魔法学校に通うワケアリ男装令嬢、ライバルから求婚される「あなたとの結婚なんてお断りです!」

 先ほどまで晴れていたのに、空模様は瞬く間に曇天となった。まるで、私の心の内を映し出したかのように思えてならない。
 外を眺めているうちに、窓ガラスに雨粒が打ち付ける。最悪だ、雨が降ってきた。

「雨、ですわね」
「ああ、そうだな」

 まるで、倦怠期(けんたいき)の夫婦のような会話だ。
 アドルフと結婚してしまったら、こんな未来が待っているのだ。
 まだ結婚もしていないというのに、うんざりしてしまう。

 いつ、宿泊訓練についての話題を出そうか。会ってすぐに聞くのは不審がられるだろう。まずは、アドルフの近況について探る。

「学業がお忙しい時期に、こうしてわたくしのために時間を割いていただき、嬉しく存じます」

 遠回しにご迷惑なのでは? と聞いたつもりだ。まだまだ鈍感なところがある同級生ならまだしも、すでに完成された紳士であるアドルフには通じるだろう。

「言うほど忙しくはない。他のクラスメイトのように、職業訓練があるわけではないからな」

 次期ロンリンギア公爵であるアドルフには、すでに王の側近としての輝かしい未来が待っている。そのため、愛人の盾になってくれる結婚相手に時間を割くことができるのだろう。

 アドルフが案外暇だということがわかった。監督生としての活動も問題なくできるというわけである。

 そんな話をしているうちに、馬車が停まった。御者が扉を開き、傘を差して雨を避けてくれる。
 先にアドルフが降り、傘を握ったあと手を差し伸べた。私はしぶしぶと指先を重ねる。
 馬車の|踏み段(ステップ)に降りた瞬間、雨に濡れていたからか足を滑らせてしまう。
 体が傾き、落ちる――そう思った瞬間、アドルフは私の手をぎゅっと握り、もう片方の手にあった傘を放り出して、腰を強く支えてくれた。
 間一髪で、転ばずに済んだようだ。
 その後、何を思ったのか。アドルフは私を抱き上げ、地上へと降ろしてくれた。
 切迫した表情で私を覗き込み、質問を投げかけてくる。

「リオニー嬢、大丈夫か?」
「え、ええ、まあ……おかげさまで平気です。ありがとうございました」

 そう言葉を返すと、明らかに安堵した表情を浮かべる。このように慌てた表情を見るのは初めてである。

 傘を拾い、一緒に入るようにと肩を抱き寄せる。
 思っていた以上に密着するので、少しどぎまぎしてしまった。雨に濡れないためなので、仕方がない話なのだが。
 それにしても驚いた。
 アドルフ・フォン・ロンリンギアという男は、怒り以外の感情をほとんど表に出さないから。

 アドルフは御者を振り返り、踏み段を指差しつつ耳打ちする。きっと、濡れている状態では危ないと注意しているのだろう。
 いつもの彼だったら、その場で怒鳴り散らしそうだが。人混みの中で感情を剥き出しにするのはスマートではない。紳士的な態度で、御者に物申したのだろう。
 御者は眉尻を下げ、何度もペコペコと頭を下げていた。気にするなと伝わるよう、淡い微笑みを向ける。

「リオニー嬢、行こう」

 御者の反応を見てから去ろうとしたのに、腕を強く引かれてしまった。
 足取りは以前より速く、普通のご令嬢であればついて行けないだろう。
 横目でアドルフを見上げると、眉がキリリとつり上がっていた。私がどんくさかったので、心の中では腹を立てているのか。念のため、謝罪しておく。

「あの、申し訳ありませんでした」
「何の謝罪だ?」
「わたくしが転びそうになったせいで、アドルフに恥をかかせてしまったと思いまして」

 そう伝えても、アドルフは意味がわからないとばかりに小首を傾げている。

「その、お顔が、怒っているように見えたものですから」
「怒ってなど――いいや、怒っていたのかもしれない」

 それはどうして? そう問いかけるようにアドルフを見つめる。

「リオニー嬢が、御者に優しく微笑みかけたのが、面白くなかった。それだけだ」
「はい?」

 私には他人へ微笑みかける権利すらないというのか。わけがわからない。
 やはり、アドルフは暴君だ。
 結婚したら、さまざまな制限を提案しそうで恐ろしい。

「こういう感情は初めてだから、酷く混乱している。不快にさせてしまい、申し訳ない」

 素直に謝ったのだから、今日は許してあげよう。そう、思うことにした。

 中央街の馬車降り場から徒歩三分の場所にあるのは、王室御用達(ロイヤルワラント)の看板が下がった喫茶店であった。
 もともとは夜会を行うような宮殿だったが、持ち主が破産して売却。翌年には喫茶店となり、王族も足しげく通う人気店となった。
 完全予約制で、一年先まで予定が埋まっているという噂話を耳にしたことがある。ロンリンギア公爵家のご子息ともなれば、ここの予約を取ることは難しくないのだろう。
 店内はすべて個室で、多くの貴族は密会の場として使っているらしい。

「よく、こちらの予約が取れましたね」
「うちはここに専用の部屋を持っているんだ」
「まあ! でしたら、好きなときに行ける、ということなのですか?」
「他の家族が使っていない時間帯は、まあ、そうだな」

 さすが、ロンリンギア公爵家である。まさか、喫茶店に専用の部屋があるとは……。
 どんなに予約希望者がいても、その部屋はロンリンギア公爵家の者以外は使わないらしい。

「入り口はこちらだ」

 アドルフは正面から入らずに、裏手に回り込む。なんでも貴賓は専用の出入り口があるのだという。

「父が頼み込んで、専用の部屋ができたのだが……」

 アドルフは立ち止まり、ため息交じりに語り始める。

「愛人との密会のために、用意したらしい」

 ドクン、と胸が激しく脈打つ。
 愛人について語るアドルフの表情は、憎しみに満ちあふれているように思えてならなかった。
 
 アドルフはその後、何も言わずに喫茶店の中へと誘(いざな)う。
 なんだろうか。今、彼の中にある深い闇を垣間見てしまったように思えてならない。

 店内に入り、まっすぐ廊下を歩くと、誰にも会わずに部屋に辿り着く。
 さすが、愛人との密会のために用意された部屋だ。
 中には窓がなく、ドーム状の天井には水晶のシャンデリアが部屋を明るく照らしていた。
 部屋の中心にはゆったり寛げる猫脚のアームチェアに、ウォールナットの三脚テーブルが鎮座していた。
 すでに、お菓子と紅茶は用意されている。
 ポットには魔石が仕込まれており、淹れ立ての紅茶が楽しめるようになっているのだろう。他にも、シャンパンやワインなどの酒類も用意されていた。我が国では十八歳から飲酒が許可されている。けれども魔法学校の生徒は卒業するまで飲酒は厳禁とされているのだ。
 お菓子は定番のスコーンに、マカロン、それからベリータルトにサブレなどもある。口直しにキュウリのサンドイッチや野菜のケーキ、キャビアが載ったカナッペなどもある。
 お菓子は広いテーブルに、品よく並べられていた。
 その様子を見ていると、ふと思い出す。
 慈善活動サロンのご令嬢を我が家に招いてお茶会を開いたとき、ケーキスタンドにスコーンやサンドイッチを載せて提供した。
 それを見たそこまで親しくないご令嬢のひとりが、こういうのは初めて見ると驚いていたのだ。「狭いスペースしか提供できない者が、場所を有効利用しかつ華やかに見える工夫なのですね」、と指摘され、なんとも言えない気持ちになったのを覚えている。
 暗に、広い家を持っていない者の知恵だと言いたかったのではないか。捻くれた思考を持つ私はそう思ってしまったのだ。

 しかしながら、王宮御用達店ではケーキスタンドは使われていない。やはりあれは、狭いスペースを有効活用するための工夫だったのだろう。

 ここで、給仕係がやってくる。カップに紅茶を注ぎ、お菓子を一通り取り分けると、「ご用がありましたら、ベルでお知らせください」とだけ言って去って行った。

 その間、アドルフは黙ったままだった。いったい何を考えているのやら。
 クッキーを摘まもうとした瞬間、彼は想定外の行動に出る。
 頭を深々と下げ、謝罪したのだ。

「こんなところに連れてきて、すまなかった!」
「こんなところ、ですか?」
「父が愛人を連れてきた場所に、リオニー嬢を連れてきてしまった」
「ああ……」

 そういう意味だったのか。あいにく、そういった考えには至っていなかった。
 ただただ、王室御用達の喫茶店ってすごい、としか思っていなかったわけである。

「前回、舞台の誘いを断られてしまってから、行き先に自信がなくなってしまって……。この喫茶店が貴族令嬢の憧れだという話を聞いたものだから、それ以外に他意はなく、案内してしまった」

 あの天下の暴君アドルフ・フォン・ロンリンギアが、自信がないという言葉を口にするなんて。
 本当に申し訳ないと思っているようで、しょんぼりと肩を落としていた。

「アドルフ、わたくしは別に、有名なお店でお茶が楽しめると嬉しくなっただけで、あなたに対して非難めいた感情は抱いておりません」

 そう宣言すると、アドルフは希望を見いだしたかのような目で私を見つめてきた。
 視線が交わると、ハッと肩を震わせ、目を両手で覆う。ギリギリ聞き取れるような声で「感謝する」と言ったのだった。

 いい機会だと思い、愛人についての認識を問いただそう。
 ぼんやりするアドルフに、私は質問を投げかけた。

「アドルフは、愛人という存在について、どう思います?」

 ここで彼が正直に告げたら、まあ、許してやらないこともない。
 かと言って、結婚はしたくないのだが。

「俺は、愛人という存在は、あってはならないと、個人的には思う。伴侶への裏切りだ」

 絞り出したような、切ない声だった。
 そう思うのであれば、なぜ、毎週熱心に薔薇と恋文をグリンゼルに住む女性に贈っているというのか。

 まさか、相手は愛人ではない? 
 ふたりの関係に名前はなく、純愛を貫いているというわけ?

 私に子どもを産ませ、爵位の継承者(エア)を得たあと離縁し、後妻としてその女性を迎えるという気の長い計画の実現を狙っている可能性が浮上した。

 これまでのアドルフは、私を正式な婚約者として、丁重に扱ってきた。
 それもすべて、後妻を迎えるための手段だったのだ。

 清廉潔白なところがあるアドルフが、黙って愛人を迎えるという状況にいささか疑問を抱いていたところである。
 後妻を迎えるつもりであるならば、すべて納得がいった。

 胃の辺りに手を当てて、首を傾げる。
 なんだかモヤモヤするような、不快さを感じるのだ。
 きっと私は、腹を立てている。
 私を大切に扱う男の目的が、他の女性との幸せを掴むためであったから。
 どうしてこのような感情を抱くのか。よくわからない。
 アドルフ・フォン・ロンリンギアという男は私を勝手にライバル視し、この二年間、成績を競い続けたのだ。
 彼がいなければ、魔法学校の生活も平和だっただろう。
 そんな相手に、いいように利用されている。気に食わないのも無理はないのかもしれない。

 これ以上、アドルフに時間を割きたくない。そう思って、本題へと移る。

「それはそうと、弟が話しておりましたの。今度、グリンゼルに宿泊訓練に行く、と。アドルフはどうなさいますの?」
「ああ、あれは――子ども騙しのイベントだ。訓練と言っても、そこまで厳しい監視下のもとで行われる行事ではない」

 これから卒業に向けて教育課程が進む生徒たちに、羽目を外す場を設けようとしたのが宿泊訓練らしい。そのため、自由参加となっているようだ。

「俺は行かない。それよりも、魔法書を一冊でも多く読んだほうが、時間の有効活用と言えるだろう」

 まさかの不参加である。アドルフがいなければ、情報を得られないだろう。
 なんとしてでも、グリンゼルの地に誘わなければならない。

 ここでふと思い出す。ヴァイグブルグ伯爵家はグリンゼルに別荘を持っていたはずだ。病弱だった母が療養できるように、父が資金を集め、中古物件を購入したのだ。
 ならばと、ある提案をしてみた。

「あの、わたくしも同じくらいの時期に、グリンゼルに行きますの」
「リオニー嬢も、グリンゼルに?」
「ええ。別荘がありまして。ですので、アドルフもご一緒しません?」

 アドルフは驚いた表情を浮かべ、「リオニー嬢と、一緒にグリンゼルに」などとうわごとのように呟いていた。

「学校の行事もあるでしょうから、常にご一緒できるわけではないでしょうが」
「そう、だな。いいかもしれない。わかった。宿泊訓練に参加しよう」

 アドルフの決定に、テーブルの下で拳を握ってしまった。
 帰りの馬車に揺られながら、とんでもない提案をしてしまったものだと反省する。
 一人二役なんて、初めてだ。
 一瞬、リオルに協力を頼もうか迷ったものの、同級生に発見されたら大変だ。いくら似ている姉弟だからと言っても、性格はまるで違うから。
 クラスメイトに囲まれでもしたら、他人との接触を嫌うあの子は、きっと悪態を打つに違いない。
 私がこれまで築きあげてきたイメージを、壊すわけにはいかなかった。
 この身分が借り物であるというのはよくわかっている。
 わかっているから、卒業までは大切にしたいと考えているのだ。
 アドルフは魔法学校についてどう思っているのか。

「あの、第三学年に進級されたようで。監督生に指名されたとお聞きしました」
「ああ、そうだな。だが――」

 そう言いかけ、アドルフは窓の外に顔を向けた。そのまま、黙り込んでしまう。

「どうかなさったのですか?」
「いや、俺よりも相応しい奴がいたから、指名されても嬉しくなかっただけだ」
「あなたさまよりも相応しいお方なんて、いらっしゃいますの?」

 窓に映ったアドルフの表情は、どこか寂しげだった。
 なぜ、そのような表情を浮かべているのか。
 四大貴族のひとつである、ロンリンギア公爵家の嫡男である彼は、生まれたときからすべてのものを手にしているような男性(ひと)なのに。

「監督生は、リオニー嬢の弟、リオル・フォン・ヴァイグブルグがするべきだったんだ。あの男ほど公平で、生徒を俯瞰(ふかん)で見ることができる者はいない」
「ま、まあ。そう、でしょうか?」
「そうだ。俺は嘘を言わない」

