中学二年のあの日々が、俺の記憶に焼きついて今も火傷のように残っている。






「星藍先輩って後輩にも優しくて、困ってると声かけてくれるし、こないだなんてね」

隣を歩くクラスメイトの木崎さんは頬を紅潮させながら、一学年上の先輩の話をしてくる。

ちなみにこの話を聞くのは二度目だ。
水を差すのも悪い気がして、俺は相槌を打ちながら話を聞いていた。


星藍先輩というのは、俺たちと同じ図書委員で周りからなにかと頼られている人だ。

クセのない長い薄茶色の髪に、大人びた柔らかい笑みが印象的な人で、特に女子たちからは憧れられているんだとか。



「あ! せんぱーい!」

俺の隣で熱心に話していた木崎さんは、星藍先輩を見つけると一目散に駆けていく。
どんだけ好きなんだ。と呆れつつも、まあ確かにあの人が周りから好かれるのはわかる。


木崎さんたちに続いて図書室に入ると、俺の目の前は木崎さんが座り、斜め前には星藍先輩が座った。

図書委員会は他の委員会と比べると集まりが多く二週間に一度で行われていて、いつのまにかこれが定位置になっているのだ。
楽な委員かと思ってたのに案外やることが多くて面倒。こんなんだったら引き受けなきゃよかった。

先輩が俺を見ていることに気づいて、「どうかしたんすか?」と首を傾げる。


「一条くん、今日は早いね」
「また遅刻すると、本の整理やれとか言われちゃうんで〜」

へらへらと笑いながら答えると、星藍先輩に微笑まれた。
作られたように綺麗な表情は本心が見えなくて、探るように見つめてしまう。


「私は一条くんがこの間手伝ってくれたから助かったよ」
「えー、それ俺にまた遅刻しろって言ってます?」
「そう聞こえちゃった?」

星藍先輩は悪戯っぽく目を細める。
冗談なんて言わなさそうなのに、こんな反応もしてきて掴めない人だ。


「そうだ、加蓮ちゃん。この間、教えてくれたお店行ってみたの」

隣に座っている木崎さんを見やり、星藍先輩が話題を振る。すると木崎さんの表情が一気に明るくなった。


「え! 本当ですか! どうでした?」
「すごく可愛いものがたくさんあって、一時間くらいどれにするか迷っちゃった」

前にした話も覚えていて、相手の顔色を常にうかがいながら喜ぶ言葉をかける。そんな先輩を見ていて、さすがだなと思ってしまう。

周囲を見渡してみると、先輩に好意を寄せていそうな男子もちらほらいる。

だけど、なんとなくこの人は気づかないフリをするのが上手い人な気がした。

木崎さんも「星藍先輩って全く告白されないって言ってたんだけど、信じられない。私が男だったら絶対好きになってる!」と言っていた。


この人の場合は、モテないんじゃない。あえて告白されない空気を作ってモテないと見せかけていると思う。







委員会が終わり、すぐに帰ろうとしたところで何故か担任が俺の元にやってきた。


「一条、お前これやって提出な」

渡されたプリントには、「英語小テスト」と書いてある。


「イチジョーくんがんば〜!」

木崎さんは鞄を肩にかけてにやりと笑ってきた。
担任は眉を寄せて木崎さんに「お前はギリギリだったからな」と不機嫌そうに言い放つ。


「やったー! ギリギリバンザーイ」
「あと木崎は今度遅刻したら問答無用で補習。森井にも言っとけ」
「はいはーい! じゃ、再テストがんばれ〜!」

逃げるように木崎さんが去っていき、担任が困ったようにため息を吐いた。
木崎さんたちのグループは遅刻が多いからある意味問題児として見られているらしい。

俺なんて無遅刻無欠席だし、ちょっと英語が苦手なだけなのに。


「ほら、一条座り直せ」
「せんせー! 無理無理! 俺無理だってー!」
「無理じゃなくてやるんだ。お前この小テスト、一週間前にやったやつだぞ」
「一度やったならもういいじゃん!」

