紲さんの声が聞こえた気がして、ハッと顔をあげて辺りを見渡す。けれど、どこにも紲さんの姿は無かったし、人の居る気配すら無かった。
 それはそうだよね。居る訳ないよね。ここは、魁魔の世界なんだから。
 案の定、幻聴だったので私はがっくりと肩を落とした。もしかしてと淡い期待を抱いてしまった事もあり、かなり気落ちしてしまう。
 体育座りの姿勢を更にキュッとコンパクトにして、顔を膝の間に埋めた。
 ここがどこかも分からないし、時間も分からない。それに逃げようにも、羅堕忌が目の前にずっと居るせいで逃げられない。
 絶望が重くのしかかり続ける状況は、私の気力をどんどんと奪っていった。今では逃げようと言う気力も、立ち向かう勇気も湧き上がってこない。
 もしかして紲さんの声が聞こえた気がしたのは、そんな自分を奮い立たせようとした自分の声だったのかな・・・。
 私は膝の間で、重々しいため息を吐き出した。余計な事をした小さな自分に、虚しい怒りが湧き上がる。おかげで零だった気力がマイナスになったよ、と。
 だが、その時だった。ずしんずしんと荒々しい足音が幾つも聞こえ、私はビクッとして顔を上げる。
 見れば、巨大なサイズの異形の化け物達が一斉にこちらに向かって来ていた。あれが憎魔なのだろうが、自分が想像していたよりも禍々しい容貌で恐ろしい。
 私は恐怖で身を竦ませてしまうが。憎魔達は私に向かってきた訳ではなく、羅堕忌の前で一列に止まった。
 何?どういう事?と眉根をキュッと寄せた瞬間、憎魔達が羅堕忌に猛々しく吠え始める。
「話、違う!」「お前、騙した!」「お前、与える、言った!」「嘘つきが!」「許さんぞ!」
 同じ魁魔だから、讐と憎魔は仲間同士で仲が良いと思っていたけれど。本当は、そうじゃなかった・・?
 私が目の前の光景に、少し驚いていると。轟々と吠える憎魔に対し、羅堕忌は冷笑を浮かべて「騙すだぁ?」と声を張り上げた。
「何を言っているのか、ちっとも分からんなぁ!能なしの弱者共をこの俺様の役に立たせてやったのだぞ!俺様に伝えるのは、感謝の言葉なんじゃねぇのかぁ?!」
 せせら笑いながら告げた言葉が、憎魔達の怒りに油を並々と注ぐ。
「鏡番と戦ってやった!」「仲間、殺された!」「お前のせい!」「玉陽を返せ!」
 先程よりも凄まじい罵声に、私は堪らずに耳を塞いでしまうが。突然中心に居た大柄の憎魔が、私にぎょろりと恐ろしい目を向けた。
 嫌な予感が警報のスイッチを押し、頭の中でうーうーとけたたましい警報が鳴り響く。
「玉陽は俺の物だ!」
 私の体がすっぽり入ってしまう程の大きな手が、容赦なくこちらに伸びてきた。あの手に捕まれば最後と言うのは、嫌でも目に見えている。
 だが、恐怖で竦んだ体を俊敏に動かすなんて、今の私には出来なかった。出来た事と言えば、迫り来る恐怖に目を大きく見開く事だけ。
 早く体を動かさないとダメ!動いて!動いて、体!動け、動け!
 心が必死に体を叱咤するが、頑として体は動かなかった。その間にも、巨大な危機は迫っていると言うのに。
 そして遂に巨大な手の影が私をすっぽりと覆い被さった、刹那。
「身の程を弁えろ、屑が!」
 荒々しい怒声が発せられたかと思えば、巨大な手が眼前でゴロリと落ちた。
 え?と思うやいなや、ブシューッと黒い血飛沫が飛び、断末魔の悲鳴が発せられる。憎魔は右手首を堅く押さえ、ジタバタとたたらを踏む程苦しんだが。
 それだけでは終わらなかった。
「俺様に敵わねぇ弱者が、舐めた真似すんじゃねぇ!この俺様の前で調子に乗るとどうなるか、思い知らせてやるよぉ!」
 羅堕忌は声を荒げると、ぴょんと軽やかに飛び上がり、憎魔の心臓部を素手でドスッと躊躇無く突き刺した。
 あれほどたたらを踏み、断末魔の叫びをあげていたと言うのに。羅堕忌が手を引き抜くと同時に、嘘みたいに大人しくなった。そして身じろぎ一つもせず、何の言葉も発さず、ただ白目を剥いてバタリとひっくり返る。
 羅堕忌はストンと着地すると、せせら笑いながら「俺様の前で図に乗ったんだ!当然こうなるわなぁ?!」と言い放った。
 命を躊躇いも無く奪った後だと言うのに。愉快と言わんばかりの笑みを浮かべている姿に、私の体に戦慄が走る。ぶわっと全身の肌が粟立ち、ガチガチに強張った筋肉のまま小さく震え出す。
 羅堕忌が見せた、圧倒的な強さと真の恐ろしさにしっかりと囚われてしまった。
だが、この場でそうなっていたのは私だけ。恐怖で身を竦ませている憎魔はいなかった。グオオオオッと恐ろしい咆哮をあげ、羅堕忌を取り囲む様にして一斉に襲いかかる。
 多数の敵に取り囲まれている羅堕忌はと言うと、まるで動じず、平然としていた。
 いや、平然としていた訳ではない。瞳を爛々と輝かせ、手をパキパキと挑戦的に鳴らしていた。
 恍惚とした表情にも見えるけれど、そこにあるのは恐ろしい感情だ。相手の命を奪える楽しみと言う、ひどく悍ましい感情に今の羅堕忌は染まっている。
 羅堕忌は「これだから無能共は」と嘲笑を浮かべながら唾棄すると、ドンッと力強く地面を踏みしめた。
 荒れ果てた大地にビキビキッと亀裂が走り、ゴゴゴッと唸る様に大きく揺れ動く。
「暇潰しだ、特別に遊んでやるよぉ!虫けら共ぉ!」
 怪獣大戦争の火蓋が目の前でぷつんと切られてしまった。
 激しい戦いに巻き込まれない様に、私は急いで物陰に隠れるが。岩陰に身を落とした瞬間、頭の中で名案と言う稲妻が迸る。
 これって、逃げるチャンスじゃない?!羅堕忌も憎魔も、私の事なんか眼中にない様に争っている。
 つまり今が逃げるチャンス!
