お盆が明けて、一週間が過ぎた。

夏休みもいよいよ終わるというその日、私は光に付き添って、いつもの病院に来ていた。

今日は、光の定期健診だ。

診察室で検査をし、お医者さんの話を聞く。光の容態は落ち着いてるけど油断はならないと、お医者さんは言っていた。そのためには、日頃から発作が起こらないよう、万全を期すことが大事だと。

診察が終わってから、会計のある一階に向かうために廊下を歩んでいると、四十代くらいの看護師さんと出くわした。ショートカットで少しふくよかな、優しそうな女の人。光が入院するたびに、お世話になっている近藤さんだ。

近藤さんは、光を見つけるなり、うれしそうに微笑んだ。

「光君、元気そうね!」

「近藤さん! こんにちは」

近藤さんが大好きな光は、途端に笑顔になる。私も、ぺこりと会釈した。

看護学校を出てからずっとこの病院に務めているらしい近藤さんには、六年前、父が入院していたときにもお世話になった。だから、私も光も、親戚のおばさんのような親しみを感じている。

数冊のカルテを手にした近藤さんは、優しい笑顔でひらひらと手を振りながら、廊下の角を曲がって見えなくなった。

一階ロビーの精算所前で、会計の呼び出しを待つ。

来た頃は人で溢れていた待合室も、今は閑散としている。

時計を見れば、午後五時半だった。本当はお母さんが早退して同行する予定だったから、仕事の終わり時間に合わせて午後診療の最後の枠に入れてもらっていたのだ。だけど仕事でトラブルがあったらしくて、結局私が今、光と一緒にいる。

待合のソファに座って、光はしきりにきょろきょろと辺りを見回していた。

「どうしたの?」

「いや……」

バツが悪そうに、光が下を向く。

「さっちゃんがいるかと思って……。ときどき、ここで会うんだ」

途端に私は、微笑ましい気持ちになる。

「そういえば前に書いてた絵、さっちゃんに見せたの?」

「うん、すごく喜んでた」

光の顔が、にわかに輝く。

「自分の部屋の、一番よく見えるところに飾るって言ってた」

「へえ。よかったね」

するとふと、光が押し黙る。さっきとは打って変わって、暗い面持ちだ。

「……ねえちゃん」

「なあに?」

「いつもわがまま言って、ごめんね」

驚いたわたしは、隣に座る光の顔を、まじまじと眺める。

「さっちゃんが言ってたんだ。感謝の気持ちを忘れないでって。さっちゃんも、そうだったんだって。病気のことが不安で、家族や、看護師さんや、友達に迷惑ばかりかけてしまったんだって。でも今はすごく後悔してるって……」

光は丸い瞳で申し訳なさそうに私を見つめたあと、すぐに顔を伏せた。

「お姉ちゃん、学校のこととか家のことで忙しいのに、いつも僕のことを気にかけてくれてありがとう……」

「光……」

思いがけない光の言葉に、気づけば瞳に涙がじわじわと浮かんでいた。

小さな頭に、そっと掌を乗せる。

「大丈夫だよ。本当は光がいい子だってこと、知ってるから」

そう言うと、光は「うん」と蚊の鳴くような声で答えて、グスンと洟を啜り上げた。

たまらない気持ちになる。小さな体で、つらい病気に耐え続けてきた光。

どんなに不安だろう。どんなに心細いだろう。

それでも光は優しい心を忘れていない。大事な友達が、彼にそれを思い出せてくれた。

「今度、さっちゃんにお礼言わなきゃね」

そう言うと、光は洟を啜り上げながら、よりいっそう照れたように笑った。

「ああ、いたいた! 診察、終わっちゃった?」

すると、入り口の自動ドアから入ってきたお母さんが、私たちを見つけ、近づいてきた。グレーのパンツスーツにトートバッグ、いつものスタイルだ。よほど急いで来たのか、いつもきっちりと背中でまとめられている長い髪が、少し乱れている。
光が、花開いたように顔を輝かせた。

「お母さん、来てくれたの? 仕事は?」

「息子の診察に付き添わなきゃって言ったら、途中で同僚が残業代わってくれてね。急いで来たの。でも、もうお会計でしょ?」

「うん」

今日聞いた先生からの話を、お母さんに伝える。聞き終えたお母さんは、「ありがとう、真菜。あなたがいてくれて、本当に良かった」とさっき私が光にしたみたいに頭を撫でた。

そんな子供を褒めるようなこと、十六にもなるとちょっと恥ずかしいけど、くすぐったさに似た喜びが込み上げる。

会計を済ませると、私たちは、家族三人で並んで駐車場のロータリーに出た。

午後六時近く。空は青みがかっていて、たなびく雲の切れ間には、小さな星がちらほら見える。夏の終わりを惜しむような、熱い湿った風が頬を撫でた。カランコロン、という耳慣れない音につられ、歩道に視線を走らせれば、色とりどりの浴衣を来た女の子がちらほら歩いている。

「そっか。今日、霜月川の花火大会なのね」

お母さんが、思い出したように言う。

「もうそんな時期なんだ」

すっかり忘れていた私は、今更のように夏の終わりを実感した。

霜月川とは、ここから五百メートルくらい歩いた先にある川で、毎年八月の終わりに花火大会が開催されている。打ち上げ数は、約千五百発。五千発を超える名だたる花火大会に比べると小規模だけど、この辺りではもっとも有名な花火大会だ。

霜月川には、両岸に芝生の広がる土手がある。普段は子どもたちが野球の練習に励み、朝晩ランニングをする人に人気のそこには、花火大会の日、ひしめき合うように露店が立ち並ぶ。

私も光も、物心つく前から、毎年のようにお父さんと一緒に見に行っていた。

――お父さんが、亡くなる前までは。

楽しそうに霜月川に向かって歩む人を見ているうちに、悲しい気持ちになってくる。

お母さんに気づかれまいと、無理矢理笑顔を作ろうとしたとき。

「……行きたいな。今年の花火、見たい」

ぽつりと光が言った。

私とお母さんは、ほぼ同時に顔を見合わせた。

お母さんは、明らかな困惑顔をしていた。

重度喘息の光は、人混みが多いところを避けるようにお医者さんから言われている。人混みには、ウイルスがたくさん潜んでいるからだ。光がひとたび風邪を引けば、重症化するリスクが高い。先日の入院も、風邪をこじらせて、発作が止まらなくなったのが原因だった。

霜月川の花火大会は、年によっては怪我人が出るほど、人でごった返す。

光は、行かない方がいい。

「光、でも……」

言いかけた言葉を、思わず呑み込んだ。いつもなら、私とお母さんの困惑顔を読み取って、『どうして僕だけ遊べないの?』と光が意地になるところだからだ。

他の子供みたいにのびのびと学校に行き生活できないもどかしさを、光はふとしたきっかけで爆発させ、私やお母さんに当たってくる。

だけど――。

「お姉ちゃん。花火の写真、撮ってきてくれない?」

光は、私に向けてそう言った。

「光……」

まだ小学生の光は、顔に気持ちがすぐに出る。残念そうな顔からは、本当は直接見たいという思いがありありと伝わってきた。

それでも光は、必死に耐えている。

健気な姿に、たまらなく胸が震えた。

光はきっと、花火の写真を見ることで、今はいないお父さんの面影を感じたいんだ。

「……分かった。最高の写真、スマホで撮ってくる」

「真菜、いいの?」

お母さんの問いかけに、笑顔で頷く。

「かわいい弟のためだし。まかせといて」

残念そうな光の顔が、にわかに明るくなる。

あまり遅くならないことをお母さんに約束して、ふたりとバス停で別れた。