魔法学校に通うワケアリ男装令嬢、ライバルから求婚される「あなたとの結婚なんてお断りです!」

 私、リオニー・フォン・ヴァイグブルグが生まれて十九年、今日という日がもっとも最悪だと言えるだろう。
 なぜかと言えば、人生最大のライバルにして、犬猿の仲である男アドルフ・フォン・ロンリンギアとの婚約が決まった日だから。

 現在、私は弟の代わりに男装して魔法学校に通っているという極めて特殊な状況に身を置いている。そんな中、アドルフは私が扮する弟リオルを激しく毛嫌いしているのだ。

 そんな相手の姉との結婚を、なぜ承諾したのか?
 彼は国内で四大貴族と呼ばれるロンリンギア公爵家の嫡男で、次期当主でもあるのだ。
 一方で、私はヴァイグブルグ伯爵家の出身で、家格はそこまで高くない。歴史だけは無駄にあるが、祖父の賭博癖のせいで財産はほぼないという一時期は没落しかけた家だったというのに……。
 アドルフには大勢の婚約者候補がいて、隣国の王女からも熱い手紙を受け取った、なんて噂も流れていたくらいだ。
 わからない。彼が考えていることが、まったくわからなかった。

 頭を抱えているところに、アドルフがやってくる。いったいどんな顔で私の前に現れるというのか。
 きっと私の顔を見るなり、「お前を愛するつもりはない」などと宣言するに違いない。
 そう思っていたのに、アドルフは想定外の行動にでる。

 アドルフ・フォン・ロンリンギア――大鴉(レイヴン)みたいな艶やかな黒い髪に、海のように青い瞳を持つ、認めたくないけれど美しい男。
 そんな彼がフリージアの花束を抱え、私の前に現れたのだった。

「リオニー嬢、はじめまして」

 あろうことかアドルフは淡く微笑み、花束を差し出してきた。
 まるで貴公子のようである。

 ――え、誰?

 魔法学校で彼が見せた、憎たらしい微笑みとはまったく異なる。
 甘い顔をして近づき、何か計画を遂行するつもりなのだろうか。
 目的がわからず、混乱状態となる。

「卒業後、父から儀礼称号(カートシー・タイトル)を授かるようになっている。結婚はそのタイミングがいいだろう」
「!?」

 アドルフとの結婚という現実を突きつけられ、全身に鳥肌が立つ。
 傲慢で、我が儘で、自分勝手――そんな男との結婚なんて我慢できない。
 きっと、結婚したらいじめ倒すに違いないだろう。
 どうにかして、この結婚は破談にしないといけない。でないと、私の夢も叶わないだろうから。

 と、その前に、なぜ私を婚約者に決めたのか尋ねてみる。

「あの、アドルフ様」
「アドルフでいい」
「えっと……アドルフ。あなた様は引く手あまたな男性かと思っているのですが、なぜわたくしを婚約者に選んだのでしょうか?」
「それは――」 

 質問を投げかけた瞬間、みるみるうちに顔が赤くなっていく。顔を逸らしたので、耳まで真っ赤なことに気づいてしまった。
 反応を目にした瞬間、すべてを理解する。
 アドルフにはきっと、好きな女性がいるのだ。間違いないだろう。
 彼は週末になると赤い薔薇を注文し、丁寧に認めた手紙と共に誰かに贈っていた、という噂話を耳にしたことがある。
 ずっと謎だったが、彼には長い間想いを寄せる相手がいたのだ。
 その女性は結婚できるような相手ではないので、愛人として迎えようと考えていたのかもしれない。
 そして結婚相手には、愛人がいても文句が言えないような格下の家系の娘を娶ろうと決めたのだ。

 すべて合致がいった。
 彼の思い通りにはさせない。この結婚は、絶対に破談にしてやる。
 そう強く心に誓ったのだった。 

 そもそもなぜ、弟の代わりに男装までして魔法学校に通っているのか。それについては、弟と私の〝利害の一致〟について話さないといけない。

 かつてのヴァイグブルグ伯爵家はそこそこ裕福な家で、それなりに豊かな暮らしをしていたらしい。
 それがひっくり返ったのは祖父の代である。賭博で財産を使い果たしただけでなく、借金までこしらえたのだ。
 次代の当主となった父は、見かけるたびに苦悶の表情でいた。
 ヴァイグブルグ伯爵家は古い魔法使いの家系だったが、祖父は大事な一子相伝の特異魔法でさえ、賭けで失っている。
 そのため、国家魔法師である父は王宮で肩身が狭い思いをしていたらしい。
 爵位とともに借金の返済義務を請け負った父は、それはそれは苦労した。没落寸前のヴァイグブルグ伯爵家の当主である父の婚約者になりたい女性なんか見つかるわけもなく、ようやく結婚できたのは四十を超えてからだった。
 若くして亡くなった母は、慈善活動を行うのが趣味だった。父と結婚したのも慈善活動の一環だったのかもしれない。なんて話を父は話していた。
 そんな父や私たちの状況がひっくり返る。引きこもりで魔法にしか興味がない弟リオルが、独自の魔法を開発し、特許を取ったのだ。
 父が二十年もの間返しきれなかった借金をたった一ヶ月で返済し、我が家はみるみるうちに裕福な家となる。失った特異魔法も取り返したのだ。
 その偉業を、リオルは十三歳の若さでやってのけた。
 リオルは私よりひとつ年下だったが、間違いなく天才である。幼少期は同じように魔法を習っていたのに、理解の早さがまるで違っていた。
 
 弟は魔法の研究以外のことにはまったく興味がないようで、特許の名義も父になっている。入ってくる特許料も、魔法書や研究素材に使う以外は消費しない。そのため、ヴァイグブルグ伯爵家の財政は潤っていった。

 父は私が結婚できるのか心配だったようだが、弟のおかげで持参金ができたと喜んでいた。
 社交界デビューを迎えた私だったが、なんと、誰も結婚を申し込んでこなかったわけである。父も数名結婚の打診をしたようだが、すべてお断り。
 なんでも急に財産を築いたので、成金貴族の仲間入りを果たしていたらしい。
 派手な生活はいっさいしていなかったのだが。
 それでも私は気にしていなかった。かつての大叔母もそうだったから。
 大叔母は賭博で借金を作った祖父のせいで、婚約破棄されたのだ。それ以降、彼女は結婚に執着せず、魔法の研究に没頭。
 彼女が作りだした魔法は〝輝跡(きせき)の魔法〟と呼ばれており、見る者を楽しませる光や火花などを作り出すものだった。
 輝跡の魔法によって作り出された花火や流れ星は、舞台の演出やパーティーなどで今も愛されている。
 美しい魔法を操る大叔母は、私にとって憧れだったのだ。
 社交界デビューの晩も、居場所がなくて庭をうろつこうとしていたら、誰かが輝跡の魔法の一種である〝星降り〟をバルコニーから降らせていた。とても美しい魔法だったのだ。
 そのおかげで、社交界デビューの思い出は悪いものではなかった。
 輝跡の魔法は、人々を幸せにしてくれる。いつか私も大叔母のように、美しい魔法を作りたい。そのためには、魔法をもっともっと学びたかった。
 けれども、女性貴族が通う魔法学校はないのである。
 その理由は、貴族女性の結婚適齢期が十六から十九歳までで、学校なんかに通っている暇なんてないから。
 なんとも腹立たしい気持ちになるものの、古くからの習慣なので、意見するなんて許されるわけがない。

 そんな事情があり、魔法学校に通うのは弟リオルだけである。
 羨ましいを通り越して妬ましい。そんな思いを抱く中、リオルが信じがたい発言をする。

「魔法学校? そんな子ども騙しの場所になんて行きたくないんだけれど」
「な、何をおっしゃっていますの!?」
「魔法学校なんて行きたくないって言っているの」

 当然、私は怒った。
 王都にある〝アダマント魔法学校〟は魔法の知識だけでなく、貴顕(きけん)紳士を育成する場だ。
 全寮制で、すべての生徒は親元を離れ、独立した生活を経験する。
 そんな歴史ある魔法学校には、すべての子どもが入学できるわけではない。
 まず、出生届と共に入学を希望し、選別が行われる。
 今は親が魔法学校を卒業した者でないと許可が下りないのだ。
 つまり、リオルが魔法学校の入学を拒否したら、次代のヴァイグブルグ伯爵家の子どもはアダマント魔法学校に通えない。
 父もリオルを説得したが、聞く耳なんて持たなかった。

「わたくしは魔法学校なんて、男装してでも通いたいのに!」
「そうすればいいじゃん」

 リオルの返しに、目が点となる。

「僕は魔法学校に通いたくない。でも、姉上は魔法学校に通いたい。だったら姉上が僕に変装して魔法学校に通えばいい。見事な利害の一致じゃないか」
「で、でも、そんなことが許されるわけがありませんわ」

 ちらりと父親の顔を見る。腕を組み、眉間に皺を寄せていた。
 きっと大反対するだろう。そう思っていたが――。

「リオルがそう言うのならば、致し方ない。リオニー、お前が魔法学校に通うんだ」

 まさかの許可が出たわけである。
 ヴァイグブルグ伯爵家が抱える借金を返済し、財を築いたリオルの意見を、父は無視できないというわけである。
 そんなわけで、私は晴れて魔法学校に通えることとなった。

 ただ、男装がバレたら一大事である。当時の私は十七歳となり、少年と誤魔化すのはいささか無理があった。
 体には凹凸があり、声変わりもしない。魔法学校の制服をただ着ただけでは、女にしか見えないのだ。
 どうしようかと悩む私に、リオルがある魔法薬のレシピを教えてくれた。
 それは、声変わりの飴玉。
 材料は〝カエルの声帯〟に、〝魔石砂糖〟のふたつ。どちらも魔法学校の売店で販売している、手に入りやすい材料だ。
 この声変わりの飴玉を舐めると、八時間ほど声が男性のものに変化するらしい。
 リオルの指導で、私は声変わりの飴玉の作り方を習得する。
 男装については、魔法での解決は今の私では難しいと言われてしまった。
 なんでも姿形を偽る魔法は、高い技術とたくさんの魔力を必要とするらしい。国家魔法師である父ですら、できないようだ。

「姉上は上背があるから、体の補正で男に見えるかもしれないよ」
「たしかに」

 私の身長はリオルよりも高く、五フィート八インチ(百七十センチ)あった。
 社交界デビューのときは、背が高すぎるなんて陰口を叩かれていたけれど、男装時はそれが役に立つ。

 ただ、胸に布を巻いてみたものの、苦しくて勉強どころではない。
 続けていたら慣れるかと思ったが、そんなことはなかった。
 無理した結果、倒れてしまう。医者から胸に布を巻く行為は禁じられてしまった。
 どうすればいいものか……。
 思い詰めている様子だった私を、事情を知るふたつ年上の従姉、ルミが連れ出してくれた。

