傘も持たずに土砂降りの町中を全力で走る。
どれだけ走っても、息切れの一つもしないのはとても便利だ。でも、どうして僕はこんなにも必死になっているのだろうか。正直、僕は今回の件に関してはほとんど部外者だ。少なくとも一週間前の僕であれば、首を突っ込むことなく、傍観を決め込んでいるだろう。
彼女の顔が脳裏をちらつく。
大義や恩義といった大層な理由ではないが、やはり彼女は笑っているべきだ。元気で、お節介で、人を我が物顔で振り回す。そんな人であるべきだ。
彼女が泣いていていいはずがない。
「傘持ってこなかったのはミスだったな」
走ること二十分。市立病院が見えてくる。正直、この場所には立ち寄りたくはなかった。
思い出してしまう。
忘れてはいけない記憶。忘れたい記憶。僕の最期の場所。
外観は十年前よりもずっと綺麗になっていた。一度、改装でもしたのだろう。
急に足が止まった。まるで自分の身体じゃ無いみたいにピクリとも動かない。
「おい、急ぐんじゃなかったのかよ」
死んでなお、病院が怖いなんてお笑いものだ。
どうやら僕は、自分が思っている以上に死というものに対して恐怖を抱いている。多分、まだ自分が本当に死んだという実感があまりないからだ。だって、まだこうして地に足をつけているし、空腹だって感じる。食べ物の味も分かる。誰かを助けたいという気持ちだって、持っている。
「……大丈夫」
言い聞かせるように呟く。何度か深呼吸をして神経を鎮める。
大丈夫、怖くない。
彼女の涙の方が怖いだろ?
そう思った瞬間、身体が嘘のように軽くなった。
そして、僕は十年ぶりに自分の墓場に足を踏み入れたのだ。
*
病院を後にした足でそのまま図書館へと向かう。時刻十四時半。二十一時まで予想以上に時間が残っていることに安堵する。
図書館は相変わらず出入りする人がまばらで、なぜか周りの建物よりも暗い雰囲気を纏っている。
図書館の中は思ったよりも人がいた。夏休みということもあり、学生がいつもより多いためだろうか。田舎町で行くところもないため、年配の方もたくさんいる。
全身びしょ濡れで入ったからか、静まり返った館内の視線が突き刺さって、とても恥ずかしい。すごい迷惑な行為をしていることに気がつき、後ろめたさを抱きながらも、足早に目的の人を探す。
彼女は一人席の奥角。図書館の中でもひときわ静まり返っている席で、一人黙々とテキストに目を走らせていた。学校で見たときの彼女は、教卓の上に腰を降ろしていたため、希と同じような明るい人という印象があった。しかし、よく考えてみれば、表情は少し暗かったし、机の上には山積みになった教科書があった。
そして今の彼女は、言い方は悪いが、クラスに一人はいるような、話しかけてこないでオーラを発する人だ。何となく近寄りがたい雰囲気を身に纏っている。しかし、裏を返せばそれだけ死に物狂いで勉強しているということだ。
こんなに真面目な彼女が強姦未遂にあったと思うと、胸が痛くなる。希と同じく、外見はかなり整った方ということが、ターゲットになってしまった理由なのだろう。
一分ですら時間が惜しいはずだが、こちらも決して時間が余っているわけではない。意を決して近く。
「清水春華さんですよね?」
声をかけてから、自分の小さなミスに気がつく。
彼女は跳ねるように肩を大きく弾ませ、勢いよく振り向いた。その表情には恐怖の色が混ざっている。
それもそうだ。知らない男性に声をかけられる恐怖。彼女はつい最近、嫌という程味わっている。
「えっと、どなたですか……?」
「えっと、八月の初めに学校で一度会ってはいるけど」
「あっ……希の連れてきた人」
彼女は僕が希の知り合いということで安心したのか、強張らせていた身体を緩めて座り直した。
「そう、その人。良かった、思い出してくれて」
「えっと、それで私に何か?」
「ちょっと、話がね。ここじゃ、話しづらいから申し訳ないけど外までいい?」
彼女は小さく頷く。疑惑はあれど、不信感は取り除けたようだ。
図書館を出ると、雨は一層強くなって町を灰色に染め上げていた。
