■ 02-01 家:



 ◆ 02-01-01 料理



 大粒の涙をこぼすシアン。


 自宅のキッチンで、包丁を使いたまねぎをみじん切りにしている。たまねぎの細胞が破壊されると揮発(きはつ)性物質が粘膜を刺激し、涙腺から涙が出る現象。怪力のシアンでも、ちからの逃げ道を作れば、包丁も扱うことができる。


 叔母のユカリはブロッコリーを小房に分けて茹で、トマトと茹で卵で簡単なサラダをガラスの器に雑に入れる。


 シアンの作っている料理はデミグラスソースのハンバーグ。合い挽き肉800g。塩コショウとみじん切りにしたたまねぎ、牛乳と溶きたまご、つなぎにパン粉を混ぜて手のひらサイズにしたら、チーズを中に入れてソースで煮込む。


シアン「ユカリちゃん、きょう
    ケンから腕時計貰った。
    入学祝いだって」


 キッチンペーパーで涙を拭う。ついでに鼻も拭う。


ユカリ「あとで見せて」


シアン「うん。そんで、
    なんかお返ししようと思う」


ユカリ「えー? 高いやつ?」


シアン「まだ10歳だよ?
    今度の誕生日くらいに。
    ちょっと先だけど」


ユカリ「もう10歳よ。
    シアンの料理の腕も
    なかなか手際がよくなったね」


シアン「ね、まだなにも
    壊してないでしょ?」


 シアンが自信満々にそう言った矢先に、ステンレス製のボウルが陶芸粘土のようにぐにゃりと曲がった。


ユカリ「ほんとだ。
    まだだった、ね」


 ばつが悪そうに、すでにボコボコになっているボウルを怪力で直すシアンであった。



 ◆ 02-01-02 部活の話



ユカリ「ところで部活やるの? 帰宅部?」


シアン「部長がまた部室設置するって」


ユカリ「あー部室棟工事してるの、
    そういう理由か。
    そこ入るんだ」


シアン「うん」


ユカリ「あの部のおかげで、
    力加減がマシになったもんね」


 ボウルを曲げたばかりで皮肉にも聞こえて、目線を上げた。


シアン「ところでさ…」


 大量のひき肉をこねながら、シアンは目の前の疑問を口にした。


シアン「なんでチューリップ組が
    ウチに居るの」


ユカリ「大勢居たほうが楽しいじゃない」


格さん「たまねぎ程度の外部刺激では
    質量変異体(しつりょうへんいたい)の回収が
    無理なことはわかっていただろう」


助さん「(しか)り」


黄門様「お嬢様の手ごねハンバーグぅ!」


 サングラスをかけた大人3人。シアンの涙からは目的の物は得られなかったが、彼女の作った手製のハンバーグは得られた。



■ 02-02 教室:



 ◆ 02-02-01 エマの死



カレン「シアン、エマが死んでる」


 深刻そうな顔で呼びかけてきたカレンだが、演技ぶった彼女の真剣な言葉でも、シアンは慣れているので驚きはしない。


 机にしがみついて顔が溶けているエマを、心配するテア。


エマ「ワタシ、体力測定キライ…」


 液状のエマが片言で喋る。


シアン「それなら、わたしとサボる?」


 席にやってきたシアンだが、あえて甘やかすようなことを言う。


エマ「わたし(かどわ)かしたら、
   シアンが悪者になっちゃうじゃん」


カレン「やさしー」


テア「はいはい。惚気(のろけ)けない。
   早く着替えないと遅れるよ」


 この茶番劇に最後までつきあったテアが手を叩いて急かす。しかし、エマの腰は重い。


シアン「エマ。きょう、なに食べたい?」


エマ「…ハンバーグ…。
   つくってくれたら頑張る」


シアン「それ昨日作ったよ」


エマ「えー! タイミングぅ…」


黄門様「そしてわたくしが、
    おいしくいただきました」


 どこからともなくやってくるヤクザの情婦風の女。財団のボランティアを称する黄門様は、きょうもスーツにサングラス姿で教室内の男女を萎縮させる。胸元につけられたチューリップの名札だけが、威圧感を和ませる。


