僕はあと一ヶ月で死ぬ。
もう、ろくに身体も動かない。
静寂に包まれた病室で、息苦しいマスクをつけて横たわる。腕には何本もの針が埋め込まれ、やせ細った身体はきっと見るに耐えないだろう。
享年十八歳。心臓の病気だそうだ。一年前に急に発病し、すぐさま余命宣告。
本当に笑えない。
目を閉じると、学校で教師の退屈な授業を怠惰な体たらくで受けていた日々が、今でも鮮明に蘇る。それくらい、急すぎる出来事だった。
病気が判明してからは、ずっと同じ病室で寝たきりの生活。正直、一年前に僕は既に死んでいると言っても過言ではない。
代わる代わる訪れていた見舞いの友人や知人も、いつからかめっきり来なくなった。病室を訪れるのは、医者と看護師、それと二日に一度の母親だけ。
ベッドの横に飾られた花瓶に咲く花が、ボトッと落下した。
不吉すぎる。でも、少なくとも僕はこの花より長生きができた。これでまた一つ、生きた証を自分の胸に刻むことができたのだ。
いつからか、世界から僕は隔離された。この病室は既に天国――いや、地獄である。身体だけが生きている。心は既に、死んでいる。
あぁ、早く死なないかな。
手が動くのであれば、今すぐにでも、この身体にまとわりつく邪魔なゴミを引きちぎって、ありのままの姿で死んでやるのに。
僕の人生は実にあっけない。
発病する前は、真っ直ぐすぎるほどの正義感の持ち主で、やたらとお節介だった。困っている人を見かけたら、すぐに助けてしまう。そんな少年。
それが今ではすっかりネガティブ思考になってしまった。昔読んだ小説のヒロインは、似た状況でも健気に周囲に笑顔を振りまいていた気がする。でも、現実はそうはいかない。人の心がこんなにも簡単に壊れてしまうなんて、思ってもいなかった。
――寒いなぁ。
身体が、心が、凍えるように冷え切っている。このままでは、心臓が止まる前に凍え死んでしまうかもしれない。
僕は想い出の中にある、温もりを求めて目をつぶった。
*
ふわっと身体が軽くなったような気がする。目を閉じた暗闇の中で、色々なものが取り払われた感覚を覚える。
僕はとっさに、死に際かな? と思った。
口を覆うマスクも、腕に差し込まれたいくつもの針も、何も感じなくなっている。
不意に鼓膜を激しく揺らす雑音が聞こえていることに気が付いた。蝉の鳴き声だ。
おかしいな、今は冬のはずだけど。もしかしたら、死の間に四季の概念などないのかもしれない。ただそれでも蝉の声だけは、はっきりと鮮明に耳を轟かしている。
暗闇を光が突き抜けて双眸を強く刺激した。顔が火照るのを感じ、うっすらと目を開ける。そして、差し込む強烈な日差しにすぐさま、再度目を閉じた。先ほどまでの暗闇に、チカチカと光の球体が浮かび上がる。
不思議だ。身体の自由が効く。指一本としてうごかせなかった身体が、まるで健康体そのものといった様子で、自在に動かせる。
そして、僕は確信した。――死んだな、と。
「よっこいせ」
身を起こし、周囲を見渡す。
コンクリートの地面、吹き抜ける生ぬるい風、雲ひとつない群青の空。そして、汗を滲ませて息を切らしながら僕を見下ろす一人の少女がいた。
「ここは……」
少女のことなど、気にもせずに口を開いていた。どうやら、どこかの建物の屋上のようだが、見覚えがあるような、ないような。
「学校!」
眼前の少女が一歩、歩み寄ってくる。
僕は彼女を呆け面で見つめた。白いワイシャツにベージュチェックのスカート、それと黒いローファー。ぱっと見で中学生ではないことは明白であったので、おそらく女子高生。たぶん、同年齢か、少し下というくらいだろう。透き通るような黒髪ロングで、若干幼さを残しつつも整った顔立ちをしている。身長は目算ではあるが、おそらく百五十ちょいだろう。どこにでもいるような、普通の女子高生だ。
「東第二高校の屋上!」
彼女は再び、付け加えるように言った。
「東第二高校……」
