新緑が眩しいほど溢れるこの光景も、これが見納めだろう。
琳国碌山州の西端に属する鈴鈴の故郷は、山岳地帯の麓に位置している。
開墾の中枢地域からやや離れたところにあるためか、隣接する森は今でも動植物がのびのびと息づき、村人たちとの繋がりも濃い。
生まれ故郷に通じる一本道の途中で、鈴鈴は集った森の仲間達に笑顔を向けた。
「あの子は……やっぱり最後まで、姿を見せてくれなかったね」
小さく零した鈴鈴の言葉に、木々に並んでいた小鳥たちが一斉にしょんぼりする。
「仕方がないよね。私が自分でここを離れると決めて、あの子の心を傷つけたんだもの」
それでも、この決意だけは揺るがない。
自分自身の意志で、この運命を受け容れたのだから。
「私、しっかり自分のお役目を果たしてくるよ! それじゃあ、行ってきます……!」
郷へ駆けだした鈴鈴に、動物たちが後押しするように愛らしい鳴き声を送ってくれる。
坂道を下っていくと、すぐに見えてくるのは生まれ育った村。
そこには数日前から、山間の村には似つかわしくない、豪奢な装いの馬車が留まっていた。
六月ほど前、先帝が崩御し、現皇帝が立った。
結果、政策の見直しや官僚の編纂はもとより、新帝の世継ぎを担う後宮も新たに構成されることとなる。
先帝の頃に領土の一つとして組み込まれた鈴鈴らの村だが、后妃候補が立つのは初めてのことだ。
「鈴鈴ったら。またお気に入りの森に行っていたの?」
「娘娘!」
丘の途中に顔を覗かせた人物に、鈴鈴は勢いよく抱きついた。
鈴鈴と一歳違いの姉、蘭蘭だ。鈴鈴は『娘娘』と呼んでいる。
柔和な微笑みと、風にたなびく長く艶やかな髪。
鮮やかな彩りの着物も優美に着こなす姿は、本物の天女かと見紛うほどの麗人だ。
彼女こそ、新後宮へ送られることとなった后妃候補その人である。
「娘娘、もう後宮入りの準備は終えられたのですか?」
「ええ。つつがなく終わったわ。あとは出立の時間を待つのみね」
「……啓真と、お二人でお話する機会は?」
小声の問いかけに、蘭蘭は寂しそうに首を振る。
「これから皇帝様へ娶られる身分だもの。そんなことをしては、啓真に要らぬ迷惑を掛けるわ」
「そんなことはありません! ずっと昔から、お二人は心通わせてこられたではありませんか!」
声を潜ませながらも、鈴鈴は蘭蘭の手を握り訴える。
啓真は、二人の従兄弟にあたる。
二人が両親を亡くしてからは本物の兄姉ように時を過ごし、喜びも悲しみも味わってきた。
啓真と蘭蘭が惹かれあっていると最初に気付いたのは、何を隠そう鈴鈴だ。
近い将来二人が夫婦となり幸せを育む姿を、ずっとずっと夢見ていたというのに——。
「出立前の見送りには来てくれるはずよ。その時に、しっかり最後の挨拶を交わすわ」
「そんなものでは足りません! 他の誰の邪魔もない場所で、二人がしっかり想いを分かち合うための舞台と時間が必要です……!」
とはいえ、今から二人を密かに引き合わせるのは難しい。
迎えの馬車を引き連れていた宦官が、時折蘭蘭の動向を窺っているのだ。
これから宮入りを控えた后妃候補に、万が一が起きてはならないということだろう。
ならば——后妃候補でなければ、良いのでは?
「娘娘! ちょっとこちらへ!」
「鈴鈴っ?」
蘭蘭の手を引き、鈴鈴は道脇の草むらの中へ入っていった。
慌てた様子でこちらを追う宦官の気配が届くが、ここは鈴鈴の庭のようなものだ。振り切ることは造作もない。
そして少しの間を置くと、何事もなかったかのように蘭蘭と鈴鈴はともに丘を下ってきた。
道の先には、ほっと胸をなで下ろした様子の宦官が見える。
「后妃候補ではなく『それに同行する侍女』ならば……出立前に誰と二人きりで会おうと、咎められることはありませんよね?」
鈴鈴はこそっと蘭蘭に耳打ちし、悪戯っぽく笑った。
敬愛する姉を、権力と欲望が渦巻くと噂の後宮に一人で向かわせるわけにはいかない。
蘭蘭の後宮入りが決まったとき、鈴鈴はすぐさま侍女としての同行を願い出た。
結果、鈴鈴も本日をもって、この村から離れることになっている。
今鈴鈴の隣には、地味な薄黄土色の着物をまとう蘭蘭がいた。さらりと流れていた長い髪も、今は頭上で一つのお団子にまとめられている。
いずれも、先ほどまでの鈴鈴と瓜二つだ。
「もう。あなたはいつも本当に、大胆なことばかり思いつくのね。鈴鈴」
「当然のことです。愛する娘娘のためですから」
もとより、姿形のよく似た姉妹だ。
着物と髪型を交換しているだなんて、遠巻きから監視するだけの余所者に気付かれるはずもない。
「……ありがとう! 行ってきます!」
鈴鈴の着物をふわりとたなびかせ、蘭蘭は元気に丘を駆け下りていった。
その力溢れる所作は、先ほどまでの穏やかで理性的な淑女とはかけ離れている。
「さすが、かの名俳優號儀南の再来と呼び声高い、春蘭蘭ね」
ふふんと得意げに鼻を鳴らし、鈴鈴は笑顔で見送る。
この村は、古くから伝わる伝統的な演舞を習わしとしてきた。
全国各地を不定期に巡行する『碌山演舞』の評判は根強い。
中でも若く美しい蘭蘭が舞台に立つや否や、どの州でも四方から歓声が巻き起こるのだ。
数え切れないほどの役柄を演じてきた蘭蘭にとって、妹になりきり周囲を欺くことは造作もないことだ。
「娘娘、啓真。どうか諦めないで、心を強く持ってくださいね」
丘に残った鈴鈴は、眼下に広がる生まれ故郷をじっと目に焼き付ける。
「大好きな二人の恋路が成就するまでの『大舞台』は、私が必ずや守り抜いてみせますから……!」
その謀は、蘭蘭の後宮入りが決まったその日から密かに始まっていた。
宦官が案内する馬車で、足かけ七日。
辿りついた国家の中枢紫禁城を前に、鈴鈴たちはともに目を見張った。
演舞巡行で各地の歴史的建造物を多く目にしてきた二人だが、だからこそ、目の前の建物の壮大さや造形の細やかさが嫌でも理解できる。
巨大な午門のあとに続いた長い道を過ぎ、ようやく鈴鈴達が落ち着いたのは程よい広さの屋敷だった。
「蘭蘭様、鈴鈴様。長らくの道のりを大変お疲れさまでございました。私、今後蘭蘭様の屋敷に仕えさせていただきます、爽水と申します」
「ありがとう。挨拶をさせてほしいから、どうぞ頭を上げてくださいな」
「はっ」
柔らかな蘭蘭の促しに、爽水という少年がそっと頭を上げる。
蘭蘭の歳は十八、鈴鈴は十七になるが、この少年は恐らく十四くらいだろうか。
妃候補の屋敷仕えに男は採用されない。全ては女か、性を切り落とした宦官だけだ。
「碌山州から参りました、蘭蘭と申します。こちらは妹で侍女として参りました、鈴鈴です。よろしくお願いしますね、爽水」
「は、はい! こちらこそ……!」
ふわりと柔らかな笑みをたたえた蘭蘭に、爽水はぽぽぽっと頬を赤らめた。
蘭蘭は、そこらの美女とは一線を画した美女だ。当然の反応だろう。
「こちらが今後蘭蘭様のお住まいとなるお屋敷にございます。西六宮に属するお屋敷で、名を『建谷宮』と呼ばれます」
「ありがとうございます。手入れの行き届かれた、とても素敵な建物ですね」
「はい。それだけ皇帝様が、蘭蘭様にお心配りをされている証かと」
妃たちにとって、与えられる建物の位置は非常に重要だ。西から東へ、皇帝が御座す紫禁城から近ければ近いほどに、寵愛と位の高い証しになる。
現皇帝の後宮は先代より位の扱いが引き継がれているという。
妃たちの頂点に君臨する皇后。
その下に、四人の妃である貴妃、淑妃、賢妃、徳妃。
さらに下に、六儀、四美人、七才人と位分けされるらしい。
「こちらは皇帝様より賜られました茉莉花茶でございます。蘭蘭様にぜひ労いの気持ちをとのことでございます」
「皇帝様から。なんとも細やかなお気遣いですね」
「それはもう! 数日前の夕餉には、皇帝様のご指示のもと、各々の妃嬪様ご出身地の郷土料理も手配されておりました。皆様大層喜びでしたよ」
嬉しそうに話しながら、爽水は慣れた様子で急須に茶葉を入れ、用意された湯を注いでいく。
用いられるのは、銀製の茶器だ。毒が入れられた際に変色する性質があるため、危険から身を守る際に重宝される。
改めて、『そういう世界』に来たのだと実感する。
「では、僭越ながらこの爽水が毒味役を」
「あ。それなら私が」
「え? あっ」
爽水が淹れた茶をすっと手にすると、鈴鈴は迷いなく喉に注ぎ込んだ。
瞬間、ふわりと豊かな薫りが腔内を満たし、自然と瞬きが緩やかになる。
「わあ、とても美味しいお茶ですね。ささ、娘娘もどうぞお召し上がりください」
「もう、鈴鈴ってば」
「はあ……鈴鈴様は、至極勇敢な御方なのですね」
驚きに目を見開いたあと、爽水が二人に向かってそっと言葉を潜めた。
「お二人をいたずらに怖がらせるつもりはございませんが……この後宮は、権力が全てという性格がございます。中にはその、倫理の外の考えの方もいらっしゃいます。妬み誹りは日常茶飯事、行き過ぎた嫌がらせや、毒の混入も珍しいことではございません」
「そうなのねえ。大変だわ」
「……娘娘、ご自分が今まさにその渦中にいるということを理解しておられますか?」
柔らかな態度を崩さない蘭蘭に、鈴鈴がぴしゃりと突っ込みを入れる。
「ですが、ご安心ください! この爽水は、そのような理不尽な危機からお二人をお守りするのがお役目! 毒味役も、調査諜報も、命じられたことは全て尽力させていただきます故!」
「……ああ、ごめんなさい。先ほどの私は、あなたのお役目を横取りしてしまったのね」
いわんとすることを理解し、鈴鈴はそっと爽水に向き直った。
「ならば爽水、私からも意思表示を。私は妹という立場から惰性的にここへ赴いたのではありません。全てはこの娘娘——蘭蘭様の身をこの身をもってお守りするため」
「え?」
きょとんと目を丸くする爽水に、鈴鈴は笑顔を向けた。
「だから、あなたのお役目を私にも同等に果たさせてほしいの。主をお守りする同志として、ともに頑張りましょうね!」
「は、はい! 承知いたしました……!」
再び頬を赤らめながら頷いた爽水に、鈴鈴は嬉しそうに頷き、蘭蘭は困ったように微笑んでいた。
その後設けられた謁見の場で、蘭蘭は正式に六儀である『婉儀』の地位を賜った。
国境付近に位置する碌山州の重要性を見て、至極妥当なところだろう。
「皇帝様、想像以上に素敵な方だったわね。鈴鈴」
「娘娘の美しさに比べれば、霞む程度でしたけれどね」
「もう。またそんなことを言って」
確かに、初めて目にしたその人は想像以上に若く、美しかった。
しかし薄朱色の瞳がこちらに向けられるや否や、鈴鈴は素早く顔を伏せた。必要以上に顔を覚えられたら、鈴鈴が構想する『今後』に差し障る。
屋敷に戻り、寝支度を整えた蘭蘭の髪に櫛を通す。すると、髪の隙間から僅かに垣間見えた悲しげな表情に気付いた。
「っ、娘娘」
「大丈夫よ。ごめんなさい。ここまで来たのだもの。覚悟を決めなければならないわ。私はもう……皇帝様の妻になったのだから」
顔を伏せていても小刻みに伝わる涙の気配に、鈴鈴はぎゅっと口元を締めた。
蘭蘭は涙で目尻を光らせながら鈴鈴に寄り添い、いつの間にか眠りに就いた。
故郷の長の長女として育てられた蘭蘭は、周囲の期待に応えるために様々な努力をしてきた。
そのなかで唯一心の拠り所となっていたのが、従兄弟の啓真だ。
それが、ふってわいた後宮の新設によって引き離されてしまうだなんて。
「大丈夫。絶対に私が、娘娘をこの檻の外に出してみせますからね」
まつげに光る雫をのせた蘭蘭を見つめ、鈴鈴はそっと窓の向こうに浮かぶ月明かりを見た。
翌朝。
屋敷からほど近くに広がる御花園の隅に、しゅ、しゅと空を割く音が響いていた。
規則正しい音とともに小さく届くのは、鈴鈴の吐息だ。
額には薄く汗を滲ませ、四肢がまるで疾風のように辺りに踊り回る。それは故郷で古来から伝承される、演舞の基本動作だった。
万が一蘭蘭が舞台に立てないときには代役に立てるよう、日頃から鍛錬は怠らない。
そんな想いから始まった、幼いころから続く朝の習慣だ。
「ふー……、ありがとうございました」
誰に告げるわけでもなく、両手を胸の前に合わせるとぺこりと頭を下げる。
大きく呼吸を整えたあと、鈴鈴は徐々に目を覚ましつつある後宮の空を見た。
今ごろ故郷の旧友たちも、同じ空を仰いでいるだろうか。
別れの言葉も交わせなかった親友の愛らしい姿を想い、胸がきゅっと苦しくなる。
「ごきげんよう。朝がお早いのね」
「は……」
そのとき、御花園の木々の脇から三人の影が現れた。
同一の屋敷の侍女らしく、同じ設えの着物をまとい両手で抱えるほどの陶器製の壺を持っている。
「おはようございます。今の動きは、田舎で暮らしていたころからの朝の日課なのです」
「なるほど。どうりで見覚えのない珍妙な動きですわ」
「その着物も土壌の色と相違ない、田舎町を思わせる素敵な装いですわね」
「まるで山奥に棲まうけたたましい動物のような……あっ、これは私個人の感想ですので悪しからず」
「大丈夫ですよ。気にしません」
確かに鈴鈴がまとう着物の色は、総じて地味な土気色だ。
しかしこれは、隣立つ蘭蘭の美しさを最大限に引き出すべく鈴鈴が好んで選んでいる色味。
鈴鈴単体が他人にどう思われようと、知ったことではない。
「でも安心しましたわ。御花園に妙な生き物がいるようだから確認に行くようにと、ある御方に頼まれたもので……、あっ」
「あっ」の言葉を皮切りに、三人は手に持った壺の中身を一斉に辺りにぶちまけた。
鈴鈴の足元を囲うようにして撒かれたのは、地を這い身をくねらせる虫たちだ。
「あらあら、ごめんなさいね。手が滑って中身を零してしまったわ」
「なれど、山奥から現れた御方ならば、餌として喜んで喰らってしまうかもしれなくてよ?」
「さすが田舎育ちの方は身体がお強いのね」
「……」
ほほほ、と嘲笑を残しながら、女官三人衆は御花園の向こうへと姿を消した。
やるべき事は済んだ、ということだろう。
「なるほど。これが噂に聞いていた、女同士の醜い闘争の一端か」
後宮に集うのは、一人の皇帝の妻である女たちだ。
今回標的が妃嬪の蘭蘭でなく侍女の鈴鈴となったのは、他妃からの牽制といったところか。
いずれにしても、蘭蘭には指一本触れさせやしないが。
「とはいえ、このままじゃお目覚めのお茶の準備に差し障るからな……、はっ!」
薄黄土色の着物をひらりと翻し、鈴鈴はその場から大きく跳躍した。
近くに植わっていた木の枝を掴み、車輪のようにくるりと回転する。反動のままに身体を宙に舞わせ、そのまま見事に着地した。
先ほどばらまかれた虫たちの囲いから脱した鈴鈴は、ぴっと背筋を伸ばし姿勢を正す。
敬愛する蘭蘭が幼いころから舞台に立ってきた演目、『妖獣妃伝』の主人公の決め姿勢だ。
「よし。完璧っ」
「ええ本当に。今の舞は、まこと見事でしたね」
「……え?」
耳に届いた何者かの声に、鈴鈴は素早く振り返った。
いつの間にか御花園に咲き誇る花々の中に佇んでいたのは、一人の麗人だった。
「素晴らしい身体能力をお持ちですね。まるで羽が生えているようでした」
「……」
「……どうかされましたか?」
桃色の女官衣装に身を包み、長く流された黒髪がとてもよく似合う。澄んだ瞳が印象的な、上背のとても高い人物。
その薄朱色の瞳の色合いに、鈴鈴は見覚えがあった。
「あなた様は」
「え?」
「皇帝様、で、いらっしゃいますよね……?」
鈴鈴の指摘に、目の前の麗人はぴたりと動きを止めた。
逆にこちらを探るような瞳に気付き、鈴鈴は慌てて拱手し頭を下げる。
まずい。考えなしに、思ったことを口走ってしまった。
「驚いた。よくぞ看破したな」
まろやかさが消えた口調は、やはり昨日大広間で耳にした皇帝の声そのものだ。
しかし、その声色のみでは正確に感情が読み取れない。
鈴鈴は内心冷や汗を掻きながら、言い渡される自身の処遇を待つほかなかった。
「畏まらずとも良い。見ての通り、今は皇帝としてではない存在としてここに来ている」
「……寛大なお心、感謝申し上げます」
ほっと安堵の吐息を漏らしながら、鈴鈴はおずおずと顔を上げる。
再度目にした人物は、性別はどうあれ輝かんばかりの神々しさを放っていた。
