『……ごめんね、俺、出かけてくるよ』
休みじゃなかったの?とどこか寂しそうな顔をする同居人に、冴羽弓鶴は玄関先で靴紐を結びながら申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
『休みだったんだけど、可愛い愛弟子からのSOSだからね。それに、お世話になってる事務所の姪っ子ちゃんが巻き込まれたらしいし、誰も居ないから俺を頼ってきたんだよ』
つま先を鳴らし、踵を数回整えるとコートを羽織る。靴箱の上に置かれた鏡を見て自分の頬をパチンと叩く。そして、同居人の方を振り向いて、柔らかく微笑んだ。
『……大丈夫!必ず帰ってくるよ。だから良い子で待ってて?』
少年のような無邪気さの中にある気高い強さはまるで天使のように美しい見姿をしていた。行ってきます、と彼は同居人に手を振ると扉を開けて足早に学校へと向かった……。
※※※※※※※※※
『……ナエくん!遅くなってごめんね!』
塀を乗り越えて降り立つと、弓鶴は早苗と合流した。それを見た早苗が深々と頭を下げた。
『いえ、むしろ休みの日に無理にお呼びしてすみません……!!というか、遅いってよりもむしろ早いんですけどもしかして……』
『なんとか日没前だったからね。【影縫い】に手伝ってもらってビルとビルの間を飛んできた』
『弓鶴さん、それは頼もしいんですけど1ヵ月前まで入院してたんですから無理はしないでください』
『ハハ、リハビリみたいなもんだからヘーキヘーキ。それで、怪異ってのは学校のどこにいるの?』
『恐らくなんですけど、ちえちゃん先輩のリボンが落ちてた場所からして、3年の教室のどこかに隠れてるはずなんです』
『なるほどね……』
弓鶴は早苗の説明を一通り聞いて、智絵里の黒リボンを見ると目付きがまた鋭くなった。そして、校庭の向こう側、住宅街に半分ほど顔を沈めた夕日を見つめ、急ごうと声色を変える。
『……影縫いが消える前に、引っ張り出してやろうか』
そう言って足早に3年生の教室へと向かった。
※※※※※※※※※※※
3年生の教室があるフロアに到達した時、早苗と弓鶴の胸の奥に痺れるような電流が走った。早苗には先程感じなかった痛みだが、二人はこの感覚に覚えがある。
『……露骨に【牽制】してきたね』
弓鶴は胸を抑えながら、それでもどこか余裕を持って笑っていた。それは早苗も同様だった。早苗は胸だけではない、包帯が巻かれた、自身の右手に棲む【呪術】が疼いて居るのがわかる。
廊下に立って背中合わせに周囲を警戒する。自分達には、梅神探偵事務所の社員、烏丸渉のような霊視能力を持ち合わせていない。自身の目で、耳で、第六感で真実を導き出す。彼ら『力仕事』組にとってこの怪異との遭遇はあまりにも相性の悪いものだった。
しかし、だからと言って悪いからと言って逃げ出すような彼らでは無い。むしろ、彼らは諦めの悪さだけで言えば、事務所随一なのだ。全ては、大切な人たちを守るため、その為ならどれだけでも前線に立てるのが彼ら二人の強さである。
『……多分、しらみ潰しでもう一度教室を回ってる猶予は無いね』
弓鶴は長い廊下の突き当たりを見つめ、日没ギリギリなのを考慮して、指をパチンと鳴らした。
『ああなるほど、フロア全体を黒鶴で覆えばいいんだ』
明るい声色で突然そんなことを言い出した。あまりの提案に早苗は素っ頓狂な声を上げた。
『……は、え?今なんて言いました?』
『言葉通りの意味だよ。怪異に影は無い、実体がないからね。でも、怪異以外の僕らは実体がある。フロア全体を覆って、黒鶴が支配出来ない場所に智絵里ちゃんがいると思うんだ』
『なるほど、それで影縫いを……ってことは、それって黒鶴さんが俺の中に入るってことじゃないですか!』
『何言ってんの?緊急事態なんだから、嫌々しないの!!それとも智絵里ちゃんを助けたくな』
『影縫いがなんですか!ちえちゃん先輩の為なら一影でも二影でもお好きなように荒らしてってくださいよォ!』
『ふふ、それでこそナエくんだよ。じゃあ……』
__ちょっと『荒す』けど勘弁してね。
そう言って弓鶴はまた指をパチンと鳴らした。軽快なクラップ音に似たそれと共に、周囲が黒に包まれた。影という影か集合し合い、建物の隙間という隙間に入り込んで膜を貼っていく。それと同時に、自分の体の中を何者かの無数の手が這いずり回る感覚があった。恐らく、影縫いの副作用である。
以前に何度か、同じように協力したことはあるが、体中を撫で回すように徘徊する気持ち悪さが慣れない。自分の心の奥底の主導権が握られているような、敗北感がやはり否めなかった。
