彼女と一旦別れ、僕はある場所へと向かった。
 きっと、そこに彼女はいるのだ。確証はない。
 正直、足取りは重たく、それでも大事なことだと分かっているから、ひとりでに進み続ける。

 誰だって、自分の埋まっているところになど行きたくはないだろう――という言葉は、矛盾しているどころか、意味が分からない話だ。でも、そういうことだ。
 おそらく今日が命日ではない。花火の日も昔とは違う。でも、彼女はきっとこの日はその場所にいるはずだ。彼女のことは何でも分かる。きっと、十年前から毎年、そしてこれからもずっと、彼女は花火の日にこの場所を訪れるのだろう。それが、彼女の鎖にではなく、思い出としてであってほしい。そんなことを願うのは、僕のどうしようもないエゴだ。
 海沿いの急坂を登り、その場所に足を踏み入れる。ある意味、幽霊にはお似合いの場所なのだろうか。
 規則的に並んだ石像の列を歩き、その姿を探す。

「あっ……」

 思わず小さく声が出た。
 淡い黄色の布地に赤い濃淡が散りばめられた浴衣。あの頃とは色を変えた髪はきちんとまとめ上げられている。しゃがんで、静かに目を閉じて墓石に手を合わせているのは、確かに僕の知る彼女だ。
 もう、会うことはないと思っていた。会わない方が良いと感じていた。
 それでも、希はきちんと挨拶をしてこいという。
 この場所に来て、希の判断が正しかったのだと改めて痛感した。

「浴衣、似合っているね。……彼羽」

 ゆっくりと振り向いた彼女と視線がぶつかる。
 僕を見ても、驚かない。

「あの頃と違って、やけに素直だね」

 意地悪げに呟く彼女はゆっくりと立ち上がった。

「どうしてここに?」

 彼羽は僕から目を離し、足元に置かれた桶から柄杓で水を掬い、墓石にかける。
 十一年前、確かに目に刻み込んだ彼女の浴衣姿のままにも関わらず、口調や表情は随分とおしとやかになり、まるで別人に思えた。

「ちゃんと、話そうと思って」

 口籠るように答えた返事に、彼女は沈黙を貫いた。
 線香の煙が二人の間をゆるりと漂う。

「それで、きっと彼羽なら今日はここにいると思ってた」

 潮と線香の香りが混ざり、鼻をツンと刺激する。

「私ね、夢だと思ってるよ」

「えっ……?」

 自身の言葉を皮切りにくしゃっと顔をゆがめた彼女は、墓石の前に再びしゃがみ込んで、まるで人の頭を撫でるようにそっと墓石をなぞった。

「今も夢だと思ってる。だって、確かにヨッくんはここに眠ってるの。私もちゃんと立ち会ったから。それはまぎれもない事実なの」

「僕はここにいるよ?」

「ううん。これは夢。だって、さっきまでもう一度だけ夢を見せてくださいってお願いしてたんだもん」

「違う……。夢なんかじゃない。僕はここにいるんだよ。もちろん、実際の身体は骨になって、そこの石の下に埋まってるんだろうけど。それでも、今の僕はちゃんと僕だよ」

 彼女は開きかけた口を閉じる。唇をきつく噛み締め、何かを我慢するように堪えている。
 その様子に僕は戸惑った。
 
「なんで今日、私に会いに来たの?」

 絞り出したその声は微かに震えていた。きっと、予想はついているのだろう。
 僕が口を開くと、彼女は目を強く瞑り、両手で耳を塞いだ。
 なんて、残酷なんだろう。でも、ちゃんと言わないといけない。
 ゆっくり彼羽に近づき、耳から手を離させる。それに合わせて、彼女は目を開ける。潤んだ瞳に僕が映っている。

「手、冷たいよ」

「死んでるからね」

「死んでるのに言葉は喋れるんだね」

「歩けるし、物を食べることもできるよ。消化はできないみたいだけど」

「変なの。でも、ヨッくんが変なのは昔からだからなぁ」

「変のベクトル違うと思うんだけど。それを言うなら彼羽は僕以上に変だよ」

「えへへ、そうかな」

「褒めたわけじゃないんだけどね」

 長い沈黙の終わりを告げるように夏の強い海風が吹き、二人を別つ線香の煙をかき消した。

「僕、明日消えるよ」

 視界が滲んだ。
 変だよ、血も汗も出ないくせに、涙だけは溢れるなんて。
 彼女の姿がぼやけ、どんな表情をしているのか分からない。

 泣いているかな? ……きっと泣いてるだろうな。涙、拭いてあげないと。

 ふと、頬に彼女の指がかかる。優しく、まるで名残惜しむような手つきで、僕の涙をぬぐう。
 鮮やかになった僕の瞳に映った彼女は、瞳に涙を目一杯溜め、苦しそうに笑顔をつくっていた。

「彼羽……」

「へへっ、私の勝ちだね……」

 そう言った瞬間、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。彼女の足元にこぼれ落ち、いつまでも止まらなかった。
 思わず笑みが漏れる。

「僕よりも泣いてるじゃないか」

「いいの……。勝ちは勝ちだから」

 その様子を見て、また視界が歪んだ。

 僕と彼羽は二人で泣いた。
 何が悲しくて、何で止まらないのか分からないけど、ひとしきり泣き続けた。


「あースッキリした! ヨッくんが泣いてるところ、初めて見たかも」

「そうかもね。僕も彼羽には初めて見せたよ」

 彼女は大きく伸びをする。草履が石畳とぶつかり、カランと心地よい音を奏でる。

「私、あの日からずっと花火を見れなかったんだけど、今年はちゃんと見れそう」

「あ、それなんだけど……」

「分かってるよ。先客がいるんだよね? どうせ、私に会いに行けって言ったのも、あの時の女の子でしょ?」

「よくお分かりで……」

「あったりまえじゃん! 昔からヨッくんにずっと恋してたんだよ? ヨッくんのことなんてなんでもお見通しです!」

 大げさに胸を張る彼女。最初のおしとやかな気配は何処へやら、今では昔のままの彼女だ。
 その様子にまた涙が滲んだが、グッと堪えた。でも、彼女には本当にお見通しのようで、鼻をぎゅっとつままれる。

「花火、きっと綺麗だよ!」

 この時の無邪気な彼女の笑顔を、僕は絶対に忘れないだろう。