「魔法学校に通うようになったら、外出もままならないのでしょう? リオニーさん、今日はお出かけしましょう」
「え、ええ」

 ルミと共に向かった先は、貴族令嬢の間で流行っている、女性のみが所属する劇団の舞台。
 そこでは男性にしか見えない劇団員が、活き活きと演技していた。苦しそうな様子は一切なかったのだ。
 これだ! と思い、後日、女性だけの劇団員を招き、男装時の服の着こなしを習った。
 彼女らは独自で開発した補整下着を使っていて、それを譲ってくれた。
 引き換えに、私は声変わりの飴玉を提供したわけである。
 ちなみに使い方は私とは真逆だ。男性の声に近づくようにお酒を飲んだり、煙草を吸ったりして女性の高い声がでにくい人たちが、たまには可愛らしく歌いたいという、なんとも乙女チックな使い方だったのだ。

 そんなわけで、入学前に男装を習得した。ルミも大絶賛の、完璧な男装が完成したのである。
 頑張ったのはそれだけではない。
 入学前に行われる試験も重要であった。
 なんと、上位三名には個室が与えられるのである。
 男装する以上、絶対に個室がほしい。見知らぬ男子生徒との同室なんてごめんだ。
 そう思い、必死になって勉強したのである。
 寝る間を惜しみ、時にはリオルに指導を頼みつつ、私は試験に挑んだ。
 結果――私は首席だったのだ。
 父も試験結果には大変満足したようで、これから先も首位をキープするようにと言っていた。
 入学式の日、紅葉の並木道を歩く私を、誰も見咎めたりはしなかった。私を女だと、認識していなかったのだ。
 私は意気揚々と全生徒の前に立ち、新入生の代表挨拶を読み切る。
 そんな私に、親の敵を見るような猛烈な視線を向ける者がいたのだ。 

 艶のある黒髪に、生意気そうな色合いが滲む青の瞳を持つ男子生徒――アドルフ・フォン・ロンリンギアである。
 まさか私が女だとばれたのではないのか、と不安になったが、それは杞憂だった。
 隣に座っていた男子生徒が、こっそり教えてくれた。
 なんでも彼は首席を取るつもりで試験に挑んだようだが、まさかの次席だったのだ。
 それが悔しくて睨んでいたのだろう。
 入学式が終わったあと、彼は取り巻きを大勢引き連れながら物申しにやってくる。

「おい、お前!」
「何?」

 いつも弟がしているみたいに、気だるげな感じで言葉を返す。
 その態度がよくなかったのか、彼の瞳は一気につり上がった。

「首席になったからといって、調子に乗るんじゃないぞ」
「は?」
「そのうち、足を掬ってやるからな」

 堂々たる態度で宣言し、アドルフは取り巻きを引き連れて去っていく。
 これが彼との出会いだが、このときの私は負け犬の遠吠えとしか思っていなかった。

 ◇◇◇

 婚約者として私の前に現れたアドルフは、ごくごく普通の紳士だった。
 もしかしたら取り巻きと一緒に現れて、|嫁ぎ(いき)遅れがいると笑いにくると思っていたのに。
 本当に私と結婚するつもりのようだ。それも、愛する女性と共に生きるためなのだろうが。
 自分ひとりでは抱えきれないので、ルミを呼んで話を聞いてもらう。
 さすがのルミも、驚いている様子だった。

「愛人のために結婚って、ロンリンギア公爵家のご子息はそんな酷いことをなさるお方なの?」

 私は深々と頷く。そして、これまで誰にも言っていなかったアドルフとの因縁について語り始めた。
 それは、魔法学校の入学式にまで遡る。  
 
 ◇◇◇

 アダマント魔法学校はひと学年九十名しか入学できない狭き門である。
 寮は家柄によって分けられており、同じような生活基準の者達が集まって暮らしている。
 貴族や地主を親に持つ、アッパークラス出身の者たちが集められるのは〝アロガンツ寮〟。
 聖職者や法律家、軍の士官、商人などを親に持つ、アッパーミドルクラス出身の者たちが集められるのは〝ギーア寮〟。
 労働者階級の者たちを親に持つ、ロウワーミドルクラス出身の者たちが集められた〝トレークハイト寮〟。
 以上、みっつに別れているのだ。
 なんでも以前までは全部で七つの寮があったようだが、魔法使いの人口減少と共に減っていったらしい。

 クラスは家柄、成績に関係なく構成される。
 そのため、同じクラスに成績優秀者である特待生(スカラー)、親が学費を支払う自費生(コモナー)と、学校側が学費を支援する奨学生(バーサリー)が並んで魔法を学ぶのだ。

 私は親が貴族のため、寮はアロガンツ。学費も問題なく支払ったようで自費生だが、成績優秀者として特待生となった。
 特待生は特別なガウンが贈られ、制服の上からの着用が許されている。その特待生は学年でふたりだけ。
 ガウンが着られるというのは魔法学校の生徒にとって、大変な名誉だと聞いていた。

 首席なので、個室が与えられた。
 部屋は三階で、魔石昇降機はない古い建物だ。そのため、階段を使って駆け上がらないといけない。入学までに体力作りをしていたものの、三階に上がりきったときには息が乱れる。
 けれども部屋は角部屋で、窓は二カ所あった。そこから覗く魔法学校の景色は悪くない。
 敷地内は重厚な煉瓦の塀に囲まれており、堂々とした錬鉄(れんてつ)の門が生徒たちを迎える。魔法を学ぶ校舎は礼拝堂のような造りで、美しく厳かな雰囲気をかもしだしていた。
 芝生があおあおと茂った校庭に、生徒会を初めとする生徒の活動が行われるクラブハウス、立派な図書館などなど、魔法学校自慢の施設が並んでいる。
 中でも目を奪われるのは、半円状の水晶温室である。本物の水晶のような輝きを放ち、中では授業で使う薬草が育てられているのだ。
 うっとり見とれていると、隣の部屋からガタゴトと物音が聞こえた。
 一年間、生活を共にする生徒である。挨拶をするようにと、魔法学校の卒業生である父が話していた。
 さっそく、挨拶に向かう。
 扉を叩くと、「誰だ!」と偉そうな返事があった。隣の部屋の者だと答えると、扉がそっと開かれた。
 顔を覗かせたのは、アドルフ・フォン・ロンリンギア。
 同時にハッと驚くような反応をしてしまった。息を合わせるつもりはなかったのだが……。
 まさか、部屋割は成績順なのだろうか。ついていない。
 ずっと見つめ合っているわけにもいかないので、「一年間よろしく」とだけ言っておく。
 アドルフは私をジロリと睨むばかりであった。
 
「お前、姉がいるのか?」

 突然私について聞かれ、胸が飛び出そうなくらい驚く。

「いるけれど、なんで?」
「結婚は?」
「していないけれど」
「婚約者は?」
「いない」

 そう答えた瞬間、アドルフは嘲り笑った。

「なんだ、嫁ぎ遅れか」

 私はまだ十七歳で、結婚適齢期である。もしかしたら、父が結婚話を持ってくる可能性だってあるのに。
 アドルフは一日に二回も、私の神経を逆なでてくれたのだった。

 ◇◇◇

 入学式の翌日は、クラス発表があった。寮の部屋に伝書鳩が振り分けが書かれた手紙を運んできてくれたのだ。
クラスは一学年の二組。クラスメイトと仲良くできるのか、ドキドキしながら身なりを整える。
 顔を洗い、歯を磨く。購買部で購入した洗髪剤は髪質に合わなかったからか、少し髪がごわついた。家で使っているものを送るように、メイドに手紙を書かなければならない。
 ボサボサの髪を梳り、ベルベットのリボンでひとつに纏める。
 寝間着を脱いで下着の上から補正下着を着用し、肌着を重ねる。その上にシャツを着込み、ズボンを穿いた。
 このズボンも最初は慣れなかったが、今ではドレスよりも楽だと思うくらいである。首に巻くタイは窮屈だが、腰回りを絞めるコルセットよりはマシだろう。
 ちなみにタイは寮ごとに異なり、アロガンツ寮は赤をベースにした縞模様が特徴である。
 ギーア寮は青、トレークハイト寮は黄色と、制服姿でもタイのカラーで寮が解るようになっているのだ。
 これは学校内で怪我をしたときや、トラブルに巻き込まれたさいに、周囲にいる者が対処できるような目印となるらしい。
 若い生徒というのは想定外の行動をしがちだという。そのため、寮ごとに管理したほうが色々と便利なのだろう。
 シャツの上にウエストコートを合わせ、ジャケットを着る。姿見で全身を確認したが、問題なかった。
 食堂は寮の一階にあり、三十人は座れそうな巨大なテーブルがいくつも鎮座している。
 用意されている料理を好きな量だけ取り分けて、それぞれ食べる形式だと聞いていた。
 料理は実家で食べていたものとそう変わらない。
 オートミールに魚の燻製、ソーセージにチーズ。飲み物はミルクのみ。朝食は基本的に火を使わないものが出される。
 食べられるだけの量を確保していたのだが、周囲の男子生徒は皿にチーズやソーセージを山盛りにしていた。育ち盛りなので、これくらいが普通なのだろう。

 食事に近い席を上級生が使い、食事に遠い席を下級生が使う。
 どの席に座ろうか迷っていたら、食堂の前方で腕組みしていた上級生が声をかけてくる。

「君、席はえり好みしていないで、空いている場所に座りたまえ」

 髪をオールバックにした、眼鏡をかけた上級生は腕章を付けていた。彼は各寮にひとりだけ配置される監督生(プリーフェクト)である。名前はたしか、エルンスト・フォン・マイと言っていたか。
 監督生は下級生を監督、指導する立場で、皆が集まる場でこうして周囲に厳しい目を配っているのだ。
 以前までは〝寮長〟という肩書きもあったようだが、生徒の減少とともになくなったらしい。
 そんな事情もあり、寮の頂点に立つのは監督生というわけだ。
 この監督生に目を付けられたら厄介である。すぐに返事をして、従順な態度を示しておく。

 近くの空いている席に座ろうとしたら、昨日入学式で話しかけてくれた男子生徒が手を振りながら声をかけてくれた。

「おい、首席、こっちの席に来いよ」

 赤い髪に垂れた目が特徴的だったので、しっかり顔を覚えていたのだ。

「首席じゃなくて、リオルだよ。リオル・フォン・ヴァイグブルグ」
「リオルか。俺はランハート。ランハート・フォン・レイダー。よろしく」

 レイダー家と言えば、魔法騎士を多く輩出している名家だ。仲良くしていて損はない相手である。
 ランハートと握手を交わしたところで、大勢の取り巻きを引きつれたアドルフがやってきた。
 特待生のガウンを、これでもかと見せつけるように翻している。

「まるで王様のパレードだな」

 ランハートの言葉に、深々と頷いてしまった。
 アドルフは堂々たる態度で取り巻きの先頭を歩いていたのだが、途中で監督生から三名以上の集団行動はしないようにと注意されていた。
 取り巻きの気まずげな表情がなんとも言えない。
 こっそり笑っていたつもりだったが、アドルフと目が合ってしまう。またしても親の敵のような視線を浴びてしまった。

 朝食を食べたあとは、魔法書を片手に校舎へ向かう。廊下を歩いていたら、ランハートが肩を組んできた。
 体当たりするような勢いだったため、驚いてしまう。
 そういえば父も、知り合いとこういう触れ合いをしていたような。女性社会にはない、一種のスキンシップなのだろう。

