翌日。
思った通り、小瀬川くんは、私のことなどどうでもよさそうだった。
机に突っ伏して寝ていたり、だるそうにあくびをしていたり。そもそも、バイト中に私を見かけたことすら、覚えていないのかもしれない。
「小瀬川。これ、解いてみろ」
三限目の数学の時間。小瀬川くんが、当てられた。
昨日小瀬川くんをたまたま見かけたせいか、彼の動向をつい意識してしまう。
小瀬川くんはノートの上に突っ伏していたから、多分寝ていたんだと思う。というより、寝ていたから、当てられたんだと思う。五十代くらいで頭の毛の薄いその数学の先生は、寝ていたり聞いていなかったりする生徒をわざと当てるのが好きなのだ。
「うわ、かわいそう……」
誰かのヒソヒソ声がした。
机から顔を上げた小瀬川くんは、寝ぼけた顔で、モカ色の頭をガシガシ掻きながら黒板を見つめていた。だけどすぐに立ち上がると、だるそうに黒板に向かう。気だるげなのに、背が高いせいか、妙な存在感のある彼の歩き姿を、教室中の皆が固唾を呑んで見守っていた。
小瀬川くんはチョークを手に取ると、応用問題の方程式を難なく解いた。
チョークが黒板に数式を刻む音が、静まり返った教室内にリズミカルに響く。
想像もしていなかったほど、きれいな字だった。
流麗で、どちらかというと女子が書きそうな字体。
「……正解。戻っていい」
小瀬川くんが間違えるのを、期待していたのだろう。先生が、明らかに不満そうな声を出す。
「すげえ」「かっこいい」「天才じゃん」
そんな声がヒソヒソと飛び交う中を、小瀬川くんはまた気だるげに歩き、自分の席に着くなり突っ伏した。
すごい人だと思った。バイトしてても、ちゃんと勉強してるんだ。
家のことと勉強で手いっぱいの私とは、大違い。
少しだけ、飄々とした態度の小瀬川くんに、ジェラシーを感じた。
その日の放課後のことだった。
「水田。お前、部活に入らないか?」
職員室に私を呼び出したクラス担任の増村先生から、そんなことを言われた。
「部活、ですか?」
突飛すぎて、頭が追いつかない。部活なんて、入ろうとすら思ったことがないからだ。
増村先生は、専攻が古典の、三十代半ばの男の先生だ。だけどガタイがよくていつもジャージの上下を愛用しているから、よく体育教師に間違えられる。先生というよりまるで年上の友達のような親しみやすい先生で、生徒からは人気があるけど、ちょっと強引なノリが私は苦手だった。
「でも……」
忙しくしているお母さんの代わりに、私は家事をしないといけない。それに、特に今は、光の病院に行かないといけないから忙しい。
「分かってるよ。家、大変なんだろ?」
不意をつかれたけど、すぐに当然だと思った。担任である彼は、うちが母子家庭だということなんてもちろん知ってるだろう。
それに去年の面談で、光が入退院を繰り返していることを、お母さんが当時の担任に言っていたし。
「……そうなんです」
「だけどな、水田。部活は青春の一ページだ。絶対にやった方がいい」
使い古されたようなセリフ。大人目線でものを言われると、うんざりしてしまって、「はあ」としか言えなくなる。
「だから、文芸部に入れ」
「……文芸部、ですか?」
「俺が顧問だから、融通が効く。家のことがあるだろうから、無理して来なくてもいい。現に、ユーレイ部員もいるしな。だけど一週間に一回は、顔を見せろ。それだけでいいから」
結局断り切れず、私はその足で、文芸部の見学に行かされることになってしまう。
「文芸部か……」
部活になんて、正直興味がない。中学に入ったばかりの頃は、テニス部に入ってみたけど、結局思うように参加できずラケットを買う前にやめてしまった。
それに、文芸なんてますます興味がない。読書は好きな方だけど、ものすごく読むというほどでもない。
乗り気になれないまま、部室の集まる、旧校舎の三階に向かう。
文芸部は、廊下の一番奥にあった。物置と見まがうような、古めかしい丸型のドアノブのついたドア。ドア板の上半分に埋め込まれた擦りガラスのさらに上部に、『文芸部』と書かれたプレートが掲げられている。
ドアの向こうはシーンとしていて、人の気配なんてまったくなかった。ひと呼吸して、コンコンとドアをノックする。間もなくして「はい」と微かな声が返ってきた。
「あの。増村先生に言われて、見学に来ました」
ドア越しに緊張気味に声をかけると、「入ってください」とまた微かな声がした。
「失礼します……」
そこは、驚くぐらい狭い部屋だった。広さはおよそ六畳程度だけど、壁の二面がぎっしり本棚で埋まっているから、より狭く感じる。
真ん中には、長テーブルが置かれていて、上座のパイプ椅子に女子生徒が座って本に目を落としていた。三つ編みに眼鏡の、いかにも文学少女、といったイメージの人。顔を上げ、文学少女が私を見た。
