴られた頭も、ズキズキ痛んでいた。学生相手に、加減なんてしなかったようだ。
ぱち、ぱちと瞬きしたら、ぼやけた視界に数名の男がいる様子が見えた。
人数は四……いや五人いるのか。
服装は先ほどの記者達よりも、粗暴な印象である。グリムス社の記者に雇われた、無頼漢なのだろうか? 視界から得られる情報は、薄暗いのであまり多くない。
「目が覚めたようだな」
「うぐぐ、うぐ!」
男が手下に、布を外すように命令する。
「あ、あなた達は、グリムス社の記者?」
「答える義務はねえ」
すぐに、口に新しい布が当てられ、喋れないようにされてしまう。
おそらく、魔法を警戒しているのだろう。
夕方に付きまとってきた記者とは別人だった。かなり大人数で、アドルフの情報収集をしていたのか。
それにしても、ここはいったいどこなのか。
薄暗くてよくわからないが、木箱がたくさん置かれている。工場のような、物置のような、そんな雰囲気である。埃臭く、人の手入れが頻繁にされているような場所ではない。天井が高く、上部にある窓から太陽の光が差し込んできた。
「む――うぐぐ!?」
なぜ、どうして? そんな疑問を口にしようとしたが、噛んでいる布のせいで言葉を発することは叶わなかった。
私が襲撃を受けたのは、夜の二十時くらいだったはずだ。それがどうして、日中になっているのか。
……どうやら私は殴られたあと、太陽が昇るまで気を失っていたらしい。
男のひとりが、何やら手元で小さな物をぶんぶん振り回している。
よくよく見たら、それはアドルフがくれた婚約指輪だった。
「ぐう、うぐぐ! うう!」
返せ、という言葉は発することができなくても伝わったのだろう。男は馬鹿にしたように笑いつつ、私の訴えに対して答える。
「魔法が刻まれた指輪なんか、渡すわけないだろうが」
男達は多少、魔法の知識があるらしい。奥歯を噛みしめる。
ここでふと、チキンがいないことに気付く。周囲を見回したら、木箱の上に鳥かごがあった。鳥かごの中には、苦しげな様子でいるチキンの姿があるではないか。なんて酷いことをするのか。
「使い魔に酷いことをしやがって、とでも言いたげな顔だな。だが、酷いのはお前のほうだ。嘘を言って、大人達を欺くなんて」
どの口が言うのだ。なんて言葉は喉から出る寸前で呑み込む。
彼らを刺激したら、きっと酷い目に遭う。これ以上、痛い目になんか遭いたくない。
まずは、取り引きをして、この場から脱出する必要がある。
まずは、ここがどこなのか把握しなければならない。
おそらく、王都のどこかか、離れていても郊外くらいだろうが。
キョロキョロしている私の様子に気付いた男が、現在地を教えてくれる。
「ここはグリンゼル地方の某所だ」
「むぐ!?」
グリンゼル地方!? 馬車でも一日半かかる距離にいたなんて、思いもしなかった。
「転移魔法の魔法巻物でやってきたんだよ」
ひらひらと、目の前で見せつけられる。間違いなく、転移魔法が使える魔法巻物であった。
なぜ、彼らがそれを持っているのか?
もしかしたら、裏社会では流通しているのかもしれない。
想定外の移動距離に、呆れてしまう。
私をグリンゼル地方まで連れてきて、望むのはアドルフについての情報だろう。
「ここからが取り引きなんだが、アドルフ・フォン・ロンリンギアについて知っている情報を提供したら、ここから解放してやろう。もしも応じない場合は、二度と、家に帰れないと思え」
そんなの取り引きでもなんでもない。ただの脅迫だろう。
「グリンゼルに、アドルフ・フォン・ロンリンギアの愛人がいるんだろう? その女はどこにいる?」
再度、口元の布が外される。
「……どうして、自分達で調べないの?」
次の瞬間には、布を噛まされる。
新聞社の記者ならば、独自に調査し、情報を得ることが可能だろう。魔法学校の生徒を誘拐するという危険で手荒な手段なんて使うわけがない。
「どうしてって、それは見つけられなかったからに決まっているだろうが。街の奴らが話していた赤い屋根の屋敷は、別の貴族の家だったからな」
グリンゼルの街では、以前、ちょっとした噂になっていた。たしか、〝観光地から北に進んでいくと、霧ヶ丘って呼ばれる場所があるらしい。そこに赤い屋根の屋敷がある。その屋敷に、薔薇と恋文が届けられているんだ〟という話だったか。
それらはもしかしたら、ロンリンギア公爵家の者が流した、偽情報だったのかもしれない。家に押しかけられたら困るからだろうか? 工作をする理由はよくわからない。
「いくら王都から荷物を追いかけても、いつの間にか忽然(こつぜん)と消えているらしい。魔法か何かで配達している可能性もあるようだが、お前、何か聞いていないか?」
男はぐっと接近し、にたにたと笑いながら問いかけてくる。
