最初に思ったのは、筋張った豚肉を突き刺す感触だった。ついで訪れる、身体の中に異物が入り込む感覚。
当たり前だが、気分が良いものではない。しかし、やはりこの身体は普通の人間とは異なるため、痛みは一切感じられない。意識もしっかりしている。
刃物を突き立てた場所を基点にじんわりと制服が赤く染まる。ある程度、規則的に円状に広がって行く赤を、降り注ぐ雨が歪な形に変えて行く。
「な、なな、何をやってんだ! このクソガキ!」
あからさまに動揺を見せている須藤は勢いよくナイフを引き抜いた。
異物が身体の外にスルッと抜け落ちる感覚。
抜いた反動でボトボトと地面に赤が落ち、雨で滲んでいく。ナイフには赤がべっとりと付き、重苦しい輝きを放っている。
「こ、これはお前が自分で刺したんだ! だから、冤罪だ! 冤罪!」
一度、人を刺したことのある人物がここまで焦っていることに関しては想定外ではあったが、逆に好都合だ。
須藤の言う通り、これは僕が自分の意志で、自分の身体に刃物を突き立てただけの行為。しかし、そのナイフは今、須藤の手にあり、僕はわざとらしく赤くにじむ制服を苦しそうに掴み、そして――カシャッ。
「えっ……?」
突然のシャッター音。
須藤の喚きが瞬間的に止まり、雨の音がシャッター音すら流し去る。
――カシャ。カシャ、カシャ。
清水さんが震える手でスマートフォンを握りしめて、不規則にシャッター音を鳴らしていた。
須藤は顔面を蒼白させて、慌ててナイフを地面に投げ捨てる。しかし、もう遅い。
半分博打で、リスクだって計り知れない計画ではあったが、どうやら全てが上手くいったようだ。
僕は特に痛みも感じない腹部を大げさに抑え、精一杯の狂人を装う。
「さぁ、警察へ一緒に行きましょうか? 須藤先生?」
「ひぃぃ! やってない! 私は何もやっていない!」
須藤は数歩後ずさり、つまずいて、実にかっこ悪く尻餅をついた。
「希と清水さんにこれ以上、手を出すな」
「悪くない……。私は、悪くない! う、うわあぁああ!」
まるで、ドラマみたいだ。這いつくばるように去って行く須藤を見て、素直に思った。
ひとまず、これでこの件に関しては終幕となっただろう。よほどのことがない限り、須藤はもう希と清水さんに絡むことはないだろう。なんせ、こちらには清水さんが撮った――正確には事前に頼んでおいて撮ってもらった写真があるのだから。
正直、混乱した状況の中で清水さんが頼んでおいた通りに写真を撮ってくれるかは賭けであった。しかし、彼女は良くも悪くもこういった場面に慣れ始めていたのだろう。結果的に最高のタイミングで幕を降ろしてくれた。
須藤の悲鳴が完全に聞こえなくなると、長い、長すぎる一日がようやく終わったのだと理解できた。
全身から力を抜き、その場にだらしなく座りこむ。どうせ、服は雨と赤でぐしゃぐしゃだ。いまさら、泥など気にしてても仕方がない。
バシャと水しぶきが舞う。
彼女が綺麗な顔をひどく崩して駆け寄ってくる。
どうやら、彼女は今日はよく泣く日らしい。
「ゆ、幽霊くん、怪我! 刺されて……! あっ、救急車!」
僕の顔と腹部を何度も見返し、あたふたしてる彼女はなんだかとても愛おしく見えた。
遅れて、清水さんも駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫ですか! 希、早く救急車! と、とにかく血を止めないと!」
「ちょっと、二人とも落ち着いて! これ、血じゃなくて、ケチャップだから!」
僕は服をめくる。長細い丸みを帯びたフォルムで、中央を刃物で切られて赤い中身が飛び出しているコンビニのケチャップがそこにはあった。
そう。手口はとても簡単で、まるで自主制作のドラマにも劣るトリックであった。
身体に刃は確かに刺さった。しかし、今の僕の身体に血が流れていないことはなんとなく察していた。そこで、血の代わりにケチャップに仕事をしてもらったということだ。幸い、夜でなおかつ明かりの少ないこの公園では、ぱっと見ならば血に見えるし、匂いも雨がかき消してくれる。
「じゃ、じゃあ! 身体はなんともない? 本当に!?」
「あぁ、この通りなんともないよ」
握りこぶしで腹をトントンと叩く。
「良かったぁ……」
清水さんが脱力して地に膝をつく。
「清水さん、ありがとう。ちゃんと頼んだ通り写真を撮ってくれて」
「ん……」
清水さんは大事そうにスマートフォンを胸に抱いた。強く、強く握りしめて。
彼女が、覆いかぶさるように抱きつく。ドンっと強い衝撃が降りかかり、耐えきれず地面に背中をつけた。このシチュエーションも今日は二度目だ。しかも、決まって彼女はなんとも言えない表情をするのである。悲しんでいるような、安堵しているような、そんなよく分からない表情。
しかし、二度目の彼女の表情はとても愛おしく、僕の中で彼女を見る目が確かに変わっているのだと感じた。
「良かった。本当に良かった……。幽霊くんが死んじゃうかと思った……怖かった。せっかく会えたのに、またいなくなっちゃうかと思った」
「また会えたって、まだ会って一ヶ月も経ってないだろ? 君はやっぱり変な人だね」
「ん……そうだね。でも、本当に良かった。ありがとう、私を助けてくれて」
彼女を優しく抱きしめる。
温かい。
規則的に刻む彼女の鼓動につられて、僕の心臓も鼓動を打っている。気のせいだとしても、確かにこの胸はあふれんばかりの思いで脈を打っていたのである。
これ以上、踏み込めば絶対に後悔する。自分の気持ちに気がついてはいけない。必死に抑える心とは裏腹に、僕は力強く彼女を抱きしめた。
雨はいつしか止み、真夏にしては涼しい夜風が二人を包み込んだ。