復唱するように呟く。間違いない、僕が一年前まで通っていた高校だ。
いきなり病気じゃないみたいに身体が軽くなり、夏を表すような炎天下の元に晒されて、挙句そこが母校の屋上。
思わず苦笑してしまった。
意味がわからなすぎる。
「やっぱり、死んだのかなぁ」
視界の端で少女が首を傾げる。
「何を言ってるの? 君、生きてるじゃん」
「僕、生きてるの?」
「生きてるよ」
「ふーん」
「ふーんって。変な人」
彼女は嫣然とした笑みをこぼした。
「私、水上希。ここの三年」
そう言って、彼女は僕に手を差し伸べた。その手を、僕は握らない。
「聞いたことない名前だな。僕も、一応まだ? ここの三年なんだけど」
「本当に? 私も君を見たことはないよ。名前は?」
「僕? 僕は……あれ? 名前、思いだせないや」
希は手を引っ込め、腕を組んで唸った。
「君、私をからかってるの? でも、同学年って百人ちょいしかいないから、流石にお互いに知らないって、なんだかおかしいね」
「まぁ、今さら学校なんてどうでもいいや」
「……? 夏休みだから?」
「今って、夏休みなの? 何月何日?」
「七月三一日だけど。君、記憶でも飛ばしてるの?」
やっぱり、おかしい。確か今は2020年、十一月の半ばのはずだ。病室にはカレンダーなどないので、正確な日付はわからないが、確かに外は雪が降っていたのは覚えているし、先日病室を訪れた母親は厚手のコートに身を包んでいた。
しかし、彼女は確かに七月の三十一日だといった。気でも失って、半年以上寝込んでいたとでも言うのだろうか。だとしても、屋上にほっぽり出されているこの状況は全く理解できない。
よく見ると、服装はなぜか彼女と同じ種類であろうワイシャツに黒の学生ズボンの姿であった。
「なるほど。夢、だな」
死んでいるか、それとも夢か。もはやその二択しか考えられないのだが、夢であるならば日差しや、コンクリートの感触が妙にリアルすぎる。
少し気になって、彼女に質問を投げかけた。
「ちなみに、今って西暦何年?」
「本当に変な人だね。今は2030年だよ」
「えっ?」
「ん?」
彼女の言葉を理解するのに相当の時間を有した。記憶と十年以上のタイムラグが存在している。だとすると、もし万が一にこれが死後の世界でも、夢の世界でもないのであれば、僕は十年後の未来の世界に来ていることになる。とても現実に起こったことだとは思えない。
彼女が訝しげに覗き込んでくる。夏の暑い風に長い黒髪がなびく。その吸い込まれるような大きな瞳に、不覚にも少しだけ見とれてしまった。
「綺麗だな」
思えば、目をさましてから初めて浮かんだ感情かもしれない。
正直な話、未来に行こうが、ここが夢の世界であろうが、どうでもいいのだ。どうせ、一ヶ月後に僕は死ぬのだから。
「何? 口説いてるの?」
「まさか」
彼女はクスッと笑った。
「君、やっぱり面白いよ」
再び、目の前に白く艶めいた手が差し伸べられる。
躊躇した。この手に触れた瞬間、もしかしたら夢から覚めてしまうかもしれない。思えば、人とこんなに話したのはいつぶりだろうか。そもそも、声が出ると言う現状に驚きを隠せないのは事実だ。
「ほら、立たないの……?」
希は手をクイクイっと上下に軽く揺さぶる。
数拍置いて、僕は彼女の手を取った。
温もりが、そこにはあった。
*
不思議だ。腹がすかなければ、眠くもならない。陽が沈む前から、一度たりとも体勢を変えていないというのに、全く違和感も、疲労感もない。確かに地面を感じるのに、まるでふわふわと宙を漂っているような、変な感覚だけがずっと続いている。
ふと、見上げていた雲の切れ目から星が覗いた。この世界は、彼女曰く十年後の世界らしい。
てっきり、死んでしまった僕が夢を見ているだけか、単純に天国や地獄のような場所だと思っていたが、どうやら違うような気がする。
この現状に的確な存在を当てはめるとするならば、幽霊というやつだろう。