助さん「美味しゅうございましたなぁ!」


エマ「チューリップ組は、
   自慢しに来ないでよ、もー!」


 肩を叩いて同情してみせる常識人の格さんだが、彼もまたハンバーグを食べている。



 ◆ 02-02-02 喜咲(きさく)ユウジの登場



ユウジ「頼もう! 魚川(うおかわ)はいるか!」


 体操着姿をした短髪黒髪のガタイの良い男子が教室にあらわれる。


 シアンは仲良し4人組で、着替えのために更衣室へ移動する直前だった。親友のエマと中学時代からの友人、カレンとテアの4人。モデルのように背の高いカレンが目立つ。


シアン「誰? あの騒がしいの」


カレン「2組の喜咲(きさく)ユウジ」


テア「わたし達、同じ塾だったの」


ミツオ「俺が紹介しよう」


エマ「げ、いけ好かないメンズ。
   略してイケメンくん。
   ちょっと! シアンに
   くっつかないで!」


 ミツオはシアンの肩を抱き寄せる。シアンは感情を殺してフラットな表情で彼を見る。


 エマは彼を引き離そうと、平手で背中を叩き、シアンの腕にしがみついて割り込む。


ミツオ「痛いって。お人形ちゃん。
    その呼び方、やめてくれ。
    これからは親愛を込めて
    ミッちゃんって呼んで欲しいね」


シアン「込めようがないからね」


エマ「一応くん付けはしたよ。ねぇ」


 カレンとテアは、ミツオの行動に言葉を失う。ほかの女子たちの視線が痛い。


ユウジ「おう! ミツオも。
    怪力ちゃんと
    体力測定で勝負しようぜ」


カレン「なんであんたと
    シアンが勝負すんのよ」


 カレンとユウジもまた同じ塾の知り合い。しかしながらさほど親しくはない。陽気なやつと、騒がしいやつというのがお互いの印象。


ユウジ「先輩の腕をへし折ったって
    有名だから、腕試し
    したくなったんだよ」


 同じくらいの身長のシアンと対面して、胸を躍らせるユウジ。


シアン「折ってないって。
    元から折れてたんであって」


 先輩のジンは春休みのバイトで転んで、右腕を骨折していた。博士の用意した機械の腕を、見事に破壊したのはシアンである。


エマ「砕いたんだよねぇ」


テア「へし折ったのは
   エマちゃんの机です」


カレン「自分より体力の劣る女子を狙う
    卑怯な男子って、女子たちに
    ウワサされるだけよ。あんた」


ユウジ「ぬぅ。それはけしからんな。
    やっぱり勝負はナシだ。
    でもミツオは絶対に負かす!」


ミツオ「負けたやつは
    ちん毛剃毛(ていもう)な!」


ユウジ「確認したくねえ」


カレン「アホだね。男子どもは」


 カレンの言葉にうなずくほかの女子3人。



■ 02-03 グラウンド:



