雨は嫌いだ。ジメジメとした湿気で微妙に汗をかくから、嫌だ。水たまりで靴が濡れるから、嫌だ。車がバシャーンと水をとばしてくるから、嫌だ。
それでも、学校に行かなければならない。だから、はあ、と小さくため息をつきながら傘を開いた。そして、ゆっくりと一歩踏み出した。
今では思う。この日に頑張って学校に行って良かったと。この日でなければ、出会えなかったから。
ザーっと傘に打ちつける雨が僕のテンションを下げる。傘を持つ手、歩く足、肩にかけたカバンにも雨が降ってくる。白っぽい灰色の雲が重たく感じる。
歩くと、代謝が良過ぎて汗をかく。冬だろうと、夏だろうと関係なく。汗が額を伝っておりてくる。それを部活用のタオルで拭う。ジメジメとした空気が、より一層汗をかかせる。
やっぱり自転車で来ればよかったかな、なんて考えながら歩を進めた。普段は自転車で通学しているが、雨の日はなんとなくカッパを着るのが嫌で面倒で、傘と共に歩いている。しかしこうしてせっせと歩いていると、隣を通り過ぎていく自転車を見て羨ましく思う。歩くと家から学校までが果てしなく遠く感じる。
僕を憂鬱にさせる雨が嫌いだった。
やっと目の前に学校が近づいてきた。今日は水溜まり靴が濡れなかったし、車に水をかけられることがなかった。
この街でも有名な私立高校。5年前くらいに改装が行われ、美しい校舎だとよく言われている。全体的に白っぽい外観だが、中は程よい木造。購買で買えるパンや、移動販売で週に二回来る弁当屋さんの弁当は人気を集めている。僕は昼ごはんを楽しみに学校に来ていると言っても過言ではない。コンビニで買うよりも少し高いが、美味しいから文句はない。
傘を持った生徒や、カッパを着て自転車をひいている生徒が次々と校門をくぐっていく。雨粒が傘に当たる音で彼らの話し声が掻き消されている。ただ、彼らの楽しげな笑顔がちらっと見えるだけ。やっと着いた。
学校に近づくにつれ雨が弱まったので、制服を乾かす必要はなかった。玄関の前で傘を閉じた時に疲れがどっときた。もうすでに、帰りたい気持ちでいっぱいだ。
教室にはすでに五、六人いた。その中の一人がこちらへ向かってきた。
「おはよう、乾」
「おはよ、神崎」
中学からの親友の神崎勇也。同じサッカー部。ザ・王道の爽やかモテ王子といった顔の系統をしているので、女子が周りにいることが多い。神崎は優しくて、人柄が良いので、誰からでも愛されている。
対して僕は、神崎みたいにぱっとしなくて、どちらかというと女子には邪魔者扱いされる。だから、他の男子と話すことが多い。本当は神崎と一緒にいた方が、心が落ち着くのだが。
神崎はそんな地味な僕といつも昼食を一緒に食べてくれる。女子たちのお誘いを断ってまで。これがささやかな幸せというのだろう。
「乾、今日テスト。つらい」
「神崎、テスト勉強した?たぶんあっという間にテスト終わるよ」
神崎は首を横に振った。
「無理。耐えられないよ」
神崎はサッカーをはじめ、スポーツが得意だが、勉強は避けてきた。この高校に入ったのもスポーツ推薦。神崎にはスポーツのセンスがある。
僕はほどほどにサッカー頑張って、ちゃんと勉強に向き合ってこの高校に入った。スポーツ推薦で高校が決まるほど、自分にセンスがあるとは思えなかったから。
「がんばれ、神崎」
神崎は小さくしょんぼりと、うん、と言って自分の席に戻った。そして教科書と格闘し始めた。
しばらくすると神崎は諦めたのか、教科書をパタリと閉じて、天を見上げた。そこへいつもの女子たちがニコニコしながら話しかけに行った。彼女たちはいつも、神崎の席へ行くまでの間に鏡の中の自分を見て、メイクを直す。それだけ、自分を見て欲しいということだろう。
いつもの光景。何も変わりない。
「乾、これどういうこと?」
同じサッカー部のやつらが教科書を持って、こちらへやってきた。
僕は彼らに教えた。なるほど、と納得してくれた。
「神崎今日もモテモテだなぁ」
彼らの中の一人が神崎の方を見てつぶやいた。