いや、だとしても、所詮蘭蘭の聡明な美しさに敵いはしないが。
「見破られたのは今回が初めてだな。何か致命的な問題点があったか。まさか他の者たちも、萎縮し言及しなかっただけで実は気付いていたのか……?」
「いえ。他の方ならば恐らくは、長身で麗しい后妃と信じて疑わなかったものと思われます」
「しかし、お前は一瞬で俺の女装を見破った」
「私の生まれ故郷は、代々全国を渡り歩く演舞を生業としております。他人を演じ成りきるための訓練を重ねておりましたが故、此度は畏れ多くも目に付いたものかと」
「なるほど。碌山州の演舞は中央でも名高い。本場の者の目は偽れぬということか」
ふむ、と皇帝は自身の女官姿を確認し、顎をさする。
殿上人の割に意外と素直なのだな、と鈴鈴は思った。
「その、ところで皇帝様は、何故そのような姿で後宮へ……?」
「後宮内は政治権力の縮図。情報収集に大いに役立つが、如何せん皇帝姿でうろついては集まる情報も集まるまい」
「……なるほど」
確かに的を射た返答に、鈴鈴はこくりと頷く。きっとこうした姿で後宮に赴くことは、初めてではないのだろう。
改めて、皇帝の女官姿を真正面から見つめた。
長く美しい髪。顔にはご丁寧に化粧が施され、着物の大きさも長身の丈に合った良い品だ……などと、思わず観察してしまう。
それだけで済ませればいいものの、長年の習慣というものは恐ろしい。
なにせ物心ついたときから、演舞公演の裏方として働いていた鈴鈴だ。蘭蘭の舞台衣装の管理を任され、製作にも携わり、本番では美しさが極限まで引き出すための化粧を施してきた。
目の前の皇帝は確かに美しい。
それでも。そう思った瞬間、鈴鈴の手は動いていた。
「失礼致します」
「ん?」
鈴鈴は、皇帝のまとう上衣の裾をそっと両手で掴んだ。
両脇にきゅっと程よく締め、腰に結われた帯の位置も僅かに上方へと修正する。
右耳にかけられていた漆黒の髪は、左側と同様に耳を隠すように真っ直ぐ下ろすようにして、そのまま胸元まで流してやった。
「確かに皇帝様は女性にも思わせる美貌の持ち主。ですがやはり骨格や面立ちは男性性が滲みます。男が女に扮する場合はいくつか隠すべき点がございます故、失礼ながら修正させていただきました」
男が女に扮するにあたり重要となるのは、首、肩、輪郭だ。
首から肩にかけての線に柔らかな布地をかけ、やや男性的な骨の張りを覚える輪郭は長く美しい髪の流れで散らす。
目の前に完成した美女の姿を改めて確認し、鈴鈴は満足げにうんうんと頷いた。
そんな鈴鈴に少し呆気にとられた顔をしたのち、皇帝は大きく破顔した。
「ふ……っはは! なるほど。長年肌に染みついた目からは、相手が皇帝とて口を出さずにはいられないということか」
「……!」
思いがけず至近距離で晒されたその笑顔に、鈴鈴は思わずどきんと胸を震わせる。
つい昨晩謁見した荘厳な皇帝の顔でも、まろやかな雰囲気で現れた女官の顔でもない。
何者の仮面にも覆われることのない、一人の男の笑顔がそこにはあった。
「え、えっと、突然の出過ぎた真似をお許しください。今さらでございますが、不敬にあたるようでしたらこの鈴鈴、如何様な罰もお受けいたします」
「気にせずとも良い。ただし、俺がこのような姿で現れたことについては一切他言無用だ」
「重々承知しております」
「先ほどのお前の舞は、実に美しかった。三人の悪意からあっさり切り抜ける様も、見ていて爽快だったぞ」
「……見ていらっしゃったのですか?」
「昨日後宮入りをした、鈴鈴、といったな」
唐突に呼ばれた名に、びくりと肩が揺れる。
「俺の名は白楊だ。以降、お前に名で呼ぶことを許可する」
「は……、え?」
「白楊だ」
「は、白楊様?」
「そうだ。また逢おう」
満足げに頷いた皇帝、もとい白楊は背を向けた。
朝の日差しをきらきらとまとわせ去っていくその姿は、後宮の庭園に訪れた、ひとときの幻のように思われた。
「その嫌がらせは、きっと堂雍宮の朱波儀様の侍女たちの仕業だわねえ」
朝餉を片す道すがら、鈴鈴は女官達の井戸端会議に加わっていた。
「碌山州の高官の家から後宮に入られた朱波儀様は、特に気位のお高い方でね。新しく現れた妃嬪様や周囲の侍女に対して、ここぞとばかりに自身の威厳を植え付けようとなさるのよ」
今朝嫌がらせをけしかけた首謀者は、蘭蘭と同位である六儀の一つ『波儀』を賜っているらしい。
「波儀というと六儀の中で一番の位と伺っております。さらに上位の妃の位に御座す方もいらっしゃるのですか?」
「そうね。とはいっても、四妃のうちの二妃の席しか埋まっていないけれど」
道脇に寄ると、女官の一人が小枝で地面に字を記しはじめた。
「今埋まっている妃の位は、貴妃と賢妃。最も皇后の席に近いといわれているのが、貴妃であらせられる紅貴妃様ね。代々中央政治にも影響力を持つ文官のご家系で、先代皇帝も先々代皇帝も重用したと聞いているわ」
さらさらと地面に書かれた文字の横に、美しい女性の画がこれまた手際よく描かれていく。
簡略化されているものの、ふわりと波立つ長い髪に甘やかな色香漂う目元が印象的だ。
「もう一人が、碧賢妃様ね。中央と長年交流も深い搗安州の上官家系から宮入りされた方よ」
再びさらさらと地面に書かれた文字の横に、先ほどとは違った人物の絵が描かれていく。
後頭部に髪をまとめ、きりっと凜々しい目鼻立ちがはっきりとした美人だ。
「現皇帝様がたって早六月、こんなに美しい妃がいてもなお、いまだに妃嬪への『お手つき』がないと聞くわ」
長い歴史のなか、後宮に足が向かない皇帝も零ではなかったと聞く。
理由は様々で、執務の多忙、後宮そのものへの嫌悪、男色……結局は当事者に聞くより他あるまい。
それでも何とか皇帝の興味を引こうと、周囲の者たちは日夜画策してはあれこれ手を講じているのだという。
「つまり、今の時点で後宮の誰かが手つきになる可能性はないに等しい、と」
「まあ、そのごく僅かな機会があったとしても、所詮は貴妃様か賢妃様お二人のもの。下位妃嬪の方々にご縁が生じることはないでしょうね」
「なるほど」
いい傾向だ。
蘭蘭は、琳国と碌山州との和睦の象徴として後宮入りの白羽の矢が立った。
あの眩しい美しさに気付かれることなく、類い稀なる優秀さに気取られることなく、慎ましく大人しく過ごしていれば、今後も皇帝の寝室に呼ばれることはあるまい。
鈴鈴のここに来た真の目的。
それはひとえに、姉の蘭蘭を無事に故郷の村へ——啓真の元へ戻すことだ。
後宮に入った『后妃』が外の世界へ出ることは、容易なことではない。
例えば、重篤な病、皇帝の死、その他重大な政治的判断がされたときの、ごく少ない例外の時のみだ。
対して、皇帝の妻という地位にない『女官』ならば、外の世界に戻ることは比較的容易である。
故郷に戻り、愛する男性と結婚し、幸せに暮らすという夢も叶えることができるのだ。
それを知ったときから、鈴鈴の中に描かれたある作戦があった。
ならば侍女として同行した鈴鈴が、后妃の蘭蘭と密かに入れ替わればいい、と。
幸い、蘭蘭が皇帝の手つきになる可能性は零に近い。
機を見て鈴鈴が帰郷を申し出、直前に二人が入れ替わり、蘭蘭は無事故郷へと帰っていく。
これにて鈴鈴が長年胸をときめかせてきた二人の恋慕が、晴れて成就するのだ。
「……完璧な脚本ね」
「ん? 何か言った?」
「いいえ、何も」
いまだ賑わう女官たちの輪から抜け出すと、鈴鈴はふんふんと鼻を鳴らしながら屋敷への道を戻っていった。
とはいえ、だ。
いくら皇帝の手つきにならないようにとはいえど、敬愛する蘭蘭が周囲から不必要に見くびられるのは我慢ならない。
「お手つきにならないよう注意しつつ、娘娘の美しさと素晴らしさを最大限周囲に知らしめる。この塩梅が重要ね」
鈴鈴は一人頷きながら、御花園脇の通りを抜けていく。
御花園は、妃嬪たちが暮らす後宮の中央に位置する巨大庭園だ。
手入れの行き届いた花や木々が植わり、中央には自由に憩いの時を過ごせる広大な建物が佇む。
さすが、大国の美女を集わせた後宮といったところだろう。
「ん? なんだろ、この臭い」
清々しい朝の空気に、徐々に入り交じってきたのは鼻を刺すような異臭だった。
御花園脇の道を曲がると、何やら数名の女官が集っている。
「どうかされたんですか? 何か妙な臭いがするような……」
「は、はい。それがその」
「うわあ。これはまた、酷い有様ですね」
人だかりの先にあった光景に、鈴鈴は思わず顔をしかめる。
そこには、腐食した野菜や肉の残骸や変色した汁物などの残飯が、通路を遮るようにばらまかれていた。
数日おかれてた残飯のようで、放たれる異臭もかなり強烈だ。
「はあ。実はこういうことも、そう珍しいことではないのです……」
「そうなのですか?」
蘭蘭の問いかけに、女官の一人が困り顔で頷く。
つまり、口に出すのははばかれる相手の日常茶飯事の嫌がらせということか。
腐食が始まっている残飯は広範囲に渡り、着物の裾を守りながら飛び越えるのは難しい。
とはいえこのままでは、彼女たちの業務にも支障が出るだろう。
「致し方がありませんね」
「えっ!」
蘭蘭は自らまとっていた薄黄土色の着物から帯を抜き、道の端にぽいっと放り投げた。
白い襦裙一枚の姿になった鈴鈴に、集っていた女官からはひゃっと甲高い悲鳴が上がる。
襦裙の裾をさらに膝まで巻き上げ手早く縛った鈴鈴は、躊躇う様子もなく残飯の小池に進み出た。
「きゃあっ! お御足がっ」
「大丈夫です。見たところただの残飯で、洗えば綺麗になりますから」
もしかしたら臭いが多少残るかもしれないが、あとで足湯に浸かればいい。
「そこのお嬢さん。私の肩に左手を置いてください。右手はこちらの手に」
「え? あ、こ、こうでしょうか……、ひゃあっ!」
いうとおりに手を添えた女官の一人の身体を、鈴鈴は軽やかに持ち上げた。
ふわりと宙を移動した女官は弧を描き、無事に向こう岸へと着地する。
「お上手でしたね。さあどうぞ、あなたの仕事場にお急ぎください」
「あっ、ありがとうございました……!」
にこっと微笑んだ鈴鈴に、女官は顔を真っ赤にして礼を言った。
その様子を見ていた他の女官たちも、我先にと鈴鈴の手を取ろうとする。
「次、私もぜひお願いいたします!」
「きゃあっ! すごい!」
「空を飛んでるみたいー!」
「はい。お手をどうぞ、お嬢さん」
鈴鈴は、幼いころから演舞の黒子役として働いてきた。この程度の距離、女性一人を運ぶことは訳ない。
一人一人丁寧に残飯の池の向こうへ渡らせていると、「あらあら」と道の向こうから甘ったるい声が響いた。
「不快な香りがすると思って参りましたら……これはいったいどういうことですの?」
そこに並び立つ三人の女官に、橋渡しを待つ者たちは一様に強張った顔をする。
朱色の着物に身を包んだ彼女らは、早朝鈴鈴に虫たちをけしかけた女官三人衆だった。
「なんて嫌な臭いでしょう。下位屋敷へ続く道ではこのような汚物も平気で生じるのですねえ」
「そこに立つ襦裙姿のあなたは、今朝もお会いした新入りの侍女様ではございませんか」
「早朝から珍妙な踊りをされ、加えて汚物まみれで力仕事だなんて。近年稀に見る働き者のお嬢さんですこと」
ほほほ、と高らかに嗤う姿に、そこにいる誰もが感情を押し込めて俯いている。
そんななか鈴鈴は、女官たちの橋渡しを続けつつ、爽水から聞いたある世間話を思い返していた。
「数日前の夕餉には皇帝様の計らいのもと、各々の出身地に合わせた郷土料理が振る舞われたと小耳に挟みました」
蘭蘭の静かな物言いに、三人衆の嘲笑が止まった。
「この国は広大です。州毎に特色豊かな料理法が根付いております。今私が足を沈めている食材は、水辺のない内地の食料。その証拠に、撒かれた残飯には魚や藻類の形跡が一切見受けられません」
「な、内地出身の女子なんて、ここにはいくらでもっ」
「こちらも小耳に挟んだのですが、皆さんがお仕えしている朱波儀様はその郷里でのみ飼育が盛んなとある牛肉がお好きだそうですね。その骨は付け根から先に駆けて二股に分かれている、至極珍しい形状だと聞いたことがございます」
流ちょうに語られた鈴鈴に言葉に、侍女三人衆があからさまに顔色を変える。
鈴鈴の足元に広がる残飯の中には、二股に分かれた珍しい形状の骨がいくつも浮かんでいた。
「さあさ。こんな処にいつまでもいらっしゃいますと、この嫌な臭いが付いてしまいます。どうぞ主様の元へとお戻りください」
主様の元へ、と殊更強調し、鈴鈴は三人衆ににこりと笑みを向ける。
その笑みに含んだ毒に気付いたらしい三人衆は、なにやら捨て台詞を吐きつつそそくさと退却していった。
次の瞬間、その場にいた女官たちからわっと大きな歓声が沸いた。
……やってしまった。
「鈴鈴、聞いたわ。廊下で身動きできなくなっていた人たちを助けてあげたんですって?」
「娘娘……」
結局あのあと鈴鈴は、道に撒かれた残飯の掃除まで綺麗に済ませた。
まとわりついた残飯の臭いは、薬草を煎じて入れた足浴みで何とか落とし切れたと思う。
「鈴鈴らしいわね。困った人を放っておけないところ、小さいころから変わっていないわ」
「しかし今考えれば、もう少し穏便に振る舞うことはいくらでもできました。それができなかったのは、全て私の心の幼稚さが原因です……!」
恐らく件の三人は、気位の高いことで有名な朱波儀お付きの侍女だ。
妙な火種を生まないためにも、あの場は犯人を突き詰めることなく、素知らぬ振りを通せばよかったのだ。
「私一人ならば、どのような誹りも受けます。残飯にも何にでも身体を浸してみせます。それでも、もしも何者かの汚い策略が娘娘にまで伸びたらと考えると……!」
「顔を上げなさい。鈴鈴」
凜とした蘭蘭の声に、鈴鈴は情けなく垂れていた頭をぱっと持ち上げた。
すぐ目の前には、慈愛に満ちた蘭蘭の柔らかな微笑みがある。
「随分と見くびられたものねえ。あなたが侍女として追いかけてきた女子は、野蛮な手を使う者たちに簡単にひれ伏すような、何もできない貧弱なお嬢様だとでも?」
「いいえっ、決してそのようなことは!」
「そうよね。私がどれだけの強情な性格かということは、あなたが一番身近で見てきて知っているはずよ」
そう言って、蘭蘭は茶目っ気たっぷりな笑顔を向ける。
幼いころの演舞巡業の際、蘭蘭は酷い高熱を出したことがあった。
周囲の大人も気付かないなか、蘭蘭はいつものような美しい舞で観衆を沸かせた。
ついに最終日の舞台直前で昏倒するまで、一度たりとも弱音を吐かなかった。
その日の舞台は、妹の鈴鈴が代役として初めて演舞を披露することになった。
大盛況のうちに幕引きされたことは至極僥倖だったが、全ては蘭蘭の並々ならぬ舞台への想いを継いだからこそ成しえたことだ。
「もしも何かございましたら、すぐに私に申しつけくださいね。私が必ず、娘娘をお守り致しますので!」
「ええ、ありがとう。頼りにしているわ。鈴鈴」
頼りにしている。
蘭蘭から贈られる言葉の中で、鈴鈴が一番嬉しいものだ。
「さあて。遅れてしまった朝の支度を始めなければ。越してきたばかりの屋敷ですので、まずは今日中に全室の清掃を……」
そのとき、建谷宮に訪問者を知らせる戸を叩く音が鳴った。
「本日、上位女官らと諍いごとについて尋ねたいことがある」
戸を開けると、岩のように厳つい人物が立ち塞がっていた。
上には、暗い藍色の褂子を重ねた灰色の袍子。下は黒色のズボンを纏い、頭には宦官を現す丸い帽子を被っている。
新参といえ妃嬪相手に敬語を省いた物言いは、どうやらかなり高い位の宦官のようだ。
「ご機嫌麗しゅうございます。この屋敷の主、春婉儀でございます」
「太監の落雁と申す。今朝起こった女官同士の諍いごとについての調査に参った。そなたにも詳しく内容を確認したい」
「お待ちください! 娘娘は、今回のことにまったく関わりございません!」
前に進み出た蘭蘭を、鈴鈴が慌てて押し戻そうとする。
しかしながら、この後宮での鈴鈴は蘭蘭の侍女。
鈴鈴の不祥事は、主である蘭蘭の監督不行き届きとされるのが当然だ。
ああ。恐れていたことがこんなに早く起こるなんて。
必ずお守りすると決意を新たにした矢先に!
