*

 盛大な青春のこじらせを犯してから、三日が経過していた。
 互いにあの日のことには深く詮索することなく、退屈な日常を過ごしている。そもそも、あの日、希は酔っ払っていたので、例のこじらせ事件を覚えているのかどうかも僕にはわからない。
 次の日には、二日酔いで少しだけ怠そうにしながらも、それ以外は普段通りの彼女であった。そのおかげで僕も深く考えることなく、いつも通り刻一刻と減りゆく日常を()()()()のように過ごした。

 しかし、どうやらそんな平穏も長くは続かないようで、僕と彼女の少しだけ長く、後から考えれば大事な――とても大事な一日が始まったのだ。

「ねぇ、この前のことがあった手前、すっごく頼みにくいんだけど」

 見たこともないくらい嫌そうな顔でスマホを眺めていた彼女の開口一番の発言には、諸々の嫌な予感が詰まっていた。

「あっ、覚えてたんだ。てっきりお酒と一緒にすっかり記憶を飛ばしているものだと思ったよ」

「あのね、そんなに飲んでないですー! しっかり、完璧に、それはもうバッチリ覚えてますよ。あー幽霊くんの唇はすっごく冷たかったなぁ。氷かと思っちゃったよ」

「まさか死んでからファーストキスを奪われるとは思わなかった」

「私だって、幽霊が初めての相手だとは思わなかったよ。本当に、もー!」

「自分からして来たくせに」

 漫画のような見事な「ヴッ……!」という小さな唸りと共に彼女の視線が左右に彷徨う。

「だから、あれはお酒のせいだから本当に事故なんだって! それに幽霊はノーカウント! 絶対! 」

「僕は別に何も気にしてないから、早く話を進めなよ」

「ひーどーい! こんな可愛い子からキスされてるんだから、ちょっとは好きになってくれてもいいんだよ!?」

「はいはい、好き好き。で、話って?」

 きゃんきゃんと吠える子犬のような、ちっとも怖くない睨み顔の彼女。心が動かなかったわけじゃない。でも、これが恋心なのか分からなかった。ただ、衝撃が強くて、きっとそんな甘い感情じゃないんだと思う。

「まぁ、いいや。この件についてはまた今度じっくりとするとして」

「するんだ……」

「します! じゃなくて、今の流れで頼みやすくなったからお願いしたいんだけど、今日、ちょっとだけ付き合ってよ」

 珍しかった。彼女は僕を勝手に振り回すことはあるが、頼んで付き合うことを要求して来たのは初めてだ。つまり、嫌なら断ってもいいという選択肢を同時に提示している。それだけ、後ろめたいのか、頼みづらいことなのだろう。幽霊に気なんて使う必要ないのに。
 なんにせよ、僕に断るという選択肢は無かった。

「付き合うって、どこかに行くの?」

「んー……。いや、学校なんだけど、ちょっと面倒なことが起きそうだから、なんていうの? ボディーガードってやつ?」

「面倒なこと? ボディーガード?」

 いまいち見えてこない内容に首を傾げる。

「面倒が起きそうっていうか、面倒を回避するために付き合って欲しいんだよね。今日のご飯、お外で奢るからお願い!」

 顔の前で両手を合わせる彼女。軽い言動とは裏腹に意外と焦っているように見えるのは気のせいだろうか。

「別に礼とか考えなくてもいいよ。それで詳しい内容は?」

「うーんと……恥ずかしいから言わない!」

「はぁ?」

「とにかく、一緒に来て。あっ、やっぱりちょっと後ろを付いて来て」

 ドタバタと支度をする彼女は、やはり少しだけ切羽詰まっているような、緊張しているようで、決して明るい表情ではない。むしろ、今までに見たことが無い色んな感情が交錯している、そんな気がした。


 数十メートル先を歩く彼女を見失わないように追いかける。はたから見たら完全にストーカーだ。
 天候はあいにくの小雨。
 僕が十年後のこの時代に来てからは初めての雨だ。怪我もしないし、臭いなども付かないこの身体ではあるが、どうやら雨には髪も服も濡れるようで、僕は十年ぶりに傘を持った。

 学校に着くまでの間、彼女の頼みごととやらについて思案する。結局、彼女は後を付いてくるようにという指示以外は何も話さなかった。
 彼女は面倒ごとを回避するためと言った。つまり、面倒なことが起きそうだと分かっていて僕に頼んで来たのだ。そして、この前の軽い事件のせいで頼みにくい内容。
 考えてもこれから起こりうる内容の想像はつかないが、確かに面倒なことは起こりそうだなと灰色の空を見て感じた。
 学校に着き、彼女はそのまま校庭を横切って校舎に入った。

「校舎内に用があるのか……」
 
 そういえば、彼女は八月の頭からほぼ毎日学校に来ていた。部活はやってないし、学校で勉強をしているというわけでもなさそうだった。何か関係でもあるのだろうか。
 首をひねりつつも、彼女を追って校舎内に入る。夏休みといえど、吹奏楽部や運動部の人たちが校舎内にまばらにいる。
 生徒とすれ違うたびに謎の緊張が走った。
 彼女は人気が少ない方へと進んで行く。

