君がひとりで泣いた夜を、僕は全部抱きしめる。

作業をしていた教室に戻ると、クラスメイトたちはほとんど帰っていた。隅の棚に置いていたバッグを漁り、スマホを見ると、【ごめん、塾あるから先に帰るね】と夏葉からLINEが入っている。美織と杏も、帰ったみたい。

空き教室の方は、すっかり片付いている。理科室はどうだろうと、隣に向かった。確認出来たら、桜人に言われたように、増村先生に報告しないといけない。

入り口から理科室の中を見ると、すっかり片付いていた。実験台のひとつに男子が二・三人集まって、話し込んでいただけだ。

もう大丈夫、と判断して喫煙室に向かおうとしたそのとき。

「あ、水田!」

男子の輪の中にいた斉木くんが、私を見て声をあげた。一緒にいる男子も、いつも斉木くんとはしゃいでいる賑やかなタイプの人ばかりだったけど、今はやけに深刻そうな顔をしている。

「どうしたの?」

手招きされて、彼らの方に近づく。すると斉木くんが、「お前、知ってた?」と小声で聞いてきた。

「小瀬川が、俺らより年上ってこと」

「……え?」

軽く動揺していると、「付き合ってるのに、知らなかったの?」と男子のひとりが茶化すように言う。

「別に、付き合ってないから」

声が小さくなってしまったのは、今でははっきり、桜人のことが好きだと実感しているからだろう。否定はしても、心の中では、私はそれを望んでいる。

「これ、見ろよ」

斉木くんが、紺色の生徒手帳を差し出してくる。

「さっきそこに落ちててさ。誰のか確認しようと思って中開いたら、小瀬川のだったんだけど、生年月日見て」

そこには、たしかに桜人の写真があった。記載されていた生年月日から彼の年齢を計算すると、斉木くんのいうように、私たちより二歳も年上と言うことになる。

「ほんとだ……」

見てはいけなかったもののような気がして、罪悪感が込み上げる。

「高校浪人したのかな?」
「少年院入ってたとか?」
「小瀬川が? まさか!」
「留学じゃね?」

好き勝手に話している、男子たち。私の深刻な面持ちに気づいた斉木くんが、「あ、ごめん、誤解するなよ!」と慌てたように言った。

「年上って知って、変な目で見るようになったわけじゃねーから。あいつ何やってもかっこよくて妬けたけど、『あ、年上ならしゃーねーな』って逆に安心したかんじ?」

裏表のなさそうな斉木くんのその言葉は、きっと本心だろう。

うん、と私は頷いた。

「……私、今から増村先生のところに行くから、よかったら、生徒手帳渡しとくよ?」

「お、さんきゅ。じゃあ頼むわ」

斉木くんから受け取った生徒手帳を、掌でそっと包んで廊下に出た。

たしかに驚きはしたけど、だからといって、何かが変わるわけではない。

だけど、私の知らない桜人の二年間には、絶対になにかがあるわけで。

知りたいけど、知ってはいけないような、落ち着かない気持ちになっていた。
***

 君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな

“君に会うためなら死んでも構わないと思っていた。だけど今は君に会うためにいつまでも生きていたいって思う”