「俺らとは住んでる世界が違うからな」
人が増えるにつれジメジメしてくる教室に、チャイムが鳴り響いた。そして、担任の田中恵里子が教室にやってきた。田中は三十代前半の英語教師。発音も良ければ声もかわいいと男子に人気だ。
「おはようございます。今日は雨で——」
降り続く雨を窓越しに眺めていた。細く線を描いて地面へ向かう。雨足はだんだんと強くなる。うるさい雨音にイライラする。
「乾ー?おーい。ホームルーム終わったよー」
神崎の声に、はっと頭を起こした。知らぬ間に眠気に襲われていた。きっと雨のせいだ。雨のせいで登校するのに疲れたんだ。
「あー寝てた。なんか大事なこと言ってた?」
「テスト頑張ろうだってさ」
神崎はそう言ってまた女子に囲まれていった。
テストは気づいたら終わっていた。気づいたらチャイムが鳴って、もう昼食の時間。テスト中虚ろな目でペンを走らせていた。眠気が治らない。
「乾、ごめん。今日は一緒に弁当食べられないや。先生に呼び出されちゃった」
「わかった。神崎なんか悪いことしたの?」
「してないよ!」
二人で目を合わせて笑った。些細な笑いに幸せを感じた。
「じゃあ、健闘を祈る」
神崎はいつもより少し薄暗い廊下へ駆けていった。
僕は神崎がいないクラスがなんだか居心地悪くて、財布を持って教室を後にした。廊下はいつにも増してジメジメしていて蒸し暑い。
天気が悪いので、いつもよりも廊下の人通りが少ない。
購買にもあまり人がいなかった。いつもなら通るのも嫌になるくらい混雑しているのに。
今日は弁当屋が来る日だった。大好きな唐揚げ弁当を手に取り、会計の列に並んだ。
「五五〇円です」
ぴったり支払えそうで十円足りなかった。仕方なく六百円で支払った。小銭が増えた、今日はついてないな…。
購買を出ると閑散とした廊下を歩く女子生徒がいた。見たことがない人だった。下級生かなと思いながら、息を潜めて静かに後ろをついて行ってみた。
彼女は小柄でぴんと背筋が伸びていて、艶のある髪が肩甲骨まである。彼女が歩くだけで洗練された印象が伝わってくる。彼女の手には弁当が入っているであろう巾着袋が握られていた。
一段一段丁寧に階段をのぼる彼女を追いながら、足音を立てないように細心の注意を払った。
彼女を夢中で追っていたので、じめっとした蒸し暑さや憂鬱な気分はすでに忘れていた。
気づけば屋上へ繋がる最後の階段だった。二階の教室から最後の階段まで一瞬だった。
彼女はなんの躊躇いもなく歩を進める。屋上に向かって。
屋上は確か施錠されているはずだ。加えて今日は雨が降っている。屋上に出るとは考えにくい。階段で昼食を摂るつもりなのだろうか。考えている合間に足が止まっていた。
ガチャッ——。
鍵が開く音が聞こえた。そしてすぐに扉が開いて閉まる音がした。
僕は焦って三段ほど飛ばして上に上がった。屋上へ出る扉は閉まっていた。彼女は雨の中屋上に出たのだろうか。
急いで教室に戻った。ロッカーから折りたたみ傘を取り出し、屋上へ向かった。扉の鍵は開いていた。音を立てないように慎重にドアノブを回し、開けた。
あの彼女は上手に傘をさしながら弁当を食べていた。
深呼吸をして覚悟を決め、声を出した。
「あのすみません」
あの彼女はピクッと動いた。そしてゆっくりとこちらに振り向いた。
やっぱり変なやつと思われるだろうか。今になって少し後悔の気持ちが湧いてきた。
「何?だめじゃん君。屋上は立ち入り禁止だよ」
「あなただって同じじゃないですか」
「何年?クラスは?君、名前は?」
「二年三組。乾湊人。あなたは?」
「三年。霞詞葉。湊人くん、なんで屋上入ってきたの?」
「さっき霞さん見て、気になったから」
傘をさして彼女に近づいた。
「詞葉でいいよ。湊人くん、ストーカーみたいだね」
「ストーカーじゃないです。そういう気持ちないので。詞葉さんは?なんで屋上の鍵持ってるんですか」
「三年生の特権ってやつだね。屋上でお弁当食べたいから先生に借りてきた」