 本当に、その通りである。怒りっぽくて尊大で、暴君な一面があるアドルフだが、根が曲がったことが大嫌いで、嘘を嫌悪している。
 一度、陰湿ないじめを発見したときは、いじめた生徒を徹底的に断罪し、最終的に魔法学校から追放してしまった。
 やりすぎではないか、なんて声もあった。
 けれども彼は非難する者たちを前に、「これは見せしめだ」と言ってのけたのだ。
 苛烈としか言いようがないが、自分の影響力や権力を使い、校内のいじめを徹底的に絶やした功績は認めざるをえない。

「正直、魔法学校は息苦しい場で、居場所がないと感じるときもある」

 それは完全に同意である。少年たちが箱庭に詰め込まれ、多感な年頃を過ごす。逃げ場なんかなく、ただただ決められた道をまっすぐに歩いていくしかないのだ。

「しかしながら、自らを高め合える戦友とも言える者との出会いは、貴重だった。彼のおかげで、魔法学校での日々は悪くなかったと言えるだろう」

 アドルフの取り巻きの中に、戦友とも言える友達がいるということなのか。
 だとしたら、彼の心の中の闇もそこまで深いものではないのかもしれない。

「魔法学校を卒業したら、その男と親友になれるだろうか?」
「今は、違うのですか?」
「違うな」

 アドルフが親友になりたいと望んだら、誰だって喜ぶだろう。そう伝えると、彼は珍しくはにかんだ。
 
「リオニー嬢、ありがとう」

 感謝の言葉を口にするアドルフに、私は微笑みを返したのだった。

「もう長い間、どう接していいのかわからないでいる。どうしても、彼を前にすると、闘争心が湧き出てしまい……」
「素直になれないのですね」
「そうだ」

 具体的に、どういうふうに打ち解けたらいいのか、と質問される。

「そうですわねえ。貸し借りをしてみるのはいかがでしょうか?」
「貸し借りというのは?」
「お友達同士で、自分の私物を貸したり、借りたりするのです。されたことは?」
「ない」

 ロンリンギア公爵家のご子息は、必要な物はすべて手元にある。きっと、貸し借りなんてする必要はないのだろう。

「普段、どういったものを貸し借りしているのだ?」
「たとえば、文房具を忘れたときに借りるとか」
「忘れ物をしたことがない」
「で、でしたら、本の貸し借りは?」
「ああ、なるほど」

 アドルフは「貸し借りか」などとボソボソ呟いていた。
 短い学校生活である。くだらない自尊心は捨てて、友達は大切にしてほしい。
 そんな話をしている間に、我が家へ辿り着いた。

「次に会うのは、グリンゼルでだろうか?」
「ええ」
「楽しみにしている」

 どんな反応をしていいのかわからず、私は頭を深く下げるばかりだった。
 帰宅すると、侍女が慌てた形相で駆けてくる。いったいどうしたというのか。

「リオニーお嬢さま、旦那様が部屋でお待ちです」
「お父さまが?」

 侍女の様子から、きっと何かあったのだろう。
 詳しい話は知らないようで、父から直接聞くしかない。
 しぶしぶと父の執務室へと向かうと、入った瞬間に怒鳴られてしまった。

「リオニー、これはどういうことだ!!」

 父が手にしていたのは、ルミに送るはずだった便箋である。端にインクを零してしまったので、ゴミ箱に捨てていたのだ。

「お前は、アドルフ君との婚約を破棄する計画を立てていたとは――!!」

 なんでもメイドが捨てられた便箋を回収したときに、婚約破棄の文字を発見してしまったようだ。その後、執事に情報が行き渡り、最終的に父が知ってしまったわけである。
 これは、便箋を燃やさなかった私も悪い。一旦、叱咤を受けよう。

「魔法学校にも行かせてやったというのに、お前はどうしてそんな勝手なことをする!?」
「父上、行かせてやったと申しておりますが、学費はリオルが稼いだものではないのでしょうか?」

 父は一瞬うろたえたものの、「そういう意味ではない!!」と言葉を返す。
 魔法学校に通うには、親の許可が必要だ。それを顧みると、父のおかげで魔法学校に行けている、ということで間違いないのだろう。

「婚約破棄して、卒業後はどうするつもりだったんだ? 叔母上のように、慈善活動だなんだって、あちこち放浪するつもりだったのか?」
「それは悪いことなのですか?」
「貴族の家が、結婚していない娘を抱えることの恥を、お前は理解していないようだ」

 貴族女性は家の、はたまた国の繁栄のために結婚しなければならない。そのために美しいドレスを与えられ、恵まれた環境の中で暮らしているのだろう。

「お言葉ですが、子どもというのは、何も自分で産んだ者でなくてもよいと思うのです。養育院の子どもたちを支援し、その子たちが国の未来を作る。そうなっても、貴族女性としての役割は果たせていると――」
「黙れ!!」

 口にしてから、父は言いすぎたと思ったようだ。
 それがわかったので、私は盛大に傷ついた表情を浮かべる。
 そして、思いの丈を父にぶつけた。

「お父さまの石頭!! 一度地獄に堕ちて、サラマンダーの餌になってくださいませ!!」

 そう叫び、部屋を飛び出す。そのままの勢いで私は魔法学校に戻ることとなった。

 父が言っていたことは正論だ。けれども、いい家柄の男性と結婚することが存在理由のすべてでありたくなかったのかもしれない。

 ◇◇◇

 誰とも会いたくないし、話したくない。そう思いつつ、寮の裏口から私室を目指す。
 こういうとき、閑散としている三学年の寮は助かる。なんて思っていたら、背後から声をかけられてしまった。

「おい、リオル・フォン・ヴェイグブルグ、立ち止まれ」

 この尊大で生意気な物言いをするのは、アドルフ以外にいない。
 無視するつもりだったのに、立ち止まってしまった。
 振り返ると、アドルフがつかつかと歩いてくる。また、あら探しでもしていたのか。呆れつつ、腕組みして彼の発言を待った。

 アドルフは視線を斜め下に向け、私に一冊の本を突き出してくる。
 それは、薬草魔法について書かれた魔法書であった。

「な、何?」
「これを貸してやる」
「え!?」

 よくよく見たら、表紙にロンリンギア公爵家の家紋があしらわれた封蝋が押されていた。貴重な魔法書は、盗まれないようにこうして印を入れているのだ。

「以前、薬草学の教師から、お前がこれを読みたがっていたという話を聞いていた。ちょうど家にあったから、貸してやる」

 この本はすでに絶版で、国内でも一部の国家魔法師にのみ閲覧を許可された一冊である。ちなみに父は一部の国家魔法師の中に入っていないため、読むことができない。

 薬草学の先生ですら、目にする機会すらなかったと話していた本である。
 それをなぜ、私なんかに貸してくれるのか。
 首を傾げた瞬間、アドルフは少し照れた様子で物申す。

「これを貸す代わりに、お前が持っている本を貸せ」

 その発言を聞いた瞬間、ピンとくる。
 先ほど、私は彼に言った。

 ――そうですわねえ。貸し借りをしてみるのはいかがでしょうか?

 たしかに貸し借りを勧めた。それを、アドルフは素直に実行した、というわけである。
 それにしても、彼は素直になれない相手と親友になりたい、と言っていた。
 もしかして、それが私(リオル)だった?
 いやいやいや、ありえない。
 彼にとって私は、嫌悪する相手に違いない。
 きっと親友になりたい相手は他にいて、本当に貸し借りで仲良くなれるか試したいのだろう。
 リオニーだけでなく、リオルでも利用しようとしているのか。
 お断りと申したいところだが――薬草魔法の魔法書は読みたい。
 逆に、彼を利用したと思い込めばいい。本だって、その辺にあるものを貸してやればいいのだ。

「わかった。じゃあ、本を貸してあげるから、部屋に来て」
「あ、ああ」

 てくてくと、アドルフと並んで歩く。リオルの姿では初めてだ。なんとなく、リオニーでいるときよりも居心地が悪いのは気のせいだろうか。

 私たちは二年間隣同士だったが、こうしてアドルフを部屋に招くのは初めてだ。
 妙な緊張感がある。

「そこに座って」

 いつもはランハートの特等席になっているひとり掛けの椅子を、アドルフに勧めた。

「なんだ、この古びた椅子は?」
「一年生のときに、監督生をしていた人から貰ったんだ」
「ああ、眼鏡にオールバックの……エルンスト・フォン・マイか?」
「そう」
「なぜ、彼と親しかったんだ?」
「親しくないよ。一学年のとき、縦割りの掃除区域が同じだったから、少し話す関係だっただけ」

 彼も首席だったので、勉強方法や学校での振る舞い方についていろいろ習った。皆の前にいるときは厳格な監督生、という感じだったものの、個人で話すときは親切な上級生、といった雰囲気だった。

「首席が使う角部屋にだけ、ここに窓があるだろう? そこに椅子を置いて景色を眺めると違った風景が見えるからって、くれたんだ」

 ちなみにこの椅子は四十年もの間、魔法学校の生徒に受け継がれているものらしい。私も頃合いを見て、首席の一学年にこの椅子を譲らなければならないのだ。

「ちなみにこれを貰ったのは先輩の卒業前だったんだけれど、二学年は残念ながら次席で――」
「ああ、そうだったな」

 一年間は角部屋を使えなかったので、なんとも悔しい思いをしていたのだ。
 そのため、三学年でこの椅子を窓の前に置けたとき、どれだけ嬉しかったか。
 アドルフがいなければ、私は三年間首席だったのに。

 そんな話はさておいて。アドルフに貸す一冊が決まった。それは、薬草学の基礎について書かれた一冊で、中には私が調べたことのメモや、授業中に教師が話していた内容などがびっしり書かれてある。
 つまりは、落書きだらけの本というわけなのだ。

「これを貸してやるよ」

 差し出された本を、アドルフはキョトンとした表情で受け取る。彼も持っているであろう、どこにでもある本なので、なぜこれを? と思っているに違いない。

 本をパラパラ捲ると、アドルフはハッと肩を震わす。わなわなと震えているように見えた。
 ほら、言ったことか。
 友達の貸し借りというのは、対等な品でできるとは限らない。その辺は、友情をもって補うのだが。
 顔をあげたアドルフは、瞳を輝かせていた。

「ん?」

 思っていた反応と違う。ぜんぜん怒っているようには見えなかった。

「お前、これを借りてもいいのか?」
「え、うん。いいけれど」
「本当に?」
「嘘は言わないよ」

 それはそんなに何度も確認して借りるような本ではない。そう思っていたのだが――。

「私はあまり薬草学が得意ではないのだが、お前の補足を読んでいたら、よく理解できた」
「え、君、薬草学の成績よかったじゃん」
「あれは、丸暗記していただけだ。きちんと理解はしていなかった」

 一学年のとき、よくわかっていなかったものが、私の補足説明を読んだら理解できるようになったという。

「リオル・フォン・ヴェイグブルグ――いいや、リオル。素晴らしい本を貸してくれてありがとう」
「あ、ああ、うん」
「これはお前の努力の結晶だ。心して読ませてもらおう」

 アドルフは爽やかに言って、部屋を去っていった。
 どうしてこうなってしまったのか。部屋にいたチキンに問いかけてみたが、『わからないちゅり』と言われてしまった。
 アドルフから借りた薬草魔法の魔法書は大変素晴らしいものであった。三回ほど繰り返して読み、その後、時間が許す限りノートに写して保管する。
 この貴重な本を長く借りておくわけにはいかないので、一週間ほどでアドルフに返した。

「もういいのか?」
「全部ノートに写したし」
「写しただと? 魔法陣もすべてか?」
「まあ、うん」

 呪文や魔法陣の中には、魔法式を理解しないと記録できないものが多い。借りた本に書かれてあった内容は、それがほとんどだった。だからアドルフは驚いているのだろう。

「リオル、お前は魔法学院に進むのか?」
「だとしたら、どうするの?」
「魔法学院には、高名な魔法薬学の教授がいる。ただ高齢で、誰かの紹介がないと授業をしてくれないらしい。お前が望むのならば、紹介状を父に書かせるが」
「いや、大丈夫。魔法学院には行かないから」

 魔法学院というのは、魔法をさらに専門的に学ぶ場所である。主に魔法師になる者が進む道だ。

「行かない……? お前、まさか魔法騎士にでもなるつもりなのか?」

 文武両道の魔法騎士は、魔法学院に進学せずに魔法学校を卒業したあとに進む道である。ここに通う生徒の三分の一は、魔法騎士になるのだ。

「魔法騎士にはならない。僕は実家で家業を手伝いながら、ひとりで研究をする」
「は!? お前、才能を無駄にするつもりか!?」

 アドルフは私の肩をガシッと掴み、血走った目で訴えてくる。

「お前ほど熱心に魔法を学び、真面目で、周囲の人間からも好かれる奴なんて他にいない。家に引きこもって孤独に研究をする将来なんて、ありえないだろうが!」

 なぜ、私はアドルフに褒めちぎられ、将来の心配をされているのか。
 そういうふうに思われていたなんて、知らなかった。

「なんだか知らないけれど、褒め言葉だけ受け取っておくよ」
「ほめ――!? ほ、褒めてない!!」

 私が本当のリオルだったら、魔法学院に通いたかった。魔法薬学の権威とも会ってみたかったし、将来の選択についていろいろ考えてみたかった。
 けれども私はリオルではない。貴族の家に生まれた女――結婚以外に役に立つ術なんてないのだ。
 父との約束は魔法学校を卒業するまでだったし、これ以上、自由気ままに過ごせないだろう。

