次の日の放課後、各クラスの文化祭実行委員が集う委員会が、視聴覚室であった。
教室までの帰り道、人気のない渡り廊下で、私は思い切って先を歩く桜人を呼び止める。
「あの、話があるんだけど。ちょっといいかな……」
「なに?」と桜人が足を止めて私を振り返る。
言いだしにくい話で、切り出すのを躊躇ってしまう。
だけど桜人は、せかすことなく、ただ静かにじっと、私が口を開くのを待ってくれていた。
「私、文化祭実行委員、辞めようかと思ってるの……」
思い切って、ついに口にした。
すると、桜人の顔が、みる間に凄んでいく。
「は? どういうこと?」
「美織と杏があんな態度なのは、私が実行委員だからでしょ? 美織と杏は、私のことあんまりよく思ってないから……。それに私、実行委員としてあまり役に立ててないし……。浦部さんが実行委員やりたいって言ってたから、代わった方がいいと思うの」
自分で言っておいて、情けなくなる。
だけどもう、私は限界だった。
桜人は凄んだ顔のまま、固まったように私を見ていた。そんな彼を見ていると、なぜか罪悪感が込み上げてきて、下を向く。すると、頭上から低い声がした。
「……ふざけんなよ」
桜人のここまで怒った声を聞くのは初めてで、背筋がぞくっとする。
「逃げるなよ」
「逃げてなんか……」
「逃げてるだろ、こっち向けよ」
怖くて上を向けないでいると、大きな掌が、頬に触れた。
強引に、だけどあくまでも優しく、上を向かされる。間近に、怒りを滲ませた茶色い瞳があった。
「この先も、何かつらいことがあるたびに、お前はそうやって逃げる気か」
なぜか泣いているようにも見える桜人の顔から、目が離せなくなる。
「逃げるなよ。どうしたら前に進めるか考えろ」
桜人にこんな厳しい態度を取られたのは、初めてだ。
「どうしたらって……分かんないから悩んでるんじゃない」
桜人の言ってることは正論だ。だけど、私はそれをスムーズにこなせるほど器用じゃない。
何でもこなせる桜人とは、何もかもが違うんだ。
彼の言い分に、だんだん腹が立ってくる。
「あいつらと、ちゃんと話せよ。お前の考えを、ちゃんとあいつらにぶつけたことがあるか? 自分を偽って接するから、そういうことになるんだ」
桜人のその言葉に、頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。
たしかに私は、いつも自分を隠して美織と杏と接していた。
母子家庭であることがバレたら、中学校のときのように冷たい態度を取られるんじゃないかと怖くなって、一線を引いていた。
美織と杏は私が隠し事をしていることに気づいて、距離を置くようになったんだと思う。自分を偽ってる人間なんかと、仲良くなれないだろう。
でも――。
やるせない思いが、今にも爆発しそうで、ぐっとこらえる。目尻には、悔し涙が浮かんでいた。
「……だって、自分を偽るしかなかったの」
絞り出した声は、情けないほどに弱々しく震えていた。
「お父さんが亡くなってから、お母さんは土日も仕事してる。弟は病気で、しょっちゅう入院してて、目が離せない。私は家事と弟の世話をしてばかり。こんな暗い、笑えない家庭の事情、バレたら嫌がられるでしょ? だから隠すのに必死だったの」
こんなことを、心のままに、誰かに話したのは初めてだった。
緊張が解けたように、どっと涙が溢れてきて、頬にある桜人の手を流れていく。
桜人は、泣きながら喚く私を、しばらくの間呆けたように見つめていた。
だけど、やがて力ない声を出す。
「そんなことで、別に嫌がったりはしないだろ」
「……中学のとき、そういうことがあったの。それに桜人だって、今戸惑ってるじゃない」
すると、桜人の瞳にまた怒りが戻った。
何かを言いかけたあとで、彼は口を閉ざす。それから、私の頬から手を離した。
「……戸惑ってなんかいない」
静かに、桜人が言った。声が、微かに震えている。それから桜人は息を整えると、落ち着いた声で、ゆっくりと、私を諭すように言った。
「お父さんは、家族のことを想って亡くなった。お母さんは、家族を想って働いてる。弟は、頑張って病気と闘ってる。お前の家族は立派だ、誇りを持てよ」
力強く見つめられながら、私は目を見開いた。そんなふうに、思ったことがなかったからだ。人によってはそんなふうにも見えるのかと、冷水を浴びせられたような気持ちになる。
桜人が、また悲しげに言い放った。
「――自分の家庭環境を卑屈にしてんのは、お前自身だろ?」
桜人のそのひと言が、心の奥まで響いて、繰り返し耳元でこだまする。
――私、自身……?
