「大っ嫌い!」
あたしはソファから立ち上がった。駆け足で寝室のドアを開けて中に入ると、内鍵をかけた。
「おい! 莉子(りこ)!」
夫が焦った声で追ってきたのがわかったが、無視だ、無視。
だって、ひどい。
あたしはベッドに突っ伏した。すると、じんわりと涙が滲んできた。
あたしだけなんだ。
きっと、もう樹(いつき)はあたしのこと好きじゃないんだ。
ドンドンと叩かれていたドアから聞こえてくる音は、すぐに消えた。かすかなため息のような声が聞こえて、樹がドアの前から離れていった気配がした。
ほらね。すぐ諦めちゃうんだよ。
あたしは枕に顔を埋めて声を殺して泣いた。泣き声が聞こえたら悔しいから。
あたしたち夫婦はこの春に結婚したばかりだ。結婚三ヶ月。ほやほやの新婚さんと言ってもいいだろう。
言ってもいいだろうというのは、あたしたちは同棲期間が長かったからだ。大学時代に知り合い、付き合い始めてから三年経った年に同棲を始めた。同棲期間はおよそ五年。付き合い始めからの期間は八年にもなる。同棲していた部屋にそのまま住み続けているので、新鮮味はないと思う。
思えばプロポーズもあたしからだった。
「ねえ。そろそろ結婚したいなあって」
そう告げたのは、リビングのソファの上でだった。
夕食後、あたしたちはソファに並んで腰掛けてお茶を飲む習慣があった。ほんの十分ほどの決まったその時間。できるだけ自然なようにあたしは提案した。樹が驚かないように、うんと言ってくれるように、そして、もし渋られてもショックを受けすぎないように。「自然」を心がけて伝えたあたしの声は、もしかしたら震えていたかも知れない。
あたしは横目でちらりと樹の横顔を盗み見た。
ーー嫌がってる?
隣の樹は眉を寄せていた。
断られる、そう思った瞬間、樹は口を開いた。「そうだな。結婚しよう、莉子」と。そして、にっこりと微笑んであたしの肩を抱き寄せてくれた。
見間違いだ。嫌がってないよ。
あたしはそう思うことにした。だって、微笑んでくれたもの。あたしを抱き寄せて優しいキスをしてくれたもの。
それからは、結婚準備で大忙しだった。
その忙しさにかまけて、あたしは心の中にうっすらと淀み始めたモノに気づかないフリをした。
「ん……」
あたしは目を覚ました。泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。ベッドサイドテーブルの上の時計を見ると、二十時だ。まだ三十分ほどしか経っていなかった。
あたしはのそのそと起き上がった。まだ三十分だが、三十分も、だ。
樹は泣いているあたしを三十分も放置したのだ。
また涙が出てきそうになって、ぐっと頬に力を入れた。
泣かない。泣いてなんてあげない。
結婚してからも二人の生活はほぼ変わらなかった。お互い仕事が忙しい。仕事を家に持ち帰ることもある。仕事に忙殺されてコミュニケーションはあまり取れていなかった。
それでも、十分。夕食後の十分は二人きりでゆっくりできる時間だった。飲むものは、コーヒー、緑茶、紅茶、ココア、等その時々で違ったが、習慣になっていたその時間をあたしは愛していた。
しかし、ここ半月ほどはその大事な時間が取れなかった。樹の帰宅が遅かったからだ。何やら大事なプロジェクトを任されたとのことだ。
少しくらい夕飯が遅くなっても待っていたのだが、さすがに午前様となるとあたしも翌日仕事だ。先に夕食をとっていた。
「また遅くなる。ごめん」
そんなラインに「ううん。お仕事頑張って!」と返しつつも、さみしさを覚えていた。 そしてやっと今夜、二人のお茶の時間が取れた。あたしは上機嫌でとっておきの紅茶を淹れた。樹も喜んでいた、と思ったのに。
「嬉しいな。久しぶりに樹とゆっくりできるの」
あたしは樹の肩にこてんと頭をのせて甘えた。樹の手が伸びてきて、あたしの頭をそっと撫でる。
「あたしね。この十分間が大好き。恋人同士に戻れる気がするの」
あたしがそう言ったその瞬間だった。樹の手が止まった。
どうしたのかと思い顔を上げると、樹は眉を寄せていた。
ーーなんで嫌がってるの。
そこからはよく覚えていない。なんでとなじるあたしに樹は口ごもっていたように思う。そのまま喧嘩になってしまった。どちらかと言えば、あたしが一方的に怒っていただけの気もするが。
