*
不思議だ。腹がすかなければ、眠くもならない。陽が沈む前から、一度たりとも体勢を変えていないというのに、全く違和感も、疲労感もない。確かに地面を感じるのに、まるでふわふわと宙を漂っているような、変な感覚だけがずっと続いている。
ふと、見上げていた雲の切れ目から星が覗いた。この世界は、彼女曰く十年後の世界らしい。
てっきり、死んでしまった僕が夢を見ているだけか、単純に天国や地獄のような場所だと思っていたが、どうやら違うような気がする。
この現状に的確な存在を当てはめるとするならば、幽霊というやつだろう。
あの時、目をつぶった僕はそのまま死んでしまい、十年後の世界で幽霊として再び現世に舞い降りた。完全な予測の範疇だが、今のところはこの説が一番しっくりくる。
それはそれで、昼間の少女が僕を知覚したことがやや引っかかるが、ありていで言うならばどうでもいい。
彼女は僕に手を貸した後、すぐに用事があるようで足早に去っていった。
「今、何時くらいだろ」
あたりは完全な闇に包まれている。山の上に存在する学校の屋上から一望できる街も、先ほどまでのような人工的な明かりはほとんど消え、蛍のようにぼんやりとまばらに色づく程度になっている。
夜は好きだ。正確には、一年前から好きになった。病気になり、床に伏してから妄想が趣味になった。あの漫画の続きはどうなるのかな、とか。気になっていたサッカーの試合はどちらが勝っただろうか、とか。些細なことではあるが、妄想しているときは心が落ち着く。
そういえば、こんな妄想もしたことがあったっけ? ――眠りから覚めたら、病気が治っていますように。
まさか本当になるとは思わなかった。病気が治ったといわれれば、そうではないのだろうけど、今の身体は病気の痕跡を全く感じさせない。
「どうでもいいか」
妄想していないときは、どうしようもなくネガティブだ。心にぽっかりと穴が開いている状態だと、どうやってもポジティブなことを考えられない。これも病気の代償なのだろう。
「いつ、死ねるのかな」
ふと、目を閉じてみる。身体の機能は全て停止しているような感じであるのに、どうして風がぬるく感じるのだろうか。鼓動は聞こえないのに、呼吸をしたくなるのはなぜだろうか。
目を閉じたまま、長い静寂を味わう。
やっぱり、眠くなる気配はない。
――二十九日。
ふいに、謎の言葉が脳裏に響いた。思わず目を開く。しかし、眼前の景色に変化はない。
二十九日とは何を示すのだろうか。二十九日後? 二十九日前? 二十九日間?
考えても無駄だ。分からないことだらけだ。
気が付くと、東の空が白けてきた。太陽は徐々に高くなり、やがて真上を通り越す。
校庭から、掛け声が聴こえてくる。部活か何かで、人がいるのだろう。しかし、屋上には誰も来ない。十年前は屋上は立ち入り禁止となっていたが、もしかしたら十年経った今でも同じ規則なのかもしれない。小さな共通点ではあるが、そうやってまた僕は同じ世界に降り立っているのだと認識を深める。
「また居るし」
突然、聞き覚えのある声が真上から降り注いだ。数時間以上ぶりに目を開くと、覗き込む黒髪の少女が目に入った。昨日と同じ、白ワイシャツにベージュチェックのスカート。変化があるとすれば、髪を束ねてポニーテールのようにしていることだろうか。
「君、昨日もいたけど、何してるの?」
差し伸べられた手を、僕は無意識に握っていた。身体が浮くように持ち上げられる。
「うわっ! 軽っ! 昨日も思ったけど、君って軽すぎない?」
彼女は驚いたように自分の手を覗き込んでは開いたり、閉じたりを繰り返す。
「無理もないよ。たぶん、僕は幽霊だから」
我ながら、突拍子もない発言だ。こんな馬鹿らしい話、誰が信じるというのだろう。
彼女が訝し気に頭の隅から足の先までじっくりと視線を這わせる。
たぶん、彼女は可愛いんだと思う。というか、結構人気がありそうな顔立ちだ。しかし、今の僕にははっきりと彼女が可愛いかどうかがわからない。
可愛いとか、カッコいいとか、好きとか、嫌いとか、そういう感情はいつからか無くなってしまっていた。妄想が好きだと認知してはいるが、好きだとハッキリ感じたのは、もう半年も前のことだ。いや、正確には十年と半年前か。