もしも、家庭環境を知られたら美織と杏に受け入れられない、と私が決めつけていなかったら。美織と杏が、中学のときの友達と同じ態度をとるとは限らない。
もしも、自分を包み隠さず、ありのままの姿で接していたら。
ふたりとの関係に、なにか変化があっただろうか。
私は、桜人の言うように、単に臆病になって逃げていただけなのかもしれない。
涙でボロボロの顔で、ひっくひっくとしゃくり上げながら桜人を見る。
「とにかく、委員を辞めるのは、俺が許さないからな」
桜人は、断ち切るように言うと、私から顔を逸らす。そして、背を向けた。
水色のシャツの背中は、私を振り返ることもなく、上靴の音を響かせながら廊下を進む。やがて夕焼け色に染まるグラウンドに面した渡り廊下の向こうへと、見えなくなってしまった。
教室までの帰り道、人気のない渡り廊下で、私は思い切って先を歩く桜人を呼び止める。
「あの、話があるんだけど。ちょっといいかな……」
「なに?」と桜人が足を止めて私を振り返る。
言いだしにくい話で、切り出すのを躊躇ってしまう。
だけど桜人は、せかすことなく、ただ静かにじっと、私が口を開くのを待ってくれていた。
「私、文化祭実行委員、辞めようかと思ってるの……」
思い切って、ついに口にした。
すると、桜人の顔が、みる間に凄んでいく。
「は? どういうこと?」
「美織と杏があんな態度なのは、私が実行委員だからでしょ? 美織と杏は、私のことあんまりよく思ってないから……。それに私、実行委員としてあまり役に立ててないし……。浦部さんが実行委員やりたいって言ってたから、代わった方がいいと思うの」
自分で言っておいて、情けなくなる。
だけどもう、私は限界だった。
桜人は凄んだ顔のまま、固まったように私を見ていた。そんな彼を見ていると、なぜか罪悪感が込み上げてきて、下を向く。すると、頭上から低い声がした。
「……ふざけんなよ」
桜人のここまで怒った声を聞くのは初めてで、背筋がぞくっとする。
「逃げるなよ」
「逃げてなんか……」
「逃げてるだろ、こっち向けよ」
怖くて上を向けないでいると、大きな掌が、頬に触れた。
強引に、だけどあくまでも優しく、上を向かされる。間近に、怒りを滲ませた茶色い瞳があった。
「この先も、何かつらいことがあるたびに、お前はそうやって逃げる気か」
なぜか泣いているようにも見える桜人の顔から、目が離せなくなる。
「逃げるなよ。どうしたら前に進めるか考えろ」
桜人にこんな厳しい態度を取られたのは、初めてだ。
「どうしたらって……分かんないから悩んでるんじゃない」
桜人の言ってることは正論だ。だけど、私はそれをスムーズにこなせるほど器用じゃない。
何でもこなせる桜人とは、何もかもが違うんだ。
彼の言い分に、だんだん腹が立ってくる。
「あいつらと、ちゃんと話せよ。お前の考えを、ちゃんとあいつらにぶつけたことがあるか? 自分を偽って接するから、そういうことになるんだ」
桜人のその言葉に、頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。
たしかに私は、いつも自分を隠して美織と杏と接していた。
母子家庭であることがバレたら、中学校のときのように冷たい態度を取られるんじゃないかと怖くなって、一線を引いていた。
美織と杏は私が隠し事をしていることに気づいて、距離を置くようになったんだと思う。自分を偽ってる人間なんかと、仲良くなれないだろう。
でも――。
やるせない思いが、今にも爆発しそうで、ぐっとこらえる。目尻には、悔し涙が浮かんでいた。
「……だって、自分を偽るしかなかったの」
絞り出した声は、情けないほどに弱々しく震えていた。
「お父さんが亡くなってから、お母さんは土日も仕事してる。弟は病気で、しょっちゅう入院してて、目が離せない。私は家事と弟の世話をしてばかり。こんな暗い、笑えない家庭の事情、バレたら嫌がられるでしょ? だから隠すのに必死だったの」
こんなことを、心のままに、誰かに話したのは初めてだった。
緊張が解けたように、どっと涙が溢れてきて、頬にある桜人の手を流れていく。
桜人は、泣きながら喚く私を、しばらくの間呆けたように見つめていた。
だけど、やがて力ない声を出す。
「そんなことで、別に嫌がったりはしないだろ」
「……中学のとき、そういうことがあったの。それに桜人だって、今戸惑ってるじゃない」
すると、桜人の瞳にまた怒りが戻った。
何かを言いかけたあとで、彼は口を閉ざす。それから、私の頬から手を離した。
「……戸惑ってなんかいない」
静かに、桜人が言った。声が、微かに震えている。それから桜人は息を整えると、落ち着いた声で、ゆっくりと、私を諭すように言った。
「お父さんは、家族のことを想って亡くなった。お母さんは、家族を想って働いてる。弟は、頑張って病気と闘ってる。お前の家族は立派だ、誇りを持てよ」
力強く見つめられながら、私は目を見開いた。そんなふうに、思ったことがなかったからだ。人によってはそんなふうにも見えるのかと、冷水を浴びせられたような気持ちになる。
桜人が、また悲しげに言い放った。
「――自分の家庭環境を卑屈にしてんのは、お前自身だろ?」
桜人のそのひと言が、心の奥まで響いて、繰り返し耳元でこだまする。
――私、自身……?
もしも、家庭環境を知られたら美織と杏に受け入れられない、と私が決めつけていなかったら。美織と杏が、中学のときの友達と同じ態度をとるとは限らない。
もしも、自分を包み隠さず、ありのままの姿で接していたら。
ふたりとの関係に、なにか変化があっただろうか。
私は、桜人の言うように、単に臆病になって逃げていただけなのかもしれない。
涙でボロボロの顔で、ひっくひっくとしゃくり上げながら桜人を見る。
「とにかく、委員を辞めるのは、俺が許さないからな」
桜人は、断ち切るように言うと、私から顔を逸らす。そして、背を向けた。
水色のシャツの背中は、私を振り返ることもなく、上靴の音を響かせながら廊下を進む。やがて夕焼け色に染まるグラウンドに面した渡り廊下の向こうへと、見えなくなってしまった。