「おい、リオル、お前、どの組だ?」
「僕は二組だよ」 
「やった! 一緒じゃん」

 顔見知りがいるので、ひとまずホッと胸をなで下ろす。
 一限目は魔法生物学だ。最初の授業では使い魔を召喚するらしい。
 使い魔というのは、魔法師の手足となって薬草採取をしたり、背中に跨がって移動したりする、妖精や精霊、幻獣である。
 授業で召喚した使い魔は、魔法学校を卒業するまでの付き合いとなるのだ。希望すれば、その先も契約を交わすことができるらしい。
 どの使い魔が召喚されるかは、完全にランダムである。運が重要というわけだ。
 使い魔の召喚は魔法学校に入学が決まってから、一番楽しみにしていた授業である。
 うきうき気分で教室に向かった。
 朝届いたクラス分けの手紙には、席順も書かれてあった。指定された端の席に座る。
 ランハートは少し離れた席だった。前は黄色いタイを結んだ小柄な男子生徒。後ろは青いタイを結んだ神経質そうな細身の生徒だった。 
 隣はいったい誰なのか。ソワソワしているところに、アドルフが入ってきた。
 ザワザワと騒がしかった教室が、一瞬にして静まり返る。
 四大貴族の生まれである彼は、有名人なのだろう。
 ズンズンと大股で教室を闊歩し、あろうことか私の隣に腰を下ろした。
 最悪だ。部屋も隣で頭を抱えていたのに、同じクラスで席も隣だとは。
 アドルフは一切私のほうを見ようとせず、ぶすっとした表情でいた。
 きっと、朝から監督生に注意された件に腹を立てているのだろう。

 それにしても、彼と同じクラスだなんてついていない。普通は首席と次席は別のクラスに振り分けるだろうに。教師陣がいったい何を考えているのか謎だった。

 ランハートがこちらを見つつ、大丈夫かと口をパクパクさせている。気にするなと手を振って示しておいた。
 そうこうしているうちに、授業が始まる。魔法生物科の教師がやってきた。
 黒く長い魔法衣(ローブ)を纏い、白い髭が特徴的なお爺さん先生である。

「ええ、新入生のみなさん、おはようございます。私は魔法生物科の教師、ザシャ・ローターです」

 さっそく、授業へと移る。
 全員に魔法巻物(スクロール)が配られた。中には魔法陣が描かれている。

「えー、魔法生物を召喚するので、机を教室の端に除けてください」

 なんでも、大型の使い魔が召喚されることがあるらしい。そのため、魔法はひとりひとり教室の中心で試すという。

 方法は簡単だ。魔法巻物の魔法陣に、体液を一滴落とすだけでいいという。

「血液、涙、唾液など、体液ならばなんでも構いません」

 ザワザワと周囲が騒がしくなる。皆、どうしようか話し合っているらしい。
 アドルフも取り巻きと一緒に言葉を交わしている。
 私もどうしようかと考えていたら、ランハートが声をかけてきた。

「なあ、リオル、お前はどうするんだ?」
「涙は無理だし、唾液はなんか汚いから、血液かな」
「ヒュー! お前、勇気あるな」

 勇気があるというか、消去法である。

「誰から挑戦しますか?」

 手を挙げようとしたその瞬間には、ひとりの生徒が挙手していた。
 アドルフである。

「では、えー、ロンリンギア君、挑戦してみなさい」

 消毒液に浸かっていた魔法のナイフが差し出される。アドルフは無表情で受け取り、教室の中心に立った。
 そして、なんの躊躇もなく手のひらを傷付け、血を魔法巻物に滴らせたのだ。

「ああ、そんなに切りつけなくても――」

 ローター先生がそう言いかけた瞬間、アドルフの魔法巻物は眩い光りに包まれていった。
 あまりの眩さに目を閉じる。
 いったい何が召喚されたのだろうか。
 光が収まり、ローター先生が「目を開けても大丈夫です」と口にした。
 そっと瞼を開く。
 教室の中心には、白くて大きな狼の姿があった。

「あれは――フェンリル!?」

 私の呟きを聞いたローター先生が「そうです」と答える。
 フェンリルは極めて稀少な、気高き幻獣だ。現代では目撃されず、おとぎ話にのみ登場する存在として伝えられていたのだが……。
 ローター先生も驚いているようだった。一方で、アドルフはそこまで動じているようには見えない。

「ロンリンギア君、契約の命名を」

 アドルフは頷き、フェンリルを指差しながら名付ける。

「我が名はアドルフ・フォン・ロンリンギア。そして汝の名は、〝エルガー〟」

 フェンリルは姿勢を低くし、『ワン!』と低い声で鳴いた。
 契約は受け入れられたようで、白く輝く魔法陣が浮かび上がり、パチンと音を立てて弾けた。

「ロンリンギア君、お見事です」

 そう言いながら、ローター先生はアドルフの傷付けた手に回復魔法を施す。 

 元の位置に戻ると、取り巻きたちがワッと沸いた。他のクラスメイトもアドルフの周囲を取り囲み、さすがロンリンギア公爵家の嫡男だと誰もが口にする。
 それを聞いたアドルフは、ちっとも嬉しそうではなかった。
 未来の公爵さまともなれば、うんざりするくらい褒められながら育ってきたので、慣れっこなのかもしれない。

 ここで、ランハートが思いがけないことを耳打ちする。

「なあ、あれ、仕込みだぜ」
「仕込みってどういうこと?」
「あらかじめフェンリルが召喚される魔法巻物を、公爵家が用意したんだ」
「どうしてそんなことができるの?」
「ロンリンギア公爵家が、魔法学校にたっぷり寄付したんだ。その結果だよ」

 なんでも首席ではなく次席だったことに危機感を覚えたロンリンギア公爵家が、息子であるアドルフを活躍させるために仕込んだものだという。
 ローター先生は驚いていたようだが、あれも演技なのか。
 アドルフは喜んでいなかったので、もしかしたら知っていたのかもしれない。

「次は誰がしますか?」

 誰も挙手しようとしない。フェンリルという高位の使い魔が召喚されたあとでは、誰だって見劣りする。そのため、二の足を踏んでいるのだろう。
 私は別に気にしないので、名乗りでた。

「では、ヴァイグブルグ君、注意して挑戦しなさい」
「はい」

 教室の中心に立ち、魔法のナイフを手に取る。
 指先をほんのちょっとだけ傷付け、魔法巻物の魔法陣に血をなすりつけた。
 魔法陣が眩いくらいに輝く。
 その輝きはアドルフがフェンリルを召喚したときよりも強い光だった。
 もしかしたら、彼よりもすごい使い魔を喚(よ)べるかもしれない。
 孤高の幻獣グリフォンとか。それとも、火山の蜥蜴(とかげ)サラマンダーとか。
 いやいや、使い魔最強と名高いドラゴンかもしれない。
 胸を高鳴らせながら、使い魔の登場を待つ。
 光が収まると、目の前に小さな真っ黒い鳥が飛び込んできた。

『ちゅり!』
「ちゅり?」

 それは拳大ほどの黒雀(くろすずめ)であった。

『召喚いただき、ありがとうちゅり!』
「……」
『よろしくおねがいしまちゅり!』
 
 私が三年間使い魔として契約するのは、お喋りな黒雀……。
 シーンと静まり返っていたものの、アドルフの取り巻きのひとりが「ぷっ!」と噴き出した。それをきっかけに、クラスメイトは皆、大笑いし始める。

「なんだよ、あれ! 雀の使い魔とか、聞いたことねえぞ!」
「前代未聞だな」
「笑わせてくれるぜ!」

 口々に指摘するものだから、さすがの私も恥ずかしくなる。
 ローター先生は静かにするようにと声をかけ、私に使い魔の命名をするように指示した。
 黒雀は名付けが始まると知り、ドキドキするような視線を向けてくる。

『ドキドキするちゅり!』
「……」

 黒雀を指さし、命名した。

「我が名は――」

 ここで弟の名を言うのは契約に反する。そのため、黒雀を捕まえて傍に寄せると、小声で「リオニー・フォン・ヴァイグブルグ」と名乗った。
 弟と私の名前はそっくりなので、まあ、周囲の人に聞こえていたとしても、聞き違いだと思われるだろう。
 続けて、黒雀に名を授ける。

「そして汝の名は、〝チキン〟!」
『チ、チキン!!』

 ここでも、大爆笑が巻き起こる。「鶏肉じゃねえか!」なんて指摘(つっこみ)も聞こえる中、黒雀改めチキンは、翼を頬に当てて嬉しそうにしていた。

『チキン……! チキン……! なんて崇高(すうこう)な響きちゅり!』

 思いがけず、お気に召してもらえたようだ。まあ、なんというか何よりである。

『ふつつか者ですが、どうぞよろしくおねがいしまちゅり!』

 白く輝く魔法陣が浮かび上がり、パチンと弾けた。
 契約は受け入れられたわけである。

 その後、私の黒雀召喚でハードルが下がったのか、クラスメイトは次々と使い魔を召喚する。
 彼らは私を大笑いしたが、召喚したのは蛙(かえる)だったり、蛇(へび)だったりと、黒雀とレベルはそう変わらない。

 結局、高位の幻獣を召喚したのはアドルフだけだった。
 放課後に今日の授業の成績が張り出されるらしいが、間違いなくアドルフが一位だろう。

 その日は一日、魔法の基礎的な座学ばかりだった。どれも家庭教師に習ったものばかりだったが、こうして授業を受けられるだけで幸せだ。
 隣に座るアドルフは、思いのほか真剣に授業を受けている。意外だと思った。

 放課後――掲示板に魔法生物学の成績が張り出された。三クラス、九十名の生徒全員の順位が張り出されていたわけである。
 一位は、アドルフだった。取り巻きらしき一団が大盛り上がりしていた。
 当の本人であるアドルフの姿はない。
 いったいどこにいったのか、なんて考えていると、ランハートが肩をぽん! と叩いてきた。

「リオルすげえじゃん。二位だってよ」
「うん」
「お前の黒雀、意外と評価高かったんだな」
「みたいだね」

 クラスメイトが召喚した使い魔のほとんどが、毛虫や蟻(あり)などの小さな虫だった。
 そんな中で見たら、黒雀は優秀なほうなのだろう。
 ちなみにランハートが召喚したのは蛙である。ポケットに入れて愛でているようだ。
 
「リオル、放課後はどうする? クラブの見学に行かないか?」
「いや、今日は購買部で買い物をしたくて」
「そっか。わかった」

 一緒についてくる、と言ったらどうしようかと思ったが、ランハートは手を振りつつ去っていった。これが貴族令嬢だったら、絶対に同行を申し出るだろう。男女の付き合いの違いなのか。それともランハートがさっぱりした気質なのか。その辺はよくわからない。
 購買部では声変わりの飴玉を作る材料を買いに行く。
 入学前にたくさん作っていたのだが、購買部で売っている素材で作れるか試したいのだ。