もう一度小テストしろなんて、絶対に勘弁だ。
けれど担任は、青くなっている顎をさすりながら口をへの字に曲げる。


「名前しか書いてなかっただろ。やり直し」
「無理ー! 俺一生日本で生きていくもん」
「いいからやれ、学生の義務だ」

首根っこを掴まれて、強引に再び図書室の椅子に座らせられた。

他クラスのやつらは、そんな俺を見て「拓馬どんまい」とか言って笑いながら帰っていく。

最悪だ。委員会が終わったら即行帰って、清春とサッカーやろうと思ってたのに。


「あ、やべ。ちょっと用があるから、俺は外すけど絶対帰るなよ。後で見にくるからな」

この隙に帰ってしまおうかと思ったけれど、まだ図書室にいた星藍先輩に担任が「こいつ見張ってて」と声をかけてしまった。


「わかりました」

星藍先輩は嫌な顔をせずに頷く。
放課後の貴重な時間を、俺の見張りなんかに使っていいのか?


「一条、逃げるなよ」

担任は念を押してから、図書室を出て行く。逃亡するわけにもいかず、放課後の時間が潰れることを心の中で嘆きながら頭を掻く。

……仕方ない。やるしかないか。


先輩は俺の目の前に座ると、じっと見つめてくる。さすがの菩薩のような対応を常にしている星藍先輩でも不満のひとつでも言ってくるかと覚悟をして、へらりと笑う。


「いやー、そんな見つめないでくださいって。見張りっていってもそこまでする必要ないっすから」
「一条くんって、真面目だね」
「は? え……真面目だったらこんなことになってないかと」
「不真面目だったら、ここには座らずに帰ってるよ」