「僕も一緒に弁当食べていいですか?」
「いいけど、うまく傘させないとずぶ濡れになるよ」
「頑張って食べます」
変な人と笑われながら座る場所を確保した。誰も来ないのに設置されたベンチをハンカチで拭いて、それでも少し濡れていたのでお手拭きで水気を取ってすわった。そして、傘の柄を膝で挟みながら弁当の蓋を開けた。
「詞葉さんっていつもここで弁当食べてるんですか?」
「たまにかな。気分がのったときだけね」
僕の茶色でボリューミーな弁当と違って色鮮やかで美しい弁当を口にする彼女は、少し空を見上げてそう答えた。
「湊人くんは?いつもどこでお昼食べてるの?」
「教室です。友達と。でもその友達が今日忙しくて」
「それで色々あってここに来たと?」
はい、と唐揚げにかぶりつきながらそう言った。
「湊人くん、私お昼食べ終わったから傘持ってあげようか?」
いつのまにか彼女は片付け終わっていた。お言葉に甘えて、彼女に傘を託した。彼女は僕の隣に立ってニ本の傘をさしている。なんだか申し訳なくなってきて、ご飯をかきこんだ。
「急がなくていいよ。むせちゃうから、ゆっくり食べな」
優しい声で彼女は言ってくれた。雨の音で彼女の声がかき消されることはなかった。
「ありがとうございます」
今日初めて会ったものだから話すことがなくなり、彼女も僕も口を閉じてしまった。でも、なぜかその沈黙に居心地の悪さを感じなかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。彼女は僕の傘と鍵と巾着袋を持って立ち上がった。
「そろそろ私行かなきゃ。湊人くん、鍵閉めちゃうから中戻ろう」
「はい、戻りましょ」
朝の足の重さなんて忘れていた。そのくらい足取りが軽やかだった。
「じゃあね、湊人くん」
「詞葉さん、明日屋上来ますか?」
「わからない。屋上のドア開いてたら、いるよ」
「じゃあ、また会う時まで」
彼女は僕に優しげな笑顔を見せた。その笑顔が美しくて惹かれた。彼女の不思議さに夢中になった。
今日の夜空は、星で彩られている。そして月が寄り添っている。
今、月と星に見守られている。月の光が、星一つ一つが僕を照らしてくれている。
ふーっと、深呼吸をした。
肩に重くのしかかっていた荷物が、軽くなったような気がする。苦しいなんて気持ちはとうに消えていた。
今日は、深い谷の日だ。いつか高い山はくる。
今日は、高い壁に出会った日。いつか登れるハシゴができる。
詞葉、これであってる?彼女の言葉を繰り返す。
もう聞こえてこない彼女の声を無意識に求めていた。もう会えない彼女に会いたくて——。
日差しが痛いくらいに、晴れていた。6月にしては暑くて外に出たくなくなった。まだ暑さに慣れていないからか、少し吐き気がした。でも両親に心配かける方が面倒臭いので、何も言わずに普段通り家を出た。
前カゴが所々錆びれた、使い古された自転車に乗って風を浴びた。朝練が晴れている日はほぼ毎日あり、朝が弱い僕にはしんどかった。両親は共働きで僕が起きる頃にはもう家にはいない。しかし、毎日のように朝練後に食べるおにぎりと朝食だけは忘れることなく用意されている。両親と初めて顔を合わせるのは夕飯の時間帯からで、夕飯に4人全員で顔を合わせることはほぼない。
綺麗な校舎とは対照的に、古びた自転車置き場はいつ改築されるのか分からない。
「乾ー!おはよう」
神崎はいつも通りの優しい王子様のような笑顔で挨拶してきた。
「おはよう。今日の朝練には遅刻しなかったね」
神崎は遅刻常習犯で、僕よりも朝が弱い。少しイジってやると、神崎はバツが悪そうに言った。
「実は送ってもらっちゃったんだよね。母さんに」
寝坊はしてないんだけど目が覚めなかった、と笑った。
僕は送ってもらうなんてできない。甘えるなんてできない。
4限の半ばから空腹に襲われる。ブドウ糖が足りていないと感じながら授業を受ける。しかし、集中が続かない。授業の終わりを告げるチャイムを心待ちにしていた。今日、屋上開いてるかななんて考えながら。