どれだけ走っても、息切れの一つもしないのはとても便利だ。でも、どうして僕はこんなにも必死になっているのだろうか。正直、僕は今回の件に関してはほとんど部外者だ。少なくとも一週間前の僕であれば、首を突っ込むことなく、傍観を決め込んでいるだろう。
彼女の顔が脳裏をちらつく。
大義や恩義といった大層な理由ではないが、やはり彼女は笑っているべきだ。元気で、お節介で、人を我が物顔で振り回す。そんな人であるべきだ。
彼女が泣いていていいはずがない。
「傘持ってこなかったのはミスだったな」
走ること二十分。市立病院が見えてくる。正直、この場所には立ち寄りたくはなかった。
思い出してしまう。
忘れてはいけない記憶。忘れたい記憶。僕の最期の場所。
外観は十年前よりもずっと綺麗になっていた。一度、改装でもしたのだろう。
急に足が止まった。まるで自分の身体じゃ無いみたいにピクリとも動かない。
「おい、急ぐんじゃなかったのかよ」
死んでなお、病院が怖いなんてお笑いものだ。
どうやら僕は、自分が思っている以上に死というものに対して恐怖を抱いている。多分、まだ自分が本当に死んだという実感があまりないからだ。だって、まだこうして地に足をつけているし、空腹だって感じる。食べ物の味も分かる。誰かを助けたいという気持ちだって、持っている。
「……大丈夫」
言い聞かせるように呟く。何度か深呼吸をして神経を鎮める。
大丈夫、怖くない。
彼女の涙の方が怖いだろ?
そう思った瞬間、身体が嘘のように軽くなった。
そして、僕は十年ぶりに自分の墓場に足を踏み入れたのだ。
*
病院を後にした足でそのまま図書館へと向かう。時刻十四時半。二十一時まで予想以上に時間が残っていることに安堵する。
図書館は相変わらず出入りする人がまばらで、なぜか周りの建物よりも暗い雰囲気を纏っている。
図書館の中は思ったよりも人がいた。夏休みということもあり、学生がいつもより多いためだろうか。田舎町で行くところもないため、年配の方もたくさんいる。
全身びしょ濡れで入ったからか、静まり返った館内の視線が突き刺さって、とても恥ずかしい。すごい迷惑な行為をしていることに気がつき、後ろめたさを抱きながらも、足早に目的の人を探す。
彼女は一人席の奥角。図書館の中でもひときわ静まり返っている席で、一人黙々とテキストに目を走らせていた。学校で見たときの彼女は、教卓の上に腰を降ろしていたため、希と同じような明るい人という印象があった。しかし、よく考えてみれば、表情は少し暗かったし、机の上には山積みになった教科書があった。
そして今の彼女は、言い方は悪いが、クラスに一人はいるような、話しかけてこないでオーラを発する人だ。何となく近寄りがたい雰囲気を身に纏っている。しかし、裏を返せばそれだけ死に物狂いで勉強しているということだ。
こんなに真面目な彼女が強姦未遂にあったと思うと、胸が痛くなる。希と同じく、外見はかなり整った方ということが、ターゲットになってしまった理由なのだろう。
一分ですら時間が惜しいはずだが、こちらも決して時間が余っているわけではない。意を決して近く。
「清水春華さんですよね?」
声をかけてから、自分の小さなミスに気がつく。
彼女は跳ねるように肩を大きく弾ませ、勢いよく振り向いた。その表情には恐怖の色が混ざっている。
それもそうだ。知らない男性に声をかけられる恐怖。彼女はつい最近、嫌という程味わっている。
「えっと、どなたですか……?」
「えっと、八月の初めに学校で一度会ってはいるけど」
「あっ……希の連れてきた人」
彼女は僕が希の知り合いということで安心したのか、強張らせていた身体を緩めて座り直した。
「そう、その人。良かった、思い出してくれて」
「えっと、それで私に何か?」
「ちょっと、話がね。ここじゃ、話しづらいから申し訳ないけど外までいい?」
彼女は小さく頷く。疑惑はあれど、不信感は取り除けたようだ。
図書館を出ると、雨は一層強くなって町を灰色に染め上げていた。