 滅多に訪れない好機に気がつくと、頭で「こうしよう、ああしよう」と考えるよりも先に体が動き出していた。
 岩陰から、そのまま一直線に逃げ出す。後ろを振り返る事もなく、足を止める事もなく、ただまっすぐ突き進んだ。
 持久走は得意ではないし、足の速さだって中間くらいの私だけれど。未だかつてない程の走力を出し続け、無我夢中になって魁魔の世界を疾走した。そしてそれと並行して、頭の中であれやこれやと必死に最善策を巡らせる。
 ここがどこか、なんて今は関係無い!少しでも遠くに逃げる事が最優先!私が居なくなった事に気づかれる前に、少しでも遠くに逃げないと!
 でも、このまま走り続ける事が最善とは言えないよね。それは分かってる。体力もきっと持たないだろうし、他の魁魔に見つかって襲われる可能性もあるんだから。
 そうだ。身を隠しながら進もう!そこで出口を見つければ良いんだ。出口を・・。
 出口?・・・あっ!
「そうだ!」
 言葉の偶然が生み出したヒントに、私は声を上げ「それだ!」と興奮気味に走り出す。
 魁魔が鏡を通して、人間の世界に来ているのならばこっちにも鏡があるんじゃない?!それに紲さんが、玉陽の巫女は魁魔の世界と人間の世界を行き来出来るって言っていた!
 だから鏡を探して見つければ、私の勝ち!人間の世界に戻れる!
 どんよりと広がっていた暗雲に、一筋の光芒が差し込む。か細く差し込み、次第にゆっくりと幅を広げて、私をふわりと優しく包み込んだ。
 そうして温かな光が私の全身を覆うと、この世界から脱出してやると言う気概が瞬く間にメラメラと燃え上がる。
 走りながら鏡を探そう!それで紲さんの元に行くんだ!
 やってやる!と、辺りを見渡しながら走り出した。
 その時だった。
 ヒューッと言う落下音が遠くで聞こえたかと思えば、徐々に音が大きくなっていく。どんどんと不穏が近づいてくる様な音に顔を曇らせ、思わず立ち止まってしまった。
 そして急に止まった足が地面を擦ると同時に、ドオオオオオンッと爆発音が弾け、凄まじい衝撃波が生み出される。荒々しい音と共に襲ってくる砂礫や砂塵。咄嗟に目を瞑り、顔を守る様に腕を掲げるが。完璧に守る事は出来ず、隙間からピシピシッとそれらが侵入してきた。
 一体、何が起きたの・・?!
 砂塵の中、微かに目を開けると。私の行く手を阻む様に、巨大な黒い山がそびえ立っていた。
 でも、山にしては随分おかしな形だし。急に目の前に山が屹立するなんてあり得ない。
 じゃあ、山じゃなければ何?これは一体、何・・?
 視界が開ける様になるまで、私はジッと待つしかなかった。徐々に収まる砂塵が朧気にさせていた物の正体を明かしていく。
 その正体を目にした瞬間、私は慄然としてしまった。
 私が山だと錯覚してしまった正体は、あまりにも恐ろしいものだった。急にそびえ立つ不気味な山の方が、どれほど良かった事だろう。
 何かの見間違いではないか。目を大きく開き、目の前に落ちてきた物を視認する。
 けれど残念な事に、目の前の物は間違い無く、羅堕忌に怒り狂っていた憎魔のうちの一匹だった。
 恐ろしい牛の様な化け物の姿形が印象的で覚えていたけれど、さっきとは姿が違っている。片方の角は根元からバキリと折られ、ぎょろりと飛び出した目玉は色を映していなかった。ぽっかりと大きな空洞が胸に出来ているし、筋肉もだらんと弛緩しきっている。
 羅堕忌に殺されたのだと言う事は、一目瞭然だった。
 なんでこの憎魔は、こんな所に落ちてきたの?ふっ飛ばされて、偶然ここに落ちてきたって言う事?
 止まっていた思考を辿々しく再稼働させるが、恐怖に蝕まれているせいで動き出しが悪い。そればかりか、嫌な方向ばかりに思考が流れてしまう。
 私が逃げ出した事に気がついた羅堕忌が、もうすぐそこまで迫ってきているのではないか。牽制としてここまで飛ばしてきたのではないか・・・。
 ううん。違う、違う、違う!絶対にそうじゃない!悪い方向に飲まれちゃダメ。私が向かって行くのは、そっちじゃないんだから。絶対にそっちに行っちゃダメ!