「あれくらいの年齢の男は、愛人なんて持っていないだろう? 学校で、自慢して回っていたんじゃないか?」
返答を聞くため、布が外された。その瞬間、私は叫ぶ。
「アドルフはそんな人じゃない!」
とっさに言い返すと、またしても腹を蹴らしてしまう。
「う……ぐっ」
こうなることは想定できたはずなのに、好き勝手言われることが許せなかったのだ。
「それで、何か情報を提供してここから脱出するのか、それともここの倉庫が死に場所となるのか」
「死に、場所?」
「そうだ。お前が喋らないのであれば、ここの倉庫にうっかり火を放つかもしれない。新聞にはこう報じられるだろう。魔法学校の生徒が家出し、潜伏していた倉庫で火の扱いを誤り、焼死してしまった、とな」
家出をする動機はないが、実家を詳しく調査されたら、私自身の秘密が明らかになってしまう。男装をし、魔法学校に通っていたなんて普通ではない。何かしらの悩みを抱え、家を飛び出し、問題を起こしてしまった――というのは、まったく不自然ではないだろう。
つまり、私が死んでも、悪人は絶対に捕まらないというわけだ。
話すつもりはないと判断されたのか、口に布を詰め込まれそうになった。その瞬間、私は証言する。
「き、霧ヶ丘には、いくつか屋敷がある。普段は魔法で隠されていて、外部の人間は入れないようになっているんだ」
口からでる言葉に任せて、いい加減な証言をする。けれども、グリムス社の記者が嗅ぎ回っても見つけられないということは、おおよそ間違いではないだろう。
「僕を現場に連れていったら、案内できる! だから、殺さないで」
必死になって訴えたが、口に布を当てられ、後頭部でぎゅっときつく結ばれてしまった。
男は手下達に、再度霧ヶ丘を調査するように命令する。
「本当かどうか確かめてやる。もしもなかったときは、容赦しないからな」
そんな言葉を残し、男は去って行く。倉庫には見張り役を一名置いていくようだ。
薄暗くてよく見えないが、見張りはナイフを手にしているようだ。
私を脅していた男とは違い、ひょろっとしていて、荒事に慣れているような雰囲気はない。
先ほど、私の口に布を取ったり、外したりしていた者だろう。手つきは案外丁寧で、乱暴な様子はなかった。
彼と何か交渉できないだろうか。話しかけようにも、口に布を詰め込まれているので、自由は利かない。
ダメ元で、話しかけてみる。
「うぐぐ! ううううう!」
「え、なんだ?」
言葉に少しだけ地方訛りがあった。王都に出稼ぎに来た者なのだろうか。
無頼漢なんかの手下になって、家族が哀しんでいるのではないのか。そんな言葉すら、発することができない。
「うううううう、ううううう!!」
苦しむ振りをしたところ、すぐに見張りはこちらへやってきた。
「ど、どうしたんだ? く、苦しいのか?」
こくこく頷くと、見張りは口元の布を外してくれた。
「水、飲む?」
「飲む」
やはり、彼は悪い者ではないようだ。
横たわる私に水を飲ませる方法も知っているようだった。つまり、誰かを看病した経験がある人なのだろう。
「お、お礼に、胸ポケットに、懐中時計が、あるから」
「そんな! 貰えないよ」
「いい、から」
魔法学校に入学すると配布される懐中時計は、他人へ譲渡すると学校側に警告が届く。
その魔法が発動して、どうにか私の危機に気付かないかと願ったが――遠慮されてしまった。
「銀の、懐中時計、なんだ」
「銀だって!?」
見張りはすぐさま私の懐を探り、懐中時計を手にする。
「本物の銀だ! よくわからないけれど」
見張りの目付きが、一気に変わっていった。
「これがあれば、弟の病気も治る」
独り言のように呟くと、見張りは勢いよく立ち上がる。そのまま出入り口のほうへ駆けていってしまった。
あまりにも素早い判断に、呆然としてしまう。
見張りの男は故郷に病気の弟がいて、薬代を稼ぐために王都にやってきたのか。
ただ、魔法学校の懐中時計は転売できないようになっている。さらに、加工しようとしたら、防御魔法が働くのだ。
なんだか悪いことをした――と思いつつも、同情なんてしている場合ではない。
見張りはいなくなった。その間になんとかここから逃げ出さなければならないだろう。
まずは、手足の拘束をどうにかしたい。
見張りの男がナイフでも置いていってくれたらよかったのだが。
口元だけでも解放されたことを、よかったと思うようにしなければ。
足をさまざまな角度に捻ってみるも、縛られた縄は堅くてびくともしない。
手元も同様に、力でどうにかできそうな状態ではなかった。
チキンのほうを見てみると、先ほど同様にぐったりしていた。意識はあるように思えないが、声をかけてみる。
「ねえ、チキン。チキン、起きて……」
反応はない。ここにくるまで酷いことをされたのだろうか。心配になる。
今、私にできることは、何もないのか?