「この方向、もしかして美術室?」

 十年前と教室は変わってないはずだ。彼女は間違いなく美術室へと向かっている。しかし、美術室に何の用があるのだろうか。
 美術室は地下の突き当たりにある。横が工具室と倉庫で夏休みには美術部の活動も無いようで、美術室までの廊下は薄暗く、静まり返っている。
 彼女の足音だけが一定のリズムで響く。
 そして、彼女は美術室の手前で立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返る。その瞬間、思わず声を出しそうになった。
 振り返った彼女は唇を噛みしめて、ひどく怯えていた。

 思わず数歩、つんのめるように進んだ。
 しかし、彼女は首を振る。震える唇をキュッと結び、無理やりの苦しげな笑みを見せる。その振り絞った笑顔が、逆に僕の足を早めた。
 あそこまで怯えた表情の彼女は初めて見た。どう考えても、軽い用事などでは無いだろう。

「まっ――!」

 届くわけもないのに、思わず手を伸ばしていた。
 どうして、ここまで焦っているのか自分でも分からない。しかし、ここで彼女を引き止めなければならない。そんな気がした。
 しかし、彼女は僕のことを待つことなく、覚悟を決めたように美術室のドアをゆっくりと開けた。

「どうぞ。入りなさい」

 見知らぬ男性の声が、美術室の中から聞こえて来た。

「……失礼します」

 とても――とてもか細い声だった。
 彼女がぎゅっと握りこぶしをつくり、硬い足取りで美術室へと入る。
 なぜだろうか。嫌な予感が止まらない。分からない。何がこんなにも不安にさせるのか分からない。しかし、無いはずの心臓が大きく脈を打つ錯覚に襲われる。
 一度、深呼吸をして、ゆっくりと教室に近づく。
 彼女なりの配慮だろうか、ドアはわずかに隙間が開いており、中の会話がかすかに聞こえて来た。

「わざわざ夏休みにいつもすまないね。突然、インスピレーションが湧いたんだ」

「いえ……」

 どうやら美術室には彼女と謎の男性の二人だけのようだ。男性は学生っぽくはない、大人の独特な深みがある声で、喋る言葉の端端(はしばし)に含みを感じる。

「いつもモデルになってくれてとても助かるよ。水上さん」

「だ、大丈夫です。須藤先生……」

「そうかい? 助かるよ。それじゃあ、いつも通り、少しじっとしててくれよ」

 しばしの沈黙。やがて、筆を動かす音がかすかに聞こえて来た。
 おそるおそる、美術室をドア越しに覗く。
 部屋の隅で向き合うように座る二人。彼女は手を膝に置き、硬い表情でまっすぐ前を向いている。そして、須藤と呼ばれた男性は、そんな彼女と手元のキャンパスに視線を交互に移動させながら、鉛筆をキャンパスに走らせている。
 須藤は二十後半くらいの見た目で、男性にしては少し長めの薄茶色の髪に、柔らかな目に拍車をかける大きめな黒縁の眼鏡。細い体格で、ワイシャツの第一ボタンを空け、着崩したスーツ姿。筆を走らせる手の甲は、鉛筆の炭で真っ黒になっている。

「夏休みはどうだい? なかなか連絡が返ってこなかったけど」

 須藤が不意に彼女に声をかける。彼女は身体を大きくビクつかせ、恐る恐る須藤を見た。

「ちょっと、最近忙しくて」

「忙しいって、課題かい? 美術は課題を出してないけど、他の教科はたくさん出てるみたいだね。職員室で先生方もヒーヒー言いながら課題を作ってたよ」

「あー、まぁそうですね。課題もたくさんあって、ちょっと大変です」

 明らかにぎこちない受け答え。
 しかし、今のところ須藤は夏休みに特定の生徒を呼び出してデッサンをしている教師。僕からすれば、この時点で十分にヤバい教師だとは思うのだが、普段から明るい性格の希が辟易するほどの事とは考えにくい。
 しかし、彼女の性格であれば、そこまで気にしないで、軽く引き受けそうなものだが。

「けど、課題だけが忙しいってわけじゃ無いだろう? せっかく高校生活最後の夏休みだ。何か、楽しんだことはあったかい? と言ってもまだ夏休みも中盤だけど」

「えっと、初めてボウリングしたり、友達と旅行に行ったり……」

「その友達っていうのは、清水さんかい?」

 清水さんという名前を聞いた瞬間、彼女の身体がひときわ大きく震え上がった。

「春華じゃないです。えっと、阿部ちゃんとです」

「あぁ、阿部さんか。楽しかったかい?」

「……はい」

「ところで、例の件、考えてくれたかい」

「――ッ!」

 もう一度、彼女は大きく震えた。
 空気が張り詰める。

「そのことなんですけど――」
「分かってるよね? 清水さんのこと!」

 彼女の言葉を須藤が大きめの声で遮る。

「その、えっと……」

 彼女は押し黙る。
 須藤の筆の動きは止まらない。しかし、その目はずっと俯く彼女を見つめている。

「君に断るという選択肢は無いんだよ? 水上さん――いや、希」

 腹の奥底から、冷たい何かが湧きだした。ただ、彼女の名前が呼ばれただけなのに。
 須藤の言葉はとても冷たく、形容しがたいほど気持ちが悪かった。

 一度、息をつく。
 段々と話の流れが見えて来た。彼女が珍しく頼って来た理由。友達ではなく、学校とは関係のない僕を縋った理由。そして、緊張したような、怯えたような表情をしていた理由。
 友達である清水さんは何らかの弱み須藤に握られ、そして、それを盾に彼女は――

「僕と付き合ってくれるね?」

 須藤に脅されていた。