「お前、いったい何を考えているんだ!」
「いろいろ考えているよ。でもそれは、君には言えない」

 そんな言葉を返すと、アドルフは傷ついた表情で私を見つめる。
 なぜ、そういう反応をするのか。
 まったくわからなかった。

 ◇◇◇

 三学年になってから、ようやく大叔母が発明した〝輝跡の魔法〟について学ぶ時間が取れるようになった。
 輝跡の魔法というのは、流れ星や花火など、見るものを魅了する魔法のイルミネーションだ。
 これの基盤となっているのは、光魔法である。
 光魔法というのは厄介なもので、火属性、風属性、土属性、水属性の四元素(エレメント)をきちんと理解しないと使えない。
 一学年と二学年で四元素についての授業が終わったため、やっと輝跡の魔法に取りかかれるというわけだ。
 大叔母は魔法学校に通わず、独自で魔法を編み出した。本物の天才なのだろう。
 そんな輝跡の魔法の中で、私は植物を使った魔法を実現させたいと考えていた。
 たとえば光る蔓だったり、魔石灯代わりに使える花だったり、輝く花飾りだったり。
 大叔母が考えた輝跡の魔法を応用できるように、薬草学の授業を特に真剣に聞いていたのだ。
 もしかしたら、これで商売ができる可能性だってある。大叔母に頼んで特許を取り、貴族相手に販売する。
 それを資金として、養育院の子どもたちに魔法を教えられたら――どれも夢みたいな話だ。まったくもって現実的ではない。

 貴族に生まれた女性は、籠の中の鳥だ。自由に空をはばたくことさえ許されていない。
 これからどうなるのか。自分のことなのに、まったく想像できないでいた。

 バタバタと忙しく過ごしているうちに、宿泊訓練に行く前日となっていた。
 一人二役をし、アドルフの心に秘める女性を捜索する。
 それを知ってどうするのか。計画を打ち明けたルミに聞かれてしまった。
 それをネタに婚約破棄をする予定だが、あまり派手な騒ぎにはしたくない。
 父からも「余計なことをしたら勘当する!」と言われているのだ。
 さすがの私も、今の状態で路頭に迷うことになったら、生きていけないだろう。
 理想は、アドルフのほうから婚約を辞退することである。
 ロンリンギア公爵家からの申し出があれば、父は何も言えまい。
 婚約破棄の鍵を握るのは、薔薇と恋文を受け取り続けていた女性の存在なのだ。
 ドレスは先に別荘に送っている。侍女も現地まで足を運んでくれるらしい。
 一人二役は早着替えが重要となるので、非常に助かる。
 服を詰め終えると、盛大なため息がでてきた。
 グリンゼルでの宿泊訓練は、二泊四日。その期間に、上手くアドルフの想い人を発見できるのか。正直に言って自信はない。けれどもやるしかないのだ。

 目指せ、婚約破棄という目標に迷いはない。
 アドルフ、見てろよ! という意気込みでグリンゼルへと向かったのだった。

 湖水地方グリンゼルまで、王都から馬車で一日半かかる。
 一日目の夜は宿に宿泊し、翌日の昼頃に到着するという予定だった。
 それが突然覆る。
 魔法学校の校庭に、ワイバーンが並んでいた。どうしてこうなってしまったのかと、呆然としてしまう。

 チキンはワイバーンを前に、闘争心を剥き出しにしていた。

『あんな小竜、ひとひねりにできまちゅり』
「はいはい」

 小鳥ほどのサイズしかないチキンが、ワイバーンにどうやって勝つというのか。
 竜種の中でいったら、ワイバーンは小型に分類されるようだが。
 ワイバーンの気を逆立たせたら大変なので、チキンはポケットの中に突っ込んでおいた。

 ランハートは瞳をキラキラ輝かせながら、ワイバーンを眺めている。

「おお、リオル、あっちに白いワイバーンがいるぜ! きれいだなー!」
「ああ、そうだね」
「お前、なんでそんなに落ち着いているんだよ」
「びっくりしすぎて、言葉がでないだけ」
「本当か~?」

 他の生徒も、ランハート同様に興奮していた。
 魔法学校の紳士教育とはいったい……。三学年になって落ち着いたと思いきや、すぐこれである。

 ただ、それだけワイバーンという存在が珍しいのだ。
 現に、噂話を聞いた新聞社の記者が、ワイバーンについて取材させてくれとやってきたくらいである。
 今回のワイバーンの運用はイレギュラーな事態であったため、取材は断ったようだ。

 ここにいるワイバーンは、竜車用に集まったものである。竜車というのは、空飛ぶ馬車と言えばわかりやすいのか。
 馬車で一日かかるグリンゼルまでの距離も、竜車だと三時間で済むらしい。
 竜車は国内の貴賓を運ぶために運用されているが、それがどうしてか魔法学校に集結していた。
 その理由は、ひとりの生徒に所以(ゆえん)する。
 アドルフ・フォン・ロンリンギア――彼が父親の縁故(コネクション)を使い、三学年の生徒全員が竜車で移動できるよう手配してくれたのだ。

「どうだ、リオル? 竜車は素晴らしいだろう?」

 そんなことを言いつつ、背後より突然登場したのは、アドルフであった。
 なぜか、自費生が着用する外出用の外套をまとい、頭巾を深く被っていた。

「アドルフ、監督生の外套はどうしたの?」
「鞄の中だ。今回は抜き打ちで生徒のふるまいを監督するため、このような恰好でいる」

 きちんと教師の許可を得ているのだという。そういうところは抜かりない。

「あとは、他の生徒に見つからないようにな」

 竜車を前に瞳を輝かせるクラスメイトは皆、口々にアドルフはすごい、と絶賛していた。きっと見つかったら、もみくちゃにされるだろう。

「俺とリオルは、ふたり乗りの竜車を用意した。こっちだ」

 一方的に宣言し、アドルフは回れ右をして歩き始める。
 それを見ていたランハートは、訝しげな様子で話しかけてきた。

「なんだよ、お前たち、いつの間に仲良くなったんだ?」
「さあ?」
「当事者なのにわからないのかよ」

 仲良くなったわけではないが、一回目の貸し借りをきっかけに、少しだけアドルフを理解できたような気がする。

 あの日以降、私たちは苦手な教科のノートを貸し借りするような仲となった。
 実技魔法のコツも教えてもらい、以前よりは苦手意識がなくなったような気がする。
 かといって、友達というわけではない。少し話せるクラスメイト、みたいな認識である。

「たぶん、自分だけ別の竜車に乗ったら、あとで非難されると思ったのかも」
「なるほどなー。アドルフ、賢い奴め」

 ここでアドルフが振り返り、「ついてこいと言っただろうが!」と叫ぶ。
 彼の取り巻きになったつもりはないのだが。

「じゃあランハート、またあとで」
「おう!」

 小走りでアドルフのもとを目差し、一緒に小型の竜車に乗りこんだのだった。
 車内は案外広かった。上質な革張りのシートで、腰かけるとしっかり体を支えてくれる。

 この車体を引くのは、先ほどランハートが発見した白いワイバーンである。

「メスのワイバーンだ。オスよりも従順で、飛行も丁寧だ」
「へえ、そう」
「以前、馬車が苦手だと話していただろう? 竜車は馬車ほど揺れない」
「あ――うん」

 少し前に、馬車酔いするという話を彼にしていたのだ。まさか、それを覚えていたとは。

「そういえば、リオニー嬢も馬車が苦手なのか? 思い返してみたら、顔色が悪かったような気がする」

 女性は化粧をしているので、顔色で判断できなかったのだという。

「ああ、姉上も馬車が得意ではない」
「だったら、次回の外出は竜車にするか」
「絶対に止めて!」
「ん?」
「あ、いや、うちの庭はワイバーンが降りられるほど広くないから」
「そうか」

 どでかい竜車なんかが貴族街にやってきたら、目立ってしまうだろう。
 同時に、私がアドルフから竜車の迎えがあった、などという噂話が出回るに違いない。
 その話が記者に伝わり、ゴシップ誌に〝成金伯爵令嬢、公爵子息との仲は良好〟などと掲載されたら、恥ずかしくて二度と社交の場に顔を出せなくなる。
 それだけは絶対に阻止しないといけないだろう。

「もう少し手配が早くできたら、リオニー嬢も竜車で一緒に行けたのだがな」
「あー、そうだねー」

 思わず、棒読みになってしまう。
 リオニーは三日前から出発し、すでにグリンゼルにいる、という設定である。
 正確に言うと、三日前に出発したのは侍女たちだ。念のため、侍女のひとりに私に変装してもらっている。
 その辺の工作はしっかり計画済みだった。

 そんな話をしているうちに、ワイバーンがもぞもぞ動き始め、翼を大きく広げた。
 竜車を操縦するのは、国家魔法師である。
 魔装線路と呼ばれる魔法の線路を作り出し、その上をワイバーンが飛んでいくのだ。
 魔法師が杖を振りつつ、呪文を唱える。すると、線路が地上から空へ伸びていった。

「わ、すごい……!」

 アドルフも竜車に乗るのは初めてのようで、車内にある御者席を覗き込める小窓から、魔法師の様子を興味津々とばかりに眺めていた。

 ついに竜車が動き始める。上昇中はさすがに揺れるだろうと思っていたが、車内に影響はない。

「これは、どうして?」
「魔法師が車内の重力制御を行っているからだ。この辺は操縦する者の腕の見せ所だな」
「そうなんだ。すごい技術だ……!」

 どんどん竜車は上昇していき、魔法学校が小さくなっていく。

「あ――魔法学校って、大きな魔法陣なんだ」  
「知らなかったのか? 入学式のときに、校長が話していたが」
「話が長かったから、聞き流していた」

 魔法学校の校舎は魔法の要となっており、水晶でできた温室が魔石代わりとなっている。

「信じられない。魔法学校自体が、巨大な結界なんだ」

 生徒の安全を守るために、初代校長が作ったものらしい。
 当時は生徒を集めるために、王族も通っていた。そのため、守りが必要以上に強固にしていたのだろう。

「アドルフが竜車に乗せてくれなかったら、一生知らなかった」
「そうだろう?」

 いつになく優しい声で、アドルフは返す。
 思わず顔を見たら、淡く微笑んでいた。
 それはリオニーと一緒にいるときにのみ見せていた、優しい笑みだった。
「おい、リオル、下を見てみろ」

 別部隊の竜車が飛んでいるらしい。覗いてみると、黒いワイバーンが左右に揺れつつ飛んでいる。

「うわ、あれって大丈夫なの?」
「中は大揺れだろうな」

 ワイバーンが悪いわけではなく、操縦する魔法師の魔法が上手くいっていないので、あのように大きく揺れているらしい。

「あの様子じゃ、重力制御もできていないな」
「じゃあ、中にいる人たちは?」
「右に、左にと大揺れだろう」
「うわあ……」
「しかしまあ、あれは訓練用の車体で、体を固定する装備が座席にあるだろうから、三半規管が弱くなければ平気だろう」
「そ、そっか」

 私があれに乗っていたら、胃の中のものをすべて出していたかもしれない。
 アドルフがこの竜車に誘ってくれて、心から感謝した。

「それはそうと、訓練用って?」
「これは竜車を操縦する魔法師の訓練の一環だ」
「そうだったんだ!」

 ちなみに、私たちが乗っているのは教官の竜車らしい。普段は貴賓相手の飛行もしているようで、安定しているわけである。

「教官だから、わかりやすいように白いワイバーンなの?」
「そうなんだろうな」

 なんというか、いろいろ腑に落ちた。

「おかしいと思っていたよ。魔法学校の生徒の移動に、貴賓用の竜車を出すなんて」
「一応、校長に許可は取っている」

 生徒にも乗車前に伝えているらしい。拒否した生徒は魔法生物学の先生の使い魔である翼のある白馬、ペガサスに乗って行くようになっているのだとか。

「ペガサスは飛んでいないな。拒否した生徒は見当たらないようだ」
「みんな、怖いもの知らずだ」
「嬉々として乗っていたと思うがな」

 そういえばと思いだす。数年前にガーデンパーティの見世物として、馬術ショーが行われた。そのさい、馬が暴れて大騒ぎになったのだ。
 女性陣の多くは眉を顰めていたが、男性の大半はいいぞ、もっとやれと盛り上がっていた。きっと予想外のトラブルを前にしたら、逆にワクワクしてしまうのだろう。
 この辺の感覚は、人それぞれなのだろうが。

「リオル、下の竜車、安定してきたぞ」
「あ、本当だ」

 アドルフと顔を見合わせ、笑ってしまった。
 ひととおり竜車を堪能したあとは、各々持参していたノートの交換を行う。
 今回は独自に行った試験対策ノートの貸し借りをしたのだ。
 アドルフは私と目の付け所がまったく異なる。ここをこう勉強するのか、という新しい発見があった。
 悔しい気持ちになったものの、アドルフも同じことを思っていたらしい。

「今回の試験対策は自信があったのだが、たくさん抜けがあったようだ」
「僕も、同じく」

 真剣にノートを読んでいる間に、グリンゼルに到着した。

 ◇◇◇

 国内有数の美しい景色があるという観光地、湖水地方グリンゼル。
 教師が冬用の外套を用意しておくように、と注意したわけを身をもって実感する。
 王都よりも北寄りにあるからか、風が冷たく肌寒い。
 ただ、湖は見にくるだけの価値がある。
 水面には美しい紅葉が映し出されていた。けれども少し風が吹いただけで波紋が生まれ、その景色は消えてしまうのだ。なんて儚く、美しいものなのか。
 隣に立つアドルフも、同じことを思っていたようだ。

「驚いた。湖というのは、このように美しいのだな」
「そうだね」

 しばし見とれていたようだが、他の竜車が到着すると踵を返す。

「引率の教師陣が到着したようだ。次の指示を待とう」
「わかった」

 三時間ぶりの再会を果たしたクラスメイトたちは、出発前よりも興奮していた。
 空を飛ぶ竜車の旅は、彼らにとって大きな刺激だったらしい。
 中でも、ランハートが乗っていた竜車は特に揺れていたようだ。

「なんかもう、すごかったんだよ。このまま空に放り出されるかと思った!」
「よく、訓練生の竜車に乗ったよね」
「だって、竜車なんて、二度と乗れないかもしれないだろう?」
「たしかに、それはそうかもしれないけれど」

 教師陣が生徒に指示を出す。グリンゼルにいる間は、常に使い魔を使役していなければならないらしい。
 ランハートは一学年のときに召喚したカエルを胸に抱いていた。前に見たときは普通サイズのカエルだったが、今は小型犬くらいの大きさになっている。