 放課後、生徒のほとんどはクラブ活動を行っている。
 もっとも人気なのは魔法騎士クラブだ。従騎士としての活動を行い、希望を出せば卒業後は魔法騎士になれる。
 魔法騎士に憧れる者は多く、卒業後は多くの生徒を輩出していると聞いた。
 窓を覗くと校庭で魔石馬に跨がり、杖を手に駆けている様子が見えた。
 魔石馬というのは、人工ユニコーンと言えばいいのか。額に水晶みたいな角が突き出し、強い魔法耐性を持つ馬である。
 魔法騎士の家系であるランハートはきっと、あのクラブに入部するのだろう。

 太陽が傾き、あかね色の日差しが差し込んでくる。廊下に窓枠の模様を描いていた。
 コツコツと前方から歩いてくる足音が聞こえ、視線を向ける。
 やってきたのはアドルフだった。
 そのまま無視して通り過ぎようと思ったのに、アドルフはなぜかズンズンと私のほうへやってくる。
 いったいなんの用なのか。思わず身構えてしまった。

「教師も、生徒も、……も、皆が皆、馬鹿共ばかりだ」
 
 なぜ、悪態を聞かされなければならないのか。
 魔法生物学の成績は一位だったのに、ずいぶんとご機嫌斜めである。

「お前、魔法生物学の順位を見たか?」
「見たけれど」
「どう思った?」
「別に。思ったよりも良かったな、としか」

 そう口にした瞬間、アドルフは舌打ちする。

「お前も大馬鹿だったのか」
「は!?」

 二位を取っているのに大馬鹿呼ばわりとはどういうつもりなのか。
 もしかしたら、自分よりも下位に位置する者は全員馬鹿なのかもしれない。

「お前が一位だったはずだ。それに気づいていないとはな」
「いや、でも……」

 フェンリルよりも黒雀が勝っているなんてありえないだろう。

「俺のフェンリルは実家の仕込みだ」

 やはり、アドルフは知っていたようだ。なんというか、こういうことをされるのは本人としても悔しいだろう。

「教師に訴えたが、聞き入れてもらえなかった」
「そう」

 アドルフは眉間に皺を寄せ、苦悶の表情でいた。
 なんというか、良家に生まれた子にも悩みはあるのだろう。

「でもまあ、フェンリルを喚べたとしても、契約するかはフェンリル次第だから。契約できた実績は、あなたの本当の実力だと思う」

 これ以上悪態を吐かせないため、私は彼の前から去る。どんな表情をしていたかは、わからなかった。

 この日から、アドルフとの熾烈(しれつ)な成績争いが始まったというわけである。
 幼少期から弟リオルばかり優秀だと思っていた。けれども魔法学校に通い始めて、私もリオルには敵わないものの、けっこう優秀であるということに気づく。
 リオルに理解できる魔法をできなかったり、私が読めない魔法書がリオルには読めたりと、自尊心が傷つくときもあった。けれどもそれはリオルが飛び抜けた天才だったというだけで、魔法学校で丁寧に習うと、どれもできるようになる。
 魔法学校に通ってよかったと思うのはそれだけではない。
 親元を離れて暮らす寮生活は思いのほか楽しく、卒業後は家を出て家庭教師でもしながら暮らすのもいいなと思ったくらいである。

 男同士の付き合いも、どこかカラッとしていて面白い。
 入学式で出会ったランハートは、今や大親友である。

 魔法について勉強する量も、実家にいた頃よりずっと増えた。
 というのも、アドルフというライバルがいたからだ。
 私とアドルフの成績は五分五分だった。入学式のときに首位が取れたのは、本当に運がよかったのかもしれない。
 二回目の試験で二位となってしまった私は、アドルフからこう言われたのだ。

「お前、勉強してなかったのか?」

 そんなわけない。試験前は部屋に引きこもり、夜遅くまで勉強していた。
 精一杯の実力を出したのにもかかわらず、二位だったのだ。
 アドルフが私を見つつ、嘲り笑いながら「次は頑張れ」と声をかけてきた瞬間、私の闘争心に火が点いた。
 それからというもの、私はクラブ活動に参加せず、勉強に励んだのだった。
 と、勉強漬けだった一学年目の思い出をルミに語って聞かせる。

「リオニーからのお手紙には、いつも楽しそうに過ごしているとあったので、まさかロンリンギア公爵家のご子息と、そんなことがあっていたとはまったく思いもしませんでした」
「本当に、いい迷惑でした」
「もしかして、ロンリンギア公爵家のご子息に、いじめられていたのですか?」
「いいえ、あのお方は自分で手を下しませんでした」

 アドルフの取り巻きには、本人がいない場面で絡まれた。無視していたら、手を出してくる日もあったのだ。
 それに関しては、使い魔のチキンが活躍してくれた。
 私の手の甲に止まっていたチキンの嘴の下を、指先でそっと撫でる。すると、気持ちいいのか目を細めていた。

「このチキンが、取り巻きを追い返してくれましたの」
「まあ! そうだったのですね」

 チキンは一見して小さな鳥だが、その体には大きな力を秘めている。
 私に手を差し伸べてきたアドルフの取り巻きには、翼で叩(はた)いてくれた。腕を掴んできた奴にいたっては、顔を嘴で攻撃するのである。
 返り討ちにあった取り巻きたちは教師に報告したが、先に被害を報告していたので、私が咎められることはなかった。

「それにしても、ロンリンギア公爵家のご子息は本当にリオニーさんと結婚なさるおつもりでしょうか?」
「彼は有言実行のお方です。きっと、わたくしと結婚するつもりでしょう」

 それを阻止するために、私はいろいろ考えている。大人しく結婚するつもりなんて、毛頭なかった。

「彼は公爵家に生まれた貴族として、礼儀や教養を重んじている男性(ひと)ですの。度が過ぎた我が儘を申したり、一緒にいて恥ずかしい振る舞いをしたりしていたら、婚約破棄するはずです」

 拳を握り、ルミに作戦を訴える。
 ルミは心配そうに、「上手くいくでしょうか」と零していた。

「今度、アドルフに舞台を観に行かないかと誘われましたの。そこでわたくし、直前になって行きたくないと申してみようかと」

 アドルフはきっと「なんだこいつは、失礼だな!!」と激昂し、その流れで婚約破棄するに違いない。

「絶対に上手くいきますわ!」

 ルミは眉尻を下げ、困ったように微笑んでいた。きっと上手くいかないと思っているのだろう。
 私は二年間、アドルフという男を見続けていたのだ。彼がどんなに短気で心が狭いのか、よく知っている。

 魔法学校に入学して、あっという間に二年経った。
 今は三年目で、授業も少ない。そのため、長期休暇以外にも実家に帰る許可が貰えるのだ。
 明日からは学校である。しっかり気を引き締めないといけない。
 ルミと別れ、魔法学校に戻る準備を行う。
 家を出ようとしていたら、父に呼び出された。

「お父様、何用ですの?」
「男装姿でいると、リオルと話しているみたいだな」
「いい加減、慣れてくださいませ」

 いつまで経っても、父は私の男装姿に慣れないのだ。

「それで、お話とは?」
「ああ、そう。お前が魔法学校の進級前試験で首席だったと聞いてね。よく頑張っている」

 そうなのだ。ただひたすら勉強ばかりしていた結果、私は首位となった。
 二年目の進級前試験ではアドルフが首席だったので、これまで以上に躍起になっていたのかもしれない。

「けれども、監督生にはなれませんでした」

 寮にひとり選ばれる監督生には、アドルフが任命された。私も実は監督生の役割を狙っていたので、ショックを受けたのだ。

 監督生は成績がいいというだけで選ばれるわけではない。
 校長(ヘッド・マスター)や副校長(セカンド・マスター)、教師(アッシャー)の評価に加え、寮監督教師(ハウス・マスター)や個人指導師(チューター)の推薦も必要とする。学校と寮、両方のふるまいが判断材料となるのだ。
 学校での私は模範生だと言われていたものの、寮に戻ると勉強漬け。
 部屋にやってきた下級生に勉強を教えたことはあったものの、アドルフはさらに目立った行動に出ていた。
 彼は教師や指導師がよく出入りする自習室(コンモン・ルーム)に足を運んで下級生に勉強を教えたり、調子に乗って遊ぶ生徒を注意したりしていたのだとか。
 満場一致でアドルフが監督生にと選ばれるわけである。

「監督生にまでならなくてもいい。あまり目立つ行動はするな」
「わかっております」

 話はこれで終わりだというので、一礼して部屋を出る。
 チキンと共に魔法学校に戻ったのだった。

 ◇◇◇

 三学年になると、寮は一階になる。それぞれの階でよさがあるのだ。
 一学年のときに使っていた三階は魔法学校の敷地内を一望できる。二学年のときに使っていた二階は窓を開けると|桑の実(マルベリー)の木があって、実が付く初夏は食べ放題だった。一階は中庭に咲く四季の花々を堪能できる。
 学期始めとなる秋は、薔薇の花が満開となっていた。春に比べたら開花しているものは少ないものの、濃い芳香を放つ薔薇の花々が咲き誇っている。
 朝から焼いたクッキーが余ったので缶に詰め、小脇に抱えて持ってきた。足早に廊下を歩いていると、会いたくない相手と鉢合わせしてしまう。
 大鴉みたいな漆黒の髪に、青い瞳の青年――アドルフだ。
 監督生となった彼は、金のカフスが輝く灰色のウエストコートにジャケットを羽織り、赤い腕章を合わせた姿でいる。あれは監督生にのみ許された、特別な恰好であった。
 私も二年間特待生だった証として、銀のボタンが与えられたものの、金のカフスに比べたら劣っているように思えて複雑だった。

 アドルフのその姿を見た瞬間、悔しくなってしまう。無視して通り過ぎようと思っていたのに、アドルフのほうからズンズンとこちらへ接近してきた。

「おい」

 そう声をかけたあと、何を思ったのかぐっと接近する。ジャケットに顔を近づけ、くんくんと匂いをかぎ始めた。

「ちょっ、何をするんだ!」

 拳を突き出し、肩を押して彼を遠ざける。

「お前、女の匂いがする」

 指摘され、カーッと顔が熱くなっていくのを感じた。女の匂いがするのは、女装していたからだろう。化粧品や香油がまざった匂いがしたに違いない。
 別に外出はしていないので、風呂はいいかと思ってそのままやってきたわけである。

「女の匂いとかどうとか、どうでもいいだろうが」
「お前の姉さんといたから、匂いが移ったのか?」
「へ!?」

 リオルの姉というのは、つまり私である。
 面倒なので、匂いが移ったということにしておいた。

「まあ、そうかもしれないね」
「やはり、そうだったか」
「そうだったか、じゃなくて。勝手に他人の匂いをかぐな。気持ち悪い」
「女の匂いを男子寮でぷんぷんまき散らしているやつが悪いんだろうが」

 アドルフと話していて、改めて確信する。こんな奴と結婚したら、絶対に不幸になると。
 お見合いのときに愛想よくしていたのは、せっかく見つけた都合がいい結婚相手を逃したくないからだろう。
 その面の皮を、リオニーとして会ったときに早く引き剥がしたい。