「関わりの有無も、全てはこちらで判断する。謂われなき疑いを避けたいならば、今から尋ねることに嘘偽りなく答えることだ」
「……承知致しました」
その後二人は、無表情な宦官に粛々と質問を投げかけられた。
鈴鈴も蘭蘭も、問われたことは各々真実のみを明瞭に答えていく。
曖昧なことは元々好きではないし、これ以上余計な疑惑を蘭蘭に浴びせることだけは避けたかった。
「——では、今朝の屋敷通じの道中で起こった出来事は、以下の通りで相違ないな」
最終的な内容の確認書押印のため、蘭蘭は落雁という宦官に連れられ一度屋敷をあとにした。
こちらを安心させるように微笑むと、蘭蘭は塀の向こうへ消える。
「娘娘……っ」
蘭蘭を巻き込んでしまった自身の不甲斐なさに、鈴鈴はぎゅっと衣を強く握りしめた。
「心配せずとも、お前の主はすぐに戻る」
凜としたその声は、聞き覚えのあるものだった。
ぱっと顔を上げると、屋敷の門前に寄りかかるようにこちらを見る一人の宦官の姿がある。
「あなた様は」
「また見えたな。薄黄土色の衣の娘」
もはや鈴鈴相手に取り繕うつもりはないらしい。
今鈴鈴らを事情聴取していた者と同じく、灰色と濃藍色の上衣と黒の包衣。お椀を思わせる半球体の帽子を頭に乗せた、一見宦官を思わせる人物。
しかしその実、じわりと滲んだ薄赤色の瞳は、今朝も対峙したばかりだ。
この後宮はもとより国も手中に収める、皇帝——白楊に他ならなかった。
「形式上必要な手続きを取るだけだ。落雁は我の古くからの重鎮。顔と頭は固いがそのぶん信用は置ける」
敷地内へと進み出た白楊は、鈴鈴の目と鼻の先で歩みを止める。
その間、鈴鈴は視線を落としたまま動かなかった。
「他の女官からの個別聴取も取った。此度のことでは、お前が自分らを庇ってくれたという答えが相次いでいた。騒ぎの原因が朱波儀の侍女らの仕業だと看破したということも」
「……そうでしたか」
「もとより、件の侍女らの素行問題は常々報告が上がっていた。そろそろ手綱を締める頃合いだと考えていた矢先、お前がいい具合に立ち回ってくれた。感謝する」
「勿体ないお言葉にございます」
「……なんだ。落ち込んでいるのか?」
「落ち込みますよっ! 当然じゃありませんか!!」
しれっと問われた白楊の言葉に、鈴鈴は思わず声を荒げた。
「私はっ! 両親を亡くしてからずっとずっと娘娘に支えられてきたのです! 時に姉として、時に母として、娘娘は私のために必死に身を粉にしてくださいました! 私ももう大人です! 一刻も早く、今度は私が娘娘のお力になり支える側になろうと決めたのです! それなのに……それ、なのに……!」
「——鈴鈴」
明瞭に呼ばれた名に、はっと息を呑む。
気付けば鈴鈴の身体は、青色の上衣をまとった腕の中に包み込まれていた。
見た目よりも逞しい体躯に、届く熱い温もり。そして、見上げるほどの位置にある端正な顔。
いつの間に溢れていた涙が、押しつけられた白楊の胸元にじわりと染みこんでいく。
「その一途なまでの強い想い、お主の姉上にも届いておらぬはずがない」
「……、あ……」
「大切な者に慕い頼られることは、姉上にとっても大きな心の支えになっていたはずだ。……俺自身、そうやって徐々に、皇帝としての自信を築いていった」
「……白楊様……」
広い胸板に触れている鈴鈴の耳に、優しく脈打つ心の鼓動が聞き取れる。
「まさか白楊様にこのような慰めの言葉を賜るなど、畏れ多いことです。他の女官の方々の目に触れたら、次は屋敷前に何を捲き散らかされるかわかりませんね」
「減らず口を叩くくらいには落ち着いたか」
「ふふ。はい。本当に、ありがとうございます」
そっと胸に手を付くと、鈴鈴は白楊から身を離した。
異性にこんな風に抱きしめられたことがなかったからか、心臓の鼓動が先ほどからどきどきと忙しない。
「お前は、随分と春婉儀を敬愛しているのだな」
「はい。それは勿論。なにせ娘娘は、我が郷随一の清らかな心の持ち主ですから。その上慈しみ深く、教養もあり、さらには仙女を見紛うほどの美しさも兼ね備えております。娘娘こそ、この天に愛されながら生まれた存在に相違ございません!」
「ほう」
「……あ。で、でも。この後宮には他にも国中から集められた美しい方々が揃っておられますよね。ですのでその、白楊様がわざわざご興味を持たれる必要もないかと……!」
まずい。いつもの調子で、蘭蘭を褒め称えてしまった。
皇帝である白楊に、必要以上に蘭蘭の素晴らしさを知らしめてはならない。
お手つき、駄目、絶対。だ。
「え?」
そのときだった。
バサリ、と。
庭の上空に広がる青空から、聞き覚えのある羽音が届いた。
見上げた先には、陽の光を遮るように広げられた美しいふたつの両翼。
郷で別れを告げることができなかった、大好きな大好きな友達。
一等懇意にしていた、翡翠色に瞬く美しい羽色だ。
「——、翡翠!?」
「きゃきゃうっ!」
目をまん丸にする鈴鈴を見留めたそれは、一気に急降下してくる。
手のひらに収まるほどの翡翠色の小鳥は、勢いよく鈴鈴の胸に飛び込んだ。
「翡翠……どうしてこんなところにっ」
『リンリン! さがした! さがした!』
駄々をこねる子どものように、腕に抱かれた翡翠はバタバタと羽音を立てた。
「森の仲間たちから聞いているでしょう? 私は娘娘とともに後宮に向かうことになったと。だから私、あなたにもきちんとお別れを言いたかったのに、あなたってば一月以上顔を見せてくれなくて」
『おわかれ、や! や! ワタシまだリンリンとおわかれしてない!』
「翡翠……」
どうやら、鈴鈴との別れを受け容れたくなくて、森や山を逃げ回っていたらしい。
ピイピイ鳴きむせぶ翡翠に、うっかり目の奥がじんと熱くなってしまう。
しかし次の瞬間、鈴鈴は目の前に佇む人物の存在を思い出した。
ぱっと顔を上げると、白楊は鈴鈴の方を物珍しげに凝視している。
「は、白楊様……えっと、この子はその」
「翡翠色の羽の鳥、か。かような見目の鳥は初めて見る。何やらお前に抗議しているように見えるが?」
「……私の故郷の周囲は最奥地故、他州では目にしない生き物が数多く棲んでいます。この子は私の、子どものころからの親友なのです」
「なるほど」
ひとまず納得したらしい白楊に、鈴鈴はほっと胸を撫で下ろした。皇帝に虚言を告げるのは大罪だが、ここは致し方がない。
鈴鈴だけが知る翡翠の『秘密』。
鈴鈴と会話できるのみではない、隠れた『正体』。
それを知られれば、どんな仕打ちを受けるかは想像もできないからだ。
「翡翠。あなたはこの後宮に棲むことはできないのよ。会いに来てくれて本当に嬉しいけれど、やっぱり故郷の森に……」
「まあ待て。遠い山岳高原から海際の中央都市まで来ることは、いくら空を飛んだとしても相当の苦労があったはず。しばらくはここで休ませてやっても罰は当たるまい」
「え……、よろしいのですか?」
「ただし、条件が一つある。今朝、お前が御花園で披露していた舞をもう一度見てみたい」
「……へ?」
白楊はそう言うと、真っ直ぐ鈴鈴に視線を向けた。
「お前のあの舞は美しかった。今も俺の脳裏にちらついて、何やら離れようとせぬ」
「……っ」
面と向かって告げられた褒め言葉に、鈴鈴はじわりと頬に熱が集まるのを感じる。
「あの舞を今ここで披露してくれるならば、この者のしばしの滞在は不問に付そう」
『リンリン! おねがい! おねがい!』
「わ、わ、わかりました! じゃあ、ほんの少しだけ」
改めて催促されると気恥ずかしいが、皇帝の命は絶対だ。
す、と静かに呼吸を整えると、鈴鈴は心の中の雑念を払い、地面を強く蹴った。
助走なくくるりと身を翻し、薄黄土色の裾が優雅にたなびきながら円を描いていく。
「お前は身軽だな。此度の騒動を鎮めた際の、細やかな知識も興味深い」
「家業の巡業で国内をあちこち廻っていたので、地域の特色は自然と頭に入ってくるだけですよ」
一度この動きを始めると、意識せずとも身体が次の動きへ流れていく。
皇帝からの問いに耳を傾けながら、鈴鈴は幾度も周囲の空を切った。
「碌山州の演舞……過去に一度だけ、目にしたことがあるな。まだ若い女子が、舞台途中で繰り返し女装と男装を繰り返していた」
「わ! 左様にございますか! 恐らく題目は『妖獣妃伝』にございますね! この上なく素晴らしい演舞でしたでしょう!?」
幼いころから、敬愛する蘭蘭が心血を注いで演じてきた作品だ。天上人といえど印象が残らないはずがない。
舞い続けながらも、鈴鈴は得意満面に食いついた。
「『妖獣妃伝』は、遙か昔より故郷の村に伝わる妖らの逸話を元にした演舞劇です。主演の妖獣妃を演じるには、それこそ並大抵の努力では成しえないのです!」
「お前が、その主演だったのか」
「ふふ、まさか。私は裏方です。演じていたのは私の」
「私の?」
「……昔からの友人ですが今は村を出てどこにいるのかもわかりません顔も名も覚えておりません」
「……ほう?」
馬鹿正直に「私の姉上」と告げそうになったところを、鈴鈴はすんでのところで呑み込んだ。
お手つき、駄目、絶対。だ。
「俺がその演舞を目にしたのは、七年前の黒水州だ。あのとき目にした少女は複数の役割を生き生きとこなしていた。とても美しかったな」
「そうでしたか! 七年前の黒水州……」
あれ、何だろう。
七年前の黒水州の演舞。その当時の記憶に、何か引っかかるものがあった。
ただ一度蘭蘭が昏倒したあの時も、七年前の黒水州ではなかっただろうか。
「あのころの俺は、皇太子として中央に戻るよう求められていた。でも俺は子どもながらに葛藤していた。皇太子という巨大な冠名が恐ろしかったのだ。俺という小さな存在など、その冠名の大きさに覆われ、消えてなくなってしまうのではないかと」
語る白楊の目は、まるで遠き日の自分を眺めているようだった。
「あの『妖獣妃』は、どのような立場や姿形でも構うことなく、ただその時をいきいきと生きていた。その生き様を見て決心したのだ。俺も立場や姿形にとらわれることなく、己の信じる道を行くと。そのためには皇帝として冷酷な指示も下すし、他人に化けて情報収集も躊躇なくする」
「白楊様」
「鈴鈴。あの時の妖獣妃は……」
舞いつつも徐々に記憶を蘇らせていく鈴鈴に、白楊が再度何か言いかける。
そのとき、通りの向こうから何者かの気配が届いた。
「鈴鈴。お待たせ。ただ今帰りました」
「わっ! 娘娘!」
待ち望んでいた蘭蘭の帰還に、鈴鈴は舞の続きも忘れて駆け出す。
「ご無事で何よりです! 酷い仕打ちは受けませんでしたか……!?」
「ええ、ええ。大丈夫よ。落雁さんがとても丁寧に案内してくださったもの」
「落雁さん、娘娘を丁重に扱ってくださったこと、心より感謝申し上げます……!」
「いえ。これが其の御役目故」
態度の堅苦しさはさておき、蘭蘭へ向けられるある種の線引きはしっかり成されているようだ。
「落雁。戻るぞ」
「はっ」
「あ」
後ろを振り返るのと同時に、白楊が鈴鈴の横を通り抜けていく。
なんだろう。微かに垣間見た横顔が、何やら機嫌を損ねていたような。
「……この度はご足労をおかけ致しました! 心より感謝申し上げます……!」
思わず張り上げた声は、淑女には少々幼すぎただろうか。
それでも伝えたかった感謝の意を、改めて遠ざかる背に告げる。
するとその歩みは止まり、白楊はこちらを振り返った。形のいい唇が、声なき声を象る。
また、逢いにくる——と。
「あらあら。鈴鈴ってば、もしかして今の宦官さまと仲良くなったのかしら?」
「そ、そういうわけじゃ。ただ、色々と嬉しいお言葉をかけていただいただけですっ」
「そうなの? あの宦官さんのお名前は?」
「……聞きそびれました」
蘭蘭は、あの宦官が皇帝本人とは気付かなかったらしい。
本人の了承を得ずに正体を明かすことは憚られて、鈴鈴は久方ぶりに蘭蘭に小さな嘘を吐いた。
今度は一体どんな装いで現れるつもりだろう。
そんな思いを抱きながら、鈴鈴は蘭蘭に先立って屋敷の扉を開いた。
残飯事件の発生から五日後の、ある日のこと。
後宮内での生活にも慣れてきた鈴鈴らの元へ、屋敷お付の爽水を通じ、とあるお誘いの文が届けられた。
送付人の名は紅貴妃。皇后不在のこの後宮内で、今最も権力の高い妃の名だ。
「わあ……!」
「これは……なんて華やかな空間でしょう」
文に記された場所へ赴いた鈴鈴と蘭蘭は、周囲とは一線を画す大きさの建物に目を剥いた。
通された広大な部屋は、対面する壁も頭上の天井の梁も、目を細めてしまうほどに遠い。
そして室内には、色とりどりに揃えられた美しい着物たちが、何列にも渡ってずらりと並んでた。
すでに他の女官たちも多く、用意された着物に各々瞳を輝かせている。
「どうやら、爽水の話していたとおりだったようね」
「はい。でもまさか、下級女官相手にこのような催しを企画されるだなんて」
爽水の話によれば、紅貴妃は時折このような着物の賜り市を開くことがあるのだという。
下位といえど、皇后の地位を争うという点では、他の妃嬪たちは全員敵ともとれる。
そんな相手にこのような施しをするのは、単に友好関係を築くためのものか、それとも何か裏の意味があるのか。
「ほらほら。扉の前で立ち止まりなさるな。あんた方は春婉儀とその侍女だね。こちらが引き換え札。気に入った着物は二着まで賜られるとのことだから、早い者勝ちだよ」
「あらあら、早い者勝ちですって。市井に戻ったみたいで、わくわくするわねえ」
「ふふふ、長年娘娘の衣装係を手がけてきた、裏方作業人の腕が鳴ります!」
「……鈴鈴。私はいいから、まずは自分自身の着物を探しなさいね?」
困ったように笑う蘭蘭の言葉を余所に、鈴鈴はさっそく蘭蘭に一等似合う着物探しの旅に出た。
案内人の宦官に簡単な説明を受けたあと、ひとまずぐるりと一通りの着物を眺めてみる。
よく目を通せば、各々の着物に施された細工には特徴があり、それごとに衣紋掛けに分けられていた。
「あ、娘娘見てください。こちらの着物は、以前北方の州で娘娘が目に留めていた衣に似て……」
「そこのあなた下がりなさい! 不敬よ!」
鋭い針の先のような指摘に、鈴鈴は伸ばしかけていた手をぴたりと止める。
横からさっと割って入った誰かの手が、取りかけていた着物の一着を素早く取り去っていった。
ぽかんとする鈴鈴を余所に、横取りした人物は嬉しそうに仲間たちの元へと戻っていく。
その顔に、鈴鈴は見覚えがあった。
「あなたは」
「お里が知れるわね。上位女官相手に、敬語の一つもまともに付けることができないだなんて」
「……大変失礼致しました」
ひとまず鈴鈴は、両腕を挙げ拱手の体勢を取った。
ひそひそ口々にこちらを嘲笑する三人は、どうやら先日の残飯事件で相見えた三人らしい。
せっかくの心穏やかな蘭蘭との語らいの時間に、妙な石が放られた気分だ。
「ご不快な思いをさせてしまい申し訳ございませんでした。即刻、退散致します」
「まあ。卑しい郷の出の者は、逃げ足だけは天下一品というわけね」
「仕方なくてよ。何せ凶暴な獣以外棲みつかないと言われてきた、山奥の集落で育ってきたのだから」
故郷を馬鹿にされた。まあいい。
「このような娘が後宮入りなど。最低限の教養も持たさず集落を追い出すなんて、親の顔が見てみたいものね」
親も馬鹿にされた。うん。まあいい。
「入宮して早々に宦官らの聴取の世話になったというじゃない? これは上官でもある、春婉儀の監督不行き届きではなくて?」
「娘娘を貶めるおつもりか」
低く這い出るような声色になった。
今まできゃいきゃい悪口に花を咲かせていた三人は「ひっ」と一様に口を閉ざす。
「私への悪態を吐かれることは一向に結構。しかし娘娘への侮辱は一片たりとも看過できませぬ。ゆめゆめ、ご承知置きを」
「鈴鈴、落ち着いて。私は大丈夫だから。ね?」
後ろに控えていた蘭蘭が、柔らかな口調で仲裁に入る。
しかし鋭い視線を解こうとしない鈴鈴に、三人の侍女は居心地悪そうに視線を泳がせた。
「こ、これは正式な苦情よ! 何せあなたは今、こちらの赤色の着物を手に取ろうとしたのだから!」
「は?」
「赤の色は、朱波儀様が一番に優先して目を通されるべきもの! それはこの試着会に集った女官らには、皆周知の事実なのよ!」
「……」
はあ。なるほど。
確かに三人がいる室内の一角を見遣ると、赤い着物がごっそりと集められている。
赤く積まれた着物が炎のようで、一瞬火でも放たれたのかと驚くほどだ。
高らかと宣言した侍女の言葉に、辺りにいる他の女官たちは一様に困ったような表情を浮かべた。
どうやら、朱波儀の侍女らが独自開発した決まり事のひとつらしい。
「さあさ。こんな方は放っておいて、急いで着物を一列に整えましょう。朱波儀様のお目通しがされやすいように……」
「ほう。わらわがどうかしたのか?」
いかにも妖艶な声色が、大広間に静かに響く。
肩を震わせた侍女たちの視線を追うと、広間入り口付近に佇む人物がいた。
シャラリと音を奏でる金属製の髪飾りをふんだんにあしらった、豪奢な髪型。
目元と唇に乗せられた濃い色味は、まるで周囲を威嚇するようだ。
何より、その身にまとう紅蓮の炎を思わせる赤色が、渦中の朱波儀その人だと雄弁に告げていた。
「朱波儀様っ」
「朱波儀様、どうぞこちらへ」
「ご準備はすでに整えてございます……!」
案の定、侍女三人衆は慌てた様子で朱波儀の元へ駆け寄り件の着物を集めた箇所へ案内する。
しかしその間も、朱波儀の視線は、なぜか鈴鈴と蘭蘭の方へ向けられていた。
「そこの者は、先日入宮したばかりの春婉儀とその侍女か」
「お見知りおきいただき光栄にございます。朱波儀様」
素早く一歩前に歩み出た蘭蘭が、拱手し丁寧に頭を下げる。
鈴鈴も頭を下げると、朱波儀はくつくつと小さな笑みを零した。
「わらわ達は同じ六儀を賜った者同士。そうへりくだる必要もなかろうぞ」
「寛大なお言葉、心より感謝申し上げます」
「そなたも紅貴妃様よりお誘いを受けてここにいるのだろう。あの御方は後宮全体を見渡してくださる心優しき御方。その慈悲を有り難く授かるがよい」
確かに波儀と婉儀は六儀という同じ位にまとめられるが、実際は波儀の方が婉儀よりも格上だ。
蘭蘭の丁寧な礼節に、朱波儀はにっこりと笑みを向ける。
ひとまずは次第点、といったところだろう。
「さて。貴妃様から授かったお気持ち、わらわも選ばねばならぬ。可愛い侍女達よ、当然準備は済ませておろうな?」
「はい! 朱波儀様のお手を煩わせずとも、抜かりなく……!」
「なるほど。これがお主らの持てる力全てというわけだな」
次の瞬間、大広間にパン、と乾いた音が轟いた。
続いて響いた衣紋掛けを倒す大きな音に、周囲の妃嬪や女官達は一斉に振り返る。
「わらわは赤色の着物を全て集めておくよう命じたはず。向こうに見える着物はなんじゃ? どうにも赤色に見えるが、わらわの気のせいか?」
「た、た、大変申し訳ございません! 今すぐに……っ!」
「向こうにも、向こうにも、向こうにも赤の着物が見える! お主らはこんな簡単な小間使いもまともにできぬのか!? それだから入宮して日も浅い田舎者に舐められ、調書を取られるなどの辱めを受けるのだ!」
爆竹のような人だ、と鈴鈴は思った。
しかも、しれっと鈴鈴らへの中傷まで織り交ぜられている。
主の激高に恐れおののいた侍女達があちこち駆けずり回るなか、朱波儀の視線は鈴鈴を捉えた。
「春婉儀。そちらに控える者が、噂に聞くお付きの侍女かえ?」
「左様にございます。生まれ故郷からともに参りました、私の大切な妹です」
「朱波儀様、侍女の鈴鈴にございます。以後、お見知りおきを」
「必要ない。すでにそなたの話は耳に聞き及んでいる。我が侍女らと何やら派手にやり合ったそうな」
「朱波儀様にご迷惑をおかけするつもりは露ほどもございませんでした。ご不快なお気持ちにされたのであれば心からの謝罪を申し上げます」
鈴鈴はすかさず地に膝を突き、誠心誠意額を地に着ける。
潔いほどの土下座に、さすがの朱波儀も言葉を失ったようだった。
「先日の件につきましては私どもも宦官様からの調書を取られました。今後このようなことがないように厳重注意も。全ては私の未熟さ故に端を発したこと。これからは決して朱波儀様のご不快を煽ることはございません。どうぞお許しを」
「……まあいい。幼さ故の短絡的な行動はよくあること。潔い謝罪に免じて、先のことは水に流そう」
感情の沸点が掴めない相手だ。
これ以上火種を育ててしまえば、次は先ほどの張り手が、敬愛する蘭蘭の頬に飛んでこないとも限らない。
「そうじゃ鈴鈴よ。和睦の証に、ぜひお主が見立ててはくれぬか? 紅貴妃様から贈られる貴重な着物の内の一枚を」
「……私が、よろしいのでしょうか?」
「ぜひ頼もう。わらわに殊似合いと思われる、極上の一品を」
何やら妙なことになってしまった。
見ればさらに枚数を増やした赤の着物の山に、鈴鈴は目を瞬かせる。
後ろから何か助け船を出す様子だった蘭蘭に気付き、鈴鈴は素早く笑顔を向けた。