手足が縛られているので、魔法は使えない。
本当に、どうしたらいいものなのか……。
何か尖った物があったら、縄を切ることができるだろう。
周囲を見渡すが、それらしき物はない。木箱の角に縄を擦り付けたら、いつか切れるかもしれないが、時間がかかりすぎてしまう。
必死になって起き上がってみると、木箱の上に花瓶が置かれているのを発見する。あれをなんとか割って、ナイフ代わりに使えないだろうか。
再度寝転がり、倉庫の床を転がったり、這ったりして、花瓶に近付く。木箱に体当たりすると、花瓶がぐらりと傾いた。
向こう側に落ちるように強く当たったのに、花瓶はこちら側に倒れてくる。
「――っ!!」
花瓶は私の顔を目がけて真っ逆さま。なんとか当たる寸前で回避したものの、すぐ近くで花瓶が割れてしまう。
飛び散った花瓶の破片が、頬や額を切りつける。
ここまで体を張ったのに、大きいガラスの破片は遠くへ飛び散ってしまった。
近くにあるのは、粉々になったガラスの欠片だけである。
ただ、頬や額を切り、血を流すだけで終わった。
物音を聞いて、男達が戻ってこないといいが……。
しばし、息を顰(ひそ)める。どくん、どくんと胸が激しく高鳴っていった。
人がやってくる気配はないので、ホッと胸をなで下ろす。
他に、何かないのか。
ただ、あったとしても、花瓶のガラスの破片が散った中で、動き回るのは危険だろう。
花瓶を使った作戦は大失敗だった。
魔法陣さえ描くことができたら、錬金術を使い、ガラスでナイフを作ることができるのに。
ガラスのナイフ程度であれば、魔法陣だけで作ることができる。
必要なのは素材であるガラスと、魔法陣を描くインク――と、ここで気付く。
頬や額から流れた血が、倉庫の床に散っていた。まだ乾いておらず、濡れている。
これで、魔法陣を描くことが可能だ。
幸いと言うべきか、手は前方で括り付けられている。これが背中に回された状態だったら、できなかったかもしれない。
手を伸ばし、指先で血を掬う。自由が利かない手を駆使し、血で魔法陣を描いた。
足でガラスの欠片を魔法陣に集め、呪文を唱える。
魔法陣は強い白光を放ち、形なき物質(もの)が、ひとつの塊と化す。
光が収まったあと、魔法陣の上には小型のナイフのような物が完成していた。
すぐさま手を伸ばし、手首と縄の間に刃を差し込む。
指先だけでナイフを動かし、少しずつ縄を切りつけていった。
思っていたよりも、ガラスのナイフは切れ味が悪い。私の頬や額を切ったガラスのほうが、よく切れるように思えてならない。急遽作った物だったので、仕方がないだろうが。
だんだんと具合が悪くなってくる。たぶん、頭の打ち所が悪かったからだろう。腹部も蹴られているので、それも原因のひとつかもしれない。
どうにかして拘束を解き、一刻も早くここから逃げ出したいのに。
体が思うように動かなかった。
「はあ、はあ、はあ……!」
呼吸も上手くできなくなっていた。なんだか酷く息苦しい。
瞼も重たくなってくる。ここで眠ってしまったら、逃走なんて絶対にできない。
一回、縄でなく、手を切りつけた。
縄だとあまり切れないのに、手だとさっくり切れる。おかげで、目が覚めた。
じくじくと痛むが、今は気にしている場合ではない。
あと少し。そう言い聞かせ、縄を切る作業を再開させる。
やっとのことで、手の縄が切れた。あとは足を解いて――と考えていたところに、乱暴に出入り口の扉が開かれた。
どうやら男達が戻ってきたようだ。
「お前、ふざけるなよ!!」
男達がぞろぞろとやってくる。中には杖を持つ、外套の頭巾を深く被った魔法使いらしき者もいた。
私を同行させなかった理由は、仲間に魔法使いがいたからだったのだ。
「霧ヶ丘に魔法で隠された家があるなんて、嘘じゃないか!!」
ずんずんと男が接近し、私の拘束が解けているのに気付く。
「お前、いつの間に!? 見張りはどうした?」
「さあ? 知らない」
振り上げた拳は、私目がけて突き出される。ぎゅっと目を閉じた瞬間、倉庫内に声が響いた。
「待て!!」
男は拳を止め、振り返る。
倉庫の出入り口に立っていたのは、フェンリルを従えたアドルフだった。
私は思わず、叫んでしまった。
「アドルフ!!」
「リオル、待ってろ!!」
男は慌てた様子で、手下達にアドルフを襲うように命令する。
けれども、エルガーがひとりひとり突進し、倒していく。
アドルフにナイフを突きつける者もいたが、逆にナイフを奪われ、形勢逆転となっていた。
私は足を拘束していた縄をガラスのナイフで切る。自由になった足で、チキンを鳥かごの中から救出した。
「おい、お前ら、何をしている!! 例の手段に出るんだ!!」
例の手段とはいったい!?