「部長の川島です。三年です。二年の水田さんですよね? 増村先生から話は聞いています、好きに見学してください」
「あ、はい……」
サクサクと話を進めると、川島部長は再び本に没頭しはじめた。本棚の手前には、男子生徒がひとり、胡坐を組んで座っている。彼も本に没頭していて、こちらのことには我関せず、といった具合だ。彼らがときどきページを捲る音だけが響く、静かな空間だった。
ていうか、好きに見学してと言われても、狭すぎて、ぼうっと立つ以外何も出来ない。
「あ、あの……」
「何か?」
おずおずと声を出すと、川島部長が再び顔を上げて眼鏡を光らせた。
「他の部員の方は……?」
「私と、そこにいる一年の田辺くんと、今日は来てないけどあとひとり。以上です」
田辺くんらしき男子生徒が、私に向けてぺこりと頭を下げてきたので、私も慌てて頭を下げた。くるくる頭の黒髪の、童顔の男の子だ。その手元には、背表紙に『ドグラ・マグラ』と書かれた、なんだか難しそうな本。
「全部で三人ってことですか……?」
「そうです」
川島部長は、何を聞いても、声のトーンも表情も一切変わらない。それきり、会話は途切れてしまった。仕方なく、私は本棚に近づき、本や資料を物色することにする。
日本文学全集や、ロシア文学全集など、図書館でしか見かけないような分厚い本がたくさん並んでいた。旧い本独特の、どこか懐かしい香りが、鼻をかすめる。
静かな部屋に、半開きの窓からそよぐ風が、放課後の音色を運んでくる。グラウンドでノックに励む、野球部の声。吹奏楽部が奏でている音楽は、有名な映画のテーマ曲だ。どこからともなく遠く聞こえる、ワッと盛り上がる笑い声。
気づけば私は、本を目で追いながら、ストンと床に体育座りをしていた。
不思議と、居心地が良かったからだ。
行ったことのない部室に、初めて会うふたりの生徒。そのはずなのに、ずっと前からこの場所を知っていたかのような心地になっていた。
「よかったら」
ふいに、声がした。見れば、胡坐を掻いて小難しそうな本を読みふけっていた田辺くんが、冊子のようなもの私に向けて差し出している。
「去年の文集です。僕のは今年入部したばかりなので載っていませんが、入部を決める際の参考になるかと」
「あ、ありがとう」
私が文集を受け取ったのを見届けると、田辺くんは、また本の世界に戻っていった。
紫色の薄い冊子には、去年の年号、そして『県立T高校文芸部』と書かれてある。日付が秋になっているから、おそらく文化祭に合わせて作成されたものだろう。この文集の作成が、文芸部の一番目立った活動なのかもしれない。
パラリと頁をめくる。
一センチにも満たない厚さのその冊子には、部員たちが、思い思いに文字を綴っていた。
短編小説、エッセイ、随筆、詩。ひとつとして同じものはない。
好きなように、書きたいように。そこには多種多様の個性が輝いていた。
後ろの方のページで、昨年二年だった、川島部長の名前を見つける。難しそうなミステリーの短編が、他の部員たちの倍はあるのではないかという文字数で、ぎっしり書き連ねられていた。
今日会ったばかりで、先輩のことはまだよく知らないけど、我が道を貫くかんじが彼女らしいなと感じた。
最後は、詩だった。
他の作品とは違い、その詩だけタイトルも名前もないのを、不思議に思う。
川島部長が幅を占めすぎたせいか、その部員の枠だけすごく狭い。
だけど、詩独特の空白のせいか、それは驚くほど自然と私の目に入ってきた。
僕が歩むこの世界は、澱んで、濁っている
どんなにもがいても、出口が見えない
だから僕は、君のために影になる
光となり風となる
僕が涙を流すのは、君のためだけ
僕のすべては、君のためだけ
深い海の底に沈んだこの世界で、僕は今日も君だけを想う
そこには、苦しいほどの、“君”に対する想いが綴ってあった。
詩の勉強なんてしたことがないから、この詩がうまいかどうかなんてわからない。
わからないけど、そんなことはどうでもいいと思った。
わずか七行の、他のどの作品よりも短いその詩は、不思議なほど私の心に響いた。
そして、たまらなく泣きたくなった。
不器用なほど真っすぐな、“君”に対する真っすぐな想いが、じわじわと胸を揺さぶったんだ。
――悲しくて、あたたかい。
心の奥底から、今まで感じたことのない熱い感情が込み上げた。
「どうしますか、入部しますか?」
ふいにかけられた声に、詩の世界に支配されていた私は、我に返った。
川島部長が、眼鏡をクイッとやりながら、こちらを見ている。
「あ、ええと……」
こんな、早急に決めないといけないのだろうか?