「では、僭越ながら朱波儀様のお着物をこの鈴鈴が選出させていただきます」
どうやらこれもまた、恒例の余興の一つらしい。
恐らくは日頃気に入らない者に自身の着物を選ばせ、難癖を付け、聴衆の面前で辱めるという流れなのだろう。
侍女三人衆や他の者たちの視線を肌で感じながら、鈴鈴は無言で着物をあれこれ吟味する。
そして全ての着物に目を通したあと、鈴鈴は一着の着物を手に取った。
「朱波儀様、大変お待たせ致しました」
慇懃無礼に朱波儀へ差し出したのは、着物の裾に刺繍が施された華やかな着物だった。
侍女に言って広げた造りに、朱波儀は顎をさする。
「なるほど。して、この着物を選んだ理由は?」
「朱波儀様に、一等お似合いの赤いお着物だからでございます」
端的な答えに、周囲からは小さな失笑が聞こえる。
しかし鈴鈴は気にも留めず言葉を続けた。
「朱波儀様は、赤という色に特別のお気持ちをお持ちのご様子。さすれど、この世には無限の赤がございます。玫瑰花色、牡丹色、深紅色に茜色……多くの赤い花も、開花した場所や環境に応じて形も色も異なります」
侍女らが広げた着物を自然に受け取ると、鈴鈴はふわりと生地を波打たせ両手で抱えた。
「この赤は雛罌粟の花の色。濁りの少ない鮮やかな明るい赤です。ふわりとまあるい花弁の形が愛らしい、魅力的な花でございます」
「……」
「雛罌粟は『虞美人草』とも呼ばれると聞き及んでおります。類い稀なる美貌で有名だった時の寵妃が、皇帝の後を追う際に流した血から咲いた花という伝説もある……なんとも神秘的な花です」
「……知っておる。その伝説の出自は、わらわの生まれた国であったからな」
「左様にございましたか。それはまた、素敵な国からお生まれだったのですね」
事前に朱波儀の出身国は存じていたが、あえて素知らぬふりを通す。
「朱波儀様の陶器を思わせる柔らかな白い肌には、こちらの赤が一等よくお似合いです。まさに春に咲き誇る、雛罌粟のような魅力が惹き立ちます。よろしければ、ぜひ一度羽織られてみては?」
「……」
「こ、こらっ、あなた、朱波儀様に対して馴れ馴れしいですよ!」
「いや、よい。そこまで言うのならば、羽織ってみよう」
「はい!」
あちこちに用意されていた大鏡の一つの前に立った朱波儀に、雛罌粟色の着物を羽織らせる。
瞬間、色彩の薄い朱波儀の瞳がぱっと見開かれた。
「……本当だ。こちらの赤は随分と私の肌に馴染んで、美しく映る」
「想像以上ですね。朱波儀様の肌のお色がさらに明るくなって、艶やかさも増して映ります。裾にちりばめられた金糸の刺繍も華やかで、朱波儀様の凜と気高い雰囲気にぴったりかと」
「赤の色をまといさえすれば、それでいいと思っていた」
傍らで満足げに頷く鈴鈴に、朱波儀は初めて小さく微笑んだ。
「私には心に憧れの姫君の姿がある。その御方は常日頃赤い着物をお召しでな。気付けばわらわも、その背を追うように赤いものを身につけていた。それでも、その御方に少しも追いつけないでいる自分が歯がゆくてな」
「朱波儀様……」
「わらわが真に焦がれていたものは、この世で常に一等美しくあろうとするあの御方の、強い意志を秘めた姿勢だったのかもしれぬ」
「皆さん、今日は。ご機嫌はいかが」
大広間の扉が、左右に一挙に開け放たれた。
次いで届いた優美な声色に、中にいる者すべてがはっと目を見張る。
「っ……ご機嫌麗しゅう存じます。紅貴妃様……!」
最初に声を張ったのは朱波儀だった。
それを皮切りに、着物を選んでいた妃嬪や女官たちも笑顔で声の主に駆け寄り、礼節込めて挨拶をしていく。
後ろから蘭蘭がそっと耳打ちした。
「鈴鈴。私たちもご挨拶を。この催しを企画してくださった、紅貴妃様だわ」
「紅貴妃様……」
現在後宮でもっとも皇后の席に近いと目される、紅貴妃。
その圧倒されるほどの神々しさで一瞬呆けてしまった。
「お初にお目にかかります、紅貴妃様。過日後宮へ参りました、春婉儀と申します」
「はじめまして、春婉儀様。どうぞお顔を上げなさって」
蘭蘭の少し後ろで同様に頭を下げた鈴鈴もまた、ゆっくりと頭を上げる。
女子でも見惚れるほどの美貌と、艶めかしい眼差し。気品溢れる振る舞いは、まさに貴妃に相応しい。
身にまとうのは、美しい玫瑰花色の着物だ。
確かにここまでの御人であれば、朱波儀が焦がれ真似たがるのも頷けた。
「ここでの生活にはもう幾分か慣れましたか。色々と不都合もおありでしょう。何か困ったことがありましたら、遠慮なく相談されてね」
「はい。かのようなお気遣いいただき、心より感謝申し上げます」
「さあさ、皆の手を止めてしまったわ。皆どうぞ気に入った着物を屋敷にお持ち帰りくださいな」
笑顔でぱん、と手を打った紅貴妃に、妃嬪たちは再び着物選びに興じはじめた。
「それはそうと……、朱波儀様?」
「はい、紅貴妃様」
肩を小さく振るわせたあと、朱波儀はすかさず声を張る。
紅貴妃は真っ直ぐに朱波儀の元へ向かい、その姿をじいっと見定めていた。
「今纏っている着物、とてもよく似合っているわ。明るい肌色のあなたにぴったりの着物ね」
「! そ、それは、真にございますか……!」
「勿論です。私は優しい貴妃様だけれど、無用な世辞は言わないのよ?」
ふ、と笑みを滲ませながら告げる紅貴妃に、朱波儀は顔を真っ赤にして拱手する。
どうやら、絶対的人物からの太鼓判をいただけたようだ。
鈴鈴はほっと胸をなで下ろし、蘭蘭と顔を見合わせる。
これでゆっくりと蘭蘭の着物選びに専念できそうだ。蘭蘭の美しさが最高に際立つ着物を探し出すとしよう。
「朱波儀様。その、他の着物はお召しになられないのですか?」
「ああ、いい。今回はこの着物のみ屋敷へ持ち帰ろう」
「承知致しました。ではこちらはすぐにお戻し致します」
山のように集め出されていた赤い着物達を、侍女三人衆が手早く元の場所へ戻していく。
恐らく通常ならば、そのすべてに袖を通し吟味に吟味を重ねて選出していたのだろうが、今回はその手間がない。
心なしか喜ばしそうに辺りを駆けていく侍女三人衆を、鈴鈴は労りの気持ちで眺めていた。
「……え?」
初めは小さな違和感だった。
目の前を通り過ぎていった侍女の一人から、ほんの僅かに気になる気配が尾を引いた。
腕に積まれた、何層にも重なる着物の小山。その赤い着物の一つ。
一際豪奢な装飾が施された袖口付近が、不自然に、膨らんで、動いて——。
「危ない!」
「ひゃあ!?」
駆けだした鈴鈴は、侍女の腕に積まれた着物の小山を躊躇なく叩き落とした。
辺りにまき散らかされた赤色の着物の山に、件の侍女は訳がわからないといった表情を強張らせる。
「な、あ、あなた、一体何を……!」
「早く! こちらへ下がって!」
非難の声を遮り、鈴鈴は侍女を背に追いやった。
雪崩を起こして床に広がった赤い着物に、周りの女官達も騒然とする。
しかし次の瞬間、着物の中から現れた『あるもの』の姿に、悲鳴が上がった。
「きゃあっ! 虫! 虫よ!」
「虫だわ! 巨大な虫が、着物から!」
「気味が悪い! に、逃げるのよ……!」
虫じゃない。あれは蠍だ。
「鈴鈴、あの蠍は……!」
「ええ。ただの迷い蠍ではありませんね」
考えている暇はない。
鈴鈴はすかさず蠍が這っている着物を掴み、逃げる間を与えずに扉の外まで駆け出た。
あなたは故郷の森に帰りなさい。そんなことを諭しておいて、情けないけれど。
「——翡翠! ご飯の時間だよ!」
澄み切った大空に向かって、声を張り上げる。
瞬間、鈴鈴の頭上にばさりと大きな羽音が響いた。
巨大な両翼をはためかせた翡翠は、普段の愛らしい小鳥の姿ではない。
虹色の羽毛を輝かせた、鈴鈴の身長をも優に超える巨大鳥へと変化した姿だった。
「恐らく蠱毒が施されている! 翡翠! 浄化して!」
『はあい! ごはん! いただきます!』
肯定の答えを受け、鈴鈴は掴んでいた着物を力一杯に上空へ投げ飛ばした。
虹色の両翼を大きく羽ばたかせ、翡翠は一直線に急降下してくる。
勢いに負けて着物から宙に飛ばされた蠍を、翡翠はごくりと一呑みにした。
『んんんー! まだけいけんのあさい、しょしんしゃのほどこしたコドクね。ごちそうさま!』
「はー……ありがとう、翡翠」
ふわりと身を翻した翡翠は、みるみるうちに大きな翼を小さくしていく。
その姿はやがて鈴鈴の人差し指に乗る程度になり、ピヨピヨと愛らしくさえずった。
「ありがとう、翡翠。お陰で助か……、ッ!!」
すりすり頬ずりをしようとする鈴鈴の動きが止まった。
同様に頬を寄せようとしていた翡翠は、危うく鈴鈴の指から落ちそうになる。
「鈴鈴」
「…………は、い」
「指先に留まるその友人とともに来い。話がある」
見られた。もうお終いだ。
どうやら再び気紛れに後宮の様子を視察に来ていたらしい、麗しの女官。
その笑顔で下された命により、鈴鈴は着物選びから強制的に離脱することとなった。
途中で案内役をかわった宦官落雁により、鈴鈴はある建物へと踏み入れた。
建物の中には幾度となく豪奢な扉が設けられ、開けるには門番の許可が必要なようだった。
しかしながら、落雁が少し目配せをするだけで門番は何の迷いなく扉を開ける。さすがあの方お付きの宦官といったところか。
「待たせたな。鈴鈴」
「……天上様」
少しして現れたのは、予想に違わず我らが琳国の皇帝・白楊だった。
拱手し最敬礼を崩さない鈴鈴に対し、遠く壇上の席から小さく笑みを零す気配が届く。
「顔を上げろ」
「……承知致しました」
しばらく躊躇ったあと、鈴鈴は拱手はそのままにゆっくりと面を上げた。
壇上に置かれた金色に瞬かんばかりの大椅子には、白楊がこちらを真っ直ぐに見下ろしていた。
先ほど大広間前で目にした女官姿ではなく、一国を手中に収めた皇帝の姿だった。
思えば、皇帝白楊として言葉を交わすのは、まだたったの二度目だ。
あるときは女官として、あるときは宦官として鈴鈴の前に現れたが、やはり今の姿だとまとう空気が違う。
龍や虎の刺繍が細やかに設えられた漆黒の着物を身にまとった佇まいは、美しく、そして強い。
おまけに端整な顔立ちにも改めて気付いてしまい、鈴鈴はますます萎縮した。
「ふ。まるで借りてきた猫のようだな」
まるで小馬鹿にするような物言いに少しムッとする。
しかし、大椅子から腰を上げ階段を下ってくる白楊に、鈴鈴はどきりと心臓が跳ねた。
「あ、あのっ」
「なんだ」
「お願い致します! どうか! この子に酷いことをしないでください!!」
『リンリン……』
拱手で垂れていた袖を抱き、鈴鈴はその場に素早く額を付ける。
その片袖の中には小鳥姿の翡翠が、不安げな様子で鈴鈴を見上げていた。
「顔を上げろ。まずは話だ」
「この子は、私がまだ幼いころに森の最奥に迷い込んだ私を助けてくれました。それからずっとずっと、大切な親友です。他の鳥たちと少し違うところはありますが、決して悪さはしませんし、心の優しい良い子です。先ほどとて呪詛の込められた蠍を浄化し、建物内の皆さんをお守りしました……!」
「ほう。呪詛を、浄化か」
……莫迦者! またも余計なことを!
「ですからどうか! 翡翠を商人に売り飛ばしたり、大衆の見世物にしたり、鶏肉にすることだけはご容赦ください!」
「おい」
「この子が何か問題を越せば、この私が全ての責を負います! 何卒何卒、よろしくお願い致します……!」
「鈴鈴。俺の顔を見ろ」
強い力で肩を掴まれたかと思うと、ぐいっと顔ごと前を向かされる。
突如目の前に現れた気品溢れる天上人の顔に、はっと息を呑んだ。
意志の強い薄朱色の瞳の中に、鈴鈴の顔が映り込んでいる。
「お前を折檻するつもりはない。ただ、先ほどの不可思議な鳥の詳細を知りたいだけだ」
「それはつまり、商人に売り飛ばしたり、大衆の見世物にしたり、鶏肉にするといったような……?」
「違う。そんな罰当たりなことをするか。あの鳥は凰だろう」
「……オオトリ?」
首を傾げる鈴鈴の反応に、白楊は小さくため息を吐いた。
「凰は、この大陸に古くから伝わる吉兆を示す瑞獣だ。正確には雄鳥の鳳と雌鶏の凰からなる対の鳥で、歴代の名君と呼ばれる治世に現れるとされてきた」
「翡翠が? その瑞獣だと?」
『ヒスイ、スイジュウ、ちがう! ヒスイは、ヒスイ!』
「翡翠!」
『リンリン、いやがってるでしょ! かた、て、はなしてっ!』
鈴鈴の袖元から勢いよく飛び出した翡翠が、白楊の手を突こうとする。
慌てて引き留めようとした鈴鈴だったが、一歩早く別の何かが翡翠の身体を抱き留めた。
『ふうむ。このお転婆が、俺の運命の番か?』
『……へ?』
翡翠の攻撃を留めたのは、翡翠によく似た姿形の鳥だった。
ただその羽毛は漆黒だ。
光の当たり具合で虹色に輝いているのがわかるが、遠巻きに見たら鴉の雛鳥に見えてしまう。
「この鳥は、今話した鳳凰の片割れだ。名を黒楊という。羽根色はこのように漆黒だが、先ほどのお主と同様、巨大化した暁には羽根色が虹色に変わる」
「はあ」
つまり、君の鳥とうちの鳥、友達にならないか、ということだろうか。
「そしてこうも言い伝えられている。鳳と凰の番が相見え仲睦まじく暮らせば、平定されたより良い治世が続く。両者引き裂かれるようなことがあれば治世が大きく傾き、平穏な世は突如崩壊するであろうと」
「はあ……、え!?」
想像の範疇を超える壮大な話に、声が裏返った。
「今、凰と鳳は相見えた。これから先、この中央の街から出ることはできない。さもなくば治世が崩壊する」
「か、勝手です! 翡翠の故郷は、私の故郷に隣する西の深い森! 翡翠はいずれそちらに帰ります!」
『ヒスイ、かえらない! リンリンと、ずうっといっしょ!』
「だそうだ。つまり、お前が後宮に残れるよう最善の取り計らいを」
「駄目です————!!」
何気に翡翠の言葉を理解していたらしい白楊を押しのけ、鈴鈴は素早く後ずさった。
「何故だ。見たところお前は春婉儀をいたく敬愛している様子。長らく側仕えしたいと思ってはいないのか?」
「私はっ、六月が過ぎたら故郷に戻るんです! 侍女は、妃嬪とは違います! 後宮外に出て故郷で結婚することも許されているはず……!」
「お前、生涯を誓った相手があるのか」
「そ、そ、そう、ですっ」
「腑に落ちんな。心から愛する姉を後宮に一人残し、自分は故郷で平穏な幸せを望むか」
「……いけないでしょうか?」
「いや、他人が咎めるものではない。が。少なくともお前がそういった幸せを望むとは到底思えん」
的確に図星をついてくる男に、鈴鈴はぶわっと冷や汗が溢れ出す。
突如された窮地に、鈴鈴は酷く動揺し、ついには瞳から涙が零れた。
どうしよう。どうしたらいい。
このままでは翡翠のことも蘭蘭のことも、誰も守れなくなってしまう。
『リンリン? ないてるの? どうしたのっ?』
「っ、ごめ、だ、大丈夫……」
「俺は皇帝だ。国を保つことはもとより、そこに生きる民を守ることが宿命」
静かに告げられた言葉とともに、鈴鈴の頬にそっと白楊の指先が触れる。
涙を拭われたのだと気付き、鈴鈴はきゅっと口元を締めた。
「そんな俺に声を張って訴える者は、そう多くはない。お前のその気概は存外気持ちの良いものだ」
そんな反応に、白楊はふっと強い眼差しを和らげる。
「鈴鈴。俺は民のための泰平を築き上げる。父上も祖父も曾祖父も、手段は違えど目指すところは皆同じだった。しかしついには成しえなかった偉業……それを成すためには、お前の協力が必要だ」
「しかし、私とて護りたいものはございます」
「だから、話してみよ。お前が胸に秘めた決意を」
「……え」
「忘れたのか。俺は皇帝だぞ?」
再び見上げた先に映し出されたのは、一国を率いる人物に相応しい不敵な笑みだった。
「民を護ることが我が使命。その民には、もちろんお前も含まれている」
それから六月が経った。
雲一つない青空が、まるで一人の妃嬪の旅立ちを祝福するように澄んでいる。
後宮と外界を分ける、神武門。
今ここには、この短い滞在期間に関わらず慕ってくれたたくさんの女官たちが集まっている。
六月前に訪れたときとは異なり、今馬車の荷台に積まれたのは一人分の荷物のみだ。
「娘娘」
幸福に満ちあふれた微笑みをたたえて、鈴鈴は蘭蘭の手を取った。
「どうかどうか、くれぐれもお身体を大切に。道中お気を付けて、故郷の皆にもよろしくお伝えください」
「鈴鈴……っ」
瞳に潤みを溜めながら、蘭蘭は鈴鈴を胸の中に閉じ込める。
周りに聞こえないように小さな声で、「どうか、末永くお幸せに」と付け加えた。
鈴鈴は「ありがとう。ありがとう」と何度も頷いていた。
鈴鈴の望みは、ついに叶った。
入宮から六月。侍女の帰還が許される頃合いになり、蘭蘭は無事に後宮をあとにした。
ただその内情は、当初鈴鈴が密かに画策していたものとは随分内容が変わっていた。
「蘭蘭様と鈴鈴様の入れ替わり作戦だなんて……。どうして成功すると思われたのか、まったく理解に苦しみますよ!」
ぷんぷんと怒ったように身の回りの整理をしていくのは、宦官の爽水だ。
「確かにお二人は、お顔や声色はよく似ていらっしゃります。しかし如何せん、性格が真逆ではございませぬか! おっとりしっとり淑女の鏡のような蘭蘭様と、破天荒で思考よりも先に手が動く鈴鈴様ですよ!」
「ううーん。それはその、舞台の役柄と思えばどうにかなるかなあと思ってたんだけど?」
「到着して早々人目につく騒動を多発させていた御方が、何を仰いますやら。紅貴妃ご主催の催しでの呪詛騒動時点で、鈴鈴様の存在はすでに後宮全域に知れ渡っておりましたのに」
あの呪詛騒動をきっかけに、日ごろの朱波儀に対する恨みから事に及んだ女官が捕らえられた。
後宮内での呪い事は禁忌であるが、朱波儀本人直々の訴えもあり量刑は軽いもので済んだらしい。
『リンリン、さみしくない! ヒスイがついてる!』
「翡翠」
開けていた格子窓の隙間から、ぱたぱたと飛んできたのは小鳥姿の翡翠だ。
「この小鳥は、本当に鈴鈴様のことを慕っていらっしゃるのですね」
『ことり、ちがう! ヒスイは、ヒスイ!』
「ふふ。爽水。翡翠が、翡翠と呼んでほしいって」
「ああ。これは大変失礼致しました。翡翠様」
爽水が呼び直すと、翡翠は機嫌良さそうに室内を飛び回った。
『あっ! わすれてた! でんごん! でんごん! クロスケ! もうすぐ、くるって!』
「え……っ」
翡翠の言伝の直後、屋敷の扉が静かに開く音がした。
戸を叩くことも略して屋敷に立ち入ることができるのは、後宮内で一人しかいない。
「邪魔するぞ」
「白楊様……!」
慌てて身なりを整えようとしたが、その暇さえ与えられなかったらしい。
突然の天上人の訪問に、爽水は目を丸くして危うくお茶を吹きかけた。
「様子を見に来た。最愛の姉と別れて、寂しくしてはいないかと思ってな」
「大丈夫ですよっ。娘娘とは昨晩、たくさんたくさん語り明かしましたから。手紙のやりとりだって約束しましたし、爽水も美味しいお茶を入れてくれます。ぜーんぜん平気! です!」
「り、り、鈴鈴様。天上様にそのような物言いは……っ」
「我が許したのだ、問題ない。それにしても、お主の故郷に棲まう山の神が、姉上の帰還を望むとは思わなんだな」
「……娘娘はもとより故郷の誰もから愛された方でした。私からすれば至極当然の理かと」
しれっと告げた白楊の会話に、鈴鈴もしれっと乗る。
蘭蘭が無事に後宮を脱出できたのは、白楊が修正を施した作戦の賜物だった。
翡翠の存在を必要とする白楊と、名誉を保ちつつ蘭蘭を故郷に帰還させたい鈴鈴。
二人の願いが双方叶う折衷案は、ずばり『山神のご意思とあらば皇帝とて無視はできまい』作戦だ。
山神のご意思を勝手に構築するのはどうかと思ったが、多忙の中故郷の山を訪れ、許しを求める儀式も丁重に行われた。
何より、鈴鈴が幼いころから懇意にしていた山の遣いたちが味方になってくれた。心配はないだろう。
爽水が慌てて白楊のお茶の準備に消えたときを見計らい、白楊が「まったく」と口調を崩す。
「入れ替わりが叶ったとて、そのあとはどうするつもりだったのだ。お前は『春蘭蘭』として、名も人格も変えて一生過ごすつもりだったのか? 考えれば考えるほど、お前の作戦は粗ばかりが目に映る」
「終わりよければ全て良しです。結果、無事に娘娘を故郷へ戻っていただくことができたのですから」
本当ならば、翡翠にも元いた緑豊かな森でのびのび暮らしてほしかった。
それでも、ここから梃子でも動かない様子の翡翠に、鈴鈴は全面的に甘えることにした。
やはり、蘭蘭がいない屋敷の中は想像以上に寂しい。
「これで終わりにしてもらっては困るがな」
「え?」
「まさかお前、このまま翡翠の世話をするだけの自由気ままな侍女として、この後宮に居着くわけじゃあるまい?」
白楊は居住まいを整え、懐からあるものを取りだした。
差し出されたのは、翡翠石が中央にはめ込まれた首飾りだ。
最初の謁見の際、皇帝から蘭蘭へ渡されていたものにとてもよく似ている。でも、なぜ?