「うわ、そのカエル、そんなに大きくなったんだ」
「可愛いだろう?」
「すごいけれど、可愛くはない」

 カエルにとって湖水地方の気候は過ごしやすいようで、ゲロゲロと元気よく鳴いていた。

「大きいと言えば、アドルフのもすごいな」
「ああ、あれね」

 アドルフが召喚したフェンリルは一回り以上成長していた。あの使い魔を連れていると、いつも以上に威圧感がある。

「リオル、お前のところのカツレツはちっこいままだな」
「カツレツじゃなくてチキンね」

 三年間で成長を見せる使い魔たちだが、チキンはそのままだった。大きくなってポケットに詰め込めなくなったら困るので、この先ずっとこのままでいてほしい。

 生徒が集まると、宿泊訓練についての説明が始まった。
 事前に現地で何をするのか、というのは知らされていない。内容によって、出席する、しないを決める生徒がいるからだという。
 参加は自由だが、個人個人の自主性を高める訓練でもあるため、スケジュールは現地で話すようだ。
 まず、一日目はレクリエーションを行う。
 なんでも、内容は毎年異なるらしい。去年の先輩は森に隠された魔法巻物(スクロール)を探し、発見したものは入手できる、というものだった。
 魔法巻物の中には貴重な転移魔法もあったようで、大いに盛り上がったらしい。
 今年はいったい何をするのか。ドキドキしながら教師の話に耳を傾ける。

「レクリエーションについて発表する。これから全員くじを引いて、ペアを作ってもらう。そのペアで森に行き、食材探しをしたあと調理。完成した料理を一口提出し、教師が食べて採点する。点数によって、特別な魔石を与える、というものだ」

 別の教師が盆に載った魔石を見せてくれた。
 炎の魔石に雷の魔石、光の魔石に闇の魔石――学生の身分では手に入らないであろう、稀少な魔石の数々であった。

 中でも、光の魔石は特に珍しい。めったに市場にも出ない、という話を耳にしていた。
 光の魔石は輝跡の魔法を使うさいの素材にもなる。
 ぜひとも欲しい。

「森には木の実、キノコ、ウサギやアナグマ、魚など、豊富な食材がある。持ち帰った食材は、一度提出するように。毒が含まれたものがないか、こちらで選別する。まあ、これまでの授業を真面目に聞いていたら、食べられるか、食べられないかくらいはわかるだろう。ちなみに、森はほどよく整備されていて、魔物は出現しない。けれども絶対とは言えない。気を抜かないように」

 森の中には毒を持つ植物や生き物がいるらしい。
 なんでも口にせず、動物とも触れ合わないようにと、教師は口を酸っぱくするように注意していた。
 それだけでは物足りないと思ったのか、生徒全員に解毒薬や血止めなどの薬が入ったパックが配られた。
 信用がないものである。

 そんなことはさておいて。食材探しと調理が課題らしいが、食材探しはさておき、調理は得意だ。
 養育院で子どもたちに出す料理を作っていたし、魔法学校では寮母の軽食作りを手伝ったこともある。
 他の生徒よりも、上手く作れる自信があった。
 問題は、ペアとなる生徒だ。
 なんでも三学年ごちゃまぜにくじを引くのではなく、クラスごとになっているらしい。
 ここで、教師から驚愕の事実を知らされる。

「今日、皆が宿泊するのは南の方向に見える小住宅(バンガロー)だが、組んだペアの者と泊まってもらう。夜、レポートもまとめやすいだろう」

 ひとり部屋でないだろうとは思っていたが、まさかふたりっきりで宿泊しないといけないなんて。
 なんとかペアになった生徒に話を付けて、別荘に行けたらいいのだが……。
 そんなことを考えているうちに、くじ引きが始まった。
 隣にいたランハートがぼやく。

「くじかー。自由にふたり組になれって言われたら、リオルを選ぶんだけどなー」

 私も、未来の魔法騎士さまと一緒だったら心強かったのだが。
 ランハートと共に、とぼとぼ歩きながらくじを引きにいった。
 ほとんどの生徒が引いたらしい。すでにペアになっている者たちもいる。
 先にランハートが引いた。ふたつ折りになった紙を開く。

「お、犬の絵が描いてあるな」
「だったら俺だ」

 クラスメイトのひとりが、犬が描かれた紙を掲げながら挙手する。
 奇跡が起きて、ランハートとペアになるという望みが潰えてしまった。
 続いて私の番だ。
 ランハート以外のクラスメイトで打ち解けている者なんていない。広く浅い付き合いをするばかりである。だから、誰であろうと一緒――なんて思考を一次停止させる。視界の端に、フェンリルと佇むアドルフが映った。まだペアが決まっていないようだった。
 アドルフは気まずい、アドルフとペアは嫌だ。
 なんて思いながらくじを引く。ハラハラしつつ、くじを開いた。

「猫の絵のひと、いる?」

 クラスメイトにそう問いかけたら、ひとりの男が手を挙げた。

「俺だ」

 アドルフだった。
 そうなるんじゃないかって、ほんの僅かだが思っていたのだ。
 なんてくじ運が悪い……。

 アドルフは私のもとへつかつか歩いてくると、肩をポンと叩きながら言った。

「リオル、よろしく頼む」
「まあ、うん、よろしく」

 意外や意外。アドルフは私とペアを組むことに、嫌悪感は抱いてそうにない。
 上手く利用できると思っているのかもしれないけれど。

 果たして、レクリエーションは彼と上手くいくのか。まったく想像できない。
 そもそも、彼は家で大人しくしているタイプにしか思えなかった。外で活発に活動する姿なんて、想像すらできない。
 大型の使い魔であるフェンリルがいるのは心強いが。
 チキンはフェンリルを前にしても、堂々たる態度でいた。

『ちゅり! 図体だけが大きい獣なんかに、負けないでちゅり!』

 その自信はどこからやってくるものなのか……。
 フェンリルはまったく相手にしていなかった。

 そんなことはさておいて。夜、アドルフと同室で過ごさなければならないというのが憂鬱だ。
 監督生である彼の目を盗んで別荘に行くことなど、不可能に近いだろう。
 今晩は眠れそうにない。

 ペアが組めた者には、森の地図が配布された。
 貴族の行楽のために作られた森のようで、食材がある場所がわかりやすく書かれていた。
 ウサギやアナグマなどは、狩猟区で獲れるらしい。内部には猟場管理人(ゲームキーパー)がいて、猟犬や猟銃なども貸してくれるという。
 森の中にいくつかチェックポイントが用意されていて、その場に教師がいるらしい。エリアごとにある食材を入手し、地図にスタンプを押して回って全部集めると、翌日の自由時間に使えるボート券が貰えるようだ。

「リオル、君はどういう作戦を考えている?」
「うーん、今のシーズンだったら、アナグマが絶品かな」

 秋に実る木の実やキノコをたっぷり食べたアナグマは、脂が乗っていておいしい。
 貴族は秋はウサギこそが絶品というが、個人的にはアナグマのほうが味がいいと思っている。

「アナグマか……」

 アドルフの顔が若干引きつっている。食べたことがないようで、どんな味か想像できないのだろう。

「そのアナグマはどう調理するんだ? そのまま焼くのか?」
「いや、けっこう脂っぽいから、教師陣の受けは悪いかも」

 若い教師であれば、焼いたものに香辛料をかけたものだけでも満足するだろう。
 しかしながら、教師陣の平均年齢は四十代後半くらいか。脂の多い肉は胃もたれするに違いない。

「キノコと煮込んで、スープにしたらさっぱり食べられるかも」
「なるほど。目当てはアナグマとキノコだな。その料理の作り方はわかるのか?」
「アナグマを解体してもらえたら、まあ、なんとか」
「わかった」

 アドルフは地図を目で追い、動線を考えているようだ。食材探しのリーダーを務めてくれるらしい。

「リオル、行くぞ!」
「はいはい」

 そんなわけで、アドルフと一緒にレクリエーションに挑む。 
 森に行く前に、小住宅の鍵が手渡される。荷物を運ぶ、動きやすい恰好に着替えるようにと指示を受けた。

 木造、平屋建ての一軒家を前に、アドルフはボソリと呟く。

「これは、エルガーの小屋みたいだ」

 エルガーというのは彼の使い魔であるフェンリルの名前だ。こんな立派な家を与えられているとは。
 というかこれから二泊する家を、犬小屋みたいだと言わないでほしい。

「アドルフ、これは一般的な小住宅の規模だよ」
「そう、なのか。初めて知った」

 お坊ちゃん育ちであるアドルフは、当然小住宅なんて知るわけもない。
 私も初めてだが、知識としてそういうものがあると把握していた。
 
「リオル、入ってみよう」
「そうだね」

 フェンリルは体が大きくて入れなかったので、バルコニーで待機だ。
 鍵を開き、中へと入る。内部は二段に重なった寝台が置かれただけの、シンプルな室内だった。

「な、何もないではないか!」
「ここ、小住宅だから」
「最低限の設備はあると思っていたのだが」
「それは|貸し別荘(コテージ)だよ」

 宿泊訓練はあくまでの授業の一環だ。旅行のように快適な空間で寝泊まりできるわけがないのだ。

「本当に、ここで二泊もするのか?」
「するよ」
「暖炉や風呂、洗面所もないような場所で?」
「もちろん」

 お風呂は温泉施設がある。そこで、身なりを整えるのだろう。
 私は実家の別荘で済ませる予定だ。
 普段、私やアドルフは部屋に備え付けられているお風呂に入っている。アドルフなんかは集団で入浴するのは初めてではないのだろうか。
 明らかに戸惑っている様子を見せていた。
 寝台にはカーテンが付けられていて、着替えはなんとかなりそうだ。
 雑魚寝の可能性も考えていたが、想像よりはいい環境なのかもしれない。

「アドルフは寝台の一段目と二段目、どちらがいい?」
「別に、どちらでもいいが」

 二段目を選んだら、「馬鹿と煙は高いところが好きだよね」なんて言おうとしたのだが……。さすが、学年次席といったところか。

 まあなんにせよ、二段目だったら突然アドルフが降りてきて驚く、ということもないだろう。ありがたく使わせてもらう。
 
「じゃあアドルフ、十分で着替えて集合でいい?」
「五分でもいい」
「じゃあ五分で」

 お坊ちゃんはお着替えに時間がかかると思っていたのだが、そうではなかったようだ。心の中で謝っておく。

 魔法学校の野外活動着は、普段、貴族がまとっている狩猟服に似たものである。
 タイを巻いたシルクブラウスに緋色(スカーレット)のジャケットを合わせ、白いズボン、黒いブーツを履くのがお約束だ。
 急いで着替え、二段重ねの寝台から降りる。私から遅れること一分後に、アドルフが出てきた。
 
「リオル、出発前に互いの使い魔の能力について把握しておこう」
「うん、いいよ」

 まずはアドルフの使い魔、フェンリルのエルガーについて教えてくれた。

「エルガーは氷属性で、魔法がいくつか使える。牙や爪は鋭く、物理攻撃も可能だ。力持ちだから、荷物も運べる」

 フェンリルはかなり有能な使い魔のようだ。
 続いて、チキンについて説明する。
 どこから自信が湧き出てくるのか、チキンは私の肩の上で胸を張っていた。

「この子、チキンは怖いもの知らずで、気性が荒くて、落ち着きがない。以上」

 チキンは満足げな表情で、こくこくと頷いていた。

「リオル、その使い魔の能力は?」
「右ストレート?」
「鳥が物理攻撃をするのか?」
「するよ。けっこう痛い」

 チキンは毎晩私の寝台に潜り込んで眠るのだが、これがまあ、寝相が悪い。
 何かと戦っている夢をみていたときは、私のみぞおちにパンチしていたのだ。
 一撃食らったあと、古代文字の課題で使う石版(タブレット)があったので、チキンと私の間に差し込んでいた。
 一晩中パンチを受けていたら、内出血していたに違いない。

 それにしても、フェンリルと比べたときのチキンの能力といったら……。正直、使い魔の能力としては下の下だ。
 雨魔法が使えるランハートのカエルのほうが、能力は上だろう。
 一応、チキンの名誉のため、付け加えておく。

「まあ、空が飛べるのだから、上空から偵察くらいできるかもしれないね」
「期待しておこう」

 準備が整ったので、森を目指す。
 小住宅街から森まで、徒歩三十分といったところらしい。

「エルガーの背中に乗ったら、三分で到着する」

 一緒に乗ろう、と誘ってくれた。フェンリルは私も背中に乗せてくれるらしい。
 乗馬の授業がそこまでよくなかったので、若干不安になる。

「毛の束を強く握っておけば落ちない。馬より安定しているから、安心しろ」

 フェンリルは伏せの姿勢を取る。先にアドルフが跨がり、私に早く来いと手招きする。
 アドルフよりも前に座るらしい。
 恐る恐るといった感じで、背中に跨がった。

「わ、ふかふか!」

 フェンリルの毛並みは信じがたいほどフワフワしていて、触り心地は極上だ。
 毛を掴んでも痛がらないので、しっかり持っても問題ないという。
 走行中、チキンを落としたら大変なので、ジャケットの胸ポケットに突っ込んでおいた。
 
「リオル、握ったか?」
「ああ」

 アドルフがフェンリルの腹を踵で軽く叩くと、立ち上がった。

「わっ!」

 目線は馬よりも高い。本当に馬より安定しているのか。

「行くぞ」
「わかった」

 そう返事したのと同時に、フェンリルはバルコニーから地上へ降りるために大跳躍をしてみせた。
 悲鳴はなんとか呑み込み、奥歯を噛みしめる。

「舌を噛むなよ」

 その言葉が合図となり、フェンリルは走り始めた。
 軽やかに駆け、景色はめくるめく変わっていく。
 楽しむ余裕なんてない。振り落とされないように、しがみついておくので必死だった。
 フェンリルは風のように走る。あっという間に森に到着した。
 途中、生徒たち数名とすれ違った。背中に乗って移動できる使い魔はアドルフのフェンリルだけだったので、森への到着は一番乗りだったわけだ。
 グリンゼルの森は全域柵に覆われていて、内部はきちんと管理されているらしい。
 そのため、魔物が出現しないと言われているようだ。