戸惑いながら、名もない詩に視線を落とす。
心臓がドクドクと鼓動を刻んでいる。
名もなき詩の一文一文が、いまだ頭の中を、ゆっくりと揺蕩っていた。
そして、まるで口から言葉が流れ出てきたかのように、私は自然と返事をしていた。
「……はい。入ります」
嫌な予感というものは、大抵当たっている。
それはもしかすると、「こうなったらどうしよう」という負の感情が、負の出来事をおびき寄せてしまうからかもしれない。
だけど、いったん転落してしまえば、何ごともなかなかいいふうには転がらない。
十六年と少し生きてきた中で、私は、そのことをすでに学んでいた。
美織と杏との関係が目に見えて変わってきたのは、ユーレイ部員前提で文芸部に入部した、翌日頃からだった。
「杏、体育館、早く行こ!」
廊下から美織が叫べば、体操服への着替えを終えた杏が、美織のもとへ駆けて行く。
「そういえばさ、次のクラスマッチ、何にする? 美織ってバスケ部だからバスケは出ちゃダメなんでしょ?」
「そうなの。だから、バレーにしようって思ってる。杏は?」
「わたしもバレー! 一緒にがんばろ!」
ふたりの楽しそうな声が、廊下の向こうへと遠ざかっていった。
ザワザワとした教室で私はひとり、黙々と体操服に着替えていた。
胸の奥が、ズドンと重い。
体育館にひとりで行こうが、誰かと行こうが、大した問題じゃないことは分かっている。
だけど私は、ひとりだけこの世界からはみ出してしまったような孤独を感じていた。
別に、喧嘩をしたわけじゃない。
ただ、ふたりの作る空気に入り込めないだけ。
そのことに、前からふたりとも勘づいていて、徐々に行動に移した。一緒にいて楽しい人に傍にいて欲しいと思うのは、当たり前のことだから。今となっては、休憩時間も、移動のときも、ほとんど私に声がかかることはない。
それでも、お弁当の時間だけは、まだ三人で机を囲んでいた。
私はふたりとほとんど話をすることなんてないし、明らかにはみ出してるけど、これは言ってみれば形式のようなもので、美織と杏は義務的に私と机を囲む。
「それでさ、そのときの写メがあるんだけど」
「なになに? 見せて見せて。あははっ、めちゃくちゃ面白い!」
「でしょでしょ!」
お弁当を食べながら、いつものように、ふたりははしゃいでいる。ふたりが作る独特の波長に乗れない私は、ひとり黙々とお弁当を口に運ぶ。
入りたい。けど、入れない。
中学校のとき、家庭事情を知られて一線を引かれたときの苦い思い出が、また私に歯止めをかける。
ふたりの笑い声が、周りの楽しそうな声が、さらに私を追い込む。
同じ机にいるのに、まるで見えない仕切りが私たちを隔てているみたい。
楽しそうなふたりの隣で、黙ってお弁当を口に運ぶ時間は、地獄のようだった。
きっと、私はもう、ここでお弁当を食べない方がいい。
だけど、自分から出て行く勇気もない。
ひとりになるのが怖いのだ。
お弁当は、友達と食べるのが当たり前だから。
特に女の子は、皆と一緒にいるのが当たり前だから、ひとりでいると目立ってしまう。
私は、しがみついてでも、普通の存在でいたいんだ……。
いじめられているわけではない。ひどいことを言われたわけでもない。ただ、ふたりの仲に入れないだけ。
それだけだ。こんなこと、大したことない。
世の中、もっと深刻な悩みを抱えている人は山ほどいる。
繰り返し、自分にそう言い聞かせた。
大丈夫、大丈夫だと、暗示のように言い聞かせた。
だけど日に日に食欲がなくなって、何をしていても心から笑えることがなくなった。
テレビを見ていても、ただの中身のない映像に見えるだけ。
学校に行く時間になると、胸の奥に鉛が沈んだみたいに重くなって、ときには吐き気すらした。
分かってる。自分が変わればいいんだ。
明るく演じて、美織と杏に好かれるような人間になればいい。
それは思うんだけど、どうしてもできなくて。
無能な自分を、繰り返し責め立てた。
悪いのは、全部自分なんだ……。
「どこか具合でも悪いの?」
ある朝、洗面所で吐き気を堪えていると、お母さんにそう声をかけられた。
「……え?」
ドキッとした。こんなことで、お母さんを困らせてはいけない。
女手ひとつで家族を支えているお母さんは、気苦労が絶えないのだから。
私は、お母さんに悲しい顔を見せてはいけない。
「……別に、なんでもないよ」
「そう? 顔が白いけど。熱でもあるのかしら」
お母さんは私のおでこに手を当てて、「別になさそうね」と首を捻っている。
「生理前だからかな? 大丈夫だから、心配しないで」
できるだけ自然に笑って見せると、お母さんは納得したのか「ならいいけど」と表情を緩めた。
