「……ち……伊智(いち)

微睡(まどろみ)の向こうで誰かが私を呼んでいる。

ぼんやりと意識が戻ると、人工的な白光が(まぶた)を通り越し、私の目を刺激する。

反射的に右腕で眼を覆い、恐る恐る(まぶた)を開く。


「伊智、気分でも悪いのか?」

「……お父さん」


聞き覚えのある低い声を聞いて、ようやく我に返る。いつの間にか眠ってしまったみたい。


「勝手に部屋に入ってこないでよ」

「すまんすまん。ノックしても返事がなかったから心配になってな。夕飯できてるから降りて来なさい。体調が悪かったら後でも良いけど、どうする?」

「大丈夫だよ。着替えたらすぐ行く」


まただ。

最近の私は学校での延長線上のように、お父さんの前でも気丈に振る舞おうとする。

お父さんはそのことを知ってか知らずか、落ちたスマホを私に渡してから、すぐに部屋を出ていった。

まだ頭はぼうっとしているけれど、お父さんが待ってくれているから行かないと。

急いで私服に着替え、階段を降りる。

洗面所で顔を洗って鏡を見ると、目元がすっかり腫れていた。うわあ……これ、絶対泣き顔見られたよね。


お父さんは昔から器用で隙がなくて、時々何を考えているのかわからなくなる。

最近お父さんの料理が無駄に美味しい。肉じゃがを頬張りながら全力で料理を褒めたのに、微妙に笑いながら「そうか」としか言わない。

お父さんはお母さんの容態が悪くなってから、看病や家事をするために在宅で仕事をするようになった。今もその生活スタイルは変えていないのは、私が学校や部活に専念できるように配慮してくれているからだろう。

お父さんはちゃんと前に進んでいるのに、私だけが何も変わっていない。そう感じてしまうんだ。

進まなくちゃいけないのはわかってる。でも、先に進むとお母さんの記憶が(かす)んでしまいそうで怖いんだ。

私はお母さんを忘れたくない。