「リオル、どこから行こうか?」
「獲物は持ち歩いていたら傷みそうだから、最後かな」
「そうだな」

 アドルフはチェックポイントも制覇するつもりらしい。さすがに、森の中はフェンリルに乗れない。徒歩ですべて回るつもりのようだ。
 きちんと方位磁針を持参し、地図を険しい表情で眺めている。
 チェックポイントは全部で六カ所。
 木の実エリア、キノコエリア、魚エリア、狩猟エリア、森菜(しんさい)エリアに天然水エリア。

「ここから一番近いのが、木の実エリアだな。そこから回っていくか」
「了解」

 なるべく食材集めに時間をかけたくない、という方針は私とアドルフの中で固まっていた。こういうとき、他のクラスメイトだったら「気楽にやろうぜ!」とか言って、釣りを楽しんでいたに違いない。

 急ぎ足で木の実エリアを目指す。すると、真っ赤な実を生らしたイチゴを発見する。
 甘い匂いが辺り一面に漂っていた。

「これは――」
「ヘビドクイチゴ、食べられない」
「ああ、これがそうなのか」

 毒と名が付いているものの、食べても死ぬわけではない。軽く腹を下す程度だ。
 いい匂いがするので、食べてしまう人があとをたたないため、毒の名が付けられたのだという。さらに、毒ヘビが好んで食べるから、というのも由来のひとつだ。

 アドルフはヘビドクイチゴというものがあるのは暗記していたものの、どれがそれに該当するかまでは知らなかったという。

「教科書ってさ、情報のみ書いてあって、参考図がないものも多いよね」

 見た目の絵などがないときは、図書館に行って調べていたのだ。

「そういえばリオルの参考書には、参考図がないものの絵が差し込まれていたな。ずいぶんと上手かったが、あれは自分で書いたのか?」
「見よう見まねだよ」
「なるほどな。お前は本当に勤勉な奴だ」
「アドルフには敵わないけれどね」

 奥までいくと、低い木に実ったベリーを発見した。

「あっちはグースベリー、そっちはクランベリー、あれはブラックベリーにラズベリー」

 ベリーの旬は夏や秋とそれぞれ異なるものの、ここにあるものは魔法で生育管理がされているようだ。そのため、ベリーの楽園のようになっている。
 食後のデザートとして食べるため、生食に向いているベリーを摘んでおく。
 さらに先に進むと、教師が待ち構えていた。

「おお、お前たちが一番だ。さすが、首席と次席のコンビだな」

 フェンリルのおかげで、木の実エリアの一番を取れたのである。
 地図を広げると、スタンプを押してくれた。

 教師はカゴを覗き込み、ヘビドクイチゴがないか確認する。

「よしよし。妙なもんは入れていないな。何がダメだったかわかったか?」
「ヘビドクイチゴ」
「そうだ」

 毎年、レクリエーションをするさいに、生徒は必ずヘビドクイチゴを食べてしまうらしい。

「授業のたびに、自生している植物は専門家の確認なしに口に入れてはいけないと言っているのに、あいつらは聞く耳を持たん」

 身をもって学んでもらうために、ヘビドクイチゴについては注意しないという。
 そういう目論見があるので、薬を全生徒に渡していたのだな、と納得してしまった。
 教師と別れ、次なる目的地を目指す。

「次はキノコエリアだ」

 そこは木の実エリアとは比較にもならないくらいの、毒キノコが生えていることだろう。

「キノコも正直自信がないな。リオルはどうだ?」
「僕は選択授業で魔法キノコの学科を選んだからね」
「あれを選んだ奴っていたんだな」
「いたよ。僕ひとりだったけれど」

 その知識が、今役立つとはまったく想定していなかった。
 キノコエリアでは、食材の臭い消しに最適な香り茸と肉料理と相性がいいコショウ茸を入手する。それ以外にも、旬のキノコを手に入れた。
 ここでも、チェックポイントで教師からスタンプをもらった。

「次! 魚エリア」

 ここには、生徒が数名いた。入り口からまっすぐ進むと、比較的早くここに辿り着くのだ。
 大きな池のほとりには、小屋があった。そこで釣り竿を借りられるらしい。
 皆、楽しそうに釣りをしていた。

「アドルフ、どうする?」

 私たちは釣りに関しては未経験である。他の生徒も、そこまで釣れているようには見えない。
 食材を入手しないとスタンプが貰えない。何か仕掛けを作って帰りがけに回収しようか。なんて考えていたら、アドルフがぬかるみのほうを指差す。

「何かあるの?」
「おそらく、あるはずだ」

 フェンリルはぬかるみに足を取られたら大変なので、池のほとりで待機を命じていた。
 慎重な足取りで近づき、ナイフで泥を掘り起こす。
 途中でカツン、と硬いものに当たる音がした。
 アドルフは手袋を装着し、泥を掘り返す。

「あった!」

 出てきたのは、大きな貝だった。

「それは、もしかして大黒貝?」

 アドルフは深々と頷く。以前、生物図鑑で読んだ大黒貝の生息地を記憶していたらしい。泥臭いが、味はおいしいと聞いたことがある。

「これ、私の腕ではおいしく調理する自信はないんだけれど」
「安心しろ」

 アドルフは魔法で水球を作りだし、そこに獲れた大黒貝を入れる。水に風魔法を加えると、くるくる回り出した。すると、瞬く間に水が真っ黒になる。

「あ、泥抜きしたんだ」

 こればかりは、さすがだと思ってしまう。魔法と魔法を掛け合わせるのは、高い技術と集中力を必要とするのだ。まさかそれを、アドルフが軽々とやってのけるとは。
 魚エリアでは、大黒貝をいくつか入手した。
 アドルフが採取用の瓶を持ってきていたので、そこに大黒貝を入れる。
 塩水に浸けておくと、さらなる泥抜きの効果があるらしい。池の番人から塩を分けてもらい、瓶にさらさらと入れておく。
 魚エリアにいた教師が大黒貝を見て「それが大正解だ」と言っていた。

「実を言えば、ここの池で一番おいしいのは大黒貝だ。池の魚は泥臭くて食べられるもんじゃない。塩水でしっかり泥抜きしておけば、極上の味わいになる」

 これから池の魚料理を食べさせられる教師を思うと、なんとも切なくなる。
 生徒たちは良家の子息ばかりで、調理なんて知っているわけがない。きっとシンプルに焼いただけの魚を出してくるのだろう。
 泥抜きしていない魚を食べさせられるなんて、想像しただけでもゾッとしてしまった。 心の中で教師にエールを送りつつ、魚エリアを離れる。

 木の実エリア、キノコエリア、魚エリアと順調に素材とスタンプを集めていく。
 近くにある狩猟エリアを飛ばし、森菜エリアにやってきた。
 森菜というのは、森に自生する野菜のような植物である。
 ここでは野草人参(やそうにんじん)に小玉葱(こたまねぎ)、キャベツ草を発見。スープの材料にするために取っておく。
 教師のスタンプを貰い、森菜エリアは制覇した。
 天然水エリアは狩猟エリアの帰り道にある。そのため、最後に回した。
 狩猟エリアに到着する。ここは囲いの中にあった。
 猟場管理人から猟銃と獲物を入れる麻袋を借り、猟犬はフェンリルがいるという理由で断っていた。
 狩猟小屋で待機していたスタンプ係の教師から、このエリアについての説明を受ける。


「ここは熊や大角鹿といった大型の獲物はいない。けれども、絶対に安全とは言い難い。決して油断はしないように」

 教師の話が終わったら、狩猟エリアへ足を踏み入れる。
 猟に使う散弾銃を使うのは一年ぶりくらいか。二学年のときに狩猟の講習があり、校外授業として狩りをしたのだ。
 小型の獲物を狙うときは、この散弾銃を使う。
 散弾銃は一発で多数の弾を飛ばす銃で、素早い小型の獲物を仕留めるのに適している。
 散弾銃で大型の獲物を仕留めるのは至難の業と言えるものの、弾が散らない一発弾(スラッグ)というものがあり、これを散弾銃で使えば大型の獲物を仕留められるのだ。
 大型を専門に狙うときは、威力が強いライフル銃を使う。これは熟達した猟師向けの装備である。
 他にも、空気銃とよばれる物もある。これは制止している小型動物を狙うのに適している銃だ。
 空気銃の使い方も習ったが、数撃ちゃ当たる戦法で、散弾銃を選んだ。
 アドルフと共に散弾銃を手に、狩猟エリアを進んでいく。
 ひとまず、獣の臭いをフェンリルに探ってもらっていた。
 フェンリルはアナグマの臭いを知らないので、ピンポイントで探すのは難しいだろうが。
 フェンリルにはウサギやイノシシでない、小型動物の臭いを探るようにとアドルフが命じている。知能が高いので、アドルフの言うことは理解しているらしい。
 大きなフェンリルは威圧感があるものの、姿勢を低くし、くんくんと地面の臭いをかぐ姿は完全に犬だった。

「リオル、アナグマはどういうところにいるのだ?」
「名前のとおり、穴を掘って暮らしているんだけれど」

 巣穴は草木に紛れて発見しにくい。目視で発見するのは無理だろう。

「エルガーがアナグマの臭いを知っていたら、すぐに発見できたんだけどな」
「アナグマは諦めて、ウサギにする?」
「いいや、まだ諦めたくない」

 一時間ほど探し回っただろうか。アナグマは発見できないまま、時間だけが過ぎていく。
 あと一時間半ほどで、森の外に出ないといけない。天然水エリアに立ち寄ることと入り口まで戻る余裕を考えたら、ここで使えるのはあと三十分くらいだろう。

「ねえ、アドルフ。やっぱり――」
『ふわーー、よく寝たちゅり!』

 私のポケットの中で眠っていたチキンが、もぞもぞと出てくる。

『ん? 今、何をしているんでちゅり?』
「アナグマの巣を探しているの。でも、なかなか見つからなくて」
『だったら、ちゅりが探してくるちゅり!』
「え?」

 どうやるのかと聞いたら、上空から探すという。なんでもチキンは視力がとてつもなくいいらしい。初耳である。
 寝起きのチキンだが、力強い飛翔で天高く昇っていく。
 しばし飛び回っていたが、戻ってきた。

『アナグマの巣、あったちゅり!』
「発見できたんだ」

 木々が入り組んでいる場所にあるようで、フェンリルは入れないという。

「では、エルガーはここで待機させておこう」

 フェンリルは耳をぺたんと伏せ、しょんぼりした様子を見せていた。
 こんな反応を見たら、可愛いかも、と思ってしまう。

「リオル、行こうか」
「うん」

 歩くこと五分、アナグマの巣らしき穴を発見した。

『あっちが入り口、そっちが出口でちゅり』
「チキン、巣穴に入って、アナグマを出口に誘導できる?」
『任せるちゅり!』


 チキンが入り口からアナグマの巣に入り、追いやってくれるという。私とアドルフは出てきたアナグマを散弾銃で仕留めるのだ。

『では、いくちゅりよ!』

 これまで寝ていた使い魔とは思えない頼もしさであった。
 チキンが巣穴に入るのと同時に、私とアドルフは銃を巣穴の出口に向けた。
 待つこと三分ほど。地中で大騒ぎとなっているのか、わずかな震動を感じた。
 ここで、チキンの声が聞こえる。

『今でちゅり!!』

 次の瞬間には、アナグマが巣から飛び出してきた。
 私とアドルフは同時に|引き金(トリガー)を引く。パシュという銃声と共に、弾が撃ち出される。
 見事、弾がアナグマに命中した。

「アドルフの弾が当たった?」
「いや、リオルのやつだった」

 ただでさえ散るタイプの弾だったのに、自分のと私のを見分けるなんて。どんな動体視力の持ち主だと聞きたくなってしまう。

 アドルフは獲物を回収し、袋の中に入れる。

「若いメスみたいだ」
「だったらおいしいかも」

 チキンが土だらけになって戻ってくる。

『どうだったちゅりか?』
「いい獲物を仕留めたよ」
『よかったちゅり!』

 ひとまずチキンの土を払い、ハンカチで拭ってあげる。バンガローに戻ったら、水浴びさせてあげたい。

「よし、リオル、戻ろうか」
「そうだね」

 ちょうど三十分で戻ってこられた。教師はアナグマを仕留めた私たちを評価してくれた。

「夜行性のアナグマを、よく捕まえられたな」
「使い魔の活躍があって」
「そうか、そうか」

 狩猟エリアのスタンプを貰うと、急いで天然水エリアに向かう。革袋の水筒に水を確保し、スタンプを得た。これで、すべてのスタンプが集まったわけである。
 私とアドルフは時間内に森を脱出した。
 森の出入り口にいた教師に、スタンプを押した地図を提出した。

「よしよし。時間内に戻ってきたな。スタンプも――全部ある」

 私たちで最後だったらしい。他の生徒たちはすでに戻ってきたという。

「皆、首席と次席コンビに勝ったなんて言っていたがな。これは速さを競うものではないのに」

 たしかに。食材の状態や品質を見て評価するという話だったので、速さで私たちに勝ったつもりになるのは間違いだろう。

「これが報酬だ」

 スタンプをすべて集めた者のみ手に入れられるのは、湖で使えるボート券だった。
 手渡されたものには、〝スワンボート券〟と書いてある。

「え、スワンボートって何?」
「リオル、お前、スワンボートを知らないのか?」

 アドルフは驚愕の表情で私を見つめる。

「知らない。初めて聞いたんだけれど」
「スワンボートは、去年、湖水地方に取り入れられた、白鳥型のボートだ。愛らしいと評判で、女性陣に人気が高いらしい」
「へー、そうなんだ。詳しいね」
「まあな。明日、リオニー嬢を誘うつもりだったから」

 その話を盗み聞きしていた教師が、一言物申す。

「おい、明日はスワンボート券は販売されないぞ。生徒に配布したからな」
「な、なんだと!?」

 教師相手に目をくわっと見開き、凄み顔で睨みつける。その迫力に、教師すらたじろいでいた。

「そうか。追加購入はできないのか……」

 アドルフはしょんぼりしていた。よほど、スワンボートに乗りたかったのか。
 
「だったらこれ、僕の分をアドルフにあげる。これで、姉上とスワンボートに乗ってくればいいよ」
「リオル、いいのか?」
「いいよ」

 リオルとリオニーはどちらも私なので、まったくもって問題ない。
 アドルフは何を思ったのか、スワンボート券ごと私の手を握る。

「リオル、この恩はかならず返す!」
「わかった。わかったから、手を離して」

 思いのほか、アドルフの手は大きくてごつごつしている。
 以前、リオニーとして会っているときに、手と手を触れ合ったことはあった。けれどもこうして素手に触れたのは初めてだったのだ。
 彼も十八歳。世間的には成人男性なのである。入学時の少年のようなイメージが強いため、びっくりしてしまったのかもしれない。
 突然の行動に戸惑ってしまったが、アドルフに恩を売れたので、まあよしとしよう。

