「次の夏はさ、海とか行こうよ」二人きりのデートの中で、やっとの思いで取り付けた来年の約束。
「いいよ」って美波の返事に浮き足だって、ほんの少し見せた寂しそうな笑顔に、気がつくことができなかった。

 
 個人メドレーの最終種目は自由形。
 自由形って言いながら選手のほとんどが同じフォームで泳いでいく。
 刻一刻と迫る最後の壁までに、どれだけタイムを縮められるか。隣のレーンなんて気にしてられない。
 自分の限界まで手足を動かして、一分一秒でも早く辿り着けるようにともがく。
 我が水泳部きってのエース、泳ぐための名前。
 そのエースの耳に、心に届くようにと声を振り絞って、手が真っ赤になるぐらい叩いて声援をおくる。

 大会前の大切な一日。その一日を俺との時間に費やしたところで、美波の成績に大した支障はない。
 もちろん、そのたった一日を練習に費やしたところで、俺の成績にも大した支障はない。

 中学最後の大会も、美波は県大会入賞。俺は地区大会敗退。
 俺だけじゃなくて部員のほとんどが俺と変わらない成績で、我が校において美波が極端に強いだけ。
 それでも、たった一人でも県大会に出れられるのが、個人競技の良いところで、美波を応援するために県大会の会場にくるのも三回目だ。

「美波ー。お疲れさん」

「これで終わりかぁ。なんだか寂しいね」

 会場から帰る電車の中で、普段と変わらない会話。
 たった一日のデートは、結局俺と美波の間には何の変化も与えてくれず、メッセージアプリの画面は未だに白いままだ。

 大会を最後に、水泳部としての活動期間は終わる。その後は、決まり切った受験生に戻るだけ。
 プールの中で水に潜っていた日々が、自分の部屋で、参考書の波に潜る日々に変わる。
 俺だけじゃない。美波だって、他の三年生だってきっと同じような時間を過ごしてる。
 そう信じて形だけでも机に向かう。
 次に美波に会えるのは、引退式だ。


 俺たちの引退式は、夏休み最後の登校日。プールサイドに並んで、顧問のありがたくもない長話を聞いて。「ありがとうございました!」なんて言いながらプールに向かって頭を下げる。
 誰一人として何の感情も動いてないのがわかる白けた場。

 そりゃそうだ。俺たちはまだまだ卒業しないし、後輩とだって、校内ですれ違う。
 本当に込み上げるものがあるのは、卒業式の当日だろうか。
 その場を冷ややかな空気が取り巻いている中、耳に届いたのは誰かが鼻をすする音。
 泣いてるのか?!
 思わず辺りを見回せば、涙を堪えていたのが誰か、すぐにわかる。

「美波ー。泣いてんの?」

「たかやっ。うるさいっ!」

「涙は卒業式までとっとけって」

「いいじゃん! 何だか泣けてきちゃったの!」

 美波の涙につられるように何人かの女子が涙を流してたけど、やっぱり美波が一番可愛いよなぁ。
 こんなふざけた考えしてるのは、俺だけだろうな。

 美波の涙が引退式にそれらしさを付け加えて、俺たちは三年間の水泳部活動に終わりを告げた。
 もう、今までみたいに美波と気軽に話せる場もなくなる。
 クラスメイトですらない俺と美波の接点は部活内だけだったから。
 優等生の美波と劣等生の俺。
 釣り合わないって、ふさわしくないってそう言われてるような周りの視線が痛い。
 プールの中で、夏の太陽の下で、少しだけ浮かれただけ。
 その夏も、もう終わる。

『また、かき氷食べに行かない?』
 夏が終わる前にもう一度、女々しい誘い文句を親指で打って、いつものように消して。
 自分のベッドの上に寝転んで、もう何度繰り返しただろうか。

 メッセージアプリのグループ一覧。一番上は水泳部だ。今年のグループも、もう必要なくなる。もうメッセージが送られてくることのないグループトークを、つい開いてしまった。
『美波が退室しました』
 目に入ってきたのは、無機質なその言葉。
 誰かがグループから抜ければ、その人がいた足跡のように、表れる言葉。
 これまでだって、何人も見てきた。
 通知もないままのその言葉は、いつだって静かに見つけてもらえるのを待ってる。

 引退式だって終わった。
 俺だって、もう必要ないグループだってわかってる。
 でも、まさか、美波が引退式のその日に抜けるなんて。
 慌てて美波とのトーク画面を開く。
『グループ、もう抜けたの?』
 いつもよりも冷えた親指が、何度も打ち間違えながら、スマホに載せた。
 いつものように消してしまいそうになる親指をぐっと堪えて、送信ボタンへと動かす。

 まるで25mを泳ぎ切った後ぐらい、息が上がって、心拍数が上がって。
 目を瞑って、息を止めて。
 初めて、トーク画面に言葉が載った。

 きっと、時間にして数秒のことだ。
 浮かび上がった『既読』の文字。
 美波が、俺のメッセージを読んだことがわかる。
 それから、何秒待っても、何分待っても、返事はない。
 いつも、どうだっていい言葉にだって健気に返事をする美波の既読無視。
 「既読スルーされるのって、寂しいもん」そんな美波の言葉が、頭の中に響き渡る。

『電話、していい?』
 美波からの返事がもらえれば何だって良かった。
 美波が言葉を返さないわけにはいかない文章を打ち込んだ。
 浮かんだ『既読』の文字と、その下に続くOKのスタンプ。
 それを見た途端に、俺の親指は、美波に電話を繋げた。

「美波? 突然電話してごめん」

「ううん。大丈夫」

 電話越しに聞く美波の声に、俺の心臓はさっきとは違う意味で高鳴る。

「グループ、抜けたんだ」

「うん……」

「早くない?」

 いつもと会話の空気が違うのは、電話だから?
 黙りこくった美波の返事に耳を澄ませる。
 どんな小さな声だって聞き逃さないように、その息遣いに神経を尖らせる。

「な、なんっで。たかやが、一番に気づくのぉ」

 ようやく聞こえた美波の声は、涙声だった。

「ごめん」

 美波の泣き声に、わけもわからず謝る。
 美波が泣き止んでくれるなら、何とだって言える。

「抜けたあたしが悪いの。たかやじゃない」

「そんなに悲しいなら、まだ抜けなきゃ良かっただろ?」

 そうだよ。もう誰も発言しないかもしれないけど、別に消さなきゃ良かったんだ。

「……ダメなの。そうしないと、いつまでも忘れられないから」

 忘れる? 忘れる必要なんてないだろう?

「何で?」

「あたしね、転校するの」


 泣き声まじりに打ち明けてくれた美波の事情。
 両親の離婚が成立して引っ越すって、ただそれだけの理由。
 俺以外には誰も美波の転校には気付いていなくって、夏休み明けのみんなの驚いた顔に、ほんの少しだけ優越感を感じる。
 まさか、釣り合わない俺だけが知ってたなんて、思いもしなかっただろ。

 美波の転校の衝撃も数日もすれば薄れ、また普通の毎日が戻ってくる。
 ただ、俺の親指はもう躊躇しない。
 美波とのトーク画面には、数えきれないぐらいの文字が並ぶ。
 今日も俺は美波に向けて、自由に言葉を飛ばす。