「じゃあ、今日もお仕事遅くなるから、光のお見舞いお願いね。あさって退院だから、荷物をまとめといて欲しいの」
「分かった。ちゃんとやっとくから、心配しないで」
「ありがとう、助かるわ」
お母さんのホッとした笑顔を見て、うまく誤魔化せたことに安堵した。
「あら、もうこんな時間! じゃあ、行ってくるから。戸締りお願いね」
「はーい」
陽気に答え、笑顔でひらひらと手を振ると、カバンを肩にかけたお母さんは大慌てで玄関に向かった。グレーのパンツスーツの
背中が、ドアの向こうに消えていく。ハウスメーカーで働いているお母さんは、出勤時はいつもスーツを着ていた。
バタンと玄関扉の閉まる重厚な音が聞こえたあとで、私は張り付けていた笑みをスッと消した。
胸が重い。体がだるい。
でも、これは病気なんかじゃない。私に意気地がないだけ。
――だから、学校に行かなくちゃ。
いつもと同じ毎日が過ぎていく。
美織と杏の楽しそうな声が耳から離れなくて、私を追い込む。
ふたりだけで楽しそうにしている様子を見ているだけで、食事が喉を通らない。
ひとりぼっちの着替え、理科室への教室移動。
放課後は、増村先生に呼ばれて文芸部に行った。
増村先生は私が入部したことをすごく喜んでくれて、部員三名に向かって文学について熱弁していた。だけど気乗りせず、なにひとつ耳に入らない。
五時頃、増村先生に解放されるなり、光の病院に急ぐ。
ついた頃には、もう六時半になっていた。
相変わらず光は反抗的で、ろくに話すら聞いてくれなかった。
布団をかぶり、なにを言っても「うん」とか「ふうん」とか答えるだけ。しまいには、なにも返事をしてくれなくなった。
お母さんとの約束通り、大きめのタオルとか、使ってないティッシュとか、退院までにもう使わなさそうなものをひとまとめにして、私は病院を出た。
学校のカバンだけでなく、光の入院セットを入れた大きめのボストンバッグを持っているから、かなり重い。
ふらふらになりながら病院前のロータリー脇の道を歩いて、敷地外に出る。
外は、すっかり暗くなっていた。
光の病室でなんだかんだ用事をしたから、今はもう、八時近いのだろう。
病院を出るのがこんなに夜遅くなったのは、久しぶりだ。
群青色の夜空には雲が立ち込め、星ひとつ見えない。片道二車線の車道は、煌々とライトを灯した車が行き交っている。見慣れない夜の景色を見ていると、まるで、知らない街を歩んでいるみたいで心がざわついた。
「おっも……」
ボストンバッグを肩にかけなおしたとき、反動で足元がふらついた。隣を横切った知らないおじさんが、怪訝そうに私を睨んでくる。ふらついた際に、肩と肩が少し触れ合ったからだろう。
「こんな時間まで、高校生が遊んでるんじゃねえよ」
苦々しく吐き出されたおじさんの悪意ある呟きが、私の心に傷を作る。
私は、遊んでいたわけじゃない。
学校でつらい一日に耐え、弟の病院に行っただけだ。
それなのに、どうして、そんな嫌味を言われないといけないのだろう。
おじさんは、私のことなんてなにも知らないのに。
みじめな気持ちになって、どうしようもないほどに泣きたくなった。
「……っ」
唇元が、震える。足に力が入らない。
だけど、ここで泣いてはダメだと思った。路上で泣いている女子高生なんて、普通じゃない。私は、普通でありたい。当たり前からはみ出したくない。
私よりもっとつらい境遇の人は、世の中にいくらでもいる。
悲劇のヒロインぶっている場合じゃない。
もっと頑張れば。頑張ればいいだけなんだ。
だけどどんなに自分に言い聞かせても、足からはみるみる力が抜けていく。
そのうち立っていられなくなり、私は足もとから崩れ落ちるように、その場にうずくまった。
「ハア、ハア……」
何コレ、息が苦しい。
いつものように平生を装うと努力しても、うまくいかない。
まるで喉が詰まったみたいに呼吸がうまくいかなくて、瞳には生理的な涙が次々溢れ出す。
「ハッ……ハア……」
頑張らなきゃ………。
「――おい、大丈夫かよ」
そのときだった。
すぐ近くから聞こえたそんな声に、朦朧とする意識が引き戻された。
どうにか顔を上げれば、思いもしなかった人がいて、一瞬息苦しさを忘れる。
そこには、私の顔を心配そうにのぞき込んでいる小瀬川くんがいた。
「…ぜ…」
小瀬川くん、って言いたかったけど、うまく言葉にならなかった。小瀬川くんは眉をしかめると、私の背中に向かって手を伸ばした。ためらうように一度手を止めたあと、遠慮がちにさすってくる。
「落ち着いて。ゆっくり息吸って」
「……っ」
私は、涙目でかぶりを振った。
急に、今までどうやって呼吸をしていたか、分からなくなってしまったのだ。
私の声にならない声を理解しているかのように、小瀬川くんは「大丈夫だから。息、ちゃんと吸えるから」と言い聞かせてくる。