ずっと、この和歌の意味が理解できなかった。

僕はずっと、生きたいと思っていなかったから。

誰かに会うために生きたいという気持ちなど、子供ながらに、きれいごととしか思えなかった。

見るからに仲が冷え切っていく両親、泣きわめく母親、突然の離婚。

ずっと思ってた。この世から、僕なんかいなくなった方がいいって。

この身体は、欠陥だらけだ。

早く土に返って、新しい生を育んだ方が、よほど世のため人のためだろう。

そんなとき、あの子に出会った。

あの子は太陽の光みたいに輝いていた。

最初は苦手で、拒絶しかけたけど。

だけど彼女は、不思議な力で、ぐいぐいとすさんだ僕の心を溶かしてくれた。

あのとき、一文字一文字が心に染み入るように、あの和歌の意味がスッと理解できたんだ。

遠い、夏の日の思い出だ。


生徒手帳がないことに気づいて理科室に引き返した俺は、中でのやりとりを、すべて聞いてしまった。

彼女の背中が、廊下の向こうに遠ざかって行く。

思わず柱の陰に身を隠した俺に気づかないまま、彼女の後ろ姿はやがて見えなくなった。

「でさ、そのあと増村に廊下で会ってさー」
「ぎゃはは、お前、それヤバくね?」

理科室内にとどまっている斉木達の話題は、もうすっかり別のことに移っている。

まあいいか。生徒手帳ぐらい、明日増村が返してくれるだろう。

俺は結局そのまま、踵を返して、昇降口に戻ることにした。

これくらい、どうってことはない。

何度も自分に言い聞かせても、心臓は、不穏な鼓動をやめる気配がない。


このままいると、いつか君は、知ってしまうかもしれない。

僕が、君に何をしたか。

臆病な僕は、そのことが、君に全てを知られることが。

――この世が終わってしまうことよりも、恐ろしい。
文化祭が、終わったころからだった。

桜人が、文芸部に来なくなった。

はじめは、バイトが忙しいのだろうと思っていた。

だけど翌週もその翌週も部室に来なくなり、教室で目が合うこともなくなったとき、避けられているのだと気づいた。

同じ教室にいても、私たちの空気が交わることはない。近くて遠い、そんな距離感。

まるで、二年になったばかりの、あの頃の関係に戻ったかのよう。

だけどあの頃と違うのは、桜人が文化祭をきっかけにクラスに馴染んでいるというところだった。

相変わらず一匹狼ではありけど、実は頼りがいのある桜人の周りには、いつも人が絶えない。桜人も、クラスメイトに笑顔を見せるようになった。

だけど桜人は、私にだけは笑いかけない。見向きもしない。

私だけに見せていた、あの特別な優しい笑顔も、霧のようにどこかに消えてしまった。

それが、たまらなくつらい。

どうしてって、何度も自問した。

彼を傷つけただろうか。不快にさせただろうか。

だけど思い当たる節がなく、月日だけが無常に過ぎていく。


十月も、もう終わりに近づいていた。

校庭の木々は色づき、太陽の光は和らぎ、空の水色もくすんでいく。

日に日に色を塗り替えていく世界が、冬の訪れを知らせていた。

おはよ、の声が飛び交う朝の昇降口。

寝ぼけ眼で、私はローファーから上靴に履き替えていた。昨夜、光が反抗してきて、夜遅くまで喧嘩をしていたからだ。

このところ、光は不安定だった。夏ごろから気持ちが落ち着いていて、体調もよかったのに、なんだか嫌な予感がする。

考えながらローファーを下駄箱にしまっていると、ぼうっとしていたせいで、手が誰かの腕に当たった。

「あ、ごめんなさい」

慌てて謝り、振り返る。息が止まるかと思った。

それは、久しぶりに間近で見る桜人だった。

前髪が、少し伸びた気がする。だけど相変わらずモカ色の髪はサラサラで、薄茶色の瞳が、驚いたようにこちらに向けられていた。

喉から出かけた言葉を、瞬時に呑み込む。

私を見るなり、彼の瞳に、激しい拒絶の色が浮かんだことに気づいたからだ。

「……いや、」

それだけ答えると、桜人は私を視界から外すように瞳を伏せた。スクールバッグを持つ彼の大きな掌が、遠ざかっていくのを放心状態で見送る。

廊下を歩いていた浦部さんが、そんな桜人に軽快に近づく。

「小瀬川くん、おはよー! 数学の課題、やってる?」
「やってるよ」
「さすが小瀬川くん! ちょっとだけ見せてもらっていい?」

並んで歩くふたりは、親しそうに見えて、胸がきりりと痛んだ。

廊下の向こうに徐々に見えなくなっていく背中は、今はもう、他人のようにすら感じる。

すがるように、彼の掌の感触を思い出していた。

まるで幻だったかのように、あのぬくもりは、今は遠い。

たまらなく胸が苦しくなって、私はひとりきりの掌を、ぎゅっと握りしめた。
その日の放課後。誰もいない文芸部の部室で、その想いに寄り添うように、私は桜人の綴った詩を眺めていた。

 悲しい夏ぐれも
 切ない夕月夜も
 寂しい霜夜も
 君がひとりで泣かないように

彼の言葉のひとつひとつが、今でも愛しい。だけど愛しければ愛しいほど、胸が苦しくて、張り裂けそうになる。

恋をしていなかったら、こんなつらい想いはしなくてすんだのに。

弱い弱いと思っていたけど、あの頃の私の方が、よほど強かったと思う。

どうして避けられてる?

