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部屋に戻ると、彼女はまだ帰って来ていないようで、静かな空間に一人佇む羽目になった。
物音一つしない部屋は、祭りの影響で外から聞こえて来る喧騒だけが小さく響き渡る。
ふと、やっぱり彼に会いに行ってよかったと感じた。
きっと、彼の元を訪れずに帰って来ていたら、今頃は消えてしまうという不安と重圧で、純粋な気持ちで彼女の浴衣姿を楽しみに待っていることはできなかっただろう。
怖いかと聞かれれば、声を大にして当たり前と答える。それでも、怖がって、悲観的になるよりも残りの時間を目一杯楽しむほうが後悔が残らないと彼に気付かされた。
「一ヶ月前の僕だったら、早く消えたいとか言ってるんだろうな……」
学校の屋上でいつの間にか横たわっていた一ヶ月前が、随分と昔のことのように感じる。この一ヶ月で、僕は見事に内面的に様変わりした。
いつしかネガティブな思考は薄れ、口数もだいぶ増えたと思う。
早く死にたいが、もっと生きたいに変わるなんて、考えてもいなかった。
でも、きっとこの運命には抗えない。どんなに生きたいと願っても、僕は明日消える。
なぜ、僕は死に際に未来に来たのだろう。
神様は果たして僕に意地悪をしたのか、それとも情けをかけたのか、こうして三十日経った今でも分からない。
でも、たとえ神様の悪戯だったとしても、僕はありがとうと言うに決まっている。
玄関のドアが静かに開く。
だって、その神様のおかげで彼女と出会えたのだから。
「……ただいま」
夏の終わりの日差しを背に添えた、僕の愛すべき人がそこにいた。
濃淡な紅色の生地に桜の花びらが散りばめられた浴衣に身を包み、いつもよりしっかり化粧を施した彼女。背中まであった透き通るような黒髪は後ろで丁寧に結い、手元には小さめの巾着。
非の打ち所がないその姿に思わず見惚れてしまった。
「どうかな? 似合ってないことはないよね?」
「似合いすぎてて、言葉にならないよ」
「それは複雑だなぁ。ちゃんと言葉にしてほしいな」
彼女が表情を動かすたびに普段はピクリともしない鼓動が速くなる。うるさすぎて、彼女に聞こえているのではないかと思うほどだ。
もう、気持ちを偽って言葉を飲み込むのはやめよう。
後悔がないように、僕の気持ちは全て言葉に出して彼女に伝えよう。
「すごい、綺麗だよ。浴衣も化粧も、もちろん希も――」
彼女の頬の赤みがうっすら増した気がした。何かを我慢するようにその場で小さく悶えている。
「どうしたの?」
彼女がおもむろに飛びついて来る。僕の今の身体では彼女を受け止め切ることはできず、二人揃って床に倒れこむ。
彼女の匂いが少し香り、さらに鼓動が強くなる。
「そ、そんなに僕に褒められて嬉しい?」
「それもあるけど」
彼女は笑みを抑えきれないようで、嬉し声を漏らして喜んだ。
「初めて名前を呼んでくれたことが嬉しくて、本当に嬉しくて、なんか……やばい」
「あれ? そうだっけ?」
「そうだよー! 幽霊くんはいつも『君』って呼ぶもん。だから、希って呼んでくれたことが本当に嬉しいの。嬉しくて、嬉しすぎて死んじゃいそう」
「冥土の土産に希を殺すようなことはしたくないな」
彼女の笑みが、慈愛に満ちた微笑みに変わる。
「私は死なないよ。幽霊くんの分まで生きるの。幽霊くんの人生は私が背負って精一杯生きるよ」
「なんか、俺重たい男みたいになってるけど大丈夫?」
「何言ってんのさ、こんなに軽い身体しちゃって」
彼女は起き上がって、僕の手を取って軽々と持ち上げた。
「お墓、教えるからさ、たまに来て話を聞かせてよ」
「当たり前だよ。二日に一回は行くね」
「それは重い女だなぁ」
「あっ、それはどういうことかな? 性格? それとも体重?」
「さあね」
見つめ合い、二人で笑いあった。
彼女の笑顔は僕を笑顔にして、僕の笑顔は彼女を笑顔にする。
こんな時間が一生続けばいいのに。
待っている残酷な未来に後悔を残さないよう、彼女の笑顔、言葉の一言一句を胸に刻む。
彼女もまた、僕のことを絶対に忘れまいとずっと目を合わせる。
――あぁ、なんて素晴らしい人生なんだろう。
心の底から思うことができた。
「さっ、お祭りに行こ! 私、もうお腹ペコペコだよ」
「よし、屋台全部回ろう。お金余っててもしょうがないし」
「幽霊くん気合い入ってるねー! そんなに私とのお祭りデートが楽しみだったの?」
意地悪く聞いて来る彼女に、僕は目をそらさずに答える。
「そうだよ。待ち遠しかった」
「素直でよろしい」
眩しい彼女の笑顔に惹かれるように僕は部屋を飛び出した。
僕と彼女の最初で最後の花火大会が始まった。