「俺の、口の動きをよく見て。同じように動かして」
小瀬川くんが僅かに口を開け、ゆっくりと時間をかけて息を吸い込む。それから、また時間をかけて、ゆっくり息を吐き出した。
私は今にも死にそうなのに、小瀬川くんは慌てる様子はなく、淡々としていた。
そのせいか、彼の言は真実味を帯びているように感じた。
大丈夫、これは慌てることじゃない。
私は、ちゃんと息を吸える。
小瀬川くんは全然慌ててない。
だから、死ぬほどのことじゃない。
彼の口の動きを見て、どうにかその通りに真似をしようとした。
呼吸が荒れているから、リズムを掴むのに時間がかかったけど、小瀬川くんはいつまでも傍を離れることなく呼吸の動きを繰り返してくれた。
そのうち、今までの困惑が嘘のように、呼吸の仕方を思い出していく。
「……息、戻った」
幾度も呼吸を整え、もう大丈夫だと思った頃に、ようやく声が出た。
すると小瀬川くんは、ほんの少しだけホッとした顔を見せたあとで、何も言わずに私の背中から手を離す。
グレーのストライプシャツに黒のロングエプロン。よく見ると小瀬川くんは、カフェの制服姿のままだった。
「……小瀬川くん。もしかして、バイト中だった?」
「そうだけど、終わりかけだったから」
気にしなくていい、という意味なのだろう。
カフェの窓ガラス越しに、路上にうずくまる私を見つけて、助けに来てくれたんだ……。
「ごめんね。助けてくれてありがとう」
どうにか笑って見せれば、小瀬川くんは、先ほどまでの穏やかな口調からは考えられないほど、不機嫌そうな顔をした。
――え、何……?
「無理して、友達ごっこなんかしてるからそうなるんだ」
まるで、ハンマーで頭をガンと頭を殴られたみたいだった。
小瀬川くんのその一言は、私にとってはそれくらい衝撃的だった。
彼が言ってるのは、明らかに美織と杏との関係のことで。
クラスの誰も、そのことには触れて来ないのに。お母さんだって、誤魔化せたのに。
話したこともない小瀬川くんに、バレていた――。
闇を背後に浮かぶ、きれいに整った小瀬川くんの顔が、急に怖くなる。
凍り付く私に、小瀬川くんは見透かすような目をして、なおも容赦のない言葉を投げかけてきた。
「あいつらとつるむのが苦痛なら、ひとりでいろよ。見ててしんどいんだよ。自分を偽ってまで、一緒にいる必要ないだろ?」
――見てて、しんどい。
彼の言葉が、刃のように私の胸に刺さる。
私、端から見たらそんな風に見えていたんだ。
クラスの人は何も言ってこないけど、みんなやっぱり分かってたんだ。
私が“普通”から外れかけていることに。
唇を引き結び震える私を、小瀬川くんは、変わらずしかめ面のまま見つめていた。
その理知的な瞳には、臆病な私のことなど、すべてお見通しなのだろう。
「……小瀬川くんには、わからないよ」
いつの間にか、反抗心が胸の奥から湧いてきた。
「普通でいられなくなる気持ちなんて……」
「……普通って、なに?」
小瀬川くんは、私の卑屈な声にも、あくまでも淡々と返事をする。
「普通が、そんなに大事?」
私は、引き結んだ口元を震わせて、小瀬川くんを見た。
「大事だよ、私には大事。だって……」
言いかけて、言葉をつぐんだ。家庭環境が普通じゃないから、せめて学校では普通でいたい――美織と杏にも頑なに秘密にしているのに、今日初めて話したクラスメイトに、そんなことは言えない。
押し黙ったあとで、恐る恐る小瀬川くんを見上げる。
真剣な目をした彼の顔が、そこにはあった。
眉根を寄せているのは、おそらく、私の気持ちが伝わっていないからだろう。
ひとりでいることが平気な彼にとって、ハブられる疎外感なんて理解できないと思う。
だから、絶対になにか言い返してくると思った。
寡黙に見えて、彼は意外とズバズバと言う人のようだから。
だけど小瀬川くんは、しばらく無言を貫いたあとで、顔を上げて辺りを見回す。
視界のあちらこちらに映るネオンの灯り、通り過ぎるサラリーマンたちの笑い声、どこからか響く車のクラクションの音。
夜の深まった街は、すっかり私の知らない世界に変貌していた。ふと感じたことのない不安感を覚えたとき、小瀬川くんがおもむろに立ち上がる。
「――ちょっとだけ、そこで待ってて」
それから、カフェの中へと戻っていった。
「……え?」
意外な展開に、頭が追いつかない。
どういう状況なのか理解できないまま、私はとりあえず、路上に座り込んだまま彼を待つ。
小瀬川くんは、わりとすぐに出てきた。カフェの制服から、ブレザーに濃緑のネクタイの、学校の制服に着替えている。
きょとんとしていると、「それ」と小瀬川くんがぶっきらぼうに私の肩を顎で示す。