アドルフが私のもとへとやってきて、腕を伸ばす。
差し出された手を握り返した瞬間、魔法使いがいた方角が強く発光した。
巨大な魔法陣が浮かび上がり、倉庫全体が揺れる。
「あの魔法陣は――!?」
授業で習ったので、よく覚えている。
あの魔法は、召喚術だ。
魔法陣から這い出た存在(もの)は、巨大な泥人形(ゴーレム)だった。
泥人形は一体だけではなかった。二体、三体と召喚される。
大きさは十フィート以上あるだろうか。見上げるほどに大きく、威圧感がある。
召喚術の影響で建物がガタガタと揺れる。天井から砂埃がパラパラと小雨のように落ちてきた。
私を誘拐した男や手下達は逃げていく。魔法使いすらも、泥人形の召喚を終えると、回れ右をして出入り口へ全力疾走だった。
私達も脱出しようと試みるも、泥人形の一体が出入り口に入り込み、硬化してしまった。逃げられないように、あのようなことを命じていたのだろう。
「そんな、酷い……!」
泥人形が雄叫びをあげると、窓のガラスが割れて散ってくる。アドルフは上着を脱いで、私に被せてくれた。
エルガーが泥人形と戦ってくれる。だが、いくら攻撃を与えても相手は泥からできた生き物。崩れてもすぐに再生し、起き上がってくるようだ。
氷属性であるエルガーは、氷のブレスを吐いて凍結状態にさせる。けれども、力で氷の拘束を解いてしまった。
最悪なことに、泥人形の体が分断されると元に戻らず、新たな個体を生みだす。
残り二体となっていた泥人形は、いつの間にか五体にまで増えていた。
戦闘能力は低いものの、生命力は強いので厄介な相手だ。
しかし、どうしてアドルフがここに現れたのだろうか?
燕尾服姿でいる彼は、晩餐会から抜け出してきたみたいに見える。
そんなアドルフが私を振り返り、声をかけてきた。
「リオル、大丈夫そうには、見えないな」
「意外とまだ元気だよ」
「その見た目では信用できない」
アドルフが傷を回復させる魔法薬を手渡してくれた。それを飲むと、体の痛みが引いていく。
「どうしてここに?」
「リオニーに渡した指輪の、魔力反応が変わったからおかしいと思って、ヴァイグブルグ伯爵家を訪問したんだ」
私が誘拐されたのは昨晩。晩餐会中に違和感を覚えたアドルフは、途中退場したらしい。
「ヴァイグブルグ伯爵家に行ったら、ふたりともいないと聞いていたから、驚いて――」
リオルは家にいただろうが、アドルフがいてもでないようにと言っておいたのだ。
その結果、姉と弟、両方ともいないという事態に発展していたのだろう。
婚約指輪の現在地を探ったら、グリンゼル地方と出たらしい。
アドルフは私達姉弟を救助するため、王族からワイバーンを借りて駆けつけてきたようだ。
「ここの建物に指輪と魔力の反応があったから、リオニーが絶対にいると思っていたんだが」
どくん、と胸が大きく鼓動する。
アドルフは婚約指輪を通して私の魔力を察知し、誰かの手に渡ったら反応するような魔法を仕掛けていたようだ。魔法学校の懐中時計に施された、転売防止の魔法と似たようなものだろう。
なんでも盗難や紛失するのを想定し、魔法をかけていたらしい。
「リオニーはここにいないのか?」
アドルフは木箱を開けたり、布で覆われた資材を調べたりと、リオニーを探し始める。
いやここにいる、なんて言葉は喉からでてこなかった。
「ひとまず、ここから脱出することだけを考えよう」
泥人形が木箱を潰し始める。中に入っているのは、液体だ。
「あの臭いは――」
「油だ」
泥人形はその辺に散らばっていた金属のシャベルを手に取り、地面に先端を滑らせる。すると、火花が散った。
油に引火し、あっという間に辺りは火の海となる。