 ◆ 02-03-01 散歩するシアン



 グラウンドに集まった女子男子ともに、長袖とハーフパンツの体操着姿。まだ肌寒い。


 体力測定は9つのグループに別れて、種目ごとに記録を取っていく。


 しかし、シアンは運動着に着替えたものの、体力測定には参加せずグラウンドをひとりでブラブラと散歩をしている。


 男子はいきなり1,500m走を計測しているグループもいた。男子の群れの中からはぐれ、周回遅れのひとり。背の小さな影を目で追った。


 トラックの事故で助けたイサムが遅れてゴールすると、ふらふらと歩き、そのまま力を失い地面に倒れた。


 ほかの男子生徒たちに応援された貧弱な彼の、見事な倒れっぷりが笑いを誘った。それから移動する同じグループに見捨てられて、イサムは放置された。


 イサムは虫の息でそのまま地べたを()って、どこかへ向かっている。グループに放置されたことなど気づいてはいない。


 シアンはその様子が気になって、声をかけるでもなくゆっくり近づいてみた。


 奇妙な行動をしているイサムは、地面のなにかを見ている。黒色にうごめく点の列。


シアン「アリ?」


 シアンに突然話しかけられ、イサムは肩を驚かした。いまなお息切れして、心臓が飛び出さんばかりの顔で目を見開いている。


シアン「ごめん。驚かせる
    つもりじゃなかったんだけど」


イサム「魚川(うおかわ)さ…ではなくて…
    シアンさん。えっと…
    あの…、こんにちは…」


 目をそらし、気恥ずかしくするイサム。カフェでの一件もあるが、それよりも体力測定をサボってアリを眺めていた罪悪感がイサムにはあった。


シアン「祭門(さいもん)くんもサボり?」


イサム「え? と、
    (うお)…シアンさんも?」


シアン「わたしは体力測定ができないから。
    握力の測定器具を壊したり、
    ボール投げられずに割ったり。
    怪力で過ごすのって大変なの」


イサム「それなら空は飛べたりしますか?」


シアン「えっ? 飛べない。
    んー、飛んだとしても
    落ちたら死んじゃうでしょ」


 シアンは足首だけで軽く跳ねたが、地面をえぐることもなく、空を飛ぶこともなかった。


イサム「そうですか…。
    人間、普通はそうですよね」


 怪力を自虐するシアンも、見世物扱いを断り残念がられることがあっても、普通と評されたのは初めてで、呆気にとられた。イサムはそんな彼女を気にもせず、アリの観察を続ける。


シアン「わたしが出来ることなんて
    せいぜい穴掘りくらいなもんだよ」


イサム「巣穴は壊しちゃ
    いけませんよ」


シアン「しないって。
    見てて楽しい?」


イサム「楽しいですよ。
    アリは自分の体重の
    何倍もの重さを持ち上げたり、
    何十倍も重たいものを
    引っ張れるんです。
    あっ! これって
    シアンさんみたいですね」


シアン「わたし、アリに
    例えられたの初めてだよ」


 しかしそんな言葉を無視するかのように、イサムはアリの解説をする。


イサム「こんなに小さいのに、
    群れは組織でいて役割があって、
    それでも個性もあって、
    見てて面白いですよね。
    なによりここには普通なんて、
    ものさしがないんです」


シアン「ものさし?」


イサム「はい。
    見てください。
    働きアリには
    役割はあっても、
    基準はないんです」


 イサムがアリを熱心に語るので、シアンも隣で膝を抱えて観察する。


 列をなして巣へと蜜を運ぶ、働きアリの群れ。どこかの虫の(はね)を運ぶアリ、巣から出てきて仕事を始めるアリのなかには、同じ場所をクルクル回るアリもいてイサムがそれを指さした。


 観察しているのはクロオオアリだが、シアンは虫には詳しくはない。人間よりもほかの動物のほうがマシという程度で、虫も嫌悪するタイプではない。


 アリの列も、真っ直ぐな一本線ではなく、所々で蛇行し、列をはみ出す個体に誘導されて迷走する集団もいる。


シアン「なん匹いるんだろう…」


イサム「すごいですよ、アリは。
    地上には人間よりも
    アリの方が数が多いと
    言われています。
    それにアリは空も飛べて、
    どんな高さから落ちても
    死なないんです」


シアン「アリって飛べるの?」


イサム「はい、このクロオオアリにも
    (はね)があります。
    メスとオスは空を飛んで
    結婚式を挙げるんです」


シアン「ロマンチックな言い回し。
    結婚式だなんて」


イサム「もちろん命がけですよ、オスは。
    それからメスは(はね)を落として
    コロニーを作ります」


シアン「そっか。
    それが女王アリになるんだ」


イサム「はい。
    そのとおりです。
    こんな小さな世界でも、
    知らないことがいっぱいあります」


 滅多にない話し相手に、イサム体力測定を忘れて饒舌(じょうぜつ)になる。



 ◆ 02-03-02 脱線するイサム



イサム「もっと興味深いのは、
    草食動物のフンに混じった
    虫の卵をカタツムリが食べると、
    カタツムリの中で成長した虫が
    脱出します。それを今度は
    アリが食べるんです」