「貸して」
「……え?」
肩にかかってるのは、光の入院道具をいれたボストンバッグで、彼が何を求めているのか理解できない。
困惑していると、しびれを切らしたのか、小瀬川くんが勝手に私の肩からボストンバッグを奪ってしまった。そして、代わりに
自分の肩にかける。
百八十センチを超えている彼の肩にあると、百五十二センチの私の肩ではあれほど大きく感じたボストンバッグが、なんだか小さく見えた。
「立って。帰るんだろ?」
「……あ、うん」
そのとき、小瀬川くんは代わりにバッグを持ってくれたんだと私はようやく理解した。
優しく助けてくれたかと思えば冷たくなり、また優しくなるなんて。
コロコロ変わる彼の態度が理解できなくて、困惑してしまう。
「……いいよ。なんか悪いし」
「また倒れられたら困るから」
そう言うと、小瀬川くんは私をその場に残して、先に歩き出した。
「え? 待って……」
慌てて、彼の背中を追いかける。小瀬川くんは歩調を緩めないまま、迷わずバス停で足を止めた。
「……小瀬川くんもこのバスなの?」
「そう」
知らなかった。だとしたら、小瀬川くんのバイトと私が光のお見舞いに行く時が重なったとき、バスが一緒だったことがあるかもしれない。
小瀬川くんは、まるで私の心を読んだみたいにボソリと言い放つ。
「バスで、何度も見たことあるから。……水田さんのこと」
名前を呼ばれたことにドキッとして、思わず隣に立つ小瀬川くんを見た。
同じクラスなんだから、名前くらい知ってるのが当たり前だけど、クラスメイトに興味がなさそうな彼の口から出たのが意外だったんだ。
きっと、私が病院に行っていたことも、知ってるんだろう。
どうして病院に行ってるのか聞かれると思ったけど、小瀬川くんはそれ以上何も言ってはこなかった。
数分後に到着したバスに、ふたりで乗り込む。バスはガラガラで、私は乗ってすぐのところにあるひとり席に座った。小瀬川くんは、私から通路を隔てた、ふたり席に座る。
小瀬川くんはなにも話さない。
私も、なにを話したらいいのか分からない。
バスのエンジン音と、ドアの開閉する音、そして車窓さんのアナウンスだけが、繰り返し響いていた。小瀬川くんは窓の方を見て、私を見ようともしない。
通路を隔てているとはいえ一応隣同士だし、さすがに気まずい。
「……あの」
バスに乗って十分くらい経ったところで声を掛けると、小瀬川くんはようやくこちらに目を向けた。
「バイト、いつからしてるの?」
小瀬川くんはすぐに私から視線を逸らすと、「一年くらい前」とどうでもいいことのように答えた。
「先生には、言わないで。バイトしてること」
「……分かってる。心配しないで」
私の返事を聞くと、小瀬川くんはまた窓の外に顔を向けてしまった。
やがて、最寄りのバス停に近づく。
「次、降りるから」
そう言うと、小瀬川くんはずっと持ってくれていたボストンバッグを、差し出してくる。
「これ、返す」
「……ありがとう。助けてくれて、荷物まで運んでくれて」
お礼を言ったけど、小瀬川くんは「ああ」とそっけなく答えただけだった。
小瀬川くんを乗せたバスは、扉を閉めると、すぐに出発した。窓越しに見える、こちらを見向きもしない彼のシルエットが、だんだん見えなくなる。
やがてバスは、青信号の連なる闇の向こうへと、溶け込むように消えていった。
――『無理して、友達ごっこなんかしてるからそうなるんだ』
小瀬川くんに言われたことが、今更のように、頭の中をぐるぐるしていた。
彼は、初めて話したというのに、私の心を暴いた。
かたくなに隠してきたのに。“普通”でいる努力をしてきたのに。
ほんの少しの間に、淡々と、私の努力を全否定してしまったんだ。
足が地面に縫い付けられたみたいに動かなくなって、私はそのまましばらく、ひとり呆然と夜のバス停に佇んでいた。
小瀬川くんに言われた言葉は、次の日も、ずっと頭の中から離れてくれなかった。
人の事情も知らないで、と腹を立てては落ち着いての繰り返し。
だけど、本当は心の奥底で理解していた。
小瀬川くんの言ったことは、正しい。
私は、ひとりになる不安から、ずっと顔を背けていた。この苦しみから抜け出すには、勇気を振り絞って、美織と杏から離れるしかないんだ。
きっかけを、ずっと探してた。
だけどきっかけなんて、待っていても来ない。
――自分で作るしかないんだ。
昼休み。
「あ~、お腹空いた。杏、早く食べよー」
「あれ? 美織、今日パン? おいしそう」
数学の授業から解放され、伸びをしながら会話をしている美織と杏。彼女たちが私の机に近くの机をひっつけようとしているのを見て、私は覚悟を決めて立ち上がった。
「……今日から、私、外で食べるね。だから、ふたりで食べて。ごめんね、今までありがとう」