あたししか感情的になっていない、それがまた悔しくて悲しかった。
きっと、まだ好きなのはあたしだけなんだ。 あのプロポーズの時だってそうだった。
ずっと押さえ込んでいたもやもやが一気に吹き出してくるのがわかった。
きっと責任を感じたからあたしと結婚してくれただけなんだ。長年ずるずると同棲していたから、断るに断れなかったんだ。
樹があたしのことを嫌いだとは思ってはいない。樹の愛情は信じている。けれど。
彼の中で「恋」はもうない。だから眉を寄せた。
あたしはひっくとしゃくり上げた。
ーーあたしの「好き」とは違うんだ。
「莉子。そろそろいいか?」
コンコンとノックの音が響いた。遠慮がちに樹が声を掛けてきた。
「いいよ」
あたしは素直に承認した。声は多分ふてくされていたが。
ドアが開き、真っ暗な室内に一筋の明かりが差し込んだ。樹が寝室の電気を点けた。
「ごめん」
樹が小さな声で謝った。そしてベッドに腰を下ろすあたしの隣におそるおそるといった体で腰掛けた。
「いいよ、もう。あたしこそごめんね」
この話を早く終わりにしたくてあたしは早口で言った。
あたしは樹が好きだ。恋という意味での好きだ。
樹はあたしを家族として大事に想ってくれている。あたしにもう恋をしていないというだけだ。
夫婦の恋は愛に変わっていくという。きっと樹の感情は当然のこと。あたしが勝手に拗ねていただけ。
俯いていると、隣の樹が深くため息をついた。あたしはびくりと肩を揺らした。
怒ってるのかな。
あたしは上目遣いで樹を見た。その瞬間ぎゅっと抱き締められた。
「ごめん!」
あたしはわけがわからない。ぼんやりと首を傾げていると、樹がまくしたてた。
「莉子を悲しませてごめん! さっきの言葉、俺が勝手にふてくされただけだから!」
「え?」
樹はあたしの肩にかかる手の力を強めた。
「莉子、『恋人に戻った』って言ったろ?」
あたしは頷いた。樹はあたしの肩に顔を埋めた。
「カッコ悪いよな、俺! 戻ったってなんだよ、ってちょっと言葉尻に引っ掛かって顔に出した! どうせ好きなのは俺のほうだけだよなって勝手にいじけた!」
「……え?」
あたしは樹の横顔をみつめた。
「なんで樹のほうだけ好きってことにな……」
あたしはそこで言葉を切った。そしてその言葉の意味に気づいた。
「戻った」
それは、今現在はそうではないことを示す。「え? だって夫婦になったからもう恋人じゃないかなって」
あたしはおろおろした。樹は「わかってる」と呻いた。
「俺たちは夫婦だよ。でもこっちはいつでも莉子のこと恋人時代と同じように好きなのに、莉子の中ではもうそういう感情は普段ないんだよなって思って。でもそんなこと恥ずかしくて言えないだろ!」
樹は最後は逆ギレしていた。
あたしは呆然としながらも樹の頭をよしよしと撫でた。
「いや、あの、えっと。あたしはむしろ樹があたしのことそういう意味で好きじゃないのかなって思って、」
「んなわけあるか!」
一旦キレてしまった樹はそう断言すると、あたしに体重をかけてきた。
「昨日はごめんな」
翌日の夕食後。樹は自嘲気味に再び謝ってきた。
二人の前にはカップがふたつ。中身は昨夜途中になってしまったとっておきの紅茶だ。
昨夜、落ち着いたあと二人で言いたいことを言い合った。あたしはプロポーズの時からずっと心に淀んでいた澱を吐き出した。
「違う。嫌だったんじゃない。『それは俺から言わせてくれよ』って思ったのが顔に出ちまっただけだ」
「それなら、言ってくれればっ」
「莉子に『今時、プロポーズは男から、みたいなことにこだわってたの?』とか思われたくなくて、カッコつけた」
そう呟いて項垂れた昨夜の樹はちょっと可愛かった。
あたしはカップに口を付けた。一口飲んでから、にっこりと笑いかけた。
「お互い、カッコつけすぎたね。ちゃんと言いたいことは話し合おうね」
「ああ。できるだけ努力する」
樹は苦笑した。あたしはめっと怒ったフリをした。
「そこは、できるだけ、じゃなくて言い切ってよ」
樹は軽くため息をついた。そしてあたしから目を逸らしてわざとらしく紅茶を見つめた。「言い切るのは難しいぞ。好きな女の前でカッコつけたくならない男はいないからな」