 私はぶんぶんと大きく頭を振り、止まっていた足を一歩前に踏み出した、が。
「俺様は手間をかけさせられる事が大嫌いなんだよなぁ」
 ゾクリと恐ろしい声が聞こえ、バッと後ろを振り向いた刹那。急に喉元を圧迫され「あぐっ」と、呻きが飛び出した。地面からも簡単に足が離れ、体がプラプラと虚空に留まる。喉元の圧迫を剥がそうと、必死に手や体をジタバタと動かすが、喉元を締め上げている手が緩む事は無かった。
 羅堕忌は呆れた顔つきで「面倒を起こすなよぉ」と、ぶっきらぼうに告げる。
「俺様の許可無く勝手をするんじゃねぇよぉ。俺様がやれと言った事だけをやれ。俺様の手を二度と煩わせるんじゃねぇ。分かるなぁ?物は好き勝手しちゃなんねぇって事だよ」
 今度逃げようとしたら、こうじゃすまねぇからなぁ?と、にんまりと意地悪く口角の端をあげられると、パッと喉元の圧迫が消えた。
 ドサッと膝から崩れ落ち、ゲホゲホと何度もむせ込みながら、必死に堰き止められていた酸素を取り入れる。
 ぜはぜはと浅薄な呼吸を繰り返していると、脳内で羅堕忌の言葉が反芻された。
 私が物?こんな奴の、物?
 何度も何度も繰り返される横柄な物言いが、与えられた苦しさを徐々に怒りに塗り替えていく。
 冗談じゃない。私は私、神森叶架よ。物なんかじゃない。自分の意志をちゃんと持った人間よ。
 私の意志は、こんな奴の言いなりになんかなりたくないって叫んでいる。私の心は、ここを出て行くと奮い立っている。
 だからこんな野蛮で横柄な奴の言いなりになんか、絶対になるもんか。絶対に泣き寝入りなんかするもんか。
 絶対に人間の世界に、紲さんの居る世界に戻ってやる!
 臆すな、怯えるな、怯むな。
 私はもう何からも逃げないって決めたんだから!自分も戦うって決めたんだから!
「さっさと戻るぞ」
 羅堕忌の手が、私の手首に伸びてくるが。私はバシッとその手を強く振り払い、呼吸を無理やり整えながら羅堕忌を強く睨めつけた。
「私は、貴方の物なんかじゃ、ない!」
 きっぱりと力強く言い放つと、すぐに「あぁ?!」と声を荒げられ、怒りを露わにされるが。負けるもんかと自分を奮い立たせ、私は「貴方の言いなりになんか、成り下がらないから」と強気に出た。
「私は物じゃないから、意志がある。どんなに恐ろしい圧をかけられても、悍ましい力で縛り付けられようとも。私の意志は確固としてありつづける。だから私は貴方に抗い続ける。言いなりになんかならないから!」
 一方的に言い捨て、私は反対方向にダッと駆け出した。脇目も振らず、前だけを見て必死に走る。
 簡単に追いつかれるだろうけれど。それでも抗わないよりはマシ!今はとにかく走れ、前に向かって走れ、私!
 グッと強く歯がみし、呼吸の苦しさを紛らわせた時だった。
 突然私の腹に何かが巻き付き、ガクンッと走る力を止められてしまう。
 何?!と、慌てて腹部を見ると、真っ赤な蔦の様な物がキツく巻き付けられていた。剥がそうにも凄まじい力で巻き付いているせいで、剥がす所か緩ませる事も出来ない。
 私は「仕方ない!今は逃げる事が優先!」と、蔦を巻き付けたまま再び走り出そうとするが。前に走り出す事は出来なかった。ぐんっと力強く後ろに引っ張られ、ずるずると後ろに引きずられていく。
 必死に前へ進もうと抗っているのに。私の抵抗を歯牙にも掛けず、引力は私に逆走を強いていた。体が蔦によって簡単にくの字に折り曲がり、重心が後ろに持っていかれているせいで、うまく踏ん張れないのだ。
 ヤバい、ヤバい、このままじゃヤバい!羅堕忌が居る所に戻らされる!マズい、マズい、マズい!