心臓がバクバクと暴れまわっていて、昨日のように呼吸を忘れそうになったけど、どうにか言い切る。
呆気に取られている美織と杏奈をそのままに、お弁当を持って、急いで教室を出ようとした。
「え。何あれ、感じ悪い」
「他に食べる人いないだろうから、一緒に食べてあげてたのにね」
背中越しに、ヒソヒソと言い合うそんな声が聞こえて、胸がえぐられる心地がした。
だけど唇を引き結んで耐え、廊下に出る。
――言ってしまった。
美織と杏奈が、この先私を仲間に入れてくることはもうないだろう。
私は、完全にひとりぼっち。
女子グループからハブられた、哀れな人間。
普通じゃない状況に、全身から汗が噴き出すような焦燥感を覚えた。
でも、もうどうしようもない。
もう、後戻りはできない。
お弁当を食べられる場所を求めて、学校内を歩き回る。中庭も多目的室も、どこもお弁当を囲む生徒でワイワイとしていて、とてもではないけどひとりポツンと食べる勇気は湧かなかった。
誰の目も気にせずに食べたいけど、人がいないところに思い当たる節がない。
そのときふと、閃いた。
そうだ。あそこなら、きっと絶対誰もいないはず――。
渡り廊下を抜けて、部室の並ぶ旧校舎三階を歩む。
目的は、文芸部の部室だった。
入部したものの、一度しかまだ部活には行けていない。でも一応部員だから、部室を使う権利はある。
閑散としている廊下を歩み、相変わらず倉庫然とした文芸部のドアの前に立つ。ノックすると思った通り返事はなくて、私は迷わずドアノブを掴んだ。
鍵がかかってるかもと不安になったけど、ドアノブは容易に捻ることができた。
ホッとしつつ、ドアを開く。
「……っ」
次の瞬間、私は声にならない声をあげていた。
窓辺のパイプ椅子に小瀬川くんが腰かけ、開け放たれた窓から外を眺めていたからだ。
「小瀬川くん……?」
よく見ると、小瀬川くんの手には、コンビニのおにぎりが握られていた。長テーブルにはお茶の入ったペットボトルも置かれている。どうやら、お昼ご飯を食べていたみたい。
予想外の先客に、唖然としてしまう。
「……どうして、ここにいるの?」
聞くと、小瀬川くんは、見れば分かるだろ?とでも言いたげな顔をした。
「飯、食ってるから」
「え? でも、ここ文芸部……」
「とりあえず入ったら? 水田さんも、飯食べに来たんだろ?」
小瀬川くんが、また見透かすような色を瞳に浮かべた。
それ以上は何も言わず、じっとこちらに顔を向けているだけの小瀬川くん。窓から入り込んだ風が、彼のモカ色の髪を揺らす。
彼の視線で、なんとなく理解した。
話したこともなかったのに、私の心を暴いた小瀬川くんは、多分分かってる。
私が美織と杏から離れて、ひとりでお弁当を食べにここに来たことを。
私は後ろ手にドアを閉めると、部室に足を踏み入れた。
入ってすぐのところに置かれていたパイプ椅子に座り、長テーブルの上にお弁当の入った袋を置く。
小瀬川くんは、私に興味が失せたかのように、おにぎりを食べながら再び窓の外に目を向けていた。
なんでわざわざ文芸部の部室で食べてるの?とか、いつもここで食べてたの?とか、小瀬川くんに聞くべきことはいっぱいあった。だけど、腰を落ち着かせた途端に先ほど聞いた美織と杏の声を思い出し、他のことはなにも考えられなくなる。
『え。なにあれ、感じ悪い』
『他に食べる人いないだろうから、わざわざ一緒に食べてあげてたのにね』
――もう、完全に終わりだ。
ひとりの私は、学校でも“普通”の存在じゃなくなってしまった。
「小瀬川くん……」
「なに?」
「……私、明日からも、ここに食べに来ていいかな」
声、震えていなかっただろうか。
ドキドキしながら顔を上げると、こちらを見る小瀬川くんの顔が目に飛び込んできた。
勇気をたたえるわけでもなく、憐れむわけでもなく。小瀬川くんは、実に淡々と言った。
「そうしたいんならそうしなよ。ていうか、俺の許可なんて必要ないし」
「……うん」
「水田さんは、水田さんの好きなように生きなよ。誰にも、水田さんの行動を制約する権利なんてないんだ」
「――うん」
どうしてだろう。
小瀬川くんの言葉に返事をした途端、瞳に涙が溢れた。
好きなように生きたらいい。
誰にも、私の行動を制約する権利なんてない。
そんなふうに思ったことは、今までなかった。
お母さんのために、光のために、頑張らないといけないと思っていた。無理して、自分を偽って、女子グループからはみ出さないようにしがみついて。そうやって、“普通”を演じないといけないと思っていた。
だけど、そうじゃないんだと教えられた気がして。
普通じゃなくてもいいんだと言われた気がして。