「お前、姉さんとは仲がいいのか?」
「別に普通」
「何か喋ったりしているのか?」
「別に、特別な会話はしないよ」

 こんな質問を投げかけてくるのは、私と婚約したからか。これまで姉弟仲なんて気にしたことなんてなかったのに。
 アドルフの反応が見たくて、顔を見上げる。ちょうど髪をかき上げた瞬間だったので、表情はよくわからなかった。
 それにしても、アドルフの背はずいぶんと高くなった。
 二年前、入学したときは身長が同じくらいだったが、今はアドルフのほうがはるかに伸びている。六フィート(百八十五)くらいはあるだろう。私は二年前からまったく変わらないので、アドルフと会話するときは視線は上向きとなる。それがなんだか腹立たしい。

「それはそうと、その缶はなんだ?」

 アドルフは尊大な態度で、手にしていたクッキー缶を指差す。
 ルミに食べさせるために焼いたクッキーだが、余ったので夜食にしようと持ってきたのだ。
 
「これは、姉さんが焼いたクッキーだよ」
「あれはクッキーが焼けるのか?」

 アドルフのあれ呼ばわりにカチンときたが、これ以上会話を長引かせたくない。そのため、怒りはぐっと堪えた。

「従姉と食べるために焼いたらしい。これは余り」

 そう答えると、アドルフは何を思ったのか手を差し伸べてくる。

「何?」
「俺は貰っていない。だから寄越せ」
「は?」
「リオニー・フォン・ヴァイグブルグの婚約者である俺にも、手作りクッキーを食べる権利があるはずだ」
「お前……どういう理屈だよ」

 アドルフはクッキー好きなのだろうか。そうでないと、他人の作ったクッキーなんか欲しがらないだろう。

「クッキーを食べたかったら、購買部に行けよ。あそこには王宮御用達の高級クッキーがあるだろうが」
「俺はそのクッキーが食べたいんだ」

 寮から購買部に移動するのが面倒に思っているのか。監督生の権力を使ったら、厨房の料理人からクッキーを焼いてもらえる。きっとこの暴君は、今、私が持っているクッキーを食べたいのだろう。

「余っていて、しぶしぶ持って帰ってきたんだろうが? それだったら、俺が食べてやるから」
「素人が作ったありあわせのクッキーを、天下の監督生さまが引き取るってこと?」
「そうだ」

 ちらりとアドルフを見上げると、目がギラギラしていた。あれは、肉食獣が獲物を捕らえるときに見せるものだろう。
 どうしても、このクッキーが食べたいようだ。よほど飢えているのだろう。
 若干可哀想になったが、無償でくれてやるわけにはいかない。

「だったら、温室の薬草の水やり当番を代わって。やり方は管理人が教えてくれるから」
「わかった」

 了承するとは思わなかったので、驚いてしまう。
 薬草の水やりは、私のささやかな活動の一環である。
 一年と二年のときはこういった活動をしていなかったのだが、進級前に薬草学の先生から薬草の世話を手伝ってくれと泣きつかれたのだ。
 ちなみにクラブではなく、人数が少ないので同好会(ソサエティ)だ。
 ただ手伝うよりも、同好会の活動にしたほうが評価される。そう思って、急遽作ってもらったのだ。
 部員がひとりだけの、薬草クラブである。顧問の先生と交代で薬草に水やりをしているのだ。

「じゃあ、これ」

 クッキー缶を差し出すと、アドルフは奪い取るように掴む。
 やはり彼は暴君だ。これからはクッキー暴君とでも呼ぼうかと思ってしまった。
 缶の中にあるクッキーを目の前で馬鹿にされたくないので、すぐに踵を返す。

「――やった!」

 我が耳を疑う声が聞こえ、振り返った。
 すでにアドルフは背中を向け、歩き始めている。
 きっと聞き違いだろう。そう、自分に言い聞かせた。

 その日の晩、談話室に借りていた本を返しに行く。去年まで賑わっていた談話室も、三学年ともなれば誰もいない。皆、寮におらず、就職するための活動をしに学校を離れているのだろう。
 新しい本が入ってきていたので、手に取ってソファに腰かける。すると、偶然通りかかったランハートが声をかけてきた。

「よう、リオル。久しぶり」

 ランハートは魔法騎士隊の遠征に参加していたようで、一週間ぶりに寮に戻ってきたという。

「クッキーは?」

 出会ってすぐにこれである。ランハートは私が実家から持ち帰る手作りクッキーを気に入っており、売ってくれとまで言うのだ。夜、自習室で勉強するときに分けてあげようと思っていたのだが、あいにく手元にない。

「今日はない」
「えー、そんな! 俺、楽しみにしていたのに」
「明日、購買部のクッキーを買ってあげるから」
「リオルの実家のクッキーが食べたいんだよ」

 今度遊びに行ってもいいかと聞かれるが断った。リオルと会ったら大変だ。彼は来客時は姿を隠すという繊細な行動ができないのだ。

「お前、絶対に実家に誰も呼ばないよなー」
「行くほどの場所じゃないし」
「またまたー、ご謙遜を」

 ちなみにランハートには、私が作ったクッキーとは言っていない。目の前で絶賛されたので、言いにくくなっているのだ。

「実家と言えば、リオルのお姉さん、アドルフと婚約したんだって」
「ああ、まあね」
「びっくりしたな。アドルフは結婚相手をえり好みしているって話だったから、隣国の王女さまとでも結婚するのかと思っていた」
「僕もだよ」

 なんでも、ランハートは本人から直接話を聞いたらしい。勇気がある男だ。

「あいつ、意外と純情だったんだなー」
「は? どうしてそうなる?」
「なんでもアドルフの奴、三年前に参加した夜会で、リオルのお姉さんを見初めたらしいぜ」
「いや、ありえない!!」

 三年前といえば、私が社交界デビューした年である。たしかに夜会に参加していたが、私を見初めた男なんてひとりもいなかった。
 きっと見初めたのは私ではなくて、アドルフの本命なのだろう。
 どうして婚約したのかと聞かれて困った結果、私ではなく本当に愛している相手との思い出を語ったに違いない。

「頭が痛くなってきた」
「そりゃ、アドルフが親戚になるんだから、そうなるよなあ」

 親戚どころではなく、夫である。
 一刻も早く、婚約破棄して心の安寧を取り戻したい。
 そのためには、次の面会で失望される必要があるだろう。

「リオル、早めに部屋で休んだほうがいいぞ」
「そうだね」

 新刊を読む余裕はなさそうなので、本棚に押し込んだ。
 ランハートに支えられながら、トボトボと部屋に戻ったのだった。
 ついに、アドルフと舞台を観に行く日を迎えてしまった。
 朝から憂鬱(ゆううつ)でしかなかったが、やるしかない。今日を乗り切ったら、アドルフとの縁が切れるかもしれないのだ。私の頑張りにかかっている。

 外出用のドレスも、新しく仕立てた。うんざりするくらい派手な、ファイアレッドのドレスである。
 こんな明るい色合いのドレスなんて、今時誰も着ていないだろう。周囲の人たちから、品のない女性だと見られるに違いない。
 髪はこれでもかとばかりに気合いを入れて巻き、薔薇の髪飾りを差し込む。ルビーの耳飾りを装着し、それと同じ色合いの真っ赤な口紅を塗った。
 これ以上ない気合いを入れた出で立ちで、アドルフとの戦いに挑む。
 姿見で確認すると、目をそらしたくなるくらいの酷い恰好であった。

「これで勝つ! これで勝つ!」

 自らに言い聞かせるように、勝利の言葉を口にしておいた。
 身なりが整ったので、そろそろ出発だ。
 いつものように肩に乗るチキンを、そっとテーブルの上に下ろす。

「今日はアドルフと会う日だから、あなたはお留守番」
『そんなー! ちゅりー!』
「チキンが傍にいたら、バレるから」
『ちゅり……』

 ここ二年で気づいたのだが、黒雀というのは極めて珍しい生きもので、まずこの辺りでは見かけない。そのため、私がチキンを連れていたら、「どうして弟の使い魔を連れているんだ?」と思われてしまうだろう。

 何かあったときは召喚魔法で呼び出すからと言葉を残し、私室を出る。
 家族に見つからないようにこそこそ出て行こうとしていたら、リオルと会ってしまった。
 普段は地下の研究室に引きこもって、姿なんか見せないのに。
 私を見た途端、感想を口にする。

「何その恰好。娼婦みたい」
「リオル、それは気のせいですわ」

 さほど興味がないのか、追及しようとしない。ただ、ジト目で見つめてくる。

「では、行ってまいります」
「気を付けて」
「ええ」

 急ぎ足で家を飛び出し、なんとか馬車に乗りこむ。深呼吸をしたのちに、御者に合図を出した。
 我が家の街屋敷(タウンハウス)から舞台が上演される劇場まで、馬車で十分といったところか。あっという間に辿り着いてしまった。
 馬車を乗り降りする円形地帯(ロータリー)で降りると、すぐに声をかけられた。

「リオニー嬢、こっちだ」

 アドルフの声である。名前で呼ばれ、ギョッとしてしまった。
 婚約者なのだから、なんら不思議なことではないのだが。ここ二年ほど、リオルと呼ばれ続けたので、本当の名前で呼ばれてしっくりこないのかもしれない。

 振り返った先にいたのは、いつもと異なる恰好をしたアドルフだった。
 前髪はオールバックにし、灰色のフロックコートを纏っている。手にはステッキを握り、その姿は紳士然としていた。普段よりもずっと大人っぽい恰好をしているので、なんだか落ち着かない気持ちになる。
 ドキドキ――ではない。彼が彼でないように見えるので、違和感を覚えているのだろう。

 アドルフは私を見た瞬間、サッと顔を逸らした。
 リオル曰く娼婦みたいな恰好が、お気に召さなかったに違いない。作戦通りである。
 ここで文句のひとつやふたつ言うだろう。そう思っていたのに、アドルフはまさかの行動に出る。
 私に向けてそっと手を差し伸べたのだ。

「リオニー嬢、手を」

 この辺りは人が多く、はぐれないために傍にいたほうがいい、なんて言葉を付け加えた。それならば、拒否なんてできないだろう。
 一刻も早く婚約破棄してほしかったが、馬車から下りた人々が川の流れのように押し寄せてくるのだ。ひとまず、立ち止まれる場所まで移動する必要がある。

 アドルフは握った私の手を腕に誘導させ、腕組みした状態で歩いていった。
 後方から人がぶつかりそうになったら、そっと引き寄せてくれる。なんともスマートなエスコートだった。
 劇場の前に辿り着くと、彼は懐を探ってチケットを探しているようだった。
 言うならば、今である。何度も練習したとっておきの言葉を放った。

「あの、アドルフ。わたくし、舞台には興味がありませんの」

 これにはさすがのアドルフも、驚いた表情を浮かべていた。
 もしも舞台に興味がないのであれば、誘われた時点で言うのが礼儀だろう。
 劇場の前で言うなんて、失礼甚だしい。

 さあ、ここで婚約破棄だ。自慢の短気を今見せるときであった。頑張れ、頑張れと心の中でアドルフを鼓舞させる。
 ドキドキしつつ反応を待ったが、ここでもアドルフは想定外の言葉を口にした。