あの時、目をつぶった僕はそのまま死んでしまい、十年後の世界で幽霊として再び現世に舞い降りた。完全な予測の範疇だが、今のところはこの説が一番しっくりくる。
それはそれで、昼間の少女が僕を知覚したことがやや引っかかるが、ありていで言うならばどうでもいい。
彼女は僕に手を貸した後、すぐに用事があるようで足早に去っていった。
「今、何時くらいだろ」
あたりは完全な闇に包まれている。山の上に存在する学校の屋上から一望できる街も、先ほどまでのような人工的な明かりはほとんど消え、蛍のようにぼんやりとまばらに色づく程度になっている。
夜は好きだ。正確には、一年前から好きになった。病気になり、床に伏してから妄想が趣味になった。あの漫画の続きはどうなるのかな、とか。気になっていたサッカーの試合はどちらが勝っただろうか、とか。些細なことではあるが、妄想しているときは心が落ち着く。
そういえば、こんな妄想もしたことがあったっけ? ――眠りから覚めたら、病気が治っていますように。
まさか本当になるとは思わなかった。病気が治ったといわれれば、そうではないのだろうけど、今の身体は病気の痕跡を全く感じさせない。
「どうでもいいか」
妄想していないときは、どうしようもなくネガティブだ。心にぽっかりと穴が開いている状態だと、どうやってもポジティブなことを考えられない。これも病気の代償なのだろう。
「いつ、死ねるのかな」
ふと、目を閉じてみる。身体の機能は全て停止しているような感じであるのに、どうして風がぬるく感じるのだろうか。鼓動は聞こえないのに、呼吸をしたくなるのはなぜだろうか。
目を閉じたまま、長い静寂を味わう。
やっぱり、眠くなる気配はない。
――二十九日。
ふいに、謎の言葉が脳裏に響いた。思わず目を開く。しかし、眼前の景色に変化はない。
二十九日とは何を示すのだろうか。二十九日後? 二十九日前? 二十九日間?
考えても無駄だ。分からないことだらけだ。
気が付くと、東の空が白けてきた。太陽は徐々に高くなり、やがて真上を通り越す。
校庭から、掛け声が聴こえてくる。部活か何かで、人がいるのだろう。しかし、屋上には誰も来ない。十年前は屋上は立ち入り禁止となっていたが、もしかしたら十年経った今でも同じ規則なのかもしれない。小さな共通点ではあるが、そうやってまた僕は同じ世界に降り立っているのだと認識を深める。
「また居るし」
突然、聞き覚えのある声が真上から降り注いだ。数時間以上ぶりに目を開くと、覗き込む黒髪の少女が目に入った。昨日と同じ、白ワイシャツにベージュチェックのスカート。変化があるとすれば、髪を束ねてポニーテールのようにしていることだろうか。
「君、昨日もいたけど、何してるの?」
差し伸べられた手を、僕は無意識に握っていた。身体が浮くように持ち上げられる。
「うわっ! 軽っ! 昨日も思ったけど、君って軽すぎない?」
彼女は驚いたように自分の手を覗き込んでは開いたり、閉じたりを繰り返す。
「無理もないよ。たぶん、僕は幽霊だから」
我ながら、突拍子もない発言だ。こんな馬鹿らしい話、誰が信じるというのだろう。
彼女が訝し気に頭の隅から足の先までじっくりと視線を這わせる。
たぶん、彼女は可愛いんだと思う。というか、結構人気がありそうな顔立ちだ。しかし、今の僕にははっきりと彼女が可愛いかどうかがわからない。
可愛いとか、カッコいいとか、好きとか、嫌いとか、そういう感情はいつからか無くなってしまっていた。妄想が好きだと認知してはいるが、好きだとハッキリ感じたのは、もう半年も前のことだ。いや、正確には十年と半年前か。
「幽霊? 君って、死んでるの?」
「たぶんね。最後の記憶は十年前だし、ここで一晩明かしても全く眠くならないし、疲れもしないんだ。だから、幽霊だと思ってる。勝手にだけどね」
「ふーん。確かにめちゃくちゃ軽かったし、手とか体温感じないくらい冷たいし、そうなのかもね」