いくら考えても、その答えは出てこない。

聞きたくても、桜人は話す機会を与えてくれない。

そして臆病な私は、また怖気づいてしまっている。

恋なんて、しなければよかった……。

「あれ? 川島部長は、今日休みっすか?」

ドアの開く音とともに、そんな声がした。田辺くんの出現に、私は慌てて文集を閉じると、平生を繕う。

「うん、来てないみたい。珍しいよね」

「小瀬川先輩はずっと来てないし、寂しいっすね~」

言いながら、田辺くんは、自分のバッグから本を取り出した。どうやら、図書館で借りてきた本を読むつもりみたい。

「あ、そうだった!」

静まり返ったのも束の間、唐突に田辺くんが声をあげる。

「これ! すごいじゃないですか!」

目の前に新聞を差し出され、面食らう。

「え、なんで新聞?」

「知らないんですかっ!? ここ、見てくださいよ」

田辺くんに示された欄に、視線を馳せる。そして私は、目を見開いた。

「特別賞……?」

そこは、夏に開催された地域のエッセイコンテストの結果の欄だった。

大賞、準大賞、特別賞、それぞれ一名ずつ。名前と作品が、紙面を大幅に使って載っている。そして特別賞のところには、私の名前が、夏に書き上げたあのエッセイとともに掲載されていた。

「嘘……」

送った覚えもないのに、どうしてという疑問は、当然湧いた。だけどそれ以上に、自分の作品が認められたという歓びが、胸に押し寄せる。

自分の胸から湧き出た言葉が、誰かの目に届き、そして共感を得た。誰かの心を震わせた。その事実が、たまらなくうれしかった。

「僕なんか、何度も送ってるけど全然ダメですよ! 一発で特別賞って、才能ありますよ! ていうか乗り気じゃなかったのに、いつ送ったんですか?」

「……送ってない。私じゃない」

「え? じゃあ、誰かが勝手に送ったのかな。部長とか?」

あの人がそんなことするかなあ、と田辺くんは唸っている。

「じゃあ、増村先生かなあ……」

首を捻っている田辺くんの隣で、私は、あるひとつの可能性について考えていた。

――もしかして、桜人が?

新聞を持つ手が、どうしようもなく震えていた。

自分が書いた文章が、人に認めてもらえた。

自分なんて、弱虫で、なんの役にも立たない人間だと思ったけど、必要とされることもある。


その事実は、私の考えを変えた。

文章の力は無限だ。無数にある言葉を、唯一無二の形に連ねることによってできた文章は魂を持つ。

私に、夢なんてなかった。

この先も、母を支え、弟を支えて生きて行かなければいけないのだと、漠然と思っていた。

でも、気づいたんだ。それは言い訳に過ぎないんだと。

自分の生き方を見つけられないでいることを、私は家庭環境のせいにしていた。

光に、母にすがっていたのは私だ。

でも、今は違う。挑戦してみたいことがある。夢なんていう大それたものではないけれど、歩んでみたい道がある。
「真菜。進路調査のことで、昨日先生から電話があったんだけど……」

ある朝、台所で食器を洗っていると、仕事に行く用意をバタバタとしていたお母さんに話しかけられた。お母さんの声が、珍しく弾んでいる。

「希望、“進学”に変えたんだって? 何かあったの? 大学行って欲しかったから、お母さんとしてはうれしいんだけど……」

我が家の家計を考えて、今まで私は、頑なに就職を希望していた。お母さんは奨学金だってあるしお金のことは心配しなくていいと言ってくれてたけど、それ以前に、やりたいことがなにひとつ見つからなかったからだ。

でも、文芸部に入って、文学に触れて、小さいけれど賞をもらって――おこがましいけど、少しだけ、文字の世界に浸ってみたいと思った。

「うん、ちょっと……」

文芸部に入ったことは先生伝いに知られてるみたいだけど、賞をもらったことは知られていない。恥ずかしくて言葉を濁すと、お母さんは私の気持ちを察したように笑顔を見せた。

「うれしいわ。……あなたが、変わってくれて」

小さく鼻を啜る音が聞こえて、私は慌てた。お母さんの目が潤んでいる。

「お母さん? どうしたの、急に……」

「あなたには、無理をさせてたから……。家のことも光のことも任せっぱなしで、ずっと申し訳なく思ってたの。そのせいか、まったく我儘を言わない子になってしまって……。就職したいって言ってたのも、私に気を遣ってるんじゃないかって、心配だったの」