「わかった。舞台はやめよう」

 手にしていたチケットを、舞台を観るか迷っていたカップルにあげてしまった。
 恐る恐るアドルフを見上げると、怒っている様子はこれっぽっちもない。
 まさかの器の量を、私に見せつけてくれた。
 あとは、このまま帰るだけになる。そう思っていたのに、アドルフは優しい声で問いかけてきた。

「リオニー嬢、今日はどこに行きたい?」

 驚いた。この暴君は行き先を私に委ねてくれるらしい。
 別の提案もできただろうが、また断られるかもしれないと踏んで、選択権を寄越したのだろう。
 ちらりとアドルフの様子を探る。本当にまったく怒っている様子はないのだ。
 これまで彼の短気を何度も目にしてきた当事者としては、驚きの一言である。

 それはそうと、計画が崩れてしまった。
 今日、いきなり婚約破棄とならなくても、アドルフはここで怒って帰ると思っていたのだ。
 どこに行きたいかと聞かれても、アドルフと一緒に行きたいところなんてない。
 困った。

「アドルフと行きたいところ、ですか……」

 考える素振りを見せると、アドルフはギラギラとした視線を向ける。 
 これはつい先日、私にクッキーを寄越すようにと脅したときに見せた目だった。
 いい機会なので、クッキーについて質問してみた。

「ああ、そういえば、弟リオルから聞いたのですが、アドルフはクッキーがお好きなようですね」

 それを聞いたアドルフは目を泳がせ、みるみるうちに頬を赤く染めていく。
 こういう反応を見るのは初めてである。
 尊大な態度で奪っていったのを、今更恥ずかしく思ったのだろうか。

「先日、リオル君から、リオニー嬢が焼いたクッキーを分けてもらった」

 〝リオル君〟だって!?
 学校にいるときは、「お前」としか呼ばないのに。
 普段聞き慣れない呼び方だったため、全身に鳥肌が立ってしまった。

「あら、お恥ずかしいですわ。素人が趣味で焼いたクッキーでしたのに」
「いや! とてもおいしかった! あのクッキーは、購買部のクッキーにも勝(まさ)っている!」

 なぜかアドルフは拳を握り、私が焼いたクッキーのおいしさについて力説を始めた。
 びっくりしたものの、あのクッキーはランハートもおいしいと言っていた。もしかしたら私は、クッキー作りの才能があるのかもしれない。
 ただ、王宮御用達の高級クッキーよりおいしいというのは言い過ぎだろう。

「本当に、おいしかった。俺は、嘘は言わない」
「そ、そうでしたか。でしたら、今日、舞台をお断りしてしまったお詫びに、クッキーを焼いて贈りますね」

 ごくごく軽い気持ちで言ったのだが、アドルフはカッと目を見開く。それだけでなく、私の両手を掴んで、ぐっと顔を近づける。
 普段、絶対に接近しない美貌が、眼前に迫った。

「いつ、贈ってくれる?」
「えっと、そうですわね……。たしかなお約束はできないのですが、その、近いうちに」
「――っ! 楽しみにしている」

 なんというか、驚いた。彼がここまでクッキーが好きだったなんて。
 クッキー暴君というあだ名は、あながち間違いではないのかもしれない。

 ここでピンとくる。アドルフと一緒に行きたい場所を思いついたのだ。

「そんなにクッキーがお好きなのでしたら、いいお店を知っています。ご案内いたしますわ!」

 遠慮なくアドルフの腕を掴み、ぐいぐいと引いていく。
 アドルフは「いや、別にクッキーが好きなわけでは……」などと言っていたのだが、きれいさっぱり無視をした。

「リオニー嬢、待ってくれ。馬車を手配する」

 劇場近くの回転道路には、馬車を預ける場所がある。管理人が立っているので、事前に受け取っていた木札を渡すと、御者に主人が馬車を待っていると連絡するという仕組みだ。

「馬車ではなく、歩きましょう。すぐ近くですので」

 店が近くにあるように匂わせたが、クッキーのお店があるのは下町のほうだ。けっこう歩かないといけない。これも、婚約破棄へ誘(いざな)うための作戦であった。

「アドルフ、そちらの道を右です」
「そっちは路地裏だぞ」
「近道なんです」

 幼少期に、私とリオルは貴族の集まりを抜けだし、街を大冒険したことがあった。
 そこで、最終的に辿り着いたのが、下町のクッキー店だったのだ。
 そこのクッキーをリオルがとても気に入り、また食べたいと訴える。けれども大冒険をした私たちは父からしこたま怒られ、二度と歩き回らないように、と言われていたのだ。
 どうしてもクッキーが食べたいと言う弟のために、私はクッキー作りを始めたのだ。
 最初のほうは、火加減を間違えて焦がしてしまったり、生焼けだったり。仕上がりは酷いものだった。
 普通に食べられるようになるレベルから、リオルが「おいしい」と言うまで五年はかかったような気がする。
 私もよく飽きずに、クッキーを作り続けたものだと、我ながら呆れてしまった。

 高い建物が並ぶ路地裏は、太陽の光があまり差し込まず、少し薄暗い。
 古びたアンティークを売る露店や占いをする魔女など、怪しい商売をする人たちであふれかえっている。

「よく、こういう道を知っていたな」
「あら、アドルフは大人の目を盗んで、王都を冒険したことはありませんの?」
「ない。外出するときは、いつも護衛がいたから」

 そうなのだ。四大貴族の嫡男ともなれば、行く先々に屈強な護衛がいる。
 お見合いの日も護衛を連れていたが、今日はいなかった。

「護衛のお方はどうしましたの?」
「いらないと言ってきた。もう、十八歳で成人だから」
「なるほど。そういうわけでしたのね」

 私はアドルフよりもひとつ年上の十九歳である。
 年上の女性を妻として選ぶのは、極めて稀だ。ただ、アドルフの場合は愛人との平穏な暮らしのために私を選んだのだ。年齢なんて気にしていないのだろう。

 露店の前で立ち止まり、並んでいるガラス玉の首飾りを指差す。

「アドルフ、見てくださいませ。きれいなアクセサリーが販売されております」

 値段を見て驚く。ただのガラス玉に、本物の宝石ほどの値段がつけられていたのだ。ぼったくりもいいところである。

 ひとつ手に取ったのは、くすんだ青いガラス玉がついた首飾り。それをアドルフのほうに向け、瞳と透かしてみた。

「あなたの瞳の色にそっくりですわ」

 明らかに透明度が低いガラス玉に似ていると言われても、まったく嬉しくないだろう。
 それ以上に、ガラス玉を宝石と信じている女を、軽蔑するかもしれない。それを狙って言っているのだ。

 アドルフはどういう反応を見せるのか。顔を見上げたら、少しだけ泣きそうな表情を浮かべていた。

「そうだな。そっくりだ」

 アドルフは「これをくれ」と言い、銀貨を露店の店主へと差し出す。
 店主は本物の銀貨を前に、心底驚いているようだった。

「あ、あの――!」
「ほら。欲しかったんだろう?」

 アドルフは購入したガラス玉のペンダントを、私の手に握らせる。
 なぜ、ここまでしてくれるのか。
 しばし彼を見つめたが、真意は掴めなかった。
 アドルフが泣きそうな表情を見せていたのは一瞬だけで、露店を通り過ぎるといつも通りの彼だった。もしかしたら目にゴミが入ったか、見間違いだったのかもしれない。気にしたほうが負けだと思い、気づかなかったことにする。

 先ほど買ってもらった首飾りをつけ、どうかと聞いてみた。

「リオニー嬢は本当にそれが気に入ったのか?」
「ええ、もちろんです」

 どこからどうみてもガラス玉だが、貴族女性としての役割をまっとうできず、魔法学校に通っている私にはお似合いに違いない。
 そうでなくても、どこか寂しげな色合いの青いガラス玉は他にない色合いで、気に入っている自分がいた。

「俺と一緒にいるときはいいが、それ以外の場所につけていかないほうがいい」

 ガラス玉の首飾りなんかつけていったら、社交場で恥をかくからだろう。
 その理由をそのまま言うのか。気になったので問いかけてみる。

「あら、どうしてですの? すてきな首飾りですので、たくさんの方に見ていただきたいのに」
「それは――」

 アドルフは眉間にぎゅっと皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべる。
 きっと、私の間違いを指摘し、恥をかかせるということをしたくないのだろう。
 紳士の鑑(かがみ)である。
 彼が女性に対し、ここまで優しい男性(ひと)だとは知らなかった。
 魔法学校で出会っていなければ、「すてきなお方!」と思ったに違いない。
 今は暴君の本性を知っているので、猫かぶりめ、としか感じなかったが。

 さて、アドルフはどう答えるか。
 ちらりと顔を見ると、顔を真っ赤にしながら私を見つめていた。

「その首飾りをつけたリオニー嬢はあまりにもきれいだから、他の人には見せたくない!」
「まあ!」

 そうきたか! と膝を打ちたくなる。
 彼は普段、こういう甘い言葉を吐くひとではないのだろう。
 相手に恥をかかせるよりも、自分が恥をかくことを選んだのだ。

 少し前まで、アドルフにこれがガラス玉だとわかっていて、あなたの瞳に似ていると言ったのだ、と打ち明けようとしていた。
 それを聞いた彼が、私を嫌うだろうと思ったから。
 けれども今、アドルフ最大の気遣いを前に、言えるわけがなかった。
 最後まで道化を演じようと心の中で誓ったわけである。

「では、アドルフの前でだけ、こっそりつけますね」
「そうしてくれると非常に助かる」

 路地を抜けた先は下町だ。人通りが多い。今の時間帯は買い物客で溢れているのだ。
 キラキラしたものを身に着けていたら、盗まれてしまうかもしれない。そう思って首飾りを外す。
 薄暗い通りから、太陽がさんさんと差し込む大きな通りにでてきた。
 そこで見たガラス玉の首飾りは、暗がりで見るよりも美しかった。

「きれい」

 思わず口にしてしまう。それがアドルフにも聞こえてしまったようだ。
 彼はまっすぐに私を見つめていた。気まずくなって、早口で話しかけてしまう。

「アドルフもそう思いませんか?」
「ああ、きれいだ」

 アドルフは首飾りではなく、こちらを見ながら言った。
 まるで彼が私をきれいだと言ったように聞こえて、気恥ずかしくなってしまった。

「リオニー嬢、顔が赤い」
「へ!?」

 ご令嬢とは思えない、素の声が出てしまう。まさか、目に見えてわかるほど赤くなっていたなんて。

「今日は日差しが少々強いから、肌が焼けてしまったのだろう。気づかなくてすまない」
「あ! えっと、そう! かもしれません」

 外歩きをする予定はまったくなかったので、日傘や帽子など持ってきていなかったのだ。

「どこかに日避けを売る店があればいいのだが」

 下町にそんな小洒落た店があるわけがない。
 キョロキョロと周囲を見渡しているところに、ひとりの幼い少女が近づいてきた。年頃は七歳くらいだろうか。
 手には花が入ったカゴがあって、一輪の花を差し出してくる。