おわり
あたしはソファから立ち上がった。駆け足で寝室のドアを開けて中に入ると、内鍵をかけた。
「おい! 莉子(りこ)!」
夫が焦った声で追ってきたのがわかったが、無視だ、無視。
だって、ひどい。
あたしはベッドに突っ伏した。すると、じんわりと涙が滲んできた。
あたしだけなんだ。
きっと、もう樹(いつき)はあたしのこと好きじゃないんだ。
ドンドンと叩かれていたドアから聞こえてくる音は、すぐに消えた。かすかなため息のような声が聞こえて、樹がドアの前から離れていった気配がした。
ほらね。すぐ諦めちゃうんだよ。
あたしは枕に顔を埋めて声を殺して泣いた。泣き声が聞こえたら悔しいから。
あたしたち夫婦はこの春に結婚したばかりだ。結婚三ヶ月。ほやほやの新婚さんと言ってもいいだろう。
言ってもいいだろうというのは、あたしたちは同棲期間が長かったからだ。大学時代に知り合い、付き合い始めてから三年経った年に同棲を始めた。同棲期間はおよそ五年。付き合い始めからの期間は八年にもなる。同棲していた部屋にそのまま住み続けているので、新鮮味はないと思う。
思えばプロポーズもあたしからだった。
「ねえ。そろそろ結婚したいなあって」
そう告げたのは、リビングのソファの上でだった。
夕食後、あたしたちはソファに並んで腰掛けてお茶を飲む習慣があった。ほんの十分ほどの決まったその時間。できるだけ自然なようにあたしは提案した。樹が驚かないように、うんと言ってくれるように、そして、もし渋られてもショックを受けすぎないように。「自然」を心がけて伝えたあたしの声は、もしかしたら震えていたかも知れない。
あたしは横目でちらりと樹の横顔を盗み見た。
ーー嫌がってる?
隣の樹は眉を寄せていた。
断られる、そう思った瞬間、樹は口を開いた。「そうだな。結婚しよう、莉子」と。そして、にっこりと微笑んであたしの肩を抱き寄せてくれた。
見間違いだ。嫌がってないよ。
あたしはそう思うことにした。だって、微笑んでくれたもの。あたしを抱き寄せて優しいキスをしてくれたもの。
それからは、結婚準備で大忙しだった。
その忙しさにかまけて、あたしは心の中にうっすらと淀み始めたモノに気づかないフリをした。
「ん……」
あたしは目を覚ました。泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。ベッドサイドテーブルの上の時計を見ると、二十時だ。まだ三十分ほどしか経っていなかった。
あたしはのそのそと起き上がった。まだ三十分だが、三十分も、だ。
樹は泣いているあたしを三十分も放置したのだ。
また涙が出てきそうになって、ぐっと頬に力を入れた。
泣かない。泣いてなんてあげない。
結婚してからも二人の生活はほぼ変わらなかった。お互い仕事が忙しい。仕事を家に持ち帰ることもある。仕事に忙殺されてコミュニケーションはあまり取れていなかった。
それでも、十分。夕食後の十分は二人きりでゆっくりできる時間だった。飲むものは、コーヒー、緑茶、紅茶、ココア、等その時々で違ったが、習慣になっていたその時間をあたしは愛していた。
しかし、ここ半月ほどはその大事な時間が取れなかった。樹の帰宅が遅かったからだ。何やら大事なプロジェクトを任されたとのことだ。
少しくらい夕飯が遅くなっても待っていたのだが、さすがに午前様となるとあたしも翌日仕事だ。先に夕食をとっていた。
「また遅くなる。ごめん」
そんなラインに「ううん。お仕事頑張って!」と返しつつも、さみしさを覚えていた。 そしてやっと今夜、二人のお茶の時間が取れた。あたしは上機嫌でとっておきの紅茶を淹れた。樹も喜んでいた、と思ったのに。
「嬉しいな。久しぶりに樹とゆっくりできるの」
あたしは樹の肩にこてんと頭をのせて甘えた。樹の手が伸びてきて、あたしの頭をそっと撫でる。
「あたしね。この十分間が大好き。恋人同士に戻れる気がするの」
あたしがそう言ったその瞬間だった。樹の手が止まった。
どうしたのかと思い顔を上げると、樹は眉を寄せていた。
ーーなんで嫌がってるの。
そこからはよく覚えていない。なんでとなじるあたしに樹は口ごもっていたように思う。そのまま喧嘩になってしまった。どちらかと言えば、あたしが一方的に怒っていただけの気もするが。