 焦燥が恐怖を生み、恐怖が危機を生み、危機が更なる焦燥を生む。その繰り返しだ。
 最悪な歯車がガチャンと音を立てて動き出し、私と言う小さな歯車も巻き込んで、ガタガタと急速に回り出す。
 止められない。私じゃ止められない。この最悪の歯車は、私一人の力じゃ止められない。
 じわりと涙が目の表面にうっすらと現れた。
 けれど、まだ私は希望に見捨てられていなかったみたい。
 突然蔦の引っ張る力がフッと無くなり、その反動で私はドサッと前のめりに倒れてしまった。
 慌てて後ろを振り返ると、私を引っ張っていた蔦がだらんと力なく地面に伏せっている。私の近くでぶっつりと切断され、向こうから伝えられていた力を遮断されたのだ。
 それだけでも愕然とする光景だけれど、それ以上がまだ目の前にはあった。
 蔦を切断した場所で、私を背に庇う様にして立っている人。
 私よりも頭一つ分ほど高い身長。私よりも大きくて逞しい背中。すらりと細身の体躯。特別な鏡番の黒い羽織を纏い、黒曜石の様に美しい漆黒の刀と赤い刀身の脇差しを握りしめている。
 臨戦態勢を作り、こちらを一切振り返らずに相手だけを見据えていたが。目の前の人が誰かなんて、一目見た瞬間に分かった。
「紲さん・・・!」
 じわりと現れていた涙は恐怖から歓喜に変わり、ポロポロと流れ出す。その涙は彼を呼ぶ声を掠れさせ、私の声を小さくさせた。
 もう一度、大きな声で名前を呼ぼう。こんな声じゃ、また紲さんに届かない。
 涙を乱雑に拭い、口を開きかけるが。その前に、彼が「叶架」と呼び返してくれた。私の小さな声をしっかりと受け取ってくれたからこその返しに、私の涙はわっと激しさを増す。
 今度はちゃんと私の声が届いた。彼にしっかりと届いただけじゃない。二度と聞けないと思っていた彼の声がもう一度聞けた。私の名前を呼んでくれた。こんなに嬉しい事はないよ・・・。
 胸がぎゅーっと温かくなり、私の心を蝕んでいた恐怖がその温かさで徐々に浮かび上がっていく。
「もう、大丈夫だ」
 力強く告げられた言葉が、浮かび上がった恐怖を綺麗に一掃し、温かいヴェールの様に私の心をそっと包んでくれる。二度と恐怖が入り込まない様に、優しく覆ってくれたのだ。
 私は溢れ出る涙を拭いながら、うんうんと何度も頷く。
 温かな雰囲気が私達二人の間に作られ、二人の世界が一つに繋げられた。
 だが、その穏やかさを容易く引き裂く、鉄の甲高い悲鳴が突然発せられる。
 ガキイイインッと激しく身を削り合った音と共に、ごうっと衝撃波が襲いかかった。
 その衝撃波は凄まじく、吹っ飛ばされそうになるが。咄嗟に全身を岩の様に硬化させて踏ん張り、「紲さん!」と声高に叫んだ。
 紲さんは私の声に答えない。いや、答えられないのだ。
 両方の刀を前でクロスさせ、ギチギチと羅堕忌のパンチを必死に受け止めているから。
 私の目では、何も追えなかった。それほど羅堕忌の攻撃は素早かった。勿論、そのあり得ない速さに食らいついた紲さんも凄すぎる。
 恐怖にも似た衝撃を覚えていると、羅堕忌がケラケラと楽しそうに笑った。
「なかなかはえーなぁぁぁ?やるじゃぁねぇかぁ」
 羅堕忌が挑発的に言葉をぶつけると、紲さんの踏ん張っていた足が更に地面を抉りながら後ろに滑る。
「今の一発でぶっ殺すつもりだったが。貴人当代の力はダテじゃねぇって事かぁ?」
 てめぇ、よえぇ六合だけじゃなかったんだなぁ?と、からかう様に言うが。紲さんは挑発に乗らず、淡々と「黙れ」と底冷えした声で一蹴した。
「叶架を攫い、恐怖を植え付けた事を後悔させてやる。楽に逝けると思うなよ」
「おいおい、てめぇ正気かぁ?その言い方だとよぉ、この俺様を倒すつもりでいるって言ってる様なもんだぜぇ?」
「そう言ったと言う事が、讐の頭では理解出来ないらしいな」
 紲さんは羅堕忌を挑発し、グッと力強く地面を踏み込んで、刀を前に押し出した。
 拮抗している力が崩れ、羅堕忌が押され始めるが。その力を流す様に、羅堕忌がひょいっと身軽に飛び退く。
 そしてストンッと軽やかに距離を取った羅堕忌の顔は、憤怒に歪んでいた。
「決めたぜぇ!てめぇはただ殺すだけじゃ足りねぇわ、ぐちゃぐちゃになぶり殺してやるよぉ!」
 憎悪を纏わせた怒りが、空気をも圧倒させながらぶわっと広がる。
 その途端に、私の体に異変が起き始めた。呼吸はヒューッヒューッとか細くなり、体もカタカタと顫動する。震えを抑えようと自分を抱きしめる様に二の腕を掴むが、ざらりと肌が粟立っている感触が余計に自分の震えを加速させた。
 私に向けられた威圧ではないと頭では分かっている。でも、体が命の危機を鮮明に感じ取ってしまって、その恐怖に耐えられないのだ。
 グッと鳥肌に爪を突き立て、痛みでなんとか震えを止まらせようとするが。
「怒りを覚えているのが、お前だけだと思うな」
 底冷えした声に、ハッとして紲さんを見つめた。
 紲さんが、怒っている・・・。
 ガタガタと恐怖に震え、自分に精一杯だったから全く気がつかなかった。
 紲さんは、羅堕忌の物々しい威圧に屈していなかった。同じ威圧を、いや、それ以上の威圧を相手にぶつけ、堂々と構えている。
 彼の静かな大激怒が私を捕らえていた恐怖の檻を破壊し、体の異変を止まらせた。
口に出されず、音になっていないだけの大激怒の方、つまり紲さんの怒りに私は圧倒されてしまう。
 私がゴクリと唾を飲み込むと、紲さんがチャキと刀を構えた。
「俺はお前を許さない」
 バチバチと互いの怒りがぶつかり、闘気がドンドンと張り詰められていく。
 静寂がその闘気を強く刺激し、空気がビリビリと震撼した。大地も堪らずにゾクリと震え、彼等の足下の砂利が小さく跳ねる。
 気を一瞬たりとも抜けない緊張感が、場を支配していた。瞬きする事も許されず、呼吸すらもままならない。
 空気が張り詰められ過ぎて、ぴきぃぃんと悲鳴の様な物をあげた。
 その刹那、凄まじい衝撃音と暴風が起きる。ごうっと吠える様な暴風は、私を吹っ飛ばすだけではなく、地面の砂塵や荒廃した瓦礫をも吹っ飛ばした。
 キャアッと悲鳴をあげ、ぐるんっと後転してしまうが。急いで体勢を整え、何が起きたのかと砂塵が巻き起こる中心部に目を凝らす。
 だが、それを見る前に突然ぐんっと体が何かに攫われ、そのまま空へ運ばれてしまった。予想外の出来事が到来し、パニックに陥りかけるが。
「叶架お嬢様!」
 聞き覚えのある声にハッとし、その声の方に急いで顔を向けると。ミミズク姿の桔梗さんが、バタバタと私の横を飛んでいた。
「遅くなり大変申し訳ありません!安全な場所にお連れ致します!」
「き、桔梗さん?!」
 えっ、じゃあ私を掴んでいるのは誰?!
