カフェで適度に暇をつぶした後、夏にしては少しだけ涼しい町をさらに散策した。元々あった建物じはもちろんのこと、この十年で新しく出来た建物にすら謎の郷愁を覚える。
 通りすがり、知り合いに見つかるのではないかと冷や冷やした。なんせ、狭い町だ。十分も外を歩けば、顔見知りの一人にでもバッタリ会って気づかれてしまうのではないかと思ったが、案外バレないものだ。
 バレない、というよりかは僕が僕だと気づかれていないように感じる。実際、十年前からある店先を通り過ぎても、過去の顔見知りは誰も声をかけてこない。
 単純に目に入っていないだけなのか、やはり十年という歳月が僕という存在を消し去ろうとしているのか。
 人の価値というのは、たったの十年で薄れゆき、いつしか顔すらも忘れられてしまう。そんな事実に寂寥感(せきりょうかん)がこみ上げる。
 最近、感情は戻り始めているのを感じる。ほんの少しの生という自由を手にしてから、閉ざされていた感情が顔を出しているのが自分自身でも感じ取れた。
 良いことなのか、悪いことなのか。きっと、どっちもだ。
 ぼーっと考えながら雑踏の中を歩いていると、いつの間にか隣を歩いていたはずの彼女の姿が見えないことに気が付いた。
 
「ねぇ、幽霊くん! こっち、こっち!」

 彼女は数件後ろの土産物屋の前で、頭上高く手を振っていた。何人かこちらを振り向いたが、目を合わせないように視線を落とす。

「ねえ、これ可愛くない?」

 彼女は硝子製の小さな海月(くらげ)のストラップを手に持ち、まるで観光に来た子供のようにはしゃいでいる。いや、制服を着ているのだから、さしずめ修学旅行にでも来た学生のようだ。

「えー、可愛いなぁ。もう!」

 どうやら海月のストラップが相当気に入ったようで、彼女は何種類かのカラーバリエーションのあるストラップをまじまじと見ている。

「買ってあげようか?」

「ふぇ……? ほんとに?」

 彼女が顔を挙げた拍子に、西日が差し込んだ。海月ストラップから反射する日差しを遮るようにつかみ取った。

「まあ、元々使わないはずの金だからね。それより、こんな観光品じゃなくて、服とかそういうのでも僕は構わないけど?」

 彼女は少し間、僕の発言を咀嚼するように沈黙をすると、僕を見上げながらあどけない笑顔をこしらえた。

「ありがと! じゃあ私も幽霊くんに買ってあげましょう! あっ、私はピンクが良いから君はそれ以外の色にしてね!」

「は……?」

「だから、お互いに買いっこするの。カップルといえば、ペアルックでしょ。この場合だと、お揃いの記念品って言葉の方がしっくりくるけどねー」

 否定を口にするよりも先に、彼女は僕に透き通った硝子製のストラップを握らせた。
 結局、奢って、奢られて。何の意味があるのだろうか、とも思うが話を掘り下げるほどのことでもない。きっと、彼女の気まぐれだ。

「うへへー、可愛いなぁ。大事にするから、幽霊くんも無くしちゃだめだぞ?」

 妙にテンション高くしながら、彼女はピンクの海月ストラップをスマホに付けた。
 僕の手には青い海月ストラップが握りしめられているが、どうしたものかと考えた結果、特にストラップを付けられるような物も持っておらず、ポケットにしまい込んだ。

 西日がさらに傾き始めている。町は橙黄色に染まりかけていた。

「そろそろかな」

「ん? 行きたいところでもあるの?」

「十年前から来た僕でも、唯一連れていけるデートスポットだよ。単純に僕が行きたいだけなんだけどね」

 彼女は首をひねり、不思議そうに後を付いてくる。
 少し歩くと、鼻腔をツンと刺激する潮の匂いが漂ってきた。人によっては生臭いという人もいるが、僕はこの匂いが好きだ。
 彼女も行き先を察したようで、途中から「なるほどー。エモだねぇ」などと言いながら、僕の横に並んで歩いた。

「……着いたね」

 僕が言う前に、彼女が口を開く。

「うん。お気に召さなかった?」

「そんなわけないじゃん。私、()はすっごく好きだよ」

 視界を埋め尽くさんばかりの水平線が、眼前に広がっていた。西日に照らされた海面は、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。海鳥が黄昏の空を優雅に飛び、そのシルエットが海面を一直線に走った。
 少し離れたところの砂浜には、夕暮れ時だというのにも関わらず、多くの観光客がいる。
 人混みを避け、僕と彼女は芝生の広がる公園に向かう。一面、緑に覆われて、ぽつりぽつりと謎の彫刻がそびえたっている。少し身を乗り出すと、目の前には海が広がっていて、潮風を全身で浴びた。

「いやー、この公園いいよね! 夏の花火はここで寝っ転がって観るのが最高だよね! 幽霊くんもやったことあるでしょ?」

 彼女は海から目を離して、芝生に身体を投げ出した。両手を軽く開いて、目を閉じている。大きく鼻で息を吸って、満足そうに口から吐き出す。

「もちろん。この場所なら、花火はちょうど真上に来るから、昔はよくここで――」

 ふいに過去の記憶がフラッシュバックする。人混み。口に残ったりんご飴の甘い香り。振り向くと大の字で寝そべってこちらを見る女性。
 心臓が少しチクっと痛み、思いだすことをやめた。

