『……この、赤い糸っすか』
教室の天井からぶら下がる1本の赤い糸を見ながら、早苗は肩透かしを食らったような顔をした。
『うん。この周りだけは影縫いが入り込めなかったみたい。それに、教室の天井からぶら下がってるなんて変じゃない?』
『そりゃそうですけど……でも、俺がさっき見回った時にはここには無かったんスよね』
『うーん、これは憶測なんだけど。智絵里ちゃんを引きずり込んだあとだから、次の迷い人は要らなかったんじゃないかな』
『……やっぱり無理やりにでもついてくべきでした。明日から放課後になったら真っ先に迎えに行きます。もう誰にもちえちゃん先輩を触れさせないッス』
『うわ、急にストーカーを公言されても困るんだけど……引くわ……』
『同居人さんに監視されてるのが愛とか言ってる人に言われたくないッスね』
『あはは、つくづく俺たちは似た者同士だね……。それじゃあ、この糸、引っ張ってみるよ。もし何かあったら……』
『さっきから右手が騒いでるんで自分の身は自分で何とかするっス』
『……オーケー。それじゃあ行くよ愛弟子』
意を決して、弓鶴は赤い糸をゆっくり引っ張る。すると、引っ張った分だけ来訪者を告げる鈴の音が無数にも鳴り響いた。侵入者が来ましたよ、と言わんばかりに、耳を劈く神々しい音は地面が揺らぐほどであった。地鳴りを上げ、ふらつく足元と視界を何とか堪えながら収まるのを待つ……。
すると、揺れが収まると同時に変貌した教室が目に飛び込んだ。机で作られた無造作なピラミッドの前に赤い糸で全身を絞められた梅原智絵里の姿がそこにあった。首に無数の赤い糸が巻かれており、辛うじて彼女は息をしているようだった。しかし、ピラミッドに磔になっているのか両手首にもそれはぐるぐるに巻かれており、そのせいか顔色もどんどん青くなっていた。
ただでさえ彼女は貧血を患っている。血の流れが悪くなれば、命も危ない。
『ちえちゃん先輩!』
そう呼びかけると、早苗の言葉が届いたのか、ケホッと吐き出して薄らと智絵里は目を開けた。そして、寒さで震える唇を動かした。消え入りそうな声で目に涙を浮かべていた。
『に………げて………』
その言葉と共に獣のような唸り声と釣鐘の音が辺りから反響を繰り返し、早苗と弓鶴の体へと蝕む。心臓を殴りつけるようなその音を打ち鳴らし、それは彼らの頭上から現れた。長い髪を揺らし、歪んだ顔で二チャリと不気味に笑う。軟体動物のように体を左右に揺らし、血で錆びた大きな鋏をふたつ持ってゆっくりと近づくことだろう。
【……アカイイト、みィつけた。みィつけた。アタシの、アカイイト、みィつけたみィつけた】
怪異『運命の赤い首吊り糸』アカコとの遭遇だった。
【ウヘウヘへへ、ヘェヘェ、アカイイト、運命の、イト、切らせて、切らせてェ!】
シャキンシャキンと刃を合わせながら勢いをつけ、弓鶴へと向かってきた。並外れた瞬発力に、初動は遅れたが、間一髪、ハサミが首に切り掛るよりも先に弓鶴は上体を下げるように膝を曲げ、そのまま宙を舞ったアカコの腹を蹴り殴って壁の向こうへ叩きつけた。
『……あはは、アカコさんってもしかして面食い?』
すぐに攻撃態勢をとる。およそ1ヶ月前まで入院していたとは思えないほどの機敏さに、早苗は言葉が出なかったが、ハッとして早苗は智絵里の方へと向かった。
『ちえちゃん先輩!』
怪異が弓鶴に向いているのであれば、救出するのなら今しかない。それを分かった上で、弓鶴は早苗の後ろでヘイトを買って出た。
『アカコさーん。いいよォ。遊んであげる。こんなに素敵なイケメンと甘い青春なんて、きっと出来なかったもんねぇ?可哀想に』
弓鶴は挑発が上手い。相手の地雷を的確に踏み抜いて、自分へ怒りを買わせるとなれば事務所で右に出る者はいない。アカコにとってその言葉の全てが逆鱗に触れたのか、
【ウガァアアアア!!】
と声を荒らげて、再びハサミを持って弓鶴に切りかかろうとするが、同じ手は二度と『冴羽弓鶴には通じない』。持っていた向かってきた手首を掴み、そのまま宙へと放り投げると、勢いよく飛び込んで下腹部に一発拳を入れて吹き飛ばした。コンクリート片が壊れる音が地響きとともに周囲に木霊する。
『うーん、やっぱり、女の子を殴るのは気が引けるんだよなぁ』
どの口がそんなこと言っているのか、男だったらいいのかという問いよりも先に、アカコがゆらりと立ち上がり、負けじと弓鶴の首を狙おうと、悲鳴に似た唸り声を上げながらハサミを附けつけてくる。
『……諦め悪くて困っちゃうなあ』
でも、諦めの悪い子は嫌いじゃないよ、と攻防を広げている中、弓鶴はあることに気がつく。どれだけ攻撃に持ち込んでも、アカコ自体に傷はついてない。触った感触は【中身の無い人形】そのものである。しかし、どれだけ物理で攻撃を仕掛けようとも、体力の底が見えない。それどころか、有限であるこちら側の疲労が見え隠れしてきた。それに、アカコ自身の復帰や攻撃の速さが上がっている。