 慌てて見上げると、私の口から「ぅえっ?!」と素っ頓狂な声が飛び出した。
 私を優しく掴みながら、ぴゅーんっと飛んでいたのは大きな青い龍。私が見ていると気がつくと、龍はニコッと笑みをこちらに見せて「落とさないから安心してねぇ」と朗らかに言った。
 大きな体躯と厳めしい顔つきに似合わず、無邪気な子供の様な龍に私は些か面食らうが。すぐに「そうなってる場合か!」と頭を振り、「止まって!」と声を張り上げる。
「紲さんがあっちで戦っているんです!だから私もあそこにいなくちゃ!」
 どんどんと戦いの場から離れて行く青龍と桔梗さんに強く訴えるが、二人は止まらなかった。「従えない」と言わんばかりの態度に、私は「どうして?!」と声を荒げてしまう。
「紲さん一人を残して行くなんてダメです!戻って下さい!」
「叶架お嬢様を現世に連れ戻す、それが我々に課せられた主様からの厳命です。ですから、叶架お嬢様のお言葉を承服する訳には参りません」
 桔梗さんが冷淡に言い放つと、青龍の子も「リーダーからの直々の命だからねぇ」と桔梗さんに同調する。
 取り付く島も無い式神二人に、私は「だからって、紲さんだけを残して行くんですか?!」と噛みつくが。桔梗さんは淡々と語る。
「今の主様と讐の戦闘は、桁違いの強さがぶつかり合った状態ですよ。故に、私共が戻った所で何も出来ません。主様の足手纏いにしかなりませんよ。叶架お嬢様は主様の戦いの邪魔となり、主様を追い詰めたいのですか?」
 ぐうの音も出ない正論を冷たくぶつけられ、反論する言葉を潰されてしまった。桔梗さんを言い負かす言葉も出ず、「でも」と小さくまごつく他ない。
「私も叶架お嬢様と同じ気持ちを抱えておりますので、お気持ちは大変理解出来ます。しかし私は己の気持ちよりも主様の意志を尊重し、こうして命を遂行しているのです。何を優先すべきか、叶架お嬢様もお考え下さい」
「ボクもねぇ、桔梗の意見に賛成かなぁ。巫女ちゃんがリーダーの決死の覚悟を無下にしちゃあさぁ、リーダーが可哀想だからねぇ。汲み取ってあげてなよぅ」
 二人から窘められる様に言葉をかけられるが。私は青龍の子の何気ない一言に引っかかった。
「決死の覚悟って、どういう事ですか」
「例えですよ、そう重く捉える必要はございません」
 厳しく問い詰めると、桔梗さんにはひょいと躱されてしまったが。青龍の子は「誤魔化す」と言う事が出来なかったみたいだ。
「桔梗、ボクの言葉は例えじゃないよぅ!あの貴人を躊躇いもなく起こした位だから、文字通り決死の」
 まくし立てる様に答える青龍の子に対し、桔梗さんは言葉を遮って「翠!」と叱りつけた。けど、もう遅い。すでに言葉はストンと私の耳に入っているのだから。
「貴人って言う力を使うと、紲さんが死ぬって言う事ですか?」
「い、いえ。そうではございませんが」
「が?何です?どういう事になるんですか?」
 詰問すると、桔梗さんの口が途端に重くなり始めた。「それは」と口ごもり、必死に探している。紲さんの思いを無下にせず、私を納得させるに充分な言い訳を。
 私は痺れを切らして「止まって!」と、怒声を張り上げた。
 その怒声に気圧され、翠君と桔梗さんはおずおずと速度を弱め、身近にあった崩れかけのビルに降り立つ。私は降り立つとすぐに体勢を整え「桔梗さん」と、真剣に向き合った。
「教えて下さい。貴人の力って何ですか。それを使うと、紲さんはどうなるんですか」
 誤魔化す事は許さないですよと言わんばかりの圧を目に込めながら、桔梗さんを脅す。
 桔梗さんはキュッと真一文字に口を堅く結び、俯いてしまった。内心で戦っているのだと思う。明かすべきか、明かさないべきか。紲さんの思いを無下にしない為に、自分はどの選択を取れば良いのか。彼は苦悶しているのだ。
 でも、迷われている時間が惜しい。一分一秒でも早く、私は紲さんの元に駆けつけたい。
 私はパッと顔を青龍の子の方に向け「翠君!」と、問い詰め先を変えた。翠君は「えぇ」と困惑しながらも、「うーんとねぇ」と切り出してくれたが。「叶架お嬢様」と重々しい言葉が重なった。
「私から、ご説明致します」
 いつの間にか人の姿に戻った桔梗さんは、私をまっすぐに見据えていた。
 腹を決めた桔梗さんに対し、こちらも同じ真剣さで「お願いします」と答える。
「貴人とは、私共十二天将の頂点に立つ最強の式神ですが。私共と同列ながらも同列には語れぬ存在です。他の十二天将らとはまるで比べ物にならない、一線を画した強さを持っているのです。いえ、力だけが別格と言う訳ではありません。彼は全てにおいて、私共とは違います。普通であれば人と式神は力の貸し借りを行い、協力し合って互いを高めるものですが。貴人はその体系を取りません。貴人は逆に人を使役するのです。憑依する、と言う方が近いかもしれませんね」
「憑依、ですか?」
「そうです。しかしその強大な力に人の体は耐える事が出来ず、適応する事が出来ません。故に、貴人の当代はすぐに変わるのです。貴人自身も相当奔放で勝手な性格だからと言う事も、多少は関係しているでしょうが。今まで貴人を継承した者は、千を越えます。ですが、貴人を使いこなせた人間はたった一人。初代のみです」
 使いこなせたのは、たった一人の初代だけ?!