「お花、買いませんか? 銅貨一枚です」

 それはどこにでも咲いている|野の花(メドウ)。紫色のリンドウの花である。
 アドルフはすぐに銅貨三枚を少女に手渡す。

「あ、三本、ですか?」
「いいや、一本でいい」
「あ、ありがとうございます」

 少女は可愛らしくぺこりと会釈し、去っていった。
 その花をどうするのか。見守っていたら彼はまさかの行動に出る。
 リンドウをポケットに挿し、懐から粉インクが入った缶を取り出す。
 蓋を開くと、銀色の輝く粉が見えた。あれは魔法陣を描くときに使う道具だ。
 何をするのかと思えば、指先で粉インクを掬い、手のひらに魔法陣を描いた。
 ちらりと横目で呪文を覗き見る。あれは、質量変化の魔法だった。
 魔法陣を描いた手のひらでリンドウを握ると、茎や花が巨大化した。
 瞬く間に、先ほどの少女の身の丈ほどにまで大きくなったのだ。
 アドルフは巨大化させたリンドウを私に手渡す。

「間に合わせだが、これを日傘代わりに使ってくれないか?」
「あ、ありがとう、ございます」

 なんとも可愛らしい日傘だ。見た目が優れているだけでなく、きちんと日差しを避けてくれる。
 それにしても驚いた。高位魔法をいとも簡単に、短時間で使って見せるとは。
 私がこの魔法を発動させるとしたら、魔法陣の作成に五分はかかっていただろう。
 筆記は私が強いが、実技はアドルフが強い。
 試験は筆記科目が多いので、私が有利になってしまうのだ。
 こういう優秀な面をさらりと見せられると、悔しくなってしまう。
 花を日傘に見立てるというアイデアも、素晴らしいとしか言いようがない。 

 リンドウの日傘を持って歩いていたら、道行く女性たちに「それ、どこで買ったの?」と聞かれてしまう。
 そのたびに「彼からの贈り物ですの」と答えていた。

「すまない。その日傘のせいで、余計な手間をかけてしまった」
「いいえ。道行く方々に、可愛いと言っていただけて嬉しかったです」
「そうか。だったらよかった」

 そんな話をしているうちに、目的地のクッキー店に到着した。

「ここが、そうなのか?」
「ええ」

 築二百年以上の、年季が入りまくりな店舗である。
 店内は薄暗く、外から見ても営業しているか否かわかりにくい。
 今日はお菓子が店内に並んでいるので、営業しているのだろう。

「こちらは修道女が作るお菓子を販売しているお店ですの」

 家が傾いているからか、扉は開けにくい。コツがあって、扉を押しながら足で蹴るとすぐに開く。
 今はしとやかなご令嬢としてやってきたので、蹴りは入れられない。
 扉を開けるのに苦戦していたら、アドルフが代わってくれた。
 彼が取っ手を捻ると、すぐに開いた。ただ、力が強すぎたからか、お店全体が揺れた。
 天井からは粉塵がパラパラと降ってくる。

「店が崩壊するかと思った」
「大丈夫です。たぶん」

 店内のお菓子は、すべて|ガラス瓶(ジャー)に入っているので、埃や塵が舞っても問題ないというわけであった。
 棚には所狭しと、クッキーが入った瓶がずらりと並べられている。 
 店主はいないが、呼べばくるだろう。

「こういう店は初めてだ。あの大きな瓶ごと買うのか?」
「いいえ、ここのお店は量り売りですの。このカゴの中に、欲しいクッキーを入れて会計するのです」
「なるほど」

 一枚から販売していて、近所の子どもが半銅貨を握りしめて買いにやってくるらしい。
 私やリオルみたいな裕福な家の子は初めてだと、以前店主は話していた。
 当時はまったく裕福ではなかったのだが、まあ、下町の人たちに比べたら豊かな暮らしをしていたのだろう。
 店内に並ぶクッキーは二十種類くらいか。
 貴族の茶会で出されるサブレやラングドシャ、ディアマンクッキーといったおなじみの物はない。
 素朴なバタークッキーやビスケットが主力商品なのである。

「アドルフ、この近くに高台があって、王都の景色を一望できるのですが、ここのクッキーを食べながら見ません?」
「わかった」

 私はごつごつとした岩のような見た目のオーツクッキーを選び、 アドルフは栄養豊富なオートミールのクッキーを選ぶ。
 リオルへのお土産として、アーモンドのクッキーを買った。
 購入したクッキーは、追加料金を払うと包んでもらえる。リオルのお土産のクッキーは油紙に包んだあと紐で縛ってもらい、それ以外のクッキーは剥き出しのままだった。すぐに食べるのでまあいいかと思い、絹のハンカチに包んでおく。
 クッキー店をあとにすると、ちょうどミルク売りが通りかかった。
 ミルク売りというのは、荷車に瓶入りのミルクを積んで売り歩く商人である。
 アドルフは不可解な生きものを見る目で、ミルク売りを眺めていた。中心街ではこのようにミルクを売っていないので、驚いているのだろう。
 クッキーだけ食べたら喉が詰まるので、何か飲み物がほしいと思っていたところである。
 
「店主さま、ミルクをいただけるかしら?」
「おうよ」

 新作だと言って紹介されたのは、ミルクティーである。

「なんでもお貴族さまが好んで飲んでいるらしい。これがよく売れるんだ」
「でしたら、ミルクティーをふたつ」
「銅貨三枚だ」

 財布を取り出そうとした瞬間には、アドルフがミルク売りの店主に支払いを済ませていた。

「あ、あの、ありがとうございます」
「気にするな。先ほどの首飾りに比べたら、安い物だ」

 そうだった。ついさっき、彼に銀貨一枚支払わせたばかりである。
 思わず笑ってしまった。アドルフにとっては笑い事ではないだろうが。

 瓶入りのミルクティーをアドルフは店主から受け取る。紙袋はなく、剥き出しのまま差し出されたので戸惑っているようだった。
 下町に無償の袋文化などないのだ。諦めてほしい。

「では、高台に行きましょう」

 道草を食べつついろいろ歩き回っていたからか、太陽は傾きつつあった。急がないと、あっという間に日が暮れてしまうだろう。
 途中でリンドウの日傘は「可愛いねえ」と褒めてくれた少女に手渡し、高台を目指していく。

 下町から旧街道のほうへ向かい、途中にある石の階段を上がっていく。
 スカートを摘まみ、頂上を目指した。

「王都にこういう場所があるなんて、知らなかった」
「魔法騎士隊の警備塔ができる前は、ここから街の様子を見ていたそうです」
「なるほど。そういう用途だったか」

 子どもの頃は駆け上がれた階段も、今は息が乱れてしまう。
 アドルフはクラブ活動で体を鍛えているからか、平然としていた。

「リオニー嬢、手を」
「え?」 
「急がないと、太陽が沈んでしまう」
「そう、ですわね」

 差し出された手に、指先を重ねる。力強く握り返され、階段を上がりやすいように手を引いてくれた。

 やっとのことで、頂上に辿り着く。
 太陽が沈む絶妙な時間で、王都の街並みはあかね色に染まっていた。

「美しいな」
「ええ」

 私とアドルフは、太陽が沈みきるまで会話もなく、景色を眺めていた。
 太陽が地平線に沈み、薄暗くなってからハッと気づく。

「あ、クッキーとミルクティーの存在を失念しておりました」
「そこに座って食べよう」

 今は使われていない、石造りの椅子があるのだ。
 アドルフは胸ポケットに入れていたハンカチを広げ、私にどうぞと手で示してくれた。

「ありがとうございます」

 こういうところも抜け目はないようだ。さすが、ロンリンギア公爵家のご子息である。
 アドルフはオートミールのクッキー、私はオーツクッキーを手に取る。
 
「リオニー嬢のクッキーは珍しいな」
「岩みたいでしょう?」
「ああ」

 半分に割って差し出すと、アドルフは目をまんまるにさせて私を見る。

「どうぞ。お召し上がりになって」

 とてもおいしいからと言うと、小さな声で「感謝する」と言った。
 ただ、アドルフの手はオートミールのクッキーとミルクティーで塞がっていた。仕方がないと思い、口に運んであげる。

「アドルフ、あーん」
「は!?」
「あーん、です。お口を開けてくださいませ」

 アドルフは言葉に従い、口を開く。そこにオーツクッキーを詰め込んだ。
 バターが少ないクッキーだからか、アドルフは食べた瞬間に咽せていた。

「アドルフ、ミルクティーを飲むのです」
「ごほ、ごほ!」

 ミルクティーを飲み、ごくんと呑み込む。アドルフは驚いた表情のまま、感想を述べた。

「おいしい……!」
「でしょう?」

 クッキーとミルクティーの相性は最強なので、極上の味わいだっただろう。私もクッキーを一口食べ、ミルクティーを飲む。

「おいしいです」

 何を思ったのか、アドルフはオートミールのクッキーを半分に割っていた。片方を私に差し出す。

「これも食べてみろ」
「ありがとうございます」

 まさか、アドルフとクッキーを半分こにする日がくるとは、まったく思わなかった。
 分けてもらったクッキーは、とてもおいしかった。

 ミルクティーを飲み干した瞬間に、アドルフが親指に嵌めていた銀の指輪が光る。
 アドルフは驚愕の表情を浮かべ、指輪を押さえた。

「なっ――封じていたはずなのに」

 いったいどうかしたのか。問いかけようとしたら、遠くから声が聞こえた。

「アドルフお坊ちゃまーー!!」
「いました」

 その声を聞いたアドルフは、チッと舌打ちした。
 いつもの暴君の姿が垣間見える。
 声がしたほうを振り返ると、御者と護衛がこちらへ駆けてきた。

「ああ、よかった。舞台が終わっても呼び出しがないので、心配しました」
「ご無事で何よりです」

 なんでも指輪には追跡魔法がかけられていたのだという。
 アドルフは途端に、不機嫌な様子となった。

「あの、アドルフ、そろそろ帰りましょうか」
「ああ」

 これまでの楽しかった雰囲気は消え失せ、なんとも気まずい空気が流れる。
 アドルフとのお出かけは、ロンリンギア公爵家の者達の介入とともに終了となったのだった。
 ロンリンギア公爵家の御者は、我が家の馬車も呼んでくれていたようだ。
 アドルフと別れ、馬車に乗りこむ。
 御者と護衛の慌てようから、アドルフがいなくなったと大騒ぎになっていたのかもしれない。
 アドルフは現在地がバレないように、指輪の機能を封印していたらしい。それを、公爵家の魔法師に解除され、発見されてしまったのだという。
 別れ際のアドルフは、それはもう不機嫌だった。
 けれども、私に声をかけるときは落ち着いていて、「この埋め合わせはいつか必ず」とまで言っていた。
 別に、そろそろ帰る時間だったので、問題はないのだが……。

