その日の夜。

私は自分の部屋で机に向かっていた。

開け放った窓の向こうには、網戸越しに、細い三日月が浮かんでいた。

背後から吹く扇風機の風に、どこからともなく響く夏の虫の音。

2DKの我が家は、私と光がひと部屋ずつ使って、お母さんはリビングに布団を敷いて寝ている。薄い壁の向こうでは、ゲームでもしているのか、時折光があげる「ああ、くそっ」だとか「おしい~!」とかいう悔しそうな声が響いていた。

目を閉じ、桜人が書いた詩を思い出す。

あんなふうに、心を震わせるものが書きたい。

辺りの喧騒が遠のき、私はいつしか、お父さんを亡くした日の夕暮れの世界にやってきていた。

夜中にナースコールが鳴り、看護師さんが病室に辿り着いたときは、すでにこと切れたあとだったという。悪性リンパ腫の治療後、容態が安定していた中の、急な出来事だった。

お母さんは膝から地面に崩れ落ち、お父さんのベッドの脇で泣き伏した。

まだ五歳だった光も、その様子を見て、わんわん泣き出した。

私は涙を流すことも忘れて、光を泣き止ますのに必死だった。

その小さな掌を引いて、無我夢中で病室から連れ出したのを覚えている。

病院前の、駐車場のロータリーは、夕日のせいでオレンジ色に染まっていた。

燃えるようなオレンジの景色が、胸に迫ってくる。強くなれと急き立てる。

悲しみを閉じ込め、お母さんと光を守れるように。

振り返れば、白くて大きな病院が、巨大な影のように背後に佇んでいた。

心にぽっかりと穴が開いたみたいに虚無だった。

あのときの深い孤独を思い出し、文章を絞り出す。

突然、何かが身体に入り込んで来たみたいに、シャーペンを持つ手がスラスラと進んだ。

それからはもう、ただひたすらに、懸命に文字を紡いでいた。

「できた……」

気づけば、隣の部屋から響いていた光の声が止んでいた。時計を見ると、もう深夜0時だ。きっと、寝てしまったのだろう。

ようやく書けた初エッセイは、原稿用紙五枚ほどだった。

お父さんとの思い出、そしてお父さんを亡くした日の想いが、つらつらと、心のままに書き連ねてある。

明日、文芸部で、皆に見せよう。川島部長は、なんて言うだろう。

桜人に見られるのは――少し照れくさい。


「素敵ね」

翌日。相変わらず蒸し蒸しとした文芸部の部室内で、書き上げたエッセイを読み終えるなり、川島部長が眼鏡をクイッとやって言った。

「情景描写が、心情に呼応するよう巧みに書かれてるわ。文法もちゃんとしてる」

「本当ですか……?」

あまり深く考えずに書いたやっつけ仕事だけど、めったなことでは人を褒めない川島部長に褒められると、すごくうれしい。顔を輝かせていると、脇からエッセイを覗き読みしていた田辺くんが、うんうんと頷いた。

「夕日の表現とか、最高ですね。清少納言を思い出します」

「清少納言……?」

それは言い過ぎ、と思いつつも、悪い気はしなかった。

こんなにも人に褒められたことなんて、いつぶりだろう。

ほのかに夢見心地になっていると、川島部長がテーブルにおいた原稿用紙を、向かいに座っていた桜人がひょいと手に取った。
そのまま、じっと読みふけっている。

「………」

川島部長に読まれるときよりも、ずっとドキドキした。だけど読み終えた桜人は、黙ってもとあった場所に原稿用紙を戻すと、
瞳を伏せ、なにも言わない。

「……どう思う?」

緊張しながら問うと、桜人は「よく書けてると思う」と静かに答えた。

素っ気なくはあるけど、褒められたみたい。

すると、スマホを操作していた田辺くんが、突如画面をこちらに差し出してきた。

「これ、出してみたらどうです? 地域のエッセイコンテスト。文字数もちょうどいいですし」

「え、コンテスト?」

話の飛躍に、動揺した。

「でも、初めて書いたものだし、それは大袈裟だよ」

「コンテスト応募に、初めても何もないですよ。ちなみに大賞取れば、十万円ですよ。別に落ちたら落ちたでそれでいいんで、出してみればいいじゃないですか。僕なんて、こういうのしょっちゅう送ってますよ。出さなければ、なにも始まらないでしょ?」

田辺くんが、当然のことのように強く言う。

「田辺くんは、小説家になりたいの?」

川島部長が、ふと聞いてくる。

「もちろんです。部長もでしょ?」
「私は、ミステリー作家志望だけど」
「同じことじゃないですか」

心持ちいつもより瞳を輝かせた川島部長を見て、少し驚いた。田辺くんも、川島部長も、ちゃんとした夢があるんだ。そして夢に向かって、頑張ってる……。目先のことだけを考えて生きている私とは、大違い。

急に、何も目標を持たない自分が、ここにいるのがおこがましい気持ちになってきた。

「で、どうします? 出します?」

田辺くんに問いかけられ、降って湧いた動揺を隠すように、私は笑った。

「ううん。今回はやめとく。文集用に書いたものだし」

「そうですか。まあ、気が変わったら言ってくださいよ。締め切りまでまだ一週間ありますし」

「わかった。ありがとう、田辺くん」

いえいえ~、と田辺くんは、また分厚い本の世界に戻っていった。今日読んでいるのは、『時計仕掛けのオレンジ』という小説だ。

「これで全員分、揃ったわね。それで、印刷の日取りなんだけど――」

川島部長が、話を進めていく。

相変わらず寡黙な桜人は、テーブルに頬杖をついて、黙って部長の声に耳を傾けていた。

そういえば、今年桜人は、どんな作品を書いたのだろう。

前に『見せて』といっても見せてくれなかった。文集が仕上がってからじゃないと、見ちゃいけないとまで言われた。

桜人はクールで大人っぽいけど、やっぱりすごく照れ屋だ。