「そうなのかもねって。僕から見れば、君の方がよっぽど面白いと思うよ」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「そうか、そうかー。幽霊くんか。でも幽霊なら見えないし、触れないんじゃないの? 私、普通に幽霊くんのこと見えてるし、触れたんだけど」
「そんなの、僕に聞かれたって知らないよ。というか、放っておいてくれないかな」
突然、腕をつかまれて、グイっと引っ張られる。反射的に身体に力を込めて抗おうとしたが、抵抗は空しく、僕の身体はまるで風船のように浮き上がる。例え霊体だとしても、女子高生に軽々引っ張り起こされるのは中々にショックだ。
「ダメダメ! 幽霊くん面白いから、私がもう少しだけ構ってあげる」
「はあ? ちょ、ほんとにやめて。大人しく死にたいんだって」
「なーにいってんの。もう死んでるんでしょ」
引きずられるように校内に連れ込まれる。引きずられるというか、完全に浮いてるんだけど。まるで、紙みたいだ。身体がペラペラと風に揺られている気さえする。
彼女は僕の腕をつかんだまま、教室に入る。
「春華―!?」
教室は夏休みということもあり、ほぼ無人であったが、彼女の入った教室には一人の女子生徒が教卓の上に座ってパンをむさぼっていた。
それにしても、一件素行が良くない風に見えるが、不思議な雰囲気を持つ女子生徒だ。無理してその仕草を取っているようなそんな感覚。机の上には教科書や参考書が積み上げられている。大方、夏休みの学校で受験勉強に勤しんでいたのだろう。
「んー? どしたの、希。ていうか、その人誰? 」
僕は今、確かに春華と呼ばれる女子生徒と目が合っている。彼女はしっかりと僕を見ている。霊体であるはずの僕を――
「おー! やっぱり見えるんだ!」
「そりゃ、見えるでしょ。いや、意味分かんないんだけど」
「あはは、そうだよね。何でもなーい!」
再び、成す術もなく廊下に引きずり出される。
「ほら、やっぱり見えるじゃん」
どうして、彼女がそんなに嬉しそうな顔をするのだろう。
「そうらしいね」
「うれしい?」
「いや、別にうれしくはないけど」
先ほどの春華と呼ばれていた人の様子を見るに、確かに僕は生きている人から見える幽霊らしい。そして、触れることもできる。まるで、実態がちゃんとあるみたいだ。でも、身体は女子高生が鼻歌を歌いながら持ち上げられる。
僕は一体、何者なんだろうか。
「まあ、いいや。じゃあこの後、私と遊んでよ。幽霊くんには予定なんて入ってないでしょ?」
「いや、遠慮しておくよ」
「えー!? どうして?」
「たぶん、僕といると楽しくないし、きっと不愉快にさせると思う。感情とか、すっごく薄いから」
「それは幽霊だから?」
「性格は、元からだけど」
彼女はにこっと笑った。僕のことをこれっぽっちも疑っていないそのあどけない笑顔が、僕にはやけに眩しかった。
「じゃあ、大丈夫だ!」
「何が?」
「楽しいよ! きっと!」
再び、彼女が僕の手を取った。やっぱり、温かい。彼女の手は、とても温かい。冷たい皮膚に彼女の熱が伝ってじんわりと包まれる。
「それに、君に拒否することはできないよね」
「おいっ!」
身体がふわっと浮き上がる。重力など、感じない。まるで空気のように簡単に持ち上げられてしまう。
その時、僕の身体に異変が生じた。
「あっ……!」
彼女は立ち止まり、僕の手を離して不思議そうにこちらを見る。
この感覚、確かに覚えている。でも、絶対に感じないと思っていた。だって、昨夜は何にも感じなかったのだから。でも、これは、確かに――
「おなかすいた……かも?」
彼女はまるで豆鉄砲をくらったようにキョトンとする。そして、若干の静寂の後に面白おかしそうに吹き出した。
「奇遇だね。私も、おなかがすいたな!」
*
もしかしたら、学校から出られないのでは?