「もとより春婉儀と成り代わるつもりでいたのだろう。まさか拒否など考えまいな?」
「え、ええ?」
「春鈴鈴……いや、『春婉儀』。お前は今この時をもって、妃嬪『婉儀』の位を授ける」
「はあ。妃嬪。と、いうことは」
「これからお前は俺の妻だ。ゆめゆめ、他の男に心奪われることは許さんぞ」
「……ええええっ!?」
鈴鈴の叫び声は、屋敷の格子窓を突き抜けて後宮内にまで響き渡った。
かくして、山奥育ちの少女鈴鈴の後宮物語は火蓋を切ったのであった。
終わり
琳国碌山州の西端に属する鈴鈴の故郷は、山岳地帯の麓に位置している。
開墾の中枢地域からやや離れたところにあるためか、隣接する森は今でも動植物がのびのびと息づき、村人たちとの繋がりも濃い。
生まれ故郷に通じる一本道の途中で、鈴鈴は集った森の仲間達に笑顔を向けた。
「あの子は……やっぱり最後まで、姿を見せてくれなかったね」
小さく零した鈴鈴の言葉に、木々に並んでいた小鳥たちが一斉にしょんぼりする。
「仕方がないよね。私が自分でここを離れると決めて、あの子の心を傷つけたんだもの」
それでも、この決意だけは揺るがない。
自分自身の意志で、この運命を受け容れたのだから。
「私、しっかり自分のお役目を果たしてくるよ! それじゃあ、行ってきます……!」
郷へ駆けだした鈴鈴に、動物たちが後押しするように愛らしい鳴き声を送ってくれる。
坂道を下っていくと、すぐに見えてくるのは生まれ育った村。
そこには数日前から、山間の村には似つかわしくない、豪奢な装いの馬車が留まっていた。
六月ほど前、先帝が崩御し、現皇帝が立った。
結果、政策の見直しや官僚の編纂はもとより、新帝の世継ぎを担う後宮も新たに構成されることとなる。
先帝の頃に領土の一つとして組み込まれた鈴鈴らの村だが、后妃候補が立つのは初めてのことだ。
「鈴鈴ったら。またお気に入りの森に行っていたの?」
「娘娘!」
丘の途中に顔を覗かせた人物に、鈴鈴は勢いよく抱きついた。
鈴鈴と一歳違いの姉、蘭蘭だ。鈴鈴は『娘娘』と呼んでいる。
柔和な微笑みと、風にたなびく長く艶やかな髪。
鮮やかな彩りの着物も優美に着こなす姿は、本物の天女かと見紛うほどの麗人だ。
彼女こそ、新後宮へ送られることとなった后妃候補その人である。
「娘娘、もう後宮入りの準備は終えられたのですか?」
「ええ。つつがなく終わったわ。あとは出立の時間を待つのみね」
「……啓真と、お二人でお話する機会は?」
小声の問いかけに、蘭蘭は寂しそうに首を振る。
「これから皇帝様へ娶られる身分だもの。そんなことをしては、啓真に要らぬ迷惑を掛けるわ」
「そんなことはありません! ずっと昔から、お二人は心通わせてこられたではありませんか!」
声を潜ませながらも、鈴鈴は蘭蘭の手を握り訴える。
啓真は、二人の従兄弟にあたる。
二人が両親を亡くしてからは本物の兄姉ように時を過ごし、喜びも悲しみも味わってきた。
啓真と蘭蘭が惹かれあっていると最初に気付いたのは、何を隠そう鈴鈴だ。
近い将来二人が夫婦となり幸せを育む姿を、ずっとずっと夢見ていたというのに——。
「出立前の見送りには来てくれるはずよ。その時に、しっかり最後の挨拶を交わすわ」
「そんなものでは足りません! 他の誰の邪魔もない場所で、二人がしっかり想いを分かち合うための舞台と時間が必要です……!」
とはいえ、今から二人を密かに引き合わせるのは難しい。
迎えの馬車を引き連れていた宦官が、時折蘭蘭の動向を窺っているのだ。
これから宮入りを控えた后妃候補に、万が一が起きてはならないということだろう。
ならば——后妃候補でなければ、良いのでは?
「娘娘! ちょっとこちらへ!」
「鈴鈴っ?」
蘭蘭の手を引き、鈴鈴は道脇の草むらの中へ入っていった。
慌てた様子でこちらを追う宦官の気配が届くが、ここは鈴鈴の庭のようなものだ。振り切ることは造作もない。
そして少しの間を置くと、何事もなかったかのように蘭蘭と鈴鈴はともに丘を下ってきた。
道の先には、ほっと胸をなで下ろした様子の宦官が見える。
「后妃候補ではなく『それに同行する侍女』ならば……出立前に誰と二人きりで会おうと、咎められることはありませんよね?」
鈴鈴はこそっと蘭蘭に耳打ちし、悪戯っぽく笑った。
敬愛する姉を、権力と欲望が渦巻くと噂の後宮に一人で向かわせるわけにはいかない。
蘭蘭の後宮入りが決まったとき、鈴鈴はすぐさま侍女としての同行を願い出た。
結果、鈴鈴も本日をもって、この村から離れることになっている。
今鈴鈴の隣には、地味な薄黄土色の着物をまとう蘭蘭がいた。さらりと流れていた長い髪も、今は頭上で一つのお団子にまとめられている。
いずれも、先ほどまでの鈴鈴と瓜二つだ。
「もう。あなたはいつも本当に、大胆なことばかり思いつくのね。鈴鈴」
「当然のことです。愛する娘娘のためですから」
もとより、姿形のよく似た姉妹だ。
着物と髪型を交換しているだなんて、遠巻きから監視するだけの余所者に気付かれるはずもない。
「……ありがとう! 行ってきます!」
鈴鈴の着物をふわりとたなびかせ、蘭蘭は元気に丘を駆け下りていった。
その力溢れる所作は、先ほどまでの穏やかで理性的な淑女とはかけ離れている。
「さすが、かの名俳優號儀南の再来と呼び声高い、春蘭蘭ね」
ふふんと得意げに鼻を鳴らし、鈴鈴は笑顔で見送る。
この村は、古くから伝わる伝統的な演舞を習わしとしてきた。
全国各地を不定期に巡行する『碌山演舞』の評判は根強い。
中でも若く美しい蘭蘭が舞台に立つや否や、どの州でも四方から歓声が巻き起こるのだ。
数え切れないほどの役柄を演じてきた蘭蘭にとって、妹になりきり周囲を欺くことは造作もないことだ。
「娘娘、啓真。どうか諦めないで、心を強く持ってくださいね」
丘に残った鈴鈴は、眼下に広がる生まれ故郷をじっと目に焼き付ける。
「大好きな二人の恋路が成就するまでの『大舞台』は、私が必ずや守り抜いてみせますから……!」
その謀は、蘭蘭の後宮入りが決まったその日から密かに始まっていた。
宦官が案内する馬車で、足かけ七日。
辿りついた国家の中枢紫禁城を前に、鈴鈴たちはともに目を見張った。
演舞巡行で各地の歴史的建造物を多く目にしてきた二人だが、だからこそ、目の前の建物の壮大さや造形の細やかさが嫌でも理解できる。
巨大な午門のあとに続いた長い道を過ぎ、ようやく鈴鈴達が落ち着いたのは程よい広さの屋敷だった。
「蘭蘭様、鈴鈴様。長らくの道のりを大変お疲れさまでございました。私、今後蘭蘭様の屋敷に仕えさせていただきます、爽水と申します」
「ありがとう。挨拶をさせてほしいから、どうぞ頭を上げてくださいな」
「はっ」
柔らかな蘭蘭の促しに、爽水という少年がそっと頭を上げる。
蘭蘭の歳は十八、鈴鈴は十七になるが、この少年は恐らく十四くらいだろうか。
妃候補の屋敷仕えに男は採用されない。全ては女か、性を切り落とした宦官だけだ。
「碌山州から参りました、蘭蘭と申します。こちらは妹で侍女として参りました、鈴鈴です。よろしくお願いしますね、爽水」
「は、はい! こちらこそ……!」
ふわりと柔らかな笑みをたたえた蘭蘭に、爽水はぽぽぽっと頬を赤らめた。
蘭蘭は、そこらの美女とは一線を画した美女だ。当然の反応だろう。
「こちらが今後蘭蘭様のお住まいとなるお屋敷にございます。西六宮に属するお屋敷で、名を『建谷宮』と呼ばれます」
「ありがとうございます。手入れの行き届かれた、とても素敵な建物ですね」
「はい。それだけ皇帝様が、蘭蘭様にお心配りをされている証かと」
妃たちにとって、与えられる建物の位置は非常に重要だ。西から東へ、皇帝が御座す紫禁城から近ければ近いほどに、寵愛と位の高い証しになる。
現皇帝の後宮は先代より位の扱いが引き継がれているという。
妃たちの頂点に君臨する皇后。
その下に、四人の妃である貴妃、淑妃、賢妃、徳妃。
さらに下に、六儀、四美人、七才人と位分けされるらしい。
「こちらは皇帝様より賜られました茉莉花茶でございます。蘭蘭様にぜひ労いの気持ちをとのことでございます」
「皇帝様から。なんとも細やかなお気遣いですね」
「それはもう! 数日前の夕餉には、皇帝様のご指示のもと、各々の妃嬪様ご出身地の郷土料理も手配されておりました。皆様大層喜びでしたよ」
嬉しそうに話しながら、爽水は慣れた様子で急須に茶葉を入れ、用意された湯を注いでいく。
用いられるのは、銀製の茶器だ。毒が入れられた際に変色する性質があるため、危険から身を守る際に重宝される。
改めて、『そういう世界』に来たのだと実感する。
「では、僭越ながらこの爽水が毒味役を」
「あ。それなら私が」
「え? あっ」
爽水が淹れた茶をすっと手にすると、鈴鈴は迷いなく喉に注ぎ込んだ。
瞬間、ふわりと豊かな薫りが腔内を満たし、自然と瞬きが緩やかになる。
「わあ、とても美味しいお茶ですね。ささ、娘娘もどうぞお召し上がりください」
「もう、鈴鈴ってば」
「はあ……鈴鈴様は、至極勇敢な御方なのですね」
驚きに目を見開いたあと、爽水が二人に向かってそっと言葉を潜めた。
「お二人をいたずらに怖がらせるつもりはございませんが……この後宮は、権力が全てという性格がございます。中にはその、倫理の外の考えの方もいらっしゃいます。妬み誹りは日常茶飯事、行き過ぎた嫌がらせや、毒の混入も珍しいことではございません」
「そうなのねえ。大変だわ」
「……娘娘、ご自分が今まさにその渦中にいるということを理解しておられますか?」
柔らかな態度を崩さない蘭蘭に、鈴鈴がぴしゃりと突っ込みを入れる。
「ですが、ご安心ください! この爽水は、そのような理不尽な危機からお二人をお守りするのがお役目! 毒味役も、調査諜報も、命じられたことは全て尽力させていただきます故!」
「……ああ、ごめんなさい。先ほどの私は、あなたのお役目を横取りしてしまったのね」
いわんとすることを理解し、鈴鈴はそっと爽水に向き直った。
「ならば爽水、私からも意思表示を。私は妹という立場から惰性的にここへ赴いたのではありません。全てはこの娘娘——蘭蘭様の身をこの身をもってお守りするため」
「え?」
きょとんと目を丸くする爽水に、鈴鈴は笑顔を向けた。
「だから、あなたのお役目を私にも同等に果たさせてほしいの。主をお守りする同志として、ともに頑張りましょうね!」
「は、はい! 承知いたしました……!」
再び頬を赤らめながら頷いた爽水に、鈴鈴は嬉しそうに頷き、蘭蘭は困ったように微笑んでいた。
その後設けられた謁見の場で、蘭蘭は正式に六儀である『婉儀』の地位を賜った。
国境付近に位置する碌山州の重要性を見て、至極妥当なところだろう。
「皇帝様、想像以上に素敵な方だったわね。鈴鈴」
「娘娘の美しさに比べれば、霞む程度でしたけれどね」
「もう。またそんなことを言って」
確かに、初めて目にしたその人は想像以上に若く、美しかった。
しかし薄朱色の瞳がこちらに向けられるや否や、鈴鈴は素早く顔を伏せた。必要以上に顔を覚えられたら、鈴鈴が構想する『今後』に差し障る。
屋敷に戻り、寝支度を整えた蘭蘭の髪に櫛を通す。すると、髪の隙間から僅かに垣間見えた悲しげな表情に気付いた。
「っ、娘娘」
「大丈夫よ。ごめんなさい。ここまで来たのだもの。覚悟を決めなければならないわ。私はもう……皇帝様の妻になったのだから」
顔を伏せていても小刻みに伝わる涙の気配に、鈴鈴はぎゅっと口元を締めた。
蘭蘭は涙で目尻を光らせながら鈴鈴に寄り添い、いつの間にか眠りに就いた。
故郷の長の長女として育てられた蘭蘭は、周囲の期待に応えるために様々な努力をしてきた。
そのなかで唯一心の拠り所となっていたのが、従兄弟の啓真だ。
それが、ふってわいた後宮の新設によって引き離されてしまうだなんて。
「大丈夫。絶対に私が、娘娘をこの檻の外に出してみせますからね」
まつげに光る雫をのせた蘭蘭を見つめ、鈴鈴はそっと窓の向こうに浮かぶ月明かりを見た。
翌朝。
屋敷からほど近くに広がる御花園の隅に、しゅ、しゅと空を割く音が響いていた。
規則正しい音とともに小さく届くのは、鈴鈴の吐息だ。
額には薄く汗を滲ませ、四肢がまるで疾風のように辺りに踊り回る。それは故郷で古来から伝承される、演舞の基本動作だった。
万が一蘭蘭が舞台に立てないときには代役に立てるよう、日頃から鍛錬は怠らない。
そんな想いから始まった、幼いころから続く朝の習慣だ。
「ふー……、ありがとうございました」
誰に告げるわけでもなく、両手を胸の前に合わせるとぺこりと頭を下げる。
大きく呼吸を整えたあと、鈴鈴は徐々に目を覚ましつつある後宮の空を見た。
今ごろ故郷の旧友たちも、同じ空を仰いでいるだろうか。
別れの言葉も交わせなかった親友の愛らしい姿を想い、胸がきゅっと苦しくなる。
「ごきげんよう。朝がお早いのね」
「は……」
そのとき、御花園の木々の脇から三人の影が現れた。
同一の屋敷の侍女らしく、同じ設えの着物をまとい両手で抱えるほどの陶器製の壺を持っている。
「おはようございます。今の動きは、田舎で暮らしていたころからの朝の日課なのです」
「なるほど。どうりで見覚えのない珍妙な動きですわ」
「その着物も土壌の色と相違ない、田舎町を思わせる素敵な装いですわね」
「まるで山奥に棲まうけたたましい動物のような……あっ、これは私個人の感想ですので悪しからず」
「大丈夫ですよ。気にしません」
確かに鈴鈴がまとう着物の色は、総じて地味な土気色だ。
しかしこれは、隣立つ蘭蘭の美しさを最大限に引き出すべく鈴鈴が好んで選んでいる色味。
鈴鈴単体が他人にどう思われようと、知ったことではない。
「でも安心しましたわ。御花園に妙な生き物がいるようだから確認に行くようにと、ある御方に頼まれたもので……、あっ」
「あっ」の言葉を皮切りに、三人は手に持った壺の中身を一斉に辺りにぶちまけた。
鈴鈴の足元を囲うようにして撒かれたのは、地を這い身をくねらせる虫たちだ。
「あらあら、ごめんなさいね。手が滑って中身を零してしまったわ」
「なれど、山奥から現れた御方ならば、餌として喜んで喰らってしまうかもしれなくてよ?」
「さすが田舎育ちの方は身体がお強いのね」
「……」
ほほほ、と嘲笑を残しながら、女官三人衆は御花園の向こうへと姿を消した。
やるべき事は済んだ、ということだろう。
「なるほど。これが噂に聞いていた、女同士の醜い闘争の一端か」
後宮に集うのは、一人の皇帝の妻である女たちだ。
今回標的が妃嬪の蘭蘭でなく侍女の鈴鈴となったのは、他妃からの牽制といったところか。
いずれにしても、蘭蘭には指一本触れさせやしないが。
「とはいえ、このままじゃお目覚めのお茶の準備に差し障るからな……、はっ!」
薄黄土色の着物をひらりと翻し、鈴鈴はその場から大きく跳躍した。
近くに植わっていた木の枝を掴み、車輪のようにくるりと回転する。反動のままに身体を宙に舞わせ、そのまま見事に着地した。
先ほどばらまかれた虫たちの囲いから脱した鈴鈴は、ぴっと背筋を伸ばし姿勢を正す。
敬愛する蘭蘭が幼いころから舞台に立ってきた演目、『妖獣妃伝』の主人公の決め姿勢だ。
「よし。完璧っ」
「ええ本当に。今の舞は、まこと見事でしたね」
「……え?」
耳に届いた何者かの声に、鈴鈴は素早く振り返った。
いつの間にか御花園に咲き誇る花々の中に佇んでいたのは、一人の麗人だった。
「素晴らしい身体能力をお持ちですね。まるで羽が生えているようでした」
「……」
「……どうかされましたか?」
桃色の女官衣装に身を包み、長く流された黒髪がとてもよく似合う。澄んだ瞳が印象的な、上背のとても高い人物。
その薄朱色の瞳の色合いに、鈴鈴は見覚えがあった。
「あなた様は」
「え?」
「皇帝様、で、いらっしゃいますよね……?」
鈴鈴の指摘に、目の前の麗人はぴたりと動きを止めた。
逆にこちらを探るような瞳に気付き、鈴鈴は慌てて拱手し頭を下げる。
まずい。考えなしに、思ったことを口走ってしまった。
「驚いた。よくぞ看破したな」
まろやかさが消えた口調は、やはり昨日大広間で耳にした皇帝の声そのものだ。
しかし、その声色のみでは正確に感情が読み取れない。
鈴鈴は内心冷や汗を掻きながら、言い渡される自身の処遇を待つほかなかった。
「畏まらずとも良い。見ての通り、今は皇帝としてではない存在としてここに来ている」