チャイムの音とともに一斉に生徒が動き出す。
僕は神崎に声をかけられる前に購買に足を進めていた。今日は照り焼きチキンの気分だ。いつもよりも早く着いたので、売り切れる前に手に入った。
そして、屋上につながる階段を息を潜めて上った。
ドアノブは回らなかった。鍵は開いていなかった。彼女は屋上に来ていなかった。
よくわからない憂鬱が彼女に会うことで軽減されないかと期待していたが故に、余計に気分が落ち込んだ。
とぼとぼと階段を下り、教室へ戻った。
「乾ー!どこ行ってたんだよー!」
神崎は僕を探していたようだ。早く飯食おうぜ、と。何故か、なんだ飯か、と思った。
「神崎っていつも弁当持ってきてるよな」
神崎は毎日母親が作った弁当を持参している。栄養バランスの考えられた彩りの良い弁当。最後に母さんの弁当を食べたのはいつだろうか。
「持ってけって親がうるさいんだよ。たまには購買の弁当食べたいっていうのにさ」
「しょうがないな、ちょっと分けてやるよ」
照り焼きチキンのひとかけらを神崎に分けてやった。神崎は目を輝かせて美味しそうに口にする。
「超うまい!乾が羨ましいよー」
いや、僕は神崎が羨ましいよ。そんな気持ちを出さないように。
「だろ?」
思ってもいないのに、そう思っているフリをした。神崎に共感なんてできない。僕は購買よりも温もりを感じられる弁当が食べたい。
何故か、どうしても詞葉さんに会いたくなった。詞葉さんの声を聞きたくなった。僕の話を聞いて欲しくなった。だからむせそうになりながら弁当をかき込んだ。
「ごめん、ちょっと用事思い出した」
神崎にそう告げると、屋上へ向かった。
やっぱり鍵は開いていなかった。詞葉さんは来ていなかった。悲しさを胸にしまい込んで扉を後にした。何の目的もなく二度目の購買を訪れ、売り切れそうな弁当やパンたちを見た。きっと購買のおばちゃんは、今日二度目の顔だなんて覚えていない。
適当に時間を潰して用事をこなしたフリをして教室へ戻った。
この時、僕は何も知らなかった。詞葉さんのことも、屋上が開いている謎もすべて。
そして一生忘れられない愛を経験することも。
台風が近づいて強い雨が降る日だった。
朝練はなかったが、なんとなく家にいるのが嫌でいつもよりも早く家を出た。
雨は憂鬱だったのに、微妙な雨よりも激しく打ちつける雨の方が何故か楽しかった。傘に雨が当たる音、チャプチャプ歩く度になる音。濡れるのが嫌いなはずなのにどうしてだろう。
雨で視界が良くなかったが、あの姿だけは分かった。
詞葉さんだ。
校門が開いて間もない時間に登校しているなんて。
僕は彼女の声が聞きたくて小走りで近づいて行った。
「詞葉さん、おはようございます」
「湊人くん、おはよう。登校早いんだね」
彼女は焦茶色のスクールバッグを肩にかけていた。この前と同様、姿勢良く歩く姿が凛としていた。
「たまたまです、詞葉さんこそ」
彼女の視線が少し曇った気がした。
「私早起きなの。なんとなく早く学校来ると優越感あってこの時間に来てるの」
納得はしなかったが、そうなんですねと答えた。
僕は基本時間があったら寝ていたい。今日の早起きはたまたまだ。
「あ、ごめん。私寄るところあるから、ここで」
図書館へでも行くのだろうか。いや、でもまだ開館していないはずだ。
彼女は僕に向かって手を振ろうとしている。
「ちょっと待ってください。あの、連絡先交換しませんか」
我ながら急に変な勇気を持った自分を褒めたい。以前会った時から連絡先を交換したいとは思っていたが、この状況での提案はいくらなんでも急すぎる。断られてもしょうがないなと言った直後に思った。
「全然いいよ」
本当ですか、心の声が漏れた。
「断られると思ったんでしょ」
彼女にはお見通しだった。
連絡先を交換して僕は喜びで心がいっぱいになった。
「本当にありがとうございます」
「こちらこそ。じゃあ、またね」
ひらひらと彼女は手を振る。僕は彼女を見送った。