瞬く間に煙が充満する。これを吸ったら大変なことになる。
アドルフと共に、姿勢を低くした。
エルガーが氷のブレスを吐いて消火に努めるも、火の勢いのほうが強い。
私達の魔法を使ったとしても、焼け石に水状態だろう。
「げほっ、げほっ……リオル、エルガーに乗って、先にここから脱出するんだ」
「ど、どうして?」
「窓が高いところにあるから……あそこまで登るのにふたり乗せるのは難しいだろうから。俺はここで……もう少しリオニーを探しておく」
「姉上は、ここにいない」
「どうしてわかるんだ? リオニーの魔力反応も……ここだったんだ。どこかに隠されているはずだ!」
そう言うや否や、アドルフは必死の形相で見つかるはずもない婚約者を探し始める。
私はアドルフの腕を掴んで叫んだ。
「リオニーは僕だ!! ここにいる!!」
「お前……今、なんて」
アドルフが驚きの表情で振り返った瞬間、エルガーの叫びが聞こえた。
『ギャン!!』
熱で溶けた泥人形が、杭のように突き出した状態で硬化したらしい。その先端が、エルガーの足を引っ掻いたようだ。
エルガーは左前足を庇うように、ひょこひょこと動いている。
「エルガー! 大丈夫か!?」
『くううう……』
重傷ではないようだが、とても痛そうだ。
アドルフは悔しそうに呟く。
「このケガでは、脱出はできない」
このままではふたりとも死んでしまう。
誰か、誰か助けて――そう願いを込めた瞬間、手のひらに握っていたチキンが目を覚ます。
『ふわあああ、よく眠っていたちゅりねえ』
周囲は火の海、絶体絶命の状況だというのに、なんとも気の抜けた言葉であった。
「チキン、あなた、大丈夫なの?」
『平気ちゅりよお。っていうか、ここ、熱いちゅりねえ』
「ここから、出たいんだけれど、入り口を塞がれてしまって……」
『だったら、ちゅりが脱出させてあげるちゅりよ』
大口を叩いたのだと思ったが、次の瞬間、チキンの体が強く発光する。
「え、嘘……!」
「これは」
チキンを包み込んだ光はだんだんと大きくなり、最終的に十二フィートほどの大きさになる。
尾びれが美しいこの巨大な鳥は――。
「ケツァルコアトル!? チキン、あなた、ケツァルコアトルだったの?」
『そうちゅりよ~~』
ケツァルコアトルというのは、風の大精霊である。
ただの雀だと思っていたのに、精霊だったなんて。
チキンは首を下げ、跨がるようにと指示する。私はアドルフと視線を合わせ、頷いた。エルガーもチキンの背中にしがみつく。
どろどろに溶けた泥人形が襲いかかったが、チキンが翼を動かして起こした風に吹き飛ばされていた。
チキンは助走もなしに飛び上がり、何やら呪文を唱える。天井付近で魔法陣が浮かび上がり、竜巻が巻き上がった。
その衝撃で屋根が吹き飛んだので、そこから脱出する。
空を飛んでいると、私達を誘拐した男達が乗っているらしい馬車が見えた。
私にはわからないが、チキンは男達の魔力を記憶しているらしい。
『ご主人達とちゅりに酷いことをする奴らは、お仕置きちゅりよ!!』
そう叫ぶやいなや、巨大な竜巻が発生する。
竜巻は馬車の車体だけを呑み込み、中に乗っていた男達をぐるぐる振り回していく。
「うわあああああ!」
「なんじゃこりゃあああ!」
「た、助けてーーー!!」
男達の絶叫が、当たりに響き渡る。
「チキン、あの、殺さないでね?」
『ご主人は優しい人ちゅりね』
ほどほどのタイミングで、男達は竜巻から解放される。
外には騎士隊が駆けつけており、男達は彼らがいた周囲に落とされたようだ。私達も着地する。
チキンの体から下りると、膝から頽(くずおれ)れてしまった。
「リオル!! いや、リオニーか?」
私を支えるアドルフの表情は、複雑そのものであった。