「……寛大なお心、感謝申し上げます」
ほっと安堵の吐息を漏らしながら、鈴鈴はおずおずと顔を上げる。
再度目にした人物は、性別はどうあれ輝かんばかりの神々しさを放っていた。
いや、だとしても、所詮蘭蘭の聡明な美しさに敵いはしないが。
「見破られたのは今回が初めてだな。何か致命的な問題点があったか。まさか他の者たちも、萎縮し言及しなかっただけで実は気付いていたのか……?」
「いえ。他の方ならば恐らくは、長身で麗しい后妃と信じて疑わなかったものと思われます」
「しかし、お前は一瞬で俺の女装を見破った」
「私の生まれ故郷は、代々全国を渡り歩く演舞を生業としております。他人を演じ成りきるための訓練を重ねておりましたが故、此度は畏れ多くも目に付いたものかと」
「なるほど。碌山州の演舞は中央でも名高い。本場の者の目は偽れぬということか」
ふむ、と皇帝は自身の女官姿を確認し、顎をさする。
殿上人の割に意外と素直なのだな、と鈴鈴は思った。
「その、ところで皇帝様は、何故そのような姿で後宮へ……?」
「後宮内は政治権力の縮図。情報収集に大いに役立つが、如何せん皇帝姿でうろついては集まる情報も集まるまい」
「……なるほど」
確かに的を射た返答に、鈴鈴はこくりと頷く。きっとこうした姿で後宮に赴くことは、初めてではないのだろう。
改めて、皇帝の女官姿を真正面から見つめた。
長く美しい髪。顔にはご丁寧に化粧が施され、着物の大きさも長身の丈に合った良い品だ……などと、思わず観察してしまう。
それだけで済ませればいいものの、長年の習慣というものは恐ろしい。
なにせ物心ついたときから、演舞公演の裏方として働いていた鈴鈴だ。蘭蘭の舞台衣装の管理を任され、製作にも携わり、本番では美しさが極限まで引き出すための化粧を施してきた。
目の前の皇帝は確かに美しい。
それでも。そう思った瞬間、鈴鈴の手は動いていた。
「失礼致します」
「ん?」
鈴鈴は、皇帝のまとう上衣の裾をそっと両手で掴んだ。
両脇にきゅっと程よく締め、腰に結われた帯の位置も僅かに上方へと修正する。
右耳にかけられていた漆黒の髪は、左側と同様に耳を隠すように真っ直ぐ下ろすようにして、そのまま胸元まで流してやった。
「確かに皇帝様は女性にも思わせる美貌の持ち主。ですがやはり骨格や面立ちは男性性が滲みます。男が女に扮する場合はいくつか隠すべき点がございます故、失礼ながら修正させていただきました」
男が女に扮するにあたり重要となるのは、首、肩、輪郭だ。
首から肩にかけての線に柔らかな布地をかけ、やや男性的な骨の張りを覚える輪郭は長く美しい髪の流れで散らす。
目の前に完成した美女の姿を改めて確認し、鈴鈴は満足げにうんうんと頷いた。
そんな鈴鈴に少し呆気にとられた顔をしたのち、皇帝は大きく破顔した。
「ふ……っはは! なるほど。長年肌に染みついた目からは、相手が皇帝とて口を出さずにはいられないということか」
「……!」
思いがけず至近距離で晒されたその笑顔に、鈴鈴は思わずどきんと胸を震わせる。
つい昨晩謁見した荘厳な皇帝の顔でも、まろやかな雰囲気で現れた女官の顔でもない。
何者の仮面にも覆われることのない、一人の男の笑顔がそこにはあった。
「え、えっと、突然の出過ぎた真似をお許しください。今さらでございますが、不敬にあたるようでしたらこの鈴鈴、如何様な罰もお受けいたします」
「気にせずとも良い。ただし、俺がこのような姿で現れたことについては一切他言無用だ」
「重々承知しております」
「先ほどのお前の舞は、実に美しかった。三人の悪意からあっさり切り抜ける様も、見ていて爽快だったぞ」
「……見ていらっしゃったのですか?」
「昨日後宮入りをした、鈴鈴、といったな」
唐突に呼ばれた名に、びくりと肩が揺れる。
「俺の名は白楊だ。以降、お前に名で呼ぶことを許可する」
「は……、え?」
「白楊だ」
「は、白楊様?」
「そうだ。また逢おう」
満足げに頷いた皇帝、もとい白楊は背を向けた。
朝の日差しをきらきらとまとわせ去っていくその姿は、後宮の庭園に訪れた、ひとときの幻のように思われた。
「その嫌がらせは、きっと堂雍宮の朱波儀様の侍女たちの仕業だわねえ」
朝餉を片す道すがら、鈴鈴は女官達の井戸端会議に加わっていた。
「碌山州の高官の家から後宮に入られた朱波儀様は、特に気位のお高い方でね。新しく現れた妃嬪様や周囲の侍女に対して、ここぞとばかりに自身の威厳を植え付けようとなさるのよ」
今朝嫌がらせをけしかけた首謀者は、蘭蘭と同位である六儀の一つ『波儀』を賜っているらしい。
「波儀というと六儀の中で一番の位と伺っております。さらに上位の妃の位に御座す方もいらっしゃるのですか?」
「そうね。とはいっても、四妃のうちの二妃の席しか埋まっていないけれど」
道脇に寄ると、女官の一人が小枝で地面に字を記しはじめた。
「今埋まっている妃の位は、貴妃と賢妃。最も皇后の席に近いといわれているのが、貴妃であらせられる紅貴妃様ね。代々中央政治にも影響力を持つ文官のご家系で、先代皇帝も先々代皇帝も重用したと聞いているわ」
さらさらと地面に書かれた文字の横に、美しい女性の画がこれまた手際よく描かれていく。
簡略化されているものの、ふわりと波立つ長い髪に甘やかな色香漂う目元が印象的だ。
「もう一人が、碧賢妃様ね。中央と長年交流も深い搗安州の上官家系から宮入りされた方よ」
再びさらさらと地面に書かれた文字の横に、先ほどとは違った人物の絵が描かれていく。
後頭部に髪をまとめ、きりっと凜々しい目鼻立ちがはっきりとした美人だ。
「現皇帝様がたって早六月、こんなに美しい妃がいてもなお、いまだに妃嬪への『お手つき』がないと聞くわ」
長い歴史のなか、後宮に足が向かない皇帝も零ではなかったと聞く。
理由は様々で、執務の多忙、後宮そのものへの嫌悪、男色……結局は当事者に聞くより他あるまい。
それでも何とか皇帝の興味を引こうと、周囲の者たちは日夜画策してはあれこれ手を講じているのだという。
「つまり、今の時点で後宮の誰かが手つきになる可能性はないに等しい、と」
「まあ、そのごく僅かな機会があったとしても、所詮は貴妃様か賢妃様お二人のもの。下位妃嬪の方々にご縁が生じることはないでしょうね」
「なるほど」
いい傾向だ。
蘭蘭は、琳国と碌山州との和睦の象徴として後宮入りの白羽の矢が立った。
あの眩しい美しさに気付かれることなく、類い稀なる優秀さに気取られることなく、慎ましく大人しく過ごしていれば、今後も皇帝の寝室に呼ばれることはあるまい。
鈴鈴のここに来た真の目的。
それはひとえに、姉の蘭蘭を無事に故郷の村へ——啓真の元へ戻すことだ。
後宮に入った『后妃』が外の世界へ出ることは、容易なことではない。
例えば、重篤な病、皇帝の死、その他重大な政治的判断がされたときの、ごく少ない例外の時のみだ。
対して、皇帝の妻という地位にない『女官』ならば、外の世界に戻ることは比較的容易である。
故郷に戻り、愛する男性と結婚し、幸せに暮らすという夢も叶えることができるのだ。
それを知ったときから、鈴鈴の中に描かれたある作戦があった。
ならば侍女として同行した鈴鈴が、后妃の蘭蘭と密かに入れ替わればいい、と。
幸い、蘭蘭が皇帝の手つきになる可能性は零に近い。
機を見て鈴鈴が帰郷を申し出、直前に二人が入れ替わり、蘭蘭は無事故郷へと帰っていく。
これにて鈴鈴が長年胸をときめかせてきた二人の恋慕が、晴れて成就するのだ。
「……完璧な脚本ね」
「ん? 何か言った?」
「いいえ、何も」
いまだ賑わう女官たちの輪から抜け出すと、鈴鈴はふんふんと鼻を鳴らしながら屋敷への道を戻っていった。
とはいえ、だ。
いくら皇帝の手つきにならないようにとはいえど、敬愛する蘭蘭が周囲から不必要に見くびられるのは我慢ならない。
「お手つきにならないよう注意しつつ、娘娘の美しさと素晴らしさを最大限周囲に知らしめる。この塩梅が重要ね」
鈴鈴は一人頷きながら、御花園脇の通りを抜けていく。
御花園は、妃嬪たちが暮らす後宮の中央に位置する巨大庭園だ。
手入れの行き届いた花や木々が植わり、中央には自由に憩いの時を過ごせる広大な建物が佇む。
さすが、大国の美女を集わせた後宮といったところだろう。
「ん? なんだろ、この臭い」
清々しい朝の空気に、徐々に入り交じってきたのは鼻を刺すような異臭だった。
御花園脇の道を曲がると、何やら数名の女官が集っている。
「どうかされたんですか? 何か妙な臭いがするような……」
「は、はい。それがその」
「うわあ。これはまた、酷い有様ですね」
人だかりの先にあった光景に、鈴鈴は思わず顔をしかめる。
そこには、腐食した野菜や肉の残骸や変色した汁物などの残飯が、通路を遮るようにばらまかれていた。
数日おかれてた残飯のようで、放たれる異臭もかなり強烈だ。
「はあ。実はこういうことも、そう珍しいことではないのです……」
「そうなのですか?」
蘭蘭の問いかけに、女官の一人が困り顔で頷く。
つまり、口に出すのははばかれる相手の日常茶飯事の嫌がらせということか。
腐食が始まっている残飯は広範囲に渡り、着物の裾を守りながら飛び越えるのは難しい。
とはいえこのままでは、彼女たちの業務にも支障が出るだろう。
「致し方がありませんね」
「えっ!」
蘭蘭は自らまとっていた薄黄土色の着物から帯を抜き、道の端にぽいっと放り投げた。
白い襦裙一枚の姿になった鈴鈴に、集っていた女官からはひゃっと甲高い悲鳴が上がる。
襦裙の裾をさらに膝まで巻き上げ手早く縛った鈴鈴は、躊躇う様子もなく残飯の小池に進み出た。
「きゃあっ! お御足がっ」
「大丈夫です。見たところただの残飯で、洗えば綺麗になりますから」
もしかしたら臭いが多少残るかもしれないが、あとで足湯に浸かればいい。
「そこのお嬢さん。私の肩に左手を置いてください。右手はこちらの手に」
「え? あ、こ、こうでしょうか……、ひゃあっ!」
いうとおりに手を添えた女官の一人の身体を、鈴鈴は軽やかに持ち上げた。
ふわりと宙を移動した女官は弧を描き、無事に向こう岸へと着地する。
「お上手でしたね。さあどうぞ、あなたの仕事場にお急ぎください」
「あっ、ありがとうございました……!」
にこっと微笑んだ鈴鈴に、女官は顔を真っ赤にして礼を言った。
その様子を見ていた他の女官たちも、我先にと鈴鈴の手を取ろうとする。
「次、私もぜひお願いいたします!」
「きゃあっ! すごい!」
「空を飛んでるみたいー!」
「はい。お手をどうぞ、お嬢さん」
鈴鈴は、幼いころから演舞の黒子役として働いてきた。この程度の距離、女性一人を運ぶことは訳ない。
一人一人丁寧に残飯の池の向こうへ渡らせていると、「あらあら」と道の向こうから甘ったるい声が響いた。
「不快な香りがすると思って参りましたら……これはいったいどういうことですの?」
そこに並び立つ三人の女官に、橋渡しを待つ者たちは一様に強張った顔をする。
朱色の着物に身を包んだ彼女らは、早朝鈴鈴に虫たちをけしかけた女官三人衆だった。
「なんて嫌な臭いでしょう。下位屋敷へ続く道ではこのような汚物も平気で生じるのですねえ」
「そこに立つ襦裙姿のあなたは、今朝もお会いした新入りの侍女様ではございませんか」
「早朝から珍妙な踊りをされ、加えて汚物まみれで力仕事だなんて。近年稀に見る働き者のお嬢さんですこと」
ほほほ、と高らかに嗤う姿に、そこにいる誰もが感情を押し込めて俯いている。
そんななか鈴鈴は、女官たちの橋渡しを続けつつ、爽水から聞いたある世間話を思い返していた。
「数日前の夕餉には皇帝様の計らいのもと、各々の出身地に合わせた郷土料理が振る舞われたと小耳に挟みました」
蘭蘭の静かな物言いに、三人衆の嘲笑が止まった。
「この国は広大です。州毎に特色豊かな料理法が根付いております。今私が足を沈めている食材は、水辺のない内地の食料。その証拠に、撒かれた残飯には魚や藻類の形跡が一切見受けられません」
「な、内地出身の女子なんて、ここにはいくらでもっ」
「こちらも小耳に挟んだのですが、皆さんがお仕えしている朱波儀様はその郷里でのみ飼育が盛んなとある牛肉がお好きだそうですね。その骨は付け根から先に駆けて二股に分かれている、至極珍しい形状だと聞いたことがございます」
流ちょうに語られた鈴鈴に言葉に、侍女三人衆があからさまに顔色を変える。
鈴鈴の足元に広がる残飯の中には、二股に分かれた珍しい形状の骨がいくつも浮かんでいた。
「さあさ。こんな処にいつまでもいらっしゃいますと、この嫌な臭いが付いてしまいます。どうぞ主様の元へとお戻りください」
主様の元へ、と殊更強調し、鈴鈴は三人衆ににこりと笑みを向ける。
その笑みに含んだ毒に気付いたらしい三人衆は、なにやら捨て台詞を吐きつつそそくさと退却していった。
次の瞬間、その場にいた女官たちからわっと大きな歓声が沸いた。
……やってしまった。
「鈴鈴、聞いたわ。廊下で身動きできなくなっていた人たちを助けてあげたんですって?」
「娘娘……」
結局あのあと鈴鈴は、道に撒かれた残飯の掃除まで綺麗に済ませた。
まとわりついた残飯の臭いは、薬草を煎じて入れた足浴みで何とか落とし切れたと思う。
「鈴鈴らしいわね。困った人を放っておけないところ、小さいころから変わっていないわ」
「しかし今考えれば、もう少し穏便に振る舞うことはいくらでもできました。それができなかったのは、全て私の心の幼稚さが原因です……!」
恐らく件の三人は、気位の高いことで有名な朱波儀お付きの侍女だ。
妙な火種を生まないためにも、あの場は犯人を突き詰めることなく、素知らぬ振りを通せばよかったのだ。
「私一人ならば、どのような誹りも受けます。残飯にも何にでも身体を浸してみせます。それでも、もしも何者かの汚い策略が娘娘にまで伸びたらと考えると……!」
「顔を上げなさい。鈴鈴」
凜とした蘭蘭の声に、鈴鈴は情けなく垂れていた頭をぱっと持ち上げた。
すぐ目の前には、慈愛に満ちた蘭蘭の柔らかな微笑みがある。
「随分と見くびられたものねえ。あなたが侍女として追いかけてきた女子は、野蛮な手を使う者たちに簡単にひれ伏すような、何もできない貧弱なお嬢様だとでも?」
「いいえっ、決してそのようなことは!」
「そうよね。私がどれだけの強情な性格かということは、あなたが一番身近で見てきて知っているはずよ」
そう言って、蘭蘭は茶目っ気たっぷりな笑顔を向ける。
幼いころの演舞巡業の際、蘭蘭は酷い高熱を出したことがあった。
周囲の大人も気付かないなか、蘭蘭はいつものような美しい舞で観衆を沸かせた。
ついに最終日の舞台直前で昏倒するまで、一度たりとも弱音を吐かなかった。
その日の舞台は、妹の鈴鈴が代役として初めて演舞を披露することになった。
大盛況のうちに幕引きされたことは至極僥倖だったが、全ては蘭蘭の並々ならぬ舞台への想いを継いだからこそ成しえたことだ。
「もしも何かございましたら、すぐに私に申しつけくださいね。私が必ず、娘娘をお守り致しますので!」
「ええ、ありがとう。頼りにしているわ。鈴鈴」
頼りにしている。
蘭蘭から贈られる言葉の中で、鈴鈴が一番嬉しいものだ。
「さあて。遅れてしまった朝の支度を始めなければ。越してきたばかりの屋敷ですので、まずは今日中に全室の清掃を……」
そのとき、建谷宮に訪問者を知らせる戸を叩く音が鳴った。
「本日、上位女官らと諍いごとについて尋ねたいことがある」
戸を開けると、岩のように厳つい人物が立ち塞がっていた。
上には、暗い藍色の褂子を重ねた灰色の袍子。下は黒色のズボンを纏い、頭には宦官を現す丸い帽子を被っている。
新参といえ妃嬪相手に敬語を省いた物言いは、どうやらかなり高い位の宦官のようだ。
「ご機嫌麗しゅうございます。この屋敷の主、春婉儀でございます」
「太監の落雁と申す。今朝起こった女官同士の諍いごとについての調査に参った。そなたにも詳しく内容を確認したい」
「お待ちください! 娘娘は、今回のことにまったく関わりございません!」
前に進み出た蘭蘭を、鈴鈴が慌てて押し戻そうとする。
しかしながら、この後宮での鈴鈴は蘭蘭の侍女。
鈴鈴の不祥事は、主である蘭蘭の監督不行き届きとされるのが当然だ。
ああ。恐れていたことがこんなに早く起こるなんて。
必ずお守りすると決意を新たにした矢先に!