彼女が保健室へ向かって行ったのが外の窓から見えた。
それでも、学校に行かなければならない。だから、はあ、と小さくため息をつきながら傘を開いた。そして、ゆっくりと一歩踏み出した。
今では思う。この日に頑張って学校に行って良かったと。この日でなければ、出会えなかったから。
ザーっと傘に打ちつける雨が僕のテンションを下げる。傘を持つ手、歩く足、肩にかけたカバンにも雨が降ってくる。白っぽい灰色の雲が重たく感じる。
歩くと、代謝が良過ぎて汗をかく。冬だろうと、夏だろうと関係なく。汗が額を伝っておりてくる。それを部活用のタオルで拭う。ジメジメとした空気が、より一層汗をかかせる。
やっぱり自転車で来ればよかったかな、なんて考えながら歩を進めた。普段は自転車で通学しているが、雨の日はなんとなくカッパを着るのが嫌で面倒で、傘と共に歩いている。しかしこうしてせっせと歩いていると、隣を通り過ぎていく自転車を見て羨ましく思う。歩くと家から学校までが果てしなく遠く感じる。
僕を憂鬱にさせる雨が嫌いだった。
やっと目の前に学校が近づいてきた。今日は水溜まり靴が濡れなかったし、車に水をかけられることがなかった。
この街でも有名な私立高校。5年前くらいに改装が行われ、美しい校舎だとよく言われている。全体的に白っぽい外観だが、中は程よい木造。購買で買えるパンや、移動販売で週に二回来る弁当屋さんの弁当は人気を集めている。僕は昼ごはんを楽しみに学校に来ていると言っても過言ではない。コンビニで買うよりも少し高いが、美味しいから文句はない。
傘を持った生徒や、カッパを着て自転車をひいている生徒が次々と校門をくぐっていく。雨粒が傘に当たる音で彼らの話し声が掻き消されている。ただ、彼らの楽しげな笑顔がちらっと見えるだけ。やっと着いた。
学校に近づくにつれ雨が弱まったので、制服を乾かす必要はなかった。玄関の前で傘を閉じた時に疲れがどっときた。もうすでに、帰りたい気持ちでいっぱいだ。
教室にはすでに五、六人いた。その中の一人がこちらへ向かってきた。
「おはよう、乾」
「おはよ、神崎」
中学からの親友の神崎勇也。同じサッカー部。ザ・王道の爽やかモテ王子といった顔の系統をしているので、女子が周りにいることが多い。神崎は優しくて、人柄が良いので、誰からでも愛されている。
対して僕は、神崎みたいにぱっとしなくて、どちらかというと女子には邪魔者扱いされる。だから、他の男子と話すことが多い。本当は神崎と一緒にいた方が、心が落ち着くのだが。
神崎はそんな地味な僕といつも昼食を一緒に食べてくれる。女子たちのお誘いを断ってまで。これがささやかな幸せというのだろう。
「乾、今日テスト。つらい」
「神崎、テスト勉強した?たぶんあっという間にテスト終わるよ」
神崎は首を横に振った。
「無理。耐えられないよ」
神崎はサッカーをはじめ、スポーツが得意だが、勉強は避けてきた。この高校に入ったのもスポーツ推薦。神崎にはスポーツのセンスがある。
僕はほどほどにサッカー頑張って、ちゃんと勉強に向き合ってこの高校に入った。スポーツ推薦で高校が決まるほど、自分にセンスがあるとは思えなかったから。
「がんばれ、神崎」
神崎は小さくしょんぼりと、うん、と言って自分の席に戻った。そして教科書と格闘し始めた。
しばらくすると神崎は諦めたのか、教科書をパタリと閉じて、天を見上げた。そこへいつもの女子たちがニコニコしながら話しかけに行った。彼女たちはいつも、神崎の席へ行くまでの間に鏡の中の自分を見て、メイクを直す。それだけ、自分を見て欲しいということだろう。
いつもの光景。何も変わりない。
「乾、これどういうこと?」
同じサッカー部のやつらが教科書を持って、こちらへやってきた。
僕は彼らに教えた。なるほど、と納得してくれた。
「神崎今日もモテモテだなぁ」
彼らの中の一人が神崎の方を見てつぶやいた。
「俺らとは住んでる世界が違うからな」