 魔法学校の教師陣たちが集まる用地(サイト)に行き、食材のチェックをしてもらう。

「うん、うん……生食可能なベリー類に、キノコ、大黒貝、森菜に獲物はアナグマ! 食べられない食材はひとつもない。合格だ」

 全生徒の中で、アナグマを仕留めたのは私たちだけだったようだ。

「本当に素晴らしい! 集めた食材だけであれば、君たちがトップだ!」

 アドルフと顔を見合わせ、ハイタッチする。ただ、このあとに調理とレポートの提出がある。まだまだ油断できない。

「アナグマは魔法生物学の先生に解体してもらうように」

 指さされたテントに向かうと、中から魔法生物学の教師が顔を覗かせる。
 続けて、使い魔であるアライグマ妖精が出てきた。彼らにも血が付着していた。
 ひとりではなく、使い魔の手を借りて解体をしていたようだ。

「あ、アナグマですね!! 今日、初めてです!!」

 白衣をまとっていたのだが、全身血まみれだった。三学年、全生徒分の獲物を解体していたら、そうなるのも無理はないのかもしれない。

 魔法生物学の教師は精霊や妖精が好きなのかと思えば、生き物全般を愛しているらしい。

「ああ、そうそう。秋に獲れるアナグマの皮下脂肪は分厚くて。ああ、きれいだな。この脂肪で冬を越すんだ」

 解体しながらボソボソ呟いているが、真面目に聞かなくてもいい内容だろう。ナイフを握って解体しつつ話す様子は、かなり不気味だった。魔法学校の教師は、変わり者が多い。改めて思ってしまう。
 魔法生物学の教師は使い魔の手を借りつつ、部位ごとに切り分けてくれた。
 比較的大きな個体だったので、可食部位は思っていたよりもあった。
 骨はスープに使うので、肉とは別に取り分けてもらう。

「あ、あの、毛皮や眼球、脳みそ、内臓はいりますか?」

 私とアドルフは、同時に首を横に振ったのだった。
 あとは、これを調理するだけである。

 バンガロー利用者専用の野外調理場では、すでに多くの生徒が調理を開始していた。
 あるところでは大きな火が立ち上り、あるところでは焦げた臭いが漂う。
 ぎゃー! という悲鳴も聞こえ、この場は混沌と化していた。
 異様な空気に、アドルフは信じがたいと言わんばかりの表情を浮かべていた。

「リオル、料理は悲鳴をあげながらするものなのか?」
「違うと思う」

 手順と火加減さえ守っていたら、あのように悲鳴を上げることもない。そう伝えると、アドルフは安堵の表情を浮かべていた。
 そろそろ太陽が傾きかける時間帯である。急いで調理しなければならないだろう。
 使っていない調理場に食材を広げていく。

「俺は何をすればいい?」
「アドルフは窯に火を作っていて」

 もちろん、魔法で火を点す。魔力を制御し、一定の力で火魔法を常時展開させるのは至難の業だ。けれども、実用魔法の成績が常に一位だったアドルフにとっては簡単なことだろう。
 私は調理道具を借りに行く。さまざまな種類の鍋が用意されていたが、その中にあった魔石圧力鍋を手に取った。
 これは時間がかかる煮込み料理を短時間で作る、すぐれた魔技巧品だ。他に、ボウルやまな板、包丁などをかき集める。必要最小限の調味料も置いてあり、ありがたく使わせてもらう。
 両手に調理道具を抱えた状態で、アドルフのもとへ戻った。

「リオル、火加減はこれでどうだ?」

 窯の中で、炎がゴウゴウと巻き上がっている。

「えっと、それの三分の一以下の火力でお願い」
「わかった」

 皆、こんな感じのテンションで調理していたのだろう。悲鳴が上がるのも無理はなかった。
 調理場には水が引かれていて、蛇口を捻ったら水が出てくる。浄化魔法がかけられている水のようで、そのままでも飲めるらしい。

「アドルフ、森菜の土を落として、きれいに洗って」
「わかった」

 なんでこの俺が! と言われるかもしれない、と思ったものの、アドルフは素直に応じてくれた。
 その間に、私は別の調理に取りかかる。アナグマの骨と肉の一部を煮込まなければならない。
 魔石圧力鍋に骨と筋張った肉の部位を入れ、天然水を注ぐ。ここにアドルフが丁寧に洗ってくれた野草人参と小玉葱を皮ごと入れる。他に、道行く中で摘んだ薬草や香草を入れ、しばし煮込む。
 通常であれば十時間以上煮込むのだが、魔石圧力鍋だと三十分で済む。本当に便利な品だ。

 続いて、アナグマの串打ちを始める。

「僕は肉を切るから、アドルフはボウルにミルクを注いでおいて」
「承知した」

 これは、私たちが食べるための串焼き肉だ。
 取っておいた柔らかい部位を切り分け、臭み消しのためにミルクにしばし浸ける。
 肉をミルクが入ったボウルに放り込んだので、アドルフは驚いた表情で私を見つめる。

「リオル、これはミルク味の肉なのか?」
「違うよ。こうしてミルクに浸けておくと、肉の臭みが消えるんだ。それだけじゃなくて、肉自体も柔らかくなる」
「そのような知識、よく知っていたな」
「まあね」

 これは慈善活動で養育院にいったときに、教わったものである。
 やわらかくていい肉は買えないので、安くて硬い肉をやわらかくして食べようという暮らしの知恵だった。

 ミルクに浸けた肉を水で洗い、ひとつひとつ串打ちする。 
 アドルフが真剣な眼差しで、鉄串に肉を刺していた。
 味付けは塩コショウ、それから乾燥薬草をぱらぱらと振りかける。
 アナグマの串焼きの下ごしらえはこんなものでいいだろう。布をかけ、食品保存用の氷の傍に置いておいた。
 そろそろスープがいい頃合いだろう。
 魔石圧力鍋の蓋を開けると、白濁としたスープが完成していた。
 骨やくたくたになった野菜、肉を取り除く。肉はカットして、鍋に戻した。
 新しく野草人参、小玉葱やキャベツ草を加え、キノコ類もカットして入れる。
 ぐつぐつと煮立ち、食材すべてに火が通ったら、塩コショウ、香辛料などで味を調える。 
「アドルフ、味見をしてみよう」
「そうだな」

 アドルフにとって、アナグマは未知なる食材である。
 小皿に注いだスープを前に、緊張の面持ちでいた。スプーンでスープを掬って食べる。

「――っ!!」

 アドルフの瞳がカッと見開いた。その反応だけでは、おいしいのかそうでないのかよくわからない。

「アドルフ、どうかな?」
「これは、信じられないくらいおいしい。さっぱりしているのにコクと深みがあって、品すら感じる。極上のスープだ」

 お口に合ったようで、ホッと胸をなで下ろす。
 思っていた以上にたくさんできたので、中くらいの鍋に移して教師たちのもとへ運んだ。

 拠点に待機していた教師陣は、総じて顔色が悪かった。
 その理由は、生徒たちが作った料理にあるのだろう。
 私たちの前にも、料理を運んできた生徒がいた。

「題して、〝池の魚を油にどーん〟です」

 見た目は焦げている上に、泥抜きされていない魚である。
 すでに同じような料理を食べてきた教師が、涙で訴えた。

「お前たち、私に嫌がらせをするために、こんなものを作ってきたんだろう?」
「違うって」
「一生懸命作ったんだ」

 見た目は焦げているが、中の身は大丈夫なはず。そう言って、料理を勧めていた。
 教師がナイフで焦げをそぎ落とし、器用に身を切り分ける。

「半生(はんなま)……」

 隣に座っていた別の教師が、「食べないほうがいいです!」と叫んだ。
 けれども、制止を無視して教師は食べる。

「ウゲロロロロロロロロ!!」

 あらかじめ用意していた袋に、口の中に入れたばかりの魚を吐き出した。

「先生のほうが酷いじゃん!!」
「すぐに吐くなんて!!」
「酷いのはお前らだ!! こんなもん食ったら死ぬ!!」

 こういうのを繰り返していたため、教師陣はすっかり憔悴しきっているというわけだった。

 料理を持ってくるのは、私たちで最後らしい。
 教師のひとりが蚊が飛ぶようなか細い声で、「次」と言う。

「第三学年、一組、出席番号一番、リオル・フォン・ヴェイグブルグ」
「同じく、出席番号二番、アドルフ・フォン・ロンリンギア」
「お、おお、首席と次席コンビか!」

 いい食材を持ち帰っていたという話が届いていたらしい。
 教師たちは救世主を見るような視線を送ってくる。

「料理は、アナグマのスープ、です」

 アドルフはナプキンを広げ、皿とスプーンを置く。そこに、アナグマのスープを注いだ。

「こ、これは――!」

 ゾンビのように顔色を悪くしていた教師陣が、わらわらと集まってくる。
 そして、アナグマのスープを覗き込むと、口々に感想を述べた。

「ああ、ちゃんとしたスープだ」
「これまでの生徒が作ってもってきた、泥スープではない」
「なんておいしそうなんだ」

 泥スープとはいったい……? 聞いただけで不味そうだ。
 
「では、いただこう」

 固唾を呑みながら、試食を見守る。教師はスープを掬い、ごくりと飲んだ。
 眦から、つーと涙が伝っていった。
 泣いている。大の大人が、料理を食べて涙を流していた。

「う、うまい!! うますぎる!!」

 そこから一言も発さずに、ごくごくとスープを飲み続けた。
 他の教師たちも我慢できなかったようで、アナグマのスープを飲みたいと訴えてくる。
 鍋ごと持ってきていたので、全員にスープは行き渡った。

 アナグマのスープを完食した教師は、ぼんやりしつつ呟く。

「俺は、夢をみているのだろうか。生徒のクソ不味い料理を食べ過ぎたせいで、気を失った?」

 夢だと錯覚するくらい、アナグマのスープはおいしかったという。
 教師は大粒の涙を流しつつ、頭を下げる。

「もう、来年からは生徒に料理なんてさせない。この身をもって、学習した」

 教師一同、頷く。ただひとり、魔法生物学の教師だけは来年もやっていいと言っていた。解体のおかげで、研究資料がたっぷり集まったらしい。

「やりたいときは、ご自身の授業でやってください」

 実行は自己責任で。自分以外の教師全員から責められた魔法生物学の教師は、ひとりきょとんとしていた。

 料理部門でも、私たちは学年一位と評価される。
 あとは、レポートにまとめるだけ。

「レポートの提出は明日の朝だ。結果は三日目の朝に出る。楽しみにしておくように」

 教師の話に深々と頷く。
 このあとは、お楽しみの夕食の時間である。

 夕食はペアになった生徒とバンガローの前で野外炉料理(バーベキュー)と決まっていた。
 初めて聞く言葉だが、グリンゼルで人気を博しているらしい。
 先ほどの野外料理とは異なり、肉や野菜、パン、チーズなどの食材は学校側が用意している。
 男子生徒が集団になれば、盛り上がって騒いでしまうので、ペアでやることになっているらしい。
 ペア以外の生徒とは接触厳禁。つまり私はアドルフと共に食事をすることとなる。

「リオル、食材を貰いに行こう」
「うん、わかった」

 アドルフはごくごく自然に私に微笑みかけ、提案してくれた。
 取り巻きに囲まれているときには絶対に見せなかった表情である。
 私たちは本当に、以前の関係ではなくなってしまったのだろうか?
 わからない。
 けれども、一緒にいるときに居心地がよくなったのは確かであった。

 教師が宿泊する小住宅の前に、野外炉料理の食材と焚き火台、網、薪、火起こしセット、火鋏、トングなどが用意されていた。監督する教師が注意事項を呼びかけている。

「ステーキ肉はひとり一枚まで。野菜はきちんと持って行くように。パンは三つまで、チーズはふた欠片までだ」

 食材が山盛りにおいてあり、自分で取り分けて行くようだ。

「リオル、俺は焚き火台と道具を持つ。お前は食材を頼む」
「了解」

 生徒が食材にわらわらと群がっているが、間をすり抜けて自分たちの分を確保していった。

 焚き火台などを持ったアドルフと共に小住宅へと戻る。
 いろいろしているうちに、太陽は沈んでいた。外は真っ暗だが、アドルフは光魔法で灯りを作ってくれたので、視界はしっかり確保されている。
 バルコニーに焚き火台を設置したアドルフは、薪を山盛りにする。

「アドルフ、それはちょっと」
「違うのか?」
「全然違う」

 火は空気を含ませたほうが燃えやすい。そのため、ぎっちり重ね合わせたら、火が燃えにくくなってしまうのだ。

「なるほど、そういうわけか。火魔法の原理はわかるのに、物理的に発生させる火についての知識はからっきしだった」

 ちなみに、野外炉料理は火魔法での調理は禁じられていた。野外料理の大炎上を見て、薪を使うように変わったのかもしれない。

 火起こしは養育院で何度か行った私が担当する。
 アドルフが「俺は役立たずだ」としょんぼりするので、ある仕事を頼んだ。 

「ねえアドルフ、その辺に針葉樹の枝が落ちていたら拾ってきて」
「枝なんかなんに使う?」
「着火剤として使うんだ」

 針葉樹には着火を助ける樹脂が多く含まれている。薪だけでは火を点けることは難しいのだ。

「わかった。針葉樹だな? すぐに集めてこよう」

 アドルフがバルコニーから飛び出すと、フェンリルも大跳躍を見せて続く。
 この辺りは針葉樹だらけなので、すぐに集まるだろう。

 火鋏とトングを縛っていた麻紐を手に取り、裂いて解していく。これも、着火の際に使うのだ。
 アドルフが針葉樹の枝の束を持って戻ってきた。

「リオル、まだ必要か?」
「十分だよ。ありがとう」

 フェンリルが手伝ってくれたので、短時間でたくさん集められたらしい。枝拾いまでできるとは、かなり賢い。

 フェンリルを偉いと褒めていると、これまでポケットの中で眠っていたチキンが顔を覗かせる。

『ちゅりも、針葉樹の枝くらい集められるちゅり』
「だったら、チキンは広葉樹の枝を集めてきてくれる?」
『了解ちゅり!』

 広葉樹はここから少し離れた場所にある。薪があるので必要ないが、何かしたいお年頃なのだろうと察知したので、仕事を頼んでみた。

「おい、リオル。広葉樹の枝はなんに使うのだ?」
「広葉樹はじっくりゆっくり燃えるの。だから、火が安定してきたときに入れる用かな」
「なるほどな。木の種類によって、用途が異なるというわけだ」
「そうそう」

