予報では今日は曇りのはずだったが、このまま降り続けば注意報や警報が出ても不思議じゃない。
 全身、濡れるところが無いくらいびしょ濡れだ。
 やるべきことは済んだ。あとは、その場の状況で対処するしか無い。

 二時間で帰ってくると言っておきながら、なんだかんだ三時間くらいかかってしまったが、希はちゃんと家にいるだろうか。いつもの彼女であれば、自分だけ家でじっと待っているなんてできる性格ではない。
 そんな心配も杞憂なもので、家に帰ると玄関の鍵こそは開けっ放しであったものの、家の中には確かに人の気配があった。

「ただいま」

 返事はない。
 家の中は暗く、窓からのどんよりとした光が射し込むのみだ。そんな暗い中、彼女は寝室でちょこんと力無く座っていた。制服に素足。髪は乾かしていないのか、まだ若干の潤いを感じる。そして、手元にはいつぞやのアルバム。

「傘、忘れちゃって。タオルとできればお父さんの部屋着とか、借りてもいいかな?」

「どこに行ってたの?」

 成立しない会話。そして、彼女の焦燥に満ちた声にどう反応したものか悩んだ。

「病院だよ」

 清水さんと会ったことは隠した。彼女は僕が清水さんと会うことを良くは思わないだろう。

「そっか、良かった。一人で須藤先生のところに行っちゃったと思ったよ」

「今、須藤のところに行っても何もできないよ」

「そうだよね。何もできない……」

 反芻するように言葉を繰り返す彼女。
 
「とりあえず、タオル借りるね。床が汚れちゃうし」

 彼女の横を通り過ぎようとした瞬間、突然裾を引っ張られ、絶望的に身体が軽い僕は床に倒れこむ。
 突然のことすぎて、状況が理解できないまま、下腹部から腰にかけてずしっと違和感がのしかかる。
 彼女が僕に馬乗りで身体を押さえつけていた。今にも泣き出しそうで、哀訴にも似た半分諦めている表情。

「何してるの? また、濡れちゃうよ?」

 彼女は口をつむいだままだ。つられて僕も無言になる。
 雨音がやけに大きく聞こえた。
 彼女の表情を見ていると、調子が狂う。同時に多少の苛立ちも覚えるが、それは僕のエゴだ。
 昨日までの破天荒とも言える彼女とは完全に別人だ。いや、きっと隠していただけだ。気丈に明るくふるまって、悟らせないでいただけで、ずっと苦しんでいたのだろう。

 不意に彼女は小さく微笑んだ。その笑みが何なのか、僕には理解できない。
 彼女がばたりと僕に向かって倒れこむ。彼女の鼓動が、まるで僕の心臓の音のように伝わってきた。
 そのまま、やけにゆっくりと感じる時が流れる。そして、どれくらい経っただろうか、彼女が口を開く。

「本当に幽霊くんは死んでいるんだね」

「どうして?」

「鼓動がね、全くないよ。せっかく、女の子と密着しているっていうのに」

「生きてたら、それこそ死にそうなくらいバクバクしていただろうね」

「そっか。ふふっ」

 しおらしく笑った彼女の息が首元にかかってくすぐったい。

「焦って赤面する幽霊くん、見てみたかったな」

「残念。生きてたら僕は二十七の大人の男だから、そんなヘマはしないね」

「じゃあ、そんな大人の男の人に頼みがあるんだけど」

「……何?」

「幽霊くん、私の処女奪ってよ」

「――は?」

 彼女は今、何と言ったのだろうか。

「幽霊くんならいいよ。ううん、今は幽霊くんがいいや。私の初めてをあげるね」

 落ち着きに満ちた声とは裏腹に、伝わる彼女の鼓動が速度を速めた。

「そういうの、ちゃんと好きな人にあげるものだよ」

「そうだね。じゃあ、今だけ幽霊くんのこと、好きになってもいいかな?」

 彼女は今日須藤に自分が汚されると確信しているのだろう。ならば、いっそのこと初めては僕に捧げると言っているのだ。
 そんな自暴自棄、消えてしまう僕はともかく、彼女は絶対に後悔するだろう。

「須藤のことなら、大丈夫だよ。君は、絶対に須藤のものになんてならない」

「無理だよ……。春華のことは裏切れないよ」

「大丈夫。僕を信じなよ」

 彼女は今、どんな表情をしているのだろうか。
 僕は覆いかぶさる彼女をどかそうとずっと込めていた力を抜いた。
 首元で小さな嗚咽が聞こえてくる。すすり泣きはいつしか、溜め込んだダムが決壊したように止まらない涙に変わっていた。

 どうして良いのか分からず、僕は天井を眺め続ける。

「嫌だよぉ……。私、須藤なんか嫌だよ! 怖いよぉ……。誰でもいいから私を助けてよ! はるかぁ……お父さん、お母さん。助けてよ、幽霊くん……」

 彼女の啼泣と悲愴の発露に胸がひどく痛んだ。
 ずっと我慢して一人で耐えてきたのだろう。僕と出会った日には、もう須藤から声がかかっていて不安だっただろうに、それでも必死に笑顔を絶やさないでいた。
 誰にも心配をかけないように一人で抱え込んで、それが今追い詰められて崩壊してしまったのだ。

 僕のワイシャツを力強く握りしめ、死体のように冷たいであろう胸の中で泣き叫ぶ彼女を、僕は軽く抱きしめた。
 彼女の高い体温が、ずぶ濡れの僕をじんわりと温める。いつぶりだろうか、人の温もりをこんなにもたくさん感じたのは。
 いつまでも泣き続ける彼女の嗚咽と強い雨音だけが狭い部屋に響き続けた。