そんな心配も杞憂なもので、あっさりと学校を出た僕と希は山を下り、町へと繰り出した。
十年後の町並みは思ったよりも変わっていなかった。潰れている店は多けれど、新しくできた建物などはあまりないようで、十年という月日をこの町では廃れたと表現するみたいだ。
海と温泉がまあまあ有名な観光地だが、十八年間育った身としては、特に魅力などない田舎街。いや、街ではなく、町だ。観光地なんてのは名ばかりだと思う。実際、山の中腹から下ってきて、海が見えるまで、大した飲食店など存在せず、結局、十年前にも存在していた古びたファミレスに行くことになった。
見覚えのある建物が見えて、あることに気が付く。
「あのさ、僕、お金持ってないんだけど」
僕の前を歩く彼女は、背負った紺色のリュックサックからピンク色の二つ折り財布を取り出して、自慢げに振り向いた。本当に笑顔を絶やさない人だ。
「むふふー。お姉さんに任せたまえ」
「お姉さんって、同い年なんだけど。それに僕が生きていたとすれば二十八歳だよ」
「細かいことは気にしなさんなって。ゆーれいくん」
僕の小言は彼女に全く通用しないようだ。ネガティブ思考な僕と彼女は正反対。そりが合わないのは最初から分かり切っている。別に彼女のような元気が良くて、困ってる人をためらわずに助けてしまいそうな人は、嫌いではないし、客観的に考えれば、普通に良い人だ。しかし、心まで病に侵されてしまったかのようなネガティブな思考が、無意識に敬遠してしまう。まるで、病気の前の自分を見ているようで、ある種の気持ち悪さすら覚える。
しかし、今現在頼れる人は彼女しかいない。いつ死んでもいいとは思うが、やはり苦しむのは出来れば避けたい。
彼女にそそのかされるままにファミレスに入る。
「何にするか決まった?」
「いや、悩んでる。これか、これ」
「おっ、やはり君とは腹の波長が合いそうだ。私もそれとそれで悩んでいたのだよ! ということで、シェアしよ!」
「相変わらず意味の分からないこと言うね」
彼女は僕の言葉を遮るように呼び出しのベルを押し、注文を済ませてしまう。
注文した品が届くまでの間、彼女はひたすらにしゃべり続けた。半分聞き流していたがどうやら彼女は僕に気を使って、この十年で起こった出来事などを話していたっぽい。しかし、正直な話、死んだ後に起きた事件など、興味を持てというほうが難しい。
簡潔に興味がないからもういいよと明言しようと思ったが、それはネガティブではなく、ただのぶっきらぼうな嫌な奴なので、半分はしっかりと聞いて、それなりに相槌を打った。
やがて、注文していた料理が届いた。パスタとハンバーグセット。なんてことないファミレスの料理だ。それでも、約一年間病院に閉じ込められて、病院食ばかり食べていた僕にとっては、とても魅力的なご馳走に見えた。
彼女も食べるという行為が好きらしく、一心不乱に料理を口に運ぶ僕と同じ速度で箸を進める。いや、実際は僕よりも早くに皿を綺麗にしてしまった。
料理を平らげた後、彼女は満足げに一息つく。
「しっかり食べないと、育たないぞ」
「死んでるんだよ、こっちは」
人の恩を受けながらにして、悪態をつくこのネガティブ思考に我ながらあきれてしまった。
*
胃が重たい。生きているときにも体感したことのある異変だ。
いや、今も幽霊として生きているわけだから、少し語弊があるのだろうか。前世? 生前? まあ、どうでも良いことだ。
闇の深まる学校の屋上で、一人謎の異変に悶々として、ようやく近しい現象が胃もたれだと思い出す。胃なのか、それとも他の臓器なのか分からないが、中腹部から下腹部にかけて、まるで漬物石でも乗っているような感覚に苛まれる。