 焚き火台に薪を積み、上にアドルフが持ってきてくれた針葉樹の枝を並べていく。

 さっそく、火を点けよう。革袋に入れられた火起こしセットの中身は、|火打ち石(ストライカー)と金属棒(ロッド)である。
 金属棒で火打ち石を擦り、火花を起こす。このときに発生した火花から、大きな火を作るのだ。

「アドルフ、やってみる?」
「ああ」
「この解した麻紐に向かって、火を落として」

 金属棒を素早く火打ち石に擦りつけるだけだと説明したが、アドルフは苦戦していた。

「くっ……! 魔法であれば、一瞬で火が点くのに!」
「本当に、そうだよね」

 五分ほど奮闘した結果、火花が散った。運良く麻紐に落ち、小さな火が灯る。
 ふーふーと息を吹き込むと、火が大きくなっていった。

「リオル、火を置け! 火傷するぞ!」

 アドルフに急かされながら、火を置いた。針葉樹の枝のおかげで、火はすぐに大きくなる。
 強い風が吹いたが、火は消えない。
 暗闇の中に火の粉が舞って美しかった。思わず見とれてしまう。
 アドルフも同じことを考えているのか、しばしふたりで火を眺めてしまった。
 ぼんやりしている間に火が安定してきた。チキンが持ってきてくれた広葉樹の枝を追加しつつ、焚き火台に網を置く。

「まずはアナグマを焼いて食べてみよう」
「ああ、そうだな」

 食事は野菜から食べるようにと習ったが、今日ばかりはマナーに目くじらを立てる教師はいない。監督生であるアドルフも、同意してくれた。そんなわけで、先ほど串打ちしていたアナグマの肉を網の上に置く。
 ジュウジュウと音がするのと同時に、肉の焼けるいい匂いが漂ってきた。
 脂がたっぷりあるからか、網から滴り落ちていく。そのたびに、薪がボッと音を立てて火が燃え上がった。
 両面よく焼いていく。あまり食べ慣れない獣の肉なので、しっかり火を入れておきたい。
 焼けていそうな串を手に取り、ナイフで切ってみる。

「うん、いいかな」

 アナグマの串焼きが完成した。
 初めて自分で仕留めたアナグマである。ドキドキしながら頬張った。
 脂がジュワッと溢れ、肉の旨みを感じる。よく噛むと、ほんのり甘さも感じた。
 やわらかくて、とてもおいしい肉だ。
 アドルフはどうだろうか? ちらりと横目で様子を見る。

「なんだ、この肉は……!」

 それだけ零し、もう一口頬張った。目を閉じ、アナグマの串焼きを堪能しているように見える。感想を聞かずとも、おいしいというのがわかった。
 それから私たちは、無言でアナグマの串焼きを食べる。
 あっという間に完食してしまった。

「アナグマがこんなにもおいしいとは思わなかった」
「本当に」
「正直、ゲテモノ食いと思っていたのだが……」

 私も昔、父が狩ってきたアナグマを食べる前は、そういうふうに思っていた。

「貴族の間でおいしさが伝わらないのは、アナグマが夜行性だからだろうな」
「たぶん、そうなんだろうね」

 ちなみに父は、知人からアナグマ猟を教えてもらったらしい。

「今日、チキンがしていたみたいに、アナグマ猟は巣穴にフェレットを入れて、地上に追い出すんだって」
「なるほどな」

 猟犬ならぬ、猟フェレットがいないと、アナグマにありつけないようだ。

 続けて、アナグマのスープの残りを温めつつ、次なる調理に取りかかる。
 選んだ食材は、泥抜きしていた大黒貝である。
 四つ獲れたので、ひとりにつきふたつずつ。拳ほどの大きさがあるので、食べ応えがありそうだ。
 アドルフが魔法で洗浄したあとも、泥を少し吐き出していた。再度よく洗って網の上に置く。
 少し火が通ると、殻が開いてきた。さらに時間が経つと、パカッと開く。身の上にバターを置いて焼いていく。
 バターが溶け、殻の中でぐつぐつ音を立て始める。そろそろいい頃合いだろう。
 身の下にナイフを差し込み、殻と分離させたものをアドルフへ渡した。

「熱いから気を付けてね」
「わかっている」

 念のため注意したにもかかわらず、アドルフはあまり冷まさないで頬張ったようだ。
 顔を真っ赤にさせつつ食べている。

「熱い!! しかしおいしい!!」
「うん。一口噛んだ瞬間、スープかってくらいの旨みがじゅわっと溢れてきたね」

 泥まみれだった貝がこんなにおいしいなんて。丁寧な泥抜きの効果か、まったく泥臭くなかった。
 身はプリプリしていて、味わい深く、ほんのり効いた塩っけがいい。
 ぺろりと完食してしまう。
 続けてアナグマのスープを飲み、少しだけ胃を休める。
 その後も、肉や野菜を焼いて食べ、お腹がはち切れそうだった。
 こんなにお腹いっぱい食べたのは初めてである。
 バルコニーにはデッキチェアが置かれていて、寝転がれるようになっていた。
 先にアドルフのほうが横になっており、ぼんやりと夜空を眺めている。私も隣に腰を下ろした。

「君、こういうのしない人かと思っていた」
「食事のあとに寝たら、教育係に注意されるからな。でも、今日は目くじらを立てる者はいないから」

 そうだったと思い、私も寝転がる。

「あ――!」

 空には満天の星が広がっている。こんなにたくさんの星をみるのは初めてだ。

「嘘みたいにきれい」
「だろう? 王都は灯りが多い上に、工業が盛んだから、このようにたくさんの星は見えないのだろう」  

 しばし眺めていたら、星の粒が夜空を流れていく。

「あ、流れ星だ!」
「今日はよく流れているみたいだ。もう、十個も見た」
「そんなに――あ! アドルフ、願い星って知ってる?」
「なんだ、それは?」
「流れ星に願いを込めると、叶えてくれるっていうやつ」
「知らない」

 そんな話をしているうちに、また星が流れていった。

「アドルフ、願い星をしてみない?」
「そうだな」

 じっと夜空を眺め、流れ星が見えると願いを込める。
 一瞬にして、流れ星は消えてなくなった。

「リオル、お前はなんと願った」
「魔法学校を無事、卒業できますように」
「堅実だな」

 私の人生でもっとも楽しく、輝かしい時間だ。途中で断念するなんてしたくない。
 私のささやかな願いだった。

「アドルフは何をお願いしたの?」
「幸せな家族を築きたい」

 その願いは、いったいどういう意味なのか?
 たぶん、私と結婚して――という願いではないのだろう。
 世継ぎを私に産ませ離縁してから、想いを寄せる相手と結婚する。それが、アドルフの願いなのか。

 頭の上から冷や水をかけられたような気持ちになる。
 今の今まで、アドルフの想い人について調査することを失念していたのだ。
 私はごくごく普通に、宿泊訓練を楽しんでいた。
 こんなつもりではなかったのに。
 同時に、これまで不確かだった感情に気づく。もうすでに、アドルフに対して気を許していたのだ。
 だから、手放しに楽しんでいたのだろう。
 どうしてこうなってしまったのだろうか? これまでのいがみ合う関係でいるほうがよかったのに。
 希望に満ちた表情でいるアドルフに、言葉を返す。

「……叶うといいね」
「ああ」

 その言葉を最後に、アドルフと私は黙って夜空を見上げる。
 希望と絶望。
 それぞれ別のことを考えているのは明白だった。

 その後、協力して後片付けをし、一時間でレポートをまとめる。
 それぞれ役割を決めて分担したからか、想定よりも早く終わった。
 あとは、風呂である。

「アドルフ、僕は別荘にあるお風呂に入ってくる」
「そうか、わかった。そのまま、別荘で休むといい。教師の点呼には応じておくから」
「いいの?」
「もちろんだ」

 小住宅から別荘まで徒歩十五分ほどで、そう遠くもない。けれども、夜は冷えるので湯冷めしてしまう可能性がある。アドルフの申し出はありがたかった。

「代わりに、リオニー嬢に明日の予定を伝えておいてくれ」 
「わかった」
「お前は明日、どうするんだ?」
「別荘でゆっくりしておく。読みたかった本を、いくつか持ってきているんだ」

 用意していた言い訳を、よどみなく答えられた。アドルフは疑っている様子はないので、ホッと胸をなで下ろす。

「だったら、レポートは俺が提出しておこう」
「ああ、頼むよ」
「次に会うのは明日の夕方だな」
「そうだね」

 アドルフとはここで別れる。
 明日からはリオニーとして彼に会わなければならない。今日のところはゆっくり休もう。
 別荘に戻ると、侍女たちが優しく出迎えてくれた。
 彼女らが用意してくれたお風呂に浸かり、一日の疲れを落とす。
 ただ、思っていたほど体は疲れていなかった。
 力仕事はアドルフが担っていたし、フェンリルがいた安心感からか気を張っていなかったのかもしれない。

 お風呂から上がると、侍女が包装された丸い箱を運んできた。

「それは何?」
「アドルフ・フォン・ロンリンギア様からの贈り物が届いておりました」

 リボンを解いて中身を見ると、美しい帽子が収められていた。
 添えてあったカードには、〝グリンゼルの昼間は日差しが強いので、よろしかったら〟と書かれてある。
 
「すてきな贈り物ですわね」
「ええ」

 相手がアドルフでなければ、そう思っていただろう。
 どうせ、この贈り物も私の機嫌を損ねないために用意したに違いない。
 
「ねえ、手が空いている従僕はいる?」
「はい、おりますが」

 アドルフに感謝の気持ちを記したカードと、焼き菓子、そしてホットミルクでも運んでほしいと頼んでおく。

「ミルクにはたっぷり蜂蜜を溶かして作るようにお願いして」
「承知しました」

 きっと、硬いベッドで眠れないと思っている頃だろう。ホットミルクの力で、じっくり眠ってほしい。

 私も眠ろう。たくさん動き回ったので、深く眠れそうな気がした。

 ◇◇◇

 翌日――私は別荘で驚きの人物と出会うことになる。

「姉上、暇だから来た」
「なっ――!?」

 引きこもりのリオルが、突然グリンゼルにやってきたのだ。

「リオル、どうしてここにいらっしゃったの!?」
「姉上が一人二役をするって聞いて、面白そうだから見に来た」
「あ、あなたという子は……!」

 しかしまあ、これでリオルが別荘にいるという証拠はできたというか、なんというか。

「同級生が訪ねてきても、出てはいけません。わかりましたか?」
「どうして?」
「名前もわからないような相手と会って、不審がられたら困るからです!」
「ふうん」

 一日中、家で大人しく本を読んでほしい。そう言い聞かせ、玄関に向かう。
 心配でしかなかった。

 チキンが当然のごとく、私の肩に乗って同行しようとした。

「ごめんなさい。あなたは連れて行けないの」
『どうしてちゅりかー!』
「今日はリオルではなく、リオニーとしてアドルフと会わないといけないから」
『ちゅりー! ちゅりとアドルフ、どっちが大事ちゅり』
「それは、時と場合によるから」

 侍女が持っていたベルベットの小袋に、チキンを突っ込む。これの中に入れると、数秒でぐっすり眠るのだ。

「リオニーお嬢様、チキン様はお眠りになりました」
「そう。たぶん目覚めないと思うけれど、うるさくしたら口を閉じていいから」
「承知しました」

 なんとかチキンを侍女に託し、外に出た。

 本日は晴天。昨日よりも日差しが強い。アドルフが贈ってくれた帽子は、美しいだけではなく軽い。
 道行く人たちが振り返り、お喋り好きのご婦人はどこで買ったのかと声をかけてきた。

「こちらは贈り物ですの」
「まあ! すてき」

 この会話を再度することになろうとは……。
 待ち合わせに指定されたのは、喫茶店だった。五分前に到着したのだが、アドルフはすでに待っていた。
 魔法学校の制服ではなく、フロックコートを着ている。眼鏡をかけているので、いつもと違った雰囲気に見えた。

「アドルフ、お待たせしました」
「リオニー嬢――!」

 アドルフは胸に手を当てて、紳士の挨拶を返してくれた。

「帽子、ありがとうございました」
「よく似合っている」

 淡く微笑みかけられ、なんだか恥ずかしくなってしまう。
 こんなの私らしくない。話題を変えよう。

「今日は、魔法学校の制服を見られるのかと思っていましたのに」
「同級生に見つかったらからかわれるから、私服にした」
「もしかして、眼鏡も変装ですの?」
「まあ、そうだな」

 私が自慢の婚約者であれば同級生にからかわれるのも、やぶさかではないのだろう。入念に変装しているということは、きっと私を見られたくないから。
 ショックを受けている自分に、驚いてしまった。
 別に、婚約破棄したい相手がどう思おうかなんて、関係ないはずなのに。

「中に入ろう。個室を予約している」

 ここでも同級生に私を見られたくないからか、しっかり個室を確保していたようだ。
 田舎風に作られた内装はどこか素朴で、ホッとするような空間である。窓から見えるグリンゼルの湖畔は、絵画のように美しい。出された紅茶がとてもおいしく、焼き菓子は持ち帰りたいくらいだった。

