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まぶたが重たい。酷い耳鳴りが突然襲いかかる。
酸素マスクに跳ね返る吐息は、自分のものとは思えないほど弱々しく、全身を大きな岩で押さえつけられているような感覚に意識が覚醒する。
振り絞ってうっすらと目を開けると、うんざりするほど見上げた天井が視界に広がる。規則的に並んだタイル状の模様。何度、端から端まで数を数えて眺めたのか分からないくらい、見慣れた光景だった。
僕は運命までの一日を残して、この病室に戻って来たのだ。
考えることすらおぼつかない意識の隅で、母親が泣きながら僕に何か言葉を投げかけていることに気が付いた。
依然、脳にまでガンガンと響く耳鳴りは止まず、母親が何を言っているのかは分からなかったが、その様子を見るに随分と気が動転しているようだ。
いつまで経っても泣き止む様子のない母親に申し訳なさを覚えるものの、僕が取れる行動はうっすら開いた視界で視線を彷徨わせるくらいしかできない。
やがて、看護師が足早にやって来る。遅れて白衣を纏った医師が走って現れ、僕の姿を見て驚いた表情をとる。身体のいたるところを軽く触ったり、聴診器で体内の音を聞かれたりした。この行為に何の意味もないことを、僕は一番分かっていた。
だって、僕は今日死ぬのだ。
一日という脳裏に浮かんだカウントダウンは、僕が十年後の世界にいられるタイムリミットではなかった。僕自身の最期。つまり、僕がこの世に生きていられるまでの時間を示していたのだ。
ようやく、耳鳴りが治った。
「吉澤さん、分かりますか? 吉澤望来さん――」
「望来! 母さんよ、望来! 望来!」
どうやら皆、僕の名前を呼んでいたらしい。
震えとも捉えられるくらい小さく頷くと、医師も母親も大きく息をついて安堵の表情を浮かべる。その様子に、またしても罪悪感に苛まれる。
ごめんね、母さん。僕は今日死ぬんです――なんてことは心の中でも言えず、ただひたすらに申し訳なさが渦巻いた。
やがて、医師と看護師が母親を連れて病室を後にした。
静まり返った病室で、昨日までの出来事に想いを馳せる。
夢だったわけがない。実際に十年後へと行き、僕は水上希に出会い、そして、恋に落ちた。
世界一幸せな体験をしてきたんだ。あの記憶が、経験が、彼女の表情、仕草、匂い、そして僕へ向けてくれた想いは、決して夢なんかじゃない。
息苦しいし、ほとんど動かない手足に、身体が今にも凍ってしまいそうなほど寒い。けれど、目を閉じるとそこには彼女がいて、僕に笑顔を振りまいてくれる。それだけで、胸の底からじんわりと温かくなった。
しばらくして母親が戻ってきた。どうにか落ち着いたようだが、今でも泣きはらした目元にハンカチを当てている。
そして、僕が聞くわけでもなく語り出した。
「あんたね、一ヶ月間ずっと目を覚まさなかったんだよ。ずーっと眠り続けてね……」
「……ご……めん」
一言、言葉を発するだけでも苦しい。肺が焼けたように激しく痛む。それでも、母親とはしっかり会話をしたいと思った。
「謝ることじゃないよ。目覚ましてくれて、本当によかった。本当に……」
それから、途切れ途切れにはなったが、母親とたくさんの会話をした。途中、母親は僕を休ませようとしたが、僕は話し続けた。
何の料理が好きだとか、気になる本があるとか、今は焼うどんが食べたい気分だとか、本当に他愛もない、ふとした時に人と人が何気なくするような会話をたくさんした。
「そう言えば、昨日は彼羽ちゃんがお見舞いに来てくれてたよ。この一ヶ月間、何回も来てくれてね。また、明後日にでも来るってさ」
「そう……なんだ。……あのね、かあ……さん。彼羽に……ごめんね……って、い……っておいて」
「何言ってんさ、明後日来た時に自分で言いなさいよ」
僕は返事ができなかった。だからこそ、母親に頼んでおいたのだ。拒絶してごめん、花火を一緒に見れなくてごめん、悲しましせてごめん、と言っておいてくれと。
「そういえば、いつか分からないけど、あんたの枕横にこんなのが置いてあったよ。誰かお見舞いに来てくれたのかね」
母親が僕に何かを握らせた。すべすべでひんやりとした感覚が伝わる。
青い海月だった。
やっぱり、夢ではなかったんだ。
織姫と彦星なんて表現をしてしまったけど、僕には確かに青い海月の横にはピンク色の海月が見える。
――ずっと一緒だよ。
どういう意味かその時は分からなかったけど、今なら全部わかる。
彼女が僕の名前を知っていた理由。アルバムの謎の写真。僕を一番最初に見つけられた理由。彼女と過ごして感じた様々な違和感。僕が彼女の希望になることが出来た理由。
だからこそ、まだ眠るわけにはいかない。
「かあ……さん。持ってきて……欲しい……ものが……あるんだ。紙と……ペン……あと――」
もしかしたら、反対されると思った。けれど、母親は優しく頷くと紙とペン、そしてそれを持って来てくれた。
「母さん、少し席外すわね」
また、泣かせてしまったかもしれない。
親に頼むなんて残酷すぎることをしてしまった。それでも、僕はお願いした。使命感とかじゃなく、僕がそれを心から望んだから。
震える手でペンを取った。頭はぼーっとして、まぶたがやけに重たい。耳もまた聞こえづらくなって来た。
母親が戻って来るまでに何とか書き上げ、紙とそれを託す。
「ちょっと……つかれ……たから……すこし……きゅうけい……する……ね」
いつしか凍るような寒気はなくなり、全身は何かに包まれているように温かかった。
母親はいつまでも手を握っていてくれた。
「あり……が……とう……」
おじさん、やっぱり僕の最期は海ではなく、この病室でした。でも、僕は今とても満足しています。
抗えない睡魔が襲いかかる。
怖いなんて、微塵も思わなかった。
ずっと、幸せが胸を満たしてくれているから。
窓際に置かれた花瓶には二輪の花が寄り添って飾られていた。
青い海月を握りしめ、僕は瞳を閉じる。
希が僕を笑顔で迎えてくれた。