物体の輪郭だけが白く浮き上がり、それ以外の色が黒に染ったこの空間で唯一平気なのは、影縫いの宿主、冴羽弓鶴だけなのだ。彼は軽い足取りで周囲を見渡しながら、ピアノ奏者のように指先を静かに上下に動かす。影縫いは、彼にしか見えない糸を幾つも手繰り寄せているとのこと。
怪異:影縫い【黒鶴】
黒鶴とは彼が命名した名前だ。影縫いと呼ぶにはあまりにも粗雑とのこと。理由が単純だが、烏丸や梅神と違ってあまり拒否反応や代償が少なく暮らしている。
しかし、影縫いは彼曰く『後方支援型』であって、影縫い自体に攻撃をする手段は持ち合わせていないという。出来ることと言えば、今のように『大きな範囲を影で覆って空間を作ること』と『物体の影という影の隙間を飛び交うこと』である。普通の人であれば扱いが難しいのだろうが、彼はパルクールを得意としているので、その相乗効果は高い。
ただ、影縫いの代償として、ありとあらゆる物体の影に『干渉』するので、周りにいる人間はその影響を受けやすく、今回の早苗のように『無数の手が体の中を這いずり回る』という副作用がある。事務所の中で、これを好きという物好きは誰一人居ないだろう。
『うーん……見つかんないなあ。日没前には何とかしたいんだよね』
首を傾げながら、弓鶴は右手の指先を上下に動かしている。相当隙間まで影を侵食させているのだろう。影縫いの影響で、気持ち悪い、と早苗が口に出かけた瞬間、何かを見つけたのか弓鶴の手の動きが止まった。
『……はーん、なるほどね。小賢しいことをしてくれたね』
その笑みは相手の弱点を見つけたかのように底意地の悪い顔をしていた。綺麗な顔立ちなだけに、早苗はその不気味さにゾッとした。ふむふむ、と言って弓鶴は指を三度パチンと鳴らすと、黒い膜は彼の足元に吸い込まれるように消えていった。
窓を見れば、もう陽が沈んでおり、周囲は藍色に染まりつつあった。あれだけ自分にまとわりついていた無数の手の感覚は消えた。深呼吸をして立ち上がる。
『……弓鶴さん、それで、ちえちゃんの場所は分かったんですか?』
不安そうな早苗の言葉に、弓鶴はくるりと回して口元に人差し指を当ててウインクした。
『もちろん。ナエくんのおかげで見つかったよ。智絵里ちゃんは……』
【赤い糸に縛られて閉じ込められている】
休みじゃなかったの?とどこか寂しそうな顔をする同居人に、冴羽弓鶴は玄関先で靴紐を結びながら申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
『休みだったんだけど、可愛い愛弟子からのSOSだからね。それに、お世話になってる事務所の姪っ子ちゃんが巻き込まれたらしいし、誰も居ないから俺を頼ってきたんだよ』
つま先を鳴らし、踵を数回整えるとコートを羽織る。靴箱の上に置かれた鏡を見て自分の頬をパチンと叩く。そして、同居人の方を振り向いて、柔らかく微笑んだ。
『……大丈夫!必ず帰ってくるよ。だから良い子で待ってて?』
少年のような無邪気さの中にある気高い強さはまるで天使のように美しい見姿をしていた。行ってきます、と彼は同居人に手を振ると扉を開けて足早に学校へと向かった……。
※※※※※※※※※
『……ナエくん!遅くなってごめんね!』
塀を乗り越えて降り立つと、弓鶴は早苗と合流した。それを見た早苗が深々と頭を下げた。
『いえ、むしろ休みの日に無理にお呼びしてすみません……!!というか、遅いってよりもむしろ早いんですけどもしかして……』
『なんとか日没前だったからね。【影縫い】に手伝ってもらってビルとビルの間を飛んできた』
『弓鶴さん、それは頼もしいんですけど1ヵ月前まで入院してたんですから無理はしないでください』
『ハハ、リハビリみたいなもんだからヘーキヘーキ。それで、怪異ってのは学校のどこにいるの?』
『恐らくなんですけど、ちえちゃん先輩のリボンが落ちてた場所からして、3年の教室のどこかに隠れてるはずなんです』
『なるほどね……』
弓鶴は早苗の説明を一通り聞いて、智絵里の黒リボンを見ると目付きがまた鋭くなった。そして、校庭の向こう側、住宅街に半分ほど顔を沈めた夕日を見つめ、急ごうと声色を変える。
『……影縫いが消える前に、引っ張り出してやろうか』
そう言って足早に3年生の教室へと向かった。
※※※※※※※※※※※
3年生の教室があるフロアに到達した時、早苗と弓鶴の胸の奥に痺れるような電流が走った。早苗には先程感じなかった痛みだが、二人はこの感覚に覚えがある。
『……露骨に【牽制】してきたね』