実は、この異変はファミレスを出た直後から感じていた。それ以降、いくら時間が経とうが症状が消えるどころか、薄れる気配すらない。
何度も言うが、苦しいのは嫌いだ。十年前、一人で孤独と闘いながら苦しんだのに、どうして霊体になってまで苦しまなければいけないのだろうか。
もしかして、幽霊ってご飯とか食べちゃだめだったりするのだろうか? でも、食べないと今度は空腹で苦しむことになる。
この胃もたれのような症状がずっと続くのはごめんだ。原因はされど、ひとまず苦しいのであれば出してしまおう。排泄感などは全く感じない。つまり、出すとすれば上からだ。
校内に入り込む。田舎の学校だから警備員などいるはずもなく、夏休みなので残っている教員もいない。
真っ暗な校内。月明りを頼りにして、ゆっくり歩き進む。
「いや、怖すぎでしょ」
幽霊でも出るのではないだろうか。いや、幽霊は僕なんだけど。
幽霊が幽霊を怖がるという何とも滑稽なシチュエーションの中、何とか屋上から最寄りのトイレまでたどり着いた。電気をつけ、おそるおそる侵入する。
誰もいるはずがないのに、どうしてもきょろきょろとせわしなく周囲を見渡してしまう。
「そういえば、あいつとも一回、肝試しとか言って夜の学校に侵入したな……」
脳裏に浮かぶショートボブの少女。
僕のことはあだ名で呼んでいた気がするが、思い出せない。彼女の名前なら、いくらでも思いだせるのに。
「――彼羽」
この世界は十年後の未来だ。つまり、当時の僕の知り合いは十年の時を経て、今のこの世界に生きているということになる。現年齢にすると二十八歳。既に社会に出て、ある程度経過している歳だ。大半の者は、こんな田舎はさっさと抜け出して、都会に出ているのだろう。
彼羽の現在を想像しようとして――やめた。過去を振り返ってもいいことなどない。僕はただの幽霊だ。
便器にたまる水を見つめ、喉奥に指を突っ込んだ。何かが猛烈にこみあげてこようとしている。気持ち悪い。強烈な吐き気に抗うことなく、すべてぶちまけた。
「えっ?」
便器にふりまかれた吐しゃ物は、昼間ファミレスで取った食事だ。しかし、明らかにおかしい。どう見ても、消化されていないのである。咀嚼され、ぐちゃぐちゃではあるものの、胃液特有の鼻をつく臭いもしない。
おもむろに顎を引いて自分の腹を見た。
もしかして、この身体には臓器が存在しないのではないだろうか。詳しい理論、というかそもそも人体の構造をしっかり理解していないのでよくわからないが、胃が存在しなければ、もちろん摂取したものは消化されず、また腸などもないのであれば、この身体はただのカラッポの空の大きなタンクだ。
もしかしたら、臓器は存在するが機能を果たしていないだけ、という可能性もある。しかし、機能を果たしていなくとも、液体などはしっかりと下へ下へと流れていくのではないだろうか。
吐しゃ物を見るからに、明らかに液体も混ざっている。それに尿意なども感じない。
試しに息を止めてみた。十秒、三十秒、一分、三分。
「やっぱり、全然苦しくない」
もう、この身体に関しては何が何だか分からない。臓器はないのに、どうやら脳は存在している? いや、もしかしたら脳すらないかもしれない。でも、脳がなかったら、そもそも思考することも身体を動かすこともできないのではないだろうか。
しばらくその場に固まるが、考えることをやめた。そもそも、十年後にタイムスリップという話が元々、科学的に理解できない話である。いまさら人体の異変とか、なんだとか、考えるだけ無駄だ。