 帰宅すると、父が待ち構えていた。

「……ただいま帰りました、父上」
「ああ、よくぞ帰った。今日はロンリンギア公爵家のアドルフ君と出かけたようだな」
「ええ、まあ」

 父は私がアドルフの婚約者に選ばれたことに関して、もっとも喜んでいるようだった。
 これから婚約破棄の流れになるので、落胆させてしまうのだが。

「アドルフ君の機嫌をそこねないように、上手く付き合うように」
「なるべく努めます」

 父との会話は適当に流しておく。リオルへのお土産のクッキーは執事に託し、疲れたからと言って部屋に戻った。

 廊下を歩いていると、チキンが飛んでくる。

『お帰りなさいちゅりー』
「ただいま。いい子にしてた?」
『もちろんでちゅり!』

 チキンは私の肩に止まり、頬ずりしてくる。
 年々甘えん坊になっている気がするが、使い魔というのはそんなものなのだろう。

 メイドがお風呂の準備をしてくれたので、浴槽にゆっくり浸かる。
 今日の疲れが、湯に溶けてなくなるような気がした。

 なんというか、婚約破棄はされなかったし疲れてしまった。けれども、なんだか楽しかったような気がする。
 きっと自分が行きたいと思うところに行けて、勝手気ままに振る舞えたからだろう。
 アドルフの怒る以外の表情を見られたのも面白かった。
 思いのほか、彼は女性に対して寛大である。その度量を、普段の学校生活でも見せてくれたらいいのだが。
 それはそうと、アドルフが薔薇の花束と恋文を贈っていたのは誰なのか。
 単なる好奇心だが、相手についての情報も知りたい。
 それらについて情報提供をしてくれたのはランハートだ。今度会ったときにでも、詳しい話を聞いておこう。

 お風呂に入ったら疲れが取れた。夕食後にクッキー作りを行う。
 いつも作っているのは、シンプルなシュガークッキーだ。
 素朴な味わいで、紅茶やミルクとよく合う。
 私が作るクッキーの中で、リオルが唯一おいしいと認めるものでもあった。

 髪が邪魔にならないように纏め、三角巾を当てて結ぶ。エプロンをかけ、腰部分でリボンを結んだ。
 材料は小麦粉、バター、顆粒糖に卵、バニラビーンズ。
 まずはバターを室温にし、なめらかになるまでホイップする。クリーム状になったバターに顆粒糖を加え、さらに混ぜた。これにバニラビーンズ、小麦粉を入れ、生地がまとまるまで練っていく。
 生地がなめらかになったら布に包み、保冷庫の中で一時間休ませる。
 一時間後――棒状に伸ばした生地に顆粒糖を軽く振るう。次にクッキーの形を整えるのだが、私は型抜きではなく、クッキースタンプと呼ばれるものを使う。
 クッキースタンプというのは、模様が刻まれた型である。生地に押し当てると、美しい模様が移しだされるのだ。
 今、お気に入りなのは、マーガレットに似たクッキースタンプである。これを生地に押し当てると、マーガレット型のクッキーに仕上がるのだ。
 生地を一口大にカットしたものに、クッキースタンプを押し当てる。可愛らしいマーガレット型のクッキー生地を、油を薄く塗った鉄板に並べていった。
 生地の形が整ったら、最後に熱していた窯で焼いていくのだ。
 十五分ほどで、おいしそうに焼き上がった。
 粗熱が取れるのを待っていると、厨房にリオルがやってきた。

「クッキー、また焼いたんだ。ルミに頼まれたの?」
「いいえ、これはアドルフに差し上げるものです」
「本気?」
「嘘を言ってどうするのですか」

 リオルはズンズン接近し、焼きたてのクッキーを摘まむとそのままパクリと食べる。

「熱っ……!」
「できたてほやほやですので、当たり前です」

 勝手に食べたのに、抗議するような視線を向けていた。文句を言うと思っていたが、想定外の言葉を彼は口にする。

「修道院のクッキーより、姉上のクッキーのほうがおいしいな」
「それは当たり前です。あなたの好みに合うように、改良したのがこちらのクッキーですから」
「そうだったんだ。だったら、姉上が作るクッキーはすべて僕の物なんじゃないの?」
「何をどう考えたら、そういう思考に至るのか」

 まあ、いい。たくさん作ったので、三分の一はリオルに分けてあげる。
 ランハートにもあげよう。情報料として渡すのだ。
 リオルは満足したのか、クッキーを持っていなくなった。
 粗熱が取れたクッキーは缶に詰め、アドルフ宛てに書いたカードを添えておく。
 包装してからロンリンギア公爵家のアドルフに送るようにと、侍女にお願いしておいた。
 なんとか労働責任量(ノルマ)を達成できたので、ひと息つく。
 今日はゆっくり眠れそうだ。 

 ◇◇◇

 実家から魔法学校に戻ると、日常が帰ってきたと思ってしまう。
 いつの間にか、貴族令嬢としての私は非日常になっていたようだ。
 制服に身を包み、朝から冷え込むので特待生のガウンを着込む。
 これを着る栄光を得られたのも三年目。
 結局、このガウンを着用できたのは私とアドルフだけだった。
 つまり、まるまる二年もの間、アドルフとお揃いのガウンを着続けたというわけである。
 一時期は恥ずかしくて、アロガンツ寮のガウンを着て学校に通っていたときもあった。
 けれども、特待生のガウンは保温及び保冷魔法がかけられていて、快適に過ごせるのだ。一方で、寮のガウンはただの上衣である。圧倒的に、特待生のガウンが過ごしやすい。
 私の恥ずかしいという気持ちは、寒さと暑さを前にするとあっさり負けてしまうのだ。

 朝――食堂に行くと、新入生が大勢押しかけていた。
 パンやチーズを大盛りに取り分け、時間が許す限り食べている。
 そういう食べ方ができるのは、今だけだ。
 三学年となった者たちは、パンはひとつ、チーズは一切れと、皿の上は慎ましい量しかない。
 二年間の寮生活で、食べたいだけガツガツ食べるというのは品がない、と厳しく躾けられた証である。

 食事量に制限はない。けれどもお腹いっぱい食べられるという環境は贅沢なものだ。
 自分たちは恵まれた者たちだと自覚し、必要最低限の食事を取る。
 それこそ、|高貴なる(ノブレス)|存在の務め(オブリージュ)なのだと、卒業していったかつての監督生が語っていた。
 ちなみにこれらの指導は、朝食時のみである。昼食や夕食は好きなだけ食べられるのだ。

 少々厳しすぎるのではないか、育ち盛りの子どもに食事を制限するなんて酷い行為だ、などという声を上げる保護者もいる。
 けれども朝からお腹いっぱい食べ、満腹感から授業中に眠ってしまう子どももいたため、この決まりは伝統と化してしまったようだ。

 魔法学校が貴顕紳士を作り出す場所だというのは、上手く言ったものだと思う。
 その言葉のとおり、野生育ちのようでわんぱくな生徒も、三学年ともなれば立派な紳士然となるのだ。 

 入学して一週間くらいは、大人しく席について食べていたら厳しく注意されない。
 けれどもそれを過ぎたら、厳しい食事マナーの指導が始まるのだ。
 今のうちにたくさんお食べ、と心の中で新入生たちに声をかけた。
 ジリジリとけたたましいチャイムの音が鳴る。
 新入生たちに朝食の時間が終了したと告げる音だ。食堂の混雑を避けるために、各学年、時間をずらすようにしているのだ。
 急いでベーコンを食べる者、パンを制服のポケットに忍ばせる者、食事を残して足早に去る者と、さまざまだった。

 食堂はあっという間に、静けさを取り戻す。
 一学年のあとは、三学年の時間となっている。ほとんどの生徒が校外学習にでかけているため、食堂へやってくる生徒は少なかった。
 さて、今日は何を食べようか、と考えていたら、背後より声がかけられる。

「リオル・フォン・ヴァイグブルグ! ぼんやり立ち止まらない!」

 振り返った先にいたのは、特待生のガウンに監督生の腕章を合わせた姿のアドルフだった。
 注意したあと、してやったりとばかりに笑っていた。
 私に恥をかかせようと、わざと言ったのだろう。腹立たしい気持ちになる。
 昨日、リオニーだった私には、恥をかかせまいと泥を被ってくれたというのに。
 女性を敬い、尊重するという姿勢は、魔法学校に通って身に着けた紳士教育の一環だ。きちんと身についているではないか、と内心賞賛する。

 肩に止まっていたチキンが、物騒な提案を耳元で囁く。

『ご主人さま、あいつの頭に、羽根をぶっ刺してきましょうか? ちゅり?』
「絶対に止めて」

 チキンが自主的に私を守る行動を取る前に、アドルフの前から立ち去らなければ。
 そう思っていたのに、引き留められる。

「おい、お前」

 お前だけでは多くの人が当てはまる。そのまま立ち去ろうとしたのに、腕を取られてしまった。

「何?」
「昨日、リオニー嬢……お前の姉さんは、なんか言っていたか?」
「なんかって?」
「その、怒っていなかったか?」

 ロンリンギア公爵家の者たちの介入により、外出が強制的に終了してしまった件に関して、憤慨していたのではないか心配だったらしい。

「別に、なんとも」
「そうか」

 明らかにホッとしたような表情を浮かべる。私の気分を害していないか、気がかりだったようだ。
 結婚のために、天下のアドルフ・フォン・ロンリンギアがご機嫌伺いをするなんて。愛人を迎えるにあたり、格下の家柄の娘との結婚を確実に成立させたいのだろう。
 彼がそこまで情熱を傾ける相手とは、いったい誰なのか。気になって仕方がない。

「リオル」

 初めて名前を呼ばれ、驚いてしまう。リオルは弟の名前だが、二年間呼ばれ続けると、自分のもののように思えるから不思議だ。

 アドルフはこれまでにないくらい、真剣な眼差しで私を見つめている。そして、想定外の言葉を口にした。

「今後、お前の姉さんを悲しませるようなことはしない。約束する」

 昨日の出来事を受けての誓いなのだろう。
 けれども、本当にそれが遂行できるのだろうか?
 妻以外の愛する女性を傍に置き、悲しい思いをさせないなんて、ありえないだろう。

 私もまっすぐアドルフを見つめ、言葉を返した。

「姉の結婚相手が、君でなくてもいいんじゃないかって、僕は思っているよ」

 何か言い返すのではないか、と思ったが、アドルフは雨の中に捨てられた子犬のような表情でいた。

 そんな彼を無視して、食事が並んだテーブルのほうへ向かう。今度は引き留められなかった。

 ◇◇◇

 放課後――誰もいない談話室に、ランハートの姿があった。難しい表情で、参考書とにらめっこしている。

「やあ、ランハート」
「ああ、リオル! ちょうどいいところにきた」

 魔法騎士隊の従騎士となったランハートは、レポートの作成に苦労していたらしい。
 どういうふうに書けばいいのかわからず、頭を抱えていたようだ。

「自習室じゃなくて、どうしてここでやっていたの?」
「ここにいたら、リオルが通りかかるんじゃないかって思って」

 神さま、天使さま、リオルさま、と言い、手と手を合わせる。仕方がないと思い、レポート作りを手伝ってあげた。

 一時間後――ランハートは満足げな表情で背伸びする。

「いやはや、助かったよ。さすがリオルだ。感謝の印として、今度購買部でお菓子を奢ってやるよ」
「それよりも、教えてほしい情報がある」
「ん?」

 周囲に人がいないことを確認し、ランハートに耳打ちをする。

「以前聞いた、アドルフが薔薇と恋文を送っていた相手について知りたい」