弓鶴は胸を抑えながら、それでもどこか余裕を持って笑っていた。それは早苗も同様だった。早苗は胸だけではない、包帯が巻かれた、自身の右手に棲む【呪術】が疼いて居るのがわかる。
廊下に立って背中合わせに周囲を警戒する。自分達には、梅神探偵事務所の社員、烏丸渉のような霊視能力を持ち合わせていない。自身の目で、耳で、第六感で真実を導き出す。彼ら『力仕事』組にとってこの怪異との遭遇はあまりにも相性の悪いものだった。
しかし、だからと言って悪いからと言って逃げ出すような彼らでは無い。むしろ、彼らは諦めの悪さだけで言えば、事務所随一なのだ。全ては、大切な人たちを守るため、その為ならどれだけでも前線に立てるのが彼ら二人の強さである。
『……多分、しらみ潰しでもう一度教室を回ってる猶予は無いね』
弓鶴は長い廊下の突き当たりを見つめ、日没ギリギリなのを考慮して、指をパチンと鳴らした。
『ああなるほど、フロア全体を黒鶴で覆えばいいんだ』
明るい声色で突然そんなことを言い出した。あまりの提案に早苗は素っ頓狂な声を上げた。
『……は、え?今なんて言いました?』
『言葉通りの意味だよ。怪異に影は無い、実体がないからね。でも、怪異以外の僕らは実体がある。フロア全体を覆って、黒鶴が支配出来ない場所に智絵里ちゃんがいると思うんだ』
『なるほど、それで影縫いを……ってことは、それって黒鶴さんが俺の中に入るってことじゃないですか!』
『何言ってんの?緊急事態なんだから、嫌々しないの!!それとも智絵里ちゃんを助けたくな』
『影縫いがなんですか!ちえちゃん先輩の為なら一影でも二影でもお好きなように荒らしてってくださいよォ!』
『ふふ、それでこそナエくんだよ。じゃあ……』
__ちょっと『荒す』けど勘弁してね。
そう言って弓鶴はまた指をパチンと鳴らした。軽快なクラップ音に似たそれと共に、周囲が黒に包まれた。影という影か集合し合い、建物の隙間という隙間に入り込んで膜を貼っていく。それと同時に、自分の体の中を何者かの無数の手が這いずり回る感覚があった。恐らく、影縫いの副作用である。
以前に何度か、同じように協力したことはあるが、体中を撫で回すように徘徊する気持ち悪さが慣れない。自分の心の奥底の主導権が握られているような、敗北感がやはり否めなかった。
物体の輪郭だけが白く浮き上がり、それ以外の色が黒に染ったこの空間で唯一平気なのは、影縫いの宿主、冴羽弓鶴だけなのだ。彼は軽い足取りで周囲を見渡しながら、ピアノ奏者のように指先を静かに上下に動かす。影縫いは、彼にしか見えない糸を幾つも手繰り寄せているとのこと。
怪異:影縫い【黒鶴】
黒鶴とは彼が命名した名前だ。影縫いと呼ぶにはあまりにも粗雑とのこと。理由が単純だが、烏丸や梅神と違ってあまり拒否反応や代償が少なく暮らしている。
しかし、影縫いは彼曰く『後方支援型』であって、影縫い自体に攻撃をする手段は持ち合わせていないという。出来ることと言えば、今のように『大きな範囲を影で覆って空間を作ること』と『物体の影という影の隙間を飛び交うこと』である。普通の人であれば扱いが難しいのだろうが、彼はパルクールを得意としているので、その相乗効果は高い。
ただ、影縫いの代償として、ありとあらゆる物体の影に『干渉』するので、周りにいる人間はその影響を受けやすく、今回の早苗のように『無数の手が体の中を這いずり回る』という副作用がある。事務所の中で、これを好きという物好きは誰一人居ないだろう。
『うーん……見つかんないなあ。日没前には何とかしたいんだよね』
首を傾げながら、弓鶴は右手の指先を上下に動かしている。相当隙間まで影を侵食させているのだろう。影縫いの影響で、気持ち悪い、と早苗が口に出かけた瞬間、何かを見つけたのか弓鶴の手の動きが止まった。
『……はーん、なるほどね。小賢しいことをしてくれたね』
その笑みは相手の弱点を見つけたかのように底意地の悪い顔をしていた。綺麗な顔立ちなだけに、早苗はその不気味さにゾッとした。ふむふむ、と言って弓鶴は指を三度パチンと鳴らすと、黒い膜は彼の足元に吸い込まれるように消えていった。
窓を見れば、もう陽が沈んでおり、周囲は藍色に染まりつつあった。あれだけ自分にまとわりついていた無数の手の感覚は消えた。深呼吸をして立ち上がる。
『……弓鶴さん、それで、ちえちゃんの場所は分かったんですか?』
不安そうな早苗の言葉に、弓鶴はくるりと回して口元に人差し指を当ててウインクした。
『もちろん。ナエくんのおかげで見つかったよ。智絵里ちゃんは……』
【赤い糸に縛られて閉じ込められている】