「関わりの有無も、全てはこちらで判断する。謂われなき疑いを避けたいならば、今から尋ねることに嘘偽りなく答えることだ」
「……承知致しました」
その後二人は、無表情な宦官に粛々と質問を投げかけられた。
鈴鈴も蘭蘭も、問われたことは各々真実のみを明瞭に答えていく。
曖昧なことは元々好きではないし、これ以上余計な疑惑を蘭蘭に浴びせることだけは避けたかった。
「——では、今朝の屋敷通じの道中で起こった出来事は、以下の通りで相違ないな」
最終的な内容の確認書押印のため、蘭蘭は落雁という宦官に連れられ一度屋敷をあとにした。
こちらを安心させるように微笑むと、蘭蘭は塀の向こうへ消える。
「娘娘……っ」
蘭蘭を巻き込んでしまった自身の不甲斐なさに、鈴鈴はぎゅっと衣を強く握りしめた。
「心配せずとも、お前の主はすぐに戻る」
凜としたその声は、聞き覚えのあるものだった。
ぱっと顔を上げると、屋敷の門前に寄りかかるようにこちらを見る一人の宦官の姿がある。
「あなた様は」
「また見えたな。薄黄土色の衣の娘」
もはや鈴鈴相手に取り繕うつもりはないらしい。
今鈴鈴らを事情聴取していた者と同じく、灰色と濃藍色の上衣と黒の包衣。お椀を思わせる半球体の帽子を頭に乗せた、一見宦官を思わせる人物。
しかしその実、じわりと滲んだ薄赤色の瞳は、今朝も対峙したばかりだ。
この後宮はもとより国も手中に収める、皇帝——白楊に他ならなかった。
「形式上必要な手続きを取るだけだ。落雁は我の古くからの重鎮。顔と頭は固いがそのぶん信用は置ける」
敷地内へと進み出た白楊は、鈴鈴の目と鼻の先で歩みを止める。
その間、鈴鈴は視線を落としたまま動かなかった。
「他の女官からの個別聴取も取った。此度のことでは、お前が自分らを庇ってくれたという答えが相次いでいた。騒ぎの原因が朱波儀の侍女らの仕業だと看破したということも」
「……そうでしたか」
「もとより、件の侍女らの素行問題は常々報告が上がっていた。そろそろ手綱を締める頃合いだと考えていた矢先、お前がいい具合に立ち回ってくれた。感謝する」
「勿体ないお言葉にございます」
「……なんだ。落ち込んでいるのか?」
「落ち込みますよっ! 当然じゃありませんか!!」
しれっと問われた白楊の言葉に、鈴鈴は思わず声を荒げた。
「私はっ! 両親を亡くしてからずっとずっと娘娘に支えられてきたのです! 時に姉として、時に母として、娘娘は私のために必死に身を粉にしてくださいました! 私ももう大人です! 一刻も早く、今度は私が娘娘のお力になり支える側になろうと決めたのです! それなのに……それ、なのに……!」
「——鈴鈴」
明瞭に呼ばれた名に、はっと息を呑む。
気付けば鈴鈴の身体は、青色の上衣をまとった腕の中に包み込まれていた。
見た目よりも逞しい体躯に、届く熱い温もり。そして、見上げるほどの位置にある端正な顔。
いつの間に溢れていた涙が、押しつけられた白楊の胸元にじわりと染みこんでいく。
「その一途なまでの強い想い、お主の姉上にも届いておらぬはずがない」
「……、あ……」
「大切な者に慕い頼られることは、姉上にとっても大きな心の支えになっていたはずだ。……俺自身、そうやって徐々に、皇帝としての自信を築いていった」
「……白楊様……」
広い胸板に触れている鈴鈴の耳に、優しく脈打つ心の鼓動が聞き取れる。
「まさか白楊様にこのような慰めの言葉を賜るなど、畏れ多いことです。他の女官の方々の目に触れたら、次は屋敷前に何を捲き散らかされるかわかりませんね」
「減らず口を叩くくらいには落ち着いたか」
「ふふ。はい。本当に、ありがとうございます」
そっと胸に手を付くと、鈴鈴は白楊から身を離した。
異性にこんな風に抱きしめられたことがなかったからか、心臓の鼓動が先ほどからどきどきと忙しない。
「お前は、随分と春婉儀を敬愛しているのだな」
「はい。それは勿論。なにせ娘娘は、我が郷随一の清らかな心の持ち主ですから。その上慈しみ深く、教養もあり、さらには仙女を見紛うほどの美しさも兼ね備えております。娘娘こそ、この天に愛されながら生まれた存在に相違ございません!」
「ほう」
「……あ。で、でも。この後宮には他にも国中から集められた美しい方々が揃っておられますよね。ですのでその、白楊様がわざわざご興味を持たれる必要もないかと……!」
まずい。いつもの調子で、蘭蘭を褒め称えてしまった。
皇帝である白楊に、必要以上に蘭蘭の素晴らしさを知らしめてはならない。
お手つき、駄目、絶対。だ。
「え?」
そのときだった。
バサリ、と。
庭の上空に広がる青空から、聞き覚えのある羽音が届いた。
見上げた先には、陽の光を遮るように広げられた美しいふたつの両翼。
郷で別れを告げることができなかった、大好きな大好きな友達。
一等懇意にしていた、翡翠色に瞬く美しい羽色だ。
「——、翡翠!?」
「きゃきゃうっ!」
目をまん丸にする鈴鈴を見留めたそれは、一気に急降下してくる。
手のひらに収まるほどの翡翠色の小鳥は、勢いよく鈴鈴の胸に飛び込んだ。
「翡翠……どうしてこんなところにっ」
『リンリン! さがした! さがした!』
駄々をこねる子どものように、腕に抱かれた翡翠はバタバタと羽音を立てた。
「森の仲間たちから聞いているでしょう? 私は娘娘とともに後宮に向かうことになったと。だから私、あなたにもきちんとお別れを言いたかったのに、あなたってば一月以上顔を見せてくれなくて」
『おわかれ、や! や! ワタシまだリンリンとおわかれしてない!』
「翡翠……」
どうやら、鈴鈴との別れを受け容れたくなくて、森や山を逃げ回っていたらしい。
ピイピイ鳴きむせぶ翡翠に、うっかり目の奥がじんと熱くなってしまう。
しかし次の瞬間、鈴鈴は目の前に佇む人物の存在を思い出した。
ぱっと顔を上げると、白楊は鈴鈴の方を物珍しげに凝視している。
「は、白楊様……えっと、この子はその」
「翡翠色の羽の鳥、か。かような見目の鳥は初めて見る。何やらお前に抗議しているように見えるが?」
「……私の故郷の周囲は最奥地故、他州では目にしない生き物が数多く棲んでいます。この子は私の、子どものころからの親友なのです」
「なるほど」
ひとまず納得したらしい白楊に、鈴鈴はほっと胸を撫で下ろした。皇帝に虚言を告げるのは大罪だが、ここは致し方がない。
鈴鈴だけが知る翡翠の『秘密』。
鈴鈴と会話できるのみではない、隠れた『正体』。
それを知られれば、どんな仕打ちを受けるかは想像もできないからだ。
「翡翠。あなたはこの後宮に棲むことはできないのよ。会いに来てくれて本当に嬉しいけれど、やっぱり故郷の森に……」
「まあ待て。遠い山岳高原から海際の中央都市まで来ることは、いくら空を飛んだとしても相当の苦労があったはず。しばらくはここで休ませてやっても罰は当たるまい」
「え……、よろしいのですか?」
「ただし、条件が一つある。今朝、お前が御花園で披露していた舞をもう一度見てみたい」
「……へ?」
白楊はそう言うと、真っ直ぐ鈴鈴に視線を向けた。
「お前のあの舞は美しかった。今も俺の脳裏にちらついて、何やら離れようとせぬ」
「……っ」
面と向かって告げられた褒め言葉に、鈴鈴はじわりと頬に熱が集まるのを感じる。
「あの舞を今ここで披露してくれるならば、この者のしばしの滞在は不問に付そう」
『リンリン! おねがい! おねがい!』
「わ、わ、わかりました! じゃあ、ほんの少しだけ」
改めて催促されると気恥ずかしいが、皇帝の命は絶対だ。
す、と静かに呼吸を整えると、鈴鈴は心の中の雑念を払い、地面を強く蹴った。
助走なくくるりと身を翻し、薄黄土色の裾が優雅にたなびきながら円を描いていく。
「お前は身軽だな。此度の騒動を鎮めた際の、細やかな知識も興味深い」
「家業の巡業で国内をあちこち廻っていたので、地域の特色は自然と頭に入ってくるだけですよ」
一度この動きを始めると、意識せずとも身体が次の動きへ流れていく。
皇帝からの問いに耳を傾けながら、鈴鈴は幾度も周囲の空を切った。
「碌山州の演舞……過去に一度だけ、目にしたことがあるな。まだ若い女子が、舞台途中で繰り返し女装と男装を繰り返していた」
「わ! 左様にございますか! 恐らく題目は『妖獣妃伝』にございますね! この上なく素晴らしい演舞でしたでしょう!?」
幼いころから、敬愛する蘭蘭が心血を注いで演じてきた作品だ。天上人といえど印象が残らないはずがない。
舞い続けながらも、鈴鈴は得意満面に食いついた。
「『妖獣妃伝』は、遙か昔より故郷の村に伝わる妖らの逸話を元にした演舞劇です。主演の妖獣妃を演じるには、それこそ並大抵の努力では成しえないのです!」
「お前が、その主演だったのか」
「ふふ、まさか。私は裏方です。演じていたのは私の」
「私の?」
「……昔からの友人ですが今は村を出てどこにいるのかもわかりません顔も名も覚えておりません」
「……ほう?」
馬鹿正直に「私の姉上」と告げそうになったところを、鈴鈴はすんでのところで呑み込んだ。
お手つき、駄目、絶対。だ。
「俺がその演舞を目にしたのは、七年前の黒水州だ。あのとき目にした少女は複数の役割を生き生きとこなしていた。とても美しかったな」
「そうでしたか! 七年前の黒水州……」
あれ、何だろう。
七年前の黒水州の演舞。その当時の記憶に、何か引っかかるものがあった。
ただ一度蘭蘭が昏倒したあの時も、七年前の黒水州ではなかっただろうか。
「あのころの俺は、皇太子として中央に戻るよう求められていた。でも俺は子どもながらに葛藤していた。皇太子という巨大な冠名が恐ろしかったのだ。俺という小さな存在など、その冠名の大きさに覆われ、消えてなくなってしまうのではないかと」
語る白楊の目は、まるで遠き日の自分を眺めているようだった。
「あの『妖獣妃』は、どのような立場や姿形でも構うことなく、ただその時をいきいきと生きていた。その生き様を見て決心したのだ。俺も立場や姿形にとらわれることなく、己の信じる道を行くと。そのためには皇帝として冷酷な指示も下すし、他人に化けて情報収集も躊躇なくする」
「白楊様」
「鈴鈴。あの時の妖獣妃は……」
舞いつつも徐々に記憶を蘇らせていく鈴鈴に、白楊が再度何か言いかける。
そのとき、通りの向こうから何者かの気配が届いた。
「鈴鈴。お待たせ。ただ今帰りました」
「わっ! 娘娘!」
待ち望んでいた蘭蘭の帰還に、鈴鈴は舞の続きも忘れて駆け出す。
「ご無事で何よりです! 酷い仕打ちは受けませんでしたか……!?」
「ええ、ええ。大丈夫よ。落雁さんがとても丁寧に案内してくださったもの」
「落雁さん、娘娘を丁重に扱ってくださったこと、心より感謝申し上げます……!」
「いえ。これが其の御役目故」
態度の堅苦しさはさておき、蘭蘭へ向けられるある種の線引きはしっかり成されているようだ。
「落雁。戻るぞ」
「はっ」
「あ」
後ろを振り返るのと同時に、白楊が鈴鈴の横を通り抜けていく。
なんだろう。微かに垣間見た横顔が、何やら機嫌を損ねていたような。
「……この度はご足労をおかけ致しました! 心より感謝申し上げます……!」
思わず張り上げた声は、淑女には少々幼すぎただろうか。
それでも伝えたかった感謝の意を、改めて遠ざかる背に告げる。
するとその歩みは止まり、白楊はこちらを振り返った。形のいい唇が、声なき声を象る。
また、逢いにくる——と。
「あらあら。鈴鈴ってば、もしかして今の宦官さまと仲良くなったのかしら?」
「そ、そういうわけじゃ。ただ、色々と嬉しいお言葉をかけていただいただけですっ」
「そうなの? あの宦官さんのお名前は?」
「……聞きそびれました」
蘭蘭は、あの宦官が皇帝本人とは気付かなかったらしい。
本人の了承を得ずに正体を明かすことは憚られて、鈴鈴は久方ぶりに蘭蘭に小さな嘘を吐いた。
今度は一体どんな装いで現れるつもりだろう。
そんな思いを抱きながら、鈴鈴は蘭蘭に先立って屋敷の扉を開いた。
残飯事件の発生から五日後の、ある日のこと。
後宮内での生活にも慣れてきた鈴鈴らの元へ、屋敷お付の爽水を通じ、とあるお誘いの文が届けられた。
送付人の名は紅貴妃。皇后不在のこの後宮内で、今最も権力の高い妃の名だ。
「わあ……!」
「これは……なんて華やかな空間でしょう」
文に記された場所へ赴いた鈴鈴と蘭蘭は、周囲とは一線を画す大きさの建物に目を剥いた。
通された広大な部屋は、対面する壁も頭上の天井の梁も、目を細めてしまうほどに遠い。
そして室内には、色とりどりに揃えられた美しい着物たちが、何列にも渡ってずらりと並んでた。
すでに他の女官たちも多く、用意された着物に各々瞳を輝かせている。
「どうやら、爽水の話していたとおりだったようね」
「はい。でもまさか、下級女官相手にこのような催しを企画されるだなんて」
爽水の話によれば、紅貴妃は時折このような着物の賜り市を開くことがあるのだという。
下位といえど、皇后の地位を争うという点では、他の妃嬪たちは全員敵ともとれる。
そんな相手にこのような施しをするのは、単に友好関係を築くためのものか、それとも何か裏の意味があるのか。
「ほらほら。扉の前で立ち止まりなさるな。あんた方は春婉儀とその侍女だね。こちらが引き換え札。気に入った着物は二着まで賜られるとのことだから、早い者勝ちだよ」
「あらあら、早い者勝ちですって。市井に戻ったみたいで、わくわくするわねえ」
「ふふふ、長年娘娘の衣装係を手がけてきた、裏方作業人の腕が鳴ります!」
「……鈴鈴。私はいいから、まずは自分自身の着物を探しなさいね?」
困ったように笑う蘭蘭の言葉を余所に、鈴鈴はさっそく蘭蘭に一等似合う着物探しの旅に出た。
案内人の宦官に簡単な説明を受けたあと、ひとまずぐるりと一通りの着物を眺めてみる。
よく目を通せば、各々の着物に施された細工には特徴があり、それごとに衣紋掛けに分けられていた。
「あ、娘娘見てください。こちらの着物は、以前北方の州で娘娘が目に留めていた衣に似て……」
「そこのあなた下がりなさい! 不敬よ!」
鋭い針の先のような指摘に、鈴鈴は伸ばしかけていた手をぴたりと止める。
横からさっと割って入った誰かの手が、取りかけていた着物の一着を素早く取り去っていった。
ぽかんとする鈴鈴を余所に、横取りした人物は嬉しそうに仲間たちの元へと戻っていく。
その顔に、鈴鈴は見覚えがあった。
「あなたは」
「お里が知れるわね。上位女官相手に、敬語の一つもまともに付けることができないだなんて」
「……大変失礼致しました」
ひとまず鈴鈴は、両腕を挙げ拱手の体勢を取った。
ひそひそ口々にこちらを嘲笑する三人は、どうやら先日の残飯事件で相見えた三人らしい。
せっかくの心穏やかな蘭蘭との語らいの時間に、妙な石が放られた気分だ。
「ご不快な思いをさせてしまい申し訳ございませんでした。即刻、退散致します」
「まあ。卑しい郷の出の者は、逃げ足だけは天下一品というわけね」
「仕方なくてよ。何せ凶暴な獣以外棲みつかないと言われてきた、山奥の集落で育ってきたのだから」
故郷を馬鹿にされた。まあいい。
「このような娘が後宮入りなど。最低限の教養も持たさず集落を追い出すなんて、親の顔が見てみたいものね」
親も馬鹿にされた。うん。まあいい。
「入宮して早々に宦官らの聴取の世話になったというじゃない? これは上官でもある、春婉儀の監督不行き届きではなくて?」
「娘娘を貶めるおつもりか」
低く這い出るような声色になった。
今まできゃいきゃい悪口に花を咲かせていた三人は「ひっ」と一様に口を閉ざす。
「私への悪態を吐かれることは一向に結構。しかし娘娘への侮辱は一片たりとも看過できませぬ。ゆめゆめ、ご承知置きを」
「鈴鈴、落ち着いて。私は大丈夫だから。ね?」
後ろに控えていた蘭蘭が、柔らかな口調で仲裁に入る。
しかし鋭い視線を解こうとしない鈴鈴に、三人の侍女は居心地悪そうに視線を泳がせた。
「こ、これは正式な苦情よ! 何せあなたは今、こちらの赤色の着物を手に取ろうとしたのだから!」
「は?」
「赤の色は、朱波儀様が一番に優先して目を通されるべきもの! それはこの試着会に集った女官らには、皆周知の事実なのよ!」
「……」
はあ。なるほど。
確かに三人がいる室内の一角を見遣ると、赤い着物がごっそりと集められている。
赤く積まれた着物が炎のようで、一瞬火でも放たれたのかと驚くほどだ。
高らかと宣言した侍女の言葉に、辺りにいる他の女官たちは一様に困ったような表情を浮かべた。
どうやら、朱波儀の侍女らが独自開発した決まり事のひとつらしい。
「さあさ。こんな方は放っておいて、急いで着物を一列に整えましょう。朱波儀様のお目通しがされやすいように……」
「ほう。わらわがどうかしたのか?」
いかにも妖艶な声色が、大広間に静かに響く。
肩を震わせた侍女たちの視線を追うと、広間入り口付近に佇む人物がいた。
シャラリと音を奏でる金属製の髪飾りをふんだんにあしらった、豪奢な髪型。
目元と唇に乗せられた濃い色味は、まるで周囲を威嚇するようだ。
何より、その身にまとう紅蓮の炎を思わせる赤色が、渦中の朱波儀その人だと雄弁に告げていた。
「朱波儀様っ」
「朱波儀様、どうぞこちらへ」
「ご準備はすでに整えてございます……!」
案の定、侍女三人衆は慌てた様子で朱波儀の元へ駆け寄り件の着物を集めた箇所へ案内する。
しかしその間も、朱波儀の視線は、なぜか鈴鈴と蘭蘭の方へ向けられていた。
「そこの者は、先日入宮したばかりの春婉儀とその侍女か」
「お見知りおきいただき光栄にございます。朱波儀様」
素早く一歩前に歩み出た蘭蘭が、拱手し丁寧に頭を下げる。
鈴鈴も頭を下げると、朱波儀はくつくつと小さな笑みを零した。
「わらわ達は同じ六儀を賜った者同士。そうへりくだる必要もなかろうぞ」
「寛大なお言葉、心より感謝申し上げます」
「そなたも紅貴妃様よりお誘いを受けてここにいるのだろう。あの御方は後宮全体を見渡してくださる心優しき御方。その慈悲を有り難く授かるがよい」
確かに波儀と婉儀は六儀という同じ位にまとめられるが、実際は波儀の方が婉儀よりも格上だ。
蘭蘭の丁寧な礼節に、朱波儀はにっこりと笑みを向ける。
ひとまずは次第点、といったところだろう。
「さて。貴妃様から授かったお気持ち、わらわも選ばねばならぬ。可愛い侍女達よ、当然準備は済ませておろうな?」
「はい! 朱波儀様のお手を煩わせずとも、抜かりなく……!」
「なるほど。これがお主らの持てる力全てというわけだな」
次の瞬間、大広間にパン、と乾いた音が轟いた。
続いて響いた衣紋掛けを倒す大きな音に、周囲の妃嬪や女官達は一斉に振り返る。
「わらわは赤色の着物を全て集めておくよう命じたはず。向こうに見える着物はなんじゃ? どうにも赤色に見えるが、わらわの気のせいか?」
「た、た、大変申し訳ございません! 今すぐに……っ!」
「向こうにも、向こうにも、向こうにも赤の着物が見える! お主らはこんな簡単な小間使いもまともにできぬのか!? それだから入宮して日も浅い田舎者に舐められ、調書を取られるなどの辱めを受けるのだ!」
爆竹のような人だ、と鈴鈴は思った。
しかも、しれっと鈴鈴らへの中傷まで織り交ぜられている。
主の激高に恐れおののいた侍女達があちこち駆けずり回るなか、朱波儀の視線は鈴鈴を捉えた。
「春婉儀。そちらに控える者が、噂に聞くお付きの侍女かえ?」
「左様にございます。生まれ故郷からともに参りました、私の大切な妹です」
「朱波儀様、侍女の鈴鈴にございます。以後、お見知りおきを」
「必要ない。すでにそなたの話は耳に聞き及んでいる。我が侍女らと何やら派手にやり合ったそうな」
「朱波儀様にご迷惑をおかけするつもりは露ほどもございませんでした。ご不快なお気持ちにされたのであれば心からの謝罪を申し上げます」
鈴鈴はすかさず地に膝を突き、誠心誠意額を地に着ける。
潔いほどの土下座に、さすがの朱波儀も言葉を失ったようだった。
「先日の件につきましては私どもも宦官様からの調書を取られました。今後このようなことがないように厳重注意も。全ては私の未熟さ故に端を発したこと。これからは決して朱波儀様のご不快を煽ることはございません。どうぞお許しを」
「……まあいい。幼さ故の短絡的な行動はよくあること。潔い謝罪に免じて、先のことは水に流そう」
感情の沸点が掴めない相手だ。
これ以上火種を育ててしまえば、次は先ほどの張り手が、敬愛する蘭蘭の頬に飛んでこないとも限らない。
「そうじゃ鈴鈴よ。和睦の証に、ぜひお主が見立ててはくれぬか? 紅貴妃様から贈られる貴重な着物の内の一枚を」
「……私が、よろしいのでしょうか?」
「ぜひ頼もう。わらわに殊似合いと思われる、極上の一品を」
何やら妙なことになってしまった。
見ればさらに枚数を増やした赤の着物の山に、鈴鈴は目を瞬かせる。
後ろから何か助け船を出す様子だった蘭蘭に気付き、鈴鈴は素早く笑顔を向けた。
「では、僭越ながら朱波儀様のお着物をこの鈴鈴が選出させていただきます」
どうやらこれもまた、恒例の余興の一つらしい。
恐らくは日頃気に入らない者に自身の着物を選ばせ、難癖を付け、聴衆の面前で辱めるという流れなのだろう。