人が増えるにつれジメジメしてくる教室に、チャイムが鳴り響いた。そして、担任の田中恵里子が教室にやってきた。田中は三十代前半の英語教師。発音も良ければ声もかわいいと男子に人気だ。
「おはようございます。今日は雨で——」
降り続く雨を窓越しに眺めていた。細く線を描いて地面へ向かう。雨足はだんだんと強くなる。うるさい雨音にイライラする。
「乾ー?おーい。ホームルーム終わったよー」
神崎の声に、はっと頭を起こした。知らぬ間に眠気に襲われていた。きっと雨のせいだ。雨のせいで登校するのに疲れたんだ。
「あー寝てた。なんか大事なこと言ってた?」
「テスト頑張ろうだってさ」
神崎はそう言ってまた女子に囲まれていった。
テストは気づいたら終わっていた。気づいたらチャイムが鳴って、もう昼食の時間。テスト中虚ろな目でペンを走らせていた。眠気が治らない。
「乾、ごめん。今日は一緒に弁当食べられないや。先生に呼び出されちゃった」
「わかった。神崎なんか悪いことしたの?」
「してないよ!」
二人で目を合わせて笑った。些細な笑いに幸せを感じた。
「じゃあ、健闘を祈る」
神崎はいつもより少し薄暗い廊下へ駆けていった。
僕は神崎がいないクラスがなんだか居心地悪くて、財布を持って教室を後にした。廊下はいつにも増してジメジメしていて蒸し暑い。
天気が悪いので、いつもよりも廊下の人通りが少ない。
購買にもあまり人がいなかった。いつもなら通るのも嫌になるくらい混雑しているのに。
今日は弁当屋が来る日だった。大好きな唐揚げ弁当を手に取り、会計の列に並んだ。
「五五〇円です」
ぴったり支払えそうで十円足りなかった。仕方なく六百円で支払った。小銭が増えた、今日はついてないな…。
購買を出ると閑散とした廊下を歩く女子生徒がいた。見たことがない人だった。下級生かなと思いながら、息を潜めて静かに後ろをついて行ってみた。
彼女は小柄でぴんと背筋が伸びていて、艶のある髪が肩甲骨まである。彼女が歩くだけで洗練された印象が伝わってくる。彼女の手には弁当が入っているであろう巾着袋が握られていた。
一段一段丁寧に階段をのぼる彼女を追いながら、足音を立てないように細心の注意を払った。
彼女を夢中で追っていたので、じめっとした蒸し暑さや憂鬱な気分はすでに忘れていた。
気づけば屋上へ繋がる最後の階段だった。二階の教室から最後の階段まで一瞬だった。
彼女はなんの躊躇いもなく歩を進める。屋上に向かって。
屋上は確か施錠されているはずだ。加えて今日は雨が降っている。屋上に出るとは考えにくい。階段で昼食を摂るつもりなのだろうか。考えている合間に足が止まっていた。
ガチャッ——。
鍵が開く音が聞こえた。そしてすぐに扉が開いて閉まる音がした。
僕は焦って三段ほど飛ばして上に上がった。屋上へ出る扉は閉まっていた。彼女は雨の中屋上に出たのだろうか。
急いで教室に戻った。ロッカーから折りたたみ傘を取り出し、屋上へ向かった。扉の鍵は開いていた。音を立てないように慎重にドアノブを回し、開けた。
あの彼女は上手に傘をさしながら弁当を食べていた。
深呼吸をして覚悟を決め、声を出した。
「あのすみません」
あの彼女はピクッと動いた。そしてゆっくりとこちらに振り向いた。
やっぱり変なやつと思われるだろうか。今になって少し後悔の気持ちが湧いてきた。
「何?だめじゃん君。屋上は立ち入り禁止だよ」
「あなただって同じじゃないですか」
「何年?クラスは?君、名前は?」
「二年三組。乾湊人。あなたは?」
「三年。霞詞葉。湊人くん、なんで屋上入ってきたの?」
「さっき霞さん見て、気になったから」
傘をさして彼女に近づいた。
「詞葉でいいよ。湊人くん、ストーカーみたいだね」
「ストーカーじゃないです。そういう気持ちないので。詞葉さんは?なんで屋上の鍵持ってるんですか」
「三年生の特権ってやつだね。屋上でお弁当食べたいから先生に借りてきた」
「僕も一緒に弁当食べていいですか?」
「いいけど、うまく傘させないとずぶ濡れになるよ」
