思いっきり肺に息を溜め込んで、プールの床に触れるぐらいの距離に体を沈めた。水の浮力に抵抗するように、ぐっと体に力を入れて、静かに床と水平に足を動かす。

 潜水は競技では禁止。そんなことは重々承知の上で、それでもきっと俺が一番好きな泳ぎ方。
 息を殺して、水に逆らわないように、ただ一人の時間を味わう。

 集中したい時、大事なことの前、覚悟を決めたいとき、どんなときだって俺は水の中に身を沈めた。
 すると水と一体になってる気がして、浅い呼吸に神経を集中させて、自分の鼓動を全身で感じる。

 こんな時でも、どこから俺のことを見つけたのか、音もなく美波が横に並んだ。
 そして、俺の方を向いて、口元だけで微笑む。

 俺はそのまま自分の息が続く限り先へ進んでいく。そのうちに隣を泳いでいた美波が立ち上がるのが見えた。

 俺も、そろそろ。
 ふうっと力を抜いて、水からの浮力に体を任せる。途端に感じる浮遊感。

「相変わらず、孝弥は息が長いなあ」

 水から顔を出した俺に、後ろから美波の声が聞こえてくる。

「得意なんだよ。意味ないけど」

 いつものように返すけど、俺が水の中に沈んでた理由がある。
 言わないと。
 スマホには頼れなかった言葉。美波に会ったらって決めた。

「上手だもんね」

 俺のところまでプールの中を歩いてきた美波が、いつもの顔で笑う。
 美波は気にしてないのかもしれない。
 それでも俺は……

「あのさっ」

「うん? なぁに?」

「き、昨日、ごめん」

「昨日?」

 何のことか思い当たらない様な美波の顔を見れば、やっぱり気にもしてなかったのかと、自分の覚悟が無駄になった気もする。

「なんか、怒らせたみたいだったから」

「あ、昨日の。ううん。もう、大丈夫。あたしもムキになっちゃったから」

「それでさ……」

 美波に伝えたかった言葉はこれだけじゃない。昨日、家で嫌になるぐらい考えたんだ。謝るだけじゃない。俺の本当に言いたいこと。

「ん?」

「あのっ」

「たかやぁー! みなみー! 早くあがってこいよー!」

 俺の言葉を遮る様に、俺らを呼びつけたのは部長だ。部長は美波のことが好きだ。俺の邪魔をしたのはワザとに違いない。

「うん! 今行くー!」

 美波がそう返事をするなり、プールサイドまでの僅かな距離を一気に泳いで行く。

 伝えられないのは、スマホのメッセージだけじゃない。
 言葉だって、肝心なことを伝えるにはやっぱり勇気とか、覚悟とか、勢いとか。
 そういういろんなものが必要で、喉につっかえた言葉は、大切にし過ぎて風化しそうだ。
 もしかしたらもう、喉の奥で溶けて消えてしまったかもしれない。出そう出そうと思いながら、既に何日も日にちがすぎた。

 早く言わなきゃ。そう思えば思うほど言葉にはならなくて、くだらない言い合いばかりの日々が続く。
 最後の大会が終われば、水泳部のシーズンが終わる。三年生の俺たちに待ち受けるのは引退式。そうなれば、美波とこんな風に二人きりで話す時間はなくなる。
 それまでに、早く。早く。

「みなみっ」

 俺がやっと声をかけられたのは、練習が終わって学校から出てすぐの道端。
 大会までもう日にちもない、七月の最後。

「たかや。どうしたの?」

「あ、あのさ……」

 帰るタイミングが同じなんて、もちろん偶然なんかじゃない。
 練習を終えて、急いで着替えて、門を出たところで隠れて待った。まるでストーカーみたいな俺。
 バレたら確実に引かれるようなことをしてまで、美波に言いたかったことはたった一つ。
 謝るだけじゃ足りない、俺の覚悟。

「なぁに?」

 ヨタヨタとペンギンの様に歩く姿はやっぱり可愛い。
 近づいてくる美波の顔を見ながら、ゴクっと唾を飲み込んだ。

「今度、かき氷食べに行かねぇ?」

「かき氷?」

「そう! この間テレビで美味いってやってた店。行かねぇ?」

「良いよー。誰と?」

 俺の精一杯の勇気を知らずに、美波がとぼけた顔で聞いてくる。

「ふ、二人で!」

「二人? 孝弥と?」

「そう!」

「うーん……」

 返事に困った様に美波の目線が天を仰ぐ。
 俺と二人……やっぱり嫌かな。

「こ、この間、怒らせちゃったから。そのお詫び! 奢るよ」

 何とかして美波に頷いて欲しくて、用意してた理由を後付けの様に絞り出す。

「この間? っていつの話ー」

 まさか俺が一週間も溜め込んでたなんて思わないだろな。
 美波の声は俺のことを揶揄う様に弾んでて、いつもの俺ならすぐにでも反発したくなるけど。

「一人では行きづらいし、嫌?」

「孝弥と二人かぁー」

「かき氷、嫌い?」

「かき氷は好き!」

 知ってる。
 だから、探し出した店。

「俺もかき氷好きなんだよ。氷ふわふわで、抹茶もきな粉も果物も、どれ選んでも美味しいって」

「食べたいなぁ」

「だからさ、行こうよ」

「うーん。ほんとに、奢り?」

「もちろん! お詫びだって言ったろ?」

「それなら、行ってもいいかな」

 よし!
 奢りとか、本当は厳しいけど。お詫びとか奢りとか、そんな理由なくても頷いて欲しかったけど。
 そんなこと、もうどうでもいい。
 美波と、出かけられるんだ。
 二人で。