『へぇ、そんな噂があるんッスね?』
『まあ、あくまでも七不思議のような噂でしか過ぎないよ。私も知ったのは昨日だし、ただの迷信だと思うよ』
『そうっすよねぇ?じゃないと俺今頃アカコさんのこと湾に沈めるために組の奴らに連絡取りますもん』
『君のその、やれば何とかできるの精神、嫌いではないがあまり無茶しないでくれよ』
『ちえちゃん先輩……!俺の事心配して……!?』
『……はあ、好きに捉えて構わない』

人間の方が末恐ろしいな。そんなことがもし本当に可能となったら、アカコさんの方に同情してしまう。軽いノリで自分の邪魔となる人間を間引こうとするのだから、やはりヤクザの息子というのは並大抵のメンタルではやっていけないのだろう。

改めて自分の後輩の凄さに驚きつつ、玄関へと戻る。時計を見ると、もう既に黄昏時を迎えていた。教室に鞄を取りに行って今日の夕飯を買いにスーパーへ行かなければならない。確か今日は卵とキャベツがタイムセールだったはずだ。粉とソースがまだ残っていたはずだし、今日はお好み焼きでもしよう。おネエさんは昨日から出張で居ないから、ホットプレートで適当に作ろう。ナエくんもいる事だし、タイムセールを手伝って貰うついでに一緒に食べようか……。

そんなことを考えながら、10分後にまたここに来ると待ち合わせ、教室へと戻った。たった10分しか離れないと言うのに、今世の別れのように大袈裟に手を振ってこちらを見送るのはやめて欲しい。まあ、それだけ自分が後輩に好かれている、と捉えれば、先輩としては誇らしいことなのかもしれない。


……教室に戻ると、もうそこには誰もいなかった。友人達が居なければ、補習を受けるクラスメイトもいない。今日は月曜日。部活も無いから余計に人が散るのが早いのだろう。自分の席に戻り、鞄を取り出すと必要な物だけを詰め、置いていくものはそのまま個人ロッカーへとしまった。学年が上がると同時に勉強量が多くなった。中高大一貫の学校とは言え、普通の高校と同じように教科が増えるのは、年間教育指導案に基づいてなのだろう。教師も生徒も、気が抜けたものでは無い。

『さて、と……もう、帰ろうか。ナエくんが待っている』

鞄を肩にかけ顔を上げると、教室の中央に何かかがあることに気がついた。全ての色が茜色に染る教室の中、それははっきりと、いや明瞭に見えていた。風も無いのにそれは微かに左右に揺れている。一歩ずつゆっくり歩み寄ると、それは細い糸のようなものに見えた。

しかも、赤い、糸である。

それは天井から垂れているのか、気になり顔をゆっくりと上にあげると……そこには……


___薄気味悪く笑った、女子生徒が首を吊ってぶら下がっていた。

『……アカイイト、みィつけた』

ノイズが混じったその声で、ケタケタ笑うと智絵里の元へと手を伸ばした。


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『……ちえちゃん先輩遅いなぁ。いつもならタイムセールに付き合ってって言う時間なのに。先生にでも捕まったのかな』

スナック感覚で罪も実在もない先生に殺意を沸かせている高橋早苗は、口元に手を当てるとウーンと唸りながら眉をひそめた。自分を智絵里のことを知り尽くしてるスペシャリストと自負している、その情報量を元に、しばし思考を巡らせたあと、早苗の頭上の電球に光が点る。

『ああ、なるほど!これは王子様がお姫様を迎えに行けってやつか!それなら仕方ない!』

ウンウンと唸って自分に納得させる。智絵里のことになると前にしか走れないこの性格は、良くも悪くも正常な判断であるかもしれない。まあ、彼がこうやって自問自答して言い聞かせるのには理由がある。

この学校は暗黙のルールで、必要以上に他の学年の生徒との交流は禁じられているのだ。特に彼女のように高等部3年ともなれば、受験はなくとも進級試験があるのであまり近づかないように言われている。そのせいで風紀委員の目が厳しく、流石の早苗でも、智絵里に迷惑がかかるのならと朝と夕にしか会わないようにしている。

TPOを弁えていると言うが、果たしてそうだろうか……。

軽い足取りで智絵里の教室へと向かう。夕日に照らされた教室に佇む彼女も美しいのだろうなと妙な下心を持ちながら、失礼しまーす、と声色を明るくして教室に入る……が、そこに彼女の姿は見当たらなかった。それどころか、教室には誰も居なかった。

『……あれー?ちえちゃん先輩ー?』


どこに隠れてるんスかー、と周囲を見渡しながら、教室をぐるりと回る。地平線に吸い込まれるように反射する茜色が眩しい。思わず手で仰いでいると、ふと視線を落とした時、床の上に何かが落ちていることに気がついた。

『これ……ちえちゃんの鞄と、リボンだ』

早苗はしゃがみこんでそれらを拾った。鞄の中から溢れたのか、教科書や参考書が乱雑に床に散らばっていた。彼女は几帳面だ。これを放置したままどこかに行くなんてことは、有り得ない、と彼は妙な違和感を覚えた。

『百歩譲って、鞄は見逃したとしても、リボンがどうして……』

黒いリボンは彼女の叔父から貰った大切な物であると、自分に教えてくれた日のことを思い出す。

【このリボンだけは何があっても、絶対に無くしちゃいけないもの。無くしちゃったら、おネエさんが悲しんじゃうからね】

いつもは芯のある強い口調の彼女も、この事を話す時だけは歳相応の女の子のように笑っていたのを思い出す。その思い出の中を、今の自分が埋められるものでは無いと分かっている上で、嫉妬に似た羨望を抱いていた。いつか、その笑顔が自分にも向けられたら、なんてそんな夢を見ているのだ。

『……ちえちゃん先輩』

………全て、この不安が杞憂であればいいのに。
そう願った上で、リボンを縛って胸ポケットの中に入れた。胸を駆け巡るざわめきを抑えながら、この階の教室を全て回った。いくつかのクラスには生徒が残っていたので、事情を話して智絵里の行方を聞いたが、誰も姿を見ていないと言う。その答えを聞く度、焦りと苛立ちだけが彼の中で蓄積した。最後の教室の扉を開けた時、彼の考えていた杞憂が現実へと塗り変わった。

『……っ!畜生!』

怒りを自分の膝にぶつける。そんなことをしてもなんの解決にならないと分かっているのに、奥歯が擦り切れるほど噛み締め、大きく息を吸い込むと、ポケットからスマートフォンを取りだした。ロック画面を解除して電話帳を開く。

今日は、頼みの綱である烏丸さんと梅神さんは出張で怪異を祓いに行っている。なら、俺がかけるとするなら……あの人しかいない。

祈るような思いでボタンを押すと、番号を押すプッシュ音が聞こえる。コールの音が聞こえる度に心臓が大きく跳ねる。もうこれが繋がらなければ、俺には為す術が無くなってしまう……。頼む、頼む……!

__そして、その願いは届いたのか、コール音の後に、はい、という声が聞こえた。

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『……どうしたの?ナエくんからかけてくるなんて珍しいね、なんかあった?』


__早苗が助けを求めたのは、梅神探偵事務所の社員、冴羽弓鶴だった。