 語られた真実が衝撃的過ぎて、愕然としてしまうが。そうなるのはまだ早いと言う様に、桔梗さんは更に驚きの真実を明かした。
「そうなってしまうのも、貴人が私共とは違った作りだからでしょう。貴人は、初代鏡番総統と初代玉陽の巫女が協力して作った讐なのです」
 厳密に言えば、似て非なるものですが。と、淡々と付け足される。
 けれど、その付け足しは右耳から左耳へとまっすぐに通り抜け、頭に残る事はなかった。讐と言う予想外の言葉が、私を茫然自失にさせたから。
 嘘ですよね?と疑りたくもなったけれど。桔梗さんの顔を見れば、それが嘘偽りのない真実だと言う事がすぐに分かってしまった。
「以前、主様が魁魔の世界に行ける人間は玉陽の巫女のみとお話されましたが。例外があるのです。その例外と言うのが」
「・・貴人の力を授かった鏡番、ですね」
 呆然としながらも言葉を先取って答えると、桔梗さんは「そうです」と大きく頷いた。
「讐だからこそ、そして人間に憑依する形で使えるからこそ、魁魔の世界での戦闘が可能になる。これは他の式神達には出来ない、貴人だけの利点です。しかし利点はそれのみ、と言っても過言ではありません」
 桔梗さんは重々しく言葉を紡ぎ「貴人の力は諸刃の剣です」と、呻く様に言う。
「貴人を御す事に必死になり、戦い所ではなくなる。人間と言う弱い生き物では、強大な力を扱いきれないのです」
「それじゃあ、今の紲さんも・・・」
 まさかと慄然としながら尋ねると、桔梗さんは小さく頷いた。
「大黒司崇人様から貴人を継いでから、主様も訓練を重ねられておりましたが。例に漏れず、使いこなせた事はありません。一度も、です」
 残酷な言葉が紡がれてしまうが。その残酷な言葉のおかげで、私はようやく理解出来た。
 彼等が話していた、紲さんの「決死の覚悟」の意味を。
 私はキュッと拳を堅く作ってから「桔梗さん」と、鬼気迫った形相で詰め寄った。
「紲さんの所に戻って下さい!例え足手纏いになったとしても、私はあそこにいなくちゃいけません!そんな状態の彼を一人で戦わせるなんて出来ないです!」
 まくし立てる様に告げるが。桔梗さんは動じる事なく、冷静に「主様が何の為に貴人を呼び起こしたとお思いですか」と打ち返してきた。
「危険も何もかも全て承知した上で、主様は貴人を使って讐と戦う事を選ばれたのです。全ては、叶架お嬢様を救う為。叶架お嬢様をお救いし、叶架お嬢様を安寧の世界に戻す為ですよ」
 主様の思いを無下になさるおつもりですか、と怒りが孕んだ目で訴えられる。
 桔梗さんは、私に「そうですよね、分かりました」と大人しく引き下がらせたいのだ。いや、桔梗さんと言うよりも、紲さんがそう望んでいるのだろう。
 桔梗さんは紲さんに従順な式神兼相棒の様な存在だから、主の意志を寸分違わずに汲み取り、行動しているのだ。
 だからきっとこれは、紲さんの意志。
 紲さん。本当は私ね、ちゃんと分かっているんです。素直に引き下がるべきだって言う事も。紲さんが何の為にこんな所まで助けに来てくれたのか、何の為に危険な力を躊躇なく使ってくれたのかも。
 分かっているんです。けど、それら全てに「納得」が出来ないんです。
 だから紲さん、私は絶対に引き下がらない。
 紲さんを一人で戦わせたくないから。一人で危険な目になんか遭わせたくないから。私が、隣で紲さんを支えたいから。
 これが、私の意志だから。
 私は桔梗さんの眼差しをしっかりと受け止めながら、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「紲さんの意志も、想いも理解した上で言います。紲さんの所に私を戻して下さい」
 桔梗さんも翠君も私の力強い言葉に面食らう。桔梗さんは反論しかけるが。何も言わせまいと、先に「私、決めたんです」と言葉を続けた。
「もう紲さんを見送るだけは辞めよう、どんな事があっても同じ世界に居ようって。彼の世界から逃げて遠ざかって、見送るだけだった結果がこれです。だからもう、同じ轍は踏みたくありません」
 そう、同じ後悔はしたくない。だから私は行くんだ、紲さんの所に。
 私は頑として譲らないと言う強硬な姿勢で自分の本気を見せつける。
 だが、彼等も彼等で頑としていて、首を縦に振らなかった。渋面を作り、私を止めようと思案を巡らせている。
 そんな二人を前に、私は「もう良いです」と言った。
「もう二人に無理は言いません」
 私の言葉に、二人は分かり安く安堵の表情を浮かべたが。その表情はすぐに消えた。
「二人が紲さんの意志を貫く様に、私も自分の意志を貫かせてもらいます!足手纏いになろうとも、私は紲さんの所に行きます!」
 自分の足で紲さんの元に行きますから!と力強く宣誓し、(言い捨てるって言う方が近いかも)私はくるっと踵を返す。