「幽霊? 君って、死んでるの?」
「たぶんね。最後の記憶は十年前だし、ここで一晩明かしても全く眠くならないし、疲れもしないんだ。だから、幽霊だと思ってる。勝手にだけどね」
「ふーん。確かにめちゃくちゃ軽かったし、手とか体温感じないくらい冷たいし、そうなのかもね」
「そうなのかもねって。僕から見れば、君の方がよっぽど面白いと思うよ」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「そうか、そうかー。幽霊くんか。でも幽霊なら見えないし、触れないんじゃないの? 私、普通に幽霊くんのこと見えてるし、触れたんだけど」
「そんなの、僕に聞かれたって知らないよ。というか、放っておいてくれないかな」
突然、腕をつかまれて、グイっと引っ張られる。反射的に身体に力を込めて抗おうとしたが、抵抗は空しく、僕の身体はまるで風船のように浮き上がる。例え霊体だとしても、女子高生に軽々引っ張り起こされるのは中々にショックだ。
「ダメダメ! 幽霊くん面白いから、私がもう少しだけ構ってあげる」
「はあ? ちょ、ほんとにやめて。大人しく死にたいんだって」
「なーにいってんの。もう死んでるんでしょ」
引きずられるように校内に連れ込まれる。引きずられるというか、完全に浮いてるんだけど。まるで、紙みたいだ。身体がペラペラと風に揺られている気さえする。
彼女は僕の腕をつかんだまま、教室に入る。
「春華―!?」
教室は夏休みということもあり、ほぼ無人であったが、彼女の入った教室には一人の女子生徒が教卓の上に座ってパンをむさぼっていた。
それにしても、一件素行が良くない風に見えるが、不思議な雰囲気を持つ女子生徒だ。無理してその仕草を取っているようなそんな感覚。机の上には教科書や参考書が積み上げられている。大方、夏休みの学校で受験勉強に勤しんでいたのだろう。
「んー? どしたの、希。ていうか、その人誰? 」
僕は今、確かに春華と呼ばれる女子生徒と目が合っている。彼女はしっかりと僕を見ている。霊体であるはずの僕を――
「おー! やっぱり見えるんだ!」
「そりゃ、見えるでしょ。いや、意味分かんないんだけど」
「あはは、そうだよね。何でもなーい!」
再び、成す術もなく廊下に引きずり出される。
「ほら、やっぱり見えるじゃん」
どうして、彼女がそんなに嬉しそうな顔をするのだろう。
「そうらしいね」
「うれしい?」
「いや、別にうれしくはないけど」
先ほどの春華と呼ばれていた人の様子を見るに、確かに僕は生きている人から見える幽霊らしい。そして、触れることもできる。まるで、実態がちゃんとあるみたいだ。でも、身体は女子高生が鼻歌を歌いながら持ち上げられる。
僕は一体、何者なんだろうか。
「まあ、いいや。じゃあこの後、私と遊んでよ。幽霊くんには予定なんて入ってないでしょ?」
「いや、遠慮しておくよ」
「えー!? どうして?」
「たぶん、僕といると楽しくないし、きっと不愉快にさせると思う。感情とか、すっごく薄いから」
「それは幽霊だから?」
「性格は、元からだけど」
彼女はにこっと笑った。僕のことをこれっぽっちも疑っていないそのあどけない笑顔が、僕にはやけに眩しかった。
「じゃあ、大丈夫だ!」
「何が?」
「楽しいよ! きっと!」
再び、彼女が僕の手を取った。やっぱり、温かい。彼女の手は、とても温かい。冷たい皮膚に彼女の熱が伝ってじんわりと包まれる。
「それに、君に拒否することはできないよね」
「おいっ!」
身体がふわっと浮き上がる。重力など、感じない。まるで空気のように簡単に持ち上げられてしまう。
その時、僕の身体に異変が生じた。
「あっ……!」
彼女は立ち止まり、僕の手を離して不思議そうにこちらを見る。
この感覚、確かに覚えている。でも、絶対に感じないと思っていた。だって、昨夜は何にも感じなかったのだから。でも、これは、確かに――
「おなかすいた……かも?」
彼女はまるで豆鉄砲をくらったようにキョトンとする。そして、若干の静寂の後に面白おかしそうに吹き出した。
「奇遇だね。私も、おなかがすいたな!」