「お母さん……」

「でも、このところ、あなた少し楽しそうだから、本当にうれしくて……」

せっかくお化粧をしたばっかりなのに、アイメイクの崩れてしまったお母さんの顔を、ちらりと見る。私は、心底情けない気持ちになった。

お父さんが亡くなってから、一番大変な想いをしてきたのは、お母さんなんだ。

自分本位な私には、それが見えていなかった。

お母さんだって、光のそばにずっといたいだろう。もともと料理が好きな人だから、私にお弁当だって作りたいだろう。だけど日々仕事に追われているせいで、泣く泣く、それらすべてを手放してきたのだ。

「増村先生も言ってたわ、クラスでも楽しそうにしてるって。いい友達ができたのね」

「……うん、そう。本当に、友達に恵まれてる」

答えると、「よかった」とお母さんはまた微笑んだ。

増村先生が言ってたように、クラスでの日々は、順調だ。夏葉とは相変わらず仲がいいし、美織と杏ともうまくやってる。みんなと過ごす日々は楽しい。

でも、私の中でもっとも大きな存在を放っているのは、桜人だ。

桜人は、自分を偽らないこと、逃げないことを教えてくれた。

それから、文字を紡ぐことの尊さも……。

そのとき、ガラッとふすまが開いて、光が出てきた。

ランドセルを背負って、通学用の黄色い帽子をかぶっている。

「あれ? 光、もう学校行くの?」

まだ、朝ご飯も食べていないのに。

「いらない」

それだけ答えると、光は暗い面持ちのまま玄関に向かい、行ってきますも言わずに外に出て行った。

私とお母さんと、目を合わすことすらしなかった。

光がアパートの階段を下りる音が、カンカンカン……と遠ざかっていく。

「光、今日も元気ないね」

光はこのところ、ずっと暗い顔をしている。それに、ことあるごとに私やお母さんに反抗していて、光が家にいるときはいつも重苦しい空気が漂っていた。

「学校で、友達とうまくいってないらしいの。あの子あの身体だから、どうしてもクラスメイトと同じように行動できなくて、それを不満に思っている子がいるみたいで……」

光が出て行った玄関扉を哀しげに見つめながら、お母さんが言う。

「そうだったんだ……」

重度喘息の光は、体育に参加できない。放課後友達と走り回ることもできないし、遠足にも行けない。前のクラスでは、それでもうまくやってたみたいだけど、今回は違うらしい。 

クラスによって纏う雰囲気が違うことは、私もよく知っている。

「それに、病院のお友達とも、うまくいってないみたい」

「病院のお友達って、さっちゃんのこと?」

さっちゃんは、おそらく、光と同じ重度喘息の子供だ。入院中は光の支えになってくれたし、退院後も、定期受診の際によく会ってたみたい。

お母さんは、重い表情で頷いた。

「学校でうまくいってなくてもさっちゃんがいるから、って気持ちが、あの子の中にはあったと思うの。だけど両方いっぺんに失ったから、苦しんでるんだと思うわ」

病は、心までをも蝕む。

悪性リンパ腫だったお父さんもそうだった。

愚痴ひとつ吐かない気丈な人だったのに、晩年、やりきれない表情で項垂れている姿を何度も見た。

そのたびに私はお父さんに元気を取り戻してもらおうと、明るく振る舞った。だけどお父さんは、力なく笑うだけだった。
病気の苦しみは、当人にしか分からない。

光は、病と、孤独と、寂しさと、苦しみを抱えている。

それは、あの小さな体が抱え込むには、あまりにも多すぎる。

どうやったら、弟を救えるだろう。

いつまで経ってもその答えを見いだせないでいることが、歯がゆかった。
エッセイで予期せぬ特別賞を貰ってから、一週間。

十一月に入ったばかりの、午後七時。

最寄り駅で下車せず、私はK大付属病院前で降り立った。

秋が深まるにつれ日没も早まり、すっかり闇に染まっている道路には、冷たい夜風が拭いていた。紺色のブレザーを着た上半身を縮め、寒さをしのぎながら歩道を行く。

ここのところ、光の容態はずっと安定していたから、ここに来るのは久しぶりだ。

闇の中、デニスカフェは、今日も煌々としたオレンジ色の明かりを灯していた。

通行人の素振りをして、そっとウインドウ越しに中を覗くと、トレイを片手に店内を歩いている桜人が見えてドキッとした。

せわしなく動いている桜人には、どことなく鬼気迫るものがあった。毎日同じ教室で何時間も過ごしているのに、こうして見ると、何の接点もない他人のようにすら見えてくる。それが、たまらなく悲しかった。