 そして紲さんの元に向かおうと、一歩踏み出したが
「何故、そうも必死に主様の元へ駆けつけようとなさるのですか」
 静かな問いかけに、私の足はピタッと止まり、軽く前につんのめる。
「戦場に赴いた所で、足手纏いにしかならないと分かっておられるのに。何故ですか」
 重ねられる問いにくるりと振り返ると、桔梗さんは私を推し量る様に見据えていた。揺らぐ事のない、まっすぐな瞳で。
「ご自身が玉陽の巫女だから、ですか」
「違います」
 そんな大層な肩書きは何も関係ありません。と、私は間髪入れずに答えた。
 そして「単純な理由です」と、小さく口元を綻ばせる。
「好きな人の側に居たいだけって言う、本当に単純で不純な動機があるから行くんですよ」
 桔梗さんはその答えに、呆気に取られた顔つきになったが。すぐに顔を綻ばせて「成程、確かに」と、しみじみと吐き出した。
「今までの叶架お嬢様のお言葉には全て、その動機が込められていらっしゃる。私が、気がつかなかっただけの様ですね」
 艶然とされながら返される言葉に、内側からぶわっと羞恥心が沸き起こる。
 恋心に解説を入れられると、こんなにも恥ずかしいのか・・・。
 恥ずかしさで身悶えし、目の前で「えっと、あっと」としどろもどろになってしまうが。桔梗さんはそんな私にフフッと艶やかな微笑みを零すだけに留め「叶架お嬢様」と、次に話を進めた。
「私共が主様の元へお連れ致します」
 優しく告げられた言葉に、私は大きく目を見開き「えっ?!」と素っ頓狂な声を上げてしまう。翠君もこれには予想外だったみたいで「えっ?!」と、私と同等の驚きを発していた。
「ちょ、ちょっと待ってよぅ!命令違反するって事ぉ?本気で言ってるぅ?!」
 翠君が桔梗さんを窺う様に尋ねると、彼は「そうですよ」と一瞥してから私に向き直る。
「参りましょう。私共が叶架お嬢様を命がけでお守り致しますので、どうかご安心下さい」
 スッと優しく手を差し伸べられるが、私はこの急速な展開について行けていなかった。
 意固地な姿勢の桔梗さんを折るのは正直無理だろうから、一人で突っ走るしかない。そう思っていたものだから、こんな展開になるとは夢にも思っていなかった。
 私の味方に付いてくれたのは本当に嬉しい事だし、とっても助かるけれど。急にこんな風にコロッと手の平を返されても戸惑ってしまう。
 私はそんな狼狽を隠しきれずに「えっと。い、良いんですか?」と、胡乱げに尋ねる。
「紲さんの厳命を無視して、私の勝手な言い分を優先させるなんて」
 おずおずと言うと、桔梗さんは柔らかな笑みを称えながら「良いのです」と、きっぱりと答えた。
「下された命に従う事も重要な使命ですが。私の最たる使命は、主様の最善の為に行動をする事ですからね」
 主様もきっと分かって下さります。と、にこやかに言葉を紡ぐ桔梗さん。
 そんな彼を前にすると、私の戸惑いはガラガラと音を立てて瓦解していった。
「ありがとうございます、桔梗さん」
 相好を崩しながら彼の手を取り、礼を述べると。桔梗さんは小さく首を振り「いいえ、叶架お嬢様」と私の手を優しく握った。
「それは私の言葉にございますよ」
 包み込まれる温かな手から、彼の温かな言葉を感じ取る。
 その温かい言葉に顔を綻ばせると、彼も微笑み返してくれた。
「では、急いで参りましょう。叶架お嬢様」
「はい、よろしくお願いします!」
 私の元気な声を受けると、蚊帳の外だった翠君が唐突に「あぁぁ、怒られるぅ」と悲痛に暮れた声を上げる。
「幸輝から、リーダーから、ボクは大目玉を食らうんだぁ!やだなぁ、やだなぁ!ボク、巻き込まれただけの可哀想な子供なのにぃ!」
 大きな駄々っ子が出現するが、瞬時に桔梗さんが「翠」と冷静に窘めた。
「一切の責を負うのは私ですから、お前が怒られる事はありませんよ」
 だから早く伏せなさい、と告げると。ぶうぶうと膨れっ面をしていた翠君の顔が、一気にパーッと晴れやかになる。
 やったぁ!言質取ったからねぇ!と言わんばかりに嬉々とし「分かったぁ!」と、べたりと地面に伏せた。
 その無邪気さに、私はやや唖然としてしまうが。桔梗さんは慣れたものなのか、平然としていて「では、上がりますよ」と私を支えながら、翠君の背に飛び乗った。
 私達が背に乗ると、翠君は地面をぐっと力強く蹴り上げて飛翔する。
 そうして翠君は私達二人を乗せながらうねうねと空を泳ぐ様にして、紲さんの気配を辿りながら進んでいく。
 ドンドンと引き離されていた距離が縮まっていく。
 今度は、私が紲さんを迎えに行く番だ。
 紲さん、私が駆けつけるまでもう少しだけ頑張って下さい。
 それまで絶対に負けないで。羅堕忌から、貴人から、そして死からも。