僕は生きることを望んでいるわけではない。何がしたいわけでもない。別に死にたいとか言ってるわりに、死ねないのであれば、それはそれでいいのだ。
でも、生きることに意味は見いだせない。生きる屍とは、まさに今の僕にぴったりの言葉だ。
僕は一体、何を求めているんだろうか。
どうして、十年という時を超えて、目覚めたのか。
――二十八日。
ふいに、脳裏に文字が浮かんだ。
*
「幽霊くんってさ、ずっとここにいるの?」
「そうだけど?」
「えっ!? じゃあ、私といるとき以外はずっとここにいるの?」
「……そうだけど?」
「うひゃー! 信じらんない」
僕が十年後に来て、五日が経過していた。日付が変わるごとに浮かぶ数字は、毎日一ずつ減っている。
たぶん、僕が存在していられるタイムリミットなのだろう。数字がゼロになったとき、どうなるかは、分からない。たぶん、そのまま存在が消えてなくなる――世間的には成仏するか、それとも十年前に戻ってしまうか。個人的には後者は嬉しくはない。また、一か月間苦しまなければいけなくなる。
そこまで考えて、ふと思いついたことがある。僕は十年前、余命一か月であった。そして、この世界に来てからのタイムリミットも一か月。つまり、身体に異常がないからとはいえ、一か月後に僕はどうやっても死んでしまうのではないだろうか。
……別にいいけど。
五日の内、三日は希と顔を合わせている。いや、今日を合わせると四日間顔を合わせていることになる。
彼女は物好きなのか、僕の正体が幽霊だと分かってなお、普通にふるまう。そして、今日も立ち入り禁止のはずの屋上に来て、自然と僕の横に足を投げ出して座った。
彼女が昨日、姿を見せなくて分かったことがある。彼女が来ないと、空腹を感じないのである。人と一緒にいることで空腹を感じるのか、それとも彼女といるからなのか。それは定かではないが、深く考えるだけ無駄だ。なんせこの身体は、訳が分からないことだらけなのだから。
「……君、友達とかいないの? ほぼ毎日来てるけど」
「えっ? いるよ、友達。っていうか、幽霊くんと私ももう友達じゃん」
「そういうもんなの?」
「そういうもんだよ」
幽霊と友達になるって、幽霊の僕が言うのもなんだけど、絶対におかしい人だ。
「じゃあどうして夏休みだっていうのに毎日学校へ来ているの? 部活とか?」
僕の問いかけに彼女の表情が一瞬曇ったように感じた。それは気のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。
「部活じゃないんだけど、まあ色々あるんだよJKには」
「答えになってない気もするけど、まあそもそもたいして興味ないし、それでいいや」
「お兄さん、その態度は女の子にモテませんよ」
彼女は膨れっ面でいじけたように髪を弄る。
「それに幽霊くんのことも気になっていたからね。でも、今日から三日間は学校にいないほうがいいよ」
「なんで?」
「野球部が合宿で学校に泊まるらしいからね。夜は屋上でバーベキューをするんだってさ。君、幽霊だけど皆からは見えるからねぇ」
彼女の話が本当であれば、今日からはどこか、他の人が来ないところで夜を明かさねばいけない。どうせ息が苦しくならないなら、いっそのこと海の中で過ごしてみるのも面白いかもしれない。見つかったら水死自殺と間違えられて、大変な目に合うかもしれないけれど。
希が覗き込んでくる。最近では、彼女の顔を無遠慮に見つめることができるくらいには、環境の変化に慣れてきた。
