あれだけきつく当たったのだ、よく分からない女との関係はそれで終わった。そのはずだった。
「潮!」
「何」
いきなり肩を組んできたのは、クラスメイトの山本だ。平安貴族にでもなったつもりなのか手で口元を隠していたが、三日月のように細められた目元から、山本がにやけていることは明白だった。
「お前も隅に置けないよなぁ」
「だから何がだよ」
平安貴族の次は海外映画の登場人物にでもなったつもりなのか、わざとらしく肩を竦めてやれやれといった様子で首を左右に振った。
「ほら、6組の榎本蛍ちゃん」
山本の視線がちらりと教室の後方にある扉に向けられた。そこには例の女が立っていた。あちこちから向けられる視線に居心地悪そうにしていたが、目が合えば小さく会釈をしてきた。昨日の図々しさはどこへやら、借りてきた猫のように大人しい。
「良いなぁ、いつの間に仲良くなったんだよ」
「あいつ有名なのか?」
「なんか色気あるし可愛いじゃん」
女の子はみんな可愛いけどね、と山本はおどけたような口調で続けてから「ほら待ってるから早く行って来いよ」とぐいぐい背中を押してきた。睨み返しても空気を読んで帰るつもりはないらしい。文句の一つでも言ってやろう、そう思って仕方がなく扉の前で待つ女、榎本蛍のもとへと向かった。
「何」
「ごめんね、ここだとちょっと......少し移動しよう」
他クラスの異性から呼び出されるという状況をどうやら告白と結びつけたらしい。教室に居るやつらの関心はこちらに向けられているようで、聞き耳を立てる気配や、視線を感じた。榎本蛍もそれを感じ取ったらしく、声をひそめながら提案してきた。
サイアクだ。教室を出ると一気にむわっと熱された空気がまとわりつき、自然と重くなる足を引きずるようにして歩いた。廊下の突き当りまで移動するとようやく足を止めた。
「これ」
「捨てたの見てただろ」
差し出されたのは昨日ゴミ箱に捨てたはずのノートの一ページだった。破り、握りつぶし、ごみ箱に捨てたところを見ていただろう。ゴミだと分かっていながらこいつは拾い、しわを伸ばし、わざわざ返しにきたらしい。随分とめでたい思考をしている。呑気に笑っているこいつを見ていると無性に腹の奥がかき混ぜられているような不快感に襲われた。
「ただのゴミだから捨てとけ」
「何で」
「こんなものに価値はねぇ」
「私にとっては価値ある」
もう一度奪ってぐしゃぐしゃに握りつぶす。受け取ると信じて疑わなかったのだろう、目を丸くしたかと思えばすぐに目じりを吊り上げてなぜそのようなことをするのかと非難めいた声で問いかけてきた。ただの落書き、しかも書いた張本人がゴミだと言っているのに、なぜこいつが怒るのか。全く理解が出来ない。分かり合えない存在とのやり取りはストレスがたまる。自らストレスを感じに行くなんて馬鹿のすることだ。
「用件がそれだけならもう良いだろ」
返事を待たずに踵を返した。立っているだけでジワジワと滲む汗、一生揃うことがない蝉の合唱、焼き殺す気かと言いたくなるほど強い日差し、どれも煩わしくて苛立ちを強くさせた。
「今日、放課後、美術室で待ってるから」
それ以上に俺を苛立たせたのは、榎本蛍だった。あの真っすぐな瞳が大嫌いだ。
「告白だった?」
教室に戻れば山本が待ってましたとばかりに寄ってきた。他のやつらも視線こそこちらに向けないものの意識だけはこちらに向けられているのが分かった。
「違う、ゴミ押し付けられただけ」
否定をすれば「なにそれ」と笑ったがすぐに関心がなくなったようで、それぞれ元の会話に戻っていった。人の関心なんてそんなものだ。ようやく居心地の悪さから解放された。