ずっと、桜人と話す機会を待っていた。

だけど学校では、とことん避けられてしまう。

だからここに来てみたはいいものの、急に怖気づいてしまう。

彼のことが好きだからこそ、前にも増して怖かった。

他人のような目で見られること、無視されること、冷たい態度を取られること――すべてがつらい。

恐怖から足が棒のようになってしまって、そのまま立ち尽くしていると、「ねえ」と突然声を掛けられた。見ると、店内から出てきた店員さんのひとりが、すぐそこにいる。

顎髭がダンディーな、二十代後半くらいの店員さんだ。

髭の店員さんは、にこりと笑みを浮かべると「小瀬川くんの友達でしょ?」と話しかけてくる。

「あ……はい」
「今、呼んでくるね」
「大丈夫です! バイト中だし」
「今手が空いてるから、気にしないで。ちょっと待っててね」

そのまま彼は、店内へと引き返していった。

入れ違うようにして、小瀬川くんが出てきた。

その顔は、みたこともないほど不機嫌そうだった。

途端に、心臓が激しく乱れ打った。

「なに?」

不愛想ではあるけれど、桜人はそう口にした。

文化祭の日、昇降口で別れて以来ひとことも口をきいていないから、それだけで感動が押し寄せる。

「用事があるなら、早くして。バイト中だから」

「あの、ごめんね……。聞きたいことがあって……」

私は、田辺くんから切り抜いてもらった新聞を、桜人に突き出す。エッセイコンテストの応募結果だ。桜人は黙って、カフェから漏れる明かりを頼りに、紙面に目を落としていた。

「で、なに?」

おめでとう、のひとこともなかった。

期待していたわけじゃないけど、非常識ともとれるその態度に、私と彼との間に取り返しがつかないほどの隔たりがあるのを感じて悲しくなる。

「それ、私、送った覚えがなくて。……出してくれたの?」

桜人、と名前呼びすることに抵抗を覚え、あえて呼ばなかった。

桜人は、黙ってかぶりを振っただけだった。

予想が外れて、私は肩を落とす。じゃあ、あのエッセイを送ったのは誰……?

今にも、店の中に戻りたそうな桜人。

「そう……。忙しいのに、ごめんね。あと、それから、私、就職じゃなくて進学することにしたの」

このことを報告したのは、私が進路を見いだせたのが、桜人のおかげでもあるからだ。

彼の書いた詩を見たり、彼と和歌の話をしたりしなかったら、私は文学の尊さを知らなかった。

「………」

だけど、桜人はもうなにも答えてくれなかった。

心底どうでもよかったのかもしれない。そんな答えに行き着いたとき、私は、また逃げ出したくなった。

なぜ嫌われてるのかわからない。

でもこれでは、同じクラスになったばかりのあの頃よりも遠い。あの頃はお互い関りがなかっただけで、嫌われてはいなかった。

苦しくて苦しくて、胸が張り裂けそうで。

これ以上、ここにはいられないと思った。

「……ごめん、バイト中に。帰るね」

泣きそうになりながらそう言って、背を向ける。

だけど数歩進んだところで、彼の声が聞こえた気がして、私は後ろを振り返る。だけどもうそこに桜人の姿はなかった。

きっと、風の唸りだったのだろう。

桜人は、変わってしまった。もしかしたらそもそも彼はずっと変わってなくて、不愛想で寡黙な小瀬川くんのままで、この数カ月私は夢を見ていたのかもしれない。

バス停までのわずかな道のりで、同じ制服を見つけた。

茶色のロングヘアーが、夜風にさらりと揺れる。それは、浦部さんだった。

「水田さん?」

「浦部さん……?」

浦部さんは、明らかに怪訝そうな顔をしていた。どうしてここに?と聞きかけて、ハッと押し黙る。

この頃、浦部さんは桜人とよく一緒にいる。付き合ってるんじゃないかという噂も流れている。きっと桜人がここでバイトをしていることを知っていて、来たのだろう。ひょっとすると、これまで何度も来たことがあるのかもしれない。