 何一つ、絶対に負けないで。
 絶対だからね、紲さん。
・・Side 紲 もう一度、君の笑顔を・・
 ひんやりとした地面が、痛む体に一瞬の和らぎを与えてくれる。俺のすぐ後ろでは、パラパラと壁の一部が崩れる音がしていた。飛ばされてきた俺を受け止めた事による衝撃で、崩れかけの壁が更に壊れたのだろう。
 俺はグッと奥歯を噛みしめて、よろよろと刀を支えにして立ち上がった。すでに満身創痍の体は、立ち上がると言う単純な動作ですらも大きな悲鳴をあげる。
 だが、今の俺には体の痛みを気にする余裕はなかった。貴人の力が、体の痛みを凌駕しているからだ。
 やはり貴人の力は内側からの圧倒的暴力だ。自我を保つ事だけに精一杯になり、もはや戦い所ではない。
 俺はふうううと自我を保つ様に、痛みを和らげる様に長く息を吐き出した。
 この状況なら使いこなせる、そう思ってしまったが。やはり貴人は俺の手には扱えない代物、初代以外では扱える事が出来ない強力な式神なのだ。
 強く柄を握りしめた、刹那。どおおおおんっと目の前の廃ビルが丸ごと吹っ飛び、砂塵の中から悠然と羅堕忌が歩いてきた。
「この俺様に、追いかけさせるなんて言う煩わしい真似をさせるんじゃねぇ!」
 随分と傲慢な物言いで腹立たしいが。俺は何も言い返さずに攻撃に備えて刀を構える。
 だが、羅堕忌は不自然な間合いで立ち止まった。先程までは息つく間もなく攻撃を繰り出してきたと言うのに・・。
 怪訝に思っていると、羅堕忌は「てめぇ、弱すぎやしねぇか!」と唐突に激昂した。
「そんなもんだったのかよ、貴人の強さってやつはよぉ!俺様は貴人と戦える日を長い事待ち望んでたんだ!貴人を使ったお前が現れた瞬間、俺様は久方ぶりに血が滾った戦いが始まると心躍ったんだぜ!だが、いざ戦ってみたら遊びにもなりゃあしねぇとは!最悪だぜ!失望以外の言葉があるかぁ?!」
 自分勝手な怒りが、俺の耳に、俺の心に、深々と突き刺さってくる。
 分かってんだよ、そんな事。お前なんかに言われなくとも、自分が弱い事なんて痛い程分かってんだよ。
 師匠の様な武力もなければ、他の十二天将継ぎの鏡番達の様な知力も、胆力も、強みもない。他と比べると、俺は圧倒的に力が足りない。
 それだから、俺は持っている弱さを強さに塗り替えようとしてきた。訓練を重ね、努力する事を怠らなかった。求める強さに辿り着こうと必死だった。
 だが、それでも足りない。
 俺は弱いままだ、弱すぎるままだ。
 自分の浮き彫りになった弱さを痛切に感じ、グッと奥歯を噛みしめるが。「ぐちゃぐちゃになぶり殺すだけじゃ足りねぇなぁ!」と言う怒声で、俺は目の前の現実に引き戻される。
「存在が憎い罪、俺様を前に調子に乗った罪、俺様から玉陽を勝手に引き離した罪、俺様の楽しみを台無しにした罪、そしてゴミの様に弱すぎる罪!こんだけの罪をてめぇは重ねたんだからよぉ!」
 ダンッと力強く地面を蹴り上げ、間合いがグッと一気に詰められた。
 目で何とか追え、刀を構えようとしたものの。内側から暴れる力が、その反応の足枷となった。ぐらりと視界が歪み、意識が全て内側に引っ張られる。
 マズいと思った時には、もうすでに遅かった。
 ドンッと深々と羅堕忌の重たい拳が胸部にめり込み、「ぐあっ」と言う呻きと共にバキバキッと胸骨を中心として肋骨辺りまでヒビが入る嫌な音が爆ぜる。
 俺は弱い、弱いから勝てないのだ。羅堕忌にも、貴人にも、そして死にも・・。
 朧気に現れる死が、俺の指先を掠める。
 その時だった。俺をあちらに連れて行こうとしていた死が「お前はまだ違った」と、ぷいっと背き、遠のいていく。
 突然自分の身体が何かに支えられ、横たわらされた。
 俺の全てが迅速に生命維持に取りかかっていく。すでに生を諦めていたにも関わらず、必死に命を繋ぎ止めていった。
 一体、何が起きた?どうなっているんだ?
「紲さん、紲さん!しっかりして、紲さん!」
 聞こえるはずのない声が朦朧とした世界に響き、俺は無理やり意識を目の前に集中させる。カッと目を開き、朦朧も混乱も全て破った。
 そして愕然とする、目の前の存在に。
「きょ、叶架」
 彼女の名前を呼んだ瞬間、言葉にうまく出来ない感情が俺を支配した。どうしてと驚く様な、何故ここに居るんだと怒る様な、そして会えて嬉しい様な気持ちが綯い交ぜになる。
 だが、蘇ってくる全身の痛みのおかげで、喜びに浸っている場合ではないと気持ちが冷静にカシャンと切り替わった。痛みを堪えながら「何故戻って来たんだ」と、厳しく問い詰める。
「早く逃げろ、人間の世界に戻れ」
「嫌です!」
 予想外の言葉に俺はやや面食らってしまったが。彼女の反駁を封じるべく口を開こうとする。
 だが、俺の言葉は温かくて柔らかな衝撃に封じられ、言葉にならなかった。