「頑張って食べます」
変な人と笑われながら座る場所を確保した。誰も来ないのに設置されたベンチをハンカチで拭いて、それでも少し濡れていたのでお手拭きで水気を取ってすわった。そして、傘の柄を膝で挟みながら弁当の蓋を開けた。
「詞葉さんっていつもここで弁当食べてるんですか?」
「たまにかな。気分がのったときだけね」
僕の茶色でボリューミーな弁当と違って色鮮やかで美しい弁当を口にする彼女は、少し空を見上げてそう答えた。
「湊人くんは?いつもどこでお昼食べてるの?」
「教室です。友達と。でもその友達が今日忙しくて」
「それで色々あってここに来たと?」
はい、と唐揚げにかぶりつきながらそう言った。
「湊人くん、私お昼食べ終わったから傘持ってあげようか?」
いつのまにか彼女は片付け終わっていた。お言葉に甘えて、彼女に傘を託した。彼女は僕の隣に立ってニ本の傘をさしている。なんだか申し訳なくなってきて、ご飯をかきこんだ。
「急がなくていいよ。むせちゃうから、ゆっくり食べな」
優しい声で彼女は言ってくれた。雨の音で彼女の声がかき消されることはなかった。
「ありがとうございます」
今日初めて会ったものだから話すことがなくなり、彼女も僕も口を閉じてしまった。でも、なぜかその沈黙に居心地の悪さを感じなかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。彼女は僕の傘と鍵と巾着袋を持って立ち上がった。
「そろそろ私行かなきゃ。湊人くん、鍵閉めちゃうから中戻ろう」
「はい、戻りましょ」
朝の足の重さなんて忘れていた。そのくらい足取りが軽やかだった。
「じゃあね、湊人くん」
「詞葉さん、明日屋上来ますか?」
「わからない。屋上のドア開いてたら、いるよ」
「じゃあ、また会う時まで」
彼女は僕に優しげな笑顔を見せた。その笑顔が美しくて惹かれた。彼女の不思議さに夢中になった。
今日の夜空は、星で彩られている。そして月が寄り添っている。
今、月と星に見守られている。月の光が、星一つ一つが僕を照らしてくれている。
ふーっと、深呼吸をした。
肩に重くのしかかっていた荷物が、軽くなったような気がする。苦しいなんて気持ちはとうに消えていた。
今日は、深い谷の日だ。いつか高い山はくる。
今日は、高い壁に出会った日。いつか登れるハシゴができる。
詞葉、これであってる?彼女の言葉を繰り返す。
もう聞こえてこない彼女の声を無意識に求めていた。もう会えない彼女に会いたくて——。
日差しが痛いくらいに、晴れていた。6月にしては暑くて外に出たくなくなった。まだ暑さに慣れていないからか、少し吐き気がした。でも両親に心配かける方が面倒臭いので、何も言わずに普段通り家を出た。
前カゴが所々錆びれた、使い古された自転車に乗って風を浴びた。朝練が晴れている日はほぼ毎日あり、朝が弱い僕にはしんどかった。両親は共働きで僕が起きる頃にはもう家にはいない。しかし、毎日のように朝練後に食べるおにぎりと朝食だけは忘れることなく用意されている。両親と初めて顔を合わせるのは夕飯の時間帯からで、夕飯に4人全員で顔を合わせることはほぼない。
綺麗な校舎とは対照的に、古びた自転車置き場はいつ改築されるのか分からない。
「乾ー!おはよう」
神崎はいつも通りの優しい王子様のような笑顔で挨拶してきた。
「おはよう。今日の朝練には遅刻しなかったね」
神崎は遅刻常習犯で、僕よりも朝が弱い。少しイジってやると、神崎はバツが悪そうに言った。
「実は送ってもらっちゃったんだよね。母さんに」
寝坊はしてないんだけど目が覚めなかった、と笑った。
僕は送ってもらうなんてできない。甘えるなんてできない。
4限の半ばから空腹に襲われる。ブドウ糖が足りていないと感じながら授業を受ける。しかし、集中が続かない。授業の終わりを告げるチャイムを心待ちにしていた。今日、屋上開いてるかななんて考えながら。
チャイムの音とともに一斉に生徒が動き出す。