あたししか感情的になっていない、それがまた悔しくて悲しかった。
きっと、まだ好きなのはあたしだけなんだ。 あのプロポーズの時だってそうだった。
ずっと押さえ込んでいたもやもやが一気に吹き出してくるのがわかった。
きっと責任を感じたからあたしと結婚してくれただけなんだ。長年ずるずると同棲していたから、断るに断れなかったんだ。
樹があたしのことを嫌いだとは思ってはいない。樹の愛情は信じている。けれど。
彼の中で「恋」はもうない。だから眉を寄せた。
あたしはひっくとしゃくり上げた。
ーーあたしの「好き」とは違うんだ。
「莉子。そろそろいいか?」
コンコンとノックの音が響いた。遠慮がちに樹が声を掛けてきた。
「いいよ」
あたしは素直に承認した。声は多分ふてくされていたが。
ドアが開き、真っ暗な室内に一筋の明かりが差し込んだ。樹が寝室の電気を点けた。
「ごめん」
樹が小さな声で謝った。そしてベッドに腰を下ろすあたしの隣におそるおそるといった体で腰掛けた。
「いいよ、もう。あたしこそごめんね」
この話を早く終わりにしたくてあたしは早口で言った。
あたしは樹が好きだ。恋という意味での好きだ。
樹はあたしを家族として大事に想ってくれている。あたしにもう恋をしていないというだけだ。
夫婦の恋は愛に変わっていくという。きっと樹の感情は当然のこと。あたしが勝手に拗ねていただけ。
俯いていると、隣の樹が深くため息をついた。あたしはびくりと肩を揺らした。
怒ってるのかな。
あたしは上目遣いで樹を見た。その瞬間ぎゅっと抱き締められた。
「ごめん!」
あたしはわけがわからない。ぼんやりと首を傾げていると、樹がまくしたてた。
「莉子を悲しませてごめん! さっきの言葉、俺が勝手にふてくされただけだから!」
「え?」
樹はあたしの肩にかかる手の力を強めた。
「莉子、『恋人に戻った』って言ったろ?」
あたしは頷いた。樹はあたしの肩に顔を埋めた。
「カッコ悪いよな、俺! 戻ったってなんだよ、ってちょっと言葉尻に引っ掛かって顔に出した! どうせ好きなのは俺のほうだけだよなって勝手にいじけた!」
「……え?」
あたしは樹の横顔をみつめた。
「なんで樹のほうだけ好きってことにな……」
あたしはそこで言葉を切った。そしてその言葉の意味に気づいた。
「戻った」
それは、今現在はそうではないことを示す。「え? だって夫婦になったからもう恋人じゃないかなって」
あたしはおろおろした。樹は「わかってる」と呻いた。
「俺たちは夫婦だよ。でもこっちはいつでも莉子のこと恋人時代と同じように好きなのに、莉子の中ではもうそういう感情は普段ないんだよなって思って。でもそんなこと恥ずかしくて言えないだろ!」
樹は最後は逆ギレしていた。
あたしは呆然としながらも樹の頭をよしよしと撫でた。
「いや、あの、えっと。あたしはむしろ樹があたしのことそういう意味で好きじゃないのかなって思って、」
「んなわけあるか!」
一旦キレてしまった樹はそう断言すると、あたしに体重をかけてきた。
「昨日はごめんな」
翌日の夕食後。樹は自嘲気味に再び謝ってきた。
二人の前にはカップがふたつ。中身は昨夜途中になってしまったとっておきの紅茶だ。
昨夜、落ち着いたあと二人で言いたいことを言い合った。あたしはプロポーズの時からずっと心に淀んでいた澱を吐き出した。
「違う。嫌だったんじゃない。『それは俺から言わせてくれよ』って思ったのが顔に出ちまっただけだ」
「それなら、言ってくれればっ」
「莉子に『今時、プロポーズは男から、みたいなことにこだわってたの?』とか思われたくなくて、カッコつけた」
そう呟いて項垂れた昨夜の樹はちょっと可愛かった。
あたしはカップに口を付けた。一口飲んでから、にっこりと笑いかけた。
「お互い、カッコつけすぎたね。ちゃんと言いたいことは話し合おうね」
「ああ。できるだけ努力する」
樹は苦笑した。あたしはめっと怒ったフリをした。
「そこは、できるだけ、じゃなくて言い切ってよ」
樹は軽くため息をついた。そしてあたしから目を逸らしてわざとらしく紅茶を見つめた。「言い切るのは難しいぞ。好きな女の前でカッコつけたくならない男はいないからな」
おわり