侍女三人衆や他の者たちの視線を肌で感じながら、鈴鈴は無言で着物をあれこれ吟味する。
そして全ての着物に目を通したあと、鈴鈴は一着の着物を手に取った。
「朱波儀様、大変お待たせ致しました」
慇懃無礼に朱波儀へ差し出したのは、着物の裾に刺繍が施された華やかな着物だった。
侍女に言って広げた造りに、朱波儀は顎をさする。
「なるほど。して、この着物を選んだ理由は?」
「朱波儀様に、一等お似合いの赤いお着物だからでございます」
端的な答えに、周囲からは小さな失笑が聞こえる。
しかし鈴鈴は気にも留めず言葉を続けた。
「朱波儀様は、赤という色に特別のお気持ちをお持ちのご様子。さすれど、この世には無限の赤がございます。玫瑰花色、牡丹色、深紅色に茜色……多くの赤い花も、開花した場所や環境に応じて形も色も異なります」
侍女らが広げた着物を自然に受け取ると、鈴鈴はふわりと生地を波打たせ両手で抱えた。
「この赤は雛罌粟の花の色。濁りの少ない鮮やかな明るい赤です。ふわりとまあるい花弁の形が愛らしい、魅力的な花でございます」
「……」
「雛罌粟は『虞美人草』とも呼ばれると聞き及んでおります。類い稀なる美貌で有名だった時の寵妃が、皇帝の後を追う際に流した血から咲いた花という伝説もある……なんとも神秘的な花です」
「……知っておる。その伝説の出自は、わらわの生まれた国であったからな」
「左様にございましたか。それはまた、素敵な国からお生まれだったのですね」
事前に朱波儀の出身国は存じていたが、あえて素知らぬふりを通す。
「朱波儀様の陶器を思わせる柔らかな白い肌には、こちらの赤が一等よくお似合いです。まさに春に咲き誇る、雛罌粟のような魅力が惹き立ちます。よろしければ、ぜひ一度羽織られてみては?」
「……」
「こ、こらっ、あなた、朱波儀様に対して馴れ馴れしいですよ!」
「いや、よい。そこまで言うのならば、羽織ってみよう」
「はい!」
あちこちに用意されていた大鏡の一つの前に立った朱波儀に、雛罌粟色の着物を羽織らせる。
瞬間、色彩の薄い朱波儀の瞳がぱっと見開かれた。
「……本当だ。こちらの赤は随分と私の肌に馴染んで、美しく映る」
「想像以上ですね。朱波儀様の肌のお色がさらに明るくなって、艶やかさも増して映ります。裾にちりばめられた金糸の刺繍も華やかで、朱波儀様の凜と気高い雰囲気にぴったりかと」
「赤の色をまといさえすれば、それでいいと思っていた」
傍らで満足げに頷く鈴鈴に、朱波儀は初めて小さく微笑んだ。
「私には心に憧れの姫君の姿がある。その御方は常日頃赤い着物をお召しでな。気付けばわらわも、その背を追うように赤いものを身につけていた。それでも、その御方に少しも追いつけないでいる自分が歯がゆくてな」
「朱波儀様……」
「わらわが真に焦がれていたものは、この世で常に一等美しくあろうとするあの御方の、強い意志を秘めた姿勢だったのかもしれぬ」
「皆さん、今日は。ご機嫌はいかが」
大広間の扉が、左右に一挙に開け放たれた。
次いで届いた優美な声色に、中にいる者すべてがはっと目を見張る。
「っ……ご機嫌麗しゅう存じます。紅貴妃様……!」
最初に声を張ったのは朱波儀だった。
それを皮切りに、着物を選んでいた妃嬪や女官たちも笑顔で声の主に駆け寄り、礼節込めて挨拶をしていく。
後ろから蘭蘭がそっと耳打ちした。
「鈴鈴。私たちもご挨拶を。この催しを企画してくださった、紅貴妃様だわ」
「紅貴妃様……」
現在後宮でもっとも皇后の席に近いと目される、紅貴妃。
その圧倒されるほどの神々しさで一瞬呆けてしまった。
「お初にお目にかかります、紅貴妃様。過日後宮へ参りました、春婉儀と申します」
「はじめまして、春婉儀様。どうぞお顔を上げなさって」
蘭蘭の少し後ろで同様に頭を下げた鈴鈴もまた、ゆっくりと頭を上げる。
女子でも見惚れるほどの美貌と、艶めかしい眼差し。気品溢れる振る舞いは、まさに貴妃に相応しい。
身にまとうのは、美しい玫瑰花色の着物だ。
確かにここまでの御人であれば、朱波儀が焦がれ真似たがるのも頷けた。
「ここでの生活にはもう幾分か慣れましたか。色々と不都合もおありでしょう。何か困ったことがありましたら、遠慮なく相談されてね」
「はい。かのようなお気遣いいただき、心より感謝申し上げます」
「さあさ、皆の手を止めてしまったわ。皆どうぞ気に入った着物を屋敷にお持ち帰りくださいな」
笑顔でぱん、と手を打った紅貴妃に、妃嬪たちは再び着物選びに興じはじめた。
「それはそうと……、朱波儀様?」
「はい、紅貴妃様」
肩を小さく振るわせたあと、朱波儀はすかさず声を張る。
紅貴妃は真っ直ぐに朱波儀の元へ向かい、その姿をじいっと見定めていた。
「今纏っている着物、とてもよく似合っているわ。明るい肌色のあなたにぴったりの着物ね」
「! そ、それは、真にございますか……!」
「勿論です。私は優しい貴妃様だけれど、無用な世辞は言わないのよ?」
ふ、と笑みを滲ませながら告げる紅貴妃に、朱波儀は顔を真っ赤にして拱手する。
どうやら、絶対的人物からの太鼓判をいただけたようだ。
鈴鈴はほっと胸をなで下ろし、蘭蘭と顔を見合わせる。
これでゆっくりと蘭蘭の着物選びに専念できそうだ。蘭蘭の美しさが最高に際立つ着物を探し出すとしよう。
「朱波儀様。その、他の着物はお召しになられないのですか?」
「ああ、いい。今回はこの着物のみ屋敷へ持ち帰ろう」
「承知致しました。ではこちらはすぐにお戻し致します」
山のように集め出されていた赤い着物達を、侍女三人衆が手早く元の場所へ戻していく。
恐らく通常ならば、そのすべてに袖を通し吟味に吟味を重ねて選出していたのだろうが、今回はその手間がない。
心なしか喜ばしそうに辺りを駆けていく侍女三人衆を、鈴鈴は労りの気持ちで眺めていた。
「……え?」
初めは小さな違和感だった。
目の前を通り過ぎていった侍女の一人から、ほんの僅かに気になる気配が尾を引いた。
腕に積まれた、何層にも重なる着物の小山。その赤い着物の一つ。
一際豪奢な装飾が施された袖口付近が、不自然に、膨らんで、動いて——。
「危ない!」
「ひゃあ!?」
駆けだした鈴鈴は、侍女の腕に積まれた着物の小山を躊躇なく叩き落とした。
辺りにまき散らかされた赤色の着物の山に、件の侍女は訳がわからないといった表情を強張らせる。
「な、あ、あなた、一体何を……!」
「早く! こちらへ下がって!」
非難の声を遮り、鈴鈴は侍女を背に追いやった。
雪崩を起こして床に広がった赤い着物に、周りの女官達も騒然とする。
しかし次の瞬間、着物の中から現れた『あるもの』の姿に、悲鳴が上がった。
「きゃあっ! 虫! 虫よ!」
「虫だわ! 巨大な虫が、着物から!」
「気味が悪い! に、逃げるのよ……!」
虫じゃない。あれは蠍だ。
「鈴鈴、あの蠍は……!」
「ええ。ただの迷い蠍ではありませんね」
考えている暇はない。
鈴鈴はすかさず蠍が這っている着物を掴み、逃げる間を与えずに扉の外まで駆け出た。
あなたは故郷の森に帰りなさい。そんなことを諭しておいて、情けないけれど。
「——翡翠! ご飯の時間だよ!」
澄み切った大空に向かって、声を張り上げる。
瞬間、鈴鈴の頭上にばさりと大きな羽音が響いた。
巨大な両翼をはためかせた翡翠は、普段の愛らしい小鳥の姿ではない。
虹色の羽毛を輝かせた、鈴鈴の身長をも優に超える巨大鳥へと変化した姿だった。
「恐らく蠱毒が施されている! 翡翠! 浄化して!」
『はあい! ごはん! いただきます!』
肯定の答えを受け、鈴鈴は掴んでいた着物を力一杯に上空へ投げ飛ばした。
虹色の両翼を大きく羽ばたかせ、翡翠は一直線に急降下してくる。
勢いに負けて着物から宙に飛ばされた蠍を、翡翠はごくりと一呑みにした。
『んんんー! まだけいけんのあさい、しょしんしゃのほどこしたコドクね。ごちそうさま!』
「はー……ありがとう、翡翠」
ふわりと身を翻した翡翠は、みるみるうちに大きな翼を小さくしていく。
その姿はやがて鈴鈴の人差し指に乗る程度になり、ピヨピヨと愛らしくさえずった。
「ありがとう、翡翠。お陰で助か……、ッ!!」
すりすり頬ずりをしようとする鈴鈴の動きが止まった。
同様に頬を寄せようとしていた翡翠は、危うく鈴鈴の指から落ちそうになる。
「鈴鈴」
「…………は、い」
「指先に留まるその友人とともに来い。話がある」
見られた。もうお終いだ。
どうやら再び気紛れに後宮の様子を視察に来ていたらしい、麗しの女官。
その笑顔で下された命により、鈴鈴は着物選びから強制的に離脱することとなった。
途中で案内役をかわった宦官落雁により、鈴鈴はある建物へと踏み入れた。
建物の中には幾度となく豪奢な扉が設けられ、開けるには門番の許可が必要なようだった。
しかしながら、落雁が少し目配せをするだけで門番は何の迷いなく扉を開ける。さすがあの方お付きの宦官といったところか。
「待たせたな。鈴鈴」
「……天上様」
少しして現れたのは、予想に違わず我らが琳国の皇帝・白楊だった。
拱手し最敬礼を崩さない鈴鈴に対し、遠く壇上の席から小さく笑みを零す気配が届く。
「顔を上げろ」
「……承知致しました」
しばらく躊躇ったあと、鈴鈴は拱手はそのままにゆっくりと面を上げた。
壇上に置かれた金色に瞬かんばかりの大椅子には、白楊がこちらを真っ直ぐに見下ろしていた。
先ほど大広間前で目にした女官姿ではなく、一国を手中に収めた皇帝の姿だった。
思えば、皇帝白楊として言葉を交わすのは、まだたったの二度目だ。
あるときは女官として、あるときは宦官として鈴鈴の前に現れたが、やはり今の姿だとまとう空気が違う。
龍や虎の刺繍が細やかに設えられた漆黒の着物を身にまとった佇まいは、美しく、そして強い。
おまけに端整な顔立ちにも改めて気付いてしまい、鈴鈴はますます萎縮した。
「ふ。まるで借りてきた猫のようだな」
まるで小馬鹿にするような物言いに少しムッとする。
しかし、大椅子から腰を上げ階段を下ってくる白楊に、鈴鈴はどきりと心臓が跳ねた。
「あ、あのっ」
「なんだ」
「お願い致します! どうか! この子に酷いことをしないでください!!」
『リンリン……』
拱手で垂れていた袖を抱き、鈴鈴はその場に素早く額を付ける。
その片袖の中には小鳥姿の翡翠が、不安げな様子で鈴鈴を見上げていた。
「顔を上げろ。まずは話だ」
「この子は、私がまだ幼いころに森の最奥に迷い込んだ私を助けてくれました。それからずっとずっと、大切な親友です。他の鳥たちと少し違うところはありますが、決して悪さはしませんし、心の優しい良い子です。先ほどとて呪詛の込められた蠍を浄化し、建物内の皆さんをお守りしました……!」
「ほう。呪詛を、浄化か」
……莫迦者! またも余計なことを!
「ですからどうか! 翡翠を商人に売り飛ばしたり、大衆の見世物にしたり、鶏肉にすることだけはご容赦ください!」
「おい」
「この子が何か問題を越せば、この私が全ての責を負います! 何卒何卒、よろしくお願い致します……!」
「鈴鈴。俺の顔を見ろ」
強い力で肩を掴まれたかと思うと、ぐいっと顔ごと前を向かされる。
突如目の前に現れた気品溢れる天上人の顔に、はっと息を呑んだ。
意志の強い薄朱色の瞳の中に、鈴鈴の顔が映り込んでいる。
「お前を折檻するつもりはない。ただ、先ほどの不可思議な鳥の詳細を知りたいだけだ」
「それはつまり、商人に売り飛ばしたり、大衆の見世物にしたり、鶏肉にするといったような……?」
「違う。そんな罰当たりなことをするか。あの鳥は凰だろう」
「……オオトリ?」
首を傾げる鈴鈴の反応に、白楊は小さくため息を吐いた。
「凰は、この大陸に古くから伝わる吉兆を示す瑞獣だ。正確には雄鳥の鳳と雌鶏の凰からなる対の鳥で、歴代の名君と呼ばれる治世に現れるとされてきた」
「翡翠が? その瑞獣だと?」
『ヒスイ、スイジュウ、ちがう! ヒスイは、ヒスイ!』
「翡翠!」
『リンリン、いやがってるでしょ! かた、て、はなしてっ!』
鈴鈴の袖元から勢いよく飛び出した翡翠が、白楊の手を突こうとする。
慌てて引き留めようとした鈴鈴だったが、一歩早く別の何かが翡翠の身体を抱き留めた。
『ふうむ。このお転婆が、俺の運命の番か?』
『……へ?』
翡翠の攻撃を留めたのは、翡翠によく似た姿形の鳥だった。
ただその羽毛は漆黒だ。
光の当たり具合で虹色に輝いているのがわかるが、遠巻きに見たら鴉の雛鳥に見えてしまう。
「この鳥は、今話した鳳凰の片割れだ。名を黒楊という。羽根色はこのように漆黒だが、先ほどのお主と同様、巨大化した暁には羽根色が虹色に変わる」
「はあ」
つまり、君の鳥とうちの鳥、友達にならないか、ということだろうか。
「そしてこうも言い伝えられている。鳳と凰の番が相見え仲睦まじく暮らせば、平定されたより良い治世が続く。両者引き裂かれるようなことがあれば治世が大きく傾き、平穏な世は突如崩壊するであろうと」
「はあ……、え!?」
想像の範疇を超える壮大な話に、声が裏返った。
「今、凰と鳳は相見えた。これから先、この中央の街から出ることはできない。さもなくば治世が崩壊する」
「か、勝手です! 翡翠の故郷は、私の故郷に隣する西の深い森! 翡翠はいずれそちらに帰ります!」
『ヒスイ、かえらない! リンリンと、ずうっといっしょ!』
「だそうだ。つまり、お前が後宮に残れるよう最善の取り計らいを」
「駄目です————!!」
何気に翡翠の言葉を理解していたらしい白楊を押しのけ、鈴鈴は素早く後ずさった。
「何故だ。見たところお前は春婉儀をいたく敬愛している様子。長らく側仕えしたいと思ってはいないのか?」
「私はっ、六月が過ぎたら故郷に戻るんです! 侍女は、妃嬪とは違います! 後宮外に出て故郷で結婚することも許されているはず……!」
「お前、生涯を誓った相手があるのか」
「そ、そ、そう、ですっ」
「腑に落ちんな。心から愛する姉を後宮に一人残し、自分は故郷で平穏な幸せを望むか」
「……いけないでしょうか?」
「いや、他人が咎めるものではない。が。少なくともお前がそういった幸せを望むとは到底思えん」
的確に図星をついてくる男に、鈴鈴はぶわっと冷や汗が溢れ出す。
突如された窮地に、鈴鈴は酷く動揺し、ついには瞳から涙が零れた。
どうしよう。どうしたらいい。
このままでは翡翠のことも蘭蘭のことも、誰も守れなくなってしまう。
『リンリン? ないてるの? どうしたのっ?』
「っ、ごめ、だ、大丈夫……」
「俺は皇帝だ。国を保つことはもとより、そこに生きる民を守ることが宿命」
静かに告げられた言葉とともに、鈴鈴の頬にそっと白楊の指先が触れる。
涙を拭われたのだと気付き、鈴鈴はきゅっと口元を締めた。
「そんな俺に声を張って訴える者は、そう多くはない。お前のその気概は存外気持ちの良いものだ」
そんな反応に、白楊はふっと強い眼差しを和らげる。
「鈴鈴。俺は民のための泰平を築き上げる。父上も祖父も曾祖父も、手段は違えど目指すところは皆同じだった。しかしついには成しえなかった偉業……それを成すためには、お前の協力が必要だ」
「しかし、私とて護りたいものはございます」
「だから、話してみよ。お前が胸に秘めた決意を」
「……え」
「忘れたのか。俺は皇帝だぞ?」
再び見上げた先に映し出されたのは、一国を率いる人物に相応しい不敵な笑みだった。
「民を護ることが我が使命。その民には、もちろんお前も含まれている」
それから六月が経った。
雲一つない青空が、まるで一人の妃嬪の旅立ちを祝福するように澄んでいる。
後宮と外界を分ける、神武門。
今ここには、この短い滞在期間に関わらず慕ってくれたたくさんの女官たちが集まっている。
六月前に訪れたときとは異なり、今馬車の荷台に積まれたのは一人分の荷物のみだ。
「娘娘」
幸福に満ちあふれた微笑みをたたえて、鈴鈴は蘭蘭の手を取った。
「どうかどうか、くれぐれもお身体を大切に。道中お気を付けて、故郷の皆にもよろしくお伝えください」
「鈴鈴……っ」
瞳に潤みを溜めながら、蘭蘭は鈴鈴を胸の中に閉じ込める。
周りに聞こえないように小さな声で、「どうか、末永くお幸せに」と付け加えた。
鈴鈴は「ありがとう。ありがとう」と何度も頷いていた。
鈴鈴の望みは、ついに叶った。
入宮から六月。侍女の帰還が許される頃合いになり、蘭蘭は無事に後宮をあとにした。
ただその内情は、当初鈴鈴が密かに画策していたものとは随分内容が変わっていた。
「蘭蘭様と鈴鈴様の入れ替わり作戦だなんて……。どうして成功すると思われたのか、まったく理解に苦しみますよ!」
ぷんぷんと怒ったように身の回りの整理をしていくのは、宦官の爽水だ。
「確かにお二人は、お顔や声色はよく似ていらっしゃります。しかし如何せん、性格が真逆ではございませぬか! おっとりしっとり淑女の鏡のような蘭蘭様と、破天荒で思考よりも先に手が動く鈴鈴様ですよ!」
「ううーん。それはその、舞台の役柄と思えばどうにかなるかなあと思ってたんだけど?」
「到着して早々人目につく騒動を多発させていた御方が、何を仰いますやら。紅貴妃ご主催の催しでの呪詛騒動時点で、鈴鈴様の存在はすでに後宮全域に知れ渡っておりましたのに」
あの呪詛騒動をきっかけに、日ごろの朱波儀に対する恨みから事に及んだ女官が捕らえられた。
後宮内での呪い事は禁忌であるが、朱波儀本人直々の訴えもあり量刑は軽いもので済んだらしい。
『リンリン、さみしくない! ヒスイがついてる!』
「翡翠」
開けていた格子窓の隙間から、ぱたぱたと飛んできたのは小鳥姿の翡翠だ。
「この小鳥は、本当に鈴鈴様のことを慕っていらっしゃるのですね」
『ことり、ちがう! ヒスイは、ヒスイ!』
「ふふ。爽水。翡翠が、翡翠と呼んでほしいって」
「ああ。これは大変失礼致しました。翡翠様」
爽水が呼び直すと、翡翠は機嫌良さそうに室内を飛び回った。
『あっ! わすれてた! でんごん! でんごん! クロスケ! もうすぐ、くるって!』
「え……っ」
翡翠の言伝の直後、屋敷の扉が静かに開く音がした。
戸を叩くことも略して屋敷に立ち入ることができるのは、後宮内で一人しかいない。
「邪魔するぞ」
「白楊様……!」
慌てて身なりを整えようとしたが、その暇さえ与えられなかったらしい。
突然の天上人の訪問に、爽水は目を丸くして危うくお茶を吹きかけた。
「様子を見に来た。最愛の姉と別れて、寂しくしてはいないかと思ってな」
「大丈夫ですよっ。娘娘とは昨晩、たくさんたくさん語り明かしましたから。手紙のやりとりだって約束しましたし、爽水も美味しいお茶を入れてくれます。ぜーんぜん平気! です!」
「り、り、鈴鈴様。天上様にそのような物言いは……っ」
「我が許したのだ、問題ない。それにしても、お主の故郷に棲まう山の神が、姉上の帰還を望むとは思わなんだな」
「……娘娘はもとより故郷の誰もから愛された方でした。私からすれば至極当然の理かと」
しれっと告げた白楊の会話に、鈴鈴もしれっと乗る。
蘭蘭が無事に後宮を脱出できたのは、白楊が修正を施した作戦の賜物だった。
翡翠の存在を必要とする白楊と、名誉を保ちつつ蘭蘭を故郷に帰還させたい鈴鈴。
二人の願いが双方叶う折衷案は、ずばり『山神のご意思とあらば皇帝とて無視はできまい』作戦だ。
山神のご意思を勝手に構築するのはどうかと思ったが、多忙の中故郷の山を訪れ、許しを求める儀式も丁重に行われた。
何より、鈴鈴が幼いころから懇意にしていた山の遣いたちが味方になってくれた。心配はないだろう。
爽水が慌てて白楊のお茶の準備に消えたときを見計らい、白楊が「まったく」と口調を崩す。
「入れ替わりが叶ったとて、そのあとはどうするつもりだったのだ。お前は『春蘭蘭』として、名も人格も変えて一生過ごすつもりだったのか? 考えれば考えるほど、お前の作戦は粗ばかりが目に映る」
「終わりよければ全て良しです。結果、無事に娘娘を故郷へ戻っていただくことができたのですから」
本当ならば、翡翠にも元いた緑豊かな森でのびのび暮らしてほしかった。
それでも、ここから梃子でも動かない様子の翡翠に、鈴鈴は全面的に甘えることにした。
やはり、蘭蘭がいない屋敷の中は想像以上に寂しい。
「これで終わりにしてもらっては困るがな」
「え?」
「まさかお前、このまま翡翠の世話をするだけの自由気ままな侍女として、この後宮に居着くわけじゃあるまい?」
白楊は居住まいを整え、懐からあるものを取りだした。
差し出されたのは、翡翠石が中央にはめ込まれた首飾りだ。
最初の謁見の際、皇帝から蘭蘭へ渡されていたものにとてもよく似ている。でも、なぜ?
「もとより春婉儀と成り代わるつもりでいたのだろう。まさか拒否など考えまいな?」
「え、ええ?」
「春鈴鈴……いや、『春婉儀』。お前は今この時をもって、妃嬪『婉儀』の位を授ける」
「はあ。妃嬪。と、いうことは」
「これからお前は俺の妻だ。ゆめゆめ、他の男に心奪われることは許さんぞ」
「……ええええっ!?」
鈴鈴の叫び声は、屋敷の格子窓を突き抜けて後宮内にまで響き渡った。
かくして、山奥育ちの少女鈴鈴の後宮物語は火蓋を切ったのであった。
終わり