君のために、歌を歌う
 君のために、空を飛ぶ
 君のために、夢を見る
 世界を変えてくれた君に、僕のすべてを言葉にして贈ろう
 悲しい夏ぐれも
 切ない夕月夜も
 寂しい霜夜も
 君がひとりで泣かないように

すぐ帰るつもりだったから、電気をつけていない夕暮れの部室は、ひどく暗かった。

彼の紡いだ文字を、その想いをなぞるように、指先でそっと撫でる。

彼の言葉はいつも短いけれど、どうしてこうも、私の心を揺さぶるのだろう。

心の昂りを感じていると、父が亡くなった日に振り仰いだ病院の景色が、ふいに脳裏を過った。

ロータリーから見上げた病院の窓。

光の病室から見た、樫の木の生い茂る中庭――。

「………」

胸が、どうしようもなくざわついた。

――ガチャッ

ドアの開く音がして、私は慌てて背後を振り返る。

部室の入口には、桜人が立っていた。桜人は理科室の片付け担当だったから、空き教室の片付け担当だった私は、この数時間会っていない。

緩んだ緑色のネクタイに、白のワイシャツ、肘まで捲り上げられた袖。十月に入ってから衣替えがあったため、冬の制服姿の桜人は、重いものでも運んでいたのか額に汗を滲ませていた。

「はると……」

私と目を合わすと、桜人はほんの少しだけ微笑んだ。

目の奥に優しさが滲んでいて、見ているだけで胸の奥が和む。

「文集取りに来た」

あの花火大会の日、ともに過ごしてから、桜人はときどきふたりのときにこうやって笑ってくれるようになった。教室でも、文芸部でも見せない、私だけにする特別な顔だ。

桜人の視線が、私の手もとで開かれた文集に移った。

最終ページの彼の詩を読んでいたことに、気づかれたようだ。

「詩、読んだよ。今回のも好き」

「……ふうん、そう」

そっぽを向いて、素っ気ない返事をする桜人。だけどもう私には、彼が照れているのが、すぐに分かった。

部室内に足を踏み入れた桜人は、長机の上に重ねられた文集を手に取り、そのままパラパラと捲る。そして「川島先輩の、ながっ……」と苦笑した。

本の香りに包まれた部室は、日暮れとともに、青に染まっていく。暗いけど、まだ闇になりきれていない昼と夜の間のひととき。特別な一日が終わろうとしている安堵感と寂しさが、胸に押し寄せた。

「桜人は、いつから詩を書いてたの?」

立ったまま文集に目を落としている桜人に聞いてみる。

「小学校の頃から」

「そんな前から?」

うん、と桜人は頷いた。

「詩を書くことは、俺の日常の一部みたいなもんなんだ」

「じゃあ、中学のときも文芸部だったの?」

「いや、中学のときは文芸部がなかったから、帰宅部。だけど詩は、家でひとりで書き続けてた」 

当たり前のように、さらりと桜人は言ってのけた。

詩を書くことが日常の一部だなんて、すごすぎる。

「じゃあ、文集に載ってる詩は、桜人の想いのほんの一部なんだね」

桜人の家には、いったいどれだけ彼が紡いだ詩が眠っているのだろう。

ほんの二編見ただけの詩に、これほどまで惹かれたんだから、もしもそれらすべてを目にしたなら、私はどうなってしまうのだろう。

桜人の紡いだ言霊の波に、溺れてしまうかもしれない。

だけど、それでいいと思った。そうなりたいと思った。

そしてふと、すんなり、心が認めたんだ。

――この気持ちが、好きって感情だということを。

喜びも、悲しみも、恥じらいも、切なさも。

彼のすべてを知りたい。

そして、寄り添いたい。

ぼんやりと、再び、桜人の書いた詩に指を馳せる。

真っ白な紙の上に浮かぶ黒い文字のひとつひとつが、泣きたいくらい愛しいものに思えた。

「桜人の書く詩は、初めて見るのに、そうじゃない気がするの。なんだか懐かしい」

言葉は、文字は、命だ。

桜人の命を、私はどうしようもないほどに抱きしめたい。

桜人は、天才かもしれない」

「なんだよ、それ。大げさだな」

ふっと、桜人が笑った。笑うと少し幼い印象になるのは、最近知ったことだ。

「桜人は、卒業したら、文学部に進むの?」

それは、当然のことのような気がした。幼い頃から文学が好きで、詩を紡ぐことが好きな彼は、これからも文学に寄り添うのだろう。

だけど桜人は、「まだ決めていない」とそっけなく答える。

「真菜は?」

「私? 私は就職する。うち、お金ないし」

微笑んで答えると、桜人はうつむいた。

暗いせいで、その顔はよく見えなかったけど、少しだけ変な間があった。

それから桜人はスクールバッグに文集を入れると、バッグを持っていない方の手を、当たり前のように私の方へと差し出す。

「――もう戻ろう。暗くなるから」

「うん」

私はごくごく自然に、その手を取った。

桜人の大きな掌に包まれると、途端に、身体中が生気を取り戻す。

花火大会のときからずっと、そうだった。

今まで宙ぶらりんの掌で生きてきたのが、嘘みたい。

掌と掌が繋がって、互いの体温を感じている方が、自然な気がした。

桜人もそう思っていてくれたなら、うれしい。

学校内にも関わらず、私たちは、ずっと手を繋いで廊下を歩いた。

これからバイトに向かうらしく、桜人とは昇降口で別れる。

「バイト、頑張ってね」

「おう。ごめん、あと作業終わったら、一応増村先生に報告しといて」

「わかった。まかせて」

微笑むと、桜人はまた少し幼さの見え隠れする笑顔を見せたあと、そっと私の手を離した。

背の高い彼の後ろ姿が、下駄箱の方へと遠ざかるのを、私はしばらくその場に立って見送った。