「うん。花火……よく見てた」

 彼女に倣い、寝そべると、まるで海面の鏡かと思うような夕暮れの空が視界を支配した。大きく息を吸い込むと、汐の匂いが深く香り、鼻の奥をやさしく刺激した。まるで、身体が軽くなった気分だ。元々幽霊だから軽い、ということではなく、胸のつっかえが取れたような感覚。

「もしかしたらさ、私たち昔にこの場所で顔を合わせていたかもね」

「えっ?」

 真横に寝そべる彼女に目を向けた。どこか物寂しげにも見える彼女の横顔に吸い込まれてしまうんじゃないかと思った。彼女は空を見上げたまま続けた。

「もちろん十年前に私は生まれているし、君もその時は生きていた。ってことは、もしかしたらこの狭い町のどこかで、既に会ったことがあるのかもしれないね」

「……そうだね。無いとは言い切れない」

「でもさ、それってとても素敵なことだと思わない? だって、十年っていう長い時を経て、こうやってまた巡り合っているんだよ? 人によっては、それをロマンチックって言うんじゃないかな」

 ふいに彼女が顔をこちらに向けた。夕焼けで染まった頬と優し気な笑顔。視線が交差する。存在するのかも分からない、動かないはずの心臓が、一瞬だけ確かに飛び跳ねた。

 一瞬。本当に一瞬だけ、たぶん彼女に見惚れてしまった。
 彼女はただひたすらに美しく、儚く、素敵に見えたのだ。

「えへへ、照れるね」

 彼女が呟く。

「……別に」

 僕が呟く。

 彼女は「ふふっ」と声を漏らし、一気に身体を起こした。大きく伸びをして、僕を見下ろす。

「よしっ! 帰ろっか!」

 差し出された手を躊躇することなく握った。
 暗みを帯びつつある海を見渡し、そして背を向ける。

「―-ヨッくん?」

 ふいに、名前を呼ばれた気がした。
 名前は思いだせないはずなのに、確かに呼ばれた。“ヨッくん”というその響きが、僕を示しているのだと瞬時に気づいた。
 そして、僕を呼んだ目の前に立つ人物を見て、思わず目を見開く。
 カッティングの強い黒のパンツスーツに身を包み、下げたショルダーバックは目を向けると同時に芝生の上に音もなく落ちた。
 肩に少しだけかかったクリーム色の髪。内側に軽く巻いている髪型はゆるふわというようなイメージだ。ぱっちりとした右瞳の下には小さな泣きボクロがある。薄くリップの付けられた小さな口は、驚きを隠さずに開いたままだ。

 思わず、手を伸ばしかけた。十年経っても、瞬時に分かった。忘れるわけがない。会いたくて、会いたくなかった。

「彼羽……?」

 僕の口から、彼女の名前が零れ落ちる。
 彼羽の瞳から涙が溢れ出した。頬を伝う量は次第に増え、まるで雨のように燦々(さんさん)と降り注いでいる。
 思わず、僕も視界が歪んだ。
 不思議だ。幽霊でも涙が出るなんて。

「ヨッくん……」

 彼羽が名前をもう一度呼んだ。その名前を聞くたびに、身体が思いだせと激しく胸を揺さぶる。
 今すぐにでも彼羽を抱きしめて、温もりを感じたいのにどうしてか身体が動かない。まるで、本心ではそれを拒否しているような。
 彼女もまた、手を伸ばしかけて引っ込めた。嬉しくて――涙が出るくらい嬉しいくて、お互いに拒んだ。

「ねぇ、幽霊くん。この人って、どなた?」

 希が訝しげな視線で彼羽を見る。
 説明するべきかどうか、しばし悩んだ。説明すると言っても、どう説明したら良いのだろうか。確実に昔の知り合いで、友達以上の関係だったことは明白なのだが、お互いに拒む理由の説明が難しかったりする。

「……夢だ」

 僕が思案している最中、彼羽が呟いた。

「夢? 違うと思いますよ?」

 希が首を傾げる。
 彼羽は横に首を振った。そして、急速に暗くなりつつある空を仰ぐ。深く息を吸い込み、まるで潮の匂いを堪能するように吐き出した。頬を伝う涙が沈みかけの夕日で少しだけ輝いた。

「これは、夢なの。きっと。だって、そんなことありえないもの……」

 あり得ないこと。僕のことだ。そう、あり得ないのだ。でも、僕はこうしてまだ立っているわけで、あり得ないことが起こっているのだ。
 信じろ、という方が酷だろう。誰も、死に人が蘇るなんて微塵も思わない。願いはするが、叶わないことだと散々理解しているのだから。そんな夢見たいな現実に突き当たった場合、僕でもまずは自分を疑うはずだ。そして、たぶん夢だと信じて片付けてしまう。その方が、辛くなくて、悲しい思いをする必要がないから。

 案の定、彼羽は僕に一瞥をくれることなく、踵を返してしまった。去っていく彼女を、僕は止めることができなかった。いっそ、夢だと片付けてくれた方が楽だから。

「あ、待って……!」

 追いかけようと踏み出した希の手を、僕は初めて自分から握った。
 きっと、彼女は僕をふわっと浮かせて追いかけることができたはずだ。でも、彼女は僕が手を触れた瞬間、ピタッと足を止めて、そして、少しだけ驚いた表情で振り返った。

 言葉が出ない。説明も、ひとまず今はできそうにない。

「……帰ろう」

 結局、振り絞った言葉はデートの続きだった。