「わたくし、ここのお店を気に入りました」
「それはよかった。以前、ここに住む――知り合いが、紅茶や茶菓子が最高だった、と話していたから」

 ドクン! と胸が大きく脈打つ。
 ここに住む知り合いというのは、アドルフの想い人ではないのか。
 説明する前に、少しだけ言いよどんだのも彼らしくなかった。
 このチャンスは逃さない。詳しい話を聞き出す。

「そのお方は、きっとたくさんの素晴らしいお店をご存じなのでしょうね?」

 アドルフは困惑が滲んでいるような、なんとも言えない表情を浮かべている。
 私に突かれたくない話なのだろう。

「とても、すてきなお方なのでしょうね」
「それは、どうだろう?」

 話を逸らしたいのか、アドルフは感情がこもっていない声で返す。

「社交場に出入りしているお方なのですか? お会いしたら、挨拶をしたいと思っておりまして」
「いや、彼女は――」

 知り合いは女性だ。粘ってみるものだと、内心思う。

「彼女はここで療養していて、人に会える状態ではないと、思う」
「ご病気、なのですか?」
「似たようなものだ。長い間ずっとここにいて、誰とも会っていない」

 これまでアドルフを責めるつもりで質問攻めをしていたのに、もう何も聞けなくなってしまう。
 アドルフの想い人は、グリンゼルの地で誰とも会わずに、療養しているという。
 きっと、アドルフから贈られる薔薇と恋文を楽しみに、過ごしていたに違いない。
 胸がズキズキと痛む。
 なぜ? どうして? 意味がわからない。

「あの、ごめんなさい。込み入った話を聞いてしまって」
「いいや、気にしないでくれ。いずれリオニー嬢にも、話すつもりだったから」

 けれども、話すタイミングは今ではないらしい。
 
「明日、ゆっくり話してくる。そのあと、打ち明けるから」

 アドルフは最初から、隠すつもりはなく、頃合いを見て私に話してくれるつもりだったらしい。
 それなのに、裏切られたと思い込んで、婚約破棄を目論んでしまった。
 自分で自分が恥ずかしい。
 心の中で深く反省した。
 それからなんとなく気まずい空気になったので、店を出ることにした。
 今日は一日自由行動というだけあって、至る場所に魔法学校の生徒たちがいる。
 クラスメイトとすれ違うのではと思ったが、今のところ誰とも会っていない。
 次はスワンボートに乗りに行くらしい。
 喫茶店から徒歩五分ほどの場所に、スワンボート専用の湖があった。
 湖には四隻の白鳥型のボートが優雅に泳いでいる。なんとも可愛らしい。
 スタンプラリーの景品になっていたので、魔法学校の生徒がうじゃうじゃいるはず。そう思っていたのに、閑散としていた。

「意外と、人がいらっしゃらないのですね」
「スワンボートは予約制で、朝いちに乗りたい時間を確保しておくから、待機列などがないのだろう」
「まあ、そうでしたのね。朝から予約してくださったの? お辛かったのでは?」
「いいや、辛くはなかった。昨晩ぐっすり眠れたからか、早く目覚めたからな」
「そうだったのですね。ありがとうございます」
「リオニー嬢が寄越してくれたホットミルクのおかげだ。焼き菓子もおいしかった。ありがとう」
「お役に立てたのならば、幸いです」

 ホットミルクを飲むアドルフというのが想像できなかったが、きちんと飲んでくれたらしい。

「ボートが用意できたようだ。乗ろう」
「ええ」

 スワンボートは湖を優雅に泳いでいるかのように移動している。乗りこんだあと確認したが、ボートを漕ぐ櫂(オール)やボート内に足こぎ装置などはない。

「アドルフ、このボートはどのようにして操縦しますの?」
「ここに魔石を填め込む場所があるのだが、これが動力源となっているらしい」

 アドルフ側に操縦するハンドルがあり、足元に加速装置(アクセル)と減速させる制動機(ブレーキ)があるようだ。

「動かすが、いいか?」
「はい」

 スワンボートは私に配慮してか、ゆっくり、ゆっくりと進み始めた。
 魔石に込められた魔力がなくなりそうになると、自動的に戻っていくという仕組みらしい。魔力が許す限り、自由に操縦していいという。

「もっとたくさんのスワンボートが入り乱れているのかと思っていました」
「衝突したら危険だからな。ここは第一スワンボート場で、ゆっくり楽しみたい人向けらしい」

 グリンゼルには何カ所かスワンボート専用の湖があるらしい。

「第四スワンボート場は速さが競えるようだ。魔法学校の生徒たちは、そっちに行っているだろうな」

 たしかに、周囲を見渡してみると、魔法学校の生徒たちの姿はない。ほとんどが老夫婦だった。

「年若いカップルは、薄紅色のスワンボートがある、第二スワンボート場に行っているのだろう」

 薄紅色のスワンボートは恥ずかしいので、アドルフがここを選んでくれてよかったと思う。

 スワンボートは紅葉した木々が取り囲む湖を泳いでいく。
 この美しい景色は、先ほどまでのザワザワした心を癒やしてくれた。

 
「今日は、リオニー嬢に感謝の気持ちを伝えようと思って」
「あら、なんですの?」
「この前、相談したことを覚えているだろうか?」
「相談、というと、素直になれないお相手のことでしょうか?」
「そうだ」

 アドルフが仲良くなりたかった相手とは、いったい誰だったのか。私を実験台にした結果を知りたい。

「その、貸し借りとやらをした結果、信じられないくらい打ち解け、仲良くなれた」
「それはよかったです。それにしても、アドルフほどのお方が、これまで仲良くなれなかった人がいらっしゃるなんて。いったいどこのどなただったのですか?」
「それは――リオニー嬢の弟君だ」
「え、リオル、ですか?」
「ああ」

 アドルフが素直になりたい相手は、他にいると思っていた。それが私だったなんて。信じがたい気持ちになる。
 突然の告白に、胸がバクバクと音を鳴らしていた。

「魔法学校に入学してからの二年間、俺はリオルがいたから、辛酸を嘗めるような事態に追い込まれていると思っていた」

 アドルフのなかでのかつての私は、どこかすかしていて、愛想がなく、天才肌。どこか他人を小馬鹿にしているような態度が鼻についていたという。

「けれども違った。すべては、俺がうがった目で見ていたからだった」

 それは、本の貸し借りをしたときに初めて知ったことだという。

「彼は天才ではなかった。努力を重ねた秀才だった。そういう姿は誰にも見せていなかったので、特に勉強せずとも、リオルはなんでもできてしまうと勘違いしていた」

 まさか、そういうふうに思われていたなんて。たしかに、人前でバリバリ勉強する姿は見せていなかったような気がする。

「それから、いかに俺が恵まれた環境にあったか、というのも知らなかった」

 図書館にある魔法書のほとんどは、アドルフの実家にもある。手紙を送ったら、翌日には転送してもらえたらしい。
 けれども何を思ったのか、貸し借りをするようになってから、図書館に借りに行ったこともあったようだ。
 なんでも私が借りた本と同じ物を、借りたかったらしい。

「驚いたのは、人気の魔法書は数ヶ月待ちで、すぐに借りられないということ。もうひとつは、思っていた以上に品揃えが悪いこと」

 魔法学校の図書館よりも、ロンリンギア公爵家の書庫のほうが取りそろえがよかったらしい。

「リオルは図書館にないものは国立図書館から取り寄せてまで、読んでいたらしい。もちろん、すぐに手元に届くわけもなく、半年待ちが普通の本もあった」

 それらの本を、アドルフはたった一日で手元に取り寄せることができる。それを知って初めて、他の生徒よりも恵まれた環境にいたのだと気づいたという。

「魔法書や参考書を思うように借りられない状況の中で、リオルが首席をキープするというのは、本人の絶え間ない努力の成果だろう。俺は彼を、世界一尊敬している」

 そして、いつか親友になりたいのだと、瞳を輝かせながら話していた。
 アドルフはリオルの姉だと思って話しているのだろうが、すべて私のことだ。
 どうしようもなく、照れてしまった。

「俺とリオルは同等で、高め合える存在だ。彼がいなければ、俺は途中でくすぶっていたかもしれない。だから、心から感謝している」

 素直に接するようになれてよかったと、笑みを浮かべながら語っていた。
 それは太陽の光を反射し、キラキラ光る水面よりも美しい笑顔であった。

 ああ、と顔を手で覆ってしまう。

「リオニー嬢、どうかしたのか?」

 ああ、そうだ。私はどうかしている。猛烈に顔が熱い。
 それよりも今、この瞬間に気づいてしまった。

 私はきっと、この男アドルフ・フォン・ロンリンギアに好意を抱いているのだ。

 よりにもよって、どうして彼なのか。
 できることならば、気づきたくなかった。
 アドルフへの恋心に気づいてしまった私は、顔すらまともに見られないという、大ピンチに陥っていた。
 様子がおかしいとアドルフが心配し、もう帰ろうかと提案する。
 それがいいのかもしれない。そう思って彼の言葉に頷いた。

 アドルフはスワンボートを桟橋に近づける。先に自らが下り、私に手を差し伸べてくれた。
 恥ずかしくて手なんか握れるわけがない。そんなふうに思っている間に、アドルフのほうから握ってくる。力強く引き寄せられることとなった。

「先ほどから顔が青白くなったり、赤くなったり……大丈夫か?」

 大丈夫ではない。私はきっとおかしいのだ。
 なんて言えるわけもなく、消え入りそうな声で頷くばかりだ。
 湖のほとりにベンチがあったので、アドルフに誘われて腰を下ろす。

「あっちの屋台で飲み物が売っているから、何か買ってくる。飲みたいものはあるか?」
「でしたら、アイスティーをお願いします」
「わかった」

 きんきんに冷えたアイスティーを頭から被ったら、この酔いも醒めるのだろうか?
 なんてことを考えてしまうくらい、今の私は冷静さを失っていた。
 ひとまずひとりになりたい。アドルフが去っていく後ろ姿を眺めながら、はーーーーと深く長いため息をつく。

「あれ、リオル――の、お姉さん?」

 聞き覚えがある声に、顔をあげる。そこにいたのは、ランハートだった。
 リオニーとして彼に会うのは初めてだった。全身が強ばってしまう。
 他のクラスメイトもいて、興味津々とばかりに視線を向けてくる。
 しかしながら、彼らはランハートが「ジロジロ見るな。失礼だろうが」と言って追い払ってくれた。

「俺、リオルの友達で、ランハート・フォン・レイダーっていいます。はじめまして」
「はじめまして。リオニー・フォン・ヴァイグブルグ、です」

 ランハートは帽子を取り、ぱちんと片目を瞑りながら会釈する。きっちりと紳士の挨拶をするアドルフとは真逆の男だと思った。

「隣、座ってもいいですか?」
「ええ、まあ、どうぞ」

 遠すぎず、近すぎずという位置にランハートは腰を落とす。

「びっくりしました。お姉さん、リオルとそっくりですね」
「よく言われます」

 魔法学校入学時は本当にそっくりだった。けれども今はあまり似ていないような気がする。卒業後、リオルが外でクラスメイトに会ったら、違和感を覚えるかもしれない。 
 弟が引きこもりで本当によかったと思う。

「雰囲気とかも、一緒なんじゃないかなー」
「一歳違いですので。幼少時は双子かと勘違いされることもありました」
「へー、そうなんだー」

 ランハートとはごくごく普通に喋ることができる。私がおかしくなってしまうのは、アドルフ相手のときだけだったようだ。
 本当に恋心というのは厄介である。

「あ、そうそう。さっき、ヴァイグブルグ伯爵家の別荘に行ったんですけれど、リオルはまだ寝ているって言われて」
「そ、そうでしたか。昨晩、遅くまで魔法書を読んでいたようで」
「やっぱり! リオルらしいなあ」

 侍女たちは言いつけを守ってくれたようだ。リオルも大人しくしていたようで、ホッと胸をなで下ろす。

 家に帰ったら、リオルを女装させて私の振りをさせておこうか。
 なんて考えていたら、信じられない事態になる。
 湖のほとりを、リオルが歩いているではないか。
 あれほど、家で大人しくしているようにと言っておいたのに。

「ん、あれ、あそこにいるのはリオル?」
「きゃーーーー!!」

 叫び声を上げ、ランハートを傍に引き寄せる。胸に彼の顔を押しつけ、視界を遮った。

「え!? え!? え!? な、何、ど、どうしたんですか!?」
「へ、あ、えっと、ヘビ!! ヘビがおりましたの!!」
「ヘビ!? お、お姉さん、落ち着いて!」
「クロシマ・オナガ・オオクロヘビですわ~~!!」
「お姉さん、ヘビの種類、詳しいですね!」

 ごちゃごちゃ騒いでいると、リオルは私に気づいたようだ。目線で早くどこかに行けと促す。
 リオルは「ああ」という表情を浮かべ、この場から去っていった。
 ホッと胸をなで下ろす。

「あ、あの、申し訳ありません。見間違えでした」
「そ、そうだよね。クロシマ・オナガ・オオクロヘビって、南国に生息するヘビだし」
「お詳しいのですね」
「まあ、授業で習ったから」

 完全にリオルが見えなくなったのを確認する。そろそろランハートを解放しよう。
 そう思った瞬間、目の前にいた人物と目が合う。次の瞬間、その人物が手にしていたアイスティーを地面に落としてしまった。
 見覚えがありすぎるその人物は、アドルフだった。親の敵にでも出会ったかのような表情でこちらを見ている。
 あまりの恐怖に、叫び声を上げてしまった。

「きゃーーーー!!」
「え、今度は何? また毒ヘビ?」

 アドルフはランハートの頭を片手で掴み、私から引き離す。

「ランハート・フォン・レイダー!! お前はリオニー嬢に抱きついて、何をしている!?」
「いやいやいや、誤解、誤解、誤解ーー!!」
「そ、そうです。先ほどわたくしが紐を毒ヘビと見間違えて、ランハート様を抱きしめてしまったのです!」

 そう訴えると、ランハートは解放される。けれども腕を引いて強制的に起立させられ、「いなくなれ!!」と脅されていた。

「あ、リオルのお姉さん、どうも、お騒がせしました」

 ランハートはそう言って、そそくさと去っていった。
 残された私は、険しい表情のアドルフとふたりきりになってしまう。