ここはアカコのテリトリーである。
普通の人間が攻撃をし続けたところで、アカコの舞台上であることに変わりがない、となるとすると……。
『あー、なるほど、俺じゃダメってことね。ナエくんがいてくれて良かったわ』
そう結論づいた時、アカコが攻撃を辞めハッとした表情でピラミッドの方へと顔を向けた。早苗が智絵里の赤い糸を解いたのだろう。
その姿を見たアカコはウァアアアア!!と雄叫びをあげ、そのまま持っていたハサミをピラミッドの方へと放り投げた。それは寸分狂いもなく、確実に智絵里を狙っていた。それが突き刺されば、死は免れない。弓鶴が声を上げたと同時に、それは、有無も言わさず___粉々に砕け散った。
『……テメェ、覚悟は出来てんだろうな』
そう言って早苗は、右手で粉々に潰した鋏を地面に落とす。早苗の右手と右目に琥珀色に染まる炎が宿っていた。特に右手は、それこそまるで熊の手のように硬い毛と大きな爪を宿していた。憔悴しきった彼女を片腕で抱きながら、その怒りを露わにして視線で人を殺すかのように殺意を向けていた。
【愛】を見せつけられたアカコは自分の皮膚を爪で引っ掻き阿鼻叫喚の悲鳴をあげる。発狂で気が狂ったアカコは、かつてない俊敏さで早苗と智絵里へと向かう。それを見ていた弓鶴は、手を貸すどころか、呆れたようにその様子を見つめていた。
『……自ら禁忌呪物に立ち向かうなんて、自殺行為の何物でもないよ』
俺は援護だとしても近づきたくないよ、その弓鶴の言葉通り、それははアカコにとって自殺行為に等しいものだった。
禁忌呪物:熊の手(右)
それは一言で言えば、破壊に特化した呪いの手。この世のありとあらゆる物象を真っ二つに滅ぼすことが出来る、攻撃型呪物である。
それは、アカコの存在も例外では無かった。
あと数cmで首を切れるというところで、早苗の右ストレートがアカコの頬に容赦なくぶち込まれた。ゴキィ、という何かが砕けると音ともに彼女の体、頭の先からつま先までヒビが入る。彼女自身、自分に何が起きたのか分からない様子だった。だが、それでいいのだ。
『……その姿を二度と見せんじゃねえ』
考える時間もなく、熊手によってこの世から存在を破壊されるのだから。
※※※※※※※※※※
アカコが消えた次の瞬間、早苗たちは元の教室へと戻された。外はすっかり夜のイロが月とともに覗かせていた。光によって写し出された自身たちの影が大きく伸びる。ほっと一息つくと、その場でしゃがみこんでしまった。
『……あーあ、疲れた』
第一声に声を上げたのは弓鶴だった。怪異と長く対峙していたのは彼だ。早苗は智絵里を抱きながら、深々と頭を下げた。
『弓鶴さん、この度は本当にありがとうございました。後日、組の方から御礼させて頂きます』
『いやいや、そう言うのいいから。最終的に、彼女を倒してくれたのはナエくんなんだし、むしろナエくん居なかったら俺も智絵里ちゃんも終わってたよ』
『でも、ちえちゃん先輩を見つけられたのは弓鶴さんのおかげなので』
『あはは、まあ、それぞれ役割があったってことでいいんじゃないかな。終わりよければすべてよしってね』
『そうッスね……』
『それよりも、早く学校出て病院に連れてった方がいいかもね。首の糸の後、結構食い込んでるみたいだし……。命に別状は無さそうに見えても一応ね』
弓鶴は自身の首を人差し指で指しながらそう啓示する。確かにそうだ。怪異の世界と現実の世界では時間の流れが違う。下手すると、自分たちが探していた時間よりも時が進んでいた場合がある。
『今日はうちで面倒見させていただきます。梅神さんには……』
『あー、了解了解。俺から連絡しとく。証人が居た方が預かりやすいでしょ?』
『お手数お掛けします』
『それじゃ、警備員が来る前にさっさと退散しよう。俺、一応部外者だから通報されたら終わるし』
『はい……あ、ちょっと待ってください』
『ん?』
早苗は自分の胸ポケットから、黒いリボンを取り出すと器用にそれを彼女の髪へと結び直した。
『……うん、やっぱり』
__ちえちゃん先輩にはこの糸が似合ってる。
早苗は嬉しそうに微笑んだ。
※※※※※※※※※※※※※
『……余計な邪魔者が入りましたね。このまま彼女が死にかけるまで様子を見て、私が助けるって計画が頓挫してしまいました。全く……傍迷惑な邪魔者共だよ』
でもまあ、いいでしょう、と黒髪の男性はほくそ笑んだ。
『……冥府の花嫁の争奪戦は、張合いがある方がいい』
その手元には正十二面体の欠片が青白い月の光に照らされていた。