「桜人くんに会いに行くの」

案の定、浦部さんはそう言った。勝ち誇ったような顔だ。

桜人くん。その呼び方に、ぎくりとしてしまう自分がいた。

「……そう」

私はそれだけ答えると、足早に、浦部さんの隣を通り過ぎる。

バス停でバスを待っているとき、ふいに振り返れば、ウインドウ越しに、仲睦まじげに話している桜人と浦部さんの姿が見えた。

――心の何かが、音をたてて崩れていくのを感じた。
***

ウインドウ越しに、バス停を見る。

彼女を乗せたバスは、片道二車線の大通りの向こうへと、走り去っていった。

ホッとしたような寂しいような気持ちがないまぜになって、胸に押し寄せる。

そんな自分の気持ちに見て見ぬふりをして、仕事に没頭した。

「桜人くん」

トレイ片手に店内をせわしなく歩いていると、中ほどの席に座っている浦部さんに、シャツを軽く引っ張られる。

「なに?」

同じクラスの浦部さんは、数週間前、たまたまこのカフェで出くわしたのを機に、たびたび来るようになった。彼女が俺に好意を持ってくれているのは、なんとなく気づいている。

だけど俺はもちろんそれに答えるつもりはないし、波風立てないように、どうにかやり過ごしているだけだ。

俺が足を止めても、浦部さんは何を言うでもなく、じっと見てくるだけだった。

アイメイクが濃いせいか、あまり見つめられると、少々怖い。どうにかやり過ごすためにうっすらと微笑めば、浦部さんも笑い返してきた。

「桜人くん。ここではよく笑うんだね。学校ではあんなに不愛想なのに」
「仕事中だから、当然だよ」

そう言うと、浦部さんはまたじっと俺を見て「でもさっきは笑ってなかった。一応仕事中だったけど」と言う。

「さっき?」

「水田さんと話してたとき」

胸を打たれたような気になって、一瞬息を止める。

「私、同中だった子から聞いたこと事があるの。桜人くん、中学のときは、すごく愛想がよくてクラスのムードメーカーだったんだって?」

「………」

「でも、高校からは不愛想になった。それって水田さんがいるから? それに最近、小瀬川くん皆に優しいのに、水田さんにだけ露骨に冷たいよね? 裏を返せば、水田さんを特別視してるってことよね」

何も答えることができない。

俺はうつむき、「暗いから、もう早く帰れよ」とだけ言った。

「……ねえ、あんなどこにでもいそうな子の、どこがいいの?」

だけど、浦部さんには、俺の声など届いていないようだった。前の席に座っている男性客が振り返るほど、大きめの声で俺に食ってかかってくる。

スッと、胸に冷気が入り込むような心地がした。

浦部さんは、何も知らない。

俺が、これまでどんな想いで生きてきたか。

どれだけ、特別な、ただひとつの、彼女の笑顔を追い求めてきたか。

それは恋だとか、付き合いたいとか、そういった世界の話じゃない。

彼女だけ。

ただ、それだけのことなんだ。

「どこがいいとか、そういうんじゃないんだ」

気づけば、積もり積もった想いを吐き出すように、そう呟いていた。

すると浦部さんは、何かが癇に障ったのか、真っ赤になってガタンッと立ち上がる。そしそのまま、大股に店を出て行った。
店にいる客が、俺の方を見てヒソヒソと何やら言い合っている。

「小瀬川くん、モテモテだね~」

いつの間にか近くに寄ってきた店長が、耳元で、茶化すような言い方をした。

今更のように顔が熱くなったけど、もうすべてがあとのまつりだ。

悶々とする気持ちを振り払うように、仕事に熱中する。

――『あと、それから、私、就職じゃなくて進学することにしたの』

ふと、彼女の声が耳によみがえった。

途端に、心の緊張が解けたように、和やかな気持ちになる。

彼女のエッセイを応募したのは俺だ。

このことは一生知らせるつもりはないけれど。


君が前を向いてくれれば、それでいい。

僕は君のために、光となり陰になって、君の未来を明るく照らすから。
私の心は、ボロボロだ。

恋なんてしなければよかったと、何度も思った。

恋は、魂を吸い取ったみたいに、人をダメにしてしまう。

桜人に避けられる日々は空虚だ。

一日中泣いて、泣いて、消えてしまいたい。

浦部さんと話している桜人を見ると、息が詰まりそうになる。

嫉妬心で、心が汚れていく。

そして、自分のことをますます嫌いになる。

そんなとき、私のすさんだ心に変化をもたらしてくれたのは、桜人の詩だった。

 僕が歩むこの世界は、澱んで、濁っている
 どんなにもがいても、出口が見えない
 だから僕は、君のために影になる
 光となり風となる
 僕が涙を流すのは、君のためだけ
 僕のすべては、君のためだけ
 深い海の底に沈んだこの世界で、僕は今日も君だけを想う