シアン「アリがその虫? を、食べるの?」


イサム「はい。
    粘球(ねんきゅう)というものなんですが、
    食べ物と勘違いするんでしょうか。
    それを食べると昼行性のアリも
    夜な夜な行動して、草に登ると、
    背の高い草に噛みついたまま
    朝を迎えるんです」


 奇妙な話についつい乗せられ、シアンはうなずいて続きを待った。


シアン「酔っ払いみたいなアリだ」


イサム「なるほど、酔っ払いですか?
    そんな解釈も面白いですね」


 無知なシアンの言葉にも、イサムは思わず感心する。


シアン「それで、どうなるの?」


イサム「そのアリは草の上で草食動物に
    食べられるのを待つんです。
    実はアリは粘球(ねんきゅう)に混じっている
    寄生虫に操られていたんです」


シアン「寄生虫が?」


イサム「カマキリを水場に誘う
    ハリガネムシと同じですね」


シアン「知らないけど、そうなんだ」


 シアンが知っている前提でイサムの話が進む。


イサム「食べられたアリの中の寄生虫は、
    草食動物の消化器官で成虫になり、
    繁殖して卵がフンとなって出ます。
    カタツムリの中で幼虫になり、
    アリへとライフサイクルを作る。
    槍形吸虫(やりがたきゅうちゅうう)という寄生虫です。
    どうやって進化したんでしょうか」


シアン「わかんない」


 普通に生活していれば、寄生虫など縁もゆかりもない。突然の質問に、知識のないシアンは率直な感想を述べた。


 サバやサケにつくアニサキス。キツネにつくエキノコックス。あとはサナダムシくらいしかシアンの知識にはない。ノミやダニ、蚊のメスも広義では寄生虫であるが、意識しなければ寄生虫の定義などわからない。


イサム「この宿主を操る寄生虫は、
    ほかにもいっぱいいます」


 カマキリを水場へと誘うハリガネムシ以外には、カタツムリを日向に出て鳥類に食べられようとするロイコクロリディウム。ゴキブリを洗脳状態にするエメラルドゴキブリバチなどがある。


 それらをいっぺんに話そうとしたイサムだが、自制心が働き、口を固く閉じて相手の表情に冷や汗をこぼした。



 ◆ 02-03-03 相利共生(そうりきょうせい)



シアン「やっぱりあなたも、変わってる」


 以前、イサムに言ったことをシアンは再び伝えて微笑む。ただ、自分も変わっていることは自認した上での発言だった。


イサム「はい…、よく言われます。
    気をつけているつもりですが…
    どうにも虫の話になると
    夢中になりやすいって。
    実は学校へ行かなくなったのも、
    これが理由なんです」


シアン「あ、待ってそうじゃない。
    責めてるわけじゃないよ。
    自分の知らない世界の話は、
    興味深いし、聞いてて楽しい」


イサム「あっ…お心遣い助かります…」


 イサムは脚を折りたたみ、両膝と頭を地面につけて感謝する。


シアン「気遣(きづか)ったわけじゃないって。
    これは本心だもの」


 そう聞いて、イサムは表情を明るくする。シアンは手に登ってきた、好奇心旺盛なアリを見つめる。


シアン「変なアリだけど、
    変じゃないんだね」


 ここにはそんなものさしはない。変なもの同士。


イサム「こうして見下ろす
    虫たちの小さな世界も、
    視点を変えれば
    とても広大なんだと
    改めて実感できます」


 地べたに食い入るように、アリを眺めるイサムの目とその言葉に、シアンは感銘を受けずにはいられなかった。



 ◆ 02-03-04



 そうこう話しているウチに、授業を終えるチャイムが鳴り響いた。


イサム「あれ? 体力測定は…?」


シアン「サボりじゃなかったの?」


 グラウンドの端でサボっていたふたりを、ミツオは遠くから見ていた。



(2話『世界のものさし』終わり)


次回更新は8月9日(水曜日)予定。



■ 02破壊レポート:



 今回壊したもの。


・ボコボコのステンレスボウル