それは確かに。納得した俺に、星藍先輩は「素直だね」とおかしそうに笑った。

なんだ、こんなふうに笑うこともあるのか。
星藍先輩はいつだって、穏やかで周りを見ていて、笑うときだって計算されているように見える。

だけど今のは、本当に笑っているように感じた。
……それすらも計算なのかもしれないけど。



英語の小テストをやり始めて三問目にとりかかったところで、細い指先がプリントに伸びてきた。


「スペル違うよ」

さらりと髪の束が流れ落ちて、星藍先輩が耳にかける。そして伏せられていた長い睫毛が持ち上がり、視線が交わった。


「ほら、ここaだよ」
「さすが先輩。どーも、ありがとうございます」

見惚れてしまったことを隠すように笑いながら軽い口調で返す。

妙な反応をして気づかれたくない。だけど、この人にはほんの些細な言動で簡単に見透かされそうで怖い。


勢いよく図書室のドアが開かれて、びくりと肩が跳ねた。

担任かと思ったけれど、訪問者は男子生徒だった。そしてその意外な人物に目を見張る。


「星藍」

親しげに名前を呼んだ男子生徒は、俺のことを横目で見ると、すぐに視界から消すように逸らしてきた。

そして「これ、仁華が借りてたやつ」と言って、星藍先輩にノートを渡す。

この男子生徒——瀬戸先輩と仁華という人は、三年生で有名なカップルだ。
幼なじみでずっと両思いだったとか。見た目も華やかなふたりだから憧れている人も多いらしい。

彼女が借りたものを、彼氏が星藍先輩に返しにきたということか。それにしても距離感が近い気がする。



「てか、なにしてんの」

この男は誰だとでも言いたげな態度に、俺はどうしたものかと星藍先輩を見た。



「勉強教えてるの」

あまりにも淡々と言葉を返した星藍先輩は、普段とは違って笑みがない。

そのことに俺は驚いて、じっくりと観察してしまう。
この人が話しかけられても笑顔を作らないのは珍しい。


「勉強って、なんで星藍が?」
「教えたいから」
「へー……お前って面倒見良いもんな」

正しくは先生に頼まれたから、なのだけど星藍先輩はそれを言わずに冷たい態度を取り続けている。


「こないだ貸した本、受け取りに行けるタイミングがあったら連絡して」
「……わかった」

瀬戸先輩は俺を軽く威嚇するように睨んだ後、図書室から出て行った。まるで付き合っているふたりの邪魔をしたような微妙な気分になる。

俺はため息を吐いて、言うか言わないか迷った言葉を口にする。


「そういうの無謀ってやつじゃないっすか」

とぼけられるか、怒らせるかどちらかだと思ったけれど、星藍先輩は小さく笑った。


「気づかれると思わなかった」

それは多分、俺がこの人を見ていたからだ。
星藍先輩には不思議な吸引力がある。目で追わずにはいられなくて、だけど分厚い壁があって近くには寄れない。

でも今は、その壁が消えている気がした。


「だけど半分正解で、半分不正解」
「どういうことっすか?」
「特別な人だけど、恋愛感情かって言われるとよくわからないの」
「俺には好きに見えましたけどね」

星藍先輩があの人を意識しているようにしか見えなかった。

誰にでも優しい人が、あんな態度をとるのは関心があるからだ。それに無謀という言葉に反応を示したということは、自覚があるのだと思う。


「好きになってほしいって望んでないからいいの」
「望んでないって、彼女がいるからってことっすか?」
「それ以前の問題。同じ想いをほしいなんて、欲張りだもの」
「えー……よくわかんね〜」

普通は好きになったら、振り向いてほしいものなんじゃないか?

星藍先輩があからさまに態度が冷たかったのはわざとだ。

俺といるから瀬戸先輩に素っ気なくしたのだろう。



「嫉妬させようとしたくせに、望んでないなんて言い訳じゃないっすか」
俺を使ったくせにと、指摘してみると星藍先輩は口角を上げた。


「嫉妬する彼が間違ってるの」
「まあ、それはそうっすね」

彼女がいるくせに、別の女に意識が向いているなんておかしなことだ。
だけど星藍先輩の思惑にまんまと引っかかっていて、掌で転がされていることは本人も気づいていないのだろう。


「ずいぶん親しげだったじゃないっすか」
「家が近いの。別に幼なじみってほどでもないけど、そんな距離感で接してくるだけ」

あのふたりほど付き合いは長くはないらしい。けれど、家が近所なため頻繁に瀬戸先輩とも彼女の方とも会うことが多いそうだ。


「関係を崩したくないから、言わないんですか?」
「面倒なことになりたくないだけ」

瀬戸先輩と彼女の仲を引き裂けば揉めるため、自分の気持ちを押し込んでいるのかと思った。でもそれだけではないらしい。


「ただ少し、彼に惹かれたのは自由でいいなと思ったの」
「いやぁ……瀬戸先輩は奔放すぎじゃないですか」
「そうだね」

作ったような笑みに、俺は眉を寄せる。
星藍先輩は瀬戸先輩のなにに惹かれているのか、理解できない。見る目ないなと呆れてしまう。


「あの人と付き合えたとしても、どうなるかわかりきってるから。だから想いなんていらないの」
「あー……知ってたんすね」

女子たちの間ではほとんど知られていないけど、男子たちの間では瀬戸先輩は浮気性と知られている。本命の彼女がいても、他校の女子たちと遊びまくっていて不誠実な人なのだ。