たくさんあるから、と川島部長からもらった去年の文集を、家で繰り返し眺めた。

そのうちに、私は気づいたんだ。

見返りを求めている恋は、恋じゃない。

私は、桜人が好きだ。彼に避けられようと、彼が誰といようと、それでも好きだ。

彼は私を変えてくれたこの世でただひとりの存在。

苦しい気持ちを受け入れて、この先も、心の中で想い続ければいい。

行き着いた答えは、驚くほど単純だった。

――私は、この先も、桜人を想い続ける。

 
再来年に控えた受験のために、夏葉と同じ塾に通い始めた。

土曜日だけど、午前中授業があったその日。

塾が始まるまでの開いた時間、学校近くのファーストフード店で、私は夏葉と一緒に勉強をしていた。

カウンター席の窓の向こうの景色はすっかり冬の装いになっている。

コートやジャケットを着込んでいる人、寒そうに手をこすり合わせている人。

寄り添い合うカップル、店頭で光るクリスマスツリー。

ふとシャーペンを持つ手を止め、窓の向こうを見つめた。

十二月に入ったばかりだというのに、今日は異常気象とやらで、道行く人の吐く息が白く凍るほど寒い。私も制服の上にコートを着て、赤いマフラーをグルグル巻きにしてきた。

すると、同じ学校の女子生徒たちが数人、各々トレイを持って背後から入ってきた。クラスは違うけど、見たことがある子たちだ。だけど向こうは、隅の窓辺にいる私たちには気づいていないみたい。

「小瀬川くん?」

ひとりの子の声に、思わず肩がびくっと跳ね上がる。

「たしかに今がチャンスかも。浦部さんもさ、つきまとわなくなったし」
「フラれたんじゃない? 水田さんときみたいにさ」

楽しそうにはしゃぐ彼女たちの声が、こちらに近づいてくる。だけど私たちの存在に気づくなり、息を殺すように、皆押し黙った。そして、そそくさと遠くの席に行く。

私が小瀬川くんの元カノで、こっぴどくフラれたという噂は、またたくまに学年中に広まっていた。真実を正す気力も機会もなく、こうして噂だけが独り歩きしている状態だ。でも、こんな状況にももう慣れてしまった。

逃げるようにいなくなってしまった彼女たちの様子が少し面白くて、そちらを目で追ってしまう。するとその様子を見ていた夏葉が、「真菜って、強くなったよね」と言った。

「そうかな?」

「強くなきゃできないよ。ずっと、ひとりの人を想い続けるなんてこと」

私と夏葉は親友だ。桜人にどういうわけか避けられるようになったこと、それでも彼を想い続けると決めたことは、彼女には話してある。

夏葉はいつも、静かにあたたかく、私の話を受け入れてくれた。

「うん。ありがとう」

自分でも思う。以前の私だったら、めそめそ思い悩んで、また自分を責めていた。

周りと自分を比べて、“普通”であることに固執して――。

桜人は、私の世界を変えてくれた。

「私は、ずっと真菜の味方だからね」

「私も、ずっと夏葉の味方だよ」

ふたりして、笑い合った。そのとき――。

ポケットに入れていたスマホが振動して、慌てて取り出す。お母さんからの着信だった。

嫌な予感がして、急いで画面をタップする。すぐに息せき切ったようなお母さんの声が聞こえた。

『真菜? 光が、また入院になったの。あの子、今日友達と遊びに行ったみたいで、途中で発作が起きて……』

嫌な予感は的中した。外でのびのびと遊べないことに、光はストレスを抱えていた。そのことで友達が減り、学校でも孤立していた。だから友達に少しでもなじもうと、無理をしてまったのだろう。

「お母さん、今病院なの?」

『職場の人が気を利かせてくれてね。仕事を抜けて、入院の手続きとか、支度はできたの。だけど真菜、今から病院に行って、面会時間ぎりぎりまで光に付き添ってくれない? 今日のあの子、すごく落ち込んでて心配なの』