僕は神崎に声をかけられる前に購買に足を進めていた。今日は照り焼きチキンの気分だ。いつもよりも早く着いたので、売り切れる前に手に入った。
そして、屋上につながる階段を息を潜めて上った。
ドアノブは回らなかった。鍵は開いていなかった。彼女は屋上に来ていなかった。
よくわからない憂鬱が彼女に会うことで軽減されないかと期待していたが故に、余計に気分が落ち込んだ。
とぼとぼと階段を下り、教室へ戻った。
「乾ー!どこ行ってたんだよー!」
神崎は僕を探していたようだ。早く飯食おうぜ、と。何故か、なんだ飯か、と思った。
「神崎っていつも弁当持ってきてるよな」
神崎は毎日母親が作った弁当を持参している。栄養バランスの考えられた彩りの良い弁当。最後に母さんの弁当を食べたのはいつだろうか。
「持ってけって親がうるさいんだよ。たまには購買の弁当食べたいっていうのにさ」
「しょうがないな、ちょっと分けてやるよ」
照り焼きチキンのひとかけらを神崎に分けてやった。神崎は目を輝かせて美味しそうに口にする。
「超うまい!乾が羨ましいよー」
いや、僕は神崎が羨ましいよ。そんな気持ちを出さないように。
「だろ?」
思ってもいないのに、そう思っているフリをした。神崎に共感なんてできない。僕は購買よりも温もりを感じられる弁当が食べたい。
何故か、どうしても詞葉さんに会いたくなった。詞葉さんの声を聞きたくなった。僕の話を聞いて欲しくなった。だからむせそうになりながら弁当をかき込んだ。
「ごめん、ちょっと用事思い出した」
神崎にそう告げると、屋上へ向かった。
やっぱり鍵は開いていなかった。詞葉さんは来ていなかった。悲しさを胸にしまい込んで扉を後にした。何の目的もなく二度目の購買を訪れ、売り切れそうな弁当やパンたちを見た。きっと購買のおばちゃんは、今日二度目の顔だなんて覚えていない。
適当に時間を潰して用事をこなしたフリをして教室へ戻った。
この時、僕は何も知らなかった。詞葉さんのことも、屋上が開いている謎もすべて。
そして一生忘れられない愛を経験することも。
台風が近づいて強い雨が降る日だった。
朝練はなかったが、なんとなく家にいるのが嫌でいつもよりも早く家を出た。
雨は憂鬱だったのに、微妙な雨よりも激しく打ちつける雨の方が何故か楽しかった。傘に雨が当たる音、チャプチャプ歩く度になる音。濡れるのが嫌いなはずなのにどうしてだろう。
雨で視界が良くなかったが、あの姿だけは分かった。
詞葉さんだ。
校門が開いて間もない時間に登校しているなんて。
僕は彼女の声が聞きたくて小走りで近づいて行った。
「詞葉さん、おはようございます」
「湊人くん、おはよう。登校早いんだね」
彼女は焦茶色のスクールバッグを肩にかけていた。この前と同様、姿勢良く歩く姿が凛としていた。
「たまたまです、詞葉さんこそ」
彼女の視線が少し曇った気がした。
「私早起きなの。なんとなく早く学校来ると優越感あってこの時間に来てるの」
納得はしなかったが、そうなんですねと答えた。
僕は基本時間があったら寝ていたい。今日の早起きはたまたまだ。
「あ、ごめん。私寄るところあるから、ここで」
図書館へでも行くのだろうか。いや、でもまだ開館していないはずだ。
彼女は僕に向かって手を振ろうとしている。
「ちょっと待ってください。あの、連絡先交換しませんか」
我ながら急に変な勇気を持った自分を褒めたい。以前会った時から連絡先を交換したいとは思っていたが、この状況での提案はいくらなんでも急すぎる。断られてもしょうがないなと言った直後に思った。
「全然いいよ」
本当ですか、心の声が漏れた。
「断られると思ったんでしょ」
彼女にはお見通しだった。
連絡先を交換して僕は喜びで心がいっぱいになった。
「本当にありがとうございます」
「こちらこそ。じゃあ、またね」
ひらひらと彼女は手を振る。僕は彼女を見送った。
彼女が保健室へ向かって行ったのが外の窓から見えた。