突き放されているようにも聞こえる言葉だったけど、心がホッとしたんだ。
涙を見られるのが恥ずかしくて、顔を伏せ、さりげなく指先で拭う。だけど次に顔を上げたとき、思い切り小瀬川くんを目が合って、泣いてるのがバレバレだったことに気づいた。
小瀬川くんは、また不機嫌そうな顔をしていた。
それから、私の涙に対しては何も触れず、窓の外を向いてしまう。
ひとりが平気な気丈な彼には、めそめそ泣くような女子はきっとうっとうしいだけだろう。
だけど、泣き止まなきゃと思えば思うほど、涙は止まってくれなかった。
「ううっ……」
できるだけ声を押し殺そうとはしたけど、どうしても無様な泣き声が漏れてしまう。
「うっ、ううっ……」
涙で顔はボロボロ。鼻水だって出ている。
お母さんの前でも、お父さんが亡くなった日以降一切泣いていなかったのに……。
どうして昨日初めて話したばかりの小瀬川くんの前で泣いてるんだろうって、情けない気持ちになったけど、涙は止まる気配がなかった。
小瀬川くんは、私のむせび泣きなど聞こえないかのように、ずっと窓の向こうを見てていた。
聞こえてるけど、うっとうしいからあえて無視しているのか。
それとも、気を利かせて聞こえないフリをしてくれているのか。
分からないけど、何も言わないでいてくれることが、今はひたすらありがたかった。
美織と杏との縁は、その昼休みを機に、完全に切れてしまった。
目が合うことすらない。露骨に避けられているのがよく分かった。クラスメイトなのに、赤の他人より遠い存在になってしまったみたい。
周りも、私たちの異変には気づいていた。
ひとりでいる私の耳に、どこからともなく囁きが聞こえてくるのもしょっちゅうだった。
『やっぱり、水田さんぼっちになっちゃったね。前から、ひとり浮いてたもんね』
『美織も杏も友達多いし、目立つし、やっぱり合わなかったんだね。だって水田さん、あまり喋らなくて、一緒にいても盛り上がらないし』
女子グループから転落した哀れな存在は、常にクラスメイトの視線を集めていた。
教室は、以前にも増して、私にとっては居心地の悪い場所になってしまう。
とくに、休憩時間や移動教室は、地獄のようだった。
昼休憩のたびに、逃げるように訪れる文芸部の部室だけが、私が心を休めることができる場所になる。
ドアを開けたら、小瀬川くんはたいていいつも先にいて、窓側のパイプ椅子で、コンビニおにぎりとか総菜パンを食べていた。
私たちが会話を交わすことは、ほとんどない。
たまに、「次の授業なに?」とか、最低限の必要事項を確認したり、どうでもいい話をしたりする程度だ。
だけど、彼とふたりきりでいる空間は、不思議とホッとできた。
『かわいそう』
『ああはなりたくない』
『自分じゃなくてよかった』
クラスメイトから感じるそんな視線を、彼からは一切感じなかった。
小瀬川くんはいつも淡々としていて、自分を保っていた。
私のことなど、どうでもいいといった雰囲気。
だからきっと、安心できたんだろう。
それに、呼吸困難に陥った無様な姿や、情けない泣き顔をすでに見られているせいで、小瀬川くんの前では自分を偽らなくてよかったというのもあると思う。
「ねえ、小瀬川くんって、どうしてバイトしてるの?」
あるとき、聞いてみたことがある。
すると、小瀬川くんはカレーパンを頬張りながら、いつものようにそっけなく答えた。
「金がいるから」
「ふうん……」
生活が、苦しいのだろうか。だけどそこまで踏み込むのはおかしい気がして、私はそれ以上は聞くのをやめた。
小瀬川くんが本当はいい人だということはもう分かってるけど、どことなく入り込めない雰囲気があった。
考えすぎかもしれないけど、まるで見えない境界線を張って、私を近づけないようにしてるみたい。それは私も一緒だから、彼のことは言えないのだけど……。
だから、いつも同じ空間でお昼ご飯を食べていても、小瀬川くんのことを友達と呼んでいいのかよく分からない。私たちの関係は、ただのクラスメイトの域を超えていない。
「バイトって、大変?」
「慣れればそれほどでも」
「そっか。私も、バイトしてみようかな……」
私が働けば、お母さんも少しは楽になるだろうか。でも、お母さんは私がバイトをするのを嫌がる。ただでさえ家事や光の面倒で大変なんだから、他の時間は勉強に集中しなさいって言ってくる。
そんなことを思い出していると、ふと視線を感じた。
澄んだ青空を背景にこちらを見つめる小瀬川くんの顔が、なぜが悲しげに見えて、一瞬息を呑む。
だけど、すぐに小瀬川くんは、いつもの不愛想な顔に戻った。
というより、そもそも、ずっとそんな顔をしていたような気もする。
きっと、光の加減で、儚げな雰囲気に見えただけだろう。