初見の時、直感的に彼女はそれなりに可愛いと思ったが、実際にまじまじ見てみると、やはりかなりの美少女だ。毎日、日差しの強い屋上に数時間いるとは思えない程白く透き通った肌に小柄で若干の幼さが残る顔立ち。清楚とはまた違うけど、たぶん男にも女にも好かれるそんな気配。
「幽霊くん、行く当てあるの?」
「特に無いけど、探せばあるでしょ。最悪、墓地にでもいれば見つかっても、幽霊としての役割は全うできるし」
「幽霊くんって、時々面白いよね。もしかして、狙ってる?」
「そんなわけないじゃん。っていうか、君はいつまで僕にかまうの? せっかく、JK最後の夏休みなんだから、こんなよくわからない幽霊に付き合ってないで、彼氏の一人でも作れば?」
彼女は少しだけ驚いたように顎を引いた。
「無理、無理ー。私、確かにそこそこモテるけど、なんかみんなピンと来ないんだよね。ハートに響かないってやつ。付き合ったら、付き合ったで、どうせ男の子はすぐにエッチなことばっかり考えるんでしょ!」
「思春期の男子なんて、皆んな似たようなものだと思うけど」
「幽霊くんもそうだったの? あ、もしかして今も?」
彼女は少しふざけたように両手を交差させ、自分の肩を抱いた。
「生きてたら、そうだったかもね」
数秒の沈黙。
彼女がおもむろにぺちっと僕の手をたたいた。二度、三度繰り返す。
「何してんの?」
「うーん、私からしたら、君は生きてるんだよね」
「そうかもね。生きてるのか、死んでるのか、僕でも分からないよ。でも、どうせ八月いっぱいで僕は死ぬよ。今度こそ、絶対に」
「えっ? 幽霊くん、死んじゃうの?」
僕は暇だったこともあって、今の現状を彼女に話した。なんとなく、彼女であれば、他の人には言いふらさないと思った。というか、僕のことを他の誰にも話していないようだし、大丈夫だろう。
一通り説明し終わると、彼女はうつむいて沈黙をつくった。もしかしたら、気を悪くさせてしまったのかもしれない。
突然顔をあげた彼女が僕の手をガシッと握った。
「じゃあ! 思いっきり楽しまなくちゃ!」
「は? いいよ、そういうの。別にやり残したこととかないし」
嘘をついた。やり残したことがない――わけではない。でも、それを彼女に話すつもりはない。話したら、きっとどうにかして実現させようとする。
僕はそれを望んでいない。
「じゃあ、私と幽霊くんはひと夏の淡い関係になっちゃうんだね。寂しいなぁ」
「君が僕の前に来なければ、淡い関係にすらならなくて済むよ」
「おいおーい。友達にそういうことを言うもんじゃないぞ」
「僕はこっちに来てから友達をつくった記憶はないよ」
青空を見上げていたにも関わらず、隣の彼女が口をへの字に曲げるのが分かった。
「カッチーン。今のはちょっとだけ私でも怒っちゃったぞー。よし、決めました。幽霊くん、今日から私の家に泊まりなさい」
「えぇ?」
僕の返事を待つこともなく、彼女は例のごとく僕を紙のように持ち上げた。
「ちょっと待って。なんで、そこまで僕にかまうの?」
階段をものすごい勢いで駆け降りる彼女に問うた。彼女は振り向くことなく答える。
「だって、幽霊くんは私と一緒に住んでても、襲ったりはしないでしょ?」
「当たり前じゃん」
「じゃ、そういうこと!」
「どういうことだよ……」
きっと、本気で拒めば彼女は無理強いはしないだろう。しかし、実際今日の夜を過ごす場所を探すのは面倒だ。それに、彼女との食事は、不覚にも少しだけ楽しいと感じた。気のせいかもしれないくらい、淡く、小さな感情だったけれど。それでも、ささやかな感情の波が僕の背中を押すのである。