お母さんの言いたいことは、よくわかった。光は、このところずっと様子がおかしい。

病気である自分を責めているようなふしがあった。笑うこともなくなり、大好きだったゲームもしなくなり、ぼうっと宙を見つめていることが目立つようになっていた。

今誰かがそばにいないと、光はダメになってしまうかもしれない。

『ごめんね、塾なのに』

「一日くらい、大丈夫だから。すぐに行くね」

光の病室の番号を聞いて、すぐに電話を切った。

「光くん、また入院……?」

夏葉が、心配そうに聞いてくる。

「そう。ごめんね夏葉、約束してたのに」

「ううん。私のことは大丈夫だから、すぐに行ってあげて」


いつものバスに乗り、K大付属病院に向かう。

寒さの中見上げた空は、まばゆいほど澄んだ青だった。

入院病棟のエントランスを抜けて、光の病室がある二階を目指す。エレベーターはまだ来そうになかったから、階段で上がることにした。二階までなら、階段でもすぐだ。

階段から二階の廊下に出ると、ナースステーションが目の前だった。横をすり抜け、光の居室を目指す。

今回、光は六人部屋だ。同室は、子供だけじゃないみたい。空きがなくて、大人と一緒の部屋になったのだろう。入り口のプレートで示された右側の真ん中のカーテンをシャッと開けると、そこには、きれいに布団がたたまれたベッドがあるだけだった。

「光……?」

一瞬、間違えたのかと思った。だけど棚に置かれたボストンバッグは、間違いなく光が入院のたびに使っているもので、置かれているタオルやコップにも見覚えがある。

トイレだったらいいけど……。

様子がおかしかっただけに、少し心配だ。

再び廊下に出て、光を求め、あたりを散策する。しばらく行くと、前に光が入院していたふたり部屋のとなりに、小さなドアを見つけた。ドアは少しだけ開いていて、風に煽られ、蝶番がギイギイと音をたてている。おそらく、内側のドアが開いているのだろう。

「………」

なんとなく、吸い寄せられるように、そこに向かって歩んでいた。前に光がとなりの部屋に入院していた時は、物置か何かだろうと、気にも留めなかったのに。ちょうど廊下の果てにあるこのドアは、ほとんど目立たない。

「真菜ちゃん!」

すると、すぐ近くから声がした。

振り返れば、顔なじみの看護師の近藤さんが、廊下の中腹で人好きのする笑顔を浮かべている。どうやら、夢中で光を探すあまり、彼女の前を通り過ぎてしまったみたい。

「近藤さん。光、見ませんでしたか?」

近藤さんに声を掛けてから、私は凍り付いたように足を止めた。

彼女の向かいに、思いもしなかった人物がいたからだ。

それは、桜人だった。

午前中の授業が終わって、直接ここに来たのだろう。紺色のブレザーにズボン。制服の上に、グレーのマフラーを巻いている。手にはスクールバッグの他に、パンパンになった紙袋が握られていた。

――どうして、桜人がここに?

桜人は束の間私と目を合わせたあと、すぐに気まずそうに伏せた。

微妙な雰囲気の私と桜人の様子に気づいたのか、人のいい近藤さんが、間を取りなすように明るい声を出す。

「小瀬川桜人くんよ。子供の頃、ここに入院してたの。今でも定期的に来て、こうやって図書室に本を寄付してくれるのよ」

「……図書室?」

驚きが重なり過ぎて、ようやく聞けたのは、そのひと言だった。近藤さんが、「そう、そこの図書室。小さいから、あまり知られてないけどね」と蝶番がキイキイいっている小さなドアを指差す。

だけどもはや、私の頭には、その声は届いていなかった。

『子供の頃、ここに入院してたの』

先ほどの近藤さんの言葉が、繰り返し、頭の中で鳴り響いている。

あまりにも予想外のことで、気持ちがまとまらない。

桜人が、ここに、入院していた――?

すると近藤さんが、ハッとしたように口元に手を当て、私と桜人を見比べる。

「ていうかあなたたち、同じ学校の制服じゃない? もしかして、知り合いだったりする?」

――バタン!

ゆらゆらしていた扉が、そこで、勢いよく閉まった。近藤さんも気づいたようで、首を傾げる。

「あら、図書室の窓が開いてるのかしら? 開けた覚えはないけど……」

そのとき、背中を悪寒が走った。

何かがおかしい。頭の中で警笛が鳴り、気づけば私は、閉まったばかりの図書室のドアを開けていた。

とたんに、冷たい風が、一気に廊下に吹き荒れる。

そこは、文芸部の部室よりもさらに小さな部屋だった。

左右の壁に書架があり、さまざまな本が並んでいる。

そして真正面にある窓には、光がいた。

光は、何を思ったか窓枠に足をかけていた。全開にされた窓は、光が身体をくぐらせるには充分な大きさで、今にも外に飛び出してしまいそうな勢いだ。

私は顔面蒼白になり、夢中で叫んだ。

「光、なにやってるの……!?」