「知ってるなら、なんであんな男が好きなんっすか」
「私に期待しないところ」

意味がわからななくて首を傾げると、星藍先輩は困ったように眉を下げる。


「一条くんは学年が違うからピンとこないかも」

後輩に憧れられている星藍先輩は、同級生たちからも羨望を向けられているのだろうか。


「困ったことがあれば、私に頼れば大丈夫。そうやってみんな押し付けるから」

先ほどの担任のことが頭をよぎる。もしかしたら他の生徒だったら、あんな風に頼んでいないかもしれない。

星藍先輩なら言う通りにしてくれる。期待を裏切らない。そう周囲に思われていることが、この人にとってはプレッシャーということなのか。


「なら、そういう自分をやめたらいいんじゃないっすか」
「そうだね。そう思うこともあるけど……捨てられないの、自分を」

周りから頼られている自分が好きで、だけどそれに押し潰されそうになることもある。

そう呟いた星藍先輩は寂しそうな表情をしていた。



それから俺は時々星藍先輩に勉強を見てもらうことになった。というのも、小テストをやらされたとき先輩が教えてくれたお陰もあって、かなりいい点数を取れた。

そしたら担任が今度まだ教えてやってくれなんて、受験生の星藍先輩に頼んだのだ。


断ることもできたはずなのに、星藍先輩は律儀に俺の勉強を週に二回みてくれている。

俺が彼女の好きな人に気づいたからか、時折瀬戸先輩の話をこぼすようになっていた。



「周りにとっては最低な人でも、私にとっては支えみたいな人だから」

星藍先輩を通して聞く瀬戸先輩は印象と違っていた。

女癖が悪いのは間違いないけれど、星藍先輩には絶対に手を出さない。

星藍先輩が家のことで悩んでいると、必ずといっていいほど駆けつけてくれる人は瀬戸先輩で、息抜きにといろんなところへ連れ出してくれるらしい。

下手に励まさず、ただ気分が少しでも晴れることを一緒にしようと言ってくれる。
傍にいるだけで、触れることすらないそうだ。


なんとなく、聞いていて思ったのは、瀬戸先輩は星藍先輩との関係を壊せないのではないだろうか。
この人は瀬戸先輩のことが好きだけど、恋愛そのものを避けているように感じる。


好きだと言ってしまえば、去っていく。
そんな気がして、瀬戸先輩は触れることすらできないのかもしれない。

だとしても、彼女を作ったり女遊びをするのは最低なことには変わりないけど。


「……星藍先輩は恋愛が嫌いなんですか」

俺の言葉を聞くと、表情が消えた。
今、きっと聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。


「私は恋愛感情って不確かで、信用できないの」
「それって、自分の感情すらもってことですか?」
「うん。実際仁華と付き合いだして距離が少しできてからは前ほど意識しなくなったから」

目を伏せて星藍先輩の長い睫毛が影を作る。

想像している以上にこの人が抱えているものは根深くて、自分すらも信用することを恐れているのかもしれない。

俺の視線に気づいたのかゆっくりと睫毛が上がり、黒い双眸が向けられた。



「恋愛なんてするもんじゃないって、よく私の父も祖母も言ってる」
「えーっと、それは心配だからとか?」
「違うよ。あの人たちは世間体しか気にしてないから。あとは……単純に私の存在が気に食わないの」

さらりと言うけれど、家族の存在を気に食わないというのは引っかかる。瀬戸先輩が気にかけている家庭の問題は、このことと関係があるのだろうか。


「私の親、離婚してるの。珍しいことでもないけど、母が大分奔放な人だったから」

今は星藍先輩はお父さんに引き取られていて、祖母と三人暮らしらしい。
離婚の原因はお母さんの浮気だそうで、祖母はそのことを恨んでおり、星藍先輩を厳しく育てているのだそうだ。

男にだらしなくならないように学生のうちは付き合うなと、それよりも学をつけなさいと、日頃から様々なことに口を出してプレッシャーをかけてくるそうだ。


「最近では痛みもよくわからなくなっちゃった。私、おかしいのかも」
「痛みって、暴力振られてるってことですか?」

先輩は肯定も否定もしなかった。だけど目立った外傷も特にはない。見えないところでなにかされているのかもしれない。

放っておくべきことではないと内心焦っていると、頻繁に暴力を振られるわけではなくて言われたことができないと叩かれるだけだと説明される。

けれど、それも受け入れがたいことだった。



「痛みって、物理的なものじゃないの。……あの人たちは私の心を何度も刺すから、もうなにが悲しいのかよくわからなくて」

学校でも家でも押しつぶされそうなほど周りからの言葉に耐えている彼女は、いったいどこで心を休めているのだろう。

なにか気の利く言葉をかけたいのに思い浮かばない。

黙りこんだ俺に星藍先輩は申し訳なく思ったのか、気にしないでとにっこりと微笑んでくる。


「ごめんね